はてなキーワード: 利己とは
まだ図書館開いてるのにシレッと返却口に入れて、注意されないまま逃げようとするその精神。人として幻滅する。
延滞したら必ず受付まで持って行き直接渡す。司書の人にはイヤな顔の一つもされるがしょうがない、自分のやったことなんだから。自分のやったことに対する責任(と言うのも大げさだけど)くらい取れるようになっとくべきでは?
当人は上手くやりおおせたぐらいに思ってるのだろう。用意されたシステムを合理的に用いて、自らの要求を満たし、誰にも迷惑をかけていない。どこに咎められる余地があるのか?
システムが許せば全ては許されると思ったが最後、人は堕ちるところまで堕ちる。そこにあるのはあくまで選択肢に過ぎない。それらから何を掴むか、それに色濃く人間性が表れる。正解はない。しかし不正解はある(と思う)。
「人としての規範」みたいなものがあまり語られなくなったのは残念だ。誰もが「利己」と「手段」しか謳っていない気がする。だからそんなことをするのに疑問も持たなくなるのではないか?人が人を見るとき、AIでも動物でもなく「人」を見るとき、やはりその精神性は外せない問題になってくると思う。
仏の教えは合理的。基本的な理屈の前提となっているのは、この世界には「因果関係」があって、あらゆる物事は因果関係の連鎖で成り立っていますってことだけ。
・絶え間ない因果関係の連なりがあるから「諸行無常」。諸行無常ってのは、あらゆる物事は変化し続けているってこと。
・諸行無常な世界を普通の人間が経験すると、「一切皆苦」と感じる。あらゆる物事が変化し続けているってことは、やがては人の望まない状態になり得るし、たいていはそうなるから。人生には「四苦八苦」がつきもの。
・普通の人間は、永遠不変の私がいることを素朴に信じていて、その『私』に強く執着している。しかし実際は、「諸法無我」。つまり、永遠不変の私は存在しないということ。なぜなら、私はこの世界の一部であって、世界の一部であるからには因果関係の連鎖によって一時的に立ち現れている物事でしかないから。身体も五感も思考も欲求も一時的に立ち現れているものに過ぎない。私という存在もまた、諸行無常であり、ゆえに諸法無我。
・普通の人間が諸行無常な世界に在って一切皆苦と感じるのは、『私』に強く執着しているから。世界も私も変化し続けているものだから、『私』の思い通りになるとは限らない。それなのに、思い通りにならないとそのたびに苦しい。
・一切皆苦と感じる原因が『私』に対する強い執着であるなら、その執着を薄め、消し去ればいい。この世界は諸行無常であり諸法無我であることを、知識としてではなく、感得することができたなら、『私』への強いこだわりは霧散し、世界を一切皆苦とは感じなくなるし、副産物として利己性も消える。これが悟りの境地。
・この世界が諸行無常であり諸法無我であることを感得するには、感得するトレーニングを繰り返して感得する認知能力を高める必要がある。自転車に乗れるようになりたいなら自転車に乗るしかないのと同じ。このトレーニングが仏教の修行の中核。昨今では「ヴィパッサナー瞑想」とか「マインドフルネス」とか呼ばれている。ヴィパッサナー瞑想で得られる認知能力を「智慧」あるいは単に「慧」と呼ぶ。
・『私』に対する強い執着を薄める方法はヴィパッサナー瞑想以外にもう一つのアプローチがある。「慈悲」つまり、利他的な心を育てる瞑想や利他的な実践を繰り返すこと。
・ヴィパッサナー瞑想だけしていれば悟れるかというと、そうでもない。「戒」:瞑想に集中するための環境や習慣を整え、「定」:ヴィパッサナー瞑想に必要な集中力を高めるための瞑想も行う。これらをヴィパッサナー瞑想と合わせて「戒定慧」と呼ぶ。仏教の実践は基本的にこの三つ。もう少し詳しくは「八正道」と言う。
というのが、私の理解。もっと詳しく知りたければ「」でくくった単語を検索して一つずつ調べるか、書籍なら仏教思想のゼロポイントをおすすめ。
