はてなキーワード: 受取手とは
そうなんだなって実感した。
優先順位の付け方を任せはしたけど、最後尾になるか〜、みたいな。
「なるべくやってください」じゃなくて「なるべく『早く』やってください」なんだけどな。
受取手に都合の良い取られ方するんだな〜〜って学んだ。
ファッションとは記号化した服装によるコミュニケーションであり「わたしのことはこういう人物としてみてください」ということだ。
元増田の発見したオタクファッションのいわんとするところは「わたしのことを旧型オタクとしてみてください」ということだ。
だが本当に若い子たちは旧型オタクやナチス親衛隊や旧日本陸軍だのと出会って話してそれでもそれになりたいだろうか?
その権威や良さだけを都合良く借りようとしているのではないか?
そういう都合の良い解釈を受取手へ押しつけるタイプの、負担がかかるコミュニケーション発話者は行儀よくない。
混雑した電車の中での赤子の泣き声やいちゃつきとおなじく、
お前の言う愛は倒錯してんだよ。
まず前提として好きであることと表現することは別物だということを理解しろ。
本来、愛とはその対象と承認し合って確かめるものであるのに対し、お前の言う愛の対象はアニメという虚構だ。
そのため、どれだけ綺麗な言葉を囁やこうと、どれだけ素敵な贈り物をしようと、受取手が不在では滑稽な一人芝居でしかない。
その一人芝居で狂いきれるのであれば、孤独な愛にも耐えられるのだろうが、それは難しい。
だから何とか愛を出力し、第三者に承認してもらうことで自らの愛を認めようと試みる。
その出力方法は、例えば「◯◯は俺の嫁!」とか言ってみたり、キャラの絵を描いたり、SSを書いたりなど実に様々だ。
しかし前述の通り、この表現の向かう先は愛の対象でなく全く無関係な第三者で、対象と確かめあう愛とは異なった歪なものだ。
オタクが愛を確かめるときにはこのような”手段としての表現”という倒錯に縋るしかないのだ。
私、腐女子歴が人生の半分以上を占めている腐女子。Twitterを嗜んでおり、萌え語りや今ハマってるジャンルについて色々語って普段から楽しく過ごしている。Twitterももう何年もやってて、フォローフォロワーも入れ代わり立ち代わりで循環してるのを見守ってきた。ごくごくどこにでもいるような腐女子だ。でも、最近はすごく悩んでることがある。それがフォロワーの言葉だった。
ちなみにこれは個人的な備忘録であって、誰か個人を断罪したいわけではないんですよ。ただ、どうしても、自分でちゃんと言葉にして整理して吐き出さないとどうしようもないんです。それくらい、私は今落ち込んでる。
先月末か今月はじめか、ちゃんとした日は覚えてないんだけど、ある日相互フォローの方からフォローを外された。私フォロワー数はあんまりはっきりと認識してないんだけどフォロー数は覚えてたのね。自分がリムった記憶もないから、誰か垢消しした?とか思って確認した。普通にリムられてただけなので、垢消しでもブロックでもなかった。いやそれは全然いいんだよ。Twitterを何年もやってるので、正直そんな経験は何百回とあったんです。わけのわからん理由でブロック食らったこともある。フォロー外すくらいどうだっていいの。それがTwitterじゃん。自分が見たい人はフォローして、最近お話しないし、とか、ジャンル変わって喋ってることよくわかんないし、とか、仲良くないし、とか、色んな理由があるし。だから別に、今回も「あ〜最近お話してなかったしな〜」って思ったくらいだったのね。で、なんとなくその人のツイートを眺めてたら、その人がフォロー整理しましたみたいなツイートしてるのを見かけたの。でも、そこに書いてた文字が本当に強烈で、鮮烈で、頭真っ白になったわけ。は?ってなった。悪口じゃないし、暴言でもない。私だけを非難したり罵られたわけでもない。たぶん私の被害妄想なんだけど、あながち間違いでもないと思う。
ツイートには、「同人活動を主とされてると見られる方はフォローを外しました」と「私は同人誌の話じゃなくて原作の話がしたい」という旨が書かれてた。
