はてなキーワード: リレーとは
Vtuberグループ、にじさんじのアメリカ分店として活動するにじさんじEN。
先週、いろいろ問題があったとして公式が画像4枚にも及ぶブチギレ解雇宣言出して
前々からにじさんじEN運営に不満が溜まっていた海外リスナーが爆発。
中には運営の解雇宣言内容が嘘であると告発するクリエイターまで現れ、
1週間でにじさんじENの公式および所属ライバーの登録者数が合計10万人近く減少する事態に。
2024年2月5日に、当社は所属ライバー『Selen Tatsuki』の契約解除を決定いたしましたが、これが当社業績に与える影響は極めて軽微であります
とだけ書かれたIRを発表。
火に油を注ぐ事態になり、海外リスナーは燃え上がり、株価はさらに下落した。のが先週までの話。
にじさんじENのエリーラペンドラが自身の枠で「A Message from NIJISANJI EN」という配信を行い
複数のライバーでにじさんじENは悪くない、クビになったセレン龍月が悪いとの旨の配信を行う。
中で証拠として使用されたスクリーンショットに日本語のUIが移り込んでしまった結果、
この資料を誰が作ったんだという話になり、いわゆる「声優の盾」行為として運営に非難が殺到。
※声優の盾行為とは、アニメの制作体制や脚本に問題が発生し炎上した際に出演声優に声明を出させることで批判の矛先を逸らせようとしたり、批判しづらい雰囲気をつくらせようとする行為。
あのさぁ、アイドル部で、いちタレントが運営批判を行いそれに対して別のタレントが運営を擁護し
お互いのファン同士がこっちが正しい、いやこっちだと血みどろの争いを繰り広げどうなったか覚えてないんか?
もう4年以上前の話なのにいまだに両陣営に粘着アンチしてる奴が山ほどいる。
仮にタレントが「私たちが真実を伝えたいです!」って言い出したんだとしても、
そこは「運営」と「(出てった)タレント」の問題なんだからこっちで対処しますって言うのが運営の仕事だろ。
The fact that Nijisanji is using their own talents for damage control puts such a bad taste in my mouth.
8560 good
そりゃそう思うし、なぜこう思われるだろうということが想像できないのか。
キルアオやウィッチウォッチは良くも悪くも全体にも個々の話にも一貫性があるんだが、グリーングリーングリーンズは何をしたいのかが明確な感じになってない。
要領よく生きてきた凡人が天才になって世界で活躍するという設定に対して、周囲のレベルがいきなり凄い高い。
凡人が天才に食らいついていくという物語は分かるんだが、当の本人がどういう人間なのかがイマイチ見えない。
正々堂々勝負したいのか、勝つためならハンディが欲しいのかも場面ごとにコロコロと変わる。
それが人間臭いテンパリとして描かれるならともかく、作品はさもそこに一貫性があるかのように語ってくる。
なんで?
今週の内容もなんだか、チグハグだ。
「凡人のくせに挑戦した結果、失敗した」という思い出が宿った写真を「変に冒険心を出さない戒め」と語りながらも、それを切り口に始めた話で「俺は本気でやって天才に勝つよ」と口にする。そして、最後には写真を消す。
一見すると話が繋がっているように見えるが、よく考えるとおかしい。
「戒め」の写真を消して冒険に挑むというのは確かに物語としてはそれっぽいのだが、実際にこの写真に写っているのは「凡人だけど挑戦してしまうという気持ちが昔から一貫していた」という部分なんじゃないのか?
100人の漫画家を集めたら95人は、この物語の終わりで「挑戦しちゃうんだよな。結構いい顔してるじゃん、俺」と言ってこの写真を大事にしまいなおす物語を描くだろう。
漫画なら絶対にやってしまう「主人公に一貫性をもたせる」を放棄している。
第三者の目で見ればおかしく見えるような公道を普通に主人公にさせるし、それがおかしいことを漫画の世界は自覚なく描く。
主人この目から見れば、一貫性のない行動に一貫性があることになっているという思い込みが世界を通して我々の目に飛び込んでくる。
漫画というものはどうしても「体を一貫させる*」ということを大事にしてしまう。
起承転結として正しい形を。
チェーホフの銃は撃たなければいけないし、燻製ニシンの虚偽はそれが分かる形にして終わるべきだとされる。
物語として納得の行く着地点を目指して、都合よく全てがトントン拍子に進まなければいけない。
何気ない食事一つから殺人事件のヒントを見つけ、怪しい動きをしていた子供は真犯人に口止めされていなければいけない。
凡人の癖に主人公が強いのは「めっちゃ努力する天才だから」で終わらされており、他の天才も滅茶苦茶努力しているはずなのに追い抜かれていく。
なんで主人公がゴルフを始めたのかの理由は驚くほど薄っぺらいし、主人公の自己認識も言ってることもしょっちゅうブレる。
枠組みに囚われた人間がついつい「これはこうあるべきですよ」と自縄自縛に陥ってしまう所をすり抜けていく。
これは、まるでAIによる出力だ。
人間が常識という壁によって気づかなかった可能性を、ブルートフォースアタックの総当たりで無理やり引っ張り出してくる。
将棋の世界はAIの力によって新手が無数に産まれ、新手を乱発する棋士はまるでAIのようだと評される。
ジャンプという動脈硬化を起こしきった雑誌に吹き込んだ新しい風だ。
皆、読んでくれ。
そして首を傾げてくれ。
「体を一貫させる」ことに囚われないリアルな高校生の無軌道さを楽しんで欲しい。
(ただし手番の最初に指定した1マスと自分の駒が移動できる敵陣エリアに限っては敵陣駒の配置を確認可能)
手番が来たら相手陣地1マスの情報が言い渡され、敵から見えているはずの駒を1つ動かす(A)か、敵から見えていないはずの駒を1回分動かす(B)かを選択する
Bの場合はかならず1つ以上の駒を動かさねばならず、動かしていない場合と同一の配置にして手番を渡してはならない
取った駒は自陣の、敵から見えていないはずのエリアに打ってはいけない
これでよい
補給を再現するなら敵陣で孤立した駒を動かすことは出来ないというルールもよいだろう
敵陣から1手で出られない状態にされた自分の駒を放置したら(敵陣以外のマスからその駒へ別の駒が連絡していない限り(リレーはOK))次の手番以降動かせない
など
月曜日だったので人も少なく、わりとゆったり見れた
入口にドーンと今回の展示の関係者として池田大作の言葉が飾ってあった
最初は意外に思ったが、長年シルクロード文化には興味を持っていたみたいなことが書いてあり、シルクロードは仏教伝来の道でもあるし、仏教由来の宗教家としては関係性が深いものなのかと納得した
また最近亡くなった宗教家のコネとマネーのおかげの展示なのかと思うと複雑な気持ちになったが、シルクロードの神秘から新興宗教までと幅広い展示なんだなと思うことにした
展示の一歩目から金持ちの好事家のおっさんのコレクションを見に来たみたいな気持ちにもなり興がそがれたが、もともと古来の名品なんて好事家のおっさんの蔵リレーみたいなところありそうだし、そんなもんなんだろう
展示内容としてはもともとのシルクロードの地域的な広さ、飾られた品の制作年代の広さ、関係する文化圏の多さも相まって、出土品や名品を見ながらなんとなくの歴史を追うだけでも大分理解が難しく、これ予習してから来るべきだったなと反省した
ただ、紀元前2世紀から唐代(8世紀くらい)までのシルクロード(6500kmくらいあるらしい。日本国土は3500kmだそう)関連品なので、もうこれより広いカテゴリの展示ってあるのかなとも思った
序盤で頭がついていかなくなったので、キラキラやデザインを楽しむ方向で見ることにした
老齢の御夫婦がトルコ石で飾られた金の器を見て「見てみ、金ぴかやー」と言っていて、みんなそんなレベルなのかもしれんとなんか安心した
デザインとして気になったものとしては後漢の時代の『車馬儀仗隊』
三列くらいに並んでいて、一番後ろの二頭の馬が荷車を引いていたんだけど、明らかに左右で荷車のクオリティが違っていた
向かって左の荷車は板も薄く、引き縄も細く、板同士の溶接部分も最低限で繊細に作られているのに対し、右の荷車は板も太いし、縄も太く反り方も少なく、溶接部もぼってりと盛られていた
そっか設計図とかきっちりしたものがあるわけでもないし、一個ずつがハンドメイドだからよく見たら大分見た目が変わるんだなと思った
ただ左の荷車はその細い設計のせいか、荷車の後ろの板部分と馬のしっぽ辺りを釣り糸で結び強度アップしており、大量生産をするなら右の荷車を元に設計図を起こす方がいいのだろう
あとは『妙法蓮華経化城喩品 断簡』の文字が細いところと太いところのギャップが激しく、全体的に平体みたいにつぶれていて、あんまり見ない感じの書体だなと思った
こういう古書由来のフォントってあるのだろうかと思いつつ、漢字だけだし、日本だとあんまりフォントに起こしても使えねえなと思って見ていた
なんか最後に日中友好の証として送られてきたらしいラクダのはく製が二頭飾られていて、本当に何を見に来たのかわからん気持ちになった
わりと情報量につかれた後、川端通商店街を歩き、櫛田神社に行った
ハルタ,2021vol88 900pマイクリレー、宇島、久米田を参考にした
プレイボーイ,2011no48 109p この漫画がパネェでじょしらく紹介
月刊少年マガジン,2018vol3 40回月マガ新人賞グランドチャレンジにコメント
コミックビーム,2010vol10 夜は千の眼を持つ、さよなら絶望頓智
(追加、分割)ヤングマガジンサード,2016vol5 クリアファイルのみ
(訂正、追加)ヤングマガジンサード,2014vol3 おわり人間ギャルとルーズ
★重複(廃棄、希望あれば)
(訂正、分割)ヤングマガジンサード,2016vol5 本体のみ
(削除)少年マガジン,2014vol32 巻末赤松コメント、323p青春相談マガジンの回答
かくしごと ひめごと
全曝し展 缶バッジ
アニカン,2008vol50 俗絶望MAEDAXインタビュー
きゃらびぃ,2016vol372 アニメ店長トリビュートに久米田
きゃらびぃ,2017vol392 かくしごと描き下ろし、はじめてのあにめいと
読売新聞,20110914 赤松畑映画対談、久米田上映に言及
ハヤテ99巻
★その他
(削除)夜想bis+ 新房監督インタビュー番外篇,小冊子のみ
(削除)ヤンデレ大全
下請け丸投げが増えすぎ、チェック激増、責任を無限に回避するしぐさだけで仕事が回ってることになってる
PC1台で完結してた頃は会計士や社労士に投げてた仕事が全部一人で見れる!やれる!目が行き届く!ってなってたのに
今は大企業の取締役が一人で全部見れる!やれる!目が行き届く!ために他の全員(下請け含めれば数十万人、数百万人)の仕事が増えてる
底辺搾取しないとタグ付けすらできない、いや搾取しても不可能、できてない
できないのをできてるフリするために、てっぺんから最底辺までの中間の全ての段階で誤魔化し続けるしかない
PCと人間との一対一なら作業減だけど、それを仕事投げるリレーにしちゃった結果、工程とストレスがブクブクと膨れ上がっただけ
別に漫画のことならなんでも知ってるわけじゃないが、漫画以外のことはそれこそ何も知らないので以降の話は漫画に限定した話になる。また当方発達障害なので文章に癖があるかもしれないので読みづらい文章になってても特にフォローはできない。
