はてなキーワード: 実存とは
積極的に楽しもうとする姿勢を持つよう努めよう、面白いと感じられるものを主体的に探していこう、そうやってその楽しみを糧にちょっとずつでもやる気を出していこう。
なんて原因の分析に基づいた解決策はとっくの昔に分かりきってるけど、それを実行するやる気がない。
やる気なんてやってる内に出てくる、やりながら出すしかないんだよとか言われた所で、そのやり始めるやる気がない。
面白くないからやる気が出ないし、やる気が出ないから面白いことを探せないし、面白くないから生きている意味がない。
ちょっとした刹那的な楽しみはあるけど、こう人生の意義を感じられるような、人生の芯になってくるようなものを持ってない。そんな快楽の区別に意味があるのか、そもそも妥当な区別かどうかだって分かりゃしない。
面白くもないなら死んだ方がマジだろ、とどうせ死ぬ根性もないしな、を無限に反復横跳びしてる気がする。身体を動かしてみたらまあ少しはスッキリするけど、それはそれとして頭にまとわりつく実存的不安が解消されるかと言ったら全くそんな事はない。
人生の本当の面白みは家庭でも持って他人の人生に食い込んでみたり、他人との関わりの中でしか見つからない。なんてありきたりなものが自分にも当てはまるかどうかなんて分からない。
まあ何やかんや言っても自分にもそれが当てはまる蓋然性は高いような気もするが、そういう生き方を志向して実行に移すほどのやる気がない。
出来ないと諦めてかかって逃げてるだけだろ、なんてありきたりな言葉もあるけど、そういう出来そう出来なさそうとかの問題ではなくマジでやる気が出ない。
鬱病とか学習性無気力とか色々と言葉はあるけど、そんなのはただの言葉で何の解決にもならない。 あるあるネタにラベルを貼るだけだ。ロクな取扱説明書がついてない。
まとめるとこんな感じだった。
①吸引の際は結構咳き込む。心配されるくらい咳き込むけど、体感としては端から見るほど辛くない。
②5分くらいしたら、口の中がめちゃくちゃ渇く。渇いたときに水分がなくなるからか口の中は苦くなる。そして、身体の表面がそわそわする。強さによっては、この時点で揺れてる感じがしたり、回転してる感じがしたりして、気持ち悪くなることも。これは意識変容の最初のサイン。
③まずは、知覚が変容する。音が立体的に聴こえたり、色彩がビビッドに(赤と緑が強くなる気がする)なり、強さによっては少し歪む感じがすることも。そして五感が有機的につながって、ひとつの体験として感じられる。
④そこまできたら、感情が昂ぶっているのを感じるだろう。そして、思考がまどろんでいく。自分が何を考えてたか忘れちゃったり、距離の感覚が把握できなくなったり、腕が催眠術にかかったみたいに固定化されちゃったり、身体や足が椅子や地面と一体化しちゃったり。いわゆるストーン。個人的な体感として30分〜1時間くらいで落ち着く。
⑤上記と並行して、いろいろと気がつくことがある。この体験内容はセットとセッティング(心的構えと使用環境)によって大きく変わる。バッドトリップしないためにも、品質の良い大麻で、事前に偏見は取り除き、正しいセットとセッティングを整えよう。(当然、セッティングには安全な環境≒合法的な環境であることが望ましい点も含まれる)
⑥だんだんと普段生きている世界に帰ってくる。大麻では問題ないと思うが、意識変容体験であることは間違いないため、グラウンディング(心的着地感)についても気をつけよう。具体的には、黄泉がえりだ。つまり、あちらの世界(彼岸)からこちらの世界(此岸)へ、体験を持ち帰ってくるのであって、彼岸に魂をおいてきてはいけない。グラウンディングが適切に行えるかで、体験の質は大きく変わると思う。
個人的に、マリファナ体験でよく報告されるところの「マンチー」(食欲亢進)はあまり感じられなかった。
詳しくレポートしていく。
まず、体験した国名については推奨するわけではないから敢えて伏せておく。自分で調べてくれ。
もちろん、日本では違法だから吸うんじゃないぞ。合法大麻とか言って売ってる合成カンナビノイドもやめとけ。あれは信頼性の低いデザイナーズドラッグだ。最近は成分もよくわからんのが出回ってる。CBNクッキーとかまでにしておくといい。
さて、ここはとある大麻調剤薬局(ディスペンサリー)。清潔感のある店内で、店頭にはさまざまな品種のマリファナが取り揃えられている。価格としては、日本円にして1,200円〜2,800円/gほど。値段が2倍以上異なるのは、品種ブランドによるためだ。
マリファナには、文化慣習として大きく2つの品種分類があるとされている。夜の使用に適していると言われるリラックス効果が高いインディカ株、感情の高ぶりや笑い上戸、しゃべり上戸になりやすいと言われるエネルギッシュなサティバ株だ。なお、この分類は最近になって実際の化学構成(ケモタイプ)とはあまり関係がないことが明らかになってきていて、あくまで文化慣習的な目安だという。
ディスプレイされているさまざまな品種の前には、その効き方の目安として「意識の上昇」「多幸感」「意識の集中」「睡眠」「会話」などさまざまな効能が書かれている。私は、その中から3種類を選び、それぞれ1gずつ購入した。
ちなみに、購入したらその場でジョイントを巻いてくれた
さて、さっそく試しに吸ってみようと0.5gのジョイントを1本。同行していた友人とシェアしたので、半分の0.25gほどだろうか。火をつけてタバコと同じように吸い込んで、深く肺に入れる。
キック感がかなり強く、咳き込んでしまうわけだが、咳き込んで頭に血が上るような感覚ののち、段々と知覚が変わってくることを感じる。
まずは、口がすごく乾く。砂漠になったかと思った。あとは、少し喉が痛い。一気に吸い込みすぎたかも。喉が痛くて口が乾くから少し気持ち悪い感じがする。というか、世界が歪んできてる?酔っ払って三半規管が狂ったときみたいな、だけど意識はハッキリしてるみたいな、不思議な感覚が襲ってくる。
あれ、いつからここにいるんだっけ?あれ?今何してるんだっけ?聴こえてくる音楽が、風の音が、バイクの音が、なんだかすごく立体的に、リアル以上にリアルに感じるような気がする……
あぁ、そうだ。マリファナだマリファナ。いま吸い終わったんだ。5分くらい?経ったのかな?時間はー、えぇと、うん、進んではいるみたいだね。でも、進んでるとかじゃないよ。ただ、いまここに在るだけなんだから。
あぁー、完全にさっきいた場所とは違うみたいだ。いや、同じなんだけどさ。あれ、いまなに考えてたっけ?あぁ、そうだ。別の世界に来た感じっていうか。景色も随分とビビッドだし、鮮やかで、キレイだなぁ、あれ、時間って経ってるっけ?あぁ、腕が動かない。固まっちゃったみたいだ。あれ?なんか足が、足の裏が、地面が、あれ?どこから地面と足が分かれてるんだ?あれ?分かれてなくないか?一体じゃないか?