え?それだけ?って感じだけど、私にはめちゃくちゃショックだった。私だって、原作を見て作品に惚れ込んだオタクだ。このキャラは今後どうなるのか、話はどう展開するのか、ワクワクドキドキしながら毎週楽しみにしてるオタクだ。でも、この人のこの言葉には、「本編から逸脱したような同人のことばっか話してる方」と、フォローを外した方(何人いるのかも知らない。でも少なくとも、そこに私は含まれてる)を表現しているように捉えられた。
被害妄想じゃんって感じだけど、言葉っていうのはそう受け取られたら変換はなかなか難しい。言葉は受取手のためにあるものであり、たとえ筆者の思惑と違う形で捉えられても、受け手にとってはそれが真実になるからだ。私だって、何回も何回も「いや、たぶんそこまで思ってないでしょ」って考えようとした。でも、「でもこう書くってことは少なくともそういう意味なんじゃないか」って思ってしまった。Twitter向いてないんだよ。
同人が主流ってなんだ。私は私なりに、本編から解釈してキャラのことを考えて創作に打ち込んでたつもりだ。でも、同人が主流というのは、「同人をするためにキャラを使っている」「己の快楽のためにキャラを弄んでる」という受け取りが出来てしまう。つまり、本編が軸になっている場合、本編がとても素敵だったから、二次創作をしよう!こうなる。同人が軸になってたら、同人活動がしたいから、このキャラを使ってやろう!こうなるわけですよ。私は決して、同人活動をするために彼や彼女を動かしていた訳ではない。本編を読んで、面白くて、キャラに、話に萌えて、同人活動をしていた。でも、その人にはそう見えていなかった。個人的な快楽、遊びのために、キャラを弄んでいたと捉えられていた。そのことが、物凄くショックなのだ。
私だって、公式に動きがあった時は感想とか、考察とか、そういった内容をツイートをしているのに、相手にはそれすらも同人誌の話だと思われてたのだろうか。もしくは、私の話していることがまるで素っ頓狂な内容で相手を辟易させてしまってたのかもしれない。それは大いにありえる。くだらないことばっか呟いてるからな。萌え語りを聞きたくなかったのかもしれない。そう自分に言い聞かせようとしたけど、画面上では彼女たちは楽しそうに萌え語りをしているのだ。創作の話をしているのだ。同人誌の話をしているのだ。あなた達のそれと、私のこれは何が違うのだろう。
私は、フォローを外されたことが悲しくて怒ってるんじゃない。私の本編と向き合ってる姿勢と、同人活動にたいする向き合い方をまるっっきり否定されたような気分で、物凄く悲しいのだ。
これは被害妄想だと思う。と言うか、被害妄想であってほしい。こんな悲しい妄想が、現実であったらどれくらいショックなのだろう。私はまだ、これが妄想だからという言い聞かせだけで立っている状況だ。
ツイートを見てから、びっくりするほど創作の意欲がなくなった。愛がないだけじゃないの、とか
冷めたり飽きたりしたの、と思われそうだけど、私はまだ本編が大好きだし、pixivも見てるし推しカプはいつまでもラブラブしててほしい。でも、自分の同人活動は間違ってるのだろうか、そう思ってしまってから、何もかけない。これはキャラを弄んでいるのだろうか。人を不愉快にさせることなのか。私の一言で人を傷つけるんじゃないだろうか。
誰かに気づいてほしいけど、笑われそうだし誰にも言えない。自分の小ささが情けないし恥ずかしい。こうして書き留めることしか出来ない。たぶん次のイベントでは本は出せない。これからも何かを書いたり発信したり出来るのだろうか。今のところ、まるで未来が見えない。
悲しい。
よく「自意識過剰」だとあまり人間性が合わない人に言われることがあるけど、「自意識過剰」とはどういうことなのか。
他人の気持ちを勝手に決めつけて自分の気持ちが正しいと思い込んでいる事を「自意識過剰」と表現されたが、ほとんどの人がそうなのではないだろうか?
