はてなキーワード: 十分条件とは
異常な劣等感や、逆に付き合うことさえできればすべてが上手くいくかのような異常な期待は、基本的に「誰かに選ばれたことがない」というのがネックなんだろうなと思う。
自分が持ってなくて他の人が持っている者を目にすると、「もしかして自分はこれを持っていないからダメなのでは?って発想になりそうなのはわかる。
でも、選ばれることって十分条件であって必要条件ではないんだよな。
「選ばれたことがあるから大丈夫」なのであって、「大丈夫になるために選ばれる」わけではない。
自分は、特別モテるわけでもないが、たまたま自分を幸運にも選んでくれた相手がいて、その人と最近死別し、別の幸せを探すのもいいかなという気持ちと、めんどくさいからもういいかなという気持ちの間で毎日行ったり来たりしている。
このまま次を探さずにずっと一人でいたとしても、「誰かに選ばれたことがある」という実績があるから、それほど絶望せずに行きていける気はしている。
なんなら、今後の人生でもっと絶望したい瞬間があっても、「まあでも、選ばれたことあるしな…」と思って多少は持ち直せそうな気がする。
まあ、切ったわけでも切られたわけでもない死別という別れ方なのはまあまあイレギュラーだから一般化はできないと思うけど。
選ばれるという経験そのものは、実際にしてみると、その瞬間は嬉しいが、後で振り返ってみると、そこまで激烈なものでもなく「こんなもんか」と思うだろう。
これは初めての性行為をした後と類似した感想ではないかと思われる。
それは、経験そのものは重要でなく、「「経験したことがあるかないか」がその後の人生で重大な影響を及ぼすからではないだろうか。
誰かに選ばれるってぜんぜん大したことではないし、激烈に人生が変わることでもない。
だから、一度味わってみたら「こんなもんか」って思うだろう。それでも、選ばれた経験が1度でもがあるかないかは重大な意味を帯びるのだ。
(めちゃくちゃ下世話な例えで言うと、性行為をさせてくれた相手がいるから、まあこのまま一生性行為せずに死んでもさほど悔いはないかな、という感じがあるが、童貞のまま死ぬ人はさぞ無念だろうとな。という感じ。でも初めての性行為自体は多くの人にとってそこまでいいもんでもない。あくまで例えであって、実際にそのような経験はしていないし性行為をしていない人を見下した発言でもありません。)
読書が好きといってラノベしか読まない人がいたら違和感を覚える人がいるそうだ。
しかしラノベが好きならば読書が好きという命題が真である程度にはこの主張には正当性があるのも確か。
ひるがえって、酒が好きといってビール(それもアサヒスーパードライ)しか飲まない人がいたらこれまた異を唱える人がいるだろう。
しかしタバコ好きで特定の銘柄しか吸ってなくてもほかのタバコ好きもタバコに無関心な人でも違和感を覚える人は、少なくとも上記の事例よりは圧倒的に少なかろう。
どうにも、総称にとっての十分条件に当てはまるものが好きであるとき、総称として好きの主語に頂いてよいかには文法上?意味論的な?暗黙の境界線があるようだ。
私は「ホテル=性的同意じゃない」派の人間だけど、この意見を馬鹿にしてる人の気持ちはわからんでもない。
「2人でご飯に行く、無防備にお酒もたらふく飲む、ホテルについてくるってことは『そういうコト』だよね?」って思考回路が成り立つのもよく分かる。
私も(性的同意に関してではないけど)そういう勘違いしちゃうことってままあるし。
でもそれって「微笑みかけてくれたから、挨拶してくれたから、この人は僕のことが好きなんだ!」「僕もこの人のことが好きだから、僕達は付き合ってるんだ!」っていうのと変わらないと思うんだよね。
これだと明らか危険思想じゃん?
それに付き合うときだって、脈アリだって確かめて、それでも「好きです、付き合ってください」って言うでしょ?