身体が椅子に、足が地面に根を張って、私はいつのまにか大樹になっていた。
1時間ほど経った後だろうか?だいぶ落ち着いてきて、立ち上がって歩けるくらいにはなってきた。まだ、世界は鮮やかだし、心は躍ってる。そのまま寺院観光に行ったけど、黄金に輝く仏像に、カラフルに彩られた建築が、なんだかこの世のものとは思えないほど荘厳に見えた。
上の体験記だけ読むと、ちょっと、いやかなり怖いものなのかなと思うかもしれない。たしかに、マリファナ体験の核となる意識変容体験は、認識に現れる世界をその根底から覆してしまうような、そんな衝撃があった。まさに、別次元の体験といっても差し支えない。だけど、不思議と怖いものではなかった。そこには、底しれぬ一体感があり、神秘の愛に包まれるような感覚がある。
思考がまどろんでいき、幸せな気分(THCの主作用に陶酔感、多幸感が含まれる)に包まれていく。「これはあれ」といったような識別作用、分別作用が弱くなっていく。だけど、不思議とそれを冷静に見つめる一つ上の自己みたいなものは保っていられる。そして、そんな変容意識体験においてしか、気がつけない「ナニカ」がそこにはあり、その「ナニカ」を受け取って日常世界に帰って来る。その体験は、さながら黄泉がえりであり、セラピューティックな気付きに溢れている。
自然の中での一服では、鳥の鳴き声、風の音、擦れる木々、すべてがハーモニーを奏でて聴いたこともないほど心地良い交響曲となっていた。
その日は一日観光をしてご飯も済ませたところで、23時頃だったかな。ホテルに戻ってきた。帰りに、ペットボトルに装着するかたちで使えるボング(簡易水タバコみたいな吸引器具)を買ってきた。個人的に、ジョイントでの喫煙は量の調整が難しいし、私は喫煙経験が浅いこともあって、こちらのほうがずいぶんと吸いやすく感じた。ボングの場合は喉の痛みもほとんど緩和されたし、氷水とかで試したらもっと快適そうだ。
それはさておき、ぶくぶくぶく。
もう慣れたもので、吸って5分くらいすると、口の渇きと身体のソワソワ感、その直後に「完全に別のリアリティに来た」という明確なテレポート感を感じたら、トリップスタートだ。
吸って30分くらいは、やはり少し混乱するし興奮する。2mくらい先にあるペットボトルを取りに行こうとするんだけど、動けない。なんというか、水取りに行こう、あれあんな遠くにあったっけ?あれ、何しようとしてたっけ?あぁ、水だ水。あれ、手を伸ばせば伸ばすだけ遠くにあるような感じがする。あぁ、もういいや、Let it be. だ、そういう感じ。
人間の慣れとはすごいもので、こんな超越体験でも1度経験してしまえば、体感のコントロールは効きやすくなる。30分も経てば、波は超えて、穏やかなチルタイムが始まる。
布団で横になって目を瞑ると、身体が風になって、世界の中空にただポツンと漂ってるような、そんなビジョンが浮かんでくる。ただポツンといる。そのはずなのに全く淋しい感じはしない。それは、まさに、風であるような体験だ。漂っている風はどこからか吹いてどこかへと消えていく、何かが振動し、その振動は空気を伝う。自然の振動は、どこかで区切られるものではなく、それは全体性の連関の中で生まれては消えていく。
風は一人ぼっちじゃない。この世界に〈私〉は一人しかいないし、実存的な〈私の世界〉は誰とも共有できない。だけど、ひとりじゃない。家族、友だち、社会、人間に限らずモノだったりコンピュータだったり、自然だったり、ありとあらゆる万物の関わり合いの中で、ただポツンとそこにある。そんな感覚が、ワンネスが愛そのものなんだ。
内省的で詩的なことを考えていたと思ったら、気が付いたときには朝だった。眠っていた。こんなにも熟睡できたのはいつぶりだろう、というくらい本当によく眠れた。眠りに入っていくその瞬間まで愛に満ちたまま眠れた。
もう3ヵ月以上前の話。日本に帰ってきてから無理をしてまで入手して吸いたいとは全く思わない。
あったら幸せだけど、捕まるかもとか勘繰りながら使ってたら安心してチルアウトなんてできたもんじゃないからね。それなりに異常な体験だし、セットとセッティングには気を付けたい。
いずれにしても、1回吸ったら廃人になる、気づかないうちに依存症になってるなんて類のものではない。世界でも解禁の流れは進んでるんだし、もうちょっとマトモな議論をしたほうが良いんじゃないの、とこの間のアベプラを見て思った。
『オッペンハイマー』観た。
元カノが死んでから自分を責めたり、実験の爆発を目の当たりにしてから水爆反対への心変わりに向かっていったりと、オッペンハイマーには自分のやってる事への当事者意識の薄さみたいなのがあるのかなって感じがした。
「絶対悪」のナチスドイツなき後にもまだ(瀕死の)日本がいるじゃないかと研究を続けて、いざ実験が成功して投下した後になってから果てしない核軍拡競争への憂いで気持ちが揺れ始める。赤狩りの時代が強調されてはいたとはいえ、水爆はソ連への牽制だという言い分にもあまり強く言い返せない。
ストローズの「奴は瓶から出した原爆の魔神を元に戻そうとしてる」みたいな台詞は、オッペンハイマー憎しで出た言葉かもしれないけど彼のふわふわした感じを端的に表していたような気がした。トルーマンに腰抜けと一蹴されたのも。
学生時代に病んでたのは、物理学なんかやってると唯物論的な方面で実存的不安を抱えるようになるんだろうか。ピカソやストラヴィンスキーに触れるシーンでそう思った。それに対してセックス不足だろと言われてたのも、そういう抽象的な事ばかり考えずに地に足つけて生活したら、的な意味だったんだろうか。共産主義と唯物論は結び付けられて語られるようだけど、活動に傾倒していったのもそういう事なんだろうか。
日本にまつわる描写が淡白だっていう感想もあるらしいけど、自分は投下後に言われていた「国内で抗議が"起こらない"のが心配だ」みたいな台詞が結構印象的だった。
