はてなキーワード: 大衆化とは
俺は個人的にはね、邦キチは映画をサゲないのが良いと思う派なわけよ。
名作も迷作も世の中がそう勝手に言っているだけと言わんばかりの強烈な邦キチの熱量に部長が適宜突っ込むという作劇が絶妙なバランスで映画自体を貶さないで済んでいると思うわけよ。
あと、あんな清潔感のある同衾への動線ある?押し入れから枕だけ取り出してswitchと一緒にやってくるみたいな。乾いているわけではなくしっとりもしていない青春の空気感俺もう怖いよ。
なんだっけ (( 閑話休題 ))、そうそうXで燃えるほどでもなく話題になってたインベスターZ(インベ)の話ね。良い宣伝だよね。WinWinだよね。
いま公式のポストで該当回読めるから読むと良い経験になると思うんだけど、これ流れがすごい怖いんだよね。
まず、ラーメンおごってもらえると思って部活の先輩についていったら、観ろって言われて「感動作、大ヒット」ってポスターに書いてある映画を"見たくもない"って自分で言っておいて、自分で金払って観始めるんだよね。
もうここが怖い。ナチュラルにその集団の中の指示に従うという刷り込みが終わってる。見ないとラーメンおごってやらないぞって言うエクスキューズ(言い訳)も準備してある。
怖い怖い。映画観る金でラーメン自分で食えよ。もうその集団の中のイベントに参加するためには身銭を切る必要があるって意識に上ることすら無くなってる。
で、まあ映画を観始めてクッソつまんねぇなあって思うこと自体はアリだと思うわけよ。ここを否定する映画好きはまずいないと思う。
ただ、インベ作中の主人公が「客をバカにしているとしか思えない!」みたいな感想に、あれ?みたいな違和感を感じると思うのよ。
で、映画館で席を立ってしまう。まあこれも個人的にはアリだと思う。トイレで席立つ人を想像しなくても、まあ、割と映画祭とかでエログロの時って席を立つ人、いるよね。
俺個人としてはXでの風潮とは別で、観たくもない映像を押し付けられたときに見ないという選択肢を取るのは決して映画嫌いを意味しないと思ってる。
映画って体験として強烈だから、トラウマが刺激されるとか全然あると思う。
感情を揺さぶる力が映画にはあると思っているし、だからこそエンタテインメントとしてこの感情の揺さぶられ方は嫌だと言って拒否するのはアリだと思ってる。
だから、安心してほしい。少なくとも俺は映画の途中で観るのを止める人が映画好きを公言してても別に普通のことだと思う。
ただなあ、インベの席の立ち方って「こんなもの最後まで観たらバカになる!」とか言って席を立つんだよね。
そのあと、実は何分で途中で出てくるかが、その集団(投資部)恒例の賭け事の対象ってのは、まあそういう部活の謎の伝統あるよね、みたいなのは判る。
ただね、その後たぶん、ん?って思うセリフがちょくちょく作中の人物から語られるのよね。
この賭け事の伝統っていつからやってるんスか?あー、映画が大衆化した戦後のことだろう、とか。
(5分でツマラナイってわかるヤツがレコードタイム18分っていうのが、微妙にリアルでちょっと面白いけど。宣伝10分+本編5分+退出3分だとありそう)
まあ、時間の無駄だと思った後、惰性でみるこた無いんでは?ってのは、その通りだと思うわけよ。
いやー、映画は最後にどんでん返しがあるかもよ?という意見があるのはわかるけどさ、ソレ、ホントに有言実行してる?とも思うのよ。
あー、一本の映画だとあるかもしれないけどさ、アイアンマン観てこういうアクションものは肌に合わないかなーと思ったとしてさ、いや経験になるしそこは映画好きならマーベルシネマティックユニバースは全部観てから語るべきでしょ、とホントになってるかなーと。
今期1話で切ろうと思ったアニメはちゃんと完走してから1話を語るようにしてますか?という。
もちろんね、エンドレスなエンドレスエイトを実況板に張り付きながら見た経験は一生の思い出にはなっているけどさ、それを強要できるかな、という。
そうそう、で、インベの話ね。
投資部に入るものはさっさと席を立たなければならない、というあたりが、カルトっぽいのよ。
選択肢の錯覚に近いんだけど、ここまでで既にインベの世界観に共感する読者には刷り込みが終わってるわけよ。
大ヒットするような感動作は、観るとバカになるような映画だ、大衆化した映画なんてものは、投資家が観るようなものでは無いっていうね。
ソコを前提としたうえで、つまらないものをつまらないと思いながら最後まで観ることを何の価値もないと断ずる。
もしかしたら最後に面白くなるかも、とか、挽回する可能性は低い、ではなく、ハッキリ言いきる。
株価の話で損切りの話もしたうえで、金よりも時間が大事と気づいたお前はテストをパスしたと言う。
作劇としても大変に巧みで、「いやいやそうは言っても最後の最後に面白くなるかも」という反論を「それっていずれ株が上がるかもと思って塩漬けしてるのと同じじゃん」と"自分で"気が付けるようにしてある。
インベの主人公も、自分で気づいたという点を評価してもらっている。
インベの主人公は、なんだかんだと言いながら、全て自分で行動している。
自分のお金で映画のチケットを買い、自分で映画を観て、自分で映画を途中で観るのを止め、その行為を「お金より時間が大事とオマエが気が付いた」と評価される。
