はてなキーワード: ポパーとは
仮にダーウィン進化論すら非科学的ですねと退けたポパーの態度を用いると、科学的根拠に基づいた内部統制や、科学的根拠に基づいたジェンダー論なんてSTAP細胞と同様にない。
意味がわからない。コピペ改変してもいいがせめて文脈的に意味が取れるようにしてくれないかな。検索置換で済ますのはやめてくれ。
彼らの主張はこうだ。
「若手の女性研究者という要素を強調するのは、いたずらに差別を助長する危険性がある」
前者は科学的根拠がまだ見つかっていませんよという意味で、後者は研究者の倫理感の話だ。
もちろん研究者同士で研究対象を決める時にSTAP細胞の話が出たら、まず前述二項を盾にぞんぶんに議論したらいいと思う。議論にすらならないと思うけど。
しかし、割烹着の話が出るのは通常人事的な属性の話やら仕事観やらそういう人間関係の話であり、多くの場合研究室ではない。会議室とか居酒屋だ。
仮にダーウィン進化論すら非科学的ですねと退けたポパーの態度を用いると、科学的根拠に基づいた内部統制や、科学的根拠に基づいたジェンダー論なんてSTAP細胞と同様にない。
科学的根拠に基づいた人間関係に至っては、まだ、言葉の意味すら分からない状態だ。
なので、「そう。だからこそ、俺は科学的に人事をやるんだ」とか、「見てろ。俺は科学的な結婚をする」とか言ってる熱い研究者なら分かるが、そういうやつは別にそうでもない。
普通にオカルトみたいな判断基準で恋愛して、普通にオカルトとしか言えない組織管理をして、普通にオカルトみたいな男女共同参画をしている。
前述同様、STAP細胞に科学的根拠がないことはそもそも反論になっていない分野が議論対象であることと、差別の助長を骨子に反論を組み立てた場合、女性研究者の実数を求められたら明らかに論難してしまうこと。また、そこで妥当な数字を見せるように主張を組み立てることも難しいこと。あと、面倒であること。
だから黙る。
世の中は、黙ることを余儀無くされることがいっぱいある。
ここ数年テレビに出たり本を書きまくったりしてる脳科学者の人なんだけど、あの人は本当に科学者なの?
科学哲学ではポパーの反証可能性っていう考え方があって、「ある言論が実験などによって反証される可能性がある」事が科学的であることの定義の一つなんだけど、あの人は「脳科学的には」とか言って素人目に見ても怪しいことを言っている気がする。
昔なんかのテレビ番組で、「坂本龍馬には〜という脳内物質が出ていた」とか言ってたけど、これデータあるんですかね?
昔「ノーベル賞に最も近いと言われる日本人」とか言われながらテレビに出てきた記憶があるけど、実際全然取りそうな気配ないしなんの成果があるのかもよくわからない。
というわけでGoogle ScholarでKen Mogiでググってみた結果……
http://scholar.google.co.jp/scholar?hl=ja&as_sdt=0,5&q=ken+mogi
実験に参加してる論文でも最高の被引用数は57、しかも20年近くも前の論文。
主著論文にもなると最高で15。これもだいぶ昔。
(ちなみにiPS細胞の山中教授は被引用数最高8649。サイヤ人か何かですか?)
最近の論文がヒットしないんですが、今あの人は科学者としての活動してるんですか?
