はてなキーワード: 個人主義とは
戦後に勅語が排除された結果、我が国の倫理道徳観は著しく低下し、極端な個人主義が横溢し、教育現場はもとより、地域社会、家庭においても深刻な問題が多発しています。
古典的な自由主義(自由放任主義、個人主義)の意味のときと、二十世紀初頭以来の福祉国家的な新しい自由主義(弱者擁護、寛容、進歩主義)の意味合いのときがある。
他人の空間にずけずけと入り込んで自分の主義主張を押し付ける自由放任主義?
集団の意思決定に個人が異をとなえるのを許さず、そのような個人が出れば組織で「統括」する個人主義?
社会的に弱い立場、苦しい立場にある男性を自己責任と切り捨てるのみならず「チー牛」「弱者男性」などのレッテルを貼って嘲笑する弱者擁護?
自分達を絶対的な正義と位置づけ、自分達と少しでも異なる考えは悪と決めつけて糾弾する権利を持つ寛容?
70年前に戦争相手から押し付けられた憲法に対して一言一句堅守せよと主張し、見直しの為に議論をしようと呼びかけることすら「憲法違反」と決めつける進歩主義?
分からない。私にはリベラルの定義が分からない。これは多分に私の学力の無さがもたらしたものだろう。恐らく、真に学び、真に目覚め、真にリベラルを修めた、真のリベラルなら、そのような価値観を持つのだろう。
しかし私には残りの人生の全ての努力を費やしてもリベラルを正しく理解し、その崇高さに目覚めることは難しいかも知れない。無知無能の理性を持たないケダモノには人類の叡智は理解できないのだ。
内発的動機で駆動する『個人主義ユートピア』を、外発的動機で動かされる『資本主義ディストピア』に変えられてしまわないために - 自意識高い系男子
https://l.pg1x.com/w8LgVAuAA84FcSGX9
どんだけの損害が出たのか。
エロゲ屋のプロデューサーの大半は「ニコニコ死ねP2P死ね」だったよ。
なんかユーザーは「エロゲを盛り上げたのはニコニコ!」みたいな態度だけど「ニコニコで盛り上がる」→「割れDLが増える」ってだけで売上には1つも寄与してない。
なんかここ10年ぐらいでリテラシー(笑)が上がったせいで「あの頃のインターネットは清浄なる個人主義のユートピアだった!」っていうウォッシュ(笑)するの、やめてくれません?マジで。
12月22日に発売された公式ガイドブック、The Report of 機動戦士ガンダム 水星の魔女 Season2を読んだ。
スレッタ・ミオリネ・グエルの親が全員毒親かつ、大河内節全開な描写が非常にキャッチーであり、
シャディクとサリウスは養子と養親の関係だったこともあって、「親子関係」で注目されていた水星の魔女。
監督インタビューによると、親子関係の辛さに限定せず敷衍して、今の人たちが抱えた様々な「生きづらさ」を重ねて見てもらい、
その「生きづらさ」の克服や救済を描きたかったのが今作らしい。
それが親子関係に「矮小化」されてしまったのは大きな反省点であると言っていた。
監督的には、「毒親バズのガンダム」という受け取られ方は意図しないものであったらしい。
水星の魔女を「毒親もの」と受け取り、生きづらい自分、虐待被害者である自分、などを重ねて見ていた層は、
親世代の因果や大量殺人をなんやかんやで子世代が肩代わりして償うようなエンディングを見せられて、
生きづらさを克服して救済されるどころか最終回後に呪詛を吐き始め、炎上していた記憶があるが、
全体的に「監督としてはそんなつもりはなかったのにそうなってしまった」という印象があるインタビューだった。
監督は「司法から外れた主観的な正義・制裁行為の横行」に対して問題意識を持っており、
シェイクスピア「テンペスト」の主人公プロスペローが見せた「赦し」を今作で描きたかったため、
デリングやプロスペラが死をもって罪を償う終わりにはしたくなかったそうだ。
しかし今作の世界観は、司法制度が機能していない、鎌倉時代レベルの自力救済の世界だ。
貧民で人体実験して殺していたペイル社のCEOは、殺人の罪で司法に裁かれることもなく自由に暮らしている様子で、
特に贖罪などの描写もなく、殺されていてもおかしくなかった5号も彼女たちを赦したようだ。
(5号はベルメリアにはキレていたが、ベルメリアにそうさせているCEOにはキレるシーンすら無かったんだよなあ…)
シャディクは逮捕されたが、やっていない罪を背負って司法制度をハック(?)している。
ニカは三年服役したが、シャディクガールズは無罪という、この…。
司法制度と加害者の贖罪、両方を非常に軽視したエンディングを出しておきながら、
「私刑反対」とだけ言うのは、「人が何に苦しむところから私刑が生まれてしまうのか」についての考えが浅すぎるのではないだろうか。
被害者は加害者を許すべきという強い思想が先行しており、「自力救済の蔓延を防ぎ秩序をもたらすための司法制度」という前提の欠如を感じた。
監督自身も自覚があるようだが、親世代が実質的に勝ち逃げして、子世代がやってない罪で大きな負債を背負いながらも
親世代を赦しているというのは、結構強烈な主張であると感じる。この価値観を、日5のティーン向け作品で?
公式ガイドブックに載っていて驚いた記述が、ラウダはグエルに密かにコンプレックスを抱いていたのが爆発して殺しかけたというものだ。
てっきり、ペトラ危篤に錯乱して、ラウダ本人も自分が何をやっているか分からない状態になっていたのかと思っていたが、違ったようだ。
しかしミオリネを殺そうとしてグエルを殺そうとするのが、錯乱でなくて何だというのか…謎戦闘にもほどがあるだろ。放送時に充分に叩かれてはいたが。
また、ブルーレイの特典コメンタリーで、ラウダの襲撃は弟を放置したグエルに責任があり、グエルがダメな兄であったことを皆に謝罪する一幕があるらしい。
何を言っているのかわからない。弟に殺されかけた兄が、弟を暴れさせてしまった責任について皆に謝罪…?
