はてなキーワード: リンチとは
もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事の書類ばかりとなった昨今。
でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。
書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。
生まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖の詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。
頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初の感想だった。普通に文章だったからだ。
調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで
「韻」という言葉もその時初めて知った。
井上靖の詩集を手に取ったのは、国語の教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。
というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初の詩集だった。
小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。
季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなものが短歌や俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。
特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平の短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉のニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。
幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。
自分の世界の表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。
例えば、雪という詩がある。
雪
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
みつけた詩だ。雪が降って来ると、
私はいつもこの詩のことを思い出す。
中学生の私は、なるほどと思った。
詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉のなかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。
鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。
当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。
いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。
ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。
山頭火は面白い。普通の俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。
定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌のエントリーポイントとなって、
しかし俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。
いつしか手にしていたのは、興津要の解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。
剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代の言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。
その後は巴毎晩組み敷かれ
木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代の川柳で妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい。
一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。
俵万智のサラダ記念日がベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。
例えば、こんな一首。
あさま山荘事件を起こした連合赤軍の幹部、坂口弘が収監中の東京拘置所から毎週のように短歌を朝日歌壇に投稿していた頃だ。
朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌の表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。
風花って知っていますか
渡辺松男と太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇をリアルにみていた人にしかわからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱が発酵すると詠んだりする太田美和。
実生活で恋をしていた私は太田美和の言葉に自分を重ね合わせた。
でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。
大学を卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。
生活が一変した。
書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。
世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。
山頭火も武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接と資格だ!という日々。
就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。
たまに思い出しては、現代短歌の最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。
若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。
それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。
そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。
思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分が死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。
中年になっていいかげん自分の限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖の感覚がとてもよくわかるようになった。
これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。
詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。
どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。
鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯な子供の姿を思い浮かべる、という
文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワインと食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。
ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種やビンテージ、気候土壌などさまざまな情報がある。
しかしワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのときの話題、体調などに大きく左右される。
水だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。
マリアージュという言葉があるように、ワインは一種の調味料として機能するため、食べ合わせは重要だ。
ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見のワインでしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。
逆に偽の情報を表現豊かに補完してしまえば、コンビニで販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。
ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的な規律として表現することはできない。
詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。
井上靖が「小学校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき、井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。
その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。
どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときのメンタル、いわば偶然の力だと思う。
渡辺松男と太田美和が並んで歌壇に掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。
失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会。
そのときに自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。
ところで、先日、Yahooの芸能ニュースをみていたら、TBSのプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人が俳句の先生から5点と酷評されたと報じていた。
消しゴムが 白き水面に ボウフラを
というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味を説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。
ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人の俳句が酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組の演出・脚本としてはそれがオチなのだろう。
演出もさることながら、これは、他の出演者の俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。
虹の下 クレヨンの箱 踊り出す
天王山 黒ずむ袖に 薄暑光
薫風や 隣の君と 教科書を
こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。
バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージで作品のクオリティが補完されてしまうのだ。
しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校の児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。
消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月の番組で文房具だからまだ気持ちはフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。
ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。
それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。
いいかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。
一方で白い水面(ノートの隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。
ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。
と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ。
ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。
また、どんくさいもの、弱者がボウフラというノート上のより小さい存在に視線をフォーカスする、という手法は小林一茶の方法とも通じるところがある。
番組の評者は、この芸人の俳句を酷評したうえ、次のような添削をしたという。
夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。
しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組だからね。
ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界は一種のルッキズムだ。夏休みとかいって勝手におめかしさせようとするんじゃねーよ。
そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつの動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語や川柳で身につけたものだろうから、ゆりやんの一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。
5ちゃんねるを筆頭に、アラフィフアラカン以上年齢層の高い匿名の場でキムタクの話題になると以下の書き込みが無限に連投される
「キムタク(木村拓哉)は人前では常時シークレットシューズを履いてる」「キムタクを近所で見たけど170cmの俺より小さかった」「とにかくキムタクの実寸は170cmない」
年取ればみんな経年劣化していくからハゲや不細工といったコンプレックスは薄れる
しかし身長だけは変化ないから165cm以下の男性は死ぬまで日本人男性の全人口の下位一割のまま
明菜だBOØWYだGet Wildだので盛り上がるネットのアラフィフアラカン層でも身長コンプレックスは消えない
だから自分達はハゲや不細工より需要がないのを認められず、チビウーバーのナンパを嫌がるたぬかなを大挙してリンチ
「チビ男のナンパは迷惑」と本音を口にしたたぬかなを無職に追い込むまでリンチした平均身長165cmのアラフィフアラカンおじさんが、岡田や井上などの小物のリアルチビを無視してキムタクや稲葉(学生時代の身体測定で171cm)を170cm未満認定するのも判るだろ
男のチビははハゲや不細工より女から需要がないのを認められないから「170cm未満でもイケメンで常に上げ底靴履けば女が群がり覇権を取れる」と妄想するしかないんだよ