一般向けの本の執筆活動とかがメインなら、せめて科学者としての肩書を捨てるべきでは?あと科学を中立的に使わないのも腹立つ。
アハ体験で使われてた画像がちょっとずつ変わる画像あったじゃないですか。寡聞にして最近知ったんですけど、あれってもともと脳神経科学の研究では、変化盲っていう人間の知覚の危うさを検証する実験のものらしい。
で、またgoogle scholar教授に"aha experience"と聞いてみた。それらしき論文はいくつかヒットするけど、あの画像が使われている様子はない。あの画像のアハ体験どっから出てきたのか。効果は検証されているのか。
他にもアハ体験のバリエーションあった気がするけど、殆どが脳神経科学の違う分野のものを援用しているらしい…
ホメオパシーだの代替医療だのといった、いわゆる疑似科学についてはあらかた意見が出されていて、もう議論の余地はないと思われるのだが、そうした問題について考えるとき、どうしてか疑似科学それ自体、もしくは推し進める当事者のことばかりクローズアップして、疑似科学を支持する利用者のことがあまり注目されないのはちょっと妙な話であり、この偏りはマズいのではないかと思う。
科学というのもつまるところ美術や文学と同じであり、考案者と追実験者のコラボ、それを追いかけて信憑性や科学性を視認する研究者、そうして知識として蓄積された学問を後追いで学ぶ学生といった階層性が歴然として存在する。確からしさや権威は独創的な「表現者」が単独であれこれと試行錯誤するだけでは付随してこず、「鑑賞者」が群がってあれこれと議論することで科学体系は形成されるのだ。
とすると疑似科学もそれと同じことで、それが科学の衣をまとっていられるのは、「表現者」の誤謬だけではなく「鑑賞者」の支持も多大な要因としてあることが推測されるだろう。ところが件のホメオパシー議論では、「表現者」にばかり気を取られて「鑑賞者」側の心理を分析していくアプローチがあまり見られない。それどころか、医学と一対一対応させて医学に軍配を上げ、だからホメオパシーは誤りである、といったお決まりじみたストーリーで反駁する主張ばかりで、ホメオパシーという体系がなぜ批判されねばならないのか、という根源的な問題への解答を避けているものが少なからず多い。そうした偏向はつまるところ科学の絶対的真理性や反証可能性、さらにはアプリオリな真理の存在といった諸々の難解なテーマになんら疑問をもつことなく、権威の安楽さにフリーライドしていることの裏返しであり、彼らもまた科学という教条に絡め取られているのではないのかと危惧するに到る。
もはや焦点は「なぜそれが正しいのか」ではない。「なぜそれを信じるのか」である。「科学は正しいから美術や文学とは違う」と言い張る人間がいる。そのくせ地球が丸いことを実地で確かめたこともないのだからおかしいものだ。正しさの担保が分からないなら、それは正しいのではなく信じているのである。ならば、「科学者ならそれ(=科学的知識)が正しいと言い張れるじゃないか」という反論は一見成立しそうだ。だが、それは同時に「疑似科学者ならそれ(疑似科学的知識)が正しいと言い張れるじゃないか」という主張となんら変わりないように思える。なぜなら、正しさの担保は今現在明確な形で示されていないからである。
ポパーにしろクワインにしろ、ある点で建設的な、もしくは過激な条件づけで科学の特徴を言語化しようとしたが、どれも一長一短で、条件づけした途端にそれまでれっきとした科学の一部であった知見が科学でなくなってしまう。幸い、ホメオパシーについては科学でないということはテストによって容易に示されるかもしれないが、知識の欠けた「鑑賞者」に関しては全く問題が別である。それがありがたい体系で身体の健康に役立つと感じられるなら、ホメオパシーもまた利用者にとって十分に医学でありうる。この認識論的な事情は科学全般に延長できてしまうものなのだ。
今一度、問題点を問おう。科学というものは、証明能力を有する人間と利用する人間とで「正当」の意味内容が著しく異なり、しかも当の科学者であれ「正当」の普遍的な根拠が未決定の状態である。こう表現するとホメオパシー擁護論にも思われるかもしれないが、それは誤解だ。ここで言いたいことは、たとえホメオパシー支持者が科学的思考の持ち主でないとしても、ホメオパシーという体系それ自体が非科学的であることを決して意味しはしないこと、そして現代医学の科学性がホメオパシーの非科学性を意味しもしないことだ。後者の指摘については、免疫学が謎めいた「自然治癒能力」を反駁することが(今現在)できていないという一例でも分かるだろう。必ずしも、ある体系の正当性が別個の体系の正当性を否定するというわけではないのである。また、これが最も核心的なことだが、科学的証明とは無縁のいずれの「鑑賞者」にとっても、信じることで一方を支持し、信じないことでもう一方を唾棄しているに過ぎないという深刻な背景を宿していること。
