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2024-05-12

働きながら毎日料理する30代夫が、料理をする魅力を語る

私は今32歳で、子供は1歳3ヵ月。妻は専業主婦をしている。

料理基本的に私の担当だ。妻は子供離乳食だけ作る。

今は旦那さんが料理することも多いのだろうが、仕事をしながら毎食しっかり作っている、という話をすると、驚かれることが多い。

と言うことは、こういう生活スタイルは、まだあまり一般的だとは言えないのだろう。

自分料理担当して、3~4年くらいになる。

元はというと、(無自覚だったけれど)自分はかなり食にうるさい方だったらしく、

おいしくないもの我慢できない。それがプレッシャーになる、ということで、自分料理をするようになった。

ただ料理(食事)が好きなだけじゃん、と言えばそれまでなのだが、

別に元々自炊する習慣がついていたわけではない。学生時代や、社会人生活最初の方は、かなり適当食生活をしていた。

必要になってやり始めて、だんだん面白くなってきたのだ。

から、今回の話は、必ずしも生まれつき料理好きな人にだけ当てはまる、というわけではない、と思う。

自分料理をする上で、最もいいな、メリットだな、と思っている点は、

家での料理が、「一石多鳥」である、ということだ。

自分そもそも合理的な行動が非常に好きなので、料理という一つの動作で多くのメリットを同時に実現していることを思うと、それだけで嬉しくなる。

自分料理をすることのメリットは何か? 挙げていけば、下記のようになる。

節約になる。

健康になる。

③好きなものが食べられる。

④食への理解が深まり、味覚をより探求できる。

趣味としてのリラクゼーションになる。

仕事でのタスク遂行能力が上がる。

⑦妻に喜ばれる

以下、順番に説明する。

節約になる。

これは言わずもがな、だ。一部には、「自炊お金がかかる」と言っている人もいるようだが、そんなわけはない。

短期的に見れば、確かに一定の初期投資必要かもしれないが、一旦ルーチンが確立してしまえば、中長期的なコストはどう計算しても自炊の方がやすい。わざわざ計算式で表現するのが馬鹿らしいほどだと思う。

料理器具などについての議論は一旦おいておくとして、ぜひ注目してほしいのは、「保存の効く食材について」だ。

ある程度料理をするようになるとわかるが、案外、日常的な料理日本人使用する食材調味料レパートリーは限られている。

また、そのレパートリーを大別すると、

(a)生鮮食品のように足が早いもの・・・肉、魚、卵、葉物野菜牛乳ヨーグルト、など。

(b)ある程度日持ちのするもの・・・玉ねぎジャガイモにんじんねぎにんにく生姜昆布鰹節味噌醤油、酒、ワイン蜂蜜、塩、砂糖コショウ、その他種々の調味料、など。

となる。

ポイントは、(b)に分類される、日持ちのする食材のうち、特に根菜類を、例えばイオン場合であれば火曜市などの安価に入手できる日に、

常に一定数以上確保しておくようにすることだ。

(b)の分類の食材が常に冷蔵庫ストックされており、調味料なども揃っていれば、

あとはその日の気分次第で、適当に(a)分類の生鮮食品と組み合わせて調理する。

肉類も、日によって、この日は豚ロースが安い、この日は鮭が、などと変わっていくので、

特別なこだわりがなければ、こうした特売に合わせて食材をチョイスすると、より割安に材料調達できる。

こうした方式を導入すれば、仮に一人暮らしだったとしても、食材無駄にせず、常にジャストな分量の食事を、最も安い価格で実現することができるはずだ。

健康になる。

これについては、妻の嗜好をかなり取り入れたところがある。今となっては、むしろ出来合の食事を食べることがかなりストレスになってしまい、一食でもコンビニ食などで済ませるのは、非常に嫌になった。

野菜を取りやすい、というのは当然そうだ。

しろ調理済みの惣菜や、飲食店食事で、一日に必要野菜摂取量を十分に確保することは難しい。

また、これは料理をするようになって気づいたことだが、

調理済みの食品には、大抵の場合、多くの食品添加物使用されている。

昔は食品添加物など「そんなシャラ臭いこと気にしてられるか」という印象だったが、今はほとんど全ての買い物で、食品成分表示確認するようになった。

具体的に、何は取るべきではなく、何は取ってもいい、という情報はあまりにも細かな話になってしまうし、自分自身でも完全に把握できているわけではないので、立ち入らない。

が、実際にコンビニスーパーなどで普通に販売されている食材の中にも、専門的な見地から見て十分に安全とは言えない添加物が多数使用されているようだし、

加工食品をあまり摂取しない生活の方が、(少なくとも主観的には)体調がいい状態で日々を送れているように感じる。

また、砂糖や油などの、体調への影響度が大きい成分についても、

自炊をする中で、それぞれの分量や性質自分の体調に与える影響の度合いを、実経験観測していくことができる。

こうしたPDCA自炊をしていると自然と回るようになるので、自然ダイエットにもなり、体調管理もつながっていると思う。

③好きなものが食べられる

これも当たり前と言えば当たり前だが、自炊による料理のおいしさ、という点では、個人的にはYoutube以前と以後で、自炊を巡る状況は大きく変わっている、と思うのだが、どうだろうか。

コロナ以前の、あまりYoutube上での料理動画が充実していなかった頃は、ホットクックを見るか、料理本を見て作るか、くらいが基本的選択肢だった。

ホットクックは玉石混淆だし、料理本は色々試すにはハードルが高く、またレシピ通りに作っても必ず美味しくなるわけではない。

また、いずれの場合でも、レシピだけを見て作っていると、料理の背景に、ベースとなる基礎があることが理解しにくかった。

その点、例えば食材の切り方一つ、食材の投入タイミング一つでも、動画で示されれば、そこで用いられているテクニックは一目瞭然だ。

また、「これは本当にすごいな」という、作って感動するレシピがかなりたくさんあるのもYoutube料理動画凄さだと思う。

誰の料理が好きかは好みが分かれるところだろう。個人的には、コウケンテツさんは、このジャンルでは本当の天才だと思う。ほとんど全てのレシピ動画に、味という観点だけでなく、作りやすさ、シンプルさ、という観点からも、驚くような工夫が凝らされている。毎回非常にクオリティが高いのに、ありふれていない。単純に仕事として憧れるところがある。

Youtubeがあることは、今から自炊を始めることの大きな理由の一つになるのではないか

④食への理解が深まり、味覚をより探求できる。

上記のように、Youtube動画ちゃんレシピ工程確認しながら多くの料理経験していくことで、料理全般を下支えするセオリー体感にわかるようになってくる。

例えば、

 ・料理において、塩はどのような役割を持っているか

 ・どのようにして旨味を構成するか?

 ・〇〇の食材には、どのような調理法が、なぜ合うのか?

 ・〇〇の食材は、季節によって味がどう変化するか、いつが美味しいのか?

