はてなキーワード: 国民党とは
腐敗した政権をどれだけかばってもあっという間に敗れるということ。
むしろ、法治国家にして腐敗をなくすことに尽力しないとならないけど、それはある意味強権で法に反した腐敗行為をしたやつに罰を与える事をしないとならないということではある。
それ1つとっても恐ろしいことだ(アフガン人口3804万人なので一気に失業率を0.8%以上上げる(追記:労働人口が2021年で10,657,912人らしい。ざっくり3%UP?))
実際には30万人いなかったとしても、相当な人数はいただろうに、大半が無職になる
タリバンも全員を吸収しきれるとは思えない
仮に吸収したら、彼らの給料は麻薬から出ることになるので、それも世界にとっては脅威である(現実に麻薬での支払いを目指したら、たぶん作りすぎて麻薬が値崩れする)
(2020年で全体の失業率11.7%の数字が出てきた。ちなみにイランが10.82%)
女性の地位向上において、世界大戦で女性が働きに出た影響が大きかったことを考えれば
アフガンの女性の地位を向上させるにも戦場は無理でも仕事に出てもらうことが近道なのだが
若年男性すら職にありつけていない状況では非常に厳しいだろう
そして女性の地位が向上しないと出生率が下がらず若年人口が増え続ける地獄のループ
ここで中国がアフガンの雇用対策に有効な手立てを打てば(一帯一路関係の土木事業など)
追記:自分は2行目で「実際には30万人いなかったとしても、相当な人数はいただろうに」と断っているのだが……流石に半数の15万人はいた、よね?まさか実質は特殊部隊の1万人だけ?(https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-58219196)タリバン側は6万で支援部隊加えれば20万(かも)とかの数字もみた(https://www.jiji.com/jc/article?k=2021081600710&g=int)。ただ給料未払いはキツイですね。
croissant2003 たぶんここ数日での聞きかじりの知識で書いてるんだろうなぁ。
もう少し前から追っているつもりだが否定はできない。すまんな。ちなみにアフガンとソ連が戦争していた頃まで遡ると物心ついていなかった。
追記2:アフガン政府軍5万人ってマ?さすがにその人数でガニ大統領が抗戦を選択するとは想像できなかった。実際に動いた人数で給料を受け取った人数とはズレがあるとかかもしれんが、その給料も未払いだったりするんじゃ何も言えんなぁ。
Wafer 内乱終結後の敗北側兵士の復員方法は古今ろくなものがなくて、南宋の残兵が元寇の主力に再構成されたり、朝鮮戦争に参戦した中国人民軍の兵士は元国民党軍だったとかさんざんですな
イラン・イラク戦争でイランが革命前からの軍隊をすり潰したり、その戦争で軍隊が膨れ上がったイラクがクウェート侵攻に走ったり、もっとアフガンに近い時代・地域の例もありますね。
公共事業の雇用もほしいけど、そもそも国民全体の基礎教育が要るっぽいなとここ数日での聞きかじりの知識で思いました。
追記3:アフガン政府軍の実数は、最盛期に20万人、最近は7.5万人~9万人だったという記事をみつけた。https://grandfleet.info/us-related/where-did-the-300000-afghan-troops-claimed-by-president-biden-disappear/
アフガン政府軍に比べると南ベトナムの共和国軍は実態があったしフエ陥落までは健闘したっぽい。サイゴン陥落に例えるのは南ベトナムに失礼?