劇中で何度も鳴り響くオッペンハイマーの功績を称える足音は軍靴の音に重なるものがあった。
実験シーンで爆破音を大分遅らせる演出は、まあそうなるだろうなあと思わせる猶予になってしまったけど、それを補って余りある ほどにオッペンハイマーが抱いたであろうアンビバレントな感情を思わせられた。
「ほぼ0%」だからまあ大丈夫だろうと研究を続けたり、爆破の直前に賭けをしてたり、防護服を着る事もなく目視で爆発を眺めたり、実験が成功すれば無邪気に熱狂する辺り、研究者達からはどこか呑気さを感じる。
それはしばしばハリウッド映画で非難されていた核兵器への認識の無頓着さへによるものではなく、むしろそういったものに関して意識的に描いているんだと思う。思いたい。核兵器が実戦投入される以前の出来事を描いたシーンでもあるし。
ローレンスやラビは出会いからの関係が比較的重点的に描かれてたけど、他にも色々と博士や政府の人間が出てくる中で、それ誰だっけって人名が飛び交ったりして分かり辛い部分も多かった。
証人に呼ばれたローレンスと廊下で鉢合わせて、結局彼が来なかったシーンもいまいち意味が分からなかった。冒頭の1. 核融合 2. 核分裂も何か象徴的な事を言っているのだろうけどいまいちよく分からなかった。
ただ3つのパートが徐々に絡み合っていってオッペンハイマーの人生が語られる感じは、テネットとかインセプションに比べたら大分と分かりやすかった気がした。
プロジェクトX、よりは粛々と進むマンハッタン計画、胃が痛くなるような小部屋の尋問、ストローズの閣僚入りに向けた公聴会、というそれぞれのシーンの要点を抑えた上で2度目に観たら前半の印象も大分鮮明になってより分かりやすくなった。
今の所世界は滅んでないけど核兵器も滅んでいないらしいし、これからどうなんでしょうねえ。この手の作品を観て大量破壊兵器はよろしくないですねえ、平和は個々人の意識によって作られるものですよねえ、というポーズを取りつつ、まあ言うても別にボーッと生きてたって自分の生きてる間くらいは大丈夫っしょ……って思ってる自分がいますねえ。
お金は大好きだ。でも本当に好きなのかと聞かれると疑問がある。
誰かと生きるなら必要不可欠だ。より良い暮らしを目指すこと自体には精神安定効果がある。より良い暮らしを、より良い老後を、より良い人生を。考えもする、言葉にもする。
それに向かっている方が正しいと言われて育った。疑念を抱くことは異端者の発端だった。
孤独から一度でも離れてしまうと、また孤独に戻るのには多大な労力が必要だ。
心の全てを許せる人間を得てしまったが最後、前の自分には戻れない。
孤独と真摯に向き合い、身勝手でも一貫した理想を持ち、自分だけが生きる意味だったあの純真は失われてしまう。ただ若さと言い換えるには異論がある、あの感情のことだ。
あの感情のまま生きている人間は世に溢れている。まだ喪失を経験していないのか。
思ってもいないことを脳が書き出す。
話そうとするそのはじめには、まさしく自分の考えだ。
これまで得た理屈や合理、社会性が発言を正しい方に勝手に修正していく。
話している当の本人は一番矛盾を感じている。それでも脳味噌は付け加えていく。
気づいたらただの一般論になっている。思考は無修正では表出できない。
表に出せる思考はきっと脳の本質ではなくて、脳波は未だ文字にならない。
神話も伝承も都市伝説も、神秘は頭蓋骨を超えられない。本質の対義語にはなれない。
思考は総じて歪んで出てきたがる。不完全な記憶でも脳を出たがる。
よって語彙だけ頭に入れても何の意味もない。知識にもさしたる価値はない。
まともな自治がなされてるみたいな言い方だけど
俺が見てた時はキチガイみたいなやつが勝って自治側でデカい顔してるのがままあったぞ
なんかの政治信条ならいい方でよくわからん謎のこだわり(自閉症?みたいな)を押し通してる奴とか
それでもキチガイの方が普通の人よりモチベ強いしずっと貼りついてるので勝っちゃうみたいな
恒心教が変なおっさんとトラブった時も
そのおっさんがwikipediaの恣意的編集に血道を上げてるそれだけが実存の高齢アルバイトみたいなやつで
2chのウォッチ板の感想は「ああいう狂ったのがあと300人くらいいるから全部やってくれないかなあ」とかだった
今は何か制度が改良されたの?
公平を期すために言うと、リック・アンド・モーティを理解するには非常に高いIQが必要です。
ユーモアは非常に微妙で、理論物理学をしっかりと理解していなければ、ジョークのほとんどは一般的な視聴者の頭を越えてしまうでしょう。
リックのニヒリスティックな世界観もあり、それが特徴描写に巧みに織り込まれています。
たとえば、彼の個人的な哲学はナロドナヤ ヴォルヤの文学から多くを引用しています。
ファンはこのことを理解しています。これらのジョークの奥深さを真に評価し、ただ面白いだけではなく、人生について深いことを語っていることに気づく知的能力を持っています。
結果として、『リック・アンド・モーティ』を嫌う人々は本当に愚か者です。
もちろん、彼らは例えばリックの実存的なキャッチフレーズ「ワッバ・ルッバ・ダブ・ダブ」のユーモアを理解しないだろうが、それ自体がツルゲーネフのロシアの叙事詩『父と子』への不可解な言及です。
ダン・ハーモンの天才的な機知がテレビ画面で展開されるのを見て、混乱して頭をかきむしる幼児の一人を想像するだけで、私は今ニヤニヤしています。
HMVといえばタワレコとかと並んでCDをたくさん売っている、音楽好きに愛された店だったと記憶している
特に90年代を若者として過ごした人たちには、ある種、憧れのようなワクワク感もあったのではなかろうか
しかし、もはや音楽はネットで買うのが当たり前、それどころか定額サービスで個別に買うことすらあまりない時代になり、CDショップの実店舗に最近足を運んだ人はどれくらいいるだろう?
