はてなキーワード: ベレー帽とは
・一言でいうと男女混合シェアハウスのゴタゴタ話でそりゃそうなるでしょうよ意外の感想が無いが「人間関係、めんどくさがらずやれ!!」のメッセージ自体は「仰る通りでございます…!」なのでそんなにマイナスの感情は抱かなかった
・予告を作った会社さん、有能や…ってなった
予告に「男女混合シェアハウスものです」と提示されてたら見に行ってなかった
あとYOASOBIが強すぎる
・シェアハウス惚れた腫れたのくだり、「一昔前のテレビによくありそうだなー」と思って見てたらプロデューサーさん名前で「oh…」ってなったげんき!
・ふれるの中ナリィ…ターンもそういや天気の子とかすずめの戸締まりっぽかったもんな…心象風景感
胃袋ターンは「俺は何を見せられているんだ」ってなった
・片方の女子は呼び捨てでもう片方の女子はちゃん付け、そういうとこに男女混合グループの機微を感じました
・異性の知人で「親しいね」って言われて「あいつはきょうだいみたいなもん!」これも人間関係のえぐみ感じましたね これアニメだから見れたけど実写だったらウヘる…
・人間関係って基本的に楽しい美しい事もあるがエグみクサみを伴うものだと思ってて、その汚さから逃げるためにアニメ見てるとこあるので「アニメで人間関係のえぐみクサみやりおるか〜ン〜」ってなった ただし内向的人間が集まり相互作用なしで凪のように物語が終る作品よりはドロドロしてるが見応えはあるな…ともなった
・大人し目ちゃんはビッチではないが女性の生きにくさみ少し感じた ああいう服(ボブ?・キャミワンピ・ベレー帽・服の色茶色とか暗めの朱色)の押しに弱くて優しさからハッキリNOと言うのが苦手で相手の脳内だけで独り相撲させちゃう女子、ウヌゥ…大変そうなのだ…ってなった
最後に「顔と身長!」ニコッって言い切れる強かさが備わっていてほんまよかった〜!ってなった
・女子2人の最後の病室ターン、あれは絶対にじゅりちゃんが大人し目ちゃんのことが好きなのが糸で伝わっちゃって…?!的な感じかと思ってたので普通に違くて「クゥ〜ン」ってなった
・1番笑ったのはふれると和解して街を覆っていた糸が解ける感動シーンでストーカーに肩ポン→ポリスの流れ あそこギャグのキレが違った
・ふれるがわざと不気味に見える演出、鳥肌たった お、お前よく見たら目ん玉が砂嵐やんけ…怖… そういや映画1番最初の暗闇にふれるの目玉だけがキョロッとするのもちょっと怖かったもんな〜〜〜〜ってなった
・ショタ時代〜上京までが長いとダルいな〜と思ってたら君の名は方式で秒でテンポよく終わらせてくれて助かった あそこでメガネ君が女子に海辺で袖にされてるところで「ン?」ってなってシェアハウスのゴタゴタがあり
・バーのウザ絡み客、ツル確やったんか!
・マスターの器でっけえ
・不動産屋くんの先輩、押し付けがましくない気遣い いい人やな…(昼休憩とってこいのくだり)
不動産屋くんが1番「強く」ない?と思ったけど仕事で怒られるシーンが数回挟まれてて「まだ仕事に慣れてないだけなのか「仕事ができない」人種なのか…どっちだ…?」ってなった
でもじゅりちゃんをシレッと水面下でものにできる要領の良さがあるので多分慣れてないだけで慣れたら普通にしごできマンになりそう
・まかない大好きおじ、声が強すぎる
主役三人の声が「アラ〜初々しいわねェ〜」なのにいきなり歴戦のアニメ声戦士が俺をアニメの世界へ誘ってくれる…
・結局静岡に行く感じなのか?
あのくだりはご都合すぎじゃろ!と思ったけどまあ主人公くんの料理の才能ならいつかどこかで発掘自体はされそうなのでそのタイミングだっただけということでヨシ!
