はてなキーワード: 宮台真司とは
宮台真司が「クズ」「知的劣化」って表現で罵ってきたのって、専門でもないのにインターネットで検索かました結果で他人の無知と断言したらたり、そのうえ無差別に、くっくっく、とかマウント取ったりする奴のことじゃないんかい?
自分自身がクズであると証明したので、これまでの主張は逆に補強された形だが……じゃあ、クズはこれからどうしていけば良いのかについて、奴はこれから考えたりすることが出来るんかね?
宮台真司はすっかりサンドバッグになっているが、叩いている人も1959年にチッソ水俣工場の「工場で使用しているのは無機水銀であり、有機水銀と工場は無関係」という主張を聞けば「科学的!」と支持したことだろう。
・前世紀の薬害公害事件はまず明白かつ特異な健康被害が先にあって、科学的論理的に政府や企業を追い詰めて認めさせるという流れで成功を収めてきたんだけど、昨今は「健康被害があるはずだ」から始めて政府や企業の主張が正しい場合を全く想定せず、科学や事実関係を置き去りにしたまま突っ走ってドツボに嵌るパターンが多いのよね
・未だに発生メカニズムが全く異なる水俣病と同列にしている人達は水俣病は症状自体は認められその機序が認定されていなかったのにトリチウムはトリチウムによる症状自体が全く発生していないと言う事に無頓着
出世作はルポで、それは社会学的な業績と言えなくもないが、別にその後そのジャンルを専門にしたというわけではないし。
社会学者の宮台真司さん「トリチウム生体濃縮の根拠!」と1週間以上の沈黙から論文をミスリードし引用→総ツッコミ
https://togetter.com/li/2223352
そもそも論文一つで、なにか一般的な真実が明らかになることはほぼないと言っていい。
特に、一般性が高い大きなテーマや、論争になるような結論を簡単に出すことができないテーマにおいては。
論文というのは「◯◯の条件で△△の結果が出ました。そこから考えられるのは□□です」というフォーマットに則っている。
□□はその論文の結論と言っていいものだが、たいていの場合で語気が弱められている(断言しないような言い回しになってる)。
「□□の可能性がある」とか「□□は【より重要で一般的なテーマ】にとって重要な知見を与える」とかそんな。
件の社会学者が引用した論文でいうと(アブストラクトしか見てないけど)、
This paper presents a laboratory experiment developed to identify previously untested scenarios where tritium may concentrate or transfer in biota relevant to Baltic coastal communities.
(この論文は、トリチウムが濃縮する可能性がある未検証シナリオを特定する実験を示したものである)
current legislation does not adequately take into account the nature of organic forms of tritium and therefore may be underestimating accumulation and toxic effect of tritium in the environment.
(現在の法律はトリチウムの生体内での性質を十分考慮しておらず、それゆえトリチウムの濃縮と毒性を過小評価しているかもしれない)
may | かもしれない、を使ってちゃんと(?)結論をぼかしている。
(法律がトリチウムの性質を考慮していないの部分はmayがないので確信があるんだね。)
なぜこうなっているかというと、論理的に出せない結論は書いてはいけないから。
もし書いたら査読に通らない。
Aって書いてるけど、BかもしれないしCかもしれないよね?とか査読者に言われちゃう。
万が一査読に通っても、学会や論文で他の研究者に遅かれ早かれ指摘される。
でも「我々の実験はAかもしれないことを示した」は論理的に間違いではないから査読に通る。
逆にいうと、mayさえつけとけば何書いても許されるみたいなところはなきにしもあらずなところがある。
あまり良くないようにも思えるが、だからといって何を明らかにしたい(したかった)論文なのかは目立つところに書いておいてもらわないと読みにくいので、今の書き方が慣習となったのかもしれない。
結論を言いきれなかったからといって価値のない論文なのかというと、そんなことはない。
◯◯の条件で△△の結果が得られたことは、学術的に重要な知見である(かもしれない)のだ。
トリチウムがわずかでも生体濃縮するかどうか、みたいな結論を簡単には出せないテーマに対しては、あまり強い主張はできないけど限定的な条件でいいから少しずつ知見を積み重ねていくのが、現代の学術のありようだ。
この論文では生体濃縮の可能性を示した、あの論文では生体濃縮の可能性は見出されなかった、というのを積み重ねていくのだ。
一見相反する結論の論文があるように思うかもしれないが、実験条件がちがうのだし、ここまで書いたように結論を断定した論文は少ないので、おかしなことではない。
これで、一つの論文を引用しただけでイキったこと自体が、おかしなことであることを分かってもらえただろうか。
(論文の内容にもケチがついているようだが、その論文を読んでないし他の関連文献も見てないので、特に触れない)
これは余談にはなるのだが、もし何かの研究結果を調べなくてはならなくなったとき、たとえばトリチウムの生体濃縮について調べなければならなくなったとき、
一つの論文で結論を出せるものではないなら、どうしたらよいかを書いておく。
ようするにその研究テーマの主要論文を押さえればよいのだが、そのやりかたについて。