戦力差が10倍以上のもののみ取り上げています。随時更新中 ★は(戦術的)勝者側
多くのコメント・ブクマありがとうございます。 コメントで私が知らなかった戦いについて教えてくださった方ありがとうございます。https://anond.hatelabo.jp/20210708183653こちらも参照ください
B.C.480 ペルシア戦争 ギリシア軍7000vs★ペルシア軍30万以下
スパルタ王レオニダス指揮下のギリシア連合軍がペルシア軍の大軍と激突した。狭い地形を活かし、3日間の激戦を繰り広げるが、背後から攻撃され敗北した。この戦いでギリシア軍は1000人、ペルシア軍は2万人の兵士を失った。
・彭城の戦い
漢軍が彭城を制圧した事を知った項羽は精鋭部隊を率いて漢軍を襲撃した。攻略に成功したことから油断し、酒宴に明け暮れた漢軍は突然の事態に太刀打ちできず20万人以上が戦死した。
23年 ★緑林軍1万vs新43万
劉秀率いる緑林軍が新軍に包囲される。劉秀は脱出し、外側から新軍を襲撃して壊滅させた。
ブーディカ女王率いるケルト人がローマの支配に対して反乱を起こした。ローマ軍は反乱軍を狭いワトリング街道に誘い込み、これを破った。ローマ軍の死傷者はわずか400人であったのに対し、反乱軍の死傷者は8万人であった。
・博望坡の戦い
劉備軍と曹操軍が宛で対峙する。劉備は撤退したと見せかけ、誘われた夏侯惇を撃破した。李典の援軍が来るとみた劉備は兵を引き、曹操軍も撤退した。
383年 五胡十六国時代 ★東晋軍8万5千vs前秦軍117万
華北統一に成功した前秦が東晋征服のために大軍を派遣する。前秦軍は敵軍を誘うため、先鋒を退却させる作戦をとるが、兵が混乱して退却を止めなかったため、そこを突かれて敗北した。
・チェラーミの戦い
アラブ人の支配下にあったシチリアにルッジェーロ1世率いるノルマン人が侵入、イスラム教徒を撃退した。アラブ軍は戦力の7割を失ったとされる。
・黄天蕩の戦い
韓世忠とその妻梁紅玉率いる南宋軍が金軍を打ち破り、2万5000人を討ち取った。
屋島で破れ、志度寺に立て籠もった平氏を源義経が追撃した。平氏は大軍が後に続くとみて敗走した。
・下赤坂城の戦い
楠木正成は下赤坂城に籠城し、幕府の包囲にゲリラ戦で1ヶ月以上抵抗した。城は陥落したものの、幕府は楠木正成と護良親王を討ち損ねた。
1333年 元弘の乱 ★楠木軍1000vs鎌倉幕府2万5000
千早城に立て籠もった楠木軍は幕府軍に包囲されるも、3ヶ月に渡って抵抗した。気が緩んだところを奇襲するなどの奇策で消耗した幕府軍は攻略を諦め、撤退した。
・船上山の戦い
1333年 元弘の乱 ★後醍醐天皇軍150vs鎌倉幕府3000
後醍醐天皇が隠岐の島から脱出すると伯耆国の武将名和長年が挙兵し、隠岐国守護佐々木氏を攻撃した。名和軍は数百の軍旗を見せつけて威嚇する、暴風雨に乗じて攻撃するなどの戦法で幕府軍を破った。
倭寇に悩まされた朝鮮はその本拠地と見なした対馬へ討伐軍を派遣するが、宗氏の抵抗に遭い撤退する。対馬側は100~200人、朝鮮軍は3000人ほどが戦死した。
・ビルスの戦い
1444年 旧チューリッヒ戦争 スイス軍1500vs★フランス軍3万~4万
スイス軍がチューリッヒを包囲したことにより、フランスと戦争に突入した。スイス軍は数で勝るフランス軍と死闘の末に壊滅するが、フランス軍は2000人の損害を被った。この戦いによりスイス人の勇敢さがヨーロッパ各地に知れ渡った。
・土木の変
1449年 ★オイラト軍3万vs明軍50万
明の正統帝は自ら大軍を率いて、オイラトの征伐に向かう。しかし、食料配達の困難や大雨により明軍は士気が低下しており、そこをオイラトに奇襲された。明軍はほぼ全滅し、皇帝も捕虜となった。