誘導はされているけれども強要はされず、解説はされているけれども自分で気が付いたことにされており、不満点は相手が聞いたうえで断定的に回答する(「過去は忘れる」)。
ホモソーシャルな部活動の体だからそこまで違和感はないけれども、これ、同様の体験を大学入学時に魅力的な先輩からなされたときに、それってカルトではって気が付けるか俺には自信は無い。
しかもよ、背景にはうっすらと自分は凡人とは違うっていうエリート意識というか、投資家意識みたいなものがあるわけよ。
ラーメン屋に誘うというフレンドリーな関係性、映画館で途中で席を立つという"他人とは違う"体験、損切りという部内で通じる単語を通じてグループ内の価値観を共有していく。
しかもこれ、漫画としても同じ構成になっていて、漫画というなじみのある媒体で、大衆の感動するような映画には流されない俺というちょっとしたアルアルを追体験させて、損切りという価値観を共有している。
ココに対して、「いやーその価値観はこれこれこういう理由で狭量だよ」と伝えても、おおむね反発を受けるか、わかってないヤツ扱いされると思う。
しかも大変に良くできた作劇なので、漫画を読んでなるほどと納得した人は、映画を最後まで観る派に対しては「ああ、こいつは損切り出来ない投資家に向いてないヤツなんだな」と思わせるようになっている。
俺はカルトの脱退のさせ方は詳しくないのであんまり的確なことは言えないんだけど、あの漫画に納得する人を否定したり馬鹿にしたりするだけでは、少なくとも価値観を変えることはできないだろうな、と思う。
そして、インベスターZという漫画の作劇は、少なくともあの映画の損切りの回は、とても怖いと思った。
実は同じくらい、今回の件で映画を最後までみる経験派も"危うい"と俺は思っている。すごく配慮したコメントしている人もいる一方、そうでない人もいるから。
映画は数あるエンタテインメントのうち一つでしか無いので、それを重視しない人生もまた、俺は尊重したいと思う。
サタンタンゴを観た人類しか得られない経験は間違いなくあるけど、それを貴重な経験だよって誘う勇気は俺には無いから。
あと、最後まで観る強硬派は、MCUのエンドゲーム以降の観る順番を教えて下さい。ワンダヴィジョンくらいからついていけてないです。お願いします。
勘違いしないで欲しいが、「女」という性そのものが悪いという話はしていない。
現状の「女の文化」(つまりそれはジェンダーバイアス社会が生み出したものでもある)に問題があるという話をしている。
だから、「女」という性でも、「女の同調圧力がきらい」という個人には全然問題はないし、そういう人は同じような批判を女の側からしているのをよく見る。
しかし、そういう「女」は、残念ながらびっくりするほど女の中で発言権がない。SNSでいうなら、まったくRT等はされない。(どうやってそれを見つけるか? エコーチェンバーに籠らず、個別の問題についてキーワードをまんべんなく検索してみるという地道な見識の広げ方をしていればいくらでも見つかる。)
つまりここが問題なのだ。現状の「女」というコミュニティがもつ同調圧力、そこで無批判に培われるある言論の傾向、そういうところに明らかに問題がある。
「女」の自称リベラルが差別を広げる問題の原因は主に以下のようなところにある。
これらは、「女」という性とイコールではないが、傾向として明らかに現状の「女」文化の影響があるといえる問題点である。
結果として、「女」の関心に比重がおかれるようになった現状の「リベラル」運動は、歴史を忘れた差別的な主張が平気で通る有様になっている。
これらは一例でしかないが、このように、人類が歴史上培ってきた「弱者の保護」を全部ひっくり返してゼロベースで書き直すような暴論を平気でやるのが昨今のSNSを中心に広がる「リベラル」運動の問題である。
一方で、男社会だった「オールド左翼」にももちろん問題はある。(学生運動の中で「女はサポート」として炊き出しや繕い仕事をする役目を与えられていた例など。)しかしこれはまあ、世代交代とともに消えつつあるものでもある。
繰り返すが、現状の「リベラル」の問題が「女」の参画によって出てきたものであるということは、「女を排除すれば良い」ということをもちろん意味しない。
ジェンダーバイアスをなくすということは、「女の文化」というものとも戦わなければいけないということである。
「女性誌」を見よ。ファッション、コスメ、芸能、恋愛、占い。そんな話題でページが占められている。
「少女漫画」を見よ。主人公は美少女でなければならず、また美男子と恋愛をしなければならない。少女がただ仕事や部活に精を出すだけの漫画は、少年漫画と違って存在を許されていない。
SNSを見よ。「女の話題」は芸能人やら子育てやら「推し活」やら。ただ学問や仕事の興味をつぶやくだけの女は、いても「女コミュニティ」からは存在を無視される。
「女」が「女」(ジェンダーバイアス社会で、無知な側という地位に落ち着いて生きた「女」)であること自体を否定し戦わない限り、本当のジェンダー平等なんてある得るはずがないのは、合理的に考えれば明らかである。
「有害な女らしさ」とでも言おうか。
「価値観のアップデート」とは、これまで人類がひとつひとつ改善してきた差別問題もすべてなかったことにして、ガラガラポンで「弱者ランキング」を一から書き直すことなのか?