思想史的な観点をちょっとだけ補足。仏教は教祖である釈迦の没後、スリランカやミャンマーあたりに伝わったものが初期のノウハウを比較的色濃く伝えている。これは上座部仏教、南伝仏教、小乗仏教とか呼ばれてる。一方、中央アジア等を経由して中国に至るうちにかなりの変貌を遂げたのが、北伝仏教、大乗仏教とか呼ばれてる。日本の仏教は中国経由で伝わったもので、基本的に大乗仏教。輪廻転生は仏教のオリジナルのアイデアではなくて、インドやネパールあたりにもっと昔から根付いていたアイデア(輪廻転生だの神や悪魔だのの有無は、今生きているあなたが苦から逃れるために重要なことではないですよ、肝心なのは八正道の実践、ってのが仏教のスタンス)。天国地獄のアイデアはおそらく中央アジアあたりで仏教に混淆した。先祖の供養が大事みたいなアイデアはたぶん中国で混ざった。
インターネット広告を巡る議論は、常に賛否両論を呼んできた。広告は情報の流通に不可欠な存在である一方、ユーザー体験を損ねるものとしても認識されてきた。近年、広告ブロッカーの普及により、この議論に新たな火種が投じられている。
広告の本来の目的は、広告主の商品やサービスについて、ユーザーに有益な情報を提供することにある。それは、ユーザーと広告主の間のコミュニケーションの一環であり、両者にとってWin-Winな関係を築くことが理想とされる。しかし現実には、多くの広告が本来の目的を見失い、ただ単に広告収入を得ることだけを目的としているように見受けられる。
特にブログやアフィリエイトサイト上の広告は、質の低下が顕著だ。ユーザーを騙してクリックさせるような広告ばかりが目につき、ユーザー体験を大きく損ねている。これらは一時的には収入を得られるかもしれないが、長期的にはユーザーの信頼を失い、広告主のブランドイメージも傷つける。広告収入というシステムから利益を得ようとするあまり、本末転倒な状況に陥っているのだ。
特に深刻なのが、SNS上でのAIを利用した詐欺的な広告の蔓延だ。巧妙に作られたこれらの広告は、ユーザーを欺いて個人情報を盗み取ったり、偽のサービスに誘導したりする。健全な広告というよりは、もはやサイバー犯罪の一種と言っても過言ではない。プラットフォームの信頼性を根本から揺るがす由々しき事態と言えよう。
こうした状況下で、広告ブロッカーの存在は無視できない。ユーザーの立場に立てば、質の低い広告をブロックするのは正当な権利だと言える。しかし、媒体運営者にとっては死活問題だ。広告収入に依存するビジネスモデルは、存続の危機に直面している。だが、ユーザーによる広告ブロックを「不当」で「利己的」な行為と決めつけるのは短絡的だろう。問題の本質は、広告収入のみに依存し、広告の質の向上よりも単価の上昇で対応してきた媒体運営者側にあるのではないか。
さらに、広告主の視点から見ても、課題は山積している。詐欺的な広告主と正当な広告主の区別は容易ではない。ユーザーからすれば、どの広告が信頼できるのか判断しづらいという実情がある。そしてこの問題の背景には、広告業界全体の不透明な構造がある。広告代理店やアドネットワークが介在することで、広告主とユーザーの距離が離れ、悪質な広告主が紛れ込む余地が生まれてしまう。広告主側も、自社広告の配信状況を十分に把握できていない可能性がある。
結局のところ、問題の本質は利権の問題に行き着く。質の低い広告や詐欺的な広告を野放しにしているのは広告提供業者であり、その広告提供業者を公に許しているのは各種大型プラットフォーム(SNS及び動画サイト)や中小ウェブサイト経営者だ。そしてこの中で、詐欺的広告や質の低い広告を自主的に制限可能なのは、提供業者と大型プラットフォーム経営者のみ。特に大型プラットフォーム経営者は、広告主と消費者を結ぶ重要な結節点であり、交渉力を持ち合わせる業界のルールメイカーとしての立場にある。
ここで問われるのは、消費者が大型プラットフォーム経営者に対して、質の低い広告や詐欺的な広告を載せるなと要求する権利があるのかどうかだ。言い換えれば、消費者の利益のために、プラットフォーム経営者の「しない自由」を制限する正当性があるのかという問題だ。
この問いに対しては、肯定的な答えが導き出せるだろう。今やインターネットは公共の場であり、現実のビジネスの場となっている。プラットフォーム経営者には、その公共性を維持する責任がある。そして何より、消費者が実際に被害を受けているという現実がある。詐欺的な広告による経済的損失や、プライバシー侵害への懸念は看過できない。にもかかわらず、プラットフォーム経営者がその要望に真摯に対応してこなかったのは問題だ。