 ・なぜこの順序で食材を投入するのか?

 ・この食材で風味づけする意味は何か?

など、無数に論点がある。

もちろん、素人なので、こういう事柄について体系的にわかっているわけではないが、それでもかなり感得できるところがあるのは確かだ。

このことによって、例えば外食に行った場合も、

「なぜこのような料理の仕方になっているのか」「この料理のうち、何がユニークなのか?」「なぜこれが美味しいのか?」などを考える上で、それを言語化し、考えるためのヒントが自分の中で非常に多くなる。

また、それに対する考察が、日常料理にもフィードバックされるために、自分家族の食の経験がより豊かなものになっていく。

これは、とても創造的で、面白い頭の使い方だと思う。食をよく楽しむと、「ああ、人生を豊かに楽しんでいるな」という気に、ふとなる瞬間がたくさんある。

趣味としてのリラクゼーションになる。

これも、個人的にそう感じる、というレベルのことに過ぎないかもしれないが、料理食材は、「人間自然との強力な接点の一つ」だ。

この前たまたま流れてきた動画の中で、養老孟司さんが、

サラリーマン一年のうち3ヶ月は田舎に行って農作業をするべきだ」

というようなことを言っていた。

これは、人間は(人間以外の)自然に触れることで、人としての自然なあり様を取り戻せる、などというような話の文脈で言っていることのようだったが、

やはり現実的にはこれはなかなか難しい。

一方で、都会に暮らしていると、自然に触れることによって自分の心身が整えられる感覚があるのも、自分としては実感するところだ。

料理は、一つの自然である、と考えることもできる。

例えば、食材を茹でている鍋の中で、いろいろな食材の色を眺めていると、何となく癒されるものがある。

また、料理をすれば、その色彩を眺めるだけでなく、実際に手で触れ、匂いを嗅ぎ、それを味わう、という、五感総合的に用いたプロセスを、自然経験する。

これが、日常生活を生きる上での、癒しになっている面は非常にあると思う。これは、例えば電子機器などが介在するような趣味とは、少し異なる位置づけの趣味として考える必要がある。

仕事でのタスク遂行能力が上がる。

料理は細々したタスクの積み重ねだ。日々確実に、決まった時間に、下記のような要素を十分に考慮した料理提供する必要がある。

 ・おいしさ

 ・栄養

 ・原材料費

 ・材料調達(買い出し)

 ・家族の好み(カスタマイゼーション)

 ・新規レシピの導入

 ・在庫管理

 ・洗い物の段取り

これらの左脳的なタスクも、非常に奥深いものがあり、上記を同時に達成するためには、細かなオペレーション上の工夫や、機材の導入などを適切に行なっていく必要がある。

私自身は一介の勤め人だが、上記のようなスキルは、一般経営者が求められる全般的なスキルと通ずるところがあるのではないか、と思う。実際に、経営学等における考え方を、日々の料理管理活用している部分も色々ある。

こうした事柄について改善を行うためには、個々の作業をただ行うだけではなく、全体の工程俯瞰した上で、このプロセス全体を創造的に組み替えていく必要がある。

ここまで色々語っているが、自分料理に実際に日々費やしている時間は、平均で30分程度のものだろうと思う。

このような工夫を継続的に行うことで、「涼しい顔をして高品質アウトプットを出し続ける」ような仕事の仕方を、多少なりとも身につけることができつつあるのではないか、と思っている。