そんなわけはない。女性だけが不当に貶められてもいけないのと同様に、今まで弱者であったものを突然弱者でないと見なすような暴論もあってはならない。
現状のリベラルの問題をより一般的にいうならば、大衆化、ファッション化(歴史の忘却)、無知化(非学術的な感情論の横行)が急速に進んでいることにある。これは(無知な側という地位の)「女」文化を、それ自体進歩させずにいきなり「リベラル」の優先順位の上位に上げてしまったことからくる問題に他ならない。
性差別は、他の差別問題と排他的に選ばなければ解決できない問題ではない。「今は女性問題が話題だから」で他の差別問題を軽視するような「リベラル」などあってはならないし、こんな状況を野放しにしていては、いずれ全体的な問題意識は、性差別含め悪化する方向にしかいかないだろう。
願わくば、「リベラル意識の普及」が「社会全体の知性の底上げ」という意味になって、「バカに合わせる」方向には行かないで欲しいものである。
予言しておくが、こんな言葉は「リベラル」には届かないだろう。
彼らは痛いと思ったら無視するし、どこか隙が見つけられたと思ったらそこをせめて言葉尻を取り誤摩化すだけだろう。
「女の問題を口実に「部落差別」や「地方差別」「子供の人権無視」を肯定するな」と言っているだけなのに、彼らは自分のそういう傾向には一切反省をしようという考えをもたないだろう。
テレビとね、おなじになったんですよ。
一通りのネタは手垢まみれになり、大資本による豪華なテンプレネタが持て囃されるようになった。
何となく昔の自由な空気は残ってるけど、そこにあるのは目新しい自由さではなく、昔あった自由さのリバイバルでしかない。
未開の荒野を我先にとギャロップで駆け抜ける奔放なノリの再現を求めて、保護区画の中で時限性の走行権を役所から買って駆け抜けているような。
ネタも全体的に加齢臭がしてきたっていうか、当時「10年前に流行ったよね」という感じだったのが、いまやそこから20年経って、30年前に流行ったネタ、つまり今の若者は一切知らない話で盛り上がってる。
本当に10年前に流行ったものは、その頃にはもうネットですっかり幅を利かせた老害達が世代断裂を生んで「今時のつまらんコンテンツ」として扱われてた。
もうね、世界が完全に断絶されているわけですよ。
なんとなーく薄く存在したネット上の同世代間が失われて、ネット文化の中にも世代が作られるようになった。
ネットが持っていた最大の強みって、老若男女が同じ空間でワチャワチャしてる感じだったと思うんですが、それはもうない。
なんとなく同じぐらいの年齢層同士でつるんで、なんとなくその世代で流行った話をしているだけ。
たとえばROやUOの初期にあったような、70代と10代が全く同じ話で同じように盛り上がってる感じがね、もう今のネットにはね。
Wikipediaにはブランディングされライト化、大衆化、陳腐化してきた経緯もちゃんと書いてあるじゃん
世間からの「個性的でなければいけない」という外圧により、「無理して個性を作らなければいけない」と焦る若者が増えているとして、その理由を「カルチャーシーンから“メジャー”が消えてしまったから」だと分析し[26]、「属するだけで安心できていたメジャーが消えてしまった今、彼らが探しているのは、要は“拠りどころ”なんだと思います。自分が属しているだけで、楽しいと思える場所。それが、オタクという属性です。(中略)推し活動をしているオタクはすごく輝いているから、自分もああなりたいと切望する。もしそうなれて、オタクという属性を手に入れられれば、結果的に自分は“個性的”にもなれる、と捉えている。だから正確に言えば、“オタクになりたい”んじゃなくて、“拠りどころになりうる、好きなものが欲しい”だし、それは“個性的な自分でありたい”だし、一番正直に言うなら“
原田曜平は、非常に多くの若者たちが、自分のことを「オタク」と自称するようになっていることを挙げ、本来であれば、サブカルチャー好きを指す言葉である「オタク」というワードが、メジャーなカルチャーにまで使われるようになってきていることに驚いたと述べている。また、話題になった作品だけをチェックしており、オタク知識は総じてそう深くない「エセオタク」が増えており、濃度の高いオタク(ガチオタ)からは「にわかオタク」と揶揄されることもある[28]。