「コラ〜ッ!ふれる!職場に付いてきちゃダメだって言っただろ〜ッ?!」あると思います あるね
・最後の3人で手を合わせる→ハッパ入れのパァン!は目茶苦茶よかった めんどくても他人とぶつかっても意思疎通して生きて行くんじゃい!!を序盤のネガティブノイキャンふれると対比して「物語を通して変化した」感を感じさせてくれて目茶苦茶よかった
マリーアントワネットの首が歌うシーンが興味深かったから、意図をしりたくて、いろいろ読んだ。
具体的に言及はされていなかったから、はっきりとはわからなかったが、インタビューはどれも面白かった。
id:hazlittさんが教えてくれた、ラジオ番組からいろいろ読み始めた。
増田はフランス語は多少わかるが、わからないところは、DeepL先生に頼っているため、正確性は保証できない。
ホスト:昨日私たちは、コンシェルジュリーにおいて、革命の中、斬首されたマリーアントワネットがゴジラ(というパンクバンド)とマリナ・ヴィオッティと歌うというシーンを見ました。このシークエンスは、いったいどのような意図で書かれたのですか、ダミアン。
ダミアン・ガブリアック(監督):まず私は一人で書いたのではありません。すべてみんな(4人の中心人物)で書きました。そして理由は極めてシンプルです。私たちは、選手が進むルートに沿ってシークエンスを進めていくことにしていました。そして、ここではコンシェルジュリーです。マリー・アントワネットが斬首の前に幽閉されていた場所です。我々は自分たちに、これについては言及せざるを得ない、と言い聞かせました。ここで起きた歴史的なイベントは世界中が知っています。私たちはそこにエネルギッシュであることを求めました。だからゴジラです。そして、斬首されたマリーアントワネット、その両方。私たちは顔を突き合わせ、私たちが価値を見出していた(後述する)ロンドンのエリザベス女王とジェームスボンドを改めて思い起こしました。これだ、これだ、と。
パトリック・ブシュロン:そうですね、まず私たちがやった、みたものは、完全に、楽しく、集合的であったと考えています。そしてそれは全く同じく、議論するつもりがないことです、正確に。議論するつもりはないのです。私たちが見たものはまさに、さきほど述べられた通り、似ているのです。この多様性の物語、これが私たちのあり方だと、私たちが、大胆に主張している、複雑さと。それらは、あの歴史的なモニュメント(コンシェルジェリー)と、その美しさ、威圧的であることを望まない美しさ、私たちを勇気づける過去と一緒に示されました。私たちは誇りを回復しました、国家はアイデンティティではなく、あくまで政治的プロジェクトなのだ、という誇りを回復しました。私はそれらを若者に見せることができてとてもうれしいです。私の娘もコースでそれを見ました。あの悲痛なものを見たのです。それこそが全てです。シンプルです。私たちは、わずか数分の間にバスティーユを奪還したのです。
(中略)
ホスト:ダミアン、実際にこのセレモニーは、世代間的でもありましたね、だれにとっても自分事であるような感覚、ミュージカルレベルでもそうですし、サウンドトラックはすばらしかった。ダリダもあったし、クラシックもあった。とてもエモーショナルでした。とても美しかった。そして、話を変えるが、橋の上でのクィアたちとの最後の晩餐。かれらと一緒に生きているというシーンでしたね?ダミアン。
ダミアン:その通り。クィアはいた。でも付け加えるなら、フランスのすべてがあった。背が高い、低い、太っている、痩せている、黒人、白人、アラブ人、みんな違う衣装で、同じプレイリストを踊ったんだ。グアドループ(カリブ海)の音楽、オーヴェルニュの音楽、ヨーロッパの音楽を、同じ時にね。
トーマス・ジョリー監督に選ばれたパトリック・ブシュロンは、このセレモニーに寄せられる期待や懸念さえも承知の上で、「私たちに似た」物語を望むと改めて表明した。 「私たちはバカバカしいことや傲慢にならないように努めます。それをやったら、とんでもなく長い道のりになってしまうよ」と冗談を言う。
(中略)