例えば
明日は、何年もファンをしているアーティストのLIVEに行ってきます。(解散LIVEでこれで見れるのが最後だけど)と、()部分は心の中の声だとして、表情の見えないSNS上でのやり取りだった場合
何年もファンをしているアーティストのLIVEなのだから、さぞ楽しみだろう。と、受取手が思うのは自意識過剰なのだろうか?
上から目線で語りながら謳う
長い見出しで中かくして
メンヘラになって
コピペになって
知恵袋になってゆく
荒い文章
わざと煽ってる文章
はてな匿名ダイアリーにおける女性の演出講座、はい!
よく見る人とか悪目立ちをする人に絞ってネタにする
Hot entry! Hot entry! Hot entry! はてブと
Hot entry! Hot entry! Hot entry! トラバが
排泄音が聞こえるような
ゆるぎなき創作意欲は作り手の願い
主語を大きくして語っとけ
具体的な部分はぼかしとけ
そしてブーメランを投げとけ
追記しておけ
弱音吐いとけ
煽れ!燃やせ!
とりあえず、とりあえず
誤字脱字があったら指摘しておけ
わー、わー、な、何のメッセージ性ですのこれ
なになになになに
えっ、えっ、えっ、えっ、どういう
えっ、えっ、どういう気持ちで読んだらいいの?
えっ、えっ、文章長い、長い、長い
なになに
なんのメッセージ性ですの、これ
Hot entry! Hot entry! Hot entry! はてブと
Hot entry! Hot entry! Hot entry! トラバが
排泄音が聞こえるような
ゆるぎなき創作意欲は作り手の願い
す~い、す~い、す~い、す~い、むきゅー、むきゅー、すい、すい、すい、すい、ようび
あー、今日も頑張りましょう。「人による」んでしょ?
反論材料にするんでしょ、イレギュラー、これ本筋と関係ない部分とか
この歌詞とか評論家気取って、或いはもっとうまいことできるんじゃないかとか思って書くんでしょ、これ
よくあるんですのよ、そういうコメントね、ほんとに。)
あのね。そもそも大元の記事には「自殺者」は出てこないんだからね。記事内を検索してみるといいよ。
主語は最初から「自殺」。The suicide is a kind of murder, that's all.
そこから「自殺者は殺人者」と最初に敷衍して持ってきたのはお前だから。つまりお前の自意識過剰なんだってば。
自殺が殺人なら論理的に言って自殺を行う者は殺人を行う者なのでそこは否定はしないけど、それこそ被害者ぶってキイキイされても困るなあ。
そこでヒステリックになるくらいなら自殺は殺人でないということを論理的に証明してくれないと。
ロックの主張のうち自分に都合のいい部分だけ切り離して使えると思ってる方がよっぽどバカだと思うけどw
少なくともロックの論では自殺は肯定され得ないんだから、あんたにゃ所有権をどのように定義することで自殺を肯定できるのか説明する義務がありますよ。
感情もひたすらもおまえの主観でしかないよね。その理屈で言うとやつあたり説も成り立つと認めていいとしか思えない。冒頭2つの自分の意見がロジカルだと思っていたのか。なるほどロジカルを理解していない人なら仕方ない
開始早々あれだけ短いパラグラフ二つ分の文中に馬鹿だの低能だのの罵倒語をちりばめておいて「自分は感情的ではない」と言い張るわけか。
八つ当たり説ってナニよ?w突然オリジナル説を説明なしに持ち出すのやめてくんないかな。無駄に話が錯綜するじゃないか。
少なくとも俺の主張には「まあ確かに自殺者は加害者だよね」と肯定するトラバがつく程度の正当性はあるぜ。俺の主張が感情的ではあったとしてもね。
所有権決定権同一性への意見をスルーして事情が〜とか俺が書いてない主張勝手に組み立てて反論してるバカが否定されてないと救えないな
病的でないのに同一性を認めない乖離を社会において適用しようとする時点で殺人には当てはまらないは成り立ちませんその理屈だと自殺は特別な△△なので私の理屈は当てはまるんです!となんでも言えることになる学のある人のセリフじゃないまぁ学じゃなくて傷ついた俺の中ではこうなんです!だから俺の死んだ遺族は殺人犯です!ということなら許してやらなくもないかな
何を言ってるんだか分からない。句読点を使えよ。どこで区切って読めばいいのかも分からん。
「同一性」ってどういう意味で使ってるんだ?自己同一性のことか?それとも被害者と加害者が一致していること?