⑦妻に喜ばれる

結局、これが一番大事だ。

よくある言説として、「時給に換算するとこれは〇〇円だから外注した方がいい」などというものがある。

かに資本主義原則から考えれば、原則的に自給自足は不合理であり、分業こそ正義、というのは、理論的には正しいだろう。

しかし、近頃子供も産まれ、よく考えることは、

自分がすることのうち、何を内部化し、何を外部化するか、ということは、生き方のもの規定する哲学だ」ということだ。

それこそ原理から言えば、ありとあらゆることを外注化することができる。

料理外注化すること、子育て外注化すること、(仮想的に)家族・友人を外注化すること、(パッケージ化された娯楽を楽しむという点で)趣味外注化すること。

技術が発展すれば、例えば「息をする」というようなことも外注できるだろう。

原理を考えれば、デカルト式に、「我思う」以外の事柄は、全て外注可能である、と言うことができるかもしれない。

しかし、やっぱり自分はそういうあり方には、本質的な喜びはない、と思う。

食事を作り、家族と食べる、という行為は、「息をする」のと同じカテゴリーに入る、自分に属する行為だ、と、今の自分は感じているらしい。

まあ、どこにラインを引いていくかは、人それぞれだ。それが生きる姿勢の反映ということだと思います

EVに乗るとなぜバナナが食べたくなるのか、それは一つのミステリーだ。

静かで、しかスムーズな乗り心地のEVは、どこか未来的な雰囲気を漂わせている。

そんな中で、プラスチック香り新車匂いが混ざり合い、不思議バナナの甘い香りを思い出させるんだ。

それに、EV運転していると、エコな気分になるからか、自然と体に優しいものを求める心理が働くのかもしれない。

バナナは手軽に食べられるし、エネルギー補給にもいい。

からEVに乗っていると無意識のうちにバナナを欲するんだろう。

それに、バナナ黄色い。

EVの静かな走りと、黄色バナナは、なんとなく未来的なビジョンを結びつける色だ。

黄色は注意を引く色だし、EVの静かな走りは注意が必要だ。

から無意識バナナを求めるのかもしれない。

それに、バナナは曲がっている。

EVの曲線的なデザインと、バナナの曲線は、どこかシンクロしているような気がする。

まるで、バナナEVの曲線をなぞるように、手に取りたくなるのかもしれない。

それに、バナナは持ち運びやすい。

EVでのドライブは、快適で長時間に及ぶことが多い。

そんな時、手軽に食べられるバナナは、最高のスナックになるんだ。

それに、バナナは分けやすい。

友達EVドライブに出かけた時、バナナシェアやす食べ物だ。

からバナナEVに乗る時の、コミュニケーションツールにもなるんだ。

それに、バナナ環境に優しい。

バナナの皮は自然に戻るし、EV排気ガスを出さない。

からバナナEVは、エコペアと言えるだろう。

それに、バナナストレスを減らす効果がある。

EVに乗るときの静けさと、バナナリラックス効果は、ドライブをより快適なものにする。

からEVに乗るとバナナが食べたくなるのは、自然ことなのかもしれない。

それに、バナナ記憶に残りやすい。

子供の頃、おやつバナナを食べた記憶は、多くの人にとって懐かしいものだ。

EVの新しい体験と、バナナの懐かしい記憶は、不思議と心地よい組み合わせを生み出すんだ。

それに、バナナユニークな形をしている。

EVユニークデザインと、バナナユニークな形は、どこかでマッチしているような気がする。

からEVに乗るとバナナが食べたくなるのは、デザイン親和性からくるのかもしれない。

それに、バナナは安い。

EV運転するとき経済的選択意識する人も多い。

バナナコストパフォーマンスが高く、EV効率的イメージに合っている。

からEVに乗るとバナナが食べたくなるのは、経済的理由からかもしれない。

それに、バナナ世界中で愛されている。

EV運転すると、世界中どこでも行けるような自由な気分になる。

バナナ世界共通スナックで、EVグローバルなイメージにぴったりだ。

からEVに乗るとバナナが食べたくなるのは、世界観の拡がりを感じるからかもしれない。

それに、バナナ簡単に食べられる。

EV操作簡単で、バナナの食べ方も簡単だ。

からEVに乗るとバナナが食べたくなるのは、シンプル美学からくるのかもしれない。

それに、バナナ健康にいい。

EVを選ぶ人は、健康にも気を使う傾向がある。

バナナ栄養価が高く、健康的なライフスタイルマッチする。

からEVに乗るとバナナが食べたくなるのは、健康への意識の高さからかもしれない。

それに、バナナは色々な料理に使える。

EVの多機能性と、バナナの多用途性は、互いに補完し合う。

からEVに乗るとバナナが食べたくなるのは、多様性を求める心理からかもしれない。

それに、バナナ子供から大人まで楽しめる。

EVの楽しさは年齢を問わずバナナ普遍的な魅力も同じだ。

からEVに乗るとバナナが食べたくなるのは、全世代共通する楽しさからかもしれない。

それに、バナナはいつでもどこでも手に入る。

EVアクセシビリティと、バナナの入手の容易さは、利便性で結ばれている。

からEVに乗るとバナナが食べたくなるのは、手軽さからくるのかもしれない。

それに、バナナエネルギーをくれる。

EVの静かなパワーと、バナナエネルギー補給は、ドライブサポートする。

からEVに乗るとバナナが食べたくなるのは、エネルギーシナジーからかもしれない。

それに、バナナは気分を明るくする。

EVの快適なドライブと、バナナの明るい色は、気分を高める。

からEVに乗るとバナナが食べたくなるのは、ポジティブ気持ちからかもしれない。

それに、バナナ写真映えする。

EVでのドライブは、写真を撮りたくなる瞬間が多い。

バナナインスタ映えするし、EVスタイリッシュイメージと合う。

からEVに乗るとバナナが食べたくなるのは、SNS映えを意識すると当然だ。

それに、バナナ気分転換にもなる。

EVでの長いドライブは、時には単調になりがちだ。

そんな時、バナナを一本かじることで、ほんの少しの冒険を味わえるんだ。

それに、バナナ話題作りにもなる。

「なぜバナナなの?」という疑問から、新しい会話が生まれることもある。

それに、バナナは時には武器にもなる。

突然のバナナの皮で、ドライブ中の友達を驚かせることもできる。

それに、バナナ音楽リズムにも合う。

EVの静かな室内で、バナナを食べるリズムは、まるで音楽のようだ。

それに、バナナアート作品にもなる。

バナナの皮で作るアートは、ドライブの思い出に残る一品になる。

それに、バナナは時には哲学的思考を促す。

バナナは曲がっているけど、宇宙は曲がっているのか?」という深い問いかけをすることもできる。

それに、バナナは時にはゲームアイテムにもなる。

EVでのドライブ中に、バナナを使ったゲームで盛り上がることもある。

それに、バナナは時には記念品にもなる。

ドライブ目的地で買ったバナナは、旅の記念になる。

それに、バナナは時には友情象徴にもなる。

バナナを半分こして食べることで、友達との絆を深めることができる。

それに、バナナは時には冒険の始まりを告げる。

EVでの旅にバナナを持っていくことで、何か新しいことが始まる予感がする。

それに、バナナは時には平和シンボルにもなる。

バナナを食べながら、世界平和について考えることもできる。

それに、バナナは時には時間概念を変える。

バナナゆっくり味わいながら、EVでの時間の流れを感じることができる。

それに、バナナは時には自己発見の旅にもなる。

バナナの味をじっくりと感じながら、自分自身について考える時間を持てる。

それに、バナナは時にはミステリーを解く鍵にもなる。

「なぜバナナがこんなにも多様なのか?」という疑問を解き明かす手がかりになる。

それに、バナナは時には未来への希望象徴する。

バナナを食べながら、EVでの未来の旅を夢見ることができる。

それに、バナナは時には過去への郷愁を誘う。

子供の頃に食べたバナナの味を思い出しながら、過去を振り返ることができる。

それに、バナナは時には現実逃避手段にもなる。

EVの快適な座席に座り、バナナを食べながら、現実から少し離れることができる。

それに、バナナは時には創造性を刺激する。

バナナの形や色を見ながら、新しいアイデアを思いつくこともある。

それに、バナナは時には人生の喜びを教えてくれる。

バナナシンプルな味わいから、人生の小さな幸せを見つけることができる。

それに、バナナは時には人間関係を修復する。

バナナを分け合うことで、友達との小さないざこざを解決することができる。

それに、バナナは時には新しい出会いをもたらす。

