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はてなキーワード: 因数分解とは

2024-05-12

詩とか俳句短歌について思うことメモ

もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事書類ばかりとなった昨今。

でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。

書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。

まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。

頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初感想だった。普通に文章だったからだ。

調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで

「韻」という言葉もその時初めて知った。

井上靖詩集を手に取ったのは、国語教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。

というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初詩集だった。

小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。

季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなもの短歌俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。

特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉ニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。


井上靖の詩のなかに

幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。

自分世界表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。

例えば、雪という詩がある。


 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

 こういう二行の少年の詩を読んだことがある。

 十何年も昔のこと、『キリン』という童詩雑誌

 みつけた詩だ。雪が降って来ると、

 私はいつもこの詩のことを思い出す。

 ああ、いま、小学校教室という教室で、

 子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。

 この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。

 勤勉、真摯調和

 そんなものともどこかで関係を持っている。

井上靖詩集運河」より

中学生の私は、なるほどと思った。

詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉なかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。

鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。

井上靖の次に手に取った詩集もよく覚えている。

武者小路実篤だった。やぱり散文詩だった。

当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。

いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。


ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。

山頭火面白い普通俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。

定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌エントリーポイントとなって、

新聞の俳壇や短歌欄に時々目をやるようになった。

いわばお勝手からこっそり入門したような形だ。

しか俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。

いつしか手にしていたのは、興津要解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。

剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。

エロい川柳結構好きだった。今でいうサブカルチャーだ。

その後は巴毎晩組み敷かれ

木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代川柳妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい

一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。

俵万智サラダ記念日ベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。

例えば、こんな一首。

わが胸にリンチに死にし友らいて雪折れの枝叫び居るなり

あさま山荘事件を起こした連合赤軍幹部坂口弘収監中の東京拘置所から毎週のように短歌朝日歌壇投稿していた頃だ。

朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。

そして渡辺松男太田美和が常連投稿者として名を連ねていた。

風花って知っています

さよならも言わず別れた陸橋の上

渡辺松男太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇リアルにみていた人にしかからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱発酵すると詠んだりする太田美和。

生活で恋をしていた私は太田美和の言葉自分を重ね合わせた。


でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。

大学卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。

生活が一変した。

書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。

購読紙も朝日新聞から日経新聞に代わり、東洋経済となった。

世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。

山頭火武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接資格だ!という日々。

就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。

たまに思い出しては、現代短歌最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。

若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。


それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。

そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。

思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。

中年になっていいかげん自分限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。

ふと思い出すのが、最初に買った井上靖詩集

 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖感覚がとてもよくわかるようになった。


これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。

詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。

どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。

鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯子供の姿を思い浮かべる、という

文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワイン食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。

ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種ビンテージ気候土壌などさまざまな情報がある。

しかワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのとき話題、体調などに大きく左右される。

だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。

マリアージュという言葉があるように、ワイン一種調味料として機能するため、食べ合わせ重要だ。

またワインプロファイル情報あるかないかも味を左右する。

ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見ワインしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。

逆に偽の情報表現かに補完してしまえば、コンビニ販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。

ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的規律として表現することはできない。

詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。

井上靖が「小学校教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。

その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。

どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときメンタル、いわば偶然の力だと思う。

渡辺松男太田美和が並んで歌壇掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。

失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会

先ほど、卒業してから詩どころではなくなったと書いた。

そのとき自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。


ところで、先日、Yahoo芸能ニュースをみていたら、TBSプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人俳句先生から5点と酷評されたと報じていた。

お題は「文房具」で彼女が読んだのは

消しゴムが 白き水面に ボウフラを

というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。

ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人俳句酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組演出脚本としてはそれがオチなのだろう。

演出もさることながら、これは、他の出演者俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。

迎え梅雨 紙端に滲む 友の文字

虹の下 クレヨンの箱 踊り出す

天王山 黒ずむ袖に 薄暑光

薫風や 隣の君と 教科書

こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。

バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージ作品クオリティが補完されてしまうのだ。

しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。

消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月番組文房具からまだ気持ちフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。

ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。

それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。

いかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。

一方で白い水面(ノート隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。

ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。

と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ

ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。

また、どんくさいもの弱者がボウフラというノート上のより小さい存在視線フォーカスする、という手法小林一茶方法とも通じるところがある。

番組の評者は、この芸人俳句酷評したうえ、次のような添削をしたという。

しかすはボウフラみたい夏休み

夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。

しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組からね。

ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界一種ルッキズムだ。夏休みかいって勝手おめかしさせようとするんじゃねーよ。

そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつ動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語川柳で身につけたものだろうからゆりやん一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。

300円でおいしく飲めるワインもあれば、駄作でも楽しめる作品もある。そういうことだと思う。

2024-05-10

学校は「生活」の時間を5倍にすべき

因数分解新古今和歌集が分からなくてもいいから、洗濯の仕方を理解できる社会人を増やして欲しい。

悪臭や痛みについての表現力も鍛えて欲しい。

医者に「痛いです」しか言えない大人他人匂いに「臭いしか言えない大人、そんな奴らをこれ以上増やすな。

2024-04-18

anond:20240418211439

和の3乗とか差の3乗くらいはまあいいんだけど3元3次恒等式因数分解あたり受験数学感が強すぎる感覚はある

anond:20240418110000

たとえば受験勉強因数分解って社会に出て何の役に立つ?

漢文とかもそうだけど多くの勉強が無くても「別に困らない」現実に誰も向き合えてない。

素直な子どもたちは見抜いてる。

無くても困らない分野を勉強させる理由を、大人たちが提供する気がないことを。

からヤル気が出ないんだよ。

しかゲーム実況者は視聴者の心を救ってる。

勉強できないままでいいの?」「別に困ってないよ」

2024-03-29

もう受験生でもない自分高校レベル参考書問題集いつまでも解いたりするべきなのか分かりません。

解いたりするべきだと思う以下の持論を持っているのですが、この持論が正しいかどうか全く確信が持てません。

以下から持論です。

まず、高校で習うことを理解していなければ、大学以降のより専門的なことが理解できないことがあるというのは確かだと思います

から私を含めそういう専門的なことを理解したい人は、高校レベルのことの穴を埋めるべきだと思います

それをせずに大学レベルのことの学習に手を付けても理解できることがある可能性はありますが、その理解したという感じに錯覚場合が混ざるおそれがでてくると思います

まり理解してないのに知った気になる、いわば「何がわからいかからない」状態に陥る可能性が出てくると思うのです。

そのうえで、そのような大学レベルのことを理解していないと理解できない、より高度な理論を学ぼうとすると、今度はわからないという自覚はあるが「なんでわからないのかわからない」という状態に陥ることになります

まりその高度な理論理解するのに必要なそれに比べれば相対的に基礎的な理論概念複数あることも当然考えられ、そのどれを理解してないのかがわからない、特定できない、ということが考えられるわけです。

理解しなければならないこととしては当然高校レベルの部分に穴がある可能性もあるでしょう。

しかし学ぼうとするものを見ても、その理論等の全容を見て、具体的にどんな知識必要か余すことなく把握することは意外に難しいでしょう。

単に用語意味を知らないといったことなら、その用語ネット検索で、その用語を使っている理論のなかでもっとも基礎的なものが何かということを目星をつけて、そこから学ぶという方法がとれるでしょう。

しか学術文章理解できない原因は必ずしも「単にこの言葉がわからいから」というような、わかりやす輪郭を持ったものに由来しているとは限らないと思うわけです。

大学レベル参考書(学術書)や論文を書く人は受験競争経験した人なわけですが、受験勉強で得た「考え方のひな型」のようなものが、少なからずその後の思考やそれに基づく文章に影響を与えていると私は考えます

それはもはや自覚的に認識できるものではない、無意識下にある思考の体系であるわけです。

その「枠組み」を共有していない人にとっては、より言葉を尽くさないとわからないことでも「既知の事項として」という感覚すら持たずに、その部分の言語化をせずに文章を書いている部分があると思います

特に幾何学が絡む記述は、センス=ひな型・枠組みを持つ著者自身には空気のように当たり前のことであるために記述シンプルになってる説明に対して、枠組みの無い人にはなんでそうなるのということがまるでわからないということが起こり得ます