逃げ道として防げてないけど逃げ道として正当化されるという考えは防いだ!言葉遊びにも程があるな笑 殺人だからやめよう!が論理的に破綻してることも指摘されてるし、仮に破綻してなかったとしても自分に対する殺人、だから?それだけだな笑 全然正当化も防げてない
まず「殺人だからやめよう」とは言ってないよ。そりゃやめてくれると嬉しいんだけど、「やめよう」でやめたら警察要らんしな。
俺はただ「自殺は殺人である」と言っているだけだよ。あとは受取手が勝手に「殺人犯として扱われるのは屈辱的だ」とでも思って自発的にやめてくれりゃ儲けものだけどさ。
ただ、実際に自殺を逃げ道として正当化する考え方は潰せているんだよね。だからこそ「『殺人だからやめよう』と言っている」という読み方が成立する。
「正当でないことはすべきでない」というのは大体の人間に常識的前提として刷り込まれていることで、それに照らし合わせて初めて「自殺の否定=自殺回避の推奨あるいは強要」という話になるんだから。
だから俺の話を自殺回避強要と読んでくれること自体は否定しないが、それだけが主意だと思われても困るな。特に自殺を殺人ではないと思っている人間には、自殺回避強要の是非を云々する前にそっちを証明してもらわなくっちゃ。
司法が所謂「殺人」として罰を科していない、だから殺人ではない、というのは成立しない。ってのは、既に説明した通りだがな。
一番最初の記事の主張になにか言わないといけない理由は?笑一貫して言い続けてるならどっちにしろ一緒じゃん笑たまたま見たトラバの論理のおかしさを否定してはいけない理由は?笑
こういう概念、こういう理由で〜って言ってばかりなのにロジカルじゃないらしい笑
やっぱり前も書いたとおりだな。
自ら主語の対象としている人へ憎しみを持ってるからだねと指摘されたらおまえはその対象に当てはまるに違いない!とはさすが自殺遺族常に被害者気分で自殺したザコな身内へのいらだちをヤツあたりでぶつけるのが上手いなぁ
一番最初の記事の主張に対して「自殺遺族」というレッテルを使わずに反論できないのだとしたら、お前は「自殺遺族」への物言いが目的であって論の正当性はどうでもいい人間である。という話になるってだけだよ。
別に「言わないといけない」わけじゃない。ただお前がとにかく自殺遺族というだけで気に入らないという短絡的な考え方をする阿呆だと証明されるだけさ。
「たまたま見たトラバの論理のおかしさ」なんて、お前の最初の記事ではこれっぽっちも触れられていないじゃないか。とにかく「自殺遺族」「自殺遺族」「自殺遺族」だ。
「自殺遺族は黙ってろ」というタイトル通り、「自殺遺族」の口を塞ぎたいだけで論理の是非なんて二の次だったくせに。概念や論理を持ち出してると思ってるみたいだが使い方もわかってないからまるで的外れで、とにかく「自殺遺族」を否定したい一心で都合のいい話をかき集めてきてますってのが丸わかりだ。
そして、顔も知らない「自殺遺族」をそこまでして黙らせたい人間というのは限られてくるんだよ。俺に思いつけるのは「いつか自殺してこの世の苦しいこと全部から逃げ出すんだ」ということにすがって生きている自殺志願者ってとこだったんだな。そうでもなきゃただでさえタブー的な話題だ、ここまで我が事のように感情的になる物好きなんてそういやしないよ。
口先だけの中傷論ばっかりだな笑
お前にだけは言われたくねえwww
うんその通りだから自殺についての法律はどう定められているのかなおまえの自殺=殺人論は所有権同一性決定権を無視と批判したら法治国家なので制限されるとお前は返した法によって制限されるのはそのとおりだが無視していい法律がないとおかしい、法律がないのに所有権同一性決定権を無視していいならそれは法治国家ではない理解できたかな?はい雑魚
悪いけど全然理解できない。というか読めない。区切り方がわからん。何?ガラケーから書いてるとかなの?小さい画面では上手い事区切られるの?
