はてなキーワード: 宿命とは
そういえば旅行好きにしばしばみられる行動として、訪問場所の事前チェックがある、とふと思った。
旅行に行く前の準備行為として、絶対に逃すべきではない場所や食べ物を入念にチェックする。
現地でセルフィを撮って、インスタなどSNSで送る、という行動がみられる。
最近では、インバウンドで来日する外国人にとてもよくみられる光景だ。
映え写真をとっては、憧れのいかにもNIPPON!な光景に興奮して即座にSNSで送る。
旅行好きの人たちにみられるこれらの行動は、スタンプラリーとほぼ同じ意味を持つ。
日常との差異の体験やよその世界とちょっとだけ繋がったりできたことの証明と自己顕示が欲しいのだ。
その意味で、他の人のインスタと同じ構図で撮影することが現地に到達したことを証明するうえでとても重要。
このような形で消費される、「日常では手に入らない新しい体験」は、要するに、「ごっこ」であり、エコツアーにしてもアグリツーリズムにしても何しても、
現地との関係性を一瞬だけ体感できる、という意味で、旅行者が憧れていた「日常との差異」や「関係性」を消費する行動なんだろうな。
さて、それが近年の傾向なのか?というと恐らくそうではなく、これは、かつての絵葉書を送るというスタイルから変化した形で、
東海道五十三次の時代からそうであっただろうし、男女にも差がなく、古今東西それほど大きな違いはなさそうだ。
日常との差異を消費し、疑似的な関係性に癒されるというのは、昔からあったのだろう。
ところで、僕は男性で、わりと旅行好きというか、仕事柄、年がら年中、スーツケースをころがしている。
そんな男性の立場からみて、女性のほうが傾向として強く、逆に男性に弱いことでひとつだけ思い当たることがある。
それは、旅先で一時的に体験する関係性を、その後も持続させようとする傾向だ。
旅先で知り合った人とその後も連絡を取り合ったりとする傾向は女性のほうが強い気がする。
「おもいでぽろぽろ」というジブリの高畑勲監督の映画(1991)がある。
都会育ちのOL女性が田舎暮らしに憧れる、というところからスタートするこの物語は、農家体験をしてゆくうちに気持ちが変化し、
この映画の場合、旅先の地に女性を迎え入れる男性やその家族という存在があるが、
いろいろふりかえってみると、必ずしも現地にそのような迎え入れるひとや団体がなくとも、旅先で憧れた現地に、そのまま飛び込んでいく女性というのをしばしばみてきた。
アジア、アフリカ、中南米で。かつて、「なんでこんなところに日本人」という世界の片隅で暮らす日本人を紹介するテレビ番組があったが、その番組で紹介しているのも、若い女性の活動が目立っていたように思う。
「男女差」という視点で、いろいろ参考情報をみていくと、例えば
海外留学の男女比も女性のほうが10ポイントくらい高いのだそうだ。
また、男女管理職別で見ると、男性は自社内のキャリアアップの意向が高いのに対し、女性は男性よりも転職でのキャリアアップ意向が高いのだという。
男性は女性よりも保守的で、外に関心がない、という傾向はそこから見て取れるのだが、
だが!しかし、、、、
果たして、そんなふうに男女差を単純に断じていいのか?とも思う。
それでも確証はないけれども、これらの数字が出ている以上は、それにむすびつく何かしら男女差のような背景はありそうだ。
まずは、男女共同が叫ばれつつも今をもって日本は男性社会であるという事実から出発してちょっと考えてみる。
突飛な発想かもしれないけど、1970年代初めごろの歌謡曲で「瀬戸の花嫁」という歌を思い出した。
瀬戸内海の小島へ嫁が嫁ぐ様・心情と、新生活への決意が歌われている。
「あなたの島へ お嫁にゆくの 若いと誰もが 心配するけれど 愛があるから 大丈夫なの」
当時、女性が他の家に嫁ぐということは、程度の差こそあれ、この歌が表現しているように、
ホームからアウェイに飛び出してゆくことであり、その後一生アウェイで暮らす覚悟が必要だった。
ドラマ「おしん」(1983年)も思い出す。朝の連ドラとしては異例の一年間の長編ドラマとなった「おしん」。
そこでは、さらにもっと幼少のころから嫁ぎ先へとひたすらアウェイで過酷な人生が描かれ、しまいには終戦時に夫が自殺し、どん底な半生が半年くらい描かれている。物語の後半では、敗戦後、残された子供を抱えて女手ひとつで小売店を立ちあげ、自立してゆき、やがて息子へ引き継いでゆく姿が描かれ、多くの女性の共感を呼んだ作品だった。
孫までいるおばあちゃんとなったおしんだったが、このドラマは、事業を引き継いだ息子が無謀な事業拡大を始めたことで経営リスクに直面し、育て方を間違えたと自信を喪失したおしんが、過去を振り返るために原点である山形への旅に出るというシーンから始まっている。一年近いドラマの終盤300話くらいから、その伏線を回収し始めるという、息の長いドラマで、橋田壽賀子、すげえという感じしかない。
アウェイな世界でたくましく生き抜くおしんとは対照的に、登場する男性はどいつもこいつもダメな男ばかり、というのも印象に残った。(補記:特におしんの夫は軍組織に尽くし、結果として多くの命を亡くした責任を感じて自殺したという筋書きだが、拠り所となる国家、軍などのホームベースが敗戦により瓦解したことのショックが実際のところの引き金だろう。)
「嫁ぎ」に象徴されるように、簡単に引き返せないような事柄に身を投じるエネルギー、勇敢さ、芯の強さは、男性社会のなかで女性に文化的に育まれたものなのかもしれない。
昨今では、結婚を就職になぞらえる向きもあるけれど、かつての日本社会はいったん他の家、姑の支配下に入ったら最後、そんなに生易しい現実ではなかったはずだ。
男性は芯がないくせに保守的で臆病だ。外の世界を渡り歩いていて、仮に失敗してもギリギリ、ホームグラウンドにもどってこれる、みたいに何か安全弁のようなものを男性社会そのものが仕組みとしてもっていた。だからその範囲でしか外に出歩かないのだ。ふるさとの家業を継ぐなんて選択肢が30代くらいの人生の岐路に用意されているとかね。
一方、女性は嫁ぐにしても出戻るにしても自分の居場所を確保するには厳しい世界。
「嫁ぐ」という習慣、因習、宿命から生まれた、抑圧されてきた女性の生きるエネルギーが、むしろ社会を変える力になってゆく。
これはなかなかパラドックスだと思った。
翻って、旅行好きの女性について思うことは、ホームグラウンドからアウェイな世界に飛び込むという意味で
