はてなキーワード: 哲学とは
普段、生きているとほとんどの時間で私の頭の中では、私が言葉を喋っている。
それを内言というらしい。
その内言という自己との対話を通して私は思考というものをしているようだ。
この内言、意識が=自分、ということになるかどうかは議論の余地があるらしい。
とかいうことは哲学や心理学の領域でちょっと難しすぎる話で素人には理解が及ばない。
それはともかく絶えずといってもいいほど、頭の中で喋っている自分を、本当にこれは自分なのだろうか?
この「本当」にというところがポイントなんですけど。
こうね、意識が喋ってるじゃないですか?
それをね普段は当然のこととして「自分」と思ってるんですけど、
瞑想とかあるじゃないですか?
あれって自分の中の内言を黙らせることとかが第一歩になるみたいなんですけど、
そういう作業、内言を客観的な視点で眺める視座みたいなのを手に入れた瞬間に
あれ?このずっと喋ってる奴、
こいつって本当に俺なのかな?
ってことを「言葉になってない、言語化していない感覚として感じたとき」に
意識・内言が
「ちぇ、バレたか」
って言葉を発するんですよ。
これが本当にゾッとする瞬間です。
なんかね「私」という存在が実は「意識という私のふりをしている誰か」に乗っ取られている、という発見みたいなのがあって
ギョッとなるんですよね。
そしてね、一旦分離した「私」と「私のふりをした意識」というのは、
その次の瞬間には再び「私」と結合して私のふりをして私をコントロールしようとしてくるから
その「私のふりをした意識」を分離しようとするんですけど、
その分離しようとしている「私」はすでに「私のふりをしている意識」に乗っ取られた私であり、
その私こそを、私は私のふりをした意識をから分離しなければならないのだが、
みたいな調子で合せ鏡のように延々と私の中の私みたいなものが一気に溢れ出してしまいます。
という疑問をいだいたときに抱く恐怖というのはこういうことです。
今は旦那さんが料理することも多いのだろうが、仕事をしながら毎食しっかり作っている、という話をすると、驚かれることが多い。
と言うことは、こういう生活スタイルは、まだあまり一般的だとは言えないのだろう。
元はというと、(無自覚だったけれど)自分はかなり食にうるさい方だったらしく、
おいしくないものが我慢できない。それがプレッシャーになる、ということで、自分が料理をするようになった。
ただ料理(食事)が好きなだけじゃん、と言えばそれまでなのだが、
別に元々自炊する習慣がついていたわけではない。学生時代や、社会人生活の最初の方は、かなり適当な食生活をしていた。
だから、今回の話は、必ずしも生まれつき料理が好きな人にだけ当てはまる、というわけではない、と思う。
自分で料理をする上で、最もいいな、メリットだな、と思っている点は、
自分はそもそも合理的な行動が非常に好きなので、料理という一つの動作で多くのメリットを同時に実現していることを思うと、それだけで嬉しくなる。
自分で料理をすることのメリットは何か? 挙げていけば、下記のようになる。
①節約になる。
②健康になる。
③好きなものが食べられる。
⑦妻に喜ばれる
以下、順番に説明する。
これは言わずもがな、だ。一部には、「自炊はお金がかかる」と言っている人もいるようだが、そんなわけはない。
短期的に見れば、確かに一定の初期投資は必要かもしれないが、一旦ルーチンが確立してしまえば、中長期的なコストはどう計算しても自炊の方がやすい。わざわざ計算式で表現するのが馬鹿らしいほどだと思う。
料理器具などについての議論は一旦おいておくとして、ぜひ注目してほしいのは、「保存の効く食材について」だ。
ある程度料理をするようになるとわかるが、案外、日常的な料理で日本人が使用する食材や調味料のレパートリーは限られている。
また、そのレパートリーを大別すると、
(a)生鮮食品のように足が早いもの・・・肉、魚、卵、葉物野菜、牛乳、ヨーグルト、など。
(b)ある程度日持ちのするもの・・・玉ねぎ、ジャガイモ、にんじん、ねぎ、にんにく、生姜、昆布、鰹節、味噌、醤油、酒、ワイン、蜂蜜、塩、砂糖、コショウ、その他種々の調味料、など。
となる。
ポイントは、(b)に分類される、日持ちのする食材のうち、特に根菜類を、例えばイオンの場合であれば火曜市などの安価に入手できる日に、
常に一定数以上確保しておくようにすることだ。
(b)の分類の食材が常に冷蔵庫にストックされており、調味料なども揃っていれば、
あとはその日の気分次第で、適当に(a)分類の生鮮食品と組み合わせて調理する。
肉類も、日によって、この日は豚ロースが安い、この日は鮭が、などと変わっていくので、
特別なこだわりがなければ、こうした特売に合わせて食材をチョイスすると、より割安に材料を調達できる。
こうした方式を導入すれば、仮に一人暮らしだったとしても、食材を無駄にせず、常にジャストな分量の食事を、最も安い価格で実現することができるはずだ。
これについては、妻の嗜好をかなり取り入れたところがある。今となっては、むしろ出来合の食事を食べることがかなりストレスになってしまい、一食でもコンビニ食などで済ませるのは、非常に嫌になった。