自殺が殺人でないならば自殺関与罪・自殺幇助罪・同意殺人罪は成立しない。これらはすべて殺人罪の減刑類型だ。つまり「自殺は特殊な殺人」であり、それに手を貸したのだから殺人だという理屈が成立しているわけだ。
自殺(未遂)者本人という主犯が罰されないのは先述した通り、罰しても誰も得しないというだけにすぎない。極端な話、「自殺しようとした罪で死刑」とか本末転倒過ぎてわけがわからんしな。
「究極の自己決定権行使」として自殺を肯定する向きもあるが、日本国憲法に限れば自己決定権とは幸福追求権の一端として是認されるべきものであって、死ぬ事で生じ得る幸福っていうのは「不治の病であと三ヶ月苦しみ抜いて死ぬ事が目に見えているのでその苦しみから逃れるために〜」みたいなパターン以外には認められないだろう。今ちょっとwikipedia見たら最高裁が正面から自己決定権を認めた判例は存在しないとか書いてあったし。
ちなみに日本国憲法に限らないとすると例えばアメリカでは自殺ははっきり犯罪とされている州もあるそうだ。
あぁ家族ですねで秋葉原の一例だけなの?そして秋葉原の殺人の家族と同じに扱われた!と叫ぶの?笑 殺人加害者一族への叩きと同じような叩き方をされているのは自殺が殺人だから!←叩き方が同じでも自殺と殺人加害者の一族への文脈はまるで異なる、しかも異ならなかったとしても自殺関係者への対応の問題であって自殺=殺人にはつながらないてんで論理的でない単なる結論ありき
少なくとも一例あったんだから、自殺遺族について口を極めて罵るお前の文脈は殺人者の家族に対するそれと同じものだと認めたまえよ。
「まるで異なる!」って根拠もなくお前が言ってるだけなんだからさ。
殺人を犯した家族と同様に扱われたとしても自殺=殺人にはならない に対して唐突にお前が持ち出したんだろ単細胞↓おまえの発言を俺の発言だと捏造すんのはやめてくれな
俺が書いたというだけで俺の意見だと思うのはやめてくれよな。俺はお前の考えをお前自身にも分かるように整理して、それがいかにおかしいかを見せてやってるだけだよ。
「殺人を犯した家族と同様に扱われたとしても自殺=殺人にはならない」と言いながら、しかしお前は実際に自殺遺族を殺人加害者家族を罵るのと同じ言葉で罵っているわけですよ。
つまり「自殺=殺人ではないけれど家族は殺人を犯した家族と同様に扱われる場合がある」っていう理不尽を体現して実現しちゃってるわけ。で、「そういう場合も実際あるけど、でも自殺は殺人ではない」という具合に、お前の主張とつながっちゃうわけね。
もうこれさ、外野から見たら言い逃れのできないレベルだよね。ちょっとは自分の言動を省みて整合性をつけるってことをしたらどうだい。いや今は今で嫌な方向に整合性ついてるけどさ。
説明する必要すらないくらい当たり前だからなバカにはわからないらしいが笑 推論の前提をすっとばせる脳みそはさすがだよ殺人犯の家族がバカだと言われている、私はバカだと言われた、だから私は殺人犯の家族と同様に扱われているこんな論理的でない主張するバカいないのは自明だろ被害妄想激しい一家かよ
同じ叩き方=同じに見られているこの間違った前提で推論をしているに他ならないなぜこのような推論を正当なように思い込むのかというと自殺は殺人と同じだから殺人と同じ論調は殺人と同じに見ているに違いないという前提をむりやり生み出すスキルをロジカルと勘違いしてるバカの所業
殺人犯の家族(と俺)が言われている台詞は「被害者ぶるな」だってば。勝手に「バカ」にすり替えんなよバカ。
結局これだけ長文書いてて「同じ叩き方だけど同じ文脈ではない」って証明は全然されてないじゃないか。
殺人の場合はこうだけど自殺遺族の場合はこうだからっていう差異を示せなきゃ証明にならないんだっつの。もちろんお前が脳内で考えた差異じゃなくて実際の差異ですよ。