かつての日本によくみられた嫁ぐという宿命と旅は似たところがある。嫁ぐ行為が違うのは、それが片道切符であり、二度と戻れない覚悟が必要だということだ。
若い女性にとって、日常空間から飛び出す、という旅行体験は、やがては「嫁ぐ」という運命が現実世界で待ち構えていた時代には、疑似的に自分の覚悟や能力を試す場としてより大きな意味があったかもしれない。
嫁ぎ先である日本社会、日本人男性に漠然と失望している場合、希望がもてなければ、いずれにしてもアウェイな世界で生きる宿命ならば、
いっそのこと、旅先の現地でとどまって残りの人生を過ごすことも選択肢としてはあり、くらいの感覚が深層心理にあるのではないかと妄想する。
一方で、男性のほうは、ホームグラウンドである故郷というものが概念として存在していた時代は、旅というのは、違った意味を持っていたと思う。都市に何世代も定着した人口が急増したここ四半世紀より前の20世紀の話だ。
かまやつひろしの歌で「どうにかなるさ」というフォークソングがある。
「見慣れた街の明り 行くなと呼ぶ」
この世界観は、瀬戸の花嫁のようなアウェイな世界で生きる覚悟は感じられない。アウェイでもどうにかなると思っているのだ。
なおかつ、ホームグラウンドを出て行ってもなお、ホームから温かい視線を旅人である自分に向け続けてくれていると信じているのであり、「男はつらいよ」のフーテンの寅さんとほぼ同じ世界観だ。ボヘミアンを気取って出て行っても、いざとなったらただいまといって帰れる場所がある。
そういえば、寅さん映画も、旅先での関係性を持続できないということがひとつの大きなテーマになっていることに気がついた。
民俗学者の宮本常一は、故郷を捨てて放浪する旅人を考察した文章のなかで、そうした旅人が
地元を去って放浪した末に、やがてひょっこりと故郷に戻ってきて、旅先で得た経験や新しい知識を広め、地域の活性化に寄与する機能を果たしていたことを、
世間師という言葉で表現した。フーテンの寅さんのことを考えていたら、そんなことも思い出した。
世間師というのは、故郷側の人間が出戻りの人間に対して名付けた呼び名で、一種の敬意が込められている。
嫁ぐということが待ち構えておらず、ゆくゆくは地域社会でリーダーシップをとっていかなければならない男性の潜在的な意識として、旅は武者修行であったり、広く見聞を広め、世の中の解像度を上げるための行為だったのかもしれない。会社組織が全国各地の赴任経験を重視しているのも同じ価値観といえる。
かつて東南アジアへのセックスツアーなどがあったように、赴任先、旅先で恥をかき捨てるのも主に男性だ。
男の旅というのは、ちまちましたもので火遊びのようなもの。家から離れて外の空気を吸いたいというものだ。近所のスナックだったり、家庭が壊れないようにという不安があるからあまり大きなことはできないが、脇が甘いから夫が捨てたラブホテルのマッチを妻がゴミ箱から発見してしまう。やまだ紫の「しんきらり」という漫画では、そんな情景が描かれていたのを思い出した。
しかし、この四半世紀、女性の社会進出や、結婚観は大きく様変わりし、嫁ぐということを前提としない将来像を女性が模索する時代になった。
テレビドラマも、90年代以降、女性の社会進出を反映して、トレンディドラマに代表されるように、キャリアウーマンがオシャレなレストランで食事する、みたいなシーンが増えた。
東京ラブストリーとか。憧れのロールモデルが描かれるようになったということだ。ドラマの世界にあこがれる、ということが90年代まではあり得た。
しかし、現実の女性の社会的地位はどうだったかというと、総合職課長以上に登れるのは一握りで、相変わらず賃金格差があり、お茶くみやらと男性社会における旧態依然とした女性の役割が押し付けられていたのが現実だ。その現実を90年代のドラマ「ショムニ」でよく表現されていたように思う。
しかし、さらに時代は変わって、憧れの東京に向かって、急速に人が流入しつづける時代は終わりつつあり、受け入れるキャパもなくなってきた。「おもいでぽろぽろ」の主人公の少女時代(1970年代)は、都会の夏休みのラジオ体操に二人しか参加していないほど、ふるさと=田舎をそもそも持たない世帯が少なかった。今では想像もできない光景だ。
中長期的には東京一極集中のトレンドは変わらないものの、それは不動産価格のトレンドに連動したもので近隣県から流入が中心。一方で、田舎というベースをもち帰省が必要な人というのは減っているのではないか。首都圏の人は首都圏で世代を重ねるし、地方の人は地方で価値を見出し、仕事をみつけ、結婚し、次世代を育てる、という人口流動の安定期になってきたようにも思う。帰省という形でつながっていた地方(ふるさと、ホーム)との関係が途切れてきているといってもいい。
そうなると、都会の人間が地方に見出す価値というのものというのは、失われた関係性そのものに重きがおかれるようになるのは自然なことだ。
その結果、その後に続くドラマの傾向としてみても、(都会で活躍するキャリア)女性の理想像ではなく、もっと実態に即した現実を映し出す、自分探しのようなドラマが増えていったように思う。
一昨年のドラマ「ファーストペンギン」とか「ユニコーンに乗って」なども、スタートアップ企業をテーマに女性の自画像を模索した作品で、近年の傾向を象徴しているように思えた。
「ファーストペンギン」のように地方移住をテーマにした作品は、アウェイな環境で女性のポテンシャルを試そうとするという意味では、「嫁ぎモデル」の延長線上にあるような気もするが、都会との関係性が交錯しながら物語が進むところに、考えるヒントを与えてくれるドラマではあった。
そんなことをおもった。そもそもの旅行の話からはかなりズレてしまったけれど、女性が旅に何を見出しているのか、というのは女性の人生観ということと絡めて考えてみると、興味深いテーマだとは思う。
とりとめもないメモです。
上記の書きなぐりをAIが次のように要約したので感心した。ここまで断言できないからゴチャゴチャ書いてたのに。
旅行好きの女性の特徴と男女差
旅行好きの人々は、事前に訪問地の情報をチェックし、SNSでの共有を楽しむ傾向がある。これは、日常からの脱却と、新しい体験への憧れを表している。特に女性は、旅先での関係性を持続させることに価値を見出すことが多いようだ。
歴史的に見ても、男女間で旅行に対するアプローチに大きな違いはないものの、女性はより積極的に新しい環境や文化に飛び込む傾向があると言える。これは、社会的な役割や期待に対する反応として、女性が自己実現のために旅行を利用していることを示唆している。