先日久しぶりに行ってみると、売り場の1/4くらいしか真面目なCDやDVDはおいていなかった
残り3/4は、いわゆるネットアイドルのような人たちのグッズや一番くじが売られていたのである
売り場には、にじさんじのグッズ、すとぷりのグッズ、ホロライブの一番くじ、などなど
にじさんじグッズが、フェアだったのか知らないけど、めちゃくちゃ面積をしめていた
90年代のCDブームは古すぎるにせよ、2010年代なら、これがAKBとかジャニーズだったのかもしれない
会いに行けるアイドルもいまや昔、いまやアイドルもリアルは避けられているのだろうか
インターネットは薄暗い世界だったのが、もはやリアルより尊いメインカルチャーになり、Vtuberが実存アイドルを超える日もそう遠くないのかもしれない
https://anond.hatelabo.jp/20240126183235
「至らない」とかじゃないんだよシロクマさん
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20240125/1706177922 「オタクを馬鹿にするオタク」と言うシーラカンス俺はあなたの年齢までなんとなくわかる。 エヴァあたりの時代、上の世代にあなたみたいなのが大勢いたから。 自意識との益体もない格闘に血道をあげ、旧エヴァ見終わっての感想も「エヴァを見ているぼくの実存」の話だけしてたような先輩たち。 中でもひときわオタクであることに強い劣等感や羞恥心を持ち、その気持ちを他のオタクをディスることで「俺はあいつらとはちょっと違う」って感じで癒してた人達。沢山いたよな。「サブカル」も多くがそれだった。 ただ、さすがに令和の世で同じようなこと続けてるのは俺が知る限りあなたくらいだよ。 どこも見ていないオタク論未だに自意識と格闘マンなので「オタク」というもはや世にありふれた概念への反応と執着心が強く、今
先日、初めて例のあの場所を見た。
立ち並ぶ彼女らの横を、退社後に通ったのだ。
そこには連日伝えられるスポットでニュース通りに女の子が立っており、帳も降りかけた十八時半手前。
彼女らは底の厚さを見せつけるような靴を履き、裾の先から素足を風の寒さに打ち付けていた。
まるで現代のフレンチ・インディアン戦争※だと思いながら、私は実存的貧困と評された彼女ら立ちんぼガールの前を通りすぎたのだった。
それにしても周りの人だかりといえば著しく……
あそこをバス停すればいいのでは? と思えたほどであった。
※フレンチ・インディアン戦争の際、ジェフリー・アマースト卿が、衣服の粗末なインディアンに拾わせるために、天然痘ウィルスに感染された毛布をわざと並べて置いていた。
(前part)
https://anond.hatelabo.jp/20231213191557
直情的なタイプだった。怒りだろうと悲しみだろうと、感情の振れ幅が大きいタイプである。
最初の方で説明した場面で、職場のコピー機が置いてある台を蹴っていたのが彼になる。傍目から見ても、「どうして採用されたのだろう……」と疑問が湧いてくるほどだった。
ストレスには耐えられないし、自分勝手なスタンドプレーは多いし、立場が弱い人間には辛く当たるし、自分は凄いといった主張をしていた(「俺の親、若くして自治会長だから!!」など)。相手の意見を曲解することが多かった。
私も手痛い思いをしたことがある。私がいた指導課には住民基本台帳ネットワークシステム(戸籍課や税務課の職員が使っているものと同じ)があったのだが、B君は特に許諾もなくそれを操作し、職務遂行に必要な個人情報を入手していた。本来であれば事前申請を要するし、厳しい自治体だと戸籍課以外の職員によるシステム操作を認めない。これが普通である。
ただ、ほかの部署から個人情報取得の依頼があった場合でも、身内だからということで、口頭による承認で住基システムを使わせることはあった(課員への一言)。能率を考えてのことだ。が、B君の場合は明らかに一線を超えていた。職務遂行に必要であることがわかるが……一度だけ、彼を思い切り叱り飛ばしたことがある。以降は、口頭で課員の承認を得てからシステムを使うよう徹底させた。
ところで、あなたの職場にもいるのではないか? 仕事でも家庭でも趣味でも、何でもいい。ストレスで精神的に潰れかけた人間の姿である。B君は、元々コミュニケーション能力に難があった。いわゆる話がわからないタイプだった。
残業も多かった。指導課や学事課の教員出身者と同程度と仮定すると、おそらく月60h~70h程度か。彼の上司は「仕事をたくさん振っていないのに……なぜ?」というスタンスだった。
市職員の場合は、予算がある限り時間外勤務手当が支給されるという。私が若い頃だと、時間外勤務をしていないのに、予算消化のために闇残業を認めるという慣習があったほどだ。
教員出身者の場合は、月20hまで支給されていた。学校現場から教育事務職に移った者にとって、長時間労働やサービス残業は避けて通れない。この試練があるからこそ、一定の基準に達した教育人材を育成することができている。
人は光を求める。そして、その光の見える方向へ動いていく。教職員にとっては、教育に関する哲学、という光を見出すための修行の場こそが教育委員会である。量・質ともに圧倒的なレベルでの修行。厳しい体験を幾度となく積み重ねるから人格や能力が磨かれ、玉になっていく。
さて、彼の上司はB君を徹底指導して残業縮減に務めた。だが結果は出ない。残業縮減の効果は僅かだった。ところで、B君の場合は学校歴がよかった。地元の名門公立高校を卒業して、大学も相応のところを出ていた。地元的には血筋もいい。それが採用に繋がったのだろう。