今のところ用いられるフレーズが等しいという「むしろ差異とか無いやん」っていう証拠しか出てきてないんだから、誤魔化しを頑張ってないでちゃんと説明してみせろよ。
所有権同一性決定権から他人を殺す犯罪と自殺は別物である。この言葉の周辺ばかりにいちゃもんつけてこの言葉自体には反論がなかったしな。それは世の中も理解している。たとえもし仮に同じ言葉を向けられたとしても殺人犯への文脈とはまるで異なる。
ああ、やっとちょっとそれっぽい主張が出てきた。でもやっぱり的外れだ。
「所有権同一性決定権から他人を殺す犯罪と自殺は別物である」というのは、「他人を殺す犯罪と自殺は同等の量刑が科されるものではない」というだけの意味にすぎない。
「自殺が殺人ではない」という証明にはなってない。「殺人」とは人を殺すことで、「人」には当然「自分」も含まれる。自分だって人だからな。
最近アメリカの精神医学会において新しい精神障害が発見された。
他願症とは論理能力や他者とのコミュニケーションに障害が発生する障害の一種である。
先天性の脳機能障害とされるが、脳機能上の異常から認知障害の発症へといたる具体的なメカニズムについては未解明の部分が多い。
幼児期においては特に問題行動は生じないが、思春期以降顕在化する事が多い。
一般的に自分の意志ははっきりと相手に伝えないと相手に理解されない事が多いが
他願症患者はたとえ表現を著しく曲げても相手に理解されて当然と思っている事が多い。
例えば以下の発言がある。
他願症でない一般人は、これは受取手によって発言の受け取り方が変わる事を知っている。
Aの発言においては
「この荷物重いんだよ。こんな重い荷物持ってる私力持ちでしょ?」と言う意味もある。
混乱を避けるため自分の意志を伝える時は出来るだけ具体的に率直に意思を伝え曖昧な発言をさける。
しかしながら他願症患者は自分の意図した通りに発言が伝わらないと癇癪を起こし
相手の人格を非難したりする事が多い。
精神科医の藤堂高虎氏によれば日本においても最近認知数が増加している精神障害で
近く精神科のバイブルであるDSMの次期バージョンDSM6に追加される見込みだ。
その2へ続く
下ネタを取り扱った文や、
コンプレックスを題材にした文には、
割と多くのフィードバックを頂ける。
全くフィードバックがない。
文の下手さを省みる事もあるけれど、
そもそも、読んで頂ける方々の趣向、
特性がかなり大きく起因するんだろうと思う。
そして、
単純にフィードバックを手にする練習をしたいならば、
そこに狙った書き方をする必要がある。
物書きでも、絵描きでも良いのだが、
一寸芸術というジャンルと手段が近しい職業には、常につきまとうこの考え方。
少し考えれば分かるのだが、
自身の成果物に沿うお客様を集めた上で、そこにアプローチをする必要がある。
例えば、
湘南の風やったって受けないんです、当然ながら。
もっと細かく言うならば、
心なんて掴めない。
掴めたとしても、その数はたかだか知れてる。
集まってるお客さんに合わせて曲を変えるし、雰囲気も変える。
心をつかんで次に繋げて、ワンマンで落とす。
文章でも、同じだろうね。
ただ叫ぶなら別に良い、1でも2でもない。
フィードバックを求めて既存の池で釣りをするならば、ただ叫んでたって効率が悪い。
読者に合わせた文章を書くべき。
>ひはん 0 【批判】
>(1)物事の可否に検討を加え、評価判定すること。
>「学説―」「―を仰ぐ」
>(2)誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと。
1.当然あることとして