思えば本編23話のフェルシーのセリフからして、弟に殺されることを受け入れたグエルに「何を死のうとしているんだ」と叱るような姿勢だったし、
一方的に攻撃されてグエルが防戦していたのに「兄弟喧嘩」と認識されていたのも、違和感があったのだった。
監督のインタビューによると、魔女とは生きづらさを抱えガンダムを用い、魔女狩りに糾弾される者であるらしい。
ジェターク兄弟の話は、あくまでラウダの生きづらさ(兄に並べないコンプレックス)に寄り添うもので、
ガンダム無しでも優れたパイロットである兄とガンダムを用いることで拮抗、「救済」されて、「健やかな精神」を手に入れて「自分の道」を歩めるようになる話だったのか。
グエルはなぜ長男というだけで次男のためにここまでやる義務を負うのか…? 令和の日本は炭治郎に呪われてないか?
しかもこの価値観、監督一人だけおかしいといったことはなく、本編(監督・脚本)・コメンタリー・ガイドブック編集など公式の姿勢は統一されているようなのだ…。
シャディクが、ミオリネがクイン・ハーバーの件で報道されているのを見て「ミオリネを穢したな」と、グエルの責任であるかのように認識していることにも引っかかっていた。
マルタンがニカの連絡係疑惑についてフロント管理社に報告したことも、寮長なのにチクったマルタンの罪とみなされており、この作品の姿勢が理解できずにいた。
どうにも、マルタン・シャディク・グエルといった「男性の長」が、他人の分まで責任を引き受けて罪を背負い謝罪すべきという、個人主義とは違う感覚が公式に通底して在るようだ。
ペイルCEOやプロスペラやミオリネは「女性の長」だが、これに当てはまらない。監督はジェンダーを意識していないとは言うが、非常に引っ掛かりを覚えるエンディングだ。
やっと提示された監督による答え合わせが独特すぎて、追いつけないスピードだ…というのが個人的な感想だったが、
「10年後20年後、古臭い価値観に満ちた作品に見えるのか、課題に対する解答の糸口となるエッセンスを持っていたのか、確認できたら」
と監督の言葉にあった通り、今後価値観なんてどう変わるかわからねえからなあ。
でも今は怖くて飲み込めねえわと思った。特にエラン4号・グエル・シャディクのポジションなんか、誰も引き受けたくないだろ、って。
自分だけだったら、戦争になってもまあなんとか生き延びるか、最悪死んでもいいかなって思ってた
自分さえ良ければいいなんて思えなくなった
今後日本はどうなっちゃうんだ?子供の未来は?なんて思ってしまうんだよ
自分が子供にお金とか知識とか愛情を与えても、世界情勢は変えられないもんな
辛いよ
自分さえ良ければいいってなってる
それが良いのか悪いのかは置いておいても、子供を生むと個人主義じゃいられなくなるなって思ったよ
日本はこのまま衰退するのか?
心配しても仕方ないからできるだけのことするけど、子供はこれから80年くらいは生きるはずだ
その頃には22世紀に近くなる
産んでよかったとは思うけど、不安になるよ
それくらいしかやれることがない
「『日本人は同調圧力が強い』と言われるがアメリカの同調圧力を知らないだけ」という言説もメジャーになってきた。
確かに、ひとり飯に特化した飲食チェーンが発達するなど日本はかなり個人主義が強い国だと思う。
アメリカでは同性愛者を攻撃するとかが発生するが日本では直接的な攻撃はあまりないだろう。しかし、これが自分の子供が同性愛者だとかになってくると打って変わって難色を示す。別に同性愛者に寛容なわけではなく自分ごとではないからどうでもいいというだけ。
国全体で見ても難民を受け入れる気がさらさらないのはこういう思想に基づいているんだと思う。受け入れるべきだと思っている国民もごくごく少数派だろう。
「アメリカにおける"先進的な価値観"を日本ではとっくにやっている」という言説はこういうトリックに基づいている。アメリカで問題になる箇所が日本では問題にならないからといって問題がないわけではない。ドメスティックな問題として向き合わなければならない。
アメリカ人は謝らない、とよく言われる。自分の非を認めるのはすなわち、10:0で過ちを認めたからだ、と言われるのだ。
「君が傷ついてしまった、すまないと思う」
と。意外と謝るじゃん、とその時は思うのだ。
しかしよくよく考えてみると、謝っていないことに気付く。
彼ら、とにかく「主体」を「自分」ではなく「他人」に設定するのだ。
「君が傷ついてしまったことをすまないと思う」→お前が勝手に傷ついただけ
「今のは君に不快な思いをさせる言葉だったね」→君が「不快になったことは」謝るよ、でも俺は悪くない、俺の言葉で傷つかない人もいるんだから
日本人は責任を回避しがちというが、実際は違う。責任が0か100なのだ。謝る時はしっかり、
「貴方を傷つけてすいません」「不快な言葉を言ってすいません」
という。しかしアメリカ人は「自分の責任」と「相手の責任」を切り分ける。
根底に、「あくまで傷ついたりしたのはお前の責任」と思っているのだ。
ぱっと思いつくのは、小学生の「謝っているようで謝ってない謝罪」
とにかく責任回避をしたい、自分の悪さを認めたくないという部分。
外資に長年勤めている人は、アメリカ企業が良くも悪くもだんだん日本化しているとも聞く。
逆に日本企業は謝らない、幼稚になったとも聞く。