基本的にはGoogleかGoogle Scholar(Googleの論文検索サイト)で適当なワードで検索すればよいのだが、ほかにも一般の人はあまり知らないであろう方法をいくつか書き留めておく。
社会学者の宮台真司先生が、「植物性プランクトンからムラサキガイへの食物連鎖によるトリチウム生体濃縮を見出した科学誌の査読論文」を意気揚々と御提示されました。
(「自らの劣等感をエセ科学の威を借りて埋め合わせるヘタレども、どんどん湧いて炎上しな。 ただし炎上先は、定評ある学術誌・査読チーム・論文執筆者だぜ、くっくっく」と述べられておりますので、「意気揚々」と評して差し支えないでしょう。)
しかし、トリチウムの生体濃縮についてはそもそもこの論文では証明されておらず、また後の論文も含めて、トリチウムの生体濃縮は否定されているといって良いでしょう。
宮台真司先生は素人ですから、誤読されたり、最新の研究結果について無知であるのも無理はないとは思いますが、専門外のことなのであれば、同僚の専門家に聞いてみるという謙虚さも必要なのではないでしょうか。
宮台真司先生の能力以上に問題だと感じたのがそのスタンスです。科学の世界では論文があることが重要なのではなく、それを検証検討し、再現性の有無などを確かめ、その論文が本当に妥当であるか、問題があるとすればどの部分かを確かめるプロセスが非常に重要で、そのプロセスこそが科学と言えます。
今回の宮台真司先生は、「権威ある誌面に査読付きで載ったから正しいんだ」というスタンスを取っておられますが、まったく科学的な態度とは言えません。
社会学は門外漢なので非常に恐縮なのですが、社会学の大家たる上野千鶴子先生が「不利なエビデンスは隠す」と公言し、それに対して大した批判もないところも含め、このようなスタンスが社会学の世界で一般的だとすれば、おおよそ科学的な学問とは評価できないと感じます。
(これでは「○○先生が言ったから正しいんだ」という権威主義的な世界です。)
社会学が、このようなスタンスで社会を分析し、課題を見つけ、必要があれば政策提言をしたりマスコミに発信をしているとするならば、それは失礼クリエイターと揶揄されるマナー講師と同様に、社会学者は社会課題クリエイターなのであって科学者とは言えないのではないでしょうか。
また、社会学者として、現在の社会課題を「発見」することにインセンティブがある以上、社会学者と社会変革を求める左派政党(立憲や共産党)とが親和性があることは理解します。しかし、このようなスタンスで創られた社会課題解決のために政策を立案しているとするならば、これらの政党の政策も歪んでくることは必然でしょう。
余談ですが、共産党の言っている「汚染水」の科学的根拠って今回の宮台真司先生みたいなのではないのかと不安になりますね。
https://www.sankei.com/article/20230911-7EUGHAEVVRNXREXBB36ADTSE34/
ネット通販と電子書籍の勢いに押されて書店がどんどん街から消えている
大型書店ですら営業縮小傾向の厳しいこの時代に、昔ながらの個人経営書店など風前の灯
しかしそんな昔ながらものんびりとした書店の雰囲気を懐かしむ声も多い
近所を散歩していて、そんな希少な個人経営の小さな古本屋を見つけた
今時まだこんな店がやっているのか、せっかくだしなんか買って帰るかと思って入ったら置いてある本が片っ端からおもんなそう
まず文庫が多い、カバーが取れて背表紙が日焼けした昔の岩波とか古臭いやつ
それも絶版の名著とかじゃなくて、昭和の文学系大学生に流行ってそうな、
例えていうなら宮台真司とか成田ゆうすけの昭和版みたいな店主は思い入れがあっても現代に生きる我々が今更こんなの読んでどうすんのみたいなしょうもない奴
あとは四畳半フォークみたいな醤油と畳の匂いが漂ってきそうな小説、文芸雑誌、詩の本
クレヨンしんちゃん大人帝国の逆襲だとここで昭和のノスタルジーの匂いに飲まれて戻って来れなくなるところだが、
まぁ定期と言っていいだろう。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2218032
社会学】上野千鶴子、学問の中立性や客観性を否定していた。「不利なエビデンスは隠す」だけでなく、覆面査読の拒否、「学問の中立性や客観性は抵抗勢力」と主張。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2217225
宮台真司がどうとかよりも「社会学者憎し」がこれ程潜在的にある・あった事に大変驚く。みんな社会学の事が本当に分かってないか、初めから無価値と決め込んでるんだな。社会学に価値を認めないということはそもそも「社会」に価値を認めないということなんだろうな。
この手の議論となったとき、多くの場合は社会学(者)不要論から文系不要論に進んでしまい、非常に迷惑している。
いつも、特徴として、
○間違った知識で専門外のことを決めつける。
○間違いが指摘されても認めない。
といったところが見て取れる。
ただ、仮にも学者を名乗っているのであれば、ここで社会学(者)に求められるのは、「ワタシ悪くないもん!」と主張するのではなく、以下のようなことではないだろうか。
もちろん、これは「社会学は社会の真理を解き明かすから」などのお気持ち表明ではなく仮説を立てて実証する。集団(群集)心理の研究なんかは正に社会学のテーマと言えるでしょう。
というか今回の宮台先生だって、処理水の安全性ではなく、何故不安に思う人々がいるのかを科学的に分析していたなら正に社会学者の仕事と言えたのにね。
「不利なエビデンスは隠す」と公言するほか、査読への拒否感など手続きを軽視する姿勢が甚だしい。そういった者が主流となり、同業他者からほとんど批判もされない理由の分析が必要です。これも正に社会学の研究テーマと言えるでしょう。
というか、いつも「○○の社会学」って他の分野に切り込んで課題クリエイターとなるくらいなら、まず「社会学者の社会学」をやったらどうですか?