創作物を公表すれば批判はあるものである。その際の定型的な文句としては「批判されるのが嫌なら公開するな」と言う言論。これは正当であるし、創作側は批判を覚悟しておくべきだと私は考える。しかし、それは批判をすることの良し悪しとは関係がない。「鍵を締めていなければ泥棒に入られる」「裸の女が歩いていればモラルなんて吹っ飛ぶ」「無防備国家は侵略される」、これは当然起こりうることとして考えなくてはいけないが、泥棒もレイプも良いことではない、当たり前だが私が考えるには悪いことだ。鍵を開けて外に出る家主は泥棒を覚悟すべきだが、泥棒は鍵を開いていることを理由に盗みを働いて良い理由には成らない。同じように創作物を公開すれば批判されるのは当然あることとして創作者は覚悟すべきだが、だからといって批判して良いという物ではないのではないか。
2.批判という手法
創作行為に対して批判をする理由は幾つもある、個人個人で様々であり一概に藻言えない、その中で創作者への好意的な理由として用いられると私が考えるのが「改善させるため」と言う物がある。確かに欠点は指摘されなければ気付かない事もあり、またその指摘が強い物であればより強く受け取ると言える。しかし、改善させるためならば、リクエストとアドバイスという方法もある。「こういう風な方が好きだ」「こうなったら面白そう」そう伝えることにより創作者に道行を示すことも出来る、また「こうした方が良いのではないか」「ここをこうするというやり方もある」そういった提案をすることによって改善を促すことも出来る。これは、どの手法が良いという物ではなく、様々な手法とそのメリットデメリット、中でどの手法を選び、その必要性と優位性。それを考えることが出来るということだ。
3.対人問題と芸術への問題
創作物への批判の良し悪しを考えるときに2つに分けて考える必要があると私は考える。言う相手との人と人と付き合いとして批判することの良し悪しと、批判が創作活動に対して及ぼす良し悪しだ。
対人問題として良し悪しを考えるときに、やはり相手の嫌なことを故意的に行うことを良いとは私は判断しづらい。相手にもよるが、殴られたってマゾヒスト以外喜ばないし、マゾヒストだって誰から殴られたって良い物でもなく、叱られるのであっても親から教師から友人から間柄があってこそ感謝が出来る。無遠慮に見ず知らずの人が乗り込んで嫌なことをしても良くはないと私は感じる。誰にでも良い物ではなく、相手を良く知った上でその人その人に合わせて批判と言う手法が適切であるか考えなくてはいけないのではないか。批判という手法は基本的には良くないと個人的には考える。
創作活動に批判が良い影響を与えるか悪い影響を与えるか。メリットと言えば、よりよき物が生み出される可能性や創作者の欠点が改善される可能性。デメリットで言えば、創作者の意欲が落ちる可能性や創作活動をやめてしまう可能性。メリットに奮起してやる気が上がる可能性もあるが、もちろんデメリットに間違った方向に進んでいく可能性があるが、そういうものは希な物として私は考えている。さて問題なのは創作活動が落ち込むほどに指摘することが、そのデメリットを覆す程にメリットがあるかどうかだ。上に記したように、アドバイスやリクエストという手段がある。より活動を落とさない手法があるのに、批判という手法をとるメリットは無いように私は感じる。
もちろん、受取手は創作物に感想を持つことは当然の権利であり、またその感想を口に出すことにも権利がある。そして、その口に出す感想をどこまでも発信する権利が創作者がそうしたようにある。しかし良し悪しとはまた別にあり、その中で考えなくてはいけないのは口に出す感想をどこまで伝えるのかという問題だ。まず受けて独り言を出すのに何も問題はなく悪いはずがない。次に仲間内で話す、ここで問題になるのは仲間の中に好意的な感想を持っている人を嫌な気持ちにさせる可能性がある、それを意識的に行って良いかどうかは、その仲間内の人と人との関係である。さて創作者に向かって伝える、ネットや出版社が間に入ってることもあるが、例えば目の前に作者が居て「お前の作品は駄目だ」と伝える、蹴っても良いよね。軽く軽く。次に、公に向かって発信する、これは創作物であり、他人を公然とあげつらって良いとは私は言えない。