また、日本政府が観光資源の一環として、国策で「クールジャパン」戦略を行うようになったのも2010年代からであり、迫害から一転し、おたく文化は政府お墨付きの“体制側”の文化になったとも言える。
芸術性重視はともかく、「文章表現そのものの持つ可能性を追求した」なんて前提はそもそも無いぞ もちろん文章表現の芸術性も基準ではあるが
そもそも純文学は日本文学独自の概念なので海外の作品は含まれない
近代文学が発展していく中で、わかりやすく大衆化していくことを拒んだ作家たちの歴史、の先に位置する作品群を純文学と呼んでいる
ただ純文学の流れの中でSFみたいなジャンル小説の手法を取り込んでいったこともあって、じゃあそれは純文学なの?違うの?ってのも論争を呼んできた
結局は批評家の共通認識や出版レーベルによってカテゴライズされてる現状
【2】と【4】の解像度が低い
その中で【2】に反論するなら性的な表現が問題になるときは性嫌悪が原因ではない
性被害を受けた人間のトラウマや嫌悪が一番強い根拠になりがちだが、彼女らは普通に描かれた制服の少女や女性を見て嫌悪を感じるだろうか?
その前に性的に描写された表現が存在し問題視されていると認められないのが歪んでいる、「未成年を性的に描写したものを社会が許容すべきでない」、未成年でなくても「女性の身体を性的記号化した状態を普通としてはいけない」が本当の理由である
アンフェはすっかり忘れているが、全く性的な表現を狙ったわけではない蘇民祭のポスターは性的に見えすぎるという理由で取り下げられているし、電車の同性愛の啓蒙広告で下着を見せたイラストはリベラル側の思想運動だったのにも関わらず誰にも反対されずに取り下げられた(両方とも成人の表現である)、男性の消費が許されているなんてことは全くない
意図せず性的になってしまうということは男性でも女性でも起き、性的な記号はポルノメッセージでなくても受け入れられない、女性ではさらに性的な表現を普通のものとして使ってしまいがちなので炎上が起きる
成人の身体をどこまで性的に扱って良いかは議論の余地があるが、そのときに考えとして決定的に違うのが「性的な表現として狙って演出し、過度なポルノにならない範囲に収めているかどうか」で、男性の表現は当然そうなっているのに、女性の表現は「普通の状態を性的に描写、消費すること」が基本的に問題のトリガーになっている
なぜ男子高校の不自然な腹チラや短パンがないのかという疑問が例のPRにはついていたが、二次元においてキャラクターが自然に露出している範囲の差はあまりにも大きく、性的に扱われる差が存在し、男性キャラクターがTPOに関係なく露出していたら誰もが不自然だと感じるからである
男性の同等の表現を持ってこようとすると女性向けにしか存在せず、女性向けのサービスを含んで不自然な露出をしたイケメンは美少女より圧倒的に受け入れられない
よくポルノですらないものに文句をつけられるのが気に入らないという発言者がいるが、ポルノではないものに肉体的、性的な表現が使用されているから問題になるのであり、前提として美少女を性的に描写することが普通になってしまっている感覚が間違っていると言える
ちなみにここから【4】に話を繋げられるが長いので簡略化するとオタクを大衆化した深夜アニメ作品のほとんどは意識的に性的な記号があえて排されているものが多く、男性向けアダルトの文脈を残す萌えとは異なる文化を作っている、萌えが普通になったと認識しているオタク男性は萌え文化の大衆化のメソッドを全く通っていないので、古典的な萌え絵から性的表現を消した深夜アニメ美少女の登場から京アニ的美少女の変遷をあまり認識していないらしい、ただ深夜アニメが流行ったと思っている
ロックは音楽性に基づくジャンルの一つで、反体制みたいなムーヴメントはたまたま時勢が重なって、両者が両者をパフォーマンスの中に取り込んだ感じじゃないのかな。
でも、ロックが大衆化してメインストリームになったことで権威性を持ってしまって、反体制のスタンスとは相容れなくなった。
で、ロックっていう音楽性自体マンネリ化してきたので死んだと言われるようになった。
ロックに限らずカウンターカルチャーの宿命だと思うんだけど、カウンターである限りは既存のものをぶち壊すムーヴが取れるんだが、成熟してメインストリームになると逆にぶち壊される側になっちゃうのが悲しいところだよね。