縁故が悪いか? といえば時と場合による。一概に悪いとは言えない(ex.公共の学童クラブの指導員は、その多くがスカウトである。特に、男性の場合はほぼ100%だ)。教職員の採用試験においても、学科・面接試験の点数以外で、非公式に評価すべき点というのは確かにある。
行政一般事務の職員のことはよく知らないが、彼らと仕事をしていると、確かに地元において血筋がいいとされる人に仕事のできる人が多かった。※主観的な統計である。
高等学校の入学試験ですらそうだ。学科試験以外で評価される要素がある。内申点などは、その典型である。本人の人柄や人格、学習態度や常識力、社会への順応性が点数化される。内申点以外にも、+-の評価がされる要素も一応はある。
プラス評価の例としては……今では絶滅した慣習であるが、昔は公立校でも縁故による入学があった。とある高等学校の名門運動部などが、どうしても○△中学校のあの子がほしいという場合、事前に保護者・児童や中学校側と話をつけておく。かくして3者が合意に至った場合、入試前に合格が決まっていた。内申点は中三期を満点にするなどして対応する。
マイナス評価の例としては……生活習慣だろうか。公立高校の入学試験の基本は、学科試験+内申点の合計で決まる。とはいえ、点数に関わりなく不合格になるケースもある。こちらは犯罪行為であるとか、補導されるのを繰り返したとか、入学試験の際に相当奇抜なことをしない限りは関係ない。
ただ、その子が合格基準点に達していた場合でも、入学試験の要綱要領に定めのある範囲で不合格になることはありうる。欠席数が極端に多かったり、在学中に異常な行動を繰り返したなどが内申書に書いてある場合だ。学校教育とはいえ、高校側も不用なリスクを取りたくない。名門とされる公立高校に問題児が少ない理由のひとつである。
B君の話に戻ろう。その年の夏頃に聞いたところだと、どうやら事件を起こしたらしい。
梅雨が明けた頃に、霞が関の新卒キャリア官僚が研修にやってきたという。T区の各部署を廻って地方行政の実務を学習するのだ。T区は、その年の中央省庁の研修先のひとつに選ばれていた。
キャリア官僚達は、ごく普通にT区の歴史や成り立ちを勉強して、地方行政の実務を視察して、心ばかりの現場仕事をこなして、一週間ほどで霞が関に帰る――はずだった。
最後の日に行われた交流会(飲み会)で、B君はやってしまった。喫煙所のよもやま話で聞いたところだと、以下の流れだ。
ex.研修先部署の部長の肩に手を置く、女性職員の体に何度も触る、別省庁のキャリア官僚に「ぶっ殺す」と発言するなど
③国交省キャリアが「お前の区の国庫補助金ゼロにするからな」と言ったところで、B君がキャリア官僚を蹴り飛ばし、馬乗りになる
④ほかのキャリア官僚とB君の部署の係長が、彼を羽交い絞めにして止めた
……気持ちはわかる。侮辱されて悔しかったのだろう。だが、いくら何を言われようと、暴力だけは駄目だ。確かに、若手官僚の場合、調子に乗っている者は一定数いる。子どもの頃から勉強に勉強を重ねてきた自負があるとともに、仕事では自分の親ほどの年代から神輿を担がれるような扱いを受けるのだから。調子に乗るのも当然である(上に出てきた国交省キャリアは東京大学卒だった)。
かくいう私自身も、文部科学省の事業査定担当官であるとか、会計検査院の検査官から相当辛辣なことを言われたことがある。だが、怒りの感情に囚われてはいけない。駄目なのだ。
人間はいかなる状況の下においても、自己の衝動をそのまま表に出してはならないし、出すべきでもないし、さらに言えば、出したいとも思わない、という主張はまったくの真実であり、妥当な見解であると私は考える。衝動は制御することができるし、制御しなければならない。それは現実の要請というだけでなく、一人の個人としてのまとまりや一貫性および価値観の要請でもある。突き詰めて考えるならば、人生には実存的葛藤や解決不能な問題、さらには、あることのためには別の何かを諦めなければならないというような状況が数多く存在しているのだ。こうした状況こそ、人間が生きる上での本質的条件となっているのである。何らかの葛藤が常につきまとい、ある方向へ進もうとすれば別の道を諦めざるをえない。人間はこうした状況に苦悶しつつ、自己を制御しながら生きていかなければならないのだ。 完全なる経営(2001) A.H.マズロー (著), 大川 修二 (翻訳) P.295
私とB君が教委事務局で一緒だったのは一年だった。その年は、社会教育課にとって厳しい年だったらしく、彼は相当追い詰められていた。年度末の三月時点では、まるで50代のごとく自分が思ったことを脊髄反射で口に出すようになっていた。
声をかけようか、とも思った。あまりに辛そうだったからだ。係長も課長も、彼を見放しているところがあった。どれだけ残業が積み重なろうと、仲間によるフォローを呼び掛けたりはしなかったし、むしろ失敗に対して反省文を書かせていた。
B君は、口に出すのが憚られるほど救いようがなかった。もし、上司や仲間にとって彼が『かわいい奴』だったら、こんな事態にはなっていない。彼は、実際に不良な人間だった。職場の仲間から非人格的な言動を咎められるのはまだいい方で、はっきりいって見捨てられていた。自業自得だった。
しかし、やはり可哀想に感じることがあって、廊下をすれ違う時やトイレなどで「元気?」「今日は温かいね」「辛くないですか」など声をかけることがあった。
それから、彼がどうなったかというと、真相を確かめたわけではないのだが……私が定年になる前に退職したらしい。別の部署に異動しても活躍できず、しかしながら、何の因果だろうか――霞が関への出向を命じられたという。省庁までは不明。
本来名誉であるはずだが、その出向期間中に退職を申し出たということだ。もしや、生贄型の出向だったのだろうか?