一方で、男性はより保守的で、旅行を通じて得た経験を故郷に持ち帰り、地域社会に貢献する傾向がある。これは、男性が社会的なリーダーシップを担う役割を果たすことが期待されているためかもしれない。
故郷と都会の関係性の変化
現代の日本では、故郷と都会の間の伝統的な絆が薄れつつある。かつては、人々は故郷を離れて都会で働き、定期的に帰省することで地方とのつながりを保っていた。しかし、今では都会で生まれ育った世代が増え、地方への帰属意識が低下している。これにより、都会の人々が地方に求める価値は、失われつつある関係性そのものになっている。
この変化は、地方と都会の間の人口流動の安定化を示しており、それぞれの地域で価値を見出し、生活を築く傾向が強まっている。結果として、地方への憧れや関係性の再構築は、新たな形での自己探求や社会的な動きに影響を与えている。これは、女性が旅行を通じて自己実現や自己探求を行う動機に影響を与えていると考えられる。
旅行は、日常からの一時的な脱却を提供し、新しい環境や文化に触れる機会を与える。特に女性にとっては、旅行が自分の居場所を見つける手段となり、故郷とは異なるアイデンティティを探求するプラットフォームになることがある。
VRChatエアプです。
ほぼTwitterだけ見てやった気になってる。HMD重いしダルいし。
美少女アバターを着るおじさん!?みたいなのは、VR黎明期みたいな時期に一瞬驚かれたけどキモがられながらスタンダードになった印象がある。
まあ分かる。
汝が男であるならば、家族を、仕事を、ローンをつまりあらゆる責任を背負っていけ。
仕事できない稼げない守るべき家庭も自分を縛るローンもない、そんなヒョロガリ野郎に価値なんてあるわけないのよ、男は。
というかそんな奴は男ではないわね。
かわいそうに。
だから男であることに耐えかねた者が背負わざる存在になりたがるというのはかなり理解できる。
そこで美少女。
美少女は背負わなくていい。
ただ可愛くそこに有りさえすればいい。
中身が空っぽだって、無力だって、可愛ければそれでいいんだよ。美少女というのはそういう価値を持つ存在だから。
かわいこぶるためにちいかわ族の肉体を得たモモンガとかが近いと思う。
あいつちょっとダルいけど可愛いからまあいっかってなるじゃん。
可愛く無害で、敵意を感じさせず警戒させない。だから人とも仲良くなりやすい。
こいつらが本当に分からん。
なに???
女に生まれて、背負う宿命を持たない者が、見た目だけ男を着るのに何の意味がある?
肩幅がデカかろうが、ヒゲが生えていようが、見た目がいくら力強かろうが、中身が背負わざる者である限りそんなのは絶対に男とは呼べないのよ。
背負わない中身が背負うかのような見た目を着るの、本当に虚しくないか?
インスタのわナンバー高級外車とか、飼い主の腕の中からギャン吠えするチワワとか、そういう虚勢そのものになっている自覚はあるか?
無力さを肯定される選択肢を捨てて、何も背負えず可愛くも男らしさもないただただ無力なヒョロガリポリゴン野郎を召喚する事の意味がわからない。
マジで何がしたいんだ。
アレは男ではなく女子供の方なので。
この度、節を曲げてNovelAI(以下NAIと呼称する)のサブスクを契約してしまった。
筆者はバチコリの生成AIユーザーであるが、あまり特定のサービスプラットフォームに依存することをよしとはしていない。
いつ何時ユーザーに不利な形で仕様の変更が行われるかわからないし、サービスが終了してしまえば利用の術は失われてしまう。
よって、NAIと契約するのは正直に言えば業腹である。この円安の時代、何が悲しくてわざわざドル決済の外国サービスなどサブスクして国富を流出させなければならないのか。
しかし悲しいかな、現状満足度はとんでもなく高いのである。以下、その理由について分析していきたい。
なお、本稿では生成AIに関わる法的、倫理的議論は行わないものとする。一消費者としての意見を述べるうえでは、あまりにも意見が取っ散らかりすぎるからである。
言うまでもないことだが、skebにせよ他の手段にせよ、イラストを依頼するということはその向こうには人間がいる。
生身の人間相手に自分のえげつない性癖をさらけ出すというのは、かなりハードルが高く業の深い所業ではないだろうか。
性的欲求というのは三大欲求の中でもっとも表沙汰にしにくいものである。
見も知らぬ相手であろうと望むところを赤裸々に語るのは憚られるし、知っている相手に対してはなおさらそうである。
別に健康な成年男女が互いに好き合ってイチャラブおせっせしてるだけなら大したことはないのだが、残念ながら欲望渦巻く快楽の園こと現代日本に生れ落ちてしまった我々はそうはいかない。
性癖は枝分かれし細分化してヘンテコな方向にひねくれねじ曲がってしまっている。浮気NTR快楽堕ち程度ならかわいいものだ。
平たい胸族にスイカサイズの乳をぶら下げさせ、原作のキャラを無視して脈絡なく尻軽ビッチギャル化させる。
下手をすると(生命の有無を含めて)人間でなくなる。ゾンビ化とかキョンシー化ぐらいであれば人間の形を保っているからまだいいだろう。
筆者は大体何でもいける口であるが、ただ蟲化だけはどうにもいけない。好きな人がいるというのはわかるので否定するつもりはないが、ただ個人的にはどうにもあれでは致しかねる。
なんにせよ冒涜的ではあるが、それで興奮するというのはわかってしまうのでどうしようもない。中にはそのキャラである必要は果たしてあるのか?くらいの物もあるのだが、何と仰る兎さん。そのキャラでなければ駄目なのだ。
たれさえ旨ければ別にかば焼きにするのは鰻でなくてもよさそうなものだが、鰻のかば焼きだと思うからこそ旨いという一面は間違いなくあるのである。
閑話休題。ともあれ、人間相手に依頼をする場合にはどうしても一定のブレーキが意識的にであれ無意識的にであれかかってしまう可能性がある。
というかそもそも、人間相手に一定の節度と形式を保った文章を書くのは疲れる。相手の気分を害さないようにしなければと考えただけでキーを叩く指がおぼつかなくなる。
他方で、NAIに画像を出力させようとしてプロンプトを打ち込むにあたっては、そこに遠慮を差し挟む余地はない。
ただただ己の欲望に忠実に思い付く限りのリビドーを込めて単語を羅列すればよいのである。