この状況を打開するには、消費者、広告主、プラットフォーム運営者の三者が協力し、具体的なアクションを起こしていく必要がある。
まず、プラットフォーム運営者は、消費者からのフィードバックを積極的に活用し、広告審査体制を強化すべきだ。AIを活用した自動検知と並行して、人間の目による確認を徹底することが求められる。また、広告主の身元確認を厳格化し、広告内容の事前審査を義務付けることも重要だ。広告ポリシーを明確に定め、違反広告には厳正に対処する姿勢を示さなければならない。
広告主側にも、自社広告の配信状況を適切に管理し、質の高い広告を提供する責任がある。業界団体などと連携し、自主規制のガイドライン作りを進めることも有効だろう。
そして消費者は、問題のある広告を積極的に通報し、健全な広告環境作りに主体的に参加することが求められる。プラットフォームに対しても、改善を粘り強く要請していく必要がある。
プラットフォーム経営者には、「しない自由」よりも、「すべき責任」がある。業界をリードする立場である以上、消費者の信頼に応える努力を怠ってはいけない。もちろん、行き過ぎた規制は表現の自由や市場の健全な発展を阻害する恐れもある。だからこそ、消費者、広告主、プラットフォーム経営者の三者が対等な立場で議論を重ね、バランスの取れたルール作りをしていくことが大切なのだ。行政にも、この取り組みをサポートする役割が期待される。
ここで、インターネットの本質的な位置づけについても考えてみたい。インターネットは、当初は「市場原理に任された自由な場」という性格が強かった。規制は最小限に留め、自由な競争を促すことが重視されてきた。しかし、インターネットが社会に不可欠の基盤となった現在、その公共性は著しく高まっている。フェイクニュースやヘイトスピーチ、プライバシー侵害など、弊害への対策が急務となっている。
こうした認識の下、各国で法規制の動きが強まっているのは事実だ。だが、だからと言って行き過ぎた規制は避けなければならない。インターネットのイノベーションや表現の自由を阻害しないことが肝要だ。市場原理と公的規制のバランスをいかに取るかは、社会全体で知恵を出し合うべき課題である。
今こそ、従来の広告依存のビジネスモデルを見直し、新しい価値交換の形を模索すべき時だ。サブスクリプションモデルや有料記事など、ユーザーに直接的な価値を提供し、対価を得るビジネスモデルへの転換も一つの選択肢となるだろう。情報に対する価値観も変化し、良質なコンテンツには対価を払うという意識が広がりつつある。
また、広告収入の一部を広告審査の強化に充てる仕組みを作ることも検討に値する。広告の質を高めることが、結果としてプラットフォームの収益向上につながるのだという認識を、業界全体で共有することが重要だ。
健全な広告業界の発展は、ひいては健全なインターネットの発展につながる。広告主、メディア、ユーザーの三者が協力し合い、透明性と信頼を高めることで、より良い広告の在り方を模索していくことが求められる。広告ブロッカーの普及は、そのための重要な転換点となるはずだ。
インターネットは、「市場原理に委ねられた自由な場」から「公共性を帯びた社会基盤」へと変貌を遂げつつある。そして、我々はその変化の只中にいる。だからこそ今、インターネット広告の在り方を問い直し、健全なインターネットの未来を築くために行動を起こす必要がある。広告ブロッカーが投げかける問いは、そのための重要な一歩なのだ。私たち一人一人が、その問いを自分事として捉え、できるアクションを起こしていくこと。それが、より良いインターネットの未来を切り拓く鍵となるだろう。
安楽死ができる宗教施設を作ろうとすると、どうしても警察と金の問題が付きまとう。
姥捨て山な精神科病院を作ろうとすると、キチガイや老いぼれしか絞り取れず需要や長期利益が先細りしてしまう。
精神科病院の傍ら内部は、死を崇拝する宗教を作ってしまえばいい。つまり精神科医院長が教祖になる事だ。
