はてなキーワード: 伝統とは
最近の短歌に関する増田の記事とそれへの反応で気がついたのは、多くの人は歌人が共有する短歌に関する暗黙の考え方を知らないということだ。
短歌詠みの間には短歌に関する決まりごとや規範が暗黙のうちに共有されており、それを念頭に置いて歌を詠んだり、鑑賞したりする。私はこれを「短歌のテーゼ」と勝手に呼んでいる。
あらかじめ言っておくと、このテーゼは必ず守らなくてはならないルールではない。むしろ現代短歌はどうやってテーゼに沿わずして魅力のある短歌を生み出すかを試行錯誤している節がある。
だが、どんな流派であっても優れた歌人はこのテーゼを意識し、従うか対抗するかのスタンスを明確にして歌を詠んでいる。そして、そのスタンスがある程度共通している歌人同士が同じ結社の中で作歌や鑑賞をすることで歌風を確立させて行くのである。
であるから、反例となる名歌はいくらでも挙げられるであろうが、反例があることはテーゼが存在しないことを意味しない。
以下、私はこれが短歌のテーゼだと思うものを挙げてみる。これらは私が歌会での経験や短歌関連の書物を通じて知ったことをベースにした持論であり、歌壇において認められた学説などではないということは断っておく。これらが短歌のテーゼを網羅したものとも考えていない。もしこれも短歌のテーゼなのではないかと思うものがあれば、教えてほしい。
また、この記事を書くにあたって各テーゼに従っている歌と、対抗する歌(=アンチ・テーゼ)を例示しようとしたが的確な歌を全部に配置できないので諦めた。こうした歌の事例もぜひ提案してもらえると嬉しい。(この記事が果たして読まれるのか?という疑念はあるのだが……)
ちなみにこれから挙げるテーゼに対して確信犯的にすべて逸脱しているのが穂村弘である。穂村弘は歌人の中でも一般的に知名度が高く、フォロワーも多いのだが、実のところ短歌のテーゼ的には極めて特異な位置付けにある存在だ。ただし、それは戦後の短歌運動の流れを意識的に継承した、れっきとした文学的試みである。
短歌は本来は歌であり、5・7・5・7・7の韻律を守り、音読したときに美しい調べとなるよう詠むことを求める。句割りや句またがりを多用したり、日本語として音読が困難な言葉を入れてはならない。
歌会などで短歌の詠み合いなどをすると、時々「この歌は"作ってる"ね」と評されることがある。短歌の描写にリアリティが無かったり、やけにドラマティックであるなど、現実には起こったことでない内容であると判断された時にこう言われる。このテーゼにおいては、どれだけ平凡ではあっても日常に実際に起こったことの方がドラマティックな虚構よりも価値があるのである。
"作る"という先ほどの言葉の中には、作為的に言葉を操り、上手く作ろうとする気持ちを戒めるニュアンスも含まれている。日々優れた短歌を鑑賞し、心のうちに誦じて日常を過ごす中で、するっと生まれてくるものを精製するのが本来の短歌なのである。こうした体験なしに、ただ物珍しい言葉をいたずらに組み合わせて面白がられる歌を作ろうとする姿勢は望ましくない。
短歌は日常生活に即した芸術である。その生活感覚は、身体から得られるものであって、生活に根ざしていない社会政治的な話題や、テレビで見たことなど身体を伴わない経験を取り上げるのは望ましくない。
短歌は、風景の描写と心情の表現がセットとなるように構成すべきである。風景はただの現実ではなく、それに対峙する詠み手の心情を象徴するものとして描写されなければならない。
ただものごとを説明するだけの短歌はただごとうたであり、本来の短歌ではない。短歌には詠み手の情念が表現されなければならない。
短歌は日本語を支える伝統文化である。王朝時代以来の和歌の歴史を学び、古典の優れた歌に触れながら、そのような伝統に連なることを意識して歌を詠むべきである。和歌や過去の名歌を鑑賞し、日本文化を象徴するような風流な事物を題材として歌を詠め。
追記:
ちなみに私自身は1・4・5・6に賛同し、2・3はややや否定的であり、7は積極的に否定するスタンスである。7とどう決別するかは、戦後短歌の大きな課題でもあったという認識である。
昔のインターネットのインテリしかいない輪の中でも、温度感の分からんジョークで仲違いが発生してたらしいしな。それで :-) をジョークの印としたみたいな歴史があったはず。
https://www.wussu.com/various/fahlman.htm