別にNAIは内容を考えて画像を生成する訳ではないのでヘンテコな画像になることも多々あるが、少なくともそこには遠慮も忖度もない。互いの本音と本音のぶつかり合いである(NAIに意識はないので本音も何もないが)。
あとはNAIがいい感じの画像を出してくれるようにプロンプトを調整していけばいい。
「大和国はそんな事しねぇ~~~...!!」というシチュエーションの時ほどこれは効く。
上等の料理にマヨネーズと醤油をぶっかけて旨い旨いと言っているようなものなのでそのキャラが好きな人に依頼するのは憚られるし、かといってミリしらな人に話を持っていくのも完成度という点で不安がある、というような場合にNAIはうってつけなのである。
なんといってもNAIは絵が出てくるのが早い。確かSDXLベースのモデルだったと思うが、1024×1024のサイズで生成にかかる時間というのは10秒程度だろうか。
ローカル環境ならもっと短い時間で作れるという話はあるだろうが、ベッドの上でスマホぽちぽちするだけでいいという点ではNAIにアドがあるといっていいだろう。
人間相手とはもう比較すべくもない。下手をすれば既存の絵をPixivやらで探すよりよほど手間がかからない。
息子はシコりたくなったときがシコり時である、という事実を考えた時、プロンプトさえあれば見たいものをそれなりに再現した画像がほぼ即時に作れるというのは実に実用的であると言わざるを得ない。
早さという点では特にこれ以上言うべきことはないため、早々に次の項目へ移りたい。
現在筆者がサブスクしているのはOpusプランである。これはNAIのプランの内では最も高額であり、月額25ドルかかる。ぶっちゃけサブスクとしては安くない。
例えば動画配信サイトのU-NEXTは月額2,189円(税込)であり、電子書籍の読み放題を提供しているAmazonのKindle Unlimitedは月額980円(税込)である。
月に4000円弱(筆者決済時点の実績値による)というのは明らかに高い。
……が、こうしたサブスクとNAIとではサービスの種類が異なる。動画配信や電子書籍の読み放題というのは、つまるところ既存のコンテンツの中から自分が観たり読んだりしたいものを探して、(運よく)それがあったら楽しむ、というタイプのサービスである。
楽しめそうなものがなければそれまでだし、探すにも時間はかかる。
キンリミの場合は複数冊あるシリーズのうち最初の1巻、もしくは数巻だけ無料で続きが気になったところであとは購入してね♡というものも多い。
最初の1巻だけが無料ならまだいい方で下手すると最後の1巻だけ有料という場合もある。起承転まで読ませて結は単品で買えということであり、そうすると最後の1巻だけ買っておいてもしょうがないので他の巻も結局揃えることになる(ずっと借りっぱなしにしておいてもいいのだがそうするとその分だけ読み放題で借りられる枠が埋まることになる)。まったくもって商売上手だ。これだからビッグテックは恐ろしい。
いや、キンリミの商業戦略の話はこの際どうでもいい。要はこうしたコンテンツ提供型のサブスクにおいては契約者は受け身の立場だということを言いたいのである。
ちなみにFANBOXなどもこうした受け身型のサブスクと言ってよいのではないかと思う。クリエイターの創作活動を応援云々とは言い条、実態としてはどう考えてもイラスト等のコンテンツを見たいがために支援ボタンを押している人が大多数ではなかろうか。
それに対し、NAIは契約者自らがコンテンツを作り出す立場である。実際に作っているのはNAIだが、どういうコンテンツを作り出すか、指示するのは契約者である。結果として、提供されるコンテンツは常に契約者が見たいもの、もしくは少なくともその方向性に沿おうとしたものということになる。
更に、Opusプランの場合一定の大きさ以下の画像については作り放題、つまり生成に必要なポイントであるAnlasを消費しない。本プランでは一か月につき10000Anlasが付与されるが、ぶっちゃけ使わなくても十分実用性のある画像は作れる。普通サイズ(1024×1024の正方形を基本として、832×1216の縦長や横長を含む)のAnlas消費量が確か20だったと思うので、500枚作れば元は取れる計算である。500枚も作らないだろ!と思うかもしれないが、このくらいはすぐに消費してしまう。ちなみに本プランで付与されるAnlasには一か月の使用期限があるので、ラストエリクサー症候群に陥らないよう余裕を持って消費するようにしておきたい。
さて、25ドル……日本円換算で4000円としよう。4000円を500枚で割ると、1枚あたりの金額はいくらになるだろうか。そう、8円である。1枚あたり8円である。安い。今調べたところ緑豆もやし200gのパックが19円(税込8%)だったが、それよりも半額以上安い。某もやしパーティーアイドルも納得の価格であろう。こんな低価格でオカズを賄えて家計も大助かりである。
まあ上記はあくまでも計算上の話であって25ドルの支出は25ドルの支出なのだが、リターンを考えればそれだけの意味のあるサブスクということにはなるだろうと思う。パッケージングされたサービスではなく利用コンテンツに対する金額ということで考えればこれほど費用対効果の高い課金はそうはない。
AIによる画像生成サービスを提供しているプラットフォームはNAIに限られない。国内でもAIのべりすと(本来は小説執筆がメインというところでNAIと似ている)が有名どころだし、筆者は使ったことはないがPixAIやそれ以外にもなんかいろいろとサービスは存在する。CivitAIでも生成は出来る。
が、こと既存キャラの二次創作という点ではNAIを超えるものは現状ないのではないだろうか。よくも悪くも他のサービスを使う場合には一定の習熟が要求されるが、NAI、特に現状の最新モデルであるv3は概ね直感的な生成が可能である。キャラ名と登場作品名、シチュエーションあたりをぽちぽち入れて生成ボタンを押せばそれでいい。不要な要素が出てきたらそこで初めてネガティブプロンプトを使用するくらいであろうか。逐一LoRAを作ったり探したり適用したりせずともいいのは実に強い。なんだったらいい感じの画像が見つからないキャラはNAIで作った画像でLoRAを作ったらいいんじゃないかと思えるくらいにはいい雰囲気の画像が出る。