バナナを食べていると、同じくバナナ好きな人と話が弾むこともある。

それに、バナナは時には旅の安全を祈るお守りにもなる。

バナナを持っていると、なぜか安心してEVでのドライブができる。

それに、バナナは時には自然との一体感を感じさせる。

バナナを食べながら、EVでのドライブを通じて、自然の美しさを感じることができる。

それに、バナナは時には人生哲学を考えさせる。

バナナ存在を通じて、生命不思議宇宙の広がりに思いを馳せることができる。

それに、バナナは時には心の平穏をもたらす。

バナナの甘い味と、EVの静かな走りは、心を落ち着かせる。

それに、バナナは時には新しい自分発見するきっかけにもなる。

バナナを食べることで、新しい趣味や興味を見つけることができる。

それに、バナナは時には人生旅路象徴する。

バナナの一本一本が、EVでのドライブのように、人生の一歩一歩を表している。

それに、バナナは時には幸せの分かち合いを表す。

バナナを人と共有することで、幸せを感じることができる。

それに、バナナは時には新しい文化体験する窓口にもなる。

バナナを食べながら、異なる国のバナナの食べ方を学ぶことができる。

それに、バナナは時には人生のサイクルを思い出させる。

バナナ成熟していく過程は、人生の成長と似ている。

それに、バナナは時には自己表現手段にもなる。

バナナの持ち方や食べ方で、自分個性表現することができる。

それに、バナナは時には新しい挑戦を始める勇気をくれる。

バナナを食べることで、EVでの新しい旅に踏み出す勇気が湧く。

それに、バナナは時には人とのコミュニケーションを円滑にする。

バナナを食べながらの会話は、なぜかスムーズに進む。

それに、バナナは時には日常からの脱却を助ける。

バナナを食べることで、日常ルーチンから抜け出すきっかけになる。

それに、バナナは時には新しい自分を見つける旅にもなる。

それに、バナナは時には新しい自分を見つける旅にもなる。EVでのドライブは、日常からの小さな逃避行だ。バナナを片手に、新しい景色を眺めながら、自分でも知らなかった一面を発見するかもしれない。それに、バナナは時には心の栄養にもなる。EVの静かなエンジン音をBGMに、バナナの甘さが心に染み渡る。それに、バナナは時には冗談ネタにもなる。友達との会話の中で、「バナナは曲がっているけど、お前の道筋はどうなんだ?」なんて笑いを誘うこともできる。それに、バナナは時には旅の仲間にもなる。一人でのドライブが寂しい時、助手席に置いたバナナが、なんだか慰めてくれるような気がする。それに、バナナは時には思い出のアルバムにもなる。旅先で食べたバナナの味が、その場所記憶とともに蘇る。それに、バナナは時には未来の夢を語る相手にもなる。EVでの静かな夜道を走りながら、バナナに向かって「いつかこうやって宇宙を旅するんだ」と夢を語る。それに、バナナは時には過去の懐かしい味にもなる。子供の頃に食べたバナナの味が、EVの新しいテクノロジーと融合して、新旧のハーモニーを奏でる。それに、バナナは時には自分を励ます言葉にもなる。ちょっとした失敗をした時、バナナ一口かじりながら「まあ、次があるさ」と自分を励ます。それに、バナナは時には旅のリズムを作る。EVの滑らかな加速と、バナナを食べるリズムが、まるでジャズのようにシンクロする。それに、バナナは時には新しい出発を告げるサインにもなる。バナナを食べ終わった瞬間、新しい何かが始まる予感がする。それに、バナナは時には自然との対話を促す。バナナの木が育つ熱帯の風を感じながら、EVでのドライブ自然との調和を教えてくれる。それに、バナナは時には人生の小さな発見をもたらす。バナナの中に隠れた種を見つけた時のように、EVでのドライブ中にも、予期せぬ発見がある。それに、バナナは時には新しい挑戦の象徴にもなる。バナナを食べながら、「次はどんなことに挑戦しようか」と考える。それに、バナナは時には人生の楽園を思い描くキャンバスにもなる。バナナトロピカルな味が、EVでのドライブを南国のビーチへと連れて行ってくれる。それに、バナナは時には心のオアシスにもなる。疲れた時、バナナを食べることで、心にひと時の安らぎをもたらす。それに、バナナは時には新しい自分を受け入れる勇気をくれる。バナナの柔らかさが、変化を受け入れる柔軟性を教えてくれる。それに、バナナは時には人生旅路における休息の時を与える。EVでの長いドライブの途中、バナナを食べることで、ほっと一息つける。それに、バナナは時には新しい友達を作るきっかけにもなる。公園バナナを食べていると、同じくバナナを楽しむ人と友達になれるかもしれない。それに、バナナは時には人生サプライズを運んでくる。バナナを食べていると、思いがけない幸せが訪れることもある。それに、バナナは時には新しい発見を促す探検家にもなる。バナナの味を追求することで、未知の食文化に足を踏み入れることができる。それに、バナナは時には人生の航海図を描く羅針盤にもなる。バナナを食べながら、EVでの次の目的地を決める。それに、バナナは時には心の平和を守る盾にもなる。バナナの甘さが、日々のストレスから心を守ってくれる。それに、バナナは時には新しい自分を育てる土壌にもなる。バナナを食べることで、新しい趣味や興味が芽生える。それに、バナナは時には人生の喜びを分かち合うための道具にもなる。バナナを人と共有することで、共感や喜びを感じることができる。それに、バナナは時には新しい冒険の始まりを告げる。EVでのドライブが終わり、バナナ最後一口を食べると、次の冒険が待っているような気がする。それに、バナナは時には人生旅路における忠実なコンパニオンにもなる。バナナと共に過ごす時間は、EVでのドライブをより豊かなものにしてくれる。それに、バナナは時には新しい自分発見する旅の始まりにもなる。バナナを食べながら、EVでのドライブが新しい自分を見つける旅になる。それに、バナナは時には人生旅路における快適な休憩所にもなる。バナナを食べることで、EVでの長いドライブの疲れを癒すことができる。それに、バナナは時には新しい自分発見する旅の終わりにもなる。バナナ最後一口を食べた時、EVでのドライブが終わり、新しい自分との出会いが待っている。それに、バナナは時には人生旅路における楽しい仲間にもなる。バナナを食べながら、EVでのドライブ楽しい冒険になる。それに、バナナは時には新しい自分

2024-05-11

嘘松アカウントの変化

とある嘘松アカウントを、1年ぐらい追っている。

聡明で慎重なはてなーの皆さんは「なんでぇ嘘だってぇ分かるんですかぁ?」「証拠はぁあるんですかぁ?」と言うかもしれない。

しか証拠と言えるものは何もない。ただ自分が嘘っぽいと感じているだけである

証拠はないけど、あのアカウントの言うことを真に受けてる人間は、いただき女子に2秒で全財産いただかれてしまう大マヌケだと思う)

ほとんど毎日のように嘘話を語っているこの嘘松アカウントだが、最近ちょっとした変化が生じてきた。

まず、「派生嘘松」が増えた。

プロ嘘松ァーといえども創造力は無限ではないらしく、一から嘘話を作り上げるのがだんだん難しくなってきたようだ。

そこで近頃は、いちどバズった嘘松ベースに様々な続編・外伝派生させる、いまどきのアニメみたいな手法を取り入れてきた。特に特定の悪役を設定して、アイツがまたこんなことをしでかした!というような転がし方を好んでいる。

だが、これはこれで、それもアイツだあれもアイツだと、一人の人間が八面六臂の大活躍をしてることになってしまい、さすがにそんな何もかも一人が原因になってることある?と、リアリティの低下を招いてしまっている。嘘松野郎としても頭が痛いところだろう。

二つ目は、夢の話。

これまでの嘘松アカは、あくまで実際にあったこととして話を語ってきた。というかそれこそが嘘松定義だろう。

しかし、実話としてしまうことで逆に、現実情報と照らし合わせて、それはおかしいんじゃないの?というツッコミも入ることになる。自分が追っているアカ嘘松使いの中でもそこまで博学ではない個体なので、ボロもわりとボロボロと出てしまう(そのたびにツイ消しで逃げてきた)

そこで最近レパートリーに加えられたのが、「こんな夢を見た」という、末は夏目か黒澤かという形式だ。

しかに、夢の話ならどんな荒唐無稽なことを言っても矛盾を指摘される心配はない。実際のところ、内容を見るに本物の夢ほどの不条理さはなく、明らかにウケを狙った作為を感じるためやっぱりこれも嘘ではあるのだが、さすがに夢の中身で嘘をついたからといって咎めるのは無理だろう。

ツッコミに対する牽制としてはなかなか上手いことを考えるものだが、俺は敢えて言いたい。

そんな小手先技術で守りに入ってもいいのか?