精神科病院の入院期間は世界で日本がダントツで長い。これは日本人は他人の顔を窺い保身的な国民性であるから気違いに余所余所しく事勿れと利己を貫くのである。
それを逆手にとって、患者や崇拝者を水面下で精神をマインドコントロールさせ、自分の意志で安楽死を選んでるように既成事実を作ってしまえばいい。国民は見て見ぬふりをするし、たとえ世界から糾弾されても巧妙に隠蔽をする。
まず合法的な姥捨て山な精神科病院を作るには、滝山病院などの合法的に強制収容してる精神科病院の手法を模倣する事(勿論、精神科医同等の知識を習得してる事が前提で)。例えば有名どころではNHKの滝山病院のドキュメンタリーなどを参考にして、どこが違法にならない抜け穴かを隅々まで分析する。
その次に宗教の部分は、死神を崇拝する宗教を作ること。死に対して希望を縋らせる思考になるように体系立てていく。共同幻想論やナチスの思想や狂気的な群衆心理、何が人を没頭させるのか?とか人の弱みから依存させていくプロセスを、困窮者を取材したルポや旧統一教会などの悪徳な新興宗教の手口からも参考にする。オウム真理教のように死の巻き添えを良しとする思考を植え付ける事ができたら十二分である。
そして一見は精神科病院や宗教施設でもない、外来や入所型の「精神ケア施設」という建前で運用していく。
安楽死させる方法は、ジャック・ケヴォーキアンの手法や、安楽死マシン「サルコ」を参考にしたり幾らか確立している方法がある。
言わばハードウェアが精神科病院で、ソフトウェアが宗教である。
これからの日本のテロは常に水面下で、似非精神科医が覇権を握って独占するのである。現代のホロコーストを早く作れるかが勝負である。
安楽死ができる宗教施設を作ろうとすると、どうしても警察と金の問題が付きまとう。
姥捨て山な精神科病院を作ろうとすると、キチガイや老いぼれしか絞り取れず需要や長期利益が先細りしてしまう。
精神科病院の傍ら内部は、死を崇拝する宗教を作ってしまえばいい。つまり精神科医が教祖になる事だ。
精神科病院の入院期間は世界で日本がダントツで長い。これは日本人は他人の顔を窺い保身的な国民性であるから気違いに余所余所しく事勿れと利己を貫くのである。
それを逆手にとって、患者や崇拝者を水面下で精神をマインドコントロールさせ、自分の意志で安楽死を選んでるように既成事実を作ってしまえばいい。国民は見て見ぬふりをするし、たとえ世界から糾弾されても巧妙に隠蔽をする。
まず合法的な姥捨て山な精神科病院を作るには、滝山病院などの合法的に強制収容してる精神科病院の手法を模倣する事(勿論、精神科医同等の知識を習得してる事が前提で)。例えば有名どころではNHKの滝山病院のドキュメンタリーなどを参考にして、どこが違法にならない抜け穴かを隅々まで分析する。
その次に宗教の部分は、死神を崇拝する宗教を作ること。死に対して希望を縋らせる思考になるように体系立てていく。共同幻想論やナチスの思想や狂気的な群衆心理、何が人を没頭させるのか?とか人の弱みから依存させていくプロセスを、困窮者を取材したルポや旧統一教会などの悪徳な新興宗教の手口からも参考にする。オウム真理教のように死の巻き添えを良しとする思考を植え付ける事ができたら十二分である。
そして一見は精神科病院や宗教施設でもない、外来や入所型の「精神ケア施設」という建前で運用していく。
安楽死させる方法は、ジャック・ケヴォーキアンの手法や、安楽死マシン「サルコ」を参考にしたり幾らか確立している方法がある。
言わばハードウェアが精神科病院で、ソフトウェアが宗教である。
これからの日本のテロは常に水面下で、似非精神科医が覇権を握って独占するのである。現代のホロコーストを早く作れるかが勝負である。
「ご自由にお持ちください」と書いて置いてあるモノを全部持ってっちゃう人のことをどう思うだろうか。
ホームセンターの端材置き場にある端材を軽トラで全部持ち去る。あり?なし?
ATMの脇に置いてある封筒を洗いざらい持ち去る。あり?なし?
スーパーのビニール袋のロールをガラガラ回してたくさん取ってく。あり?なし?
置いてあるビラの中から裏が白いものをメモ帳を作るために全部持ち去る。あり?なし?