無論、画像生成AI、もしくはSD系の現時点での宿命として、あくまでも出てくるのは「それっぽい」キャラの画像に過ぎない。例えばニニンがシノブ伝のシノブの画像を生成しようとすると、シノブの鉢巻きの顔マークがなんかよく分からない点が4つくらいある黄色の丸になってたりする。人間、特に熱心なファンや「神絵師」による二次創作には及ぶべくもない。しかしそんなことはどうでもいいのである。シノブの二次創作なんぞ今日日誰がどれだけ描いてくれるというのか。最近PixivでもTwitterでも流れてくる絵と言えばVTuberかブルアカか、ぐらいの感じである。なんか一時期飽きるほど見たアズレンの絵も最近はさっぱり見ない気がする。単に筆者のTL構築のせいかもしれないが。
いや、別にそれが悪いというつもりはない。みんな好きなものを好きなように描けばよいのである。ただ、筆者のように最近の流行に今一つ乗れておらず、さりとてSkebでわざわざ依頼したり自分で描いたりするには熱量も根気も足りないというような者にとって、NAIv3は確かに一服の清涼剤であり、また福音である。ギャルのパンティーよりもドロワーズが好きな者は間違いなくいるのだ。
つらつらと駄文を書き連ねてきたが、つまるところ、NAIというのはファストフード、もしくはジャンクフードなのだ。早くて安くて、それなりのクオリティのオカズが出てくる。スマホ程度の画面で見るなら画質も十分である。多少瞳がぐちゃってようが服と髪が癒着してようがどうせシコるときに見てるのはちちしりふとももと全体の雰囲気くらいのものである。なんならよく出てくるセリフとか擬音っぽいなにかですらシコリティを高めてくれる。つくづく人間の業は深い。
息子は正直である。実用に足る、自分の性癖に正直な絵をいくらでも出せるとなれば4000円弱の月額課金などはした金に過ぎない。
さらにFEやスパロボ的なマス目移動の1手ずつ進めるSRPGではなく、
伝説のオウガバトルや半熟ヒーローのようなRTSで両者が複数の手を同時にリアルタイムに進めるタイプなので
こいつはこの属性だからこのチームをあてて、みたいなことが思いの外上手くいかない。
多くのシミュレーションゲーの宿命でもあるんだけど低機動ユニットに人権がない。
今作だと騎馬ユニットがそうじゃないユニットと移動速度が倍くらい違うので、
よっぽど特別な役割があるチーム以外はほぼすべてのチームがリーダーは騎馬ユニットになる。
クリアランク判定(若干入手できる資材が変わる)にクリア時間があるので、
鈍足歩行ユニットに歩幅を合わせてじっくり攻略する必然性が低い。
結局、騎馬リーダーでさっさと陸路を行った方が早いことが多い。
アイテムで効果時間内は移動速度2倍とかもあるけど、騎馬ユニットに使えば4倍速いしなぁ。
最初はSRPGやRTSで戦闘中に消費アイテム使うって感覚がなかったので無意識で縛って遊んでたけど、
使うようになってからは「あ、これアイテム使う前提のバランスなんやな」ってなった。
ノーマルだとちゃんとアイテム効果をうまく使えばわりとストレスなく遊べる。
ユニークキャラ以外でも汎用ユニットを雇えるシステムがあるが、ユニークキャラがクッソ多いので
ユニークキャラすら部隊入りできねーよ!という状態なので汎用ユニットの入る隙がない。
総合的には普通におもろいけどこれが9000円なのはけっこう吹っ掛けてんなって感じはする。
10点中7点くらい。
合体ロボアニメをほとんど見なくなって久しいが、ここいらで合体ロボであるべき姿というものを書き出していく
・勝手に上手い事くっついてくれる
実際は色々やってるのかもしれない(Vガンダムの倒れてる本体にウッソがコアファイターを傾けながら近づいたり、デカレンジャーでレッドがアームで無理やり合体させようとしたりする例もある)が合体するための棒が出たり穴が空いたりしたらちゃんとくっつく
ミリ単位の調整が必要だったり毎度火花散らして削れない?の答えをくれたのがガオガイガー。ズレたらちゃんと失敗するし、しっかり消耗してます
・コックピットの移動はあったりなかったり
個人的にはあった方がカッコいいと思う。コックピットが移動してきた時に座席が光るゴッドマースを見るとそう思う(アベノ橋でやってたネタ)
移動が無い場合は腕や足にそのまま残ってるのでロケットパンチみたいな技でそのまま飛んでくネタが出てくる
(それにしても腕に乗ってる人は下を向いてるのだろうか前を向いてるのだろうか。とにかく振り回されて大変そう)
移動するパターンでもファイブマンでは「合体後のコックピットの奥の扉から5人がぞろぞろ入ってくる」シーンがあって、お前ら中を走って来たのかよ!?wと突っ込んでしまう
・もちろん中身が見える
合体の瞬間、中が透けて見えるのは常識です
透けて見えてロックする絵もあると最高(パイロットが手動でロックするのがゴウザウラー)
・人型が胴体にそのまま入るパターン
ケンリュウ&バイカンフー、キングエクスカイザー、ゴッドマーズなど
中に入ったロボと外側のロボの頭部が重なる絵が描かれることがある。中でめっちゃ首が伸びてるとしか言いようがない
これは「気にしない」
これは宿命。そういう風に作られた。
主人公機にくっつくためにバラバラになって下駄になったりアーマーになったりする
スーパーターボロボみたいに上半身をすっぽり覆いかぶせるのもあったりするが、あれは妖精の力で何故か合体できるようになっただけなので例外
こういう事を描いてたり描いてなかったりするのを見つけて定番キメて来たねとかあえて外してきたねみたいな感じでロボアニメを見る事が楽しいのです
・けっこう体力が必要。発達障害があると疲れやすい、また運動神経の発達も遅くて体動かすこと全般がどんくさいことが多い。
・非言語的な空気読みがすべて。でも発達障害といえば空気が読めない、相手の表情から何も読み取れない。
・女性は毎月ホルモンバランスが変わり状態が変わる。でも発達障害があると臨機応変が絶対にできない。
先天的に絶対にセックスが下手で、それが性的じゃない関係でも漏れ出てるのが、会話のヘタクソさ(一方的)なのではないかと思う。
セックスってコミュニケーションだし、スポーツ的な要素もある。コミュニケーションもスポーツも下手となると、出来ないのでは。
ASDの特徴(運痴・人の話を聞かない・人に興味がない・表情が分からない・変化に対応できない)を見ていると、
再現性が高い機械類の取り扱いや再現性を見出す研究には適しているかもしれないけど、再現性よりもホルモンバランスに振り回されたり
ノリ・空気に左右される宿命みたいなところがあるセックスについては一生うまくならない、先天的に伸びしろが無く希望がない人の特徴とイコールなんじゃないかと。
中野京子さんって人を知ってる?