個人でならともかくとして、他人が関わってくる時には行為が他人に与える力を考えなくてはいけない。嫌な気持ちにさせることを何の状況判断もなしに行うのは浅慮と言える。権利を有していても、その行為をすることが悪いことはあり、行為は時と場所を考えて行わなくてはいけない。
5.出来ることと出来ないことの間に
ネットではとにかくとして、出来ることと出来ないことが判断の基準になっていることを私は多く見る、その次に法律と各々のサイトのルール。「出来るんだからやらせろよ」「やらせたくないなら出来ないようにしろよ」「法律にないじゃん」。語調は私が書きやすい語調であり他意はない。単純に言えば「ウェッブルールもクソ喰らえ」「無断リンク禁止」問題か。可能不可能で言えば、プリントアウトしても無断でリンクしても問題はない。しかし相手を嫌がらせていることが消えるわけでもなく、嫌がっていることを故意的に行う人間性を良いとは個人的には言えない。悪し様に文句を言ったウェッブの人も無断リンクの人達も問題はある。
パソコン通信からインターネットになり、企業や国の公的なサイトと個人サイトやブログがある。個人対個人であり、公人でなく私人であることが最近は特に多くなってきた。インターネットに存在する物は全て公的な存在として考えるべきかどうかは社会学者に任せるとして、個人対個人の場合というのはやはり人付き合いなのだと私は考える。
ネチケットやネットマナーというは基本的に気持ちが悪く一笑に付される存在である。技術も変わり環境もたえず変わりネットには新しい人が絶えず足を踏み込み、共通の感覚というのが未だ成熟していない。自分と相手の間に、どこまで足を踏み込んで良い物なのかおっかなびっくりである。直接出会う人ならばどうするかといえば試行錯誤をしながら足を踏み入れていくところだ。さて創作者とはどうか。ネットにより、以前より際だって創作者と受取手が直接交流することになった。しかし、ニコニコ動画やぴくしぶは、それまでの出版社やプロダクションなどに属していた状況と違い、より個人対個人の交流に成ってきた。それはテレビの前でぶつくさ言ったり、手紙を出すのとは違い、モニターと言うテーブルを挟んだ座談会だ。それを今までと同じように感想を述べて良いか、これは先ほど書いたように時と場合が違うことを思い出さなくてはいけない。ネットマナーやネチケットは分からないが、人と人との付き合い方ぐらいは分かっているものではないのだろうか。
6.駄サイクル(ださいくる)
漫画家、石黒正数先生の作品より。身内で、作る→褒められる→見る→褒める→作る→褒められる、を繰り返すださい駄目なサイクルの事である。これを見るに、批判は必要なように思えてくるが、駄サイクルの問題は閉じた世界で満足していることであり、開いた世界で褒められるならばそれは傑作である。そして無理に批判をしなくても褒めないという手もある。
7.個人的な結論として
創作して公表すれば批判されるものだ。創作者は、それを排除してはいけない。しかしそれは創作者の態度である。受け手の態度はまた別である。創作物を受けたときに批判という手法は良いのかどうなのか。私は積極的にはとるべき態度ではないと考える。さて、しかし、上で記したアドバイスと批判というのは実は曖昧な物である。アドバイスと思っても創作者は不快に思うかも知れないし、どこからどこまでが批判とも言えない。そこで重要なのは受取手の感情で、嫌がらせる目的でやらないことなのだろう。
そして、批判をする側が「制作者はかくあるべき」と言うことを言い訳にしないこと。その言い訳は自身の行為を正当とはしない。ただ独り自身の行為として良し悪しを自身の倫理で考えるべきであるとして、私の考えを締める。