今時オタクは貧乏人の道楽だと揶揄するバカが一部いるが、彼らも低水準社会の犠牲者のレイシスト予備軍。
僕の主観が入るが、オタクになる人は一定確率で「貧乏人を人と思うな」のマインドをわきまえている。
庶民いじめが好きなお気持ち勝ち組な者ほど「変わり者にやさしい社会」を是認するので、オタクになりたがる。
類は友を呼ぶでオタクとは本質的にそういう集団なのだから、オタク嫌いを静かにさせたければ「弱者蔑視容認な低水準思想を改めること」が最善策になる。
尤も、そうすれば益々、オタクの人は減って衰退するだろう。「貧乏人いじめ好きが差別大嫌い」という発想自体が矛盾しているのだから、本来そんな集団は存在しえないのが正しいのである。
こんな人間を遠ざけたいなら、やるべきことは決まっている。
XというSNSの特性をわきまえないツイートで炎上した松川るい議員のような空気を読まない行動をさせないなどの本人の居場所を奪うようなオウンゴール行為をさせないことは言わずもがなだが、より根本的なのは社会コモンの文化の整備だ。要するに大衆文化の復活である。
だが殆どの人がこの事実に気付いていないので、アクションは遅れ、近い将来「人をいじめてみたかったから」とオタクになる者が出てくる可能性がある。
因みに、日本のオタク文化のうちアニメや漫画やゲームや鉄道文化(撮り鉄含む)系はルーツは左派文化で、具体的には学生運動の当事者やそれにあこがれていた人的な人々が初期にその文化を作ってノンポリな多くの学生などの若者がそれを大衆化させた経緯があるらしい。渋谷系文化や秋葉原文化など、貴族気質が絡む社会との軋轢は日本のみならず世界中で枚挙に暇がない。
現代的な意味で賢い親は、元より「属性変更不可能なそれに絡む差別に対する批判的思考力や問題解決力が高いので結果的にオタクにならない子育てになる」が、まかり間違って子供がオタクになりたいと言っても、説得して遠ざけるか、最低でも弱者の誰かを見下す可能性の低いそれこそガジェットオタク等にさせたがる。
バレエ講師のAV出演バレにともなう騒動(実態としてはセルフ炎上マーケティングと推測する)は、芸能人の浮気バレと似たようなものだと考えている。広末涼子を例にすればわかりやすいだろう。浮気が世間にバレてテレビCMなどの契約が打ち切られたが、これを擁護する意見はあまり見られない。一方で、スポンサーに対して「なぜ契約を打ち切ったのか?」といった非難の意見もまた見られない。広末涼子とのCMを打ち切ったキリンホールディングスの広報は「商品の価値を伝えることができないと判断した」と述べているが、企業の広報戦略を考慮するにあたって至極妥当な経営判断だろう。
また、契約の打ち切り自体が適法であることは言うまでもない。雇用契約を結んでいるのなら民事上の不法行為だけを理由に解雇できないが、広末涼子とCMスポンサーが結んだ契約はあくまでも業務請負契約だからだ。契約の詳細については推測の域を出ないが、タレント本人のブランドイメージの毀損があった場合に契約の取消しを可能にする事項があっただろうことは想像に難くない。
件のバレエ講師(兼AV女優)とバレエ教室の間の契約でも同様のことがいえる。バレエ講師とバレエ教室の双方で契約の継続や打ち切りの自由があっただろう。バレエ講師は来月のシフトを勝手に決められて指導日を無しにされたと述べているが、業務請負契約だからこそ可能な契約変更だ。雇用契約だったならばこうはいかない。
AV女優が子供にバレエを教えたらいけないのか 【https://anond.hatelabo.jp/20230628114724】
私自身の考えは述べ終えたので、上記記事の主張に対して意見を述べていく。まずは、タイトルに対してだが、元記事において『私は彼女がバレエを教えても良いと思う』と結論を先に述べているが、それに関しては私も同意見だ。そもそも、バレエを教える権利を侵害することなど誰にもできないからだ。AV女優が自らバレエ教室を開いて子供に教えることだって自由に決まっている。もっとも、すでに述べた通りバレエ教室がバレエ講師を選ぶことも自由なので、バレエ教室側から反発を食らえば講師が仕事を失うのも当然のことだと私は考える。