絵画を分析して分かりやすく語る『怖い絵』シリーズで有名なんだけど、
その中には一見性的に見えない絵を性的に読み解いた文章も少なくない
例えばこの本の表紙になってるエピソードとか。
「リアリズムの巨匠ワイエスが15年にわたり密会し描いた近隣の人妻」とあるけれど、二人の間には何ら直接に性的関係性はなく、
しかし、だからこそその関係には単なる不倫や浮気に留まらないエロスを読み取れるという筆致だった
こういうふうに、絵画から一見して分からない、あからさまではない立派に学問として成り立っている
画から性的意図を読み解く事は『教養』の一つだし、『金になる』んだよねえ…
「肌が出てないからエロくないもん!」「これの何処がエロいんですかー?」という、底の浅い理解でしか語れない人達は商売の機会を逃している
「女児の性的対象化につながる」H&Mの広告に批判殺到→削除し謝罪 消費者は広告...
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/maidonanews.jp/article/15133686
ここのブクマの人達、カマトトぶってるんならまだ分かるが、本気で性的意図を感じないならば
日本人の読解力の低下を本気で憂うべきなのかもしれない
こういう事を言う時、自分がやられた側だったという設定を持ち出すと有利なことを俺は知っている。
だが俺は今回その裏技を使わない。
それをやってしまうと「本当にコイツが被害者だったのか確かめようぜ!」という方向に躍起になる奴らで溢れてしまうのも知っているから。
最初に言っておくが、俺が語れるのは俺のうろ覚えの光景だけだ。
当時のことなんて俺はもう正確に覚えてないし、グーグルもまともに引っかからない。
ジオシティーズやニフティのブログは消えていき、2chの過去ログも闇の彼方だ。
俺が物心つく頃には粗悪な中国製品を笑う文化が日本には根付いていた。
中国製=安物というイメージがあり、その一種として偽ブランド商品(SONY→SOMYとか)から発展した中国パクリ文化というイメージがあった。
日本と中韓の関係がどこらへんから悪化したのかはよく覚えてないが慰安婦問題とかでいよいよヒートアップしたように思う。
嫌韓流というどストレートな名前の漫画が発売された時期が2005年だったので、この少し前が嫌韓の加速下敷きであり、ここから5年ぐらいして下火になったはずだ。
当時の嫌韓がどんなものかといえば、主に「日本経済の深部に潜んだ日系韓国人が特権階級として利権を享受しているので倒そう」「韓国人は生活保護を不正受給している寄生虫だ」「韓国が日本のパクリで金儲けしていてズルい」「韓国人はキムチ臭い。あとウンコを食う」「韓国国内では日本を叩くのがブームだ」辺りが盛んに言われていたと思う。
2ch発祥のニダー<ヽ`∀´>というモナーのエラを張らせて目を尖らせたキャラクターが韓国人ステレオタイプの擬人化として作られ、このキャラクターに韓国にとって不名誉な発言をさせることがネットで大ブームとなっていたことを記憶している。
最初のうち嫌韓ブームは単なる外国人いじりだったが、それが段々と日本の国益を脅かす隣国との聖戦へと変化していった。
氷河期の影響で日本中が冷え込んでいたこともあり、不安に駆られたネット住民の何割かは「真実の悪」を求めて聖戦士としてネトウヨへ傾いていくのだった。
その当時のネットにおける韓国人へのヘイト行為は尋常ではなく、とにかく韓国人が日本人を嫌っているという扱いをされていて、そしてそのブームはテレビへも波及していった。
普通のおっさんがテレビで日本VS韓国のサッカーや野球の試合を見て、韓国人選手が卑怯な反則をしてくるんじゃないかと目を光らせ、怪しい動きがある度に韓国人の卑劣さを悪し様にあげつらうのだ。
そして韓国が負けた瞬間に、強豪国に勝ったかのような歓声がスポーツバーを包むのだ。
宿命のライバルではなく、倒すべき仇敵として韓国を扱う動きは日本中に広がり、政治家の中にも韓国へのヘイト感情を利用するものが出てきていた。
広がりまくった嫌韓のブームだったが、段々とその活性度は落ちていく。
韓国と日本の国交が正常化されたとか、日本人がまともになったとかではなく、他の興味対象が出てきただけだ。
2chで種火が産まれニコニコ動画で爆発した淫夢ブームと、なんJにおける超巨大ネットリンチ派閥 恒心教が、嫌韓ブームの中で暴れ回っていた暴徒たちを分散させた。
アメリカ発祥のポリコレブームにより人種を批判することは難しくなったことで嫌韓の勢いは衰えていったが、同性愛者を笑っているのではなく演技の下手さを楽しんでいるだけだという理論で淫夢は伸びていった。
同性愛者のアナルセックスをクソまみれと指さして笑うだけでは我慢できなかった者達は、より激しいリンチを求めて恒心教に入り、特定個人に脅迫状を送り付けたり、大声でウンチを漏らしているというキャラクターをつけて動画を作成したりしていた。
より安全で、よりホットで、より刺激的なコンテンツを求めているだけだ。
登場人物が小中学生なら「イジメよりも普通にサッカーしたりゲームするほうが楽しいぜ!」はハッピーエンドなんだろう。
でもいい年こいた大人なら「自分が楽しいかどうかばかりを軸にして考えるのは社会の構成員としての態度として正しくない」に辿り着けなきゃバッドエンドだ。
元嫌韓の者達の多くは、単にもっと楽しいものが見つかったから嫌韓を下りただけだ。
今でも反ワクで暴れている人、パルワールドを楽しく遊んでいる人、誰かのトレパクを見つけて笑っている人、AI絵師と崇められるのに夢中の人、色んな道に進んだが、多くの元嫌韓が「今自分が楽しめるか」ばかり考えて「その結果として他人が迷惑を被るか」なんて全然頭にないままだよ。
せめて「まだ時効と決めつけるには早いし、変なこと口走らないで黙っておこうかな」ぐらいの頭は働かせられるならいいけど、それさえ出来ないなら、もうネットに書き込むべきじゃないと思う。
過去の罪が突然飛んできて「貴方はこのときこんなことをしてましたよね?じゃあ弁護士に相談します」って言われないとも限らないんだぞ?