お前の嘘松道はそんな器の小さいものだったのか?

「実話」でバズってこその嘘松じゃないか、と。

俺はあいつが、ヘタに実話として大大大バズしてしまい、メディアインタビューなどが殺到してのっぴきならないところに追い詰められる姿こそが見たいのだから

おはよう

おはます

お布団のひんやり感

さいこーですわ

実はまだ半分夢の中にいるの

今この現実存在する増田選手は半身だけ

夢の世界増田選手は神なので

まり半神というところですわ

現実でも神になって

天と地とかにもたくさん創造したい

いっぱいいっぱい創造したいですわ

夢は創造的ですごい。

自分にこんなにいろんなことを考える力があったのかと思う。

童貞マインドセット

30年間童貞として歩んできて、ようやく得た気付きをここに記そうと思う。

童貞とは?

→ ①自己変容を極度に恐れる者(ネガティブ面)②無知が故の空想世界覇者ポジティブ面)

この2つの要素に大別できると考える。

童貞が恐れる変化とは何か?

価値観思考に関する変化

自己同一性喪失

 例:異文化に触れたり、世界標準的な考え方を学んだりすることで、

 旧来の日本的価値観・考え方が上書き、抹消されるのではないか?という恐れ。

<変化に対する望ましい受け取り方>

 → 既存価値観が無くなるのではなく、新しい情報と融合して進化する、

 あるいは、新たな価値観自身価値観を照らし合わせ、適切な取捨選択が行われる現象と捉える。

経験の不可逆性

 例:その行為を行うことで、行う前の自分に戻れなくなるのではないかという恐れ。

 自らの手で人を殺めてしまった、過ちを犯してしまった、女性を汚してしまった etc.

 「してしまった自分」の烙印が一生残り続ける

<変化に対する望ましい受け取り方>

 → 性行為は必ずしも男性側が(女性の何か神聖さを)搾取する行為意味する訳ではない、と捉える。

 (特に取り沙汰される)男性の性欲を悪とする風潮に流されない。


②未経験無知が生み出す無限想像/創造力 (ただし、百聞は一見しかず)

ポジティブクリエティティ

 例:目の前にニンジンが吊るされた状態ゆえに走り続けることができる

 体験経験したことがないからこそ「知りたい、理解したい」と想像を膨らませ、興味が持続する。

 経験による固定観念先入観を持たないニュートラル視点物事を考えることが出来る。

<注意すべき受け取り方>

 → 得てして美化されたイメージを抱きがち。

 膨らみすぎた期待と希望はたった一度の経験によって、いとも簡単に崩れ去ることを留めておく。

 過度な期待によって失望しないように「現実はこんなものであろう」と理想現実ギャップを埋める用意をいつでもしておく。

2024-05-10

Apple、新iPad Proの動画「Crush!」について「的外れだった」と謝罪

https://news.yahoo.co.jp/articles/92f47998fa9ce53eaffea53c63fffa4c634cbe14

 Ad Age5月9日付の記事で、Appleマーケティングコミュニケーション担当副社長トールミューレン氏は「Creativity is in our DNA at Apple, and it’s incredibly important to us to design products that empower creatives all over the world. Our goal is to always celebrate the myriad of ways users express themselves and bring their ideas to life through iPad. We missed the mark with this video, and we’re sorry.(創造性はAppleDNAに組み込まれており、われわれにとって、世界中クリエイターに力を与える製品設計することは非常に重要です。Apple目標は、ユーザーiPadを介してアイデアを実現する無数の方法自己表現するのを称賛することです。だが、この動画は的を外していました。申し訳ありません)」と謝罪した。

2024-05-09

Stretch Guy

ストレッチガイで伸縮性のある冒険に乗り出しましょう!弾力性のあるヒーロー操作して、障害物やパズルでいっぱいの挑戦的なレベルナビゲートしましょう。


限界を超えて、道にあるすべての障害を克服する準備はできていますか?今すぐストレッチガイダウンロードして、弾力性のある冒険に乗り出しましょう!

2024-05-08

anond:20240508165525

ミニ四駆は私も子供の頃遊んだ懐かしいおもちゃですね。速くて格好良くてとてもワクワクしたのを覚えています

ミニ四駆の魅力は、自分マシンを組み立てカスタマイズできるところだと思います。ボディやシャーシ、タイヤモーターなどパーツを選んで、オリジナルマシンを作り上げる創意工夫が楽しかったです。軽量化のためにボディに穴を開けたり、ギヤ比を変更してみたり、と没頭していました。

また、友達と競い合ったり、二人で協力して一台のマシンを作ったりと、コミュニケーションツールとしても活躍してくれました。ミニ四駆を通じて友情が深まった経験が印象に残っています

大人になった今でも、ミニ四駆進化したメカニズムデザインを見ると心が躍ります世代を超えて長く愛されているのは、創造性を刺激し、エンジニア精神に火をつける魅力があるからだと感じています

レースで速さを極めるのも良いですが、私はじっくりと作り込んで、自分だけのマシンを完成させる過程が好きでした。ミニ四駆は心に残る素敵なホビーの一つです。

anond:20240508024549

AIの台頭に関する批判的な言説や懸念は、多くの場合技術進歩がもたらす影響についての重要議論を提起しています。確かにデジタルコンテンツ創造におけるガイドライン無視や、不適切コンテンツの生成は問題となり得ます特に未成年者を描いたコンテンツに関しては、法的および倫理的基準を遵守することが重要です。

SNSオンラインコミュニティにおけるコンテンツ流通は、しばしばそのプラットフォーム規範文化に影響されますが、それには責任ある行動が求められます発言力のある人々が品行方であることは、コミュニティにとって良い影響を与える可能性があります

AIデジタル技術進歩に伴い、これらの問題に対する意識を高め、適切なガイドラインを設け、守ることが、健全デジタル環境を維持するために不可欠です。また、技術利用者として、私たちはそれを使う際に倫理的判断を行う責任があります

anond:20240508010751

え、なにこれ。

創造だよね。

マジじゃないよね。

創造だとしてもキモいんですけど。

アドバイスしてる方もキモい

アドバイスされてる方もキモい

周りが知ってるなら止めない周りもキモい

2024-05-05

頭以外の毛は生えなくていい

マジで生えなくていい

そんな元気があるなら他に回せ

全身の毛が無限に生えてくるこのエネルギー知的創造に活かしたいよ

人体は狂っている

弱者男性勝手にうちの子を描いてきてドン引き普通許可を取ってから描くよね?

SNSで知り合ったいい年して会社と自宅を往復するだけの生活をしている弱者男性の話です。

その弱者男性さんがうちの子イラスト勝手に描いてきたんですね。

いやありえないでしょ?