・九頭竜川の戦い
越前制圧を目論む一向宗と朝倉軍が九頭竜川を挟んで対峙、朝倉軍は夜襲により一向宗を撃退した。
・セントラの戦い
1519年 スペインのメキシコ征服 ★スペイン軍410vsマヤ軍1万~4万
征服者コルテス率いるスペイン軍がマヤの大軍と交戦。マヤ軍はスペイン人の軍馬に恐れをなして敗北した。スペイン軍の犠牲はわずか2名だが、マヤ軍は800の犠牲を出した。この戦いでコルテスは後の妻にして翻訳者としてアステカ征服に貢献するインディオの女性マリンチェを得た。
・オツンバの戦い
1520年 スペインのメキシコ征服 ★スペイン・トラスカラ連合軍 7~800人vsアステカ軍4万
アステカ軍はスペイン軍の侵略を一度退けることに成功した。その後、大軍を率いて追い打ちを試みる。しかし、初めて見る軍馬の威力に恐れ戦き、指揮官を含む大勢が戦死したため敗走した。この戦いの後コルテスはアステカを滅ぼした。
・プナの戦い
1531年 スペインのペルー征服 ★スペイン軍168vsプナ先住民3000
スペイン軍がインカ帝国征服へ向かう途中、プナ島で先住民と交戦するが、銃と馬の威力でこれを打ち破る。
・ディーウ包囲戦
1538年 オスマン・ポルトガル戦争 ★ポルトガル軍600vsオスマン・クジャラート連合軍2万2000
ポルトガル軍が連合軍に包囲されるも、3ヶ月の籠城戦の末にこれを退けた。ポルトガル軍の死傷者は40名に対し、連合軍の死傷者は3000名。
・スィゲトヴァール包囲戦
1566年 ハンガリー軍2000~3000vs★オスマン軍10万~30万
ウィーン遠征へ向かうトルコ軍がクロアチア総督ズリンスキ率いるハンガリー軍を包囲。1ヶ月にも及ぶ激戦の末に防衛軍はほとんど全滅したが、トルコ軍にも2万人の犠牲者が出た上、スレイマン1世が陣没したため、撤退を余儀なくされた。リシュリューはこの戦いを「文明が救われた戦い」と称えた。
・今山の戦い
1570年 戦国時代 ★龍造寺軍5000vs大友軍6万~8万
佐賀城に籠城した竜造寺隆信を大友宗麟率いる大軍が包囲する。攻防戦は4ヶ月にも及び、落城は目前に迫ったが、大友軍が勝利を確信して宴を催したところを奇襲し、これを破った。
・木崎原の戦い
島津軍は数で勝る伊東軍を伏兵に背後を突かせることで破った。島津軍は275人が犠牲となったが、伊東軍は指揮官の伊東祐安含む800人以上が戦死した。この戦いは後の島津軍の戦いにおいて参考にされ、九州制覇に貢献した。
信長は石山本願寺に味方する雑賀衆の討伐を試みるが、雑賀衆は1ヶ月にも及ぶゲリラ戦でこれを退け、両者の間に和睦が成立した。
・天目山の戦い
1582年 戦国時代・甲州征伐 武田軍43vs★織田軍3000~4000
織田軍に追い詰められた武田軍の最後の戦い。武田軍は奮戦虚しく壊滅し、武田勝頼は自害したが、織田軍にも900人近い死傷者が出た。
・沖田綴の戦い
1584年 戦国時代 ★島津・有馬連合軍6000vs龍造寺軍6万
連合軍は数で勝る龍造寺軍を釣り野伏せで破った。この戦いで総大将竜造寺隆信は戦死した。
・岩屋城の戦い
島津軍は筑前を攻めた際、高橋軍の籠城する岩屋城を攻略した。高橋軍は講話の提案にも応じず、激戦の末に全滅した。島津軍は4500以上の死傷者を出した。
・忍城の戦い
1590年 戦国時代・小田原攻め 成田軍2000vs★豊臣軍2万~5万
石田三成ら率いる大軍が忍城を包囲し、水攻めを行うも、成田軍はそれに耐え、北条氏が滅亡した後に降伏した。
・四川の戦い
1597年 慶長の役 ★島津軍2000vs明・朝鮮連合軍10万