想像力を働かせてくれ。
他人の痛みを理解するだけの想像力をいきなり働かせるが難しいなら、せめて自分が訴えられないで暮らし続けるにはどうすればいいのかぐらいは考えて動いてくれ。
少しずつ頭使っていけば段々マシになるはずだから。
私が「理解のある彼くん」という立場に置かれていないにも関わらず、なぜ「理解のある彼くん」のように、他者との関係を自然現象のように認識しているのか、という疑問が湧いた。
彼くんがこのような思考に至ったのは、ひとえに彼女とのディスコミュニケーションの結果である。はじめこそ彼くんは彼女とコミュニケーションを取ろうとしただろうが、彼女自身が自らの意思を放棄しているのだから、そこでのコミュニケーションは当然成り立たない。彼くんは、彼女自身がそうしたように、いわゆる「人間」としての関係を諦め、自然現象を操縦する係に自らを安住させたわけだ。
ようは、「コミュニケーションの放棄」が人間をこのような思考に至らしめるのであろう。私は発達障害の診断を公的に受けたわけではないが、一般に ADHD/ASD的傾向と呼ばれるものを(それは健常者とされる人であってもある程度持っているのかもしれないが)恐らく持っている。子供のころから、私には自分の気持ちばかり考える癖があり、人の気持ちを察したりその場の雰囲気を感じ取ることが苦手なのである。こんな私が人とコミュニケーションを取らざるを得ない中で編み出した考え方が、やはり「医学化」である。私は遺伝的にこのような性格で、親にこういう教育をされて、それは改善しようもない宿命なのだ。私の脳内ではたらく物質たちが偶然そのような動きをしているがために、私はこのような考えをしてしまうのだ、というふうに結論付ける。さらに、私の「医学化」は他者にも及んだ。彼らがあのような思考をするのは、彼らがそういうふうな遺伝子を持ち、そのように脳がはたらいているからだ、と。
このように、私はすべてを自然現象として解釈することで、文化人たちが生み出した「意思と責任の社会」やその上で成り立つ「コミュニケーション」を完全に否定するような、「干渉不可能な自然の相互作用」という世界観を構築した。つまり、ゲームから完全に降りたということである。
どちらの世界観が正しいかというのはわからない。自由意志が本当に存在するのかは疑問だが、人類は私達のすべてを医学化出来るほど発展していない。しかし、健常者と言われる人たちが生きる自由意志の世界の他にも、自然現象ですべてを片付けてしまえる世界があってもいいのではないかと思う。
とはいえ、この時代の日本に生きている限り、「意思と責任の社会」から完全に逃れることは難しい。この中で生きるためには、やはり「いい塩梅」でゲームに乗っていかなければならない。だが、コミュニケーションに問題を抱える人にとって、「いい塩梅」でゲームから降りることは得てして難しいことだ。また、どの程度ゲームを降りてもコミュニケーションが成立するのかという尺度も、相手次第である。発達障害の有無に関わらず、この社会に生きづらさを感じる人や、コミュニケーションに苦手意識がある人などは、このようなゲームの構造や、今自分がどれほどゲームに乗っているのか、降りているのかを考えてみたりして、出来る範囲で調節してみるのもいいかもしれない。
発達障害で自由意志が薄弱で他責思考な私は、このように相手の自由意志を尊重して自由意志に対する要請をしてくる相手が非常に苦手で、こういう要請を正面から受け止めるととても生きていられないと思う。
けれども、それが社会のスタンダードである以上遭遇機会も多いので、「内的には自然現象であると割り切りつつ、外に対しては意志と責任の存在を装う」ことで一時しのぎ的に対応している。つまり物を失くしたら「ごめん」と謝るし形式的な対策はするけど、心の中では徹底的に自責を避けて、例えば薬が合ってないかもな、などと考える。人間がお互いを自然現象であると合意して回るような社会ならこんな心労は無いのにと思いつつも、実際そうでないのだから今ある社会に合わせるしかないというのには同意する。というより、現状の社会がこうであることも、他者に自由意志を要請する人間が居ることもまた、今のところの自然の流れなのだと思っている。
意思と責任の物語にうまく参加できないことを認めてもらい、部分的に社会から降りて心の平穏を得るというモデルは、(私の個人的な意見だけど)そんなに魅力的じゃない。
自然現象=宿命ではない。自分の意思も他者の意思も自然現象であり、自然現象だからこそ分析して利用/回避/あるいは克服できると認める。自由意志なんて尊い幻想は捨てて、使える道具を全部使って人間をハックする。全員が人間をやめて、平等な自然現象として相互作用する。そういう社会が良いなと思う。医学化ってその流れの一部なんじゃないかな?