「性的同意⇒ホテル」であって、「ホテル⇒性的同意」ではないんだよ。
そういう意思があったら一緒にホテルに行くかもだけど、一緒にホテル行く人全員にそういう意思がある訳じゃないんだよ。同じ人だって状況・気分よって変わる。
「ホテルに着いてきてくれたってことは、相手もそういうことをしたいって思ってる」は主観的すぎるよ。
そういう可能性は高いかもだけど、それはそれとしてホテル行ってからいざ!ってときにちゃんと言葉で確認してね。
「文章表現そのものの持つ可能性を追求した芸術作品」みたいな定義だっけ?
だとすると俺が読んだことがある純文学は「アルジャーノンに花束を」と「虎よ虎よ」だけかなあ。
え?じゃあ純文学ってなんだ?
恋愛ドラマや戦争映画でサブテーマに人種差別が入ってきてるような感じ?
純喫茶は「純」=「酒の力に頼らずソフドリと飯と雰囲気だけで勝負してますよ」って意味だっけ?
じゃあ純文学も「純」=「内容に頼らずに文学性だけで勝負してますよ」じゃないとアウトなんか?
チョット調べたら「こころ」や「よだかの星」も純文学らしいね。
でもどっちも「"潔癖症的な自己憐憫&自己否定"vs"自己満足的な懺悔&自己破壊"のタッグマッチ」がメインテーマであって、文学としての表現力はそれを盛り上げるための裏方業務って感じじゃね?
裏方凄いなーって所で盛り上がるときがあるのは分かるよ。
サマフェスのスピーカーの仕組みがバズるとか、競馬の名実況で思い出トークが始まるとか、でもそれってやっぱりサブジャンル的な楽しみ方だと思うんだよなあ。
それとも「SF」や「歴史小説」や「架空戦記」みたいに単なる舞台設定の一種なのか?
いやそもそもの考え方が違う気がしてきた。
小説って作品のジャンルを何によって定義するのかが他のコンテンツよりも自由すぎるんだな。
あとテレビゲームの「アクションアドベンチャー」とか「MMOFPSRPG」みたいな合体型のジャンル表現が発達してない。
分類する人間が漠然と一番濃度の高い要素で定義してるだけなんだな。
そうなると「純文学」って言われる作品の傾向がなんか見えてきたわ。
「他にメインジャンルになれるような要素が強いものがなく、かつ純文学のカラーが強い」って場合に「純文学」の棚に分類されていくってことなんじゃねえか?
「文章表現そのものの持つ可能性を追求した芸術作品」であることは「純文学」の必要条件でしかなく、「文章表現そのものの持つ可能性を追求した芸術作品」だったら全部「純文学」になるわけじゃない。
逆に「純文学」と呼ばれている作品はすべて「文章表現そのものの持つ可能性を追求した芸術作品」であるってことか。
すげー地味なオチだな。
しかしアレだな、こうなると「純文学」ってジャンルに区分されるってのは「それ以外の要素が特定のジャンルに含まれるには弱いね」を意味しているってことだな。
「恋愛小説」や「ライトノベル」っていうジャンルに区分けされるのと「純文学」ジャンルに入れられるのどっちが作者的に満足が行くのだろうかってのは永遠の謎だなあ。
「アルジャーノンに花束を」にしたって文章によって主人公の知能状態を表現しているのは凄いんだが、それを通して描かれる差別問題、知性の絶対性に対する問題定義の方もちゃんと読み込んでやらんとアカンやろとは思うんよな。
絵画の世界だと手段そのものが目的になっていることは結構あると思うが、文学の世界でそうなってる作品ってあんま多くなさそうなんだよな。
結局求めているのは自分が切り取りたい世界観に合わせたより適切なレンズやフィルターであって、それが凄いねって褒められたとして作者的には「いやそれを通して見せたかったものの方の感想言えよ」なのかも知れねえなあ。