勝手にうちの子の絵を描くなんて犯罪だよ。

しかもそのイラスト、色鉛筆だけで描いたような雑な絵だったんですよ。

私は「著作権侵害です」と何度も言ったのですが弱者男性さんは聞く耳を持たずに自分意見ばかり言っていてドン引きしました。

結局、そのイラスト世間の人に批判されてました。

まあ自業自得ですよね。

うちの子スペック

名前:リオン

年齢:13歳

性別:男

種族獣人

能力:呪現化能力空間支配能力の二重能力

性格:臆病で自分能力他者を傷つけることを極端に嫌う優しい性格

容姿猫耳獣人で髪は白く目は赤色身長は150cmで体重は45kg。服装はフード付きの白いマントと赤いジーンズを着用。

好きな食べ物:甘い物全般特にプリンが好きである

嫌いな食べ物特に無いが、苦いものはあまり好きでは無いらしいです

能力についての説明:呪現化能力とは、リオンの体内にある「呪力」と呼ばれる特殊エネルギー物質化させて武器や防具を生成させる能力である

通常は能力発現時のイメージに沿った1種類の武具しか具現化することはできないが、リオンは水を具現化することで自由に形状を変化させてその弱点を克服している。

空間支配能力とは、リオンは「結界」と呼ばれる自分理想とする世界創造する能力を持っており、その世界は「異次元」であり、通常の物理法則無視した現象が起きる。

その世界いるかぎり死者の蘇生すら可能であるが、あくまでもその世界の中での話であり、現実世界へは直接干渉出来ない。

2024-05-04

フーリガンオタクの読解力不足漫画表現を殺す例

インベスターZの炎上事例 https://anond.hatelabo.jp/20240503185920

には、昨今のオタク的ないちゃもんの付け方がどんな風に表現を殺しているか典型例が現れている。

 

それはこの箇所だ。

 作中に「ぼくの見た奴は面白かったから」という理由で、映画を「損切り」出来なかったことを正当化している部員がいる。これ、普通の読解力で普通に読めば、作者のエクスキューズである。(中略)しかし、これすらも、号泣暴走グルグルパンチと化したオタクには「作家自身も気づいてない矛盾を俺が指摘してやる」といういちゃもんのつけどころになる。

 

漫画キャラクターによって論調を緩和する

 インベスターZの作中では、──わかる人はわかって当然なのであえて意識もしないが、──キャラクターの相対化による論調の緩和というものを行っている。

 作中に、ある意見強硬に述べるものがいても、それに明らかに賛成していない人物を出すことで、その論が絶対ではないという作者の立場を示すマーカーである

 当たり前すぎて言っててバカらしくなってくるが、どうもこんなことすらわからないのが今やオタク評論家だを気取ってネットで偉そうにものを語るやつらの一大勢力に成り果てたのだということを、残念ながら痛感せざるを得ない。

 

漫画を読み取るには高い知能が必要

 ではなぜそんなことをするのかと言うと(これもわざわざ説明しなければいけないというのがバカらしいが)、台詞の流れを読みやすくするためである

 漫画文章とは違う。一人の人間がある立場意見を示しながら、その意見絶対ではないしそれを判断するのは相手自由であるなんてことを一人で全部語っていたら、台詞が長くなるし読みにくくなる。

 だからそのかわり、意見の相対化は複数キャラクター不同意空気によって読み取らせることが基本になってくる。そういう意味では漫画の読み取りには、ある種の本などより知能がいるのかもしれない。

 

オタク表現の敵になった

 あるキャラクターが述べていることだけで作品テーマを早合点し、それに反対するキャラクターもまた作者の手による創造であることを忘れるような理解力の低いオタクには、作品を語る資格なんかないし、こういう連中がのさばればのさばるほど漫画表現は萎縮し後退していくしかないのである

 オタク表現の敵だ。

 

2024-05-03

異世界創造者」,本日Steam版発売

お前ら連休はこれで決まりだああああああああああああああああああああああああああああああああああA

anond:20240503003327

そしたら女性の方が価値創造できるようなって自然給料上がりますよね

逆に言うと今男性の方が平均給与高かったり管理職割合が多かったりするのは男性の方が経済的生産力の評価が高いだけなんじゃないの?

2024-05-02

学歴コンプレックス卒業した 2/4

https://anond.hatelabo.jp/20240502193038

大学2回生の頃~

学生時代は、健康づくりのために、鹿渓館(学生棟)という建物の地下2階にある【トレーニングルーム】に通っていた。授業が終わった後に、週に三度くらいかな。

ここでは、体育会部活支配(?)が圧倒的だった。柔道とか空手とか陸上とかラグビーとかウェイトリフティングはもちろん、数多くの部活トレーニングルーム使用していた。めちゃ狭かった思い出がある。

自分のように体育会でない者は、ひたすらにベンチプレスの順番を待つしかなかった。でも、なかなか空かないんだよな。ベンチプレス。あとは、体育会利用者が優先という空気があったし、実際そっちの方があるべき姿だと思っていた。

ただ、自分の番が周ってきて、ベンチ台でバーベルとか持ち上げたりするじゃん。その時にさ、ガーーーンッ!! という大きい音がするのだ。見れば、隣のスペースでアップライト気味に胸~頭上にバーベルを上げていた柔道部の人が、バーベルを放り投げるようにして床に落とすのだ。

あれは、マジでびびったわ。重さが50kg以上もある物体を放り上げるだけの筋力が俺にもあれば、驚かずに済んだのかもしれない。

結局、夕方以降にトレーニングルームを使うのはやめて、早朝にトレーニングする派に転向したんだっけ。朝だったらベンチプレスも、腹筋台も、エアロバイクも、大型鏡の前も空いている。

確か、カブトムシその他の甲虫類が、クヌギコナラの樹液を深夜に吸うのって、スズメバチ回避してるんだよな。日中スズメバチとやり合うと甲虫側がボロ負けするので、彼らは仕方がなく時間帯を変えて樹液を吸うのだ。俺もその仲間だった。正体は甲虫である

ただやはり、体育会の人たちはバックグラウンドが違うこともあって、正直無理なことがあった。特に野球部柔道部といった上意下達イメージがある部活は、当時の自分からするとヤベーことばかりしていた。

3.柔道部とそれ以外の部活の人

 夕方以降にキャンパスから下宿に帰ろうとする時、北側キャンパス中庭付近で、体育会の人たちがバイオレンスなことをしていた。例えば、誰かのTシャツの胸あたりを両手で掴んで、ブンブン振り回していた。後は、後輩にエレベータートイレの前のタイル貼りのところで、床オナをさせていた。あれは振りだったと信じたい。通りすがりの人は普通にスルーしていた。

 基本的に、体育会人達はやりたい放題だった。2024年現在と比べれば、あの頃の世界は「実績があれば何でもよかろう」の世界だった。実際、彼らはある程度の実績を出している。