そういう意味で、性産業に従事する先生というのは、(子供にAVを見せろという意味ではなく)そういう人もいる、という理解をする良い機会なのではないかと思っている。
これには私も同意見である。ちなみに日本の存命人物で、最もその思想を体現している人は壇蜜だと考える。ヘアヌードモデルや成人指定映画に出演した経歴を持ちながら、NHK高校講座で講師役を務めたことがあるからだ。とはいえ、AV出演した経歴を持つ人で該当する人は思いつかないので(単に私が知らないだけかもしれないが)、社会全体が性産業を忌避する風潮はまだまだ払拭できていないのだと思う。
個人的には、性産業から政治家になる人が出てきたらいいのにと思っている。官能的表現をふんだんに盛り込んだ小説を書いた元東京都知事が政治家になったのは半世紀も前のことだというのに、未だに性産業が政治に力を及ぼすに至っていないことには残念だ。政治力の欠如が、当事者を無視したAV出演被害防止・救済法を生み出して、かえってAV俳優を苦しめていることに繋がっているのだろう。
最後に、このAV女優がバレエ教室が舞台のAVを撮った事を「バレエを性商品化しないで!」と怒っている人もいるようだが、正直学校やオフィスが舞台のAVがこれだけ出回ってて、そっちに従事する人の方が圧倒的に多いのに、何でバレエだけ怒るの?としか思えない。
非難の声は多いがバレエを性商品化したこと自体の反対はごく一部だと思う。例えば新体操選手やシンクロ選手がAVに出演する(という設定?)ことが多々見受けられるが、大抵は元選手であり現役の選手ではない。もしも現役の選手がAVに出演してTwitter等で競技の風景を無断で公表したら、実在する団体のブランドイメージを毀損することになって非難を受けることだろう。件のバレエ講師が炎上した主要因はそこにある。AVによくある『元選手』等の肩書ではなく現役を名乗ったことと、実存するバレエ教室を匂わせていたことが炎上につながったのだろう。
ただ、彼女は刑事罰になるラインを見極めた上で炎上マーケティングをしているので、忌避感を抱く人も言語化するのが難しかったのだろう。バレエ教室の名前やロゴを出していたら商標権の侵害だし、バレエ教室に通う生徒の顔を写したら肖像権の侵害だ。そうしたあからさまな違法行為を避けて、民事上の損害賠償請求になるかどうかのギリギリで広報活動をしていたので、非難をするのは難しいのだろう。さながら芸能人の不倫騒動を無関係の一般人が語るようなものだ。民事上の問題は当事者でないとわからないので、門外漢が語っても的外れな意見にしかならない。私自身も面白いテーマだと思ったから長々と意見を書いてしまったけれども、当事者にとっては頓珍漢な意見でしかないだろう。
学校やオフィスが舞台のAVは多々見受けられるが、実在組織名を使った例はおそらくないはずだ。現役の大学生を肩書にしたAV女優は大量にいるが、やはり実際に大学名を商品パッケージ等でアピールした例は見受けられない。AV女優の紗倉まなは高専在学中にAVデビューしたことで有名だが、高専出身であると公表したのは卒業してからだ。デビュー時は工業系の専門学校とぼかした表現をしていて高専生であることすら隠匿していたのだ。デビューしてすぐに高専生であることが知られてネット炎上して高専の教師にまで知れ渡ることになったが、紗倉まな本人は在学中はひたすらAV出演を隠し通したという。紗倉まながAVデビューしてすでに10年が経つが、やはり今でも学校や職場にてAVの仕事も兼ねていることを公言できない風潮は続いているのだろう。
とはいえ、性産業に対する社会の忌避こそが性産業従事者の高収入につながるという一面を否定することはできない。峰なゆかは自身のエッセイにて、もしもAVに対する偏見がなくなったら、学生や主婦が気軽にアルバイトとしてAVに出演するようになりAV出演による稼ぎは最低賃金近くにまで落ち込むだろうと述べている。そんな社会では性産業が大衆化・低コスト化して、性産業に対する魅力は作り手側にとっても利用者側にとっても無くなってしまうだろう。そう考えれば性産業を必死になって忌避している人の存在も、性産業の価値を高めるには必要不可欠といえよう。性産業を忌避することも魅力を見いだすことも表裏一体なのだ。
せめて著作権とかの話を問題にしないと、「好みのイラストを描いてくれる絵師が学習されて消費されてる」で問題提起するのは筋が悪すぎると思わんのか?
