はてなキーワード: 反社会学講座とは
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/pmazzarino.blog.fc2.com/blog-entry-451.html
ジャニー喜多川さんは、いい人でした。多くの芸能人を育て、テレビ界に貢献した功労者であり、育てられた芸能人にとっては恩人です。
でも、ジャニーさんは犯罪者だったのです。
24時間、つねに犯罪者でいる人などいません。犯罪者としての顔は、個人が持つ多くの顔のうちのひとつにすぎないのです。犯罪をしてるとき以外は、何食わぬ顔で暮らしてます。それはマジメな職業人の顔であったり、優しい父親・母親の顔だったり、情にあつい先輩の顔だったりします。
でも、そういう「いい人」が、犯罪者の顔も持ってたりするんです。
https://pmazzarino.web.fc2.com/saikin2.html
より抜粋。
自由で多様性のある社会を目指そうという主張になら、私も賛成します。しかし残念ながら観念論やスローガンを唱えるだけじゃ、弱い。弱すぎる。それだけじゃニート問題はおろか、なんの社会問題・教育問題の解決にもなりません。それどころか、海千山千のヘリクツボーイたちの手にかかれば、「自由な社会なんだろ? だったら、ニートを差別するのも自由じゃねえか」と悪用されてしまいます。それとどう闘うのですか。やっぱり、リベラルだったら「ニートでもいいじゃねえか」と開き直るべきでしょう。
その理由はおそらく、マーケティングに営業的なオラオライメージがあり、
またコンサルに関しても馬鹿を騙す手段を身に着けたクソというイメージがあるのだろう
なぜそのような考え方になってしまうのか?
先端技術を尊重する進歩的な素養があるのに、なぜ他分野を認めないのか?
逆に認めている分野は何だろうか
分野で言えば、工学、医学、文学、脳科学、アニメクリエーターあたりの人は尊重されている
なのである程度の答えは出ている
その答えの出す方法は統計学的で有意差が出ているなもの…だったら納得してもらえるのだろうが、
社会学の扱いは難しい
私は30代なので詳しくは知らないが、少なくとも2004年パオロ・マッツァリーノの「反社会学講座」は
https://anond.hatelabo.jp/20180131104137の続きだ!
4位
日中合製家族 – 中国人嫁が描く日本人夫+3人の娘+日中ハーフの息子2人の日常四コマ漫画です
日本にきた中国人嫁が描く日本人と中国人の違いや、作者の幼少期でわかる文革経験者の価値観など非常に興味深い!
http://pmazzarino.blog.fc2.com/
イタリア人からみる摩訶不思議な日本社会と日本人の価値観が遠慮なしに書かれてる!
以上、このブログがすごい!2017大発表!でした!
ちなみにブログの探し方は特別なことはしてないぞ!主にはてなブックマークカーからだ
例えばここで紹介されている人たちとかおすすめだ!
何度でも言う。地域の絆と犯罪にはなんの関係もない反社会学講座ブログ http://pmazzarino.blog.fc2.com/blog-entry-188.html
寝屋川の中学生殺人事件について、「「地域の絆がうんぬん」とかいうおためごかしを抜かすんじゃねーぞ、地域は十分に安全に配慮していたがそれでもアクシデントはあるんだから」というブログエントリー。
はてブを見ると、主に前半が注目されているようだけど、個人的には後半の論旨のほうが気になる。というか、ずっと考えている話。
ゼロリスクがありえないという前提に立てば、必要な安全性と利便性、コストとを天秤にかけて最適の資源配置を実現せよということになる。ただ最適の資源配置であってもアクシデントは起きるわけで、感情的にコストを投入すれば資源配置は最適なものではなくなってしまいむしろ安全は劣化する。資源配置が最適なものだったかという検証はもちろん必要だが、確認された場合にはアクシデントがあったとしても現状維持、何も間違っていなかったと考えることが正しいわけだ。
だが、正しい選択をしていたのに「不条理」にアクシデントが起きる、人が死ぬということに人間はなかなか耐えられそうにない。いや、それを受け入れるための仕組みとして宗教というのがあり、「人間には計り知れない神の御心なんやで、しゃーない」と納得するようになっていたはずだが、現代のぼくらはいかにして「不条理」を受け入れるのか。まあ受け入れられないから、わかりやすい悪人や失敗を見つけることになるのだろう。
とここまで書くと、若い頃に読んだ宮台真司の影響をばりばり受けているのがばればれで恥ずかしいのだが、自分の母の介護をしていてどうにか助かる道がないか考えていた時も、あるいはわかりやすい悪人をぶったたいて気勢を上げている活動家・ネット民のみなさんを見る時も、やっぱりこのことを考えてしまったり。
「全ての人間に共感できる人がコミュニケーション能力を持ってる人」????????????
※コミュ力 コミュニケーション能力 を拡大解釈するのはヤメましょう。 情報伝達以外の意味はありません。
※それ以上付け加えるならばコミュニケーション能力とは別の能力として主張すべき。
でググってみて下さい。
あと「コミュニケーション能力」でもググって下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/コミュニケーション能力
「同意することだけがコミュニケーション能力と勘違いしてる人」が多いようですが
批判がコミュニケーションでないならば、「はてなで批判をしている人間もコミュニケーション能力がない」ことになってしまいます。
つまり「イエスマン=コミュニケーション能力のある人間」という定義になってしまいます。
ましてや「どんな人間にも共感することをコミュニケーション能力とする」なんて、この世にそんな人間いますかね?
ちょっと例を挙げるとこの世界の全ての犯罪者に共感できる人間がいますか?