しかし165cm男性は日本人男性の全人口の一割しかいないから靴以前に一般社会でも浮くんだよ
芸能人ならなおさら男も女も平均身長以上あってもヒールのある靴でより脚長にスタイルよく見せるから、チビは上げ底靴履いても結果的に埋もれる
だから性加害騒動前の一強ゴリ押し放題のジャニーズですら、岡田准一や山田涼介を主演やソロでヒット出せるスターにできなかっただろ
チビの居場所は工場などのブルーカラー職場か、人前で常時上げ底ブーツ着用でも許され高身長男女と並ばなくて済むミュージシャンしかないんだよ
https://i.imgur.com/cEeLI3S.png
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https://i.imgur.com/r5pc4jn.jpeg
https://x.com/talk_Nobu/status/1788541587917865337
うつ病の母親が投稿した部活顧問の愚痴、拡散されて叩きまくってる人の中に教員も多いけど正気か…うつ病ですよ?もし今回の件で命に関わる事態になったらどうする。そんなつもりなかったと謝る?学校のいじめ自殺問題と同じです。腹が立つのは分かるけど、人の命に関わる危機感が薄いのが怖い。
これ見て思った。誹謗中傷までいかなくても、単純な批判だけでも大量に受けたら人って病むし死に追いやられるよね?あれだけ誹謗中傷を苦にした自殺は問題視されていたのに、誹謗中傷にも侮辱にもならないラインでの批判(でも大量だからリンチになる)があまり問題視されないのは何で?それで自殺する個体は淘汰されて当然ってこと?
割と多い
発言力の大きい「教祖」を持ち、その「教祖」の犬笛によって信者が一斉攻撃を仕掛けたり、「教祖」の悪口を言った人間を信者が攻撃したり
※この「教祖」たちというのはまぁ実例があまりにも多くて一つ一つ名を挙げてたらキリがないのと、「教祖」によっては目ざとく見つけて早速攻撃してきたりするので出しません、なので「教祖」という概念とします、あなたの気に食わない「教祖」を当てはめてください
HIKAKINの下ネタMAD動画好きとか浪人であることを一種の誇りにしてるやつらとか弁護士に殺害予告して遊んでるところとか、そこら辺の連中は人にクソリプ飛ばしたり不謹慎ネタで周囲に不快をばら撒いてる
はてブは極めてリベラル・左派色の強い(共産党や立憲民主党の支持が多いなど)と言われることが多い。
それでは、草津町長が性加害を行ったとして虚偽の告発をされていた件で、当初ブクマカがどのような反応をしていたか残しておこうと思う。
この問題でのブコメの1位である「群馬県草津町の「町議リコール」住民投票がはらむ、性被害の事実以前の大きな問題」(https://b.hatena.ne.jp/entry/s/hbol.jp/233731/)と2位である「「町長からセクハラ」告発の女性町議、懲罰動議で失職:朝日新聞デジタル」
(https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASMD261GBMD2UHNB00M.html)を参考に見ていこうと思う。
(以下、上位ブコメ)
◯セクハラの訴えが虚偽だったとしても、公共施設にリコールを訴えるポスター貼ったり街宣車を走らせたりするのはとにかく異様。リコールは住民運動であるべきで、政敵を攻撃するためのものではない。
◯"① 警察の捜査や裁判の結果が出ていない段階での住民投票である。 ② 公平性を担保すべき自治体が、一方の側に投票を誘導している。 ③ 超デリケートな問題にもかかわらず、一切の配慮が感じられない。"
ちなみにこの記事を書いたちだい氏は、元町議の虚言が明らかになってからも「もっと陰湿で闇だらけの真鶴町でさえ草津町のような公平性を欠いた住民投票にはなっていないし、町をあげてのリンチ状態にはなっていない。」(https://twitter.com/chidaisan/status/1721282877881737323)などとの発言を続けていた人物で、ブクマカの多くはそれに賛同してしまっている。
(以下、上位ブコメ)
◯その理由はないわ。性的問題での追及が出来なくなる。>「新井氏が「町長室で町長と肉体関係を持った」と発言した点などが「破廉恥で、議会の品位を傷つけた」とされて懲罰の対象となり、新井氏は議席を失った」
◯セクハラを訴えられただけなら「まずは事実関係を」ぐらいのテンションで見てるはずの世の人々も、この意味のわからない懲罰動議で一気に「町長怪しい」に進化してしまうよな。
◯いや、事の真偽も明らかになっていないのに懲罰はおかしいでしょう。/そして、被害の訴えが議会の品位を傷つけるというロジックもおかしい。/まずは事実確認が必要。事実なら、懲罰は撤回されるべき。
分量が多くなるので3つずつしか取り上げてないが、それ以下のブコメも星の多いものの大部分は草津町・草津町長への非難だった。
大きく2点だろうか。
→裁判においてリコールは合法なものであったと確定判決がでている。
→そもそも裁判とリコールは独立している。また、事実関係についてもこの虚言のみではなくそれまでの積み重ねでリコールになってる。
というか、「仮に本当だったら」などと前置きして誹謗中傷するのって本人は中立とか理性的なつもりなんだろうけどバレバレだよね
草津町議の虚言に乗って草津町・草津町長を貶めたものが多かった。
その理由が、はてブに蔓延する親フェミニズム(ジェンダー論)的なものなのか、地方差別からくるものなのか、親リベラル(共産党等。そういえば元町議擁護デモをしてたのも共産党だったよね)からくるものなのかはわからないが。まぁ合せ技なんだろうけど。
いずれにしてもブクマカ(はてサ)にとって、男性の人権ってのは女性のそれに比べて劣後すると考えていると明らかになった事案と言っていいだろう。
おい、文章なげーんだよチー牛!と言われる前にポイントを書く。
・曖昧な概念で社会的弱者を生み出し、強者が弱者を叩く弱いものイジメの構図が平然とまかり通っていること
・ルッキズムに基づいた弱者のイメージは商業主義において利用されやすく、チー牛顔に限らず今後も資本家による弱者イメージの流布・それを利用したビジネスが展開され経済的搾取を招きやすい
チー牛に限らず、大衆にとって"叩いて良い対象"となったものは相手が人間だろうと平然と"リンチ"のような誹謗中傷が行われてきた。
しかしチー牛はそれらとは大きく異なる。チー牛男性というあの一枚絵に象徴されただけの曖昧な概念であり、一個人や団体ではない。
では概念を叩いているのか?それは違う。叩きたい人がチー牛男性という概念を引用し、社会的弱者として扱い叩く。ここにチー牛叩きの問題の本質がある。
真の問題はチー牛という概念でも、ルッキズム至上主義でもなく、社会的弱者を誰でも簡単に作り出すことができ、レッテル貼りによるリンチが平然と横行している点だ。
そしてもはやチー牛という概念を使ったリンチはネットに留まらず、現実の社会においても表出しつつある。
やがては子供、学校社会にも影響するだろう。子供はコミュニケーション能力が成熟していないし、キャッチーなワードに引かれやすいのでチー牛が合言葉のようにイジメのキーワードになっても何ら不思議ではない。
ここまで書けばもう理解していただけるだろう。「なぜイジメがダメなのか」を一から説明しなくとも、曖昧な概念によるレッテル貼りで誰かを叩くというのは誰でも被害者になり得るし、加害者が許されて良い理屈はないことは自明である。芸能人叩きでも、学校、会社のイジメでも自殺という最悪な結末によって事が収まる事があるように、チー牛叩きから人が死ぬこともあり得るのだ。
全く別の観点での問題がある。ルッキズムに基いた社会的イメージというものは「簡単に作り出せてしまう」ということである。
ファッションが分かりやすいだろう、「今年のトレンドは〇〇」のように多くのメディア、企業によって簡単にイメージというのは作り出せてしまう。
恐らく直近数年以内に、「脱チー牛」を促すための邪悪な広告がメンズサロンか、美容院か、美容外科か、出てくるだろう。
ではその流れが終わったらどうなるか?