私は何に祈ったんだ?
シンプルに、私は無神論者だと思い込んでいただけで実際は有神論者だったということなのだろうか
すなわち、神の存在無しに「祈る」という行為は可能なのかどうか
なるほど、確かにありえる
しかし神は信じないけれど祖先信仰はする無神論者って変な感じがする
無神論者が仏壇に向かって「おじいちゃん、あの子をどうか見守ってあげてください」と祈ることをよしとするか?
なんか変な気がするよなあ
神の存在を否定するなら霊の存在も否定しておけよって気分になる
「天に祈る、というのはどうか」
では「天」って何?という話になる
「運を天に任せる」とか「人事を尽くして天命を待つ」の「天」だよな……
やはりそれは「運命」とか「宿命」のような、何らかの超越者によって定められた物事を指しているのではないか
それは神と何が違うのか?
神と「天」が何か違っていたとしても、無神論が無いと判定するなんらかの概念なのではないか?
難しいな、もう少しパターンがある気もする
家族が入院した、と電話がかかってきて病院へ急いで向かう時とか……
腹痛の時とか……
「祈る」を言い換えると「人の手が及ばない領域の物事が私に都合がいいようになるように願う」と言ってもいいか?
だとすると、それをなんとかできるのは「人の手が及ばない領域の物事に関われる存在」だ
筋金入りの無神論者でも祈らずにはいられないというシーンでは祈ってしまうものなんだろうか
何かの漫画でそんなシーンがあった気がする
そういえば無神論者であることが有名なドーキンスは祈ることがあったのだろうか
彼の自伝を読んでみるか……
補記:日本語の「祈る」とキリスト教文化圏の「祈る」は意味が異なる可能性がある
日本語の「祈る」は「願いが叶いますように」と言うこともできる
しかしキリスト教信者がどんなことを考えているか?みたいな内容が書かれている本を読んでいると、どうも現世利益を期待せずに祈っていることもあるようだ
祈らずにはいられない、という場面はたいてい現実に起きている問題がなんとかなりますように、という願いだ
「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」とも言うしな
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「神は存在しないと思っている。無駄な行為だとわかっている。それでも祈らずにはいられない」
これはありうる
ただ、これを言ってしまった無神論者はその後も無神論者であり続けることができるのかどうか
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あと、冒頭で「神は存在しないと思っている」と書いたが正確にはキリスト教的唯一神の存在を信じることが出来ていないだけだな
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神を信じるとはどういうことかを知りたくていろいろ本を読んでいるんだがな……
昔の人は神を信じて生きていたわけで
昔の人が何を信じて何を信じていなかったのか、を調べるのに神の話は避けて通れない
近年割とポジティブになってきてて、
メンタルほんまに終わってたら、「元日から地震なんて、今年も、いやもう日本は終わりや……」
てなるのだろうけど、
もちろん被害が出たのは悲しいが、それはたまたま元日だった、日本で地震被害はまだまだ宿命
それよりも、
メディアが少しでも人の命を救う報道で統一できている(落ち着いたら崩れるだろうけど)
万一に備える行動が評価されている
逆に、大げさだという人が減ってるし、おかしい人扱い
(隙自叔母語 うちのおばさんは東日本の時、車捨てて逃げて助かった。車は流されて廃車になった。どちらか選べるときにどっち選ぶか。自分ひとりなら好きにしたらいいと思うけど
ほんとに逃げなきゃならん時に逃げおくれる)
こんな時に岸田が~、原発が~ いう人 普段見たらほんとにおかしいし、誰も味方がいないレベル(おったとしてレアな同類)なのがちょっと掘ったらすぐわかった
なんかちょっとずつでもうまく進んでいく予感
Aは「某配信者集団『B』の配信を同時視聴してリアクションする」という配信を行うことで、Bのファンの一部から一定の人気を得た。
一方で、同時視聴を快く思わないBのファンの一部がAのアンチになったらしく、Aのアンチスレには日々Aへのアンチコメントが書き込まれている。
自分は実のところ、某氏Aにも、配信者団体Bにも、これといった思い入れは無い。
昔はよくBの配信者達の配信を見ていたが「自分に合ってないな」と感じるようになり、ほとんど見なくなった。
Aのことも、存在自体は結構昔から知っていたが、ファンでもアンチでも無かった。
Aの行為に関しては、正直言って少々「品が無いな」と感じている。主に以下の点について。
・同時視聴をハッキリと公言するのではなく、わかる人にだけわかるような形でほのめかしながら、コッソリ同時視聴していること
・それによって、A自身の人気、および投げ銭の類を得ていること
しかし、品が有るか無いかは個人の主観だし、同時視聴そのものは他の配信者もある程度やっていることだし、なによりAがそれらの行為をしていることによって、自分が具体的になにか損をしているわけでもない。
そもそも自分が最初にアンチスレを見るようになったのは「Aの行為が、自分の普段視聴している配信界隈になんらかの悪影響を及ぼすのではないか」と危惧したから、という面もあった。しかし今のところそのような影響は無さそうだ。
そんな自分がアンチスレを覗く理由は、何かしらの精神的な安定を得るため、なのだろう。
毎朝スレをチェックし、「今日もこの人は誰かに嫌われているな」と確認する。そのことによって、自分の心のどこかが「スッキリ」する。
その根本は、誰かを下に見ることで自分を相対的に優位に置くという、ゲスな心性だろう。それが世にありふれた心性だとしても、あるいはアンチを背負うことが人気稼業の宿命だとしても、ゲスなことにかわりはない。
もちろん、アンチスレを眺めるだけなら誰に迷惑をかけるわけでもない。書き込みをしたことは一度もないし。
でもそういう、誰かに対して堂々と言えないような行為は、できるだけ自分の中で少なくしておきたい。
Aのアンチスレにおけるアンチコメントでは、Aの様々な欠点があげつらわれているが、それらはただの欠点であり、「嫌い」という感情の発露でしかない。アンチスレというものは、どこもそんなものだ。
そんなものを見ることによる、自分の精神への悪影響もなるべく避けたい。誰かの欠点を列挙しても、自分の欠点が無くなるわけではない。