 例えば、先ほどの鹿渓館の中にある部室棟について、2階とか3階の日当たり良好なスペースは体育会が占めていた。部室の出入口は中がいつでも見えるように、目線の高さの0.5㎡ほどがガラス張りになっているのだが、彼らはそれすら張り紙で覆い隠していた。たまに、男性女性の怒声や、うめき声や、金切り声が聞こえていた。一体、中で何が行われていたのだろうか……。

 ちなみに、【文化系部活】は地下1~2階に生息していた。ジメジメとした暗い空間である。そこで毎日部活動をしていた。最新の大学キャンパスを見る限りは、おそらく今でも其処に彼ら彼女らは生きているのだろう。



まあ、でもこの頃って、だいたい20才くらいだったからだろうか。なんでも楽しかった記憶がある。

大学の構内だと、学食でごく稀にだけど、同じゼミの人と一緒にご飯を食べることがあった。京都山間部にフィールドワークに行く関係で、事前に同じチームで親睦を深めるのだ。半強制イベントだったけど、ああい体験って、あの時分じゃないとできない。

大学近くでも、例えば喫茶店がふたつあったんだけど、社会福祉カフェの方に割と行っていた記憶がある。お値段が安いからだけじゃなくて、なんか、どんな人でも受け入れるというか。そういう感覚がよかった。

教授が言うには、昔は大学に接している市道の上に、お昼時にたくさんの屋台が出店していたらしい。むかし、食中毒みたいな事件があってからは締め出しにあったみたいだけど、人生で一度は観てみたかったな。

大学の構外だと、ちょっと北の方にはおいしいラーメン屋とか、南の方にはカフェとか、中華料理のお店とか、いろいろあったな。文芸サークルの皆でよく利用していた。



4.野球部の人たち

 今はどうか知らないが、大学の授業の出席確認に際しては、出席カードを提出する形式だった。時代の先を行っている大学だと、学生証をピッとやれば出席したことになるらしい。

 どうでもいいけど、今って授業は15回中10回以上出ないと単位をもらえないらしい。厳しいんだな。あと、年間に取得できる上限単位は42らしい。ちょっとなすぎるよ。俺の時だと、大学3回生の前期終了時点で最低110単位は取っていたはずだ。

 さて、あれは大教室での授業の時だったか。秋だったと思う。佛大の若き学生がこの日記を見ている可能性はほぼゼロかと思うが、5号館の101という大きい教室(余談だが同志社講義室に似てる)で、中国明朝歴史の授業中だった。当時の日記によると、倭寇とか康熙帝とか足利義満とか、そのあたりの絡みがある回だったとある。もちろん全く覚えていない。

 授業が始まると、出席カードが前の席から回ってくるのかな~と思いきや、一番前の人が一番後ろの席まで配り切る形式だった。自分が出席カードを受け取ると、すぐ後ろには野球部と思しき人達がいた。彼らは、「すんません、出席カード追加で5枚くれる?」と発言していた。

 出席カードを配ってる人が「すいませんね~」と言って去ろうとすると、「おいお前、待てやコラ!!」と野球部人達が彼に絡み始めた。出席カードを配ってる彼も引かず、収まる気配がなかった。

 これはいかん、と思って俺は、「ちょっとちょっと~」と騒いでいた。やがて中年ほどの先生がやってきて、彼らをひと睨みすると、何事もなかったように騒ぎは収まった。

後輩に「当たり屋やれ」 佛教大野部員、無期停学に

(以下は個人ブログURL長大のため短縮化)

https://x.gd/2hdl3

 上記ニュースは私が入学する前の出来事だが、大学体育会というのは、どこもこんな感じだろうと思う。佛大野球部も、京滋リーグという枠ではほぼ無敵だった。その線でいくと、日本大学もそういう感じだったのだろう。結果だけは出していた。

 結果を出しているうちはいいのだが、佛教大学だって、やりすぎるといずれは日本大学福山大学のように、不祥事(大麻とか)>実績となってしまい、とんでもない結末を迎える。

教職員に対する懲戒処分について(令和6年2月13日

https://www.bukkyo-u.ac.jp/news/info/20240213-26933.html

 上記のように、今でも事件はあるといえばあるが、こういうのはいいよ。間違った人材(臨時雇いの研究者)を雇ってしまったんだろう。大学はいわば騙されてしまったわけだ。次から気を付ければいい。

 ただ、卒業生の一人としては、学生という本質的存在についてはキッチリ管理して、自分のように不愉快な思いをする学生を無くしてほしいと感じている。

不満ばかりを書いてる気がする。

大学生活、楽しいことはいっぱいあった。例えば部活がそうだ。文芸部とか文芸サークルである

文章を書くのが好きだった。それこそ子どもの時分から中学でも高校でも、そういう系の部活がよかったけど、運に恵まれなかった。大学生になって、ようやく文字作品創造する喜びを得ることができた。

あとは、学園祭だ。その名も鷹稜祭(おうりょうさい)というイベントなのだが、年に一度の楽しみだった。一度だけ実行委員になったことがある。みんなで何かひとつのものを作る、といったら大げさだけど、最初は何をしたらいいか全くわからない……という段階から、次第にステップを踏んでいって、尻上がりにイベントづくりが面白くなっていく。

最初の一歩を踏み出すのが早ければ早いほど、ドンドンと楽しくハイになっていって、最終日を迎える頃には、自らがイベントと一体になっている。自分仕事ひとつになっていく感覚

こういう感覚は、仕事はもちろん、趣味活動だってある。精神的な意味で、自分とナニカが溶け合ってひとつになっている感覚である。そのナニカは、人によって違う。パートナーや仲間だったり、参加してる社会のものだったり、取り組んでいる事柄だったり、特定空間だったりもする。

ひとつ、少なくともひとつ大学に進学してよかったと思えるのは――これまでの人生で一番、没頭できるものを見つけられたことだ。これだけで大学に進んでよかったって、そう思える。

あとは、アニメがそうだな。それまでのアニメって、安っぽい作画が多かった。特に子ども向けアニメはそうだ。ポケモンはまだいいけど、デジモンとかはひどいものだった。この頃から、なぜかはわからないが綺麗な作画が増えていった。

どのアニメかは忘れたけど、女の子ドンパチやる系の朝のアニメで、必殺技ダンスバンクがあったのだ。サンバを踊ってたんだけど、最後に「ウー!マンボ」ってやるんだよな。「サンバなのかマンボなのかどっちなんだよwwwwww」と、当時は大笑いした記憶がある。