チー牛効果で商売が繁盛すると分かれば次の弱者のイメージを作り出し、それをネタにまたビジネスをすれば良い。美容系でなくとも、一時期バリバリ財布がネタにされたように何かを貶す風潮さえできればそれがお金になるのだ。そうして企業による不安を食い物にした経済的搾取を受けるのは一般人である。
どちらの問題もチー牛男性叩きに限った話ではなく、過去似たような社会潮流はあるだろう。
この文章で伝えたいのは「強者側に回りたい人間の私利私欲に加担してはならない」ということだ。あなたが安易に加担してしまうことで被害を受ける人が生まれるし、あなたが被害を受けない保証はない。ちょっと叩きたい、馬鹿にしたい人がいたとしても、その小さな悪意の集合体が呼び起こす邪悪について、今一度立ち止まって考えて欲しいものだ。
もちろん石を投げない男もいる。
俺みたいに。
しかし石を投げない男は男社会の一員とは認められずリンチされイジメられ負け犬人生。
そして何より石を投げる男は女たちに愛される。
投げない男は一生モテない。
生物としての闘争本能があるオスだけがメスから選ばれるんだから当然だ。
この人たちはみんな女性と見えるが奇跡的に文明化された女性たちだから石を投げる行動を叱る事ができたようだが
世の中の大半の女は石を投げるような「ヤンチャな男の子♥️」が大好きでめちゃくちゃ可愛がり猛烈に甘やかす。
だから男どもは大人になってもそういう幼児的かつ暴力的な行為を一生やめない。
そしてそれを聞き義憤した奴らは怒りに燃えて、成功者を虐げた者を探し出して正義の名の下にリンチを実行
同じ穴のムジナ、ようこそ「加害者側」へ
お前はこの瞬間から、醜悪ないじめっ子だ、それも自覚のない一番悪質なタイプのな
腹立つ、腹立つ、腹立つ、現実じゃ報復すら許されないのに、なんでうまくいくんだよ
なんで本人は善人のまま、手を汚さずに、苦しめた奴らへ最大限の復讐が出来るんだよ
腹立つ!!!現実もそうなってくれよ!!!!迫害された側は一生迫害されて、いじめられた側は一生トラウマ抱えて生きてんのに!!!!!!
報復や復讐は罪とされる!!!!!扇動すら許されない!!!!!虐げた奴らは「若気の至りだから(笑」と許されたのに!!!!!!!
不公平だ!!!!!そして不公平な世界で「得をする側」に一生立てない!!!!!
避難所が暇空とスペースで対話しようとしたところ、「町山さんの二の舞いになるからやめなさい」と新人カルピスのミルージュが公開説教し、正気を取り戻した避難所がギリギリでスペースを回避
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新人なのに避難所を制御できる大物としてミルージュが注目され、文章力が高くて礼儀正しいことから大学教授だと暇空が認プロ
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めたまんやカルピスマンゴーと相互フォローの大学教授(東大情報学環所属の社会学者)を見つけたと暇アノンが虚偽の報告をする(本当は相互どころか一切接点なし)
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嘘に騙された暇空がその教授を掘ったところ、SKY-HI(若者に一番人気のラッパー)のポストをRPしていたことが発覚し、その教授とミルージュはマイナーなラッパーについて知っているという共通点があるから同一人物だと認プロ
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暇アノンのバサラキックが「銀の弾丸」という言葉を使用したところ、「銀の弾丸」が情報工学で使われる言葉だと知った暇空が、バサラキックの本体は東大情報学環所属(ただし専門は社会学)のミルージュだと認プロ
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堀口くんが過去に東大大学院進学を夢見ていたことから、ミルージュが進学を餌に堀口くんをスカウトして空気を入れた主犯だと認プロ
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