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漫画文化の神髄を味わうということであれば有名どころだけ読んでいればよろしいと思う。
極端な話手塚治虫と大友克洋の作品を死ぬまで何週でもしていれば十分でさえあると思う。
それは多くの漫画家の作品というのはこうした偉大な漫画家の作品の画風も構想も何もかも模倣したものに過ぎないからだ。
外国では漫画家は実在の人物をモデルにデッサンしていきその描き癖を自分なりの絵柄として昇華させていくらしいが、日本の漫画家は別の先行の漫画家の絵をトレパクして画力をあげる=その画風を習得してよしとするというパターンが多い。
よって偉大な人が一つ画期的な画風を確立するとひそみに倣って我も我もと無名の漫画家が同じ絵柄を量産していく。もちろん構想やストーリーの組み立て方も漫画から学ぶ。
そうすると巷に出回っている漫画というのはほとんど、偉大な漫画家という原液の一滴を無味無臭の水に薄めたようなものに過ぎない。あるいはそのうっすい液体でさらに別の漫画家が育っていくという連鎖が起こるなら、原液のバケツリレー、伝言ゲーム。
そんな作品を何万作品読んだって原液の濃さに匹敵する体験消費などできないのだ。
だったら最初から原液をしゃぶりつくした方がコト消費としては良質だと思う。漫画の神髄にアクセスしてることになると思う。
もちろんこうした偉大な作家だって最初は無名だったことを逆に考えれば、今無名な有象無象から偉大な作家が現れることはあるかもしれない。
しかしそういう人は必ず時間差はあってもちゃんと評価されると思う。評価されないということは結局原液を薄めた以上のものではなくて、自分で新たな原液の開発もできなかったといいうことだ。
「自分がこの漫画家を最初に見つけた」なんてことを自慢することにこだわりたいのでもなければ、何千万時間もかけて異世界やらティーンズラブやらハーレクインやらに有象無象の漫画を乱読するより、すでに有名な漫画だけ読めばいいと思う。
ラグビー部の顧問で、いわゆるジョック的なタイプで、文化系(いわゆるナード)な生徒を馬鹿にしていた。
迂闊にもお絵かきノートを机の上に放置して席を外してしまった。
席に戻ると、件の教師と子飼いの生徒が勝手に俺のノートを開いて笑っている。
「なんだこりゃw俺の5歳の娘の方が絵が上手いなw」と言い放った。
俺は激怒した。
2.体育祭、クラスリレーか何かで、ラグビー部の生徒が走っていて、
「お前らみたいなもんが偉そうに頑張れとか言うな」
と言い放った。
俺は激怒した。
曲がりなりにも教育者として口に出すべきでないことも分からないのか。
俺は激怒した。
なお、いずれも心の中で激怒したものの直接的に教師に反抗する度胸はなく、
「こんな程度の低い人間がいるなら教師にだけは絶対にならない」と心に誓ったのであった
なお、程度の低い人間はどこにでもいる模様。
崖っぷちからリレーで助けられる赤ん坊の声が、主演声優の子供の声だと聞いてドン引き。
何だそれ。公私混同も甚だしい。
いい加減、創作物において赤ん坊に希望の象徴のような特別な意味を持たせて持て囃す表現って陳腐だからやめてくれねーかなと思う
すぐに成長して大人になり、病気や怪我に苦しんで、年老いて死んでいくただの人間。そこに特別な意味を持たせるべきじゃない。
ガンダムでもVガンダムやベルトーチカチルドレンではそういう安易な赤ん坊が希望という描写をしてたけど
その後のターンAになって長く生きて眠りにつく女王ディアナの黄金の秋という豊かな表現で最終回を迎えた事は、進歩だと思ったんだけど。
進撃の巨人も原作漫画の赤ん坊リレーの場面では、今まで描かれてきた老若男女問わずあっさりと死んでいく残酷な世界が突然陳腐になったと興醒めしたものだった。