まぁ、他の多くの文系分野同様(経済学や法学の一部(商法など)を除く)に左派色が非常に強い(というか形だけでも左派に理解を示さないと出世できない)中で、出世に重きを起きすぎたせいでこうなったのかなぁ、という漠然とした印象はありますけどね。
こういったところまで視野を広げてアカデミズムの社会学をやろうとすると放逐されるんですよね、知ってます。
これをすると講座制から脈々と続く、後任は前任が事実上指名する体制が崩壊するからね、仕方ないね。
(ちなみに、「保守派は学問を軽視する」という研究は認められますが、「リベラル派は~」となるとかなりオブラートに包まないと無理です。実例あり)
的はずれなブコメがあったので。
「アカデミズムから放逐」(笑)ブルデューも知らんの?https://tinyurl.com/yfdnu3ah幼稚な学問イメージで一つの学を全否定できると考えるバカの戯言。社会学や人文学がこの手のバカに敵視されることがその必要性の証明。
ここで提示したのは社会学者の社会学ね。違いが分からないかな?
分からないなら分かるように書けなかったのが悪かったね、ごめんね。
社会学という学問への自己批判だけでなく(これは社会学の社会学)、何故このような人たちが出世してしまったのかの分析が必要ってことね
“某ツイートで「宮台真司」が挙がっていたけど、他の人と宮台を一緒にしている時点で無理解にも程があるし、宮台はむしろあんたらの「見方」、というより「魂の父親」だよ。”
むしろ「社会福祉士の受験対策書を持ってこい」の方が効きそう。
さもありなん。
最近の処理水放出に関して色々な意見が出ている。問題なしとする意見も多いが、そうでない意見も多く割れていると言っても過言ではない。
twitterでも、有象無象の匿名人間だけでなく高名な学者でも政府見解を批判し処理水放出に反対する意見がある。例えば
宮台真司 https://twitter.com/miyadai/status/1697486382837407787
水俣で言ってごらん。湾とは違うってか。だったら地球規模の海流シミュレーションと魚介分布の動的重ね合わせを精査しな。精査する義務は放出側。実定法は「推定無罪の原則=疑わしきは罰せず」。環境汚染は「予防原則=疑わしきは回避」。何も知らないお前がゴミ。
山口二郎 https://twitter.com/260yamaguchi/status/1698544796313497990
そもそも廃炉を前提とした処理水放出というやり方が、世界を欺くということを言いたかったわけです。マイナンバーカードと同じく、何段階か遡って、政策の意味を考え直すという態度が日本の政府、官僚にあればとつくづく思う。
牧野淳一郎 https://twitter.com/jun_makino/status/1697964368850571399
第三は、内部被曝の評価が生物濃縮や、半減期を考慮していないこと。告示濃度に対する比率がかなり大きい I-129 は海藻によって数千から数万倍濃縮される上に、半減期が 1570万年と長い。
いずれも一流大学に属する高名な学者であり、様々な論点を述べている。
学術会議もさ、「日本学術会議とは」(https://www.scj.go.jp/ja/scj/index.html)に
とか挙げてるのなら、こういうときに意見の整理なり、科学的事実の把握なりした上で提言や、談話などの発表をするべきじゃないの?
政府から諮問されていないから答えなくていい、とかいう意見もあるけど、過去の提言とか別に諮問されてなさそうなのも沢山あるじゃん。こういう科学的なことで多くの人が混乱して困っているようなときに助けにならないって存在理由ないんじゃない?10億円って国家予算からしたら大したことないけど、年俸1000万円の人間の100人分の人件費だからね。Xみてたら若手研究者の給料は500万円くらいらしいから、若手なら200人分だよ。
政府に反対意見を言える組織は貴重だから、本来学術会議はあった方が良いし、政府は任用問題での干渉もやめるべきだと思う。しかし現状では反対でも賛成でもなんの意見も言えていないのだからタダ飯食らってるだけの無駄な存在と言われても仕方ないのではないか。