治療に関して、被治療者にはいかなる治療を受けるか選択できる権利がある。このことをしっかり認めた上で、ホメオパシーに傾倒する被治療者を理性的に説得することは、果たして可能なのだろうか。
1.「限りなく透明に近いブルー」 村上龍
5.「国のない男」 カート・ヴォネガット
7.「夢渓筆談」 沈活
8.「神は妄想である―宗教との決別」 リチャード・ドーキンス
11.「冬の夜ひとりの旅人が」 イタロ・カルヴィーノ
12.「高い城の男」 フィリップ・K・ディック
13.「しあわせの理由」 グレッグ・イーガン
16.「きつねものがたり」 ヨセフ・ラダ
20.「フェルマータ」 ニコルソン・ベイカー
21.「四十七人目の男」 S・ハンター
22.「逆転世界」 クリストファー・プリースト
24.「謎の女」 福田恆存
28.「神秘の島~ミステリアスアイランド~」 J・ヴェルヌ
29.「連射王」 川上稔
34.「ほとんど無害」 ダグラス・アダムス
35.「黄落」 佐江 衆一
38.「リレイヤーⅢ」 鴻上 尚史
39.「糞尿大全」 柳内伸作
40.「十六の話」 司馬遼太郎
45.「穴」 ルイス・サッカー
46.「宇宙の戦士」 ロバート・A・ハインライン
47.「ギャシュリークラムのちびっ子たち」 エドワード・ゴーリー
50.「伊平次とわらわ」 坂田靖子
51.「食肉の帝王―巨富をつかんだ男 浅田満」 溝口敦
52.「だれも知らない小さな国」 佐藤さとる
55.「楽園の知恵」 牧野修
56.「鳩どもの家」 中上健次
57.「古事記」 倉野憲司
60.「魔獣戦士ルナ・ヴァルガー」 秋津透
66.「モルグ街の殺人」 エドガー・アラン・ポー
67.「世界の中心で、愛をさけぶ」 片山恭一
69.「百頭女」 M・エルンスト
74.「不可能性の時代」 大澤真幸
79.「他人をほめる人、けなす人」 フランチェスコ・アルベローニ
80.「星虫」 岩本隆雄
83.「おとなもブルブルようかい話」 木暮正夫
84.「ヨーロッパ文学講義」 ウラジミール・ナボコフ
85.「サマー/タイム/トラベラー」 新城カズマ
87.「死の蔵書」 ジョン・ダニング
88.「死のロングウォーク」 リチャード・バックマン
91.「フロイト先生のウソ」 ロルフ・ゲーデン
92.「ライ麦畑でつかまえて」 J・D・サリンジャー/野崎孝訳
94.「針の上で天使は何人踊れるか」 ダレン・オルドリッジ
95.「歴史」(上・中・下) ヘロドトス
97.「愛はさだめ、さだめは死」 ジェイムズ・ディプトリー・ジュニア
98.「幾千の夜を越えて」 神月摩由璃
100.「アルジャーノンに花束を」 ダニエル・キイス
http://anond.hatelabo.jp/20090326205141
彼は科学と疑似科学の境界を「反証可能性」に求めた。ある理論が科学であると認められるためには、それが「反証可能」でなければならない、すなわち、
2:かつそれを現実世界の経験と照らし合わせて検証することができなければならない。
ポパーは疑似科学の例としてフロイトの精神分析論を好んで取り上げた。例えば、ある男が子供を川に殺意を持って突き落とそうとしており、もう一人の男はその身に代えても子供を助けようとしているとする。フロイト論者は、この二人の行動を、同じくらい簡単に説明することができる。一人は抑圧されており、もう一人は昇華を遂げたのだ、と。フロイト論者は、どんな行動に対しても、それに対する説明を編み出すことができるわけだ。ポパーはこれはおかしいのではないかと考えた。何でも説明できてしまう理論は、むしろ理論と呼ぶに値しないのではないかと。
気象理論もこれに似たところがある。どんな天気でも、その原因は気圧変動で説明できるとされる。昨日雨が降ったのは、日射により大気が膨張し、上昇気流が起きたからだ、という。気象理論はどんな天気に対しても、理由を探し出して気象理論的な説明を編み出すことができる。
フロイトの理論と気象理論が違うのは、気象理論は理由を気象理論の外に求める点だ。気象理論は自己完結した理論ではない。「日射により大気が膨張し、上昇気流が起きるから」であるという主張は、気象理論それ自体からは導き出せない。その主張を入れ替えれば、気象理論はどんな天気にも適用することができる(もちろん主張それ自体がある程度の説得力を持っている必要はあるだろうけれど)。
気象理論は反証可能性を持つのだろうか?そもそも自己完結していない気象理論を科学理論と呼んでよいのだろうか?それとも単に僕の中での言葉の定義がおかしいのだろうか?