先人の工夫をパターン化自動化して大衆化するのってごく基本的な工学の態度だからそこを否定したら現代社会で生きていけないだろ
絵師に近いところで言っても、例えばお絵かきソフトで色んな筆をえらべることについて「アナログな絵筆職人の仕事が消費されてる、デジタル絵はモラルがカス」って言ってないと主張として成立しない
それか素直に「AI絵ってなんかムカつく。なんか…ムカつく!」って書け。お前の気分の問題をまるで客観的に見ても問題であるかのように書くからおかしくなる
作品作れない、面白い語り出来ない、流行りのアニメでワイワイも出来ない、つまらなくて誰にも相手にされてない人が最後に縋るのが「お行儀」というだけの話なんよ。仕事できない奴がマナー講師やるのと一緒。
ほらね、ブコメにいるお手本みたいなやつ
(オタクとして)評価されるためにお行儀をよくするという発想が意味不明
趣味を楽しむのに評価なんていらないし「趣味を楽しむためにマナーがいる」という考え方のほうが自然だと思わない?
そして仲間と盛り上がるためにマナーが邪魔だという感覚は過去のオタクが忌み嫌ってきたDQN(死語)と性質が同じ
ここまで明らかなのにこいつらは自分がオタクだという自認を譲らないし、我こそがオタクだという顔でコンテンツやオタク文化を語り、自分が大衆化したオタクの当事者そのものなんだと認めることをしない、元増田が言う通りオタクがアイデンティティ(笑)だからね
褒められたり認められたりするためにオタクをする、アイデンティティがオタクしかないという存在のイメージがどちらかというと、批判されてる側のオタク趣味が大衆化して群れるようになった有象無象のオタクが生み出した概念だからそうじゃないオタクにとっては何言ってんだこいつとなる
そうじゃないオタクはそもそもコンテンツにハマることで周りとの差異を認識して、他者との異質性や隔絶を感じることから自分ってオタクなんだなあと認識する段階を経ているので、評価、成功体験、アイデンティティという他者との関係や社会から分けられる属性を前提とした単語の全てにズレを感じるし、群れたり仲間と盛り上がるためにオタクであること、その中で成功するため?評価されるためにオタクである世界観が増田自身の吐露であるとしか感じられない
なぜ「お笑い」は右へ行くのか
https://anond.hatelabo.jp/20230408014727
これに関しては自分にも「たぶんこうなんじゃないかな」という予想はあるが、この増田とはわりと根本的と言っていいところから認識に違いがありブコメに収め切るのはしんどいので増田に書く。
まず第一に、お笑いが右に行っているという認識自体に疑問符が付く。実際、吉本と維新は距離がかなり近い(元増田では吉本が自民党とべったりと書かれているが、これは自民党内でも特に維新に近しい安倍晋三や菅義偉がトップだったゆえにそう見えただけで、直接距離が近いのは自民ではなく維新だろう)ものの、これに関しては右と左で語るよりも大阪と東京で語ったほうがいいように思える。要するに、維新は「大阪」というアイデンティティに訴えることで大阪において盤石の支持基盤を獲得しているし、大阪の吉本芸人たちもこの大阪アイデンティティに呼応している。
対して、この大阪アイデンティティを離れてもお笑い界全体が右傾化しているのかというと、自分の感覚としては別にそんなことはないんじゃないかと感じている。そもそも大半の芸人は炎上リスクのある政治的話題に首を突っ込みたがらないし、元増田のブコメでいくつも指摘があったように左派的立場を表明している芸人も複数存在する。ほんこんが積極的に右派的発言を繰り返すのが他の芸人から強く支持されているという様子もあまり見られない(むしろ、白眼視されている感すらある)。
ではなぜお笑いが右に行っているという認識が発生するのか。ひとつには前述した吉本と維新の距離の近さがあると考えられる。別の理由としては自分と全く違う意見は印象に残りやすいというのも挙げられる。なぜお笑いは右へ行くのかという疑問を呈したのは坂本龍一だが、左派である坂本龍一からすると芸人が左派的発言をしていてもまるで気にならないが、芸人の右派的発言は強く印象に残ったのではないか。右派的発言をしたのが松本人志のようなお笑い界の代表的人物の場合、実際のお笑い界全体の傾向とは関係なく全体が右に寄っているように見えてしまうというのもあるかもしれない。
ただ、ここまで書いておいてなんだが、お笑いが全く右に行っていないかというとそうでもないかもなとは思っている。正確には、お笑いが抱える本質的特徴ゆえに特別にお笑いが右に行っているということはないだろうとは思っているものの、世間並みに右に行ってはいるだろうなとは思っている。