だから元増田の提案は古くからの伝統の正式な形式化、ブラッシュアップみたいなものになるのかもと思う。
Appleの件は、繊細ヤクザと異文化を異文化と認識しないこと。
Appleの動画を見て、心を傷つけられた人たち。→繊細ヤクザ。
Appleはスティーブ・ジョブズが作った伝統で全世界で同じプロモーションを行う。
これはどういうことかというと異文化をモロに摂取するということだ。
しかし、たちが悪いのはそのことに気づいていないことだ。
と書くと、いやそんなことはない。
あるいは日本人向けにフィルターを通されたアメリカ文化とでもいうか。
そういうものを摂取して、私はアメリカのことはまあまあわかっている、と勘違いするわけだ。
だから、今回のようにAppleがそのまんま生のアメリカを持ってくると、その違和感で強烈な拒否反応を起こしてしまう。
ただそれだけのことなのだ。
独り暮らししているとやっぱり寂しい。ハグしたりして安心できる相手が欲しい。
女子にキモがられていじめられた中学時代は、異性と話すことすら恐ろしかった。高校大学は良い友人に恵まれだいぶ良くなったが、相手の深い所に触れていくようなコミュニケーションはできなかった。
本当は彼女が欲しいし結婚したいくせに、自分なんかがそう思うことは恥ずかしいことだと思っていた。まわりの同期は当たり前のように彼女がいる話を耳にして、そうでない自分には欠陥があるよう感じたこともあった。
だが、現状を維持した場合の未来を想像したとき、よほど運が良くない限り、何も起きないし変わらないことが想像できた。
そこで、とりあえず、ハグしたりセックスできるいとおしい異性がいて、愛情を感じることができて、とても落ち着ける状態になりたい。まずは、それを正直に認めることにした。そうしなければ、何も変わらないと思った。
ただし、いくつかの趣味を続けられることが条件だ。ずっと長い間のめり込み続けている趣味がない人生など、考えられない。趣味を諦めねば彼女を作ったり結婚できないのであれば、潔く諦め寂しさは我慢する覚悟を持とうと決めた。
私が入社した会社には、伝統的な問題解決手法がある(研修でやらされた)。この方法では、まず「あるべき姿」と「現状」の間にあるギャップを考える。いとおしく安心できる関係の異性がおり、趣味と両立できることが、あるべき姿。趣味は満足だがそういう関係にある異性が居ないことが現状であり、理想とのギャップである。
あとは問題点を具体的に特定し、目標達成時期を決め、なぜなぜ分析して対策を取っていくだけだ。えらく不器用で堅苦しいやり方だと私でも思うが、こうでもしない限りダラダラと意味のない時間が過ぎるだけだ。今までがそうだった。今までと違うやり方であれば何でも良いのかも知れないが、恋愛など全く分からないので、客観的に考えられる手法の方が良い。
とりあえず前向きにやっていくしかない。
さすがだな
Chat GPTだとこんな感じの鑑賞だったよ
まだまだ人間が上か
この俳句は、日本の伝統的な文化である俳句の形式を使用していますが、その内容は現代のポップカルチャーとの興味深い対比を表しています。一般的に、魔法少女というキャラクターは、可愛らしさや女性らしさを象徴するイメージがありますが、「実はおれ」という男性の主語が使用されており、性別や期待に対する挑戦を示唆しています。
また、「告げる雪」というフレーズは、冷たい雪のイメージと、何かを伝えるという意味合いを持っています。この対比は、普段は明るく希望に満ちたイメージの魔法少女と、冷たく静寂な雪のイメージとを結びつけ、その両方に含まれる可能性や複雑さを示唆しています。
この俳句は、伝統的な日本の文学形式を通じて、現代のジェンダーの役割や文化的な観点に挑戦し、異なるレベルでの理解や考察を促しています。
と言っても
何か手の凝った研究家を気取るお味噌汁研究家を名乗るつもりなほど凝った作りのお味噌汁ではなく、
木綿豆腐が好きなので木綿豆腐をサイコロ状に切って作るやつよ。
そうだと
上部から切った箇所を身ってサイの目になったつもりでも
正方形の形に切ろうとすると
1回まな板の上に豆腐をのせて横から包丁の技を決める!ってやると
横着したらダメね!って思った反面、
これを豆腐のパックのまま入った状態ででも正方形なサイコロの形の切り方ができる包丁の使い方を編み出したら凄いかも!と思いつつ、
超簡単じゃない?
結構1日ぐらいじゃ腐らない傷まないってこと。
あんまりこれは私が経験した感じを話しているので手放しで真似してお腹壊したらしんないからね!って思うんだけど
1日置くぐらいでも平気みたい。
これが夏場の鍋だとすぐに昼間気温が高くなるから腐っちゃうのよね。
劇的に1日で腐っちゃう鍋。
たしかに鍋のベーナーの美味しいスープのルーシーにはまだ味付けがなされていないわけじゃない。
となるってーと
その味付けの仮に塩分として
簡単な私の推測がペキカンなお味噌汁の味に仕上がったと同時にピントきたの!
なるほどねー!って
だから夏場の料理のこう言うのはわりと敬遠していたんだけど作るのをね、
でも1日ぐらいなら2日に分けてだいたい食べ切りサイズのピッタリで作るジャストミートって
肉は入っていないけれど、
これを豚肉を入れたら豚汁にクラスチェンジできるくね?って思うの。
いろいろとまたお味噌汁の変形のアイデアはそれしか思い付かないけど、
鱈とか白身魚安いいいのがあったら、
お味噌汁作りが捗って
一石二鳥いやいや一石二碗ってところが憎いところね。
要はお味噌汁1回作ったら2回食べられるってことよ!
頭良いでしょ!?
具もなににするか考えるのも楽しいけれど
ただ野菜を切り刻むのが面倒だなって思うの。
そのついでにお野菜も切っちゃ言えばよくね?って
うふふ。
モヤシとキャベツのお味噌汁もちろんお豆腐も欠かせないそのお味噌汁ね。
作って置いておけるからまあ便利ね。
すぐに食べきらないといけないところもあるけれど、
ちょっとお腹の小腹が空いたときにお味噌汁食べて落ち着きなよ!って言ってみたいじゃない。
それそれ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
あなたに似合う日本の伝統色は【杜若色】です!知的な雰囲気。いつでも冷静沈着。忍耐力がすごい。たまに天然発言
https://hoyme.jp/shindan/38341/results/908
🐈あー。ねー。忍耐力凄い。
正解だが間違ってる。
宗教に、社会を維持したり、倫理をもたらしたりする機能がある(かのように働く)のは間違いないよ。
でも宗教があるからそれらの効果が得られる、とか、それらの効果を得るために宗教が作られた、とかではないんだよね。
例えば、火山が爆発する→なんで爆発したんだろう?→山の神が怒っているからに違いない→山の神宗教の発生、このように宗教は作られたはず。
重要だったのは、「なんで爆発したんだろう?」と疑問に持つ能力、因果関係を類推する能力を、人間という生物が保持していることが、宗教の発生原因だ(と思われる)。
で、疑問を持つ能力が起点にあるという話は、他の全てとに言えて、
なんで子供を育てないといけないんだろう?→神がそれを正しいと言ってるからです
なんで地域で助け合うべきなんだろう?→教会が伝統的にそうしてきたからです
このような説明がされる。
結果的に人々は「宗教があるからそうしている」ように見えるのだが、
別に宗教が無くなるまえからそれはやっていた。宗教が無くても持って生まれた善性や教育で、そういうことはやっていたはずだと思われるのだね。
宗教が無くなったことで、なにか倫理が無くなったかのように思われるのは、実際には無くなっているのは「宗教」ではないはずだ。
少子化の原因は悪い宗教=資本主義が消費拡大のために個人主義を広めたことにあるからな
どっかの国は他国で資本主義を広めまくってその国の伝統的家族観を人権侵害だと破壊して個人主義を広めてガンガン個人消費させて利益を得る一方で、自分の民族の宗教では伝統的教義で多産推奨して先進国が世界的少子化する中で人口を増やし続けているという二枚舌やってるわけで。
男はすっかり弱体化し、稼げず、家庭も持てない
その結果、女1人の稼ぎで、家庭を担うことも、子供も持つこともなく一生を送れる
伝統的な女性の役割から解放されて、自分の力だけで生きていける世の中じゃん
これ以上、何が不満なのよ
世の中の支配者層が全て女に入れ替わるまで戦い続けるのか?
なんかの海外の記事で見たが、実は高IQの方がクソ作品を消費する可能性が高いらしい
だから「損切りできないやつはー」って言ってる人は低IQの可能性があるって話ね
要はアホはクソの中に楽しみを見出す能力が低い
ああ、これだ
Love of trashy films linked with above-average intelligence, study says
「高IQの観客にとって、ゴミ映画はメインストリームから逸脱した、興味深く歓迎すべき作品に映るのです」と、この研究の共著者であるキーヴァン・サルコシュは言う。
私たちがここで扱っているのは「文化の雑食性 」と形容できるような、平均以上の教育を受けた観客である。
そのような視聴者は、伝統的なハイカルチャーとポピュラーカルチャーの境界を越えて、広範なアートやメディアに興味を持っている。
この研究は、ゴミ映画とその観客に関する初めての大規模な実証的調査であり、視聴者はしばしば、批評家に嘲笑される映画を見ることに「皮肉な楽しみ」を見出し、彼ら自身が「安っぽい」あるいは「ゴミ」と表現する映画を積極的に探していることがわかった。
俺は個人的にはね、邦キチは映画をサゲないのが良いと思う派なわけよ。
名作も迷作も世の中がそう勝手に言っているだけと言わんばかりの強烈な邦キチの熱量に部長が適宜突っ込むという作劇が絶妙なバランスで映画自体を貶さないで済んでいると思うわけよ。
あと、あんな清潔感のある同衾への動線ある?押し入れから枕だけ取り出してswitchと一緒にやってくるみたいな。乾いているわけではなくしっとりもしていない青春の空気感俺もう怖いよ。
なんだっけ (( 閑話休題 ))、そうそうXで燃えるほどでもなく話題になってたインベスターZ(インベ)の話ね。良い宣伝だよね。WinWinだよね。
いま公式のポストで該当回読めるから読むと良い経験になると思うんだけど、これ流れがすごい怖いんだよね。
まず、ラーメンおごってもらえると思って部活の先輩についていったら、観ろって言われて「感動作、大ヒット」ってポスターに書いてある映画を"見たくもない"って自分で言っておいて、自分で金払って観始めるんだよね。
もうここが怖い。ナチュラルにその集団の中の指示に従うという刷り込みが終わってる。見ないとラーメンおごってやらないぞって言うエクスキューズ(言い訳)も準備してある。
怖い怖い。映画観る金でラーメン自分で食えよ。もうその集団の中のイベントに参加するためには身銭を切る必要があるって意識に上ることすら無くなってる。
で、まあ映画を観始めてクッソつまんねぇなあって思うこと自体はアリだと思うわけよ。ここを否定する映画好きはまずいないと思う。
ただ、インベ作中の主人公が「客をバカにしているとしか思えない!」みたいな感想に、あれ?みたいな違和感を感じると思うのよ。
で、映画館で席を立ってしまう。まあこれも個人的にはアリだと思う。トイレで席立つ人を想像しなくても、まあ、割と映画祭とかでエログロの時って席を立つ人、いるよね。
俺個人としてはXでの風潮とは別で、観たくもない映像を押し付けられたときに見ないという選択肢を取るのは決して映画嫌いを意味しないと思ってる。
映画って体験として強烈だから、トラウマが刺激されるとか全然あると思う。
感情を揺さぶる力が映画にはあると思っているし、だからこそエンタテインメントとしてこの感情の揺さぶられ方は嫌だと言って拒否するのはアリだと思ってる。
だから、安心してほしい。少なくとも俺は映画の途中で観るのを止める人が映画好きを公言してても別に普通のことだと思う。
ただなあ、インベの席の立ち方って「こんなもの最後まで観たらバカになる!」とか言って席を立つんだよね。
そのあと、実は何分で途中で出てくるかが、その集団(投資部)恒例の賭け事の対象ってのは、まあそういう部活の謎の伝統あるよね、みたいなのは判る。
ただね、その後たぶん、ん?って思うセリフがちょくちょく作中の人物から語られるのよね。
この賭け事の伝統っていつからやってるんスか?あー、映画が大衆化した戦後のことだろう、とか。
(5分でツマラナイってわかるヤツがレコードタイム18分っていうのが、微妙にリアルでちょっと面白いけど。宣伝10分+本編5分+退出3分だとありそう)
まあ、時間の無駄だと思った後、惰性でみるこた無いんでは?ってのは、その通りだと思うわけよ。
いやー、映画は最後にどんでん返しがあるかもよ?という意見があるのはわかるけどさ、ソレ、ホントに有言実行してる?とも思うのよ。
あー、一本の映画だとあるかもしれないけどさ、アイアンマン観てこういうアクションものは肌に合わないかなーと思ったとしてさ、いや経験になるしそこは映画好きならマーベルシネマティックユニバースは全部観てから語るべきでしょ、とホントになってるかなーと。
今期1話で切ろうと思ったアニメはちゃんと完走してから1話を語るようにしてますか?という。
もちろんね、エンドレスなエンドレスエイトを実況板に張り付きながら見た経験は一生の思い出にはなっているけどさ、それを強要できるかな、という。
そうそう、で、インベの話ね。
投資部に入るものはさっさと席を立たなければならない、というあたりが、カルトっぽいのよ。
選択肢の錯覚に近いんだけど、ここまでで既にインベの世界観に共感する読者には刷り込みが終わってるわけよ。
大ヒットするような感動作は、観るとバカになるような映画だ、大衆化した映画なんてものは、投資家が観るようなものでは無いっていうね。
ソコを前提としたうえで、つまらないものをつまらないと思いながら最後まで観ることを何の価値もないと断ずる。
もしかしたら最後に面白くなるかも、とか、挽回する可能性は低い、ではなく、ハッキリ言いきる。
株価の話で損切りの話もしたうえで、金よりも時間が大事と気づいたお前はテストをパスしたと言う。
作劇としても大変に巧みで、「いやいやそうは言っても最後の最後に面白くなるかも」という反論を「それっていずれ株が上がるかもと思って塩漬けしてるのと同じじゃん」と"自分で"気が付けるようにしてある。
インベの主人公も、自分で気づいたという点を評価してもらっている。
インベの主人公は、なんだかんだと言いながら、全て自分で行動している。
自分のお金で映画のチケットを買い、自分で映画を観て、自分で映画を途中で観るのを止め、その行為を「お金より時間が大事とオマエが気が付いた」と評価される。
誘導はされているけれども強要はされず、解説はされているけれども自分で気が付いたことにされており、不満点は相手が聞いたうえで断定的に回答する(「過去は忘れる」)。
ホモソーシャルな部活動の体だからそこまで違和感はないけれども、これ、同様の体験を大学入学時に魅力的な先輩からなされたときに、それってカルトではって気が付けるか俺には自信は無い。
しかもよ、背景にはうっすらと自分は凡人とは違うっていうエリート意識というか、投資家意識みたいなものがあるわけよ。
ラーメン屋に誘うというフレンドリーな関係性、映画館で途中で席を立つという"他人とは違う"体験、損切りという部内で通じる単語を通じてグループ内の価値観を共有していく。
しかもこれ、漫画としても同じ構成になっていて、漫画というなじみのある媒体で、大衆の感動するような映画には流されない俺というちょっとしたアルアルを追体験させて、損切りという価値観を共有している。
ココに対して、「いやーその価値観はこれこれこういう理由で狭量だよ」と伝えても、おおむね反発を受けるか、わかってないヤツ扱いされると思う。
しかも大変に良くできた作劇なので、漫画を読んでなるほどと納得した人は、映画を最後まで観る派に対しては「ああ、こいつは損切り出来ない投資家に向いてないヤツなんだな」と思わせるようになっている。
俺はカルトの脱退のさせ方は詳しくないのであんまり的確なことは言えないんだけど、あの漫画に納得する人を否定したり馬鹿にしたりするだけでは、少なくとも価値観を変えることはできないだろうな、と思う。
そして、インベスターZという漫画の作劇は、少なくともあの映画の損切りの回は、とても怖いと思った。
実は同じくらい、今回の件で映画を最後までみる経験派も"危うい"と俺は思っている。すごく配慮したコメントしている人もいる一方、そうでない人もいるから。
映画は数あるエンタテインメントのうち一つでしか無いので、それを重視しない人生もまた、俺は尊重したいと思う。
サタンタンゴを観た人類しか得られない経験は間違いなくあるけど、それを貴重な経験だよって誘う勇気は俺には無いから。
あと、最後まで観る強硬派は、MCUのエンドゲーム以降の観る順番を教えて下さい。ワンダヴィジョンくらいからついていけてないです。お願いします。
君は初心者かい?小便小僧の機微というものがわかっていないようだね。
だが心配するな。ここにいらっしゃるベテランの私が、仕事の極意を教えてやろう。
横だが、
というのは全くその通りで当然なんだけど、先生について習っていると先生が購入を勧めるんだよ。そして他の弟子たちも先輩たちも買ってもらってるんだよ。こういう状況で「よそはよそ!うちはうち!で却下」するママは殆どいない。
というか、そういう風にゆるくピアノを楽しみたいなら先生について習うような伝統的なコースを選ばなければいいというだけのことなんだけどね。好きな電子ピアノでちんたら好きなように弾いて楽しめばいいわけだから。俺みたいにねw
ただ、ピアノを習うという伝統的なコースだと上に述べたようにある程度のレベルで本物のアコースティックなピアノを買ってもらうというのが主流だという話。だからそういう選択をする人が多いということ。