むしろ、調理済みの惣菜や、飲食店の食事で、一日に必要な野菜の摂取量を十分に確保することは難しい。
調理済みの食品には、大抵の場合、多くの食品添加物が使用されている。
昔は食品添加物など「そんなシャラ臭いこと気にしてられるか」という印象だったが、今はほとんど全ての買い物で、食品の成分表示を確認するようになった。
具体的に、何は取るべきではなく、何は取ってもいい、という情報はあまりにも細かな話になってしまうし、自分自身でも完全に把握できているわけではないので、立ち入らない。
が、実際にコンビニやスーパーなどで普通に販売されている食材の中にも、専門的な見地から見て十分に安全とは言えない添加物が多数使用されているようだし、
加工食品をあまり摂取しない生活の方が、(少なくとも主観的には)体調がいい状態で日々を送れているように感じる。
また、砂糖や油などの、体調への影響度が大きい成分についても、
自炊をする中で、それぞれの分量や性質が自分の体調に与える影響の度合いを、実経験で観測していくことができる。
こうしたPDCAが自炊をしていると自然と回るようになるので、自然とダイエットにもなり、体調管理にもつながっていると思う。
これも当たり前と言えば当たり前だが、自炊による料理のおいしさ、という点では、個人的にはYoutube以前と以後で、自炊を巡る状況は大きく変わっている、と思うのだが、どうだろうか。
コロナ以前の、あまりYoutube上での料理動画が充実していなかった頃は、ホットクックを見るか、料理本を見て作るか、くらいが基本的な選択肢だった。
ホットクックは玉石混淆だし、料理本は色々試すにはハードルが高く、またレシピ通りに作っても必ず美味しくなるわけではない。
また、いずれの場合でも、レシピだけを見て作っていると、料理の背景に、ベースとなる基礎があることが理解しにくかった。
その点、例えば食材の切り方一つ、食材の投入タイミング一つでも、動画で示されれば、そこで用いられているテクニックは一目瞭然だ。
また、「これは本当にすごいな」という、作って感動するレシピがかなりたくさんあるのもYoutube料理動画の凄さだと思う。
誰の料理が好きかは好みが分かれるところだろう。個人的には、コウケンテツさんは、このジャンルでは本当の天才だと思う。ほとんど全てのレシピ動画に、味という観点だけでなく、作りやすさ、シンプルさ、という観点からも、驚くような工夫が凝らされている。毎回非常にクオリティが高いのに、ありふれていない。単純に仕事として憧れるところがある。
Youtubeがあることは、今から自炊を始めることの大きな理由の一つになるのではないか。
上記のように、Youtube動画でちゃんとレシピや工程を確認しながら多くの料理を経験していくことで、料理全般を下支えするセオリーが体感的にわかるようになってくる。
例えば、
・どのようにして旨味を構成するか?
・〇〇の食材は、季節によって味がどう変化するか、いつが美味しいのか?
・なぜこの順序で食材を投入するのか?
など、無数に論点がある。
もちろん、素人なので、こういう事柄について体系的にわかっているわけではないが、それでもかなり感得できるところがあるのは確かだ。
「なぜこのような料理の仕方になっているのか」「この料理のうち、何がユニークなのか?」「なぜこれが美味しいのか?」などを考える上で、それを言語化し、考えるためのヒントが自分の中で非常に多くなる。
また、それに対する考察が、日常の料理にもフィードバックされるために、自分と家族の食の経験がより豊かなものになっていく。
これは、とても創造的で、面白い頭の使い方だと思う。食をよく楽しむと、「ああ、人生を豊かに楽しんでいるな」という気に、ふとなる瞬間がたくさんある。
これも、個人的にそう感じる、というレベルのことに過ぎないかもしれないが、料理や食材は、「人間と自然との強力な接点の一つ」だ。
「サラリーマンは一年のうち3ヶ月は田舎に行って農作業をするべきだ」
というようなことを言っていた。
これは、人間は(人間以外の)自然に触れることで、人としての自然なあり様を取り戻せる、などというような話の文脈で言っていることのようだったが、
やはり現実的にはこれはなかなか難しい。
一方で、都会に暮らしていると、自然に触れることによって自分の心身が整えられる感覚があるのも、自分としては実感するところだ。
例えば、食材を茹でている鍋の中で、いろいろな食材の色を眺めていると、何となく癒されるものがある。
また、料理をすれば、その色彩を眺めるだけでなく、実際に手で触れ、匂いを嗅ぎ、それを味わう、という、五感を総合的に用いたプロセスを、自然と経験する。
これが、日常生活を生きる上での、癒しになっている面は非常にあると思う。これは、例えば電子機器などが介在するような趣味とは、少し異なる位置づけの趣味として考える必要がある。
料理は細々したタスクの積み重ねだ。日々確実に、決まった時間に、下記のような要素を十分に考慮した料理を提供する必要がある。
・おいしさ
・栄養素
・原材料費
・在庫管理
・洗い物の段取り