メカニズムについての理論と、個々の事象への対応を混乱するとこうなるのかな。天気予報が外れたからといって、気象理論のモデルが否定されるわけではないというところを、もうちょっと考えてみたらいいかもね。
http://members.jcom.home.ne.jp/natrom/index.html
A.例えば先カンブリア紀の地層から大量の石器が発見されれば進化論に対する強力な反証になります。進化論が科学ではないと思いたいために「進化論は反証不可能である」と主張する創造論者もいますが、原理的に反証不可能であることと、反証の証拠が見つからないことを混同すべきではありません。進化論は原理的に反証可能ですが、現在のところ反証されていません。[2000.4.11]
元増田です。
キリンの首が長いのは、高い位置にある木の葉を食べるのに、首が長い方が有利だからだ
に加え、もともと首の短いキリンもいた→それらは高い位置にある木の葉を食べることができなかった→そのため飢えて絶滅した、という淘汰の過程がある。
実はそこは承知しているけれども、それは本論なのではないのであえて書かなかった、というかむしろそこを突っ込んで欲しかった。
例えば、首の短いキリンが絶滅した時期に、ウシも住んでて、絶滅を免れた、とかが発見されたりすると、高い位置の葉っぱのために首が伸びた説は危うくなるんじゃないか。
この話は、あくまで進化論の枠内において、「キリンの首が長いのは高い位置にある木の葉を食べるのに首が長いほうが有利だからだ論」の反証にはなりうる。けれど、進化論そのものの反証にはならないわけで。
進化論それ自体を反証する方法は存在するのだろうか、というのが疑問。
そもそも進化論は何か生物がいた時にその形質を説明することはできるけれども、何かを厳密に予測することはできない。予測ができないならば反証もできないから、進化論はポパーの言う意味で疑似科学になってしまうわけで。
予測と違っていても修正できる、という話がでるだろうけれど、それを言い出すと、進化論は先に書いたフロイトの理論(anond:20090326205141)とどの点で違うと言えるんだろう?
彼は科学と疑似科学の境界を「反証可能性」に求めた。ある理論が科学であると認められるためには、それが「反証可能」でなければならない、すなわち、
2:かつそれを現実世界の経験と照らし合わせて検証することができなければならない。
ポパーは疑似科学の例としてフロイトの精神分析論を好んで取り上げた。例えば、ある男が子供を川に殺意を持って突き落とそうとしており、もう一人の男はその身に代えても子供を助けようとしているとする。フロイト論者は、この二人の行動を、同じくらい簡単に説明することができる。一人は抑圧されており、もう一人は昇華を遂げたのだ、と。フロイト論者は、どんな行動に対しても、それに対する説明を編み出すことができるわけだ。ポパーはこれはおかしいのではないかと考えた。何でも説明できてしまう理論は、むしろ理論と呼ぶに値しないのではないかと。
進化論もこれに似たところがある。どんな生物でも、その形質は進化論で説明できるとされる。キリンの首が長いのは、高い位置にある木の葉を食べるのに、首が長い方が有利だからだ、という。進化論者はどんな生物に対しても、理由を探し出して進化論的な説明を編み出すことができる。
フロイトの理論と進化論が違うのは、進化論は理由を進化論の外に求める点だ。進化論は自己完結した理論ではない。「高い位置にある木の葉を食べるのに、首が長い方が有利」であるという主張は、進化論それ自体からは導き出せない。その主張を入れ替えれば、進化論はどんな生物にも適用することができる(もちろん主張それ自体がある程度の説得力を持っている必要はあるだろうけれど)。
進化論は反証可能性を持つのだろうか?そもそも自己完結していない進化論を科学理論と呼んでよいのだろうか?それとも単に僕の中での言葉の定義がおかしいのだろうか?
伊勢田 哲治 (著
入門書としても読めると同時に専門書としても一定のレベルを保っています。今まで提案された科学哲学のテーゼをとりあげ、これを実際に存在する疑似科学と科学の判定に有効か否かということで検証する、といった議論の進め方で話が進んでいきます。著者が言うように、可能な限り専門知識なしに読めるように工夫されています。
またこうした入門書としての気配りがあると同時に、専門書として一定のレベルを保っています。私はこの手の本を何冊か読んだのですが、ポパーとクーンの関係が今ひとつすっきりと理解できませんでした。しかし、この本のおかげでこの2者の長所・短所がずいぶんとすっきり理解できました。
筆者の本書における最終的な提案は,ベイズ主義に基づいて,線を引かずに線引き問題を解決するということなのだが,そこにいたる議論の過程こそ楽しむべし.エキサイティングです.
科学と疑似科学の間が単純な基準では線引きできないとなると,疑似科学と科学の間にグレーゾーンが残るわけだが,かといって,明確に科学的な分野や明確に非科学的な分野が存在する可能性は排除できず,様々な観点から見て,占星術や超能力研究を科学と呼ぶわけにはいかないことは,本書を読めば理解できると思います.科学する人も,占星術などの疑似科学が科学であるとナイーブに信じちゃう人にも,お薦めの1冊です.