「最初のシーンには、『エミリーパリへ行く』シリーズを観たアメリカ人などが期待する、パリで見られるものをすべて詰め込みました。きっと反応は「ありきたりなだな」だろうけど、それは違う。少し忍耐が必要です。所要時間は 3 時間 45 分です。紆余曲折があるでしょう。次に、これらのイメージは正反対の方向に進み、スノードームが転がるように、私たちはエッフェル塔(私たちが期待しているもの)を目にするでしょう 。私たちはすべてを揺るがすでしょう。違うものが出てきますよ。 」
(中略)
共同執筆者たちは、過去の開会セレモニーを研究しました。そして、アテネの謙虚さと、ロンドンの自虐性を継承することとし、北京の誇張されたナショナリズムを拒否することにしたのです。
「ディベートの仕方を知っている国に生きることはとても大きなアドバンテージです。おそらく、(この国に暮らす)外国人たちが我々にもたらしている、楽しい面のカオス、それには多くの憤りと尊敬が同居していますが、私たちはそれを見せなければならないのです。」
開会セレモニーの原点は、セーヌ川の流れとともに進む、という点である。
「私たちが見せる、このゆっくりとした流れるイメージ、この空想上のパレードは、パリが示すべき力の中にあります。このステージは軍隊のデモンストレーションパレードではないのです。フランスはもはやー私は全く望んでいませんがー世界に対して、我々の歴史について講釈を垂れるような立場ではないのです。私たちは、持っているもの、信じているものでやるしかないのです。我々が込めたメッセージはシンプルです。言葉で、あるいは映像で、伝わればうれしいですが、そうです、それは、”すべてがある、それでも私たちは一緒に生きていける”ということです。」
パリの歴史から離れて、歴史家は、パリジャンの通勤のあり方についても、言葉を用いずに示すつもりだといいます。
「英雄的物語の反対にあるもの」を語る、というこの歴史家が大量のインクを費やしてきたフレーズにおいて、彼は、その立場を明らかにした。「私たちはしゃべりすぎです』と彼は笑う。宣言も挑発もない。オリンピックゲームは、包括性、平等性、多様性という価値観に基づいています。セレモニーはそうでなければならない。私は歴史家だから、ナポレオンの話をしなければならないなら、どうすればいいか知っているし、そうするつもりです!しかし、それだけではありません。絵画(Tableau)ではより完全なものになります。私たちは何も削除していないのです。追加しているんです。セレモニーは軍事パレードではないが、謙虚でないのに謙虚なふりをするつもりはない。その一方で、私たちは互いの違いに連帯感を示すことができる。誰もが楽しめるものになるでしょう。」
少し考えた後、彼はこう付け加えた。
「私に、世界(の見たくないもの)に対して目をつむることを期待しないでください。パリに世界を迎えるのであれば、ありのままの世界、ドラマなども含めて歓迎します。オリンピックは原義的に政治的なものですから、政治的なものを排除するということはありえません。しかし世界の最も公正な感覚の中にあってほしいとのぞみます。」
彼は微笑みながら、「こんなに複雑なものに参加することになるとは思ってもみなかった」と話した。
(増田はルモンドやリベラシオンに課金はしていないので、まとめ記事が助かった)
(略)
ジョリーと4人の作家が2022年末に共同の冒険を始めたとき、ルートはすでに決められていました。
東のアウステルリッツ駅から始まり、ノートルダム大聖堂、マリー・アントワネットが投獄されたコンシェルジュリー、ルーブル美術館、 ガラスのドームが特徴のグラン・パレなど中世の遺跡を通り過ぎ、エッフェル塔のふもとで終わります。
「私たちはダウンジャケットを着て、アウステルリッツ橋からエッフェル塔 までボートで川を上下しました」とジョリーはル・モンドに語った。
「私たちはパリの歴史の一部であるあらゆるものを見ました。通り、記念碑、広場、彫像。文学的な書簡、映画、ミュージカルも調べました。」
彼らは何度もブレインストーミングした後、約9か月間秘密裏に執筆を続けた。
フランスのカルト映画「アメリ」やアメリカのネットフリックスシリーズ「エミリーパリへ行く」の夢のようなパリに引き込まれることを警戒し、 彼らは「常套句やアメリカ流のフランス解釈についても、茶化さずに扱わなければならない」とわかっていたとジョリーは語った。
彼らはショーを12の絵画(セーヌ川沿い、セーヌ川の上、さらにはセーヌ川から出る)に分割し、約90隻の船に乗ったアスリートのパレードと掛け合わせた。
3,000人を超えるダンサーや俳優が岸壁や橋の上でパフォーマンスを披露し、それぞれの絵画は、パリのシンボルと、過去と現在の両方について呼び起こすものを描いており、世界をパリの歴史と建築の旅へと誘う。
例えば、ノートルダム大聖堂は、ゴシック様式の記念碑であり、19世紀の作家ヴィクトル・ユゴーとのつながりであると同時に、猛烈な地獄でもあるなど、人によってさまざまな意味を持っています。
「世界が最後にテレビでノートルダム大聖堂を見たのは、火災のときでした」とブシュロン氏は言う。「誇りと壮大さの物語だけではなく、感動の、再建の物語でもあるのです。私たちが演じたかったのは、どんな困難にも負けずに共に生きていこうとする粘り強く創造的な意志の物語です。」
自らを「現代を愛する歴史家」と称するブシュロン氏は、式典はできるだけ多くの人々に語りかけるものでなければならなかったと語る。
「パーティーを開いてお気に入りのプレイリストをかけるのとは違います。世界からフランスへ、そしてフランスから世界へ語りかけるものでなければなりません。私たちはただ、人々が共感できるように、当時の状況を描写しようとしただけです。」
(略)
エマニュエル・マクロン大統領は、セレモニーでは1789年のフランス革命から1948年の世界人権宣言まで、「解放と自由の偉大な物語」を提供すると述べた。
セレモニーの詳細は秘密のベールに包まれているが、フランスの価値観が何らかの形で讃えられると推測されている。フランス系モロッコ人の小説家であるレイラ・スリマニは、パリが集合的であろうとする努力に価値を置いていることーそして力を合わせることで考えられないようなものを生み出せるーを高く評価している、とル・モンド紙に語っている。
4人の作家は、自分たちの物語に寛大な精神を持たせたかったという。
「喜び、模倣、動き、興奮、輝きがなければならない。フランスが時に自信過剰に見せたがる伝統的、哲学的、価値観だけでなくね。」
(略)
一方、昨年9月にパリで開催されたラグビーワールドカップの開会式は、「反例となった」とブシュロンは言う。
『アーティスト』のオスカー俳優ジャン・デュジャルダンが、ベレー帽にバゲットという出立ちで、1950年代のフランスの村々を再現した模型を自転車で巡り、ミルク絞りの女性やダンサーに手を振るというこのショーは、多くの批評家から、時代遅れの陳腐なフランス表現だと非難された。そして、非常に内向きなフランスだった。
「ただの古臭い過去のイメージや、現在の単純な賞賛ではないものでなければならない。歴史は揺らいでいるもので、国家はアイデンティティではなく、政治的プロジェクトであることを忘れてはならない。だから未来を語るのです。だから、私たちはセーヌ川を大旅行し、みんなを巻き込もうとしています。」
ブシュロンは、最も感動的なショーとして、ジャン=ポール・グードによる壮大な舞台美術を伴った、1989年のフランス革命200周年記念式典を挙げている。
当時20歳だったブシュロンは、それを見て歴史家になろうと決意した。
「それは歴史を痛感した瞬間でした。1989年、ソ連、中国(天安門広場の抗議活動)など、世界では多くの出来事が起こっていました。当時、私たちは多文化フランスと呼ばれていたものの価値を声高に明確に宣言することができました。それはより困難になり、ある種の幻滅感もありますが、私たちは怯んではなりません。」
数週間前、フランスでは議会選挙後に極右政党「国民連合」が政権を握るかもしれないという懸念が真剣にあった。その場合、ショーは「ある種の抵抗のセレモニーに変貌していただろう」とジョリー氏は語った。
結局、マリーヌ・ル・ペン氏の党は好成績を収めたが、セレモニーの書き直しを必要とするほどではなかった。
「私たちは、切実に、いたるところで起こっている暴力から離れて、平和の瞬間、止められた瞬間を共有することを必要としています」とスリマニは言った。
「私は本当に、7月26日にみんなが流れに身を任せてくれることを願っています。私たちの中の子供の部分、発見する楽しみを思い出してほしいです。今では本当に珍しいものになってしまいました」
と思っていたけど、セーヌ川、コンシェルジュリーが先にあることがわかった。ルイ16世でない理由もそこにある。またマリーがサン・キュロット版のア・サ・イラをうたい上げた後に上がった数多くの血しぶきは、その後のコンシェルジュリーで数多く処刑された人々のものであろうとも思う。なぜなら、マリーはすでに断頭済みだから。そして、ガブリアック氏、ブシュロン氏のコメントから、別に完全に誇っているわけでもないこともわかりました。やるしかねぇな、と言っているのですから。またブシェロン氏はdéchirer(悲痛な、引き裂かれる痛み)という言葉を使って、あそこで起きたことを示しており、歴史家である彼は当然革命期のその後の悲劇を知っているわけですから。それでもなお、彼は「バスティーユを奪還した」といい、国家は終わるもので、政治的プロジェクトに過ぎないのだ、ということを「誇って」いるという点が印象的でした。右派が怒ることなども承知の上でしょう、なにしろ、「ディベートの仕方を知っている国に生きている」のですからね。
開会式全体に込められたメッセージから判断すると、別にキリスト教を揶揄はしていないんでしょうね。挑発はしているかもしれませんが。クィアは存在する(キリスト教がないものとみなしている)ということを目ぇ開いてしっかり見ろ、ということが言いたいのでしょうから。真正面からね。
要は、暴力やクィアなど、みたくない、特にオリンピックにおいて、というものも当然パリは包摂してるぜ、外国人問題とかもカオスだけど、でもちゃんと一緒に生きてるんだぜっていうメッセージと受け取ったね。論争が起きるのとか、まさに狙い通りでしかないんじゃないですかね。
俺は漫画が好きで、毎月発売される新刊を楽天コミックカレンダーでチェックし、アフタヌーンのものはなぜか反映が遅い?ので直接公式サイトまで行って確認し、月末本屋へ行きまとめて買う、ということを生活の楽しみにしている。
発売日に買いに行かないので時折ものによっては売り切れていることがある。幸いいつも行く本屋の他にも近くに数軒本屋があるのでそこを巡って探す。そこを巡ってもない、というときは最後の手段としてアニメイトに行く。これまた幸い、アニメイトも近くにある。
俺はアニメイトがあまり得意ではない。キャピキャピした感じがどうも落ち着かない。漫画やアニメは好きだがグッズの類を買うほうではなく、それに漫画以外の書籍も好きなので自然と本屋に足が向く。しかし本屋にない漫画がアニメイトにはある、ということが結構あるのでそれなりに利用する。ただ逆にアニメイトにない漫画が本屋にはある、ということもままある。
先月末、数カ月ぶりにアニメイトへ行った。目当ての漫画を見つけて安堵し、レジへ並ぶ。前に二、三人客が並んでいる。
ぼうっと前にいる男性客の黒髪の中に入った赤とオレンジの中間のような色のメッシュ?を見る。大学生くらいだろうか。バンドでもやっているのだろうか。派手な髪をしているとすぐバンドと結びつけるのは浅はかだな。ではなんだろう。…………ネイルアーティスト……いやわからん。
などと考えながらふと隣の棚を見るとストッカーから上5段目あたりにカードキャプターさくらの主人公さくらの絵の描かれた、ハガキ大の大きさのプラスチックの板が5種類ほど並んでいる。
良い。
これはなんだ。大きな白いベレー帽をかぶったさくら、いやさくらちゃんや、不思議の国のアリスをイメージさせる水色を基調としたトランプの柄の入った衣装を着たさくらちゃんなど、CLAMP筆なのだろう、水彩?で塗られて描かれている。描き下ろしなのだろうか。雑誌のカラーページか何かで使われたものなのだろうか。
良い。