島津義弘率いる日本軍が明軍に包囲されるも、これを返り討ちにした。日本軍の勝因として、鉄砲を使用したこと、明軍の食料庫を焼くことで短期決戦に持ち込んだこと、連合軍の統制がとれなかった上に圧倒的な兵力差故に慢心していたことが挙げられる。
田辺城に立て籠もった東軍を西軍が包囲するが、東軍には文化人細川幽斎が居たため、西軍は積極的な攻勢が出来ず、2ヶ月ほど釘付けになった。最後は後陽成天皇の命で開城したが、西軍は関ヶ原の戦いには間に合わなかった。
関ヶ原へ向かう徳川秀忠指揮下の東軍が真田昌幸率いる西軍と交戦した。足止めを食らった東軍は関ヶ原に間に合わなかった。
1762年 七年戦争 ★スペイン軍100vsイギリス軍2000
イギリス軍がニカラグアの処女降誕要塞を包囲するが、スペイン軍は19歳の少女ラファエラ・エレーラの指揮下で奮戦し、砦を守り抜いた。
・アラモの戦い
1836年 テキサス独立戦争 テキサス軍200vs★メキシコ軍4000
当時メキシコ領であったテキサスに移住したアメリカ人がメキシコに対して反乱を起こした。アラモ砦に籠城したテキサス軍はメキシコ軍の包囲に対し13日間持ちこたえた末に全滅した。
・雨花台攻略戦
湘軍によって要塞化された雨花台を太平天国軍が5ヶ月にわたって何度も攻撃するが、落とせず1万の兵力を失った後に攻略を諦めた。
サビーネ湖とメキシコ湾を繋ぐサビーネ・パスを防衛する南軍が北軍の攻撃を受けるも、これを撃退する。北軍は100名が死傷し、350名が捕らえられた。
・カマロンの戦い
1863年 ナポレオン三世のメキシコ出兵 フランス外国人部隊65vs★メキシコ軍2000
65名の外人部隊は現金300万フランを輸送する部隊の護衛を任されていた。メキシコ軍の大軍の前に破れ、43名が戦死、19名が捕虜となったが、輸送部隊は目的地へ現金を届ける事が出来た。
1879年 ズールー戦争 ★イギリス軍150vsズールー軍3000~4000
ロルクズ・ドリフトの伝道所跡に築かれたイギリス軍の砦をズールー族の大軍が襲う。イギリス軍は2日間の激戦に勝利し、ズールー軍は800名以上の死傷者を出した。
・アブ・クレアの戦い
1885年 マフディーの乱 ★イギリス軍1100vsマフディー軍1万2000
ゴードン将軍の救出に向かうイギリス軍とマフディー軍が激突し、マフディー軍は1100人の死傷者を出して敗北した。
・アブ・クルの戦い
1885年 マフディーの乱 ★イギリス軍1200vsマフディー軍1万4000
ゴードン将軍の救助に向かうイギリス軍がマフディー軍と交戦し、勝利した。マフディー軍の損失は明らかではないが甚大であるとされる。
盧溝橋付近で日本軍の夜間演習中に日本兵一人が行方不明になる。日本軍がこれを理由に中国軍を攻撃し、破った。この事件が熾烈な日中戦争のきっかけとなった。
・タラワの戦い
1943年 太平洋戦争 日本軍2600vs★アメリカ軍3万5000
タラワ環礁ベティオ島を防衛する海軍部隊とアメリカ海兵隊が激突した。島は3日で陥落し、守備隊は玉砕したが、米軍も3000人が死傷し、軍への志願率が一時的に減少した。
・拉孟の戦い
1944年 日中戦争 日本軍1300(うち傷病兵300)vs★中国軍2万
日本軍と中国軍が3ヶ月にわたって交戦し、日本軍が全滅した。中国軍は8000人が死傷した。
・騰越の戦い
日本軍と中国軍が3ヶ月にわたって交戦し、日本軍が全滅した。中国軍は2万人が死傷した。
・アンガウルの戦い
1944年 太平洋戦争 日本軍1250vs★アメリカ軍2万1000
日本軍歩兵第59連隊第1大隊が守備するアンガウル島をアメリカ軍第81歩兵師団が攻略した。1ヶ月以上にも及ぶ激戦の末に日本軍は玉砕したが、米軍も2000人死傷した。
・一江山島戦役