現代社会において、感情が表に出るタイプの人間はしんどいのだと思う。彼が今、どうしているかはわからない。ほどほど幸せにやっていることを祈っている。
先ほどの2.3.でいうところの係長にあたる人物だ。この人は、冷血漢と呼ぶにふさわしい人間だった。サイコパスとは書いたが、私は臨床心理学の碩学ではない。仕事熱心で、結果を求めるタイプだったのかもしれない。目的のためであれば何でもする人だった。思い出してみる。
例としては、部下の叱責だ。普段は物静かで、部下の相談や報告を聞いている。が、一定レベルの何かに触れると怒号を発する。
C係長「お前、こないだできるっていったよな!」
若手部下「すいません」
「なんでできねーんだよ」
「……なんとかします」
「言ったな? じゃあしろよ。今週末までだ」
※部下ができなかった場合は、定時を過ぎても何十分でも説教していた。そして、できるまで残業をさせる。
後は、イベントだろうか。市区町村においてイベントを主催する部署はいくつかあるが、教委事務局もそのひとつである。教育○○大会などの厳かな発表会もあれば、○○総合フェアなど若い人や家族連れが多く集まる文化的なものもある。
さて、そのT区にとっての○○総合フェアの時だった。毎年過ごしやすい季節に、とある大公園で実施されるのだが、50以上もの出店が立ち並ぶ大イベントだった。
その年のイベントは、残念ながら雨天だった。初日は少雨で済んだものの、翌日以降の天気は崩れる可能性が高い。社会教育課は、教育総務課・指導課と並んでイベント主管課のひとつだった。
その初日の、夕方~夜にかけてのことだった。教育長を始めとする幹部級職員が現地に残って、明日以降の対応を話し合っていた(ほかの教委スタッフは全員帰っていた)。主な論点は次のとおりである。
□ イベント会場は維持できるのか?
上記3点のうち、2点目がなかなか結論に至らなかった。イベント会場には、テントも備品も野外展示物も並んでいる。風雨によって損傷する可能性があった。そして、2点目の解決手段を提示したのがC係長だった。
彼は、「業務委託している会場警備員がいるでしょう。数十人。彼らにやらせましょう。折り畳み式テント(※鉄パイプではない)の屋根を低くする作業や、野外展示物の収納もです」といったことを述べた。
私は「それは契約内容に入っているのですか?」とC係長に問うた。すると、彼は「緊急事態です。契約内容にあろうがなかろうが、現場の指示に従ってもらわないと」と言っていた。
教育局長は「後で問題にならないか?」と聞いたが、「私の責任で収めます」と彼は返した。教育長に「本当にできるんだな?」と聞かれると、「問題ありません。警備の発注は当課です」と返していた。ここから先はうろ覚えだが、C係長は警備会社の現場責任者と交渉を始めた。
夜7時頃だったか。私がトイレに行く途中で、社会教育課長とC係長、警備会社がロビーで交渉しているのを見た。当然ながら、相手方は渋い反応だった。
私はそのままトイレに行って、また帰り際にロビーを通りかかったところ、「契約切るぞ。ええんか!?」というC係長の声が聞こえた。この人は、気分が高まると大体こうなる。
以下、会話を手帳にメモしているわけではない。思い返してはいるが、やはりうろ覚えである。
「切るといっても来年からね。今年はもう契約してるし。来年は、こちらの権限でほかの警備会社と契約します。それでいいなら、あなたの判断で断ってください。テントの作業OKなら、これから私の責任で指示しますが」
「いや、でも。ちょっとの量じゃないでしょ? テントの数は何十個もあります。それをひとつひとつ、高さを下げていくんでしょ? それはもう――」
「あなたが決めるしかないでしょ。責任者なんだから。この時間、あなたの会社に上司がいるんなら電話で伺ってください」※このあたりから方言になる
「判断ができません」
「毎年、あんたの会社と契約しとるんやぞ。しっかも言い値で。本来なら正式に競争入札せんといかん金額やのに。こういう時のために、うちは権限使っとるんやぞ。官製談合みたいなこと、してやっとるんやぞ。俺らとあんたの会社のためを思って。で、上の人間に電話するか、あなたの判断で決めるかのどっちかや。あなたが決める場合は、契約切られても全部責任とるんやぞ」
「……」
「俺が責任を持つ。あんたが上司に怒られんようにする。後で言っとく。知り合いだから。頼む!」
「わかりました。指示をお願いします」
C係長のこの判断が正しかったのか、誤っていたのか。今でもわからない。
結果だけ見れば正しかった。その夜は雨も風も激しかった。(鉄パイプ式でない)テントを張ったままだと、風雨で確実に潰れていた。テントや野外展示物を片付けるといった作業は絶対に必要だった。それを怠って、一般スタッフを帰した私たち幹部の落ち度である。
手続き的には違法である。正しくない。警備会社をロハで使ってしまっている。C係長のことだから、きっと事後処理はうまくやったのだろう。あの後、彼やその上司が処分を受けたという話は聞いていない。
個人的には、C係長の行いは正しかったように思える。実際、あの場面だとああするしかなかった。組織のために泥を被ってくれたとも言える。ただ、それが未来に繋がる行為だったかというと怪しい。
例えば、テントが崩壊する未来を選んでいれば――教委事務局が「組織として学習」することができていた。それがいい未来につながった可能性もある。
(次part)
自転車史に名を刻む名ビルダーの作で有名だけど数が少なく、めちゃくちゃ高価で中々手に入らない、でも自転車乗りなら一度は乗ってみたいと言われてるモデルがあるんだけど、そのフレームが某オークションサイトで定価の半分以下の値段で売られてて、ちょっと前についつい買っちゃったんだよ。
もんっのすごく高かったけどな。
で、そのフレーム用にコツコツとバーツを集めてホイールも組み上げて、この間乗ってみたらさ、拍子抜けするほどフツーというか、ていうか重いし柔らかいし、まあ形状的に予想出来たけどママチャリみたいなつまんない乗り味でさ、うわ〜ガッカリだな…なんでこんなのが伝説になってんだろ、他のオーナーのインプレも見てみたいなってネット見てたら、ちょうどこのモデルのオーナーが盗難被害届け出してるのを見つけちゃって。
写真見てみると、俺が持ってるモデルとカラーリングも仕様も同じで、なんか汚れ感も俺の思い込みかもしれないけど酷似してる。
盗まれた時期も俺が買った時期と一致してる。
となって、フレームのシリアルナンバー(敢えてどこにどのように打っているかは言わないが)を照会しようとしたら、その人何故かシリアルナンバーを載っけてねえのよ。聞いたところでその番号で合ってますって後出しされるだけだし。
他人の自転車を撮影して勝手に盗難届け出して、あわよくば盗難にあったら発見者に嘘ついて引き取ろうとしてるんじゃね?、と。
それか、むしろこいつこそ盗品を捌いた本人で、金だけもらって品物を取り返してまた出品、を繰り返し無限コンボキメようという算段かもしれない。
フレームのシリアルナンバーを記録しておく重要性を知らなかっただけなのかもしれないし、それだったら返してあげたいけど、でも俺がこのフレームに支払った金を持ち主が全額保障してくれるのかと思うと甚だ疑問。
そんなこんなでその持ち主らしき人に連絡を取ろうかどうかでずっと迷ってるけど、どうしたらいいんだろうな?