これらの左脳的なタスクも、非常に奥深いものがあり、上記を同時に達成するためには、細かなオペレーション上の工夫や、機材の導入などを適切に行なっていく必要がある。
私自身は一介の勤め人だが、上記のようなスキルは、一般に経営者が求められる全般的なスキルと通ずるところがあるのではないか、と思う。実際に、経営学等における考え方を、日々の料理の管理に活用している部分も色々ある。
こうした事柄について改善を行うためには、個々の作業をただ行うだけではなく、全体の工程を俯瞰した上で、このプロセス全体を創造的に組み替えていく必要がある。
ここまで色々語っているが、自分が料理に実際に日々費やしている時間は、平均で30分程度のものだろうと思う。
このような工夫を継続的に行うことで、「涼しい顔をして高品質のアウトプットを出し続ける」ような仕事の仕方を、多少なりとも身につけることができつつあるのではないか、と思っている。
結局、これが一番大事だ。
よくある言説として、「時給に換算するとこれは〇〇円だから、外注した方がいい」などというものがある。
確かに、資本主義の原則から考えれば、原則的に自給自足は不合理であり、分業こそ正義、というのは、理論的には正しいだろう。
「自分がすることのうち、何を内部化し、何を外部化するか、ということは、生き方そのものを規定する哲学だ」ということだ。
それこそ原理から言えば、ありとあらゆることを外注化することができる。
料理を外注化すること、子育てを外注化すること、(仮想的に)家族・友人を外注化すること、(パッケージ化された娯楽を楽しむという点で)趣味を外注化すること。
技術が発展すれば、例えば「息をする」というようなことも外注できるだろう。
原理を考えれば、デカルト式に、「我思う」以外の事柄は、全て外注可能である、と言うことができるかもしれない。
しかし、やっぱり自分はそういうあり方には、本質的な喜びはない、と思う。
食事を作り、家族と食べる、という行為は、「息をする」のと同じカテゴリーに入る、自分に属する行為だ、と、今の自分は感じているらしい。
まあ、どこにラインを引いていくかは、人それぞれだ。それが生きる姿勢の反映ということだと思います。
…
EVに乗るとなぜバナナが食べたくなるのか、それは一つのミステリーだ。
静かで、しかもスムーズな乗り心地のEVは、どこか未来的な雰囲気を漂わせている。
そんな中で、プラスチックの香りと新車の匂いが混ざり合い、不思議とバナナの甘い香りを思い出させるんだ。
それに、EVを運転していると、エコな気分になるからか、自然と体に優しいものを求める心理が働くのかもしれない。
だから、EVに乗っていると無意識のうちにバナナを欲するんだろう。
EVの静かな走りと、黄色いバナナは、なんとなく未来的なビジョンを結びつける色だ。
それに、バナナは曲がっている。
EVの曲線的なデザインと、バナナの曲線は、どこかシンクロしているような気がする。
まるで、バナナがEVの曲線をなぞるように、手に取りたくなるのかもしれない。
そんな時、手軽に食べられるバナナは、最高のスナックになるんだ。
友達とEVでドライブに出かけた時、バナナはシェアしやすい食べ物だ。
だから、バナナはEVに乗る時の、コミュニケーションツールにもなるんだ。
EVに乗るときの静けさと、バナナのリラックス効果は、ドライブをより快適なものにする。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、自然なことなのかもしれない。
子供の頃、おやつにバナナを食べた記憶は、多くの人にとって懐かしいものだ。
EVの新しい体験と、バナナの懐かしい記憶は、不思議と心地よい組み合わせを生み出すんだ。
EVのユニークなデザインと、バナナのユニークな形は、どこかでマッチしているような気がする。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、デザインの親和性からくるのかもしれない。
それに、バナナは安い。
バナナはコストパフォーマンスが高く、EVの効率的なイメージに合っている。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、経済的な理由からかもしれない。
EVを運転すると、世界中どこでも行けるような自由な気分になる。
バナナは世界共通のスナックで、EVのグローバルなイメージにぴったりだ。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、世界観の拡がりを感じるからかもしれない。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、シンプルな美学からくるのかもしれない。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、健康への意識の高さからかもしれない。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、多様性を求める心理からかもしれない。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、全世代に共通する楽しさからかもしれない。