1955年 第二次国共内戦 国民党軍700vs★共産党軍7000
人民解放軍が一江山島に侵入、2日で占領した。台湾軍は全員が戦死するか、捕虜となったが、解放軍にも2000人の死傷者が出た。
・ロングタンの戦い
1966年 ベトナム戦争 ★オーストラリア軍108vsベトコン2500
ベトコンがオーストラリア軍を襲撃するも、撃退された。オーストラリア軍は42名、ベトコンは600名が死傷し、双方が勝利を主張した。
参考作品「デンジャー・クロース 極限着弾(クリフ・ステンダーズ監督)」
・ロンゲワラの戦い
1971年 第三次印パ戦争 ★インド軍120vsパキスタン軍2000
ラジャスタンのロンゲワラ村でパキスタン軍とインド軍守備隊が交戦。インド軍は航空機の支援を得て、パキスタン軍を破った。パキスタン軍の死者200名に対し、インド軍の死者は2名ほどであった
1993年 ソマリア内戦 ★多国籍軍160vsソマリア民兵2000
アメリカ、マレーシア、パキスタンからなる多国籍軍が、民兵のリーダーであるアイディード将軍の側近二人を逮捕すべく派遣され、民兵と交戦状態になった。民兵は数百人が死傷し、多国籍軍は目的を達成したが、100名以上が死傷した。
参考作品「ブラックホーク・ダウン(リドリー・スコット監督)」
当時は日本は貧乏な敗戦国なのでもちろん日米の分断なんて考えてない
とりあえず国民党を追い出して実権を握り、その際に今はODAで援助されているけどいつかは頂点に復活するというプランを描いていた
で、具体的にどうやるか
低賃金労働による世界の組み立て工場をしながら外貨を稼ぎ、留学生や優秀な労働力という名のスパイを送り込み技術や製品情報を盗み、ことで中国を発展させようとしていたんだよ
コツコツ頑張って、良いところまで行ったのにアメリカ様にばれたから今こんなことになっている
バレたきっかけとしてはオーストラリアやアフリカで派手な振る舞いをしたのも含め、プーさん(笑)が欲張りだったからじゃないかな?
せめて中国製5Gを先進国の半分に導入してからじわじわ台頭したら世界の中心は中国になっていたかもね
特に、イギリスから香港が返還される時に定めた香港基本法の第11条は上手かった
詳しくは「香港基本法 全文」で調べてもらいたいが、「中華人民共和国憲法第31条に基づき」と書かれている
つまりは法改正したいなとなったらイギリス様と決めた面倒なルールに則らずに、ぺぺっと中国の憲法第31条を変えればOK
中国の憲法を変えることに文句がある?内政干渉ですか?とカードが切れるのだ
わざわざ香港の民主主義と自治を守るために作った法律なのに、中国の匙加減で骨抜きにすることができる素晴らしい法律に仕上がっている
イギリスからも危険性に気づかず、それでOK、ハイ返還!となるんだから本当に恐ろしい
建国から鄧小平時代まではなんだかんだ冷静な判断ができていたはず
新彊(ウイグル)やチベットに進行して領土拡大にも成功させていたし
香港も戻ってきたし
調子に乗った原因はどこにあったのかよく分からないので、知っている人は教えて欲しい
ただ、調子に乗りまくったプーさんは「国家主席の任期制限の撤廃」をしたり、「ぼくのかんがえたさいきょーの国家政策」を押すようになった
昔から中国共産党の批判をする国民は投獄されたり、存在を消されたりするけど、当時は共産党内部での議論や違う意見を出すことは自由だった
なので全人代で国家政策をどうするか検討するときに、わりと自由闊達な議論や提案ができたらしい
想像つかないよねー
プーさんがどれだけ権力にしがみついているかは、プーさんのwiki見たら分かる
国家主席だけじゃなくて、中央軍事委員会主席や中央国家安全委員会主席、中央軍委連合作戦指揮センター総指揮官とかも兼任してる