この世界の全ての悪意(日常を含む)に共感できる人間をコミュニケーション能力があると定義する非実効性。
そもそもの間違いは「コミュニケーション」に「力」という文字を付けたのが間違い。
またパオロ・マッツァリーノは、自己啓発書の売り上げを上げるために不安を煽り、彼らの都合のよい稼ぎ口として使われていること、も指摘しています。
以下は参考のための引用。
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パオロ・マッツァリーノの指摘
パオロ・マッツァリーノは『反社会学講座』収録の「ひきこもりのためのビジネスマナー講座」において、浜口恵俊の「日本語にはもともとコミュニケーションにあたる言葉がないため訳せない」という意見を取り上げ、近年、企業等においてコミュニケーションが本来の「意味を拡大解釈」して用いられているようだと指摘し、問題視している。
マッツァリーノによればコミュニケーションには本来、「情報(知識や感情も含む)をだれかに伝える・交換すること」という技術的な意味しかなく、そのため言葉の用法に従えば、上司や目上の人間へのある種の直接的な批判の類も立派なコミュニケーションとして成り立つことになると述べている。続けて「しかし、そうすることが日本の企業社会で奨励されているかというと、はなはだ疑問です」と言い、「日本人は古来、コミュニケーションなしで社会を成り立たせてきた」という事実を指摘し、安易にコミュニケーションという単語を用いる現代の風潮を皮肉混じりに批判している。
スーザンによれば、すべての人が同じコミュニケーションスタイルにおいて最良のパフォーマンスを発揮するというわけではなく、イントロバート(introvert)と呼ばれる『刺激に敏感で大量の刺激を本能的に避けるタイプの人間』と、エクストロバート(extrovert)と呼ばれる『刺激に鈍感で少量の刺激では必要量を満たせないために大量の刺激を必要とするタイプの人間』、二者それぞれの遺伝子レベルの性質を生かした二種類のコミュニケーションスタイルこそ、無理のない持続可能な方法であるとしている。
近代以降、資本を求め商品をいかに買わせるかが社会の関心事となった経緯を紹介し、深い思考は苦手だが口先が巧みなエクストロバートを量産し経済拡大に用いるというシステムが教育も含めて現代では日常化してしまっているという。この社会(エクストロバートワールド)では、イントロバートは欠陥品とされ(イデオロギーの定着のため病名まで発明された経緯もある)エクストロバートになることを強制される。しかしその性質は遺伝子レベルで50%以上固定されているために、対外的にはエクストロバートを「ふるまう」、無理の結果として心の病を併発したり出社拒否に陥るケースがあるという。
彼女によれば、どちらのタイプも社交的であるという。両方とも自身の性質に基づいた異なる社交性を備えており、イントロバートは多数の人間と社交を行うことは刺激が大量すぎる点で本質的に苦手だが、一対一または数人との社交においてエクストロバートを凌ぐ力があり、エクストロバートは刺激に鈍感であるがために多数の人間と社交を行うことができる。その反面、一対一または数人との社交において深い友人関係を築き長期にわたり維持することは苦手であるとされる。このため双方のコミュニケーションスタイルも必然的に異なる形となるのが自然であるが、現在の資本主義競争社会におけるバイアスのかかった社会においてエクストロバート型を唯一のコミュニケションスタイルと信じて疑わない状況がある。自分の話を聞かせたいエクストロバート、人の話を聞くことができるイントロバート、従来のリーダーの適任とされるのは前者とされてきたが、近年では後者の「引き出す力」に注目が集まり前者を凌ぐリーダーとしても可能性が示唆されている。多様なコミュニケーションスタイルは人間の多様性を認める社会であることが必須条件として、イントロバートの存在と可能性について全人民的に社会的認知を深める必要があるという。
パオロ・マッツァリーノの『反社会学講座』によると欧米には社会人って言葉はないらしいよ。
大して違わないんだけどねー。さて
後藤によれば、ある世代に生まれたことによってすべてが決まってしまうという考え方は「宿命論」であり、シニシズムやニヒリズムに通じる。
世代論そのものがもはや用済みなのだ、とかれはいう。その代わり後藤が持ち出すものは、古くて新しい文明の利器、科学である。統計と学術的分析をもちい、客観的かつ実証的に事実を導き出すこと。
『おまえが若者を語るな!』がいろいろとすごい。 - Something Orange http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080914/p1
ですが、色々勘違いしてるよね、という。そもそも「時代」というのはアプリオリに存在する客観対象ではなく『論じるという行為によって生み出されるもの』であることは、その本で批判されてるような人らの間では大前提なわけで、「時代なんて幻想です」という批判は彼等からすれば全く痛くないどころか冷笑の対象でしかないと思う。彼等が痛いのは「自分の切り口がもはや有効ではない現象の前で立ち止まっている自分たちに気づいた瞬間」くらいだよね。東浩紀が(あれほど賞めていた)村上隆批判をしていたときは結構痛々しくて気の毒だった。
まあ理系的発想で社会学ぽい言説をぶった切りしたい欲望は分からないでもないけど、それって一歩間違うと単に「物事の繋がりや文脈」が理解できない人=アスペルガー的症状にしか見えないんだよね。自閉症スペクトラムには入らない程度でアスペルガーな人って、ある種の超理系的人間=モヒカン族に多いと思うし、自分も幾分その気があるから分からないでも無いんだけど。また社会学が大概いかがわしいという言説も、もはや使い古されているわけで今更そんな話したくもないんだけど、もしそういう話を全然聞いたことがないなら「反社会学講座」(パオロ・マッツァリーノ、ちくま文庫)でも読むといいと思うよ。