EVのアクセシビリティと、バナナの入手の容易さは、利便性で結ばれている。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、手軽さからくるのかもしれない。
EVの静かなパワーと、バナナのエネルギー補給は、ドライブをサポートする。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、エネルギーのシナジーからかもしれない。
それに、バナナは気分を明るくする。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、ポジティブな気持ちからかもしれない。
バナナはインスタ映えするし、EVのスタイリッシュなイメージと合う。
だから、EVに乗るとバナナが食べたくなるのは、SNS映えを意識すると当然だ。
そんな時、バナナを一本かじることで、ほんの少しの冒険を味わえるんだ。
「なぜバナナなの?」という疑問から、新しい会話が生まれることもある。
突然のバナナの皮で、ドライブ中の友達を驚かせることもできる。
EVの静かな室内で、バナナを食べるリズムは、まるで音楽のようだ。
バナナの皮で作るアートは、ドライブの思い出に残る一品になる。
「バナナは曲がっているけど、宇宙は曲がっているのか?」という深い問いかけをすることもできる。
EVでのドライブ中に、バナナを使ったゲームで盛り上がることもある。
バナナを半分こして食べることで、友達との絆を深めることができる。
EVでの旅にバナナを持っていくことで、何か新しいことが始まる予感がする。
バナナをゆっくり味わいながら、EVでの時間の流れを感じることができる。
バナナの味をじっくりと感じながら、自分自身について考える時間を持てる。
「なぜバナナがこんなにも多様なのか?」という疑問を解き明かす手がかりになる。
子供の頃に食べたバナナの味を思い出しながら、過去を振り返ることができる。
EVの快適な座席に座り、バナナを食べながら、現実から少し離れることができる。
バナナの形や色を見ながら、新しいアイデアを思いつくこともある。
バナナのシンプルな味わいから、人生の小さな幸せを見つけることができる。
バナナを分け合うことで、友達との小さないざこざを解決することができる。
バナナを食べていると、同じくバナナ好きな人と話が弾むこともある。
バナナを持っていると、なぜか安心してEVでのドライブができる。
バナナを食べながら、EVでのドライブを通じて、自然の美しさを感じることができる。
バナナの存在を通じて、生命の不思議や宇宙の広がりに思いを馳せることができる。
それに、バナナは時には新しい自分を発見するきっかけにもなる。
バナナを食べることで、新しい趣味や興味を見つけることができる。
バナナの一本一本が、EVでのドライブのように、人生の一歩一歩を表している。
バナナを食べながら、異なる国のバナナの食べ方を学ぶことができる。
バナナの持ち方や食べ方で、自分の個性を表現することができる。
バナナを食べることで、EVでの新しい旅に踏み出す勇気が湧く。
それに、バナナは時には人とのコミュニケーションを円滑にする。
バナナを食べることで、日常のルーチンから抜け出すきっかけになる。
それに、バナナは時には新しい自分を見つける旅にもなる。EVでのドライブは、日常からの小さな逃避行だ。バナナを片手に、新しい景色を眺めながら、自分でも知らなかった一面を発見するかもしれない。それに、バナナは時には心の栄養にもなる。EVの静かなエンジン音をBGMに、バナナの甘さが心に染み渡る。それに、バナナは時には冗談のネタにもなる。友達との会話の中で、「バナナは曲がっているけど、お前の道筋はどうなんだ?」なんて笑いを誘うこともできる。それに、バナナは時には旅の仲間にもなる。一人でのドライブが寂しい時、助手席に置いたバナナが、なんだか慰めてくれるような気がする。それに、バナナは時には思い出のアルバムにもなる。旅先で食べたバナナの味が、その場所の記憶とともに蘇る。それに、バナナは時には未来の夢を語る相手にもなる。EVでの静かな夜道を走りながら、バナナに向かって「いつかこうやって宇宙を旅するんだ」と夢を語る。それに、バナナは時には過去の懐かしい味にもなる。子供の頃に食べたバナナの味が、EVの新しいテクノロジーと融合して、新旧のハーモニーを奏でる。それに、バナナは時には自分を励ます言葉にもなる。ちょっとした失敗をした時、バナナを一口かじりながら「まあ、次があるさ」と自分を励ます。それに、バナナは時には旅のリズムを作る。EVの滑らかな加速と、バナナを食べるリズムが、まるでジャズのようにシンクロする。それに、バナナは時には新しい出発を告げるサインにもなる。バナナを食べ終わった瞬間、新しい何かが始まる予感がする。それに、バナナは時には自然との対話を促す。バナナの木が育つ熱帯の風を感じながら、EVでのドライブが自然との調和を教えてくれる。それに、バナナは時には人生の小さな発見をもたらす。バナナの中に隠れた種を見つけた時のように、EVでのドライブ中にも、予期せぬ発見がある。それに、バナナは時には新しい挑戦の象徴にもなる。バナナを食べながら、「次はどんなことに挑戦しようか」と考える。それに、バナナは時には人生の楽園を思い描くキャンバスにもなる。バナナのトロピカルな味が、EVでのドライブを南国のビーチへと連れて行ってくれる。それに、バナナは時には心のオアシスにもなる。疲れた時、バナナを食べることで、心にひと時の安らぎをもたらす。それに、バナナは時には新しい自分を受け入れる勇気をくれる。バナナの柔らかさが、変化を受け入れる柔軟性を教えてくれる。それに、バナナは時には人生の旅路における休息の時を与える。EVでの長いドライブの途中、バナナを食べることで、ほっと一息つける。それに、バナナは時には新しい友達を作るきっかけにもなる。公園でバナナを食べていると、同じくバナナを楽しむ人と友達になれるかもしれない。それに、バナナは時には人生のサプライズを運んでくる。バナナを食べていると、思いがけない幸せが訪れることもある。それに、バナナは時には新しい発見を促す探検家にもなる。バナナの味を追求することで、未知の食文化に足を踏み入れることができる。それに、バナナは時には人生の航海図を描く羅針盤にもなる。バナナを食べながら、EVでの次の目的地を決める。それに、バナナは時には心の平和を守る盾にもなる。バナナの甘さが、日々のストレスから心を守ってくれる。それに、バナナは時には新しい自分を育てる土壌にもなる。バナナを食べることで、新しい趣味や興味が芽生える。それに、バナナは時には人生の喜びを分かち合うための道具にもなる。バナナを人と共有することで、共感や喜びを感じることができる。それに、バナナは時には新しい冒険の始まりを告げる。EVでのドライブが終わり、バナナの最後の一口を食べると、次の冒険が待っているような気がする。それに、バナナは時には人生の旅路における忠実なコンパニオンにもなる。バナナと共に過ごす時間は、EVでのドライブをより豊かなものにしてくれる。それに、バナナは時には新しい自分を発見する旅の始まりにもなる。バナナを食べながら、EVでのドライブが新しい自分を見つける旅になる。それに、バナナは時には人生の旅路における快適な休憩所にもなる。バナナを食べることで、EVでの長いドライブの疲れを癒すことができる。それに、バナナは時には新しい自分を発見する旅の終わりにもなる。バナナの最後の一口を食べた時、EVでのドライブが終わり、新しい自分との出会いが待っている。それに、バナナは時には人生の旅路における楽しい仲間にもなる。バナナを食べながら、EVでのドライブが楽しい冒険になる。それに、バナナは時には新しい自分を
再生治療がドンドン発達してるけど、このペースだとあと30年ぐらいしたら脳の再生治療も可能になる気がするんだよね。
脳みそから記憶や意識を移植するのもマッピングが進めばテセウスの船方式でなんとかなるんじゃないかなと。
培養した脳みそを今の脳みそに対しての外部記憶装置みたいなかんじでくっつけて、2つ分の脳みそで記憶の共有が進んでいった所で少しずつ古い方の脳みそを減らしていくとかで。
そんでまあそうやって再生医療が出来るようになると、富裕層が擬似的に不老不死になるんじゃないかって思うんだよね。
市民には絶対に手が出せないウチはいいけど、めっちゃ頑張ってお金貯めたらなんとかなるようになったら世の中マジで狂っていきそうだなと。
何が問題って、自分が不老不死になるのと子供を作ることを天秤にかける人が出てくること。
これは恐ろしい死生観の変化だよ。
めっちゃ発展したとしても「子供を私立に行かせるのを諦めれば自分が人生をやり直せる」みたいな選択が出てくるようになる。
という話が描かれたSF小説を教えてくれ。
GPTやBINGに聞いてみたんだが、カスのような回答しか出てこなかった。
単なる不老不死をテーマにした作品を教えられても俺は困るんだよ。
俺が求めているのは「金を出せば人生をやり直せるようになった社会で、人々はどういう金銭感と死生観を持って社会を生きるのか」であり、それを通して俺は「金銭感覚の根底に根ざすそれぞれの人生観」という現代社会にも通ずる哲学を感じ取りたいのに。
ああ、なるほど。大げさに言えば、国家が自身の後身となる「100年後の国家」の形を、意図してデザインできるようになるということか。そのとき、国家はどういう哲学の下に「100年後の自身」を選択するのか、ということか。
この議論、常に現在世代の優遇になるという側面はあるよね。たとえば人口100人で外界と遮断された孤島があって、そこで次世代をどうするかを議論したら、それは常に「リソースとの見合い」になると思うんだよ。100人しか養えない状況なら、そりゃ「子供作るな」って話になるだろさ。
これがたとえば1000人でも養えるリソースがあれば、「当面は勝手に増やしてヨシ!(産めよ増やせよ)」てなりそうだけど、そうなると人口が1000人に到達した後の村人は、急に「わが子をもつ権利(再生産権?)」を大きく制限されるわけだよね。子作りできる人を人口の20%(日本の場合既婚率が代替6割、うち1/3を出産適齢と想定。もちろん、結婚しなくても子供は作れるし逆もまたしかりだけど、まあ概算てことで)、自然減を1%(これも統計による)と見積もろう。子づくりできる人に対して志望者は1/20だから、単純に言って死亡者に合わせて子づくり権が配布されるとしたら、20倍の応募を勝ち抜かないといけない。最初の世代が100%であったのに対して最後の世代は5%の権利しかなくなるのは、明らかに不公平だよなー。
そうなると今度は、「更なる人口拡大を可能にするために、リソースを増大する技術開発」に必死になるだろうけど、たとえば原発見りゃ分かるとおり、結局「(希望的な見込みによる)将来世代への負担押し付け」による、見かけ上の問題解決が一番簡単なわけで、ここでも「現役世代優遇、将来世代へのさらなる負担増」の構図は変わらないんだよ。
結局、「民主的手続き」は、「(自分では声を上げられない・投票できない)将来世代からの搾取」というバグ構造を常に抱えてる。これを踏まえて、最初の問いに答えるなら、「どうなるか」に対しては、放置すれば常に現役優遇の圧力の下、将来に抱えきれない負担を背負わせやがて破綻する道を歩むというのがおよそ誤りのない予測になるだろうし、「どうすべきか」に対しては、民主主義に代わる新たな意思形成手続きを見つけるべきという話にしかならんのだろう。
後者は、つまり現在生きている人間の上に『時間を超越した外部者』を(理念上でも実際でも)君臨させるという方法になるわけで、てゆーことはそれ分かりやすく言えば宗教じゃんて話になる。新たに結婚する男女に「こづくりしてよい」「こづくりしてはならぬ」の決定を告げるのが、見た目が神主によるお告げであるか人工知能による計算結果であるかは大した問題じゃない。そんなのあくまで見かけの問題に過ぎないので、いずれにせよ、滅びたくなければそういう制限を受け入れるしかないってこった。つまり「未来は不確定だから人間は自由意思の下にふるまってよい」という現代社会の基盤そのものを変えないと、将来的な破綻を防ぐのは、無理無理。
なんだよねー。まあそうなるともう強制的な「洗脳(たとえば脳内にチップ埋め込むとか)」を義務化して誰も「ご神託」に逆らえないようにしちゃうのが手っ取り早いだろーね。歴史的に言えば「中世暗黒時代」がそうであるように、それも一つの「幸福」の形であることは間違いない。もっとも、歴史的には、それもまたやがて想定不可能な外部性による「破綻」の可能性に至る道筋であることは間違いないんだけど。どちらにせよ破綻して大きな悲劇が生まれ、滅亡の一歩手前まで人口が大幅に減少して振り出しに戻る……を繰り返すのが、カミノミココロに叶う人類の運命というものなのかも。神という名のゲームデザイナー、プレイヤーに容赦なさすぎなんよ。
人文学系(特に政治経済法学社会学哲学etc)の知識に触れる機会を作る
ネトウヨアンフェは大学までに上の知識を得る機会がなく、基礎教養や基礎リテラシーを欠いた人が大人になってからネットだけで情報収集して「目覚めた」結果、基礎的な土台となる知識がないために簡単に陰謀論にハマってそうなるらしい
どっちだよ(哲学)
リベラル、フェミ批判はこういう見るからにキチガイ装った奴が出てきて、何も返信できなくなるように誘導しようとするのが必ず出てくるのが面白い。
賢い誤摩化し方でもしてるつもりなのかなあ。
時々、行動を起こすことが重要だと思うことがある。
私は障害者であり、ハロワの職員に勧められて自立訓練施設で訓練していたことがあった。そこでの人間関係は楽しいものだったが、訓練が役立ったことはない。
教えられなくとも料理はできるし、裁縫を学んでも実生活で役立つことはないし、OfficeSuiteの使い方なんてものは教わるまでもない。
訓練の一環と言って、無賃で工場勤務をしたこともある。たまに巨大組織に金をむしり取られる夢を見る。これは自立訓練で金と時間を奪われたトラウマと思っている。
「足るを知る」がその組織の哲学だったが、個人の哲学として優れているとしても、企業がそれをやれば「低賃金?障害者のお前たちが働けるだけありがたく思え」という態度になるだろう。
それで...行動を起こすとはどういうことか。例えばそれは自立訓練を抜け出して自分の力で転職活動をするということだ。そして結果的にフルリモートで働くプログラマーになれたわけである。
さてこの先、収入を高めるために転職活動をするべきだろうか。私は箴言の一句を思い出す。
フルリモートで自由度が大きいのに、仕事に対する態度がかなり真面目になってしまい、精神的にもストレスは溜まっている。
真面目に働こうと思うわけである。GWも火曜日からは仕事がある。
ところで、仕事と余暇が同じ部屋であるからか、寝ているときにコードを脳内で走らせるような悪夢も見る。
おそらく代わり映えのない部屋の風景に浸り続けるのがいけないのだろう。今日は散歩でモスバーガーまで行ったが、こういう気晴らしが必要だ。
『人生』っていう本の登場人物って、多分沢山居て。少女AとかBとか、そういう有象無象の頂点に立つのが、主観的に物語を見ている、私たち。どんなにクソみたいな人生でも主役はどうしたって変わらないし、変わったように見せかけて実はずっと自分の人生を生きてる。
そんなことを思ったって、今日バイトがあることに変わりない。重たい頭をかかえてクロワッサンを頬張る。時刻は13時。今起きたばっかり。思考が上手く働かない、ふわふわする。日曜日の昼からバイトで潰れるって、一番気分が重たくなる。苦虫を噛み潰したような顔で喉を鳴らす。強化ガラスのコップに、飲みかけのペットボトルから麦茶をうつす。
麦茶って、癖がないから飲みやすい。私がそう思うだけ?麦茶みたいな人生を送ってみたい。さっぱりしていて、透き通った褐色だけど、深みがある。これに氷を入れたら完璧な人生。澄み切った氷が心臓になって、溶けた頃には成熟して死ぬ。いいかもしれない。私も麦茶みたいになろう。コップを持って、一気に飲み下す。息を吐けば、頭もすっきり冴え始める。
結局、どんな人生になるかはこれからの私次第。実は今、こうして悩んでいるけれど、まだ20歳にすらなっていない。酒の味も知らないし、煙草はなんだか不味そう。でも、バイト先でちらと箱を見た、紺色に金の…あの箱は何だったかしら。きっと煙草だ。そこまで考えて、はっとする。私、話がとびすぎるのだわ。口を手で覆う。今何を考えていたか…そう、人生。これからの私のことだ。
人生色んな可能性がある。事故で死ぬかもしれないし、不治の病で夭折するかもしれないし、はたまたギネス記録に認定されるような長寿にもなれちゃったり。でも普通は、適当に生きて適当に死ぬ。のだと思う。人生って、主役側で過去は書き換えられないから面倒臭い。でも、先はちょっとだけ変えられるかも、っていう希望だけで生きてる。人間って面白い。だってバイトに行きたくないだけで、人生のこと考え出すし。
考えすぎちゃった。精神辛くなる前に、さっさとバイトに向かってみよう。まずはメイクしなきゃ。今日はちょっとアイシャドウ、ラメ多めにしよう。テンション上げたいし。哲学ばっかり考えていたら、人生もたない。
程々に生きていたい。メイク道具を適当に放り込んだ紙袋を、怠惰に引き寄せる。この瞬間、『人生』のページにはなんて書いてあるんだろう。とりあえずメイク盛れてるといいな。
おもしろい。
信頼(しんらい)とは、相手や対象に対し自分の期待した通りの結果が帰ってくることが信じられること。どれだけ信じられるかの定量的度合いを信頼性や信頼度という。
(wikipediaには信用の項目は無し)
イマイチ要領を得ない。社会心理学の用語として載せられている。ここで調べる先を間違っていたことに気づく。
信頼(しんらい)
1. 信じて頼りにすること。
信用 (しんよう)
1. 信じて任用すること。
wiktionaryの定義によれば、信頼は一種感情的なものでさえある。しかし信用は、例えば"信用取引"などという言葉があるように、感情ではなく、どちらかと言えば"合理的な期待"に類似することが分かる。
/* だが、信用と信頼を、意識して使い分けている人が、どれほどあるのか?あるいは、ごちゃまぜに認識している人も、いるのではないか?というのも、私もイマイチ意識していなかったために、こうして調べているのだから。
例えば「そんな人のこと、信用しちゃダメだよ」この文がどちらの意味を(感情か、合理的な期待か)持って信用という語を使っているのか?それは発言及び人物の背景を見ないと分からないと感じる。
形而上の言葉というのはそういうものだろうか。(哲学初心者)*/
信頼とは裏付けも担保もなく相手を信じること。 これもアドラーの言葉です。 信用というのは条件つきで相手を信じること。(引用元)
「信用」と「信頼」では微妙に意味が違う。前者は損得を計算した上で相手を信じる行為を指すが、後者は利害を超えて相手に身を委ねる気持ちがあらわれている。違いを意識した上で英語に訳すと、「信用」は「give credit to s.b.」、「信頼」は「rely on s.b.」というのが適当かと思う。
藤田達蔵著「ガイドとの交信マニュアル」の第5章「交信のコツ」の「5自信を持つ」から以下抜粋する:
「必ず期日までに返済するならお金を貸してやろう」というのが信用です。それに対して、「きっと返済してくれると信じているからお金を貸してあげよう。もしも返してくれなくてもそれはこちらの責任。君を信頼しているから貸すよ」というのが信頼です。
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村上春樹氏は、『村上さんのところ』に収められた読者への返事に自らの考えをまとめた:
長嶋茂雄さんはかつて「選手は信頼するけれど、信用はしない」という名言を吐かれました。要するに配下の選手に対して「基本的にはポジティブに受け入れるけれど、細部に関してはしっかりと疑いの目を向ける」ということなのでしょう。例によって「長嶋語」ですが、なんとなく感覚としてはわかりますよね。
「信用」と「信頼」、「信任」を使い分ける | Web Pages Japanese-English And English-Japanese Wiki | Fandom
木浦 幹雄 / KIURA Mikio @ANKR DESIGN
@kur
テツロー
@punpupuuuun
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返信先:
@bombombomb2017
さん
事例あります(ドヤァ)で終わること多いですよね。。。なんで?って聞くと、信頼性、コスト、納期ぐらいしか皆さん言わないですし。。。
ここで"信頼性"という語を思い出す。これは「reliability」の訳語だろうか。統計やモノ、サービスがどれほど"そうである"という期待を持てるか、というところか。この概念は信憑性、確実性とも言いかえられる。やや"信頼"からは離れた言葉のようだ。
話が逸れた。まあ、ここまでの感じを見ると、「聞いた話を元に株を買うことと、株を買うために金をそいつに預けること。」は、双方、信用した結果の行動というところか。
信用は、必ずしも信頼を必要とせず、例えば過去の実績や、業績などを理由に行うことができる。という感じだな。
モノに使う場合は、"機能を発揮することの期待"(0/1)が信用で、"可用性、もしくは妥当性を期待すること"(1が継続すること、あるいは1が1であること)が信頼かもしれないが、調べたりないし、もう飽きたのでまたいつか。
つまり、こういう事。お前は選択する自由がある。しかし、その正解が予め決まっていて正しい方を選ばなければならない。間違えた場合罰せられるか共同体の中に存在しながら無視される事になる。
個人に先立つ社会は存在しない前提のはずなのに、多様な思想の一形態である個人の主観的感想が劣っていて、集団的意見の方が優れてるとはとんでもなく酷い逆説。
>強制された選択の状況は、主体が、自分の選択とはかかわりなくすでに属している共同体を自由に選択しなければならないのである。
問題は、彼は実際にはけっして選択する立場にないというこである。彼はつねに、すでに選択したかのように扱われる。
しかも、こうした強制選択は全体主義的な〈権力〉が主体(人民)を捕らえるために利用する罠であるかのような第一印象を与えるにも関わらず、そこになんら「全体主義的」なところはない。━━スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』
誤った選択をした場合に精神障害者のレッテルを貼るところもファシズムそのもの。「そっち側」って言って自分から切り離そうと異化してるけど君も「そっち側」の人間だよ。直接明言しないだけで。
民主主義的自由は間違ってても尚当人がそれを支持できる愚行権が備わって初めて非-排他的社会を構成することが可能なんだから報復を超えた直接的実害性(ヘーゲルが歴史哲学講義で例に挙げた放火に類するもの)の伴った行為でなければ例え悪意に基づいていても民衆それぞれに主権が具わる共同体では許容される。(不能犯を不可罰にする判例等)
なのにその思想を持ったというだけで構成員である元増田を排除しようとしているってわけ。
根底の価値観は全く同じにも関わらずより効率的に排除するために慣習的常套句まで利用して排他的社会を推進しているのに、まるで民主主義の番犬のような顔をするからより質が悪い。共同体主義のドイツ的ファシズムを選択するぐらいなら『アルファヴィル』のような実証主義的管理社会の方がマシだろ。
つまり、こういう事。お前は選択する自由がある。しかし、その正解が予め決まっていて正しい方を選ばなければならない。間違えた場合罰せられるか共同体の中に存在しながら無視される事になる。
個人に先立つ社会は存在しない前提のはずなのに、多様な思想の一形態である個人の主観的感想が劣っていて、集団的意見の方が優れてるとはとんでもなく酷い逆説。
>強制された選択の状況は、主体が、自分の選択とはかかわりなくすでに属している共同体を自由に選択しなければならないのである。
問題は、彼は実際にはけっして選択する立場にないというこである。彼はつねに、すでに選択したかのように扱われる。
しかも、こうした強制選択は全体主義的な〈権力〉が主体(人民)を捕らえるために利用する罠であるかのような第一印象を与えるにも関わらず、そこになんら「全体主義的」なところはない。━━スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』
誤った選択をした場合に精神障害者のレッテルを貼るところもファシズムそのもの。「そっち側」って言って自分から切り離そうと異化してるけど君も「そっち側」の人間だよ。直接明言しないだけで。
民主主義的自由は間違ってても尚当人がそれを支持できる愚行権が備わって初めて非-排他的社会を構成することが可能なんだから報復を超えた直接的実害性(ヘーゲルが歴史哲学講義で例に挙げた放火に類するもの)の伴った行為でなければ例え悪意に基づいていても民衆それぞれに主権が具わる共同体では許容される。(不能犯を不可罰にする判例等)
なのにその思想を持ったというだけで構成員である元増田を排除しようとしているってわけ。
根底の価値観は全く同じにも関わらずより効率的に排除するために慣習的常套句まで利用して排他的社会を推進しているのに、まるで民主主義の番犬のような顔をするからより質が悪い。共同体主義のドイツ的ファシズムを選択するぐらいなら『アルファヴィル』のような実証主義的管理社会の方がマシだろ。