返信
https://anond.hatelabo.jp/20231211135150
当たり!
https://anond.hatelabo.jp/20231211185036
え?ビルダーじゃなかったのか…無知が自転車オタクとかイキってすまん…。
kazuhix タイトルと後半関連でなく、乗り味のしょぼさから伝説のフレームの実存自体危うい、あるいは入手したのがニセモノというの可能性は疑わないのかよ。伝説になってるばあい定価などないはず
このブランドの偽物があるって話は聞いたこと無いけど、可能性はあるか?
nomitori まぁまずは警察に相談が正しいんだろけど、このレベルの情報で動いてくれんのかね。もういらないなら、相手にシリアル出してもらって一致してたら、買った金額で譲渡したらいいんちゃう。増田は善意の第三者なんやし
うむ、とりあえず連絡取ってシリアルナンバー控えてるか聞いてみることにするわ。
TRAに混じってトランスという盾を使って女性を叩きたいミソジニー男が多数存在するというのがまず1つ。
彼らはトランスがいかに女性の脅威となるかこちらがどれだけ訴えてもそれを無視し続けることによって自らのミソジニーを正当化している。
そして結論をはっきりさせておくよ。女性には「差別する権利」が本来存在する。そしてそれが家父長制社会によって抑圧されているのだ。
女性は男たちがオナニーしながら夢想するような心の綺麗な美しい存在ではない。そんなものを否定するのがフェミニズムだ。
ホモソーシャルの構成員たちは伝統的な「娼婦か従順な妻」の枠に閉じ込めて「女性はそんな汚いことをしちゃやだやだ!」と駄々をこねているだけなのだ。
女性にとっては、MtFのトランスジェンダーという生き物の実存そのもの、やつらが息をして日々女性の安心できる領域を侵犯しようとしていること自体が女性差別なのだ。
単に安心できる領域を侵犯しようとしているというからダメだということにとどまらない。繰り返すが「トランスジェンダーという実存」そのものが女性性への侵犯であり加害だ。
英語圏のフェミニズムでは”Sex is Binary"というスローガンがある。性分化疾患などの病気を抱えている方々でも彼ら彼女らは最初からはっきりとした性自認を持っていることは常識だ。
トランスジェンダリズムの名のもとに跋扈する変態たちはその原則に違反してエゴを膨らませたモンスターなのだ。
生物学はあなたのご機嫌をとらない。女性の領域は高貴で神聖なものであり、何人たりともそれを犯してはならない。
私達は、その尊厳を守る限りにおいて、私達の神聖な女性性を侵犯する獣を「差別する」権利がある。
ミソジニー社会では、差別するのは男の特権、女たちは男に仕えるか、聖人のように振る舞ってろという規範に縛られていた。これこそ家父長制の呪いだ。
もっとぶっちゃけて言っちゃうけど、私達は「マイノリティ」の中ではパワフルな存在だ。私達に聖人であれと要求するような規範などこの世にない。
どんなフェミニズムのテキストにも「どんな卑しい臭い生き物でも差別しちゃだめだよ!」などと書かれてない。
フェミニズムは抑圧された女性たちのための権利運動だ。汚い化け物に気を使ってやる必要もないし、そいつらのママでもなんでもない。
そしてなによりも女性にも言論の自由があることを忘れた?表現の自由、言論の自由はアニメ絵で自慰行為をしながら死んでいく男たちの特権ではないんだけど。
他の属性だと色々違うと思うが、オタク男性の一部(全員ではない)の場合、特に自民、共産の二択だとどちらを支持しても「肉屋を支持する豚」にはなってしまうと思う。
ただ切られる部位が違い、切られた時の痛みも人によって異なる。
自民支持の場合、切られる部位は主に金という印象、増税や税金・利権の集中により直接・間接的に搾取される、というのが左派の人々が「肉屋を支持する豚」とする所以かと。
一方共産支持の場合は、趣味の部位が切られる、(ほぼ無いと思うが)今の方針のまま政権を取った場合、様々な形で表現規制やそれに類する事が実行されそうではある。
要するに、どっちが痛いか、だ。
昔は表現規制と言えば自民だったが、最近はあまりそういう例は無い様に見える。(特にオタクコンテンツの場合は)
共産(または立憲もか?)の場合は政権を取らなくてもある程度議席を取るだけでも表現規制やオタクコンテンツへの風当たりは強くなりそうな印象がある。
(ただこれはあくまでただの印象かもしれない、どちらかというと党自体より党の支持者がそういうアクションを取っているせいでそう見えるだけという説もある)
経済的な弱者男性なら金の方が痛そうだが、そうでないオタク男性の場合、「金なら別にどうにでもなる」「金で趣味の安定を買えるなら安い」という人は居そうだなと思う。
また、これは肌感覚の話に過ぎないが、立憲・共産あたりの支持者の間では主にオタク男性への侮蔑的な風潮が蔓延していると感じる。そうした侮蔑もまた「金と交換できるか」という観点が有り得る。
自分が常に侮蔑される環境と金銭的な搾取と、どちらがより嫌か、「侮蔑される環境を支持するくらいなら、金銭的な搾取の方がマシ」「侮蔑への拒否が金で買えるなら安い」という人は居そう。
印象としては自民側で切られる肉が金など即物的なものであるのに対し、立憲・共産側は趣味や侮蔑など実存・尊厳に近い部分の肉である気がする。
どちらがより切られて痛いかは人によって異なると思う。
俺自身はどうかというと、金は正直そこまで痛くない、趣味の部位を切られる方が明らかに痛い。何より趣味の損害や被害は金で買えないというのがでかい。取り返しがつかないし代替手段が無い。
ただ実際の所、立憲や共産を自分が支持した所で、そこまで表現規制に傾くかな?と疑っている部分も有る。ただゾーニングや表現の撤去・撤回要求等々、表現規制に類するものは増えるかもしれないとは思う。
また侮蔑的な風潮については個人的な感覚として否定しようがない。こうした侮蔑を支持するくらいなら、金なら安い、という感覚は自分の中には有るなと思う。
