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2022-10-25

anond:20221025101514

胡耀邦さんが民主的で偉大な人だったからな

その愛弟子である胡錦涛さんもそのマインドを受け継いだのだろう

オープンマインドだった 胡耀邦趙紫陽時代藤村 幸義)2011年4月

最近中国経済発展こそ著しいが、自由闊達雰囲気はあまり伝わってこない。それどころか政治民主化は遅れ、メディアへの規制は強まるばかり。経済面では国有企業勢力が再び増している。なにか時代に逆行している印象もある。

これまでの経済発展方式を転換すると言いながら、実際には大胆な改革に踏み切れずにいるのも歯がゆい改革・開放政策に着手してから30年余り。中国はいまいちど、この政策に着手したころ、胡耀邦趙紫陽リーダーシップをとっていたころのオープンで溌剌とした雰囲気を思い起こす必要があるのではないか

胡耀邦に初めて会ったのは、北京空港だった。筆者が特派員として北京に赴任してまもない1979年の半ばころだったと記憶している。すでに前年末の党中央委員会議で、中央政治局委員・党中央宣伝部長への就任が決まっていたが、我々外国人記者の前には姿を見せていなかった。

背が低くて頭は三分刈りくらい、なんとも貧相な男が、突然筆者の前に姿を現した。にこやかに笑っている。すぐに、これがあの胡耀邦だと分かった。つまり、筆者が復活後の胡耀邦の姿を見た最初外国人記者だったのだ。気がついた他の記者たちが寄ってきて、たちまちのうちに人垣を作ってしまった。

胡耀邦経済シンポ開催を

その後はとんとん拍子で出世していく。1981年6月に華国鋒のあとを継いで党主席就任した(1982年9月には党主席制の廃止に伴い、新しく導入された総書記就任)。

筆者がその自由闊達な人柄に直接触れたのは、1984年6月、日本経済新聞社人民日報との交流スタートさせ、北京取材代表団を送り込んだ時だった。人民大会堂で、胡耀邦と会見するチャンスを与えられた。初めて会った時の貧相な感じは消え、頭髪も長く伸ばし、威風堂々としていた。

中国首脳との会見では、相手側に一方的に喋りまくられ、こちから質問するきっかけを作りにくいのが通例だった。しかし我々は違った。儀礼的なあいさつは最小限にとどめ、日本経済新聞社の初代北京支局長だった鮫島敬治氏と筆者がタッグを組んで、次々と質問を繰り出した。

これに胡耀邦も応えてくれた。会見は予定時間を大幅に超え、1時間半にも及んだ。「今後10年間に外国から500億ドル外資を導入してもいい」と、手に持った鉛筆を振りかざしながら、対外開放に積極的姿勢アピールした。

このやりとりがよほど気に入ったらしい。最後胡耀邦は、同席した人民日報の秦川社長の方を向いて、「ことし秋に人民日報日本経済新聞が共催してシンポジウムを開くように」と指示したのだった。秦川社長も驚いた様子だったが、すぐに同意し、その場で日中経済シンポジウムの開催が決まってしまった。

かくて1984年11月に「中国の対外開放政策日中経済技術協力」をテーマにした日中経済シンポジウム北京で開催された。筆者は当時、国際部デスクだったが、数カ月ほどその仕事を離れ、シンポジウムの準備にかかりっきりになったのを覚えている。シンポジウムパネリストには、いま日本航空再建に采配を振るっておられる稲盛和夫京セラ社長(当時)にも加わってもらった。

シンポジウム終了後には、胡耀邦と再び会見できた。年に2回も会ったことになる。メディア単独で年に2回も中国首脳と会えたというのは、異例中の異例だった。

胡耀邦はこの時、韓国との直接貿易について「南北交流の進展を見ながら」との条件付きながら開始を示唆した。いまや中韓貿易は大きく発展しているが、当時としてはかなり大胆な発言だった。我々との2回目の会談胡耀邦も気を許したのかもしれない。

胡耀邦は1987年1月に総書記を解任されるが、日中経済シンポジウム継続され、1988年11月北京で第3回目が開催される。この時に会見したのが、胡耀邦の後任として総書記就任した趙紫陽だった。

●会見でビールを飲んだ趙紫陽

趙紫陽胡耀邦に負けず劣らず、あっけらかんとしていて、オープンマインドだった。ブルジョワ的との批判を恐れずに、いち早く背広を着こなし、ゴルフ場にも通った。

ある時、明の十三陵近くのゴルフ場趙紫陽とばったり顔を合わせたことがある。アウトの3番か4番だったろうか、ゴルフ場スタッフが駆け込んできて、「中国の偉い人がプレーするので、ちょっと待っていてほしい」と要請された。しばらくすると、趙紫陽がパターを手にしてやってきた。せっかちな仕草で、最後までボールを沈めずに、次のホールへと移動していってしまった。

会見では終始、ハイテンションだった。すでにこの頃になると、批判勢力攻撃さらされ、趙紫陽政治立場はかなり苦しくなっていた。会見が始まって間もなく、趙紫陽付き人ビールを持ってくるように要求した。外国人との会見で、中国首脳がビールを飲むというのは、おそらく前例のないことだろう。約1時間の会見中にコップ2杯を飲みほした。ビールに力を借りなければ、思い切ったことも言えなかったのであろうか。この会見の半年後に、趙紫陽天安門事件からんで失脚してしまう。

改革に前向きだった両首脳

胡耀邦失脚の際に、日中経済シンポジウム開催を独断で決めてしまたことが失脚の一つの理由になった、との報道もあった。しかしその後もシンポジウムは隔年開催で続けられ、日中交流の促進に役割を果たした。

胡耀邦趙紫陽ともに、中国の古くから悪弊を取り除き、新しい枠組みを作り上げようと一生懸命だった。やや性急なところがあったにせよ、常に前向きの姿勢を失わなかった。

中国はいま、経済成長の維持、インフレ抑制投資から消費中心への構造転換、という3つの難題に直面している。ところがこの3つの中で、どうしても優先しがちなのは経済成長の維持である。国際金融危機に際しても4兆元という巨額の財政投入によって、成長率を維持しようとがむしゃらになった。

その結果、GDP日本を抜いて世界第2位となるなど、世界から大いに注目を浴びたのだが、半面でその後遺症ともいえるインフレに手を焼いている。ましてや、投資から消費中心への構造転換になると、対策が後手に回りがちで、ほとんど効果をあげていない。胡耀邦趙紫陽のあの改革へのチャレンジ精神いまいちど、思い返すべきだろう。

特に胡耀邦清廉潔白なことでも知られていた。昨年4月、人民日報温家宝首相執筆した、胡耀邦評価する論文掲載している。その中で温首相は、「70歳を過ぎた胡耀邦が、食事睡眠時間も惜しんで人々の暮らしぶりを知ろうと、対話などに努めた」と胡耀邦地方視察に同行した時の思い出を披露している。暖房が効かない宿舎に泊まって風邪をひき、高熱を出したが、それでも仕事を続けたという。胡耀邦がいま存命ならば、腐敗・汚職蔓延している最近中国政治に何と言うだろうか。

ふじむら・たかよし 1944年生まれ 67年日本経済新聞入社 北京特派員 論説委員などを経て2000年退社 現在 拓殖大学国際学部教授 著書に『老いはじめた中国』(アスキー新書)『中国の世紀 鍵にぎる三峡ダム西部大開発』(中央経済社)など

2022-06-20

「やりすぎた?」ウイグル自治区トップ事実上左遷

6/18(土) 9:30配信

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西日本新聞

陳全国氏=4月中国北京人民大会堂撮影坂本信博)

 【北京坂本信博】中国新疆ウイグル自治区少数民族人権を抑圧する政策を進めたとして米政府制裁対象となっていた自治区トップの陳全国氏(66)が、中国共産党農村政策部門ナンバー2に就いていることが中国メディアの報道で分かった。習近平国家主席党総書記)の少数民族政策を忠実に実践した功績で、今秋の党大会で昇進するとの説もあったが、事実上左遷。党中枢の政治局員にとどまることも難しいとみられている。

「1日5人ずつ施術亡命ウイグル女性、涙の証言

 陳氏は昨年12月自治区トップ共産党委員会書記の職を退任したことが発表された。習指導部を構成する政治局員(25人)の一員で、さら要職を務める可能性もあったため、処遇が注目されていた。国営通信新華社が今月15日、陳氏が党中央農村工作指導小組の副組長として会議に出席したことを初めて公に報道した。中国メディア関係者は「実権のない役職で、組長は同じ政治局員胡春華副首相。その部下になるということは明らかに左遷だ」と語る。

 陳氏2011年からチベット自治区の党委書記を務め、分離・独立運動を封じ込めたことで知られる。新疆トップに異動した16年夏以降、テロ対策名目に多数のウイグル族を「再教育施設」に収容するなど抑圧的な政策が強まったとされる。

 ウイグル族の人口抑制策も陳氏が主導したとみられている。中国では産児制限一人っ子政策」終了後の16年以降、全国的不妊処置件数が急減したが、新疆では16年から18年にかけて不妊手術が8・9倍に急増。出生率17から2年間でほぼ半減した。

 左遷理由は明らかにされていないが、中国メディア関係者は「やりすぎたということだろう。米国との融和に向けたメッセージ可能性もある」と話した。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/941417/