目を奪われる。手にとって見る。裏返す。アクリルスタンドと書いてある。アクリルスタンド、というものの名前は聞いたことがあったが実物を初めて見た。なるほど台座のようなものが付属されている。ここに立てるのだろう。
良い……
ただ俺はカードキャプターさくらの情報だけは昔、暇なときにウィキペディアで見てなんとなしに知ってはいるが、ちゃんと視聴ないし拝読したことはない。しかしそんな俺でも目が離せなくなるほどここに並んだアクリルスタンドに描かれたさくらちゃんは素晴らしい。なるほど2ちゃんねるに専用の板ができるのは伊達ではない。知世ちゃんに毎話毎話着せ替えさせられるのも伊達ではない。
客の列が前に進んでも後方にあるアクリルスタンドを眺めてしまう。
良い…………
買おうかどうか迷っているうちに列がまた進み、会計が進み、店を出る。
今月末は約一年ぶりにブルージャイアントの新刊が新章と2冊同時に出る。今月は他にもアリスと蔵六や放課後ひみつクラブ、エノモトのザ・キンクスも楽しみだ。
それとあのアクリルスタンド。日が経つごとに恋しくなる。あれを手に入れるために今月はアニメイトに行く。
ブコメ諸氏情報ありがとうたまたま今日休みだからすぐ行ってくる
追追記
無事手に入れることができた。ブコメトラバ諸氏情報ありがとう。重ねて御礼申し上げる。まさかそんなに足のはやいものとは知らなかった。
全6種あったものから気に入ったもの4つ選んで買ってきた。全部いってしまっても良かったんだが、そこまで気に入ってないものを買ってもな、というのでそうした。
これをどこにどう飾ろうか、という楽しみが今生じている。
じゃあ著作権侵害で訴えてみてよ
依拠性は単に元にしただけでは成立しない
ドラゴンボールは明らかに西遊記を元にしているけど、仮に西遊記に著作権が現存していたとしてもおそらく侵害にはならない
類似性も本質的特徴を真似ている必要がある、スマホなんて誰でも持ってるしベレー帽も普通に売ってる、振り向いてる絵も山のようにある
https://www.macocca.co.jp/view/item/000000001038 にスマホ持たせただけとも言える
例えばスマホの画面に❌AIと書いてあったら明らかにダメでしょう(元絵の本質に見える)
あるいは左手にAIを想起させるアイテムを持たせてこちらに向けてたら微妙になる、表情も舌を出していたらやばかったかも
元絵からパクってると感じるのはベレー帽のワッペン2個とヘアピンくらい、これも認められるかは裁判してみないとわからない
ポジティヴシンキングすぎてポジティヴ大会優勝!というかそう言う大会に出場するよりも大会自体を開催してしまう、
あのさー
私やらかしちゃって、
さすがに温かい晩ご飯食べて寝て起きてうんこして朝ご飯食べたら元気になるかなって思ってたけど、
この凹みが沁みるわーって
「なになにみ」ってのがあるじゃない。
「昭和み」とか「分かりみ」だとか「さしみ」の「うまみ」だとかそう言ったまるまるみって言葉なぐらい
この凹みが凄かったわ。
朝起きてもなんかそのクレーム解決部隊を投入しなくてはいけないという
結果はもう解決してから良かったから肩の荷が12トンぐらいおりたからよかったわ。
送り状番号のよくみんなも荷物がどこに届いてるかって調べるときに入力する1万桁ぐらいの数字があるじゃない。
それを私控え忘れて消してしまったのよ。
お荷物自体は正しい住所が記載されて無事に配達はされるんだけど、
ウエブ上では荷物は無いことになってるのよ。
だから困ったなーって
私はグリーンベレー帽を被りながら緑のたぬきを食べていたことが一番の原因であり片手で余裕でお箸で麺をすすっていたのが一番の原因でもあり敗因でもあり
そう言うことだったのよ。
まあよく何を行ってるか分からないと思うけど、
凄い自信だったわけ。
でもちゃんと無事解決してよかったわと撫でる肩を降ろすところよ。
ウエブ上では追跡できずに
一応はちゃんと到着することを温かく親やぎが産まれた子ヤギが立ち上がるのを優しく見守るような眼差しで見届けることが出来たけど、
この凹み具合がもうとんでもない感じで