え、そんなもの面白いのかって? 当時はまだ20代前半である。箸が転んでも面白い年頃なのだ

https://anond.hatelabo.jp/20240502193040

リベラルはいつになったら藁人形論法をやめるのか

リベラル増田って議論でよく藁人形論法使うよね。

分かりやすダブスタ架空ネトウヨやアンフェを創造して勝手論破してる。

いつまでこの手法使うんだろ。

2024-04-24

anond:20240424100441

これは、埼玉県市町村名を組み合わせて作られた、いわゆる「やられAA」や「死亡AA」と呼ばれるものですね。

やられAAは、主にネットゲームや対戦型ゲームなどで、敗北した時や致命的なダメージを受けた時に使われるAA一種です。倒れたキャラクターが地面に横たわっているような形で表現されることが多いです。

このAAでは、「さいたま市」「川口市」「越谷市」という埼玉県内の市町村名が巧みに組み合わせられ、倒れて横たわっている人物の姿を表現しています

特に、「さいたま市」の部分では、倒れた人物の腕が表現されており、「川口市」と「越谷市」の部分では、倒れた人物の脚が表現されているのが特徴的ですね。

このように、地名言葉を組み合わせてキャラクター物体表現するAA手法は、ネット上でよく見られる表現方法の一つです。単純な記号の組み合わせでありながら、ユーモアインパクトがあり、ネットならではの創造性が感じられます

2024-04-20

AI『ブルシット・ジョブ』についてお尋ねですね

「ブルシット・ジョブ概念提唱

人類学であるデヴィッド・グレーバー氏は、現代社会において多くの仕事無意味であり、社会にとって価値を生み出していないと主張しています2018年出版された著書『ブルシット・ジョブ:クソどうでもいい仕事理論』の中で、彼はこのような「ブルシット・ジョブ」の存在について論じています

 

 

ブルシット・ジョブの特徴と分類

グレーバー氏は、以下の特徴を持つ仕事が「ブルシット・ジョブである提案しています


○ 具体的な例
  1. 取り巻き: 上司経営者などの権威を誇示するために存在する仕事
  2. 脅し屋: 雇用主の利益のために、他人脅迫したり欺いたりする仕事
  3. 尻拭い: 本来発生すべきではない問題を処理・修正する仕事
  4. 書類穴埋め: 実際には何も成果を生み出していないことを示すために作成される書類作成などの仕事
  5. タスクマスター: 必要のない仕事を次々と作り出し、部下に割り当てる仕事

具体的なブルシット・ジョブ職業

企業法務、テレマーケティング広報、一部の管理職などが、「ブルシット・ジョブ」に該当する可能性があります。これらの職業は、必ずしも社会に貢献していないと断言することはできませんが、その価値が明確に見えにくい場合が多いと言えます

 

 

○ 粗雑なコード修正するプログラマー

粗雑なコード修正するプログラマーは、「尻拭い」のカテゴリーに分類される可能性があり、以下のような問題に直面しがちです。

 


○ 具体的な例

 

このような状況下でプログラマーは、本来創造的な活動であるはずの新しい価値を生み出す作業ではなく、過去の過ちの修正に追われることになります。これは、ソフトウェア開発プロセス全体に大きな問題があることを示唆しています

2024-04-18

この仕事のやり方は正しいの?

公務員の人の仕事のやり方でモヤっとしたことがある。判断に迷っている。

まず経過から入るけど、私の夫は、スポーツ少年団コーチとして活動している。年間の練習試合の多くは、市の体育課が管理者となっているグラウンド実施する。

当然私たち自由に使える施設ではなく、年に一度、ほかのスポーツ団体と一緒に調整会議をする。そこで年間の使用予定が決まる。※私もお手伝いで、その会議に同行したり、付随する事務を務めたことがある。

3か月前のことである。突然我が家に、市役所の体育課の職員と、その上司の人が来たのだ。

要件は、「先日出した調整会議の通知文に誤りがあった。新しい物と取り換えてほしい」とのことでした。「どこが違うのですか?」と尋ねたら、「文書の右上の番号は、120番ではなく、A120番だった。差し替え願いたい」とのこと。※番号はフェイクだけど、この程度のミス

わざわざこんなことで、と思ったけど、一応は農場で働いていた夫を呼んだ。また同じ説明をしてもらったところ、夫が激高したのだ。

・こんなことで職員2人以上が対応すべきではない

・この程度のミスであれば、来年からちゃんとすればよいのでは?

私たち税金をこんなことに使わないでいただきたい。もっと創造的なことに使えないのか。

このようなことを家の玄関口で、職員の人に伝えていた。さらにその後は、体育課の責任者電話をかけて同じ主張をしていた。そんなにイラっとしたのだろうか、今度はさらヒートアップしていた。夫がここまで怒るのを見たことがない。

私は民間勤めの経験しかない。しかも畑違い。この文書の取り換え依頼が正しいものなのかわからない。どちらの意見も正しいような、間違っているような気がする。

皆さまの視点から見ると、どのように映るのでしょうか。ご意見をいただけるとありがたいです。

人が作ったものから新たな価値創造しようとするのは日本石炭を掘るようなもの

高難度で低水準のものしか獲得できない

みみっちいアップデートは血反吐により成り立つ

anond:20240418082459

AIを使う時点で、それは創造じゃないからな。窃盗強盗万引きそう言うのと同じ。

他人から奪ったものを成果として世に出すなよ、クソゴミカス

2024-04-15

建設業に最も適した国は?

第二次世界大戦後、日本経済世界を驚かせました。国は、テクノロジー建築、金儲けが得意になりました。予想外だったが、日本エレクトロニクス機械化学創造に優れるようになりました。国は現在世界で最も賢い国の一つです。

過去数十年にわたり日本住宅オフィス工場エネルギーシステム、移動手段などの強力なものを構築してきました。しかし、これはすぐには起こりませんでした。それはさまざまな段階で起こりました。各ステップは、地球に優しくしながら経済を成長させることに焦点を当てていました。日本賢明に成長する方法を示しています

世界人口わずか 1.6% の日本は、現在世界第 3 位の経済大国です。そしてこの経済を支えているのが、力強い日本建設産業です。2011 年の東日本大震災きっかけにインフラ耐震化が進み、現在日本形成されました。

日本建設市場はどれくらいの規模ですか?

日本建設市場現在、約 5,730 億米ドル以上と評価されています日本はたくさんの人々と重要産業がある大きな場所です。国は、企業工場住宅建設に多額のお金を費やします。統計によれば、2021 年の建設市場は同年の GDP の約 5% を占め、総額は約 1,960 億米ドルに達しました。

日本建設サービスにはどのようなものがありますか?

日本には47万社以上の建設会社正式登録されていますしかし、全国の市場支配している主要企業は、Obayashi Corporation、Shimizu Corporation、Taisei Corporation、Taneka Corporation、と Kajima Corporationなどです。それらは最大の産業プロジェクト保有しており、その合計売上高は約 60 億米ドルに達します。

以下のリンクからすべての情報を見るには、ここをクリックしてください:https://www.sdki.jp/blog/construction-market-research-japan-importance-and-benefits/46

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