物質的に豊かに育った人って、基本的にこういうことはしませんよね。恥ずかしいから。誰に対して?→自分に対して。
タダなんだからもらえるだけもらってしまえという行為が、〈自分から見て〉浅ましい、さもしい、卑しい、見苦しい、下品と感じて、抵抗をおぼえる。
このような、己の内なる線引きで自分の行為を律する規範を〈節度〉とか〈行儀〉と言う。
それは明文化された社会規範ではなく、環境の中で培われ、コンテキストでも変わる、相対的な規範だ。
生まれや育ち、性格といったさまざまなコンテキストをひとりひとりが持っているから、当然その規範も人によってさまざまだ。
なので、タダで持っていっていいものを「どのくらいなら持っていってもセーフか」という線引きも人によって異なる。
「全部持ってっちゃあかんの?」という人もいれば、それに対して「よしなよ、みっともないよ」という人もいる。
一方、置いたほうも置いたほうで、「普通はひとり1個しか持っていかんやろ」とか「ごっそり持ってくやつはおらんやろ」といった、〈置く人なりの線引き〉で置いている。
己の線引きでどうするかとともに、置いた人はどういう線引きでこれを置いているのか、まずは両者を引き比べるべきだろう。
両者に隔たりがあるのなら、どちらに沿うべきか考える。
己の線引きで行動するなら、それは〈利己的〉と呼ばれる。
提供する側の線引きを想像して行動するなら、それは〈空気を読む〉と呼ばれる。
そして、両者の線引きがもし異常にかけ離れていたら、それは〈非常識〉と呼ばれる。
〈常識で判断しろ〉〈ちょっと考えればわかるだろ〉というのは、他人が引いた線を想像することであり、世の中の大多数の人はどう捉えるだろうかと〈社会通念〉に思いを致すことだ。
タダで提供するなら全部持っていかれる肚を括れとか、全部持っていかれて腹を立てるなら最初から上限数はいくつまでと注意書きをしろ、と要求するのは、こうした〈社会通念と折り合いをつける努力〉の放棄にほかならない。
ある種の発達障害を持つ人にとってこうした〈暗黙の了解〉が理解できないことは承知している。
だが、ブコメを見ていると、一定の常識は持ちながらも能動的主体的に社会と折り合いをつけることに関しては拒絶する人、早い話が青い臭い反抗期のクソガキみたいなやつらがウジャウジャいて引いた。
安楽死の話題になるとすぐ、「そんなに安楽死がしたいならば自殺すればいいのに」という声が湧いてきて
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/blog.tinect.jp/?p=85698
それが如何に的外れな難癖なのか、自分達で言っていて分からないのか?
銃社会ではない日本で実行出来る自殺方法は、失敗する可能性が高いものが多い。
自殺に失敗して後遺症を負い、再挑戦も出来ない状態になったらどうするんだと思うと簡単に実行なんて出来る訳ないだろ。
2.自殺は痛い、苦しい、怖い
安楽死を望む人達は文字通り「安らかに」「楽に」死にたいんだよ。
死ぬ時に痛い思いや苦しい思いはしたくない。当たり前だろ。
苦痛無く楽に死ねる自殺方法が身近に溢れているならば、それは既に安楽死が実現しているのと同じ事じゃないか。
首吊りなどは上記問題点が少ないと聞くが、それでも死体の処理で関係ない人達に迷惑をかけるのは避けられないだろう。
糞尿を垂れ流して部屋は事故物件になる。
仮に上記三点をクリアしたとしても、自殺して救われるのは自分だけでしょう?自分さえ良ければいいというのは利己的な思考。
この社会において今苦しんでいる他の人達のために、安楽死の実現を叫ぶ事の何がおかしいんだ?
それ以外の社会運動に対しては「自分だけ良ければいいだろ?」なんて言わない人達も、安楽死に対してだけは何故か平気でこれを言うのはどうして?筋が通っていないにも程がある。
ちなみに、ロード乗り(の大半)は、歩道より車道のほうが快適に走れることはわかってる。
歩道は人はいるし犬はいるしママチャリはいるしで危なくてスピード出せないし、舗装は悪いし脇道のたびに段差があるので乗り心地が悪くて疲れる。
高い金出してロードに乗るくらいには自転車の運転が好きなので、交通法規に対する意識も高い。ロードで走ってて逆走自転車と出くわすことは多いが、100%ママチャリだ(クロスバイクの大学生もこれに含む)。
ママチャリみたいに「従う信号がわからなくて無視になってしまった」みたいなのではなく、違反とわかってて無視しているだけにたちが悪い。
停止再加速がめんどくさい、ビンディングやトークリップをはずすのがめんどくさい、区間新記録を狙えるペースなのでスピードを落としたくないなど、利己的な理由で信号を無視するパターンがほとんどだと思う。
ショップジャージやチームジャージを着て、正しく信号待ちしているロードの横を通過して信号無視を決めていく厚顔無恥な選手もいるぞ。なるしまフレンドとかなるしまフレンドとか。
執着はしない
察してほしいではなく、言葉で伝える
誇張や取り繕うことをしないと振り向かせることが出来ないなら、自分にとってその人は本当に必要ではない
ダサかったり人間味がある箇所で魅力を感じてくれる人が、一緒にいるべき人
相手に対して「〜してほしい」という期待は一切抱かない、もし抱いたらすぐに捨てる
最も愚かなのは「俺が相手を思う気持ちと同じくらい、相手に俺を思ってほしい」と期待すること、唾棄すべきだ
勝手な期待を抱いて勝手に裏切られた気持ちになるのは、精神衛生上非常に良くない
俺は特別でなく、更にはある女性の特別になれるはずがない。そう願うのは、白馬に乗った王子様に見初められる以上に現実逃避した妄想だ
相手に対して「〜したい」という期待は一切抱かない、もし抱いたらすぐに捨てる
最も注意すべきは「言いたい」ことを求められてないのに話してしまうこと
相手から求められたとき、雰囲気的に乗るべきなとき、初めて話せばいい
つい自身の考えや経験を「言いたい」と思ってしまうが、相手が聞きたいことを話すべきであり、俺の考えや経験など相手は興味がなく知りたくも聞きたくもないし、反応に困るだけだろう
良し悪し問わず、もし感情的になってしまったら、口を閉じて時間を空けるべき
感情的になると、密かに抱いていた「〜してほしい」「〜したい」ことが漏出しがち
そうして俺なんかと卑屈自虐にもなりがちだが、それらは相手にとっては不愉快なだけで、自己満足の押し付けであると恥じる
行動指針が卑屈そのものによるのは否めないが、だからといって卑屈に振る舞わず、もっぱら自己批判・自制の道具にすべきだ
一方通行な罵声に近くなることすらあり、言われた相手も困るだけで全く建設的でない
録画録音されて全世界に配信されたとしても大したダメージはないような、そんな振る舞い、会話を目指すべきであろう
チャットで会話するときは原則、相手が話す以上の文字数で話さない、相手が取った間より大きな間を取るよう心掛ける
もしかしたら「自分のことを話してほしい」「俺になにかを尋ねてほしい」、「俺のことを話したい」「相手になにかを尋ねたい」と思うかもしれない
そういった気持ちを整理した状態で、上の制約を守ると、俺に知って欲しいとか俺を知りたいとか、そういう興味を全然抱いてくれてないんだと現実がわかる
会話は止まるかもしれないがそれでいい、そもそも相手は俺と会話したいなどと思ってはいない
暇な時間を潰したいとき、偶然気紛れに目に入った俺のメッセージに、考えなしのそれっぽい文字列を返しているだけだ
血の通った会話をしてると思っているのは俺だけで、相手は思考停止して無機質な文字列を返す暇潰しをしてるだけだ
人類の半数は女性であり、外見は否が応でも他人の目に入ってしまうわけだが、価値観の大きな乖離があるとき、キモいという感情を抱かれるかもしれない
半数からどう見られ考えられても、他人だから知り得ないから俺には関係ない、と考えるのは利己的で幼稚であり、あまり望ましくないだろう
TikTokやInstagramなどのアプリが女性ないし若い年代に普及?したことにより、彼ら彼女らの「自分がどう見られるか」という意識は思いの外相当に高いであろう
俺が望むのは隠れて生きることであり、努力で緩和できる価値観の乖離を放置することによって、目立ち謗られてるという疑心暗鬼は少しでも減らしたい
年頃の女性の外見に対する意識や努力を尊敬して倣えば、もし小さく縮こまっている俺の姿が視界の隅に入っても、あえて取り上げて謗られはしない程度になれるかもしれない