もうレジ袋どうのこうのっていうあんな小さいことに3円とか5円とか出した方が、
生肉のジュースがこぼれてエコバッグの中がジューシーな日にちが経ったらなんとも言えないスメルになるぐらい困るから、
実際にはもうレジ袋買った方がいいのよね。
もうそれはゴミ箱にかぶせるゴミ袋かに変身させることが出来るじゃない。
なになにみ、って言葉の発端だったわけで、
あー今日はツイていない1日だなーって今日は終わっちゃうのかと思ったけど、
案外早急に投入した緑のたぬきをすすりながら事件現場に突入するグリーンベレー帽の隊員を派遣してよかったわ。
久しくそういうのを食べてないと
うわ!これ意外とイケるじゃん!って
麺が日々美味しくなってるのよね。
改めてそう思ったわ。
もう自戒としては端末操作するときには緑のたぬきを食べながらしないってことを強く決めて守らなければ!って思った矢先で
藤井風さん風に言うと、
そんなこともうどうでもえーえーよって言いたいぐらいだったわ。
とりあえず
解決してよかったわ。
と言っても違うお店のモノなのでなんか塩気が多いくて塩っぱいかな?って思うけど
一緒にミルクヒーコーをあわせて飲むと
美味しいわね。
私も気兼ねなくおのののかの出産祝いに便乗するかのようにあたたたかいボタンを押すことが出来るのよね。
まだルイボスティーのパックが残っていたので
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
今日、あさイチみてたら「推しアーティスト特集」ってのやってた。
ゆずを25年以上追い掛けてる40代女性とか、聖飢魔IIがきっかけで結婚しましたっていう夫婦とか出てた。
そしたらいきなり妻が「〇〇の推しアーティストは誰?」って聞いてきた。
真っ先にアニエスベーのボーダーにベレー帽を被ったクソガキ二人組が浮かんだんだけど、口に出せなくて少し固まった。
その後その状況がおかしくてしばらく笑ってた。
それこそ当時のメンタリティのままなら、名前を出したあとに今の状況を自虐的に露悪的に語ってたのかもしれない。
青春はとうに過ぎ去ってるけど、あの頃のあれやこれやがあって今の自分が形成されてるのは間違いなくて、
でも否定されたところで別に今の自分がどうなるわけでもないんだけど…いい年だし…
ただまぁなんというか、さみしい。
みんニャどうしてるの?
先日密林で買ったマスクは、日本の繊維メーカーと開発してるやつで
でも自称小顔の女性が、SSにしたけどベストはS、ってかいてて。
ネコチャン小顔じゃないんでむしろ顔はともかく頭は大きめなので
(私立の幼稚園に通った時にベレー帽が一番大きいのにしたくらい。)
気になって上から重ねて付けたピッタマスクグレーを重ねてみてみたら
ピッタより、大きいんだよ。
口を中心に顎まで伸びるぶぶんが左右12㎜くらいピッタより大きいの。
どういうことかと言うと、Sのマスクにピッタを重ねたら隠れるかなって
考えるじゃない?
ところが隠れないの。
うーんSなのに。レギュラーで覆えないのニャ。
もうマスクの大きさは伸縮性もあるし、自己申告に過ぎないという感じニャね。
😺
高校に通っていたのはもう20年近く前のことだが、当時、自分の通っていた学校では「男子の側頭部の髪は耳にかからない程度の長さ」と校則で決まっていたので、ツーブロックはありだった。モヒカンもセーフだったと思う。でもロン毛はだめだった。
校長はベレー帽のような形状のヅラをいつも頭頂部に載せていたので、そのこととロン毛が禁止されていることとの間に何か関係があるのではないか?と我々はしばしば憎まれ口を叩いたものだ。
女子は側頭部の髪が耳にかかってもよいが男子はダメ。男子生徒が地毛を伸ばしてロン毛にするのはダメで、校長が偽の毛を頭頂部に載せるのはアリ。謎は深まるばかりだった。
髪が短いの長いの、好きにさせろやと今でも思う。むしろ子供時代に色々試させたほうが後々のために良かろう。どんな分野でも試行錯誤せずにセンスもマナーも磨けるものではない。髪型だってそうだ。一層のこと、授業の一環で「とにかく無駄に攻撃的な髪型にして1週間過ごしなさい」とか「髪を肩まで伸ばした後に、その