さすがに神罰を恐れぬ所業

左遷だけで済むはずもない

2021-10-09

中国主席 台湾統一に「一国二制度適用目指す考え強調


2021年10月9日 17時53分

中国習近平国家主席北京演説し、台湾統一に自信を示す一方、蔡英文政権アメリカなどを念頭に、独立の動きや外部から干渉を厳しく批判しました。

中国1911年清朝が倒された辛亥革命から110年となるのを記念する式典が9日、北京人民大会堂で開かれ、習近平国家主席演説しました。

この中で習主席は、中国共産党が辛亥革命指導した孫文の遺志を最も忠実に受け継いでいると主張したうえで「祖国の完全な統一という歴史的任務は必ず実現しなければならないし、実現できる」と述べ、台湾統一に自信を示しました。

そして、統一方法については「平和的に実現することが台湾同胞を含む中華民族全体の利益にかなう」と述べ、香港マカオで取り入れた「一国二制度」の適用を目指す考えを強調しました。

一方で習主席独立志向が強いとみなす蔡英文政権念頭に「台湾独立の動きは統一の最大の障害であり、必ず人民軽蔑され、歴史の裁きを受ける」と述べ、厳しく批判しました。

さらに、台湾への関与を強めるアメリカなども念頭に「台湾問題中国の内政であり、外部からいかなる干渉も許さない」と強くけん制しました。

習近平指導部は台湾が設定する防空識別圏中国軍機の進入を繰り返すなど、軍事的圧力を強めています

台湾総統府「台湾の主流の民意一国二制度を拒絶」

習近平国家主席演説について、台湾総統府の報道官コメントを発表し「辛亥革命が打ちたてたのは権威主義専制ではなく、民主主義共和制であって、今日台湾で真に実現している。香港の現状は中国約束に背いたことと、一国二制度が実行不可能であることを実証しており、台湾の主流の民意一国二制度をはっきりと拒絶している」と反論しました。

また、台湾で対中国政策担当する大陸委員会は「現在台湾海峡両岸の関係における最大の問題は、北京台湾に向き合おうとせず、武力行使放棄しないことだ。中国当局の硬直した対台湾政策は国際情勢への対応に全く欠け、台湾の人たちの疑念や反対を完全に無視している。台湾の将来は2300万人の台湾人民けが決定権を持つ」というコメントを発表しました。

日本人の1億人近くも味方するよ

台湾の将来を守るためにあらゆる協力をする

2009-12-17

小沢幹事長鳩山首相を「激しい言葉罵倒」 天皇陛下の"政治利用"問題

ttp://news.livedoor.com/article/detail/4508105/

政府関係者は極秘のやりとりをこう証言する。

「9日の時点で、中国外務省の高官から小沢さんに直接電話がかかっている。『もし天皇会見を設定してくれたら、胡錦濤国家主席民主党訪中団の議員ひとりひとりと握手できるよう取り計らう』とね」

 この政府関係者によると、小沢氏は同じ9日に鳩山首相に対して会見の実現を要求。首相が、「1カ月ルール」を理由に会見を断ると、激しい言葉罵倒したという。10日、折れた鳩山首相から指示を受けた平野博文官房長官が、先に触れたように宮内庁の羽毛田長官に会見を設定するよう命じることになったようだ。

 実際、小沢氏のもくろみ通り、小沢氏率いる民主党訪中団は10日に北京に到着。人民大会堂で待っていた胡錦濤国家主席は、143人の民主党議員たちひとりひとりと握手を交わし、「ツーショット」の写真撮影に応じていた。

 しかも、おかしなことに、中国側は、10日午後の外務省定例記者会見習近平の訪日日程を発表した。日本天皇会見が明らかにされるのは翌11日のことで、「全てが中国優先で、日本の国内事情は後回しにされた」と政府関係者も猛反発しているだけに、今後波紋を呼びそうだ。

2009-12-11

http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091210/stt0912102046019-n1.htm

小沢氏、胡中国主席と会談「私は人民解放軍野戦軍司令官」

 【北京=原川貴郎】民主党小沢一郎幹事長は10日午後、北京に到着し、人民大会堂胡錦濤(こ・きんとう)中国国家主席と会談した。両氏は、日中関係の強化や民主党中国共産党政党間交流の促進を図ることで一致した。

 小沢氏は会談後、記者団に対し、来夏の参院選について胡氏に、「こちらのお国中国)に例えれば、解放の戦いはまだ済んでいない。来年7月に最終の決戦がある。人民解放軍でいえば、野戦の軍司令官として頑張っていると伝えた」と語った。

 他の先進国の主要政治家が、天安門事件民主化運動を武力で鎮圧した人民解放軍の幹部に自らをなぞらえることはあり得ない。

 小沢氏はまた、「参院選民主党が過半数を取ることで、思い切った議論をできる環境が整い、関係を深めることができる」と語ったことも紹介した。

 胡氏は「民主党政権になってからも交流を深め、日中の互恵関係が新たな段階に入った」と語り、鳩山政権アジア重視の姿勢を評価した。

仙谷の「文化大革命」発言といい、ほんと空気読めてないな。

 
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