ただ、改めて深く考えてみた所、結局自分にとって最も痛いのは「自分の好きな作品を創ってくれたクリエイターや演者が苦しむ事」「傷付けられる事」だなぁ、と気付いた。
これまで起きた表現を巡る炎上にしても、自分が嫌だったのは「表現が規制されること」そのものよりも「それによってクリエイターや演者が苦しみ、傷付けられ、抑圧される事」だったんだと思う。
例えば中身は心を持った女性であるVTuberに対して「乳揺れ」だの侮蔑的なセクハラを投げる人達(言葉を選ぼうよ・・・・)、更に犯罪を誘発だの言ったり、仕事を奪い壊していく人達。
右派は勿論酷いのだけど、こうした炎上の中では左派の人々の言動も意外と酷い物が多く、看過出来ないなと感じる物や、これは明らかに罪の無い人まで傷付けたり仕事を奪うなどの被害を与えているな、という物が目に付いた。
特に今の生活に不満が無いだけに、自分の最も痛い部位はそこであり、そうした理由で立憲や共産を支持するのはもう無理かもしれないと思い始めている。(これまでは選挙では立憲に入れていた)
じゃあ自民かというと、自民は自民でインボイスでクリエイターや演者が苦しめているのでやはり無理。
国民支持でも「肉屋を支持する豚」と言う人は居るのかもしれないが、その場合は是非理由を聞かせて欲しい。理由によってはまた支持を変えるから。
あ、あとここまで使っておいてなんだけど、そもそも「肉屋を支持する豚」という侮蔑的な表現はつかわない方が良いと思うし、
それを使われて尚支持する人はまさしく尊厳という肉を切られても支持している「肉屋を支持する豚」という事になってしまうんじゃないか、と思う。使わない方が良いですよ。
金も恋人もない独身男性からオナニーのネタすらも規制して取り上げようとしてる連中やぞ?
かつて「弱者男性はギャルゲーでヌきながら性犯罪を犯さずに滅びてくれたらいい」と宣った上野千鶴子女史の方がよっぽと情け深いとかどういうことや。
かつて、「加奈〜いもうと〜」っていう泣きエロゲを毎日毎日プレイするフリーター独身男性(34歳)をTVが取材したことがあった(筑紫哲也のNEWS23)
彼は友達も恋人もいないんだけど、ゲームの主人公の妹であり、病に侵されて余命幾ばくもない加奈を本当の妹の様に愛していて、加奈の為に生きようと決意するわけ
ゲームだから彼が現実で頑張ったって加奈は死ぬわけだけど、それでも加奈の為に頑張ろうと奮起するわけですよ
タイガー・ウッズのことはよく知らないけど、金はあるが精神的に満たされてないなら「経済的には貧困ではないが、実存的な貧困に陥っている」という意味では同じなんじゃない?
タイガー・ウッズは立ちんぼ女子と違ってその結果、経済的破綻を起こしてはなさそうだけど(ウッズのことよく知らんから起こしてたらすまん)
追記:ウッズのことよく知らんから、実存的貧困とか関係なしに単に性欲狂いな可能性もあるが
追記2:あ、もしかして立ちんぼホス狂い女も単なる性欲狂いなんじゃないのって話?
以下のブログにおいてホストに高額の金銭を費消する女性のことを「(実存的)貧困」とカテゴライズし、ブコメにおいて否が多めの賛否両論となっている。
「いったいホストに何千万もつぎ込む売春女のどこが貧困なんだよ(笑)」「ここです」。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/somethingorange.jp/entry/jituzonntekihinnkonn
批判の内容としては、「貧困って言葉を金銭的な貧困者から奪うな」「それは依存症だろ」「キャバや風俗のために借金する男性にそれを言ってきたか?」などなどだ。
歴史は繰り返すとしたのは、過去、自由という言葉にもそういった歴史があったからだ。
現代においては、自由は消極的自由と積極的自由に区別されている。そしてこの二つは非常に相性が悪い。
国家・権力に干渉されない権利のこと。具体的には信教や身体生命、経済活動の自由などが該当する。
自己実現できる権利のこと。したがって貧しくて自己実現できない者に対する生活保護やアファーマティブアクション、障害のために社会参画できない者のための各種施策も自由の実現の範疇に入る。
元来自由(liberal)というのは消極的な自由の意味だった(アメリカ憲法などからもそれは明白)。
何故かというと積極的自由を実現しようとすると、どうしても「理想的な人間」を規定する必要があり、国家によるお仕着せ(パターナリズム=家父長主義)をせざるを得ないからだ。
これは消極的自由を重要視する人からするととても認められるものではないため、消極的自由を信奉する人たちは積極的自由論者たちを「反動(反自由主義者)」などと攻撃した。
そこで、積極的自由論者たちは「私たちの考えるものも自由の一部なんですよ」と主張して現代に至るというわけだ。
自由主義者として有名なハイエクという学者は、これを「彼ら(積極的自由論者)は自らのイメージが悪いことを嫌って私たち(消極的自由主義者)の言葉(自由)を奪った」と表現している。
現代では消極的自由も積極的自由も、「自由」にカテゴライズされることが多い。特にアメリカなどでは「リベラル」というと後者が優勢で、ハイエクの危惧した「言葉が奪われ」た状態にあると言って良いだろう。
そこで、ハイエクなどの系譜にある人は「古典的自由主義者」や「リバタリアン(リバタリアンはハイエクの主張とかなり異なるが)」という言葉を好んで使っている。
そうなった場合、現在的な意味での貧困(経済的な貧困)への救済へのリソースは減らざるを得ないだろう。
こういった女性は「困難女性」として法や事業による救済対象となっている。話題となったColaboによる都の事業はそのモデルケースだ。
であれば風俗で借金しまくってる男性も同様に救済対象とするべきだと思うのだがこれまで無視されてきたようだ(少なくとも若い女性ほどには問題視されていない。「困難男性」などで救済の対象になっているだろうか)。何故だろうか。