どれだけポスト独り占めするんだかw
貧乏ジャパン時代から練られた壮大な計画なので日米分断は関係ない
もう少しおとなしく水面下で進められていたらみんな気付かずに中国に呑まれていたよ
恐ろしい
【ワシントン時事】ブリンケン米国務長官は3日、中国の民主化運動が武力弾圧された天安門事件から4日で32年になるのに合わせて声明を発表し、事件を「大虐殺」と表現し、非難した。その上で「天安門広場」は、人権や基本的自由を訴えた数万人の人々を黙らせるために中国政府が取った残忍な行動の同義語となったと指摘した。
また、「あの日に起きたことについて透明性を求めることをやめてはならない」と訴え、事件の死者や拘束者、行方不明者に関する完全な説明を求めた。
国務長官とは実務上、アメリカで大統領に次ぐNo.2と言われており絶大な発言力をもつ。
日本でいうと麻生さんとかにあたるのだろうか?よくわからないけど。
中国が歴史の闇に葬り去りたい最大のタブー(70年前、CCPが日本軍に国民党軍の軍事情報をリークさせて戦わせ、漁夫の利を得た件につぐ二番目のタブー)であり、それを一国の宰相が虐殺と定義したのは歴史上きわめて大きい。
台湾統合は本気で人民解放軍使えば押し切れるとは思う(たださらに踏み込んで在台米軍復活されたら無理)けど(ただ統治まで含めれば現実的ではない)。台湾飲み込むなら国民党政権時に一国二制度で統合して香港ルートだったんだろうけど、香港がああなっては一国二制度は台湾側も絶対飲まないだろしな。中国側の誤りは対日政策なんかよりも、香港を平和的に統合できなかったことだと思う。
鄧小平が中央軍事委員会を権力基盤としていたとおり、中国における権力確立には人民解放軍の支持が不可欠だし、人民解放軍は人民解放軍のルールで動く(文民統制が民主主義国家ほど効いていない)ので、特に南沙諸島や尖閣は軍が火をつけた可能性はあり得るけどね。
「親日国台湾」という表現がされる度に「日本は台湾を侵略したから恨んでいる人も居る」と反論が出てくるのも定番だ。
繰り返されるこのやり取りに飽きてきたので日系四世台湾人である私がしっかりと言ってしまおう。
これに納得できない人も多く居るだろうから理由も書いておこうと思う。
長くなるかも知れないので結論から言ってしまえば「台湾の親日は政治思想から来る利害の一致によって圧倒的多数で支持されている考え方」なのだ。
日本でも有名であろう最大勢力の「国民党派」は、大陸側も含めて国民党が治めるべきだという考え方だ。親日への利害の一致は当然「共産党派」への対抗だ。
そして次に来るのが「台湾独立派」になると思う。もしかしたら「共産党派」なんじゃないか?と思うかも知れないけれど、それは違っていて「台湾独立派」は大陸まで手中に収める必要は無い、領土拡大しないとする考え方。積極的に「我々は中国人ではなく台湾人だ」と主張する。当然ながら親日との利害の一致は「共産党派」への対抗。選挙では国民党系へ入れる。
次に来るのが「共産党派」で、台湾では大陸の共産党から資金提供を受けていると噂されていたり(実際に悪い政治資金を得て刑務所に入ってる人も居る)していてスパイ扱いされている。日本で言えば左翼に近い。もし台湾で「私は共産党派だ」と名乗れば変な人と見られてしまうだろう。親日への利害の一致はなく反日情報を流してるのがこの派閥。
そしてここからがかなり小規模な派閥になるけれど、度々注目されるのが「台湾先住民派」だ。つまり中華の古い国々や日本、国民党や共産党が台湾に入ってくる前から台湾に住んでいた人々の子孫。台湾はこういう子孫の人々のものであって国民党や共産党のものではないと主張する。「国民党派」も無視は出来ない派閥なので影響力がある。「共産党派」と一緒に日本で言うところの尖閣諸島は台湾のものだ運動をしていることもあるが基本的には「共産党派」と対立している。選挙では国民党系へ入れる。
続いて小規模なのが「日本帰属派」だ。もちろんこれは台湾は日本になるべきという考え方。参戦した世代の高齢者と十歳台前半の若者に支持される傾向のある考えで、共産党の徹底的な撃破と日本並みの経済規模を求めている。「共産党派」と同レベルの過激な発言が目立つ。日本帰属派以外の三十〜七十歳台の台湾人にとって面倒存在。台湾独立のため実際戦ってくれた高齢者や日本文化の動きに敏感な若者が中心なので影響力が強く、ほかの派閥に居ながら実は心の中では日本帰属派だって人がかなり居る。選挙では国民党系へ入れる。
このように台湾で反日を積極的に行っているのは「共産党派」しかなく、まれに「共産党派」が「台湾先住民派」を扇動して日本や国民党を責めるけれども「台湾先住民派」にとっては「共産党派」のほうが大きな敵なので他の親日系派閥と一緒に動くことが多い。もし台湾発の反日情報を見掛けたら共産党派の工作だと思ってほぼ間違いない。共産党派にとって反日は他すべての派閥へ攻撃できる効率的な手法。
ちなみに私は台湾独立派で、戦争してまで大陸を奪い返す必要は無いと思っている。曽祖父は一度日本へ帰ったけど共産党が攻めてきた時に曾祖母(台湾人)を守るために義勇兵として台湾へ渡って戦った人だったらしい。私はそんな人の曾孫なので領土拡大とかどうでも良いのだ。
https://togetter.com/li/1599292
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3
リーマン・ショックにより、スペインの経済は壊滅的な打撃を受けた。2011年スペイン議会総選挙では国民党が勝利し、マリアーノ・ラホイが首相に就任した。2012年にLIBORなどの国際金融市場で不正が次々と発覚するなかでスペイン経済危機が顕在化した。2013年2月4日、首都マドリードなど各地で抗議のプラカードを掲げた市民が与党の汚職を批判するデモを行った[83]。スペインの建設業界と与党国民党元幹部らのからむ汚職疑惑で、現金を受け取った政治家のリストにマリアーノ・ラホイ・ブレイ首相をはじめ政府・与党幹部の名前が含まれていることが暴露されていた[83]。2014年1月7日、スペインマヨルカ島の裁判所は王族のクリスティナ・デ・ボルボーン・イ・デ・グレシアに対し、税金詐欺とマネーロンダリングの容疑で出廷を命じた。6月12日、フェリペ6世は姉クリスティナが保有するパルマ・デ・マヨルカ公爵位を剥奪する予定であることを、事前に私的に公表した。2016年4月、パナマ文書でサンタンデール銀行がオフショアファンドに119の顧客をもっていたことが分かった。9月、去年と今年の2度の総選挙を行っても政権を樹立出来ないままだったが、ラホイ首相を首班とする政権樹立を下院で反対多数で否決し、またもや政権樹立に失敗。11月3日になってようやくラホイ再任が決定し新内閣が発足した。2017年2月17日、スペインの裁判所は「経営は夫に任せていた」などとした主張を認め、クリスティナに無罪判決を出した。夫イニャキ・ウルダンガリンは禁錮6年3カ月の有罪判決を受けた。10月27日カタルーニャ州が独立宣言を行うも(カタルーニャ共和国)、スペイン側はカタルーニャの自治権を剥奪し直轄統治を開始した[84]。
意味ありげに見えるがその実は事実かどうかも定かでないAはBである調の文章をただ次々に繋ぎ合わせたもので歴史的にどういった意味があると解説するでも何もなくこれは間違いなく統失の
壁。