_人人人人人人人人人人人人人人_
> な なんだってー!! <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^
本当だ。消えないうちにグーグルキャッシュからサルベージしておこう。
パスカル『パンセ』
ライプニッツ『単子論』
ジェイムズ『宗教経験の諸相』
レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』
ブーバー『我と汝・対話』
ライル『心の概念』
デュルケム『自殺論』
キャンベル『千の顔をもつ英雄』
ポランニー『大転換』
オルテガ『大衆の反逆』
オング『声の文化と文字の文化』
ポパー『推測と反駁』
フロム『自由からの逃走』
デリダ『グラマトロジーについて』
ペンフィールド『脳と心の正体』
ソンタグ『反解釈』
フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』
ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』
イーグルトン『文学とは何か』
ガダマー『真理と方法』
ダマシオ『生存する脳』
クワイン『ことばと対象』
マッキンタイア『美徳なき時代』
ツリー内主要エントリ
数学や統計学は科学なのだろうか?科学とは世間一般では実験によって検証可能なものだとされる。何が科学かと言うのはそれ自体が難しい話だ。一般的定義と異なり、ポパーなどは反証可能性があるものとして科学を定義していたりする。そうした話は面倒なので、ここでは一般的な定義を使うことにする。では一般的定義を前提とした場合、数学や統計学は科学なのだろうか?数学や統計学は実験によって検証可能ではない。例えば中間値の定理やワイエルシュトラスの定理は実験によって検証できない。その意味では単なる仮説、推論に過ぎない。従って科学ではないだろう、といったら数学科の人にフルブッコされそう(´・ω・`)
と書いていたら、ちょうどおもしろいものがあった。
http://anond.hatelabo.jp/20071201140219
そういうのもあるのか。
ポパー哲学の元ネタはカント哲学なんで、『純粋理性批判』を読んでない身で釣られるのはまずいんだが
ざっくり言うと
という感じ。世界2は時系列生データの世界で、クロックもスケールもセンサーや測定装置(心)のスペックに依存した形でしか意味を持たない(ただ適応制御するだけなら単位系は要らない)。世界3というのはSI単位系とかそういう数学的形式の世界なので普遍性・客観性があるわけ。まあこれ以上言うと(いわゆる「心の哲学」)ぼろが出そうなんで『科学的発見の論理』まじめに読むことにしますよ(正直長くて厚いわりに文章が面白くなかったような印象がある)。
あとポパーがこういうことを言った背景ってのは、「論理分析でトンデモ非科学を殲滅できる」という、世界3に寄りかかりすぎた新手の哲学が当時流行っていて、それに対する反論だったのです。彼ら「論理実証主義者」ってのは哲学的にはロジカルでポジティブな人たちだったので(だから logical positivism)、実験手順とかをきちんと論理的に記述すれば実験の再現ができるし、それでもって普遍性は確保できると思っていた。間違えちゃいけないのは彼らは(ポパーにしてみれば)世界3に寄りかかりすぎていたことに自覚がなくて、むしろ俺たちは直接世界1に触れているんだと考えていたので、「唯脳論」者とは対極にある人々だったことです。
岩井克人の放言を真に受けるのは正直どうかと思うけど、たしかに経歴を見る限り理系、それも数学プロパーだよね > Edmund Husserl
この頃のドイツ語圏で理系が哲学をやるのは、カントが科学哲学の権威として確立してたからでしょ(ポパーはそういう「理系のカント哲学」の劣化版だと思ってる)。『純粋理性批判』‥はムリかもしんないけど『プロレゴメナ』とかは普通に読ませるんだろうね。手本としちゃ悪くないが、若いうちにプラトンの対話篇をドイツ語訳ででも読んでおけばなおいいのだろうけど、文系(それこそ、フッサールの弟子のハイデガーみたく、俺ってギリシャ語できるんだぜとばかりギリシャ文字を並べる、正直うぜぇ)からそれは邪道だといわれちゃうから一切やらせてもらえない。
もうね、元人文学徒としちゃ「歴史学は追試ができないから科学ぢゃない」とか飽きてるわけですよ。
素朴ポパー儲かよ。アホくせえ。クーンとかファイヤアーベントとか嫁。
もしくはd:id:leeswijzerの『系統樹思考の世界』(ISBN:4061498495)嫁。安いから。
それすら買えない貧乏人にして独善主義者ならd:id:leeswijzerのコメント欄で「歴史学は反証がー」とか言ってこい。な?
ヒント: