はてなキーワード: 古代とは
GWにアイスボーンが半額になっていたので、数年放置していたモンハンワールドを再開した。
ゲームをほとんどやらない私が、メインストーリーをクリアした数少ないゲームの1つである。そして古代樹の森とアンジャナフを見る度に、人生で1度だけやったマルチプレイを思い出す。
そもそもゲームにそこまで興味のない私がPS4とモンハンを手に入れたのは、愚かにも当時好きだった人と近付きたいという下心だった。
あまり異性と積極的に会話しない彼に近付くためには、相手の好きな物を知って、共通の趣味を作って話題にするのが手っ取り早いと考えたのだ。
「ゲーム始めようと思って〜」などと話しつつ、親にクリスマスプレゼントとお年玉を纏めて買ってもらったPS4でまずは彼の好きなFPSを始めてみた。
ゲーム開始30分、めちゃくちゃに酔ってすぐ辞めた。
そのまま月日が流れ、ワールドの発売から1年ほどしてなんとなく興味のあったモンハンを始めてみた。
爽快感のあるアクションが面白くて、珍しくハマった。広大なマップに迷子になりつつも、時間を見つけて進めていたが問題が発生する。
何をどうしても倒せない。何回やっても3乙。アンジャナフを倒さなければストーリーは進まない。アンジャナフにやられないためのもっと強い防具を作るにはアンジャナフを倒さなければならない。無理じゃん!
当時既に付き合っていた彼に「アンジャナフ倒せない」と連絡してみると、その日のうちに通話しながらマルチプレイしてくれることになった。
突然の通話に緊張しつつ、姫プ状態でアンジャナフを倒してもらった。
普段は彼のゲームの時間を奪わないように我慢していた通話ができたこと、「何をしてあげたらいいかわからない」とよく言う彼が、自分のために何かをしてくれた事がとても嬉しかったのをよく覚えている。
同じ空間を共有して会話をする。あれは私にとって紛れもなくデートだった。
数ヶ月後、私がプレイ途中のモンハンを放置したまま現実の彼とのデートに着ていく服を思い悩んでいる間、彼はネットで知り合ったであろう女性と通話しながらFPSをしていた。
私にとっては特別だったことが、彼にとってはなんでもない日常なのだとわかった。
それに対する身勝手な悲しみを上手く伝えられずに別れてしまった。
ひとしきり病んでからそのまま放置していたモンハンを再開して、大型を倒しては放置し、また大型を倒しては放置を繰り返し、詰んでも代わりに倒してくれる人はもういないので、地道に頑張った。
結局ショートカットのやり方もわからないまま、ソロでゼノ・ジーヴァやナナ・テスカトリを倒した。
数年経った今でも古代樹の森でアンジャナフを見る度に、1人で倒せなかったこと、モンスターを倒してくれることよりも電子上の文面ではなく声で話せることが嬉しかった時間を思い出す。
今は1人でモンスターを倒して、1人で人生を歩まなければいけないことも。あの1度のゲーム以外で彼に守られたことなんかなかったけど。
席次 | コードネーム/英名 | 仮面ネーム?※ | 本名 |
---|---|---|---|
統括官 | 「道化」/"The Jester" | ピエロ | 不明 |
執行官第1位 | 「隊長」/"The Captain" | カピターノ | 不明 |
執行官第2位 | 「博士」/"The Doctor" | ドットーレ | ザンディク |
執行官第3位 | 「少女」/"Damselette" | コロンビーナ | アンジェリカ? |
執行官第4位 | 「召使」/"The Knave" | アルレッキーノ | ペルヴェーレ |
執行官第5位 | 「雄鶏」/"The Rooster" | プルチネッラ | 不明 |
執行官第6位 | 「散兵」/"Balladeer"→空席 | スカラマシュ | 国崩 |
執行官第7位 | 「傀儡」/"Marionette" | サンドローネ | 不明 |
執行官第8位 | 「淑女」/"The Fair Lady"→空席 | シニョーラ | ロザリン・クルーズチカ・ローエファルタ |
執行官第9位 | 「富者」/"Regrator" | パンタローネ | 蒼朮? |
執行官第9位(同率)? | 「富者」/"Regrator"? | カッサンドロ? | 白朮?/考察元 |
執行官第11位 | 「公子」/"Childe" | タルタリヤ | アヤックス |
※仮面を用いるイタリアの即興劇コンメディア・デッラルテにおけるストック・キャラクターが元ネタと思われる
追加情報: フォンテーヌ廷で入手できる書籍「ペリンヘリ」から、ペリンヘリはカーンルイア赤月王朝が人造降臨者(超越者)を錬成する実験の成果であると思われるが、この描写との多数の一致により、召使は同じルーツを持つ技術によって誕生した人造人間であることが示唆されている。
カーンルイア(ダーリ人)遺跡からおそらく同じ技術を持ち帰ったルネによって作られたのがキャタピラーで、こちらは灰からではなく不死の呪いを受けたヒルチャールへの改造であり、そこが違い。
また、同じく「ペリンヘリ」から、アンジェリカは高天の使者であり、仙霊のルーツの(おそらく唯一の)生存者であり、その特徴と「少女」との一致から作中のアンジェリカと同一存在である可能性がある。考察元
この説でいくと、コロンビーナは最初の仙霊であり、古代の統一文明を導いていた天理の使者のうち最初に生まれた存在ということになる。創世神パネースは最初に4つの光る影を作った(おそらく統治のために使者とした)ことが分かっているので、その4柱のうちのいずれかであると思われる。
聖遺物の理の冠をパネースとして、生の花がスメールで垣間見た花神ナブ・マリカッタ、時の砂が白夜国や雷電眞や千風神殿に関わる時の神イスタロト、空の杯が甘露花海となった高天の使者で前水神のエゲリアとするならば、コロンビーナは死の羽に相当する神格をもっているのかもしれない。
書籍「酔っぱらいの逸話」の中の「最初の仙霊」たる少女も目を伏せていて、コロンビーナも目を覆っているのは、人間や俗世の者と愛し合うことを避けて神力を失わないようにということだろう。
上にリンクを貼った白朮ファトゥス説動画のコメントから興味深い指摘を取り上げる。白朮のマントは4枚のヒラヒラが垂れ下がる特徴的な意匠をしているが、動画中で「富者」のマークだと見做された「ヒーラーの手」シンボルに酷似した模様は、上下反転すると白朮に巻き付く長生とマントの意匠に一致する。
最近出てきた新しい動き「厳冬計画」について…この考察がいい感じだと思った。
なるほど確かにその通りですね。
意固地になって謝罪を固辞し続けて大変申し訳ございませんでした。
僭越ながらわたくしめがフェミニストを代表して土下座で謝罪させていただきます。
その方法として古代中国より伝わる「三跪九叩頭の礼」で謝意を表させていただきます。
なお、冗長した記述を避けるためにプログラミング言語「COBOL」を用いることを予めご了承ください。
IDENTIFICATION DIVISION.
ENVIRONMENT DIVISION.
CONFIGURATION SECTION.
DATA DIVISION.
WORKING-STORAGE SECTION.
PROCEDURE DIVISION.
MAIN.
PERFORM 3 TIMES
DISPLAY "GUI"
PERFORM 3 TIMES
DISPLAY DOGEZA-CNT "KOUTOU"
DISPLAY "CHI"
END PERFORM.
DISPLAY "CHIRAI"
END PERFORM.
STOP RUN.
END PROGRAM SANGUIKIUKOUTOU.
御清聴ありがとうございました。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240427031516
gryphon 面白く読んだが2点。「…付託されたが、その後本格的な審査…ない」は議会が駆引と日程で動く以上あり得る話で「付託」時点で一定水準の議論と推定可能か/米上院(各州2議席)等「平等選挙原則」は前提にせずとも可
平等選挙原則の話はあとに回す。議会が駆け引きと日程で動くのであれば、付託は政治的取引の結果と解することもできるような気がするというのはともかくとして、確かに議会の駆け引きの結果たなざらしにされているという可能性はある。そこで、先の2008年提案をもう少し細かく読んで見た。
https://dserver.bundestag.de/btd/16/098/1609868.pdf
よく読むと、この提案は、基本法や関連法規の改正を連邦政府に促すべきだという「決議」の提案であり、基本法改正の条文を並び立てる案ではない。条文も具体的な制度設計も伴わない提案を一定水準の議論と言って良いのか。だから賛否も問われずにたなざらしにされたのではないだろうか。以下の文章以外は、提案の理由(いわゆる「世代間正義」の実現が主のようだ)が長々述べられているに過ぎない。
II. Der Deutsche Bundestag fordert die Bundesregierung auf, einen Gesetzentwurf zur Einführung eines Wahlrechts von Geburt an durch Än- derung des Artikels 38 des Grundgesetzes und erforderliche weitere gesetzliche Änderungen, insbesondere im Bundeswahlgesetz, vorzulegen. Für den Fall, dass die Eltern sich in der Ausübung ihrer Stellvertreterposition in Bezug auf das Kindeswahlrecht nicht einigen können, wird die Bundesregierung aufgefor- dert, eine einfache und beide Eltern möglichst gleichberechtigende Regelung zu schaffen.
連邦議会は、連邦政府に対して、基本法第38条と他の必要な法律の改正、特に連邦選挙法の改正を通じて出生時からの選挙権を導入する法案を提出するよう求める。両親が子の選挙権についての代理権行使[の方法]について一致できない場合のために、連邦政府には、簡単かつ両親双方に可能な限り同権的な規則を作成することを求める。
ちなみに、Wikipediaドイツ語版(https://de.wikipedia.org/wiki/Familienwahlrecht)を見て知ったのだが、2003年にもほぼ同じ提案がされている(https://dserver.bundestag.de/btd/15/015/1501544.pdf)。
こうして経緯を調べてみると、議会の妥協ゆえにたなざらしにされているというよりも、5年経って具体的な案も詰められなかったというのが現実であるように思われる。
「国会で」とか「政府で」という枠を外して学界に目を転じると、確かにドイツ人らしく(?)真面目に議論されているみたいだ。前回の調査局の報告書には、数は少ないながらこの問題を直接的に取り扱った論文がいくつか引用されていた。彼らが議論しているのは基本法の定める民主国家原理に反するのか、それを促進できるのかという点である。問題は、そうした真面目な議論をきちんと踏まえた上でドイツ人ができなかった(ように見える)平等選挙の原則に反しない提案を考案するどころか、子が3人だから私は4票(吉村氏)などと賛成派のドイツ人も避けようとしている発言をしてしまっていることだ。
さて、平等選挙の話に戻る。アメリカの上院は人口にかかわらず一州に2議席である。しかし、このような例があるから平等選挙は必ずしも民主主義の前提ではないというのに私は強い疑問がある。
第一に、合衆国憲法の上院の議席分配については、アメリカ連邦制特有のものである。アメリカのような連邦制をとらない日本でこの例を出すことは不適切だろう。
第二に、アメリカの上院の議席分配が不平等であることは、当のアメリカ人も不満を持っている。たとえば有名な政治学者ロバート・ダールの『アメリカ憲法は民主的か』(邦訳が岩波書店からある)は、上院議員が人口に比例していない「顕著な不平等代表」であると述べる(邦訳58頁以下)。この仕組みは合衆国憲法制定時に諸州の妥協(いわゆるコネティカット妥協)で作られたわけであるが、そもそも、合衆国憲法は民主主義が大事にされる時代に制定されたわけではないというのが時代背景としてある。合衆国憲法が制定された時代には、不平等な選挙制度は普通に見られた。ダールは一例として、19世紀に存在した悪名高いプロイセンの三級選挙法を引き合いに出している。三級選挙法は、平等選挙を求める激しい非難を浴びながらもしぶとく生き残っていたが、第一次大戦の敗北と共に消え去ったのである。選挙権は与えるが露骨にユンカーと資本家の票を優遇するこの仕組みは極めて有名であり、今でも平等選挙の反対概念である差等選挙の一例として三級選挙法はよく言及される。今さら民主主義が大事にされていたわけではない時代にできた妥協として生き残っているものを引き合いに出すのは、民主主義者の行動としてはおかしなものだと思う。ちなみに、ドイツの連邦参議院(上院)は、ある程度の人口比例的に各州に議席が割り振られることになっている(また、そもそも連邦参議院はアメリカの上院ほどの権限はない)。
ケルゼンも言っているが、民主主義は人々の平等をもって本旨とする(古代のギリシアの民主政も突き詰めれば平等に行き着くだろう。民主政を表すもう一つの言葉はイソノミア(平等の法)である)。選挙権の平等は民主主義と切っても切れないのであり、ドイツ人が平等選挙に反しないように「代理」と言っているのは、ドイツ基本法(憲法)20条に抵触するのを避けるためだけではないだろう。もし平等選挙の理念を取っ払うのだとすれば、金持ちが結託して再び三級選挙法のような仕組みを導入されても文句は言えない。むしろ今般の眠たい提案よりも金持ちを守るための露骨な提案の方が議会を通りやすいだろう。平等選挙を引っ込めてはならない。
選挙権の平等に歪みを加えるような制度改正をしても、政治的影響力を増すのは「代理」する大人であり、子どもではないという現実を見るべきだ。若年者の「世代間平等」とやらを図りたいのであれば、方法は一つである。「代理」などという回りくどいことなどせず、選挙権の年齢を下げることだ。16歳、(オーストリアで検討されている)14歳、あるいはその下でもいいが、子どもが投票の意思表示をすることができるギリギリまで下げてみることを提案されたい(ちなみに私は、14歳くらいまでなら割とすぐにでも引き下げて良いのではないかと思う)。
(ついでに)
意思表示の能力がない子どもは排除されるのになぜ意思表示の能力のない人(たとえば重度な認知症の老人)が選挙権から排除されないのかという疑問を持つ人もいるらしい。理論的にいえば、確かに意思表示の能力のない人は選挙、つまり国家意思の形成に参与する資格はない(実は理論的にいえば子どもか老人かは選挙権の決定に直接関係するわけではない)。そうすると、なぜ2013年の法改正で成年後見人の選挙権が回復されたかという疑問がわきそうだが、後見はあくまで財産管理上の能力があるか否かの問題であり、政治的な意思表示の能力があるかとは厳密にいえば関係ない※。要は、現状、意思表示の能力のない大人を選挙権から排除する仕組みはないと考えなければならない(もっとも、実際には政治的な意思表示が一切できないなら投票所に来られまいし、投票所に来ても何もできないだろうが)。
憲法が成年(ここでいう成年とは民法上の成年をいう)に選挙権を保障するのは、成年であれば政治的意思表示の能力があるだろうという線引きを採用しているからである。こうした年齢によって能力の有無の線引きにするのは、一見すると確かに問題がある。子どもでも賢い子はいるし、大人でも愚鈍な人はいる。思考実験としては、年齢にかかわらずすべて政治的な意思表示の能力がある人をテストで判定し、テストに合格した人にみに選挙権を与えるということも考えられる。ただ、どのような方法でテストを組めば公正に政治的意思表示の能力があると見なせるかという問題が生じる。このようなテストを実際に恣意的に活用して実質的に黒人の投票権を奪っていたのがかつてのアメリカ南部諸州であったことを忘れてはならない。
結局、年齢によって形式的に線引きする方が、ヨリ問題はすくないように思う(年齢よりも問題を起こしにくい線引きの方法があったら教えてくれ)。あとはどこまで下げられるかを真剣に考えることだ。
なお、日本国憲法15条3項は、成年者には選挙権を与えなければならないとだけ言っており(公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する)、未成年者に選挙権を与えることを禁じていない。これは、ドイツ基本法38条2項が、「満18歳の者は、選挙権を有する」と定めていることと対照的である。年齢の引き下げなら日本では憲法改正など必要なくすぐさまやれることなのに、わざわざ憲法改正どころか民主主義の根本原理を改変するような提案をしてくるのは、何かおかしな底意があるのだろう。
※これは思いつきだが、禁治産者が選挙権から排除されていたのは、財産を持つ有徳の者にだけ選挙権は与えられるべきであるという制限選挙時代のBesitz und Bildungの観念に由来するのかな。いずれ調べてみたい。
一石投じてやったぜ
飛ぶ鳥落とす勢いの
俺はまるでブリューナク(ケルト神話の光の神ルーが持っていたとされる武器。投槍のような武器と考えられているが投石武器(スリング)だったのではないかとも言われている。だが光の神ルーの持つ投石武器としてもう一つタスラムと呼ばれるものがある。これは宿敵であるバロールの魔眼を撃ち抜いたとされている。このことからブリューナクを投石武器とする説はタスラムと混ざっただけであるとも言われているが、同時にタスラムこそがブリューナクの投槍としての機能が投石武器として誤って伝わったものとも言われている。このように神話の主人公は複数の神話的な武器を持ち神話的な逸話を作るが、これらの多くは戦場に出陣した兵を鼓舞する際、「お前たちの武器は神話にも劣らない」と語った際に仲間外れになってしまう兵種が出てこないようにしている内に増えてしまったからであるとも言われている。神話とは現代においては単に娯楽として消費されるようなものになっているが、古代においては宗教的な意味が強く、それはつまる所政治利用されるための道具であったわけである。政治の道具であるということは、時の当事者達が都合によって何度も書き換えるためのインセンティブが働いてきたということである。王・将軍・神官・占い師などがそれぞれの都合により定期的に書き換えるわけだからして、そもそも正しい内容と呼べるものは存在しないとも言える。たとえば、ブラックジャックの例のセリフが「木の芽!木の芽!」であったと語るものと「(検閲)」であったと語るもののどちらかが間違っているということではなく、どちらも正しくはあるのだ。もしもそこで正しさを問われるものがあるとすれば、それは自分の都合によって内容を書き換えてしまった者達の側だろう。そもそもをして政治利用の意図がなければ神話の発展はなかったのだから、都合により好きに書き換えて良いという姿勢は好ましくないと私は考えている。それは親が子供に「お前は労働力として産んだのだから、お前の人生は俺達の所有物であるべきなんだ」と語るに等しいことだ。相手が空想上のものであっても、生みの親の絶対的な権限をふりかざしてその存在を歪めるのにも、どこかで限度というものがあるべきではないだろうか?)