それは著者すれば「なんかこいつすごく察しが悪いな」としか思えないほど逆に理解しがたいことです。

これは大学高校の話ではなく高校とそれ以下の話なのでたとえが悪いかもしれませんが、たとえば高校物理である部分の角度と別の部分の角度が同じという事実から式を導出することにおいて、なぜ角度が同じといえるかということの説明まではされてないみたいなことがあります

これは、角度のことについてなら、中学受験算数の難問を数多く解いてきたりその答に対する解説を見た経験が、まさに有機的に思考の枠組みとして血肉化した書き手自身には、条件反射的に当たり前のように角度が同じだと認識できるが、そうでない人には説明がないとわからない、という枠組みの有無による断絶ともいうべきことが生じているのだと考えられます

しか書き手にはすべての読者のレベル対応することは不可能ですし、そもそも「枠組み」がある当人には1+1=2のレベルで当たり前のようにしか思えない角度の同じさを説明しようという発想すら起こらないから、こうしたことが起こると思うわけです。

そしてこの枠組みは「枠組みが足りてないか理解できないのではないか」という必要性の認識に応じて選択的に必要十分なもの特定して身に着けられる、という性質のものでないわけです。

上記高校とそれ以下のレベルでの話ですが、大学とそれ以下のレベルという場合でも同じ構造問題を共有していると思います

因数分解極限値を求めるための式変形の定石や、その他証明問題などに対して定石と呼べるような解法から定石ではない解法まで、その問題をこなしてきた人たちにとってはその経験が枠組み化しています

なのでその人たち自身が見てきた高校レベル参考書では途中過程として式変形など書かれていたものが、当人研究者になって書く大学レベルの本ではその本人の主観的自明性が強すぎてその途中過程を書くような発想すら存在しないわけです。

ですから大学レベルの本を理解するには、およそ考えられるかぎりのあらゆる高校レベル以下の問題を解いて理解することを片っ端から行いその経験を積んで枠組みとする必要があると思うのです。

でなければ結局「何がわからいかからない」「なんでわからいかからない」という状況に陥ると思うわけです。

予備校講師数学アドバイスで「数3は数1Aと数2B知識がなければ理解できないというが、だからといって数1A・数2B完璧してから数3に取り掛かる必要はない。完璧は難しいのだから同時並行でよい」という趣旨のことを書いていたのを見たことがありますが、まずこれは受験勉強に関してのアドバイスであるということに注意するべきだと思います

まり点を取るためなら、完璧でない理解でも、ふわっとした理解でもパターンとそれへのあてはめとして、問題は解けてしまうということは十分考えられるからです。人口無能、あるいは中国語の部屋のようなものかもしれません。

一方で学問として理解するということにおいては、厳密に完璧理解していなければ、ただの知ったかで、それは全く理解してないのと同じ価値しかないのではと思うわけです。まさに論理として理解しているのではなく「受験で点が取れる感覚」でパターン認識としてわかった気になっているだけだと思うからです。

また、大学以降のより専門的なことが理解できれば、高校で習うことはすべて理解できる、というわけでもないと思います

先ほどの高校物理の例にあるように、高校レベルのことが当たり前になってる人が書いた大学レベル文章には、高校レベルのことは書いてないことがあるわけです。

そして、どの大学レベル理論を学ぼうとするかによっては、自分の持つ枠組みで十分にその理論理解できるということはありえます。ありとあらゆる高校レベルの枠組みを網羅している必要はないわけです。

なので、大学レベルのことは理解してるが、その大学レベル文章高校レベルのことは書いてないかもしれないので、その後大学レベルのことにしか触れなかった場合高校レベルだけど初見だと解けない問題死ぬまで解けないままであるということが起こり得ると思うわけです。

たか高校レベルから、初歩的なんだから受験生じゃなくなっても真面目にとりくむほどではないと思うかもしれません。

しかしそのように単なる初歩的なこととされるかは、意義深いこととされるかは、時代次第の相対的なことではないでしょうか。

2000年上前ならピタゴラスの定理理解することも十分意義深いことだったでしょう。

時代が進むことによって、より高度な定理理論発見され、既存定理はそれを理解するためのより初歩的なことと規定し直されるというだけです。

このような文脈での主語あくまで「人類」です。言い換えれば、人類のうち誰かひとりでも知っていたり理解していたりするようなことを全て知っているような、仮想的な知性にとっての意味付けだと言えると思います。なかば無意識的にこのような仮想的な知性と自分主語のうえで同化させてこのような「初歩的/意義深い」という価値判断をくだしているにすぎないのではないでしょうか。

あるいは「文明」を擬人化して主語においているとも言えるかもしれません。「文明」にとって、容易に理解できる初歩的なことかどうかということです。

一方実際に世界経験する主体単位は「個人」であり、わたしであり、あなたです。

ある時代にとって意義深いけれど今は初歩的なことを理解してない個人がいるならば、人類文明主語である場合、それが最先端知識=未知であるか、または既知となって間もないか、で意義深いかどうかの価値規定されていたのですから個人主語にした場合も同様に考えればよいのではないでしょうか。

まりその個人理解してないのなら、それはその個人にとって意義深いことなのだと思うのです。

大学レベルとか高校レベルとか関係なく、「自分が知らないという意味で意義深い」解ける問題を増やしていくことは、この世界現象に対する理解解像度をあげると思うのです。

から大学レベルのことには書いてない高校レベル問題の解法も赤本や難関大意図した参考書には無数にあるので、それを解き続けることには、それを飛ばし大学のことを学び始めることを通じては経験できない意義深さがあると思うのです。

まとめれば、高校レベルのことが足りないために大学レベルのことが理解できないこともあれば、大学レベルのことでは身に着けられない高校レベルのこともあるので、結局この世の中をよりよく理解する手段として高校レベルのことも大学レベルのことも等しく有効なら、まずは高校レベルのことを完璧にしなければならないのではないか、と思うわけです。

ここまでが持論の全容です。ですが世の中の成果をあげている科学者の全てがこのようなことをしているとは到底思えないので、自分の考えが合っているなどという確信は全く持てないわけです。

なので、ぜひ、反論できるところがあったら教えてください。

2024-03-09

勉強が得意だった人は大人になっても勉強したこと、授業で習ったこ

少し前のもので悪いんだが、この↓まとめや、まとめについていたブクマを見ていて思った。

https://togetter.com/li/2151341

勉強が得意だった人は、いや特に得意だった人じゃなくてもいいんだ、お前らは大人になっても学生時代にかつて勉強したことを覚えているか


俺は高校生はおろか中学生のころに習ったことさえ今はほとんど覚えていない。

まあ俺の場合中高生だった頃からからないものや覚えられないものはそのまんまでやり過ごしてきたのであんまり参考にはならないと思う。

(いわゆる旧帝大に引っ掛かってる大学を出てるんだが、受験における英語国語が抜群に得意だったので、そこで10割近く稼いであとは勘(運)、って方式で生きてこれてしまった)


学校先生とか、塾講師とか、よくわからないが現在業務でつかう内容以外仕事をしてるお前ら、中学で習ったことを覚えてるか?

俺の場合は具体的に以下の単元がさっぱりわからない(単元はネットでざっくり調べた)。


中学数学

・円錐の体積の求め方(おぼえてない)

二次方程式の解の公式(まったくわからん

因数分解のやり方(当時からからなかったので勘で書いてた)


中学社会

南北朝(っていつ頃だっけ?)

・◯◯文化みたいなやつ(飛鳥文化しか覚えてないので、選択式なら「なんか江戸っぽいな」とか勘で選ぶ)

日本地図(ぜんぶわかる?俺はわからない)


中学理科

・電力と電圧電流?の関係(どれがなにでどうなるのかまったくわからん

元素記号(スイヘーリーベー…なんだっけ?それぞれが何を示してるのかも忘れた)

細胞のつくり(核とミトコンドリア葉緑体はわかる。あとは忘れた)


上記あくまで一例だが、どうだ?

数社理なら俺はたぶん20%もあるかわからないし、国英も古語英単語はぜんぜん覚えていない。

お前らは中高生の頃に習った内容を、パーセンテージでいえばどのくらい覚えていそうだ?

2024-01-25

anond:20240125084627

避難生活でのストレスは4つに分類できるかも。

ひとつは、生命身体安全が脅かされる不安

着の身着のまま避難してきた人のなかには、持病の薬が倒壊した自宅にあって取りに行けない、という人もいるはず。

とりあえず地震の揺れや津波から脱出したけれど、高齢者など災害弱者にはつらい状況。まだまだ生命危機を脱していない。

二つ目に、脆弱生活インフラに対する疲れ

特に発災直後の避難所は水も電気トイレもない、みたいな状況。公共インフラが乏しく生活必要基本的ニーズさえ十分じゃない。

プライバシー物理的に確保されていない。

3つ目は、生計生業に対する不安

日常生活が突然遮断され、切り離されたとき仕事先も絶望的な状況であったり地域経済がめちゃめちゃになっている、という真っ暗な情報以外に明るい情報がない。

4つ目は、情報社会ネットワークから切り離されている不安

今回の能登でも避難所では通信環境が悪く、地域で何が起こっているのかすら情報を得られないということがあったみたいだ。

また、平素の何気ない地域社会コミュニケーションが、交通インフラの寸断やバラバラ避難環境というなかで阻害されている。

被災者からヒアリングするときは、当事者混乱状態のなかで、いろいろなストレスが切実なつぶやきの形で語られるけれど、

支援者は、それなりの視点をもって一緒に整理していくことが大切なんじゃないかな。上記区分は単にぱっと思い付いたところだけど。

専門家もっと因数分解できるんじゃないかな。

区分してみるとわかるのは、それぞれ解決に要する時間スケールも違うし、支援ジャンルも違う。

適切に支援リソースを配分するためにも避難所のストレスって何かを考えるって重要に思う。

2024-01-06

二次関数で式立てたはいいけど因数分解できなくね?(´・ω・`)

因数分解が難しいときは解の公式使うといいよ、こういう式で……」

 

再帰処理で書いたはいいけどスタックオーバーフローするやん(´・ω・`)

「この言語には末尾再帰最適化っていうのがあって、コンパイラ勝手ループに変換してくれるよ。末尾再帰っていうのはこういう形式で……」

 

//

 

二次関数を習ったけど何に使えばいいのかわからない」

二乗に比例する成分があるときに使えばええやんけ……」

 

再帰関数を習ったけど何に使えばいいのかわからない」

再帰的な処理をしたいときに使えばええやんけ……」

2023-12-29

anond:20231229104209

問題文通りに書かないといけないとかいう縛りプレイしてるやつは因数分解で詰むからやめたほうがいいと思うけど

5個入ってるのが3つあるのか、3つそれぞれに5個入ってるのから原則同じだし違うと思うなら量子力学に進んだほうが向いてるかもしれない

2023-12-27

anond:20231227163645

たか増田意見発信するために因数分解みたいな頭を使う事ってしたくないよなあ…

2023-11-17

anond:20231116182725

こうやって、身近な問題をパッと解決できて、フシギ楽しいっ♪て気持ち勉強に励めたらいいよね。

因数分解も出来ないのか!」とか「将来(=金儲け)のことを考えろ!」なんていうアフォいるから、勉強できない人から科学の力で金を搾取する連中が生まれるんだよ。

2023-10-31

anond:20231029203433

小学校時代宿題をよくサボったりしたけど、テストはどの科目も大体100点もしくは90点台だった

塾は公文に週一いかされてた。算数だけ。先生が厳しくて泣きながらやってた

おかげで小6で二次方程式因数分解まで解いてた

進研ゼミもやったけど1,2回送って飽きたりを繰り返してた

小学校の成績表(あゆみだっけ)はAが基本でBだと親に詰められた。Cは見たことない。

ちなみに武道習い事のおかげ友達はそこそこいて満足してた

夏休みの宿題ギリギリでまでやらず、なんとかごまかしてた

英語特に嫌いだった。覚える気がなかった。でも英語以外は何もしなくていいくらいだったからやれた

中学卒業まで勉強なんてラクだと思ってた。受験勉強はそんなにしなかった

高校はそこそこいいところにいけた

一転、高校時代に遊びすぎたので大学は低~中のとこだった

サボり癖がついていた

宿題は直接的に学力に結び付く一番の時間有効活用かどうか、は判断できないけど、

ノルマに対する耐性はつく、と振り返って思う

常々なにかを積み上げるいう習慣は大事だな、と拙いプログラミングをしながら思う

2023-10-06

anond:20231006173346

俺の言う大学レベルはそこらで大学就職してるやつだから、その程度はネットで十分って話になる

増田の言うレベルなら偏差値50の高校の中身ですら本気で理解できる奴は1%いねえだろ

数学に限って言えば、何のために因数分解して、微分積分して、三角関数して、統計するんだって誰が理解してんのってな

2023-09-22

なんか性欲っていうかヨシヨシされたいんだよなーとか思ってるけど多分逆で、なぜならめちゃめちゃヨシヨシされたい周期が月一でやってくるのでこれって因数分解すると性欲なんだろうなあと思っている

可愛い可愛い言われながら抱かれたいしあんあん言わせながら抱きたいんだけどなー お疲れちゃんからなかなかなー

2023-09-07

anond:20230907210806

両親がそうだった

運転しながらナンバーを、電柱に貼ってある数字を目に入る数字すべて因数分解してたし意味のある数字とかだと盛り上がってた

けど数学物理以外への興味がうすすぎて子供の遊びはレベルが低すぎて飽きるのかあまり構って貰えなかった記憶しかない

数列を見て即座に因数分解したがる人と一緒に暮らしたい

2023-08-29

anond:20230829142356

お前のいう普通司法普通じゃないよねyてだけの話。そもそもAまたはBのCまたはDってAB、ACADCDってことぐらい因数分解イメージ理解できるだろ

2023-06-12

anond:20230612191207

分業制を進めたらどうなるんだろうね。

脚本ネームキャラクターデザイン作画って別能力だしな、よく考えると。

面白い作品、売れる作品因数分解ができるなら、一定品質での再生産はできる…はず。特に週刊連載とか、各工程にかけられる時間が少ない場合は、安定した品質スケジュール可能な分業制を促進したらどうなるか試したらどうなるんだろう。

もちろん偏りからまれる未知の面白さはあるからオルタナティブ漫画は残ってほしいけど。

2023-05-15

日本が抱える問題因数分解していくと

高齢化社会

・硬直化した官僚制

政治に興味がなく変化を好まない国民性

この辺に行き着く。

そしてこれらは利害が対立する。

国民性教育により変えようとしても硬直化した官僚制度が権益を衛ためにそれを妨害する方向に働く。

硬直化した官僚制度を変えようとしても高齢化社会が変化を許さない。

がんじがらめになっている。

から緩やかに死んでいくのだこの国は。

2023-04-06

ひとはなぜつまらないことでへそをまげるのか

時間無駄なので怒っているひとに向き合ってはいけない。その怒りは早ければ1時間後、遅くとも1ヵ月以内にはなくなっている。

怒りを忘れた頃、怒りをぶつけたひとはもう生きていないかもしれない。

リスク特定する、というアプローチよりも脆弱性特定する、という入り方のほうがよい。

似た概念だが、蓋然性確率ニュアンスの強いリスクよりも、脆弱性のほうがより【原因】のニュアンスが強く、原因を因数分解やすい。つまり問題解決志向から

脆弱性には定量化ができないものがある。

それなのにリスクという視点でとらえた瞬間、定量化できるのかのような錯覚に陥る、

それは事業を行うために割り切るからに過ぎないことを忘れているのだ。

ハザード脆弱性がともに暴露される、としてリスク定義する珍妙さは、定量化できるものだけを見える化しているにすぎない。

落としどころは重要だけど、今そういう話をしていたわけじゃないよね。

2023-04-02

anond:20230402014818

俺にとっては受験勉強がそんな感じだったなー。

だって古文(一生使わないであろう平安時代日本語)とか数学因数分解とか三角関数とか)

とかを何百時間もやらないといけないんだよ?いくら頑張れば良い大学に入れるからって、正気の沙汰じゃない。

もし欧米の子供たちが良い大学に入るために8世紀の古英語を狂ったように勉強してたらどう考えても時間の使い方がおかしい。

そんなこと言うと、努力する練習になるから~とか、将来ロジカルシンキングできるようになるから~って言われるんだけど、

受験勉強を避けてきた俺自身が今努力ロジカルシンキングを求められるプログラマーだったりする。

具体的に役に立つ内容だったらいくらでも頑張れるねん、と。

もちろん受験勉強を軽んじてはいない。元増田同様、それに打ち込める人間を心の底から尊敬している。

ただただ、その無尽蔵なやる気の根源が気になるだけである

2022-11-20

小学生時代、僕だけがポケモンを持ってなかった。大人になった今も、その渇きは潤わない。

夏休み、パパが東京ミュウの配布会連れてってくれるって!」「いいな!てかポケモン青、いつ届くんだろ」チャイムの音と共に騒がしくなる教室で、目を輝かせる友人達小学校話題の中心はいつもポケモンだった。僕は一人、いつも下を向いていた。ウチにはゲームボーイも、スーファミもなかった。

ファミコンは目が悪くなるから」。僕と弟がゲームをねだるたび、母は困った顔をして、でも決して折れなかった。図鑑世界名作全集、蟻の観察セット。サンタさんは毎年、僕のリクエスト無視して高島屋の包装に包まれた立派なプレゼントをくれた。嬉しくないのに、喜んだふりをするのが辛かった。

銀行員の父が毎晩遅くまで働く中、短大卒で専業主婦の母は気負っていた。お菓子手作りで、床にはチリ一つなく、洗濯はいつも綺麗に畳まれていた。彼女の信じる理想の子育てとはつまり公文スイミングピアノのローテーションであり、ゲームボーイみたいな退廃的な娯楽が入り込む余地はなかった。

大人にとっての理想の息子は、子供世界では異物でしかない。ポケモン話題についていけない僕を待っていた疎外感。クロールタイムが早くても、小学生因数分解を解けても、誰も僕に関心を持ってくれなかった。みんな、放課後通信ケーブルを持ってる田中君の家に集まり通信対戦に夢中だった。

ドラクエFFクロノトリガーも、テレビ友達プレー画面を見てるだけで我慢できた。でも、ポケモンは違った。ゲームボーイの画面は小さく、見ようとすると「近いんだけど」と邪険に扱われた。通信対戦で盛り上がる友人達そばで一人、本棚の古いコロコロを読んでた。涙をこらえるのに必死だった。

お小遣いを貯めて、ポケモン攻略本を買った。隅から隅までボロボロになるまで読み込んだ。技マシンの番号と技名を全部覚えた。全ポケモン進化パターンもそらんじた。でも、そこには僕が動かせるピカチュウミュウツーもいない。むしろ虚しくなるだけだと気づくのに、そう時間はかからなかった。

大人になった今だから分かる。健全な物に囲まれ、誘惑に負けることなく健やかに育って欲しいという母の想いは世間では愛と呼ばれるものだ。僕が社学とはいえ早稲田を出て、それなりの企業に勤めているのは母の愛のおかげだ。でも、幼少期に満たされなかった想いは、渇きは、今もまだ確かに残っている。

「うわ、バイオレットだ!やったー!パパ、ありがとう!」朝、リビングAmazonの箱を開けて大はしゃぎの息子。「誕生日でもクリスマスでもないのに。まだSAPIX宿題も終わってないのよ」としかめっ面の妻。これは息子のためでなく、僕の傷を癒すための儀式なんだと言っても理解して貰えないだろう。

「そういやα1のケンタ君、家にSwitchないんだよ。ママが厳しいんだって可哀想だよね」息子の何気ない一言に、動悸が早まる。子供世界共通言語を持たず、母親監視の下で偏差値を上げるためデイリーサピックスを黙々と解く小学生男子。顔も知らないケンタ君の日常を思うと、胸が締め付けられる。

深夜、家族が寝静まったタワマン低層階のリビングで1人、Switchの電源を入れる。ニャオハがマスカーニャまで進化しても、チャンピオンロードオモダカを倒しても、驚きや喜びを共有できる友人はどこにもいない。プレミアムモルツ一口飲む。僕が本当に欲しかったものは、もう二度と手に入らない(完

タワマン海藻とか早稲田社岳とか・・・

ネタちりばめすぎて創作だってわかってしまう好例やん・・・

嫌いじゃないけど・・・

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