元々ノンポリや無関心層だったのにあっという間に右に行ってしまうことが近年多く観察されるケースが存在する。それは、定年退職等で時間に余裕ができた結果インターネットに触れる時間が増えた高齢者である。Youtubeでオススメされる中から興味を引く動画を辿っていくと、やがて虎ノ門ニュースやその他ネトウヨ向け動画に行き着く。そして、免疫のない高齢者はどっぷりとハマってしまう。
当然お笑い界にも同じようにネトウヨにハマる人物は出てくる。その代表例がほんこんなのだろう。
ここで疑問として浮上するのが、なぜネットで政治にハマると決まってネトウヨになりがちなのかということだ。なぜYoutubeの政治動画やまとめブログの政治エントリはネトウヨ向けばかりなのかに言い換えてもいい。
自分はこれを面白さの差だと考えている。左の言説はつまらない。対して右の言説は面白い。
元増田に「文化や価値観や道徳の面では左派が強くなっており権力者側である」とあるが、権力という言葉の使い方が比喩的すぎるという点を除けばそう外した認識ではないだろう。現代の(国際)社会は平和、自由、平等、人権、といった普遍的価値を尊重する方向性へと進歩を遂げてきた。だから今では奴隷制は否定されるし、女性や貧乏人にも当然に選挙権があるのである。我々が部外者であるにも関わらずロシアのウクライナ侵攻や中国のウイグルやチベットといった少数民族への迫害を非難できるのも現代社会は普遍的価値を尊重するからだ。もしもその前提がなければ、中国の少数民族迫害の件であれこれ言うのは内政干渉ということになってしまう。
一時的な揺り戻しこそあれど一貫して普遍的価値を尊重する方向へと進歩を遂げてきたのが人類の歴史であり、そして普遍的価値の尊重を中核的価値観とするのが左派である。そうなるとどうなるか。左派の言説はただの常識的なお説教になってしまうのだ。
社会的立場の高いところ、つまり大新聞や地上波テレビなどの既存マスコミであれば常識的であることはむしろ好ましい。しかし、とにかくネットで再生数や閲覧数を稼ぐということを目指す上では、つまらないものはゴミだ。
よく小説の宣伝文句に「最後にすべてがひっくり返る」だのなんだのといったものがあるが、ネトウヨ言説にはコペルニクス的転回というかパラダイムシフトというか、そういった類の面白さに満ちている。
例えば、「これまでの常識:日本は太平洋戦争で朝鮮半島を侵略した加害者である」に対して「真実:韓国は捏造された被害や解決済みの問題を蒸し返し続けて日本にたかっている」が提示されるというのは、従来の加害ー被害の関係性が正反対に逆転するものであり、目が覚めるような面白さがある。自分も子どもの頃オカルト番組の「実はアポロは月に行っていない!」という内容を見てワクワク心躍らせていたが、それに通ずるものがあると言っていいだろう。
しかもこれは単に面白いだけではない。ネトウヨ言説においてほぼ必ず語られるのが既存マスコミや教科書、教師への批判だ。ネトウヨにハマれば、「世間の連中はマスコミや教科書に洗脳されて間違った常識を信じ込んでいるが、自分は真実を知っている」という圧倒的情報強者感覚を得ることができるのだ。これは実に気持ちがいい。専門家のアカウントに突撃して「もっと勉強してください」とか言ってしまえるほどのものすごい自己肯定感を得られる。
左派言説だと「マイノリティは困っていてマジョリティは配慮すべき」というマジョリティとしてはいささか居心地の悪い認識が語られるのに対し、ネトウヨ言説なら上記のひっくり返しを発動して「マイノリティがマイノリティ特権をゴリ押ししてくるのでマジョリティである我々はそれに抵抗しなければならない」という具合にむしろマジョリティこそが被害者であると言ってくれるというのもいい。自分が加害者側にいるように言われるよりも被害者側にいるように言われた方が誰だって気分がいい。
以上のように、ネトウヨ言説は面白いし気持ちいい。対して左派言説はつまらないし自分が責められてるような居心地の悪さすらある。
インターネットという、正しさや妥当さという基準がまともに機能せず、どれだけ多くの人間に受け入れられたかという数字こそが重要な真に「民主的」な空間において、どちらがより良いものなのかは火を見るより明らかであろう。
なので、インターネットが大衆化した現代において世間はいくらか右に行くし、お笑い界の芸人たちも特別な人間ではなく世間のひとりひとりである以上、お笑いもいくらか右に行くことになる。
「お笑いとはこういうものだからお笑いは右に行くんだ!」というふうに考えるよりも、このように考えた方が実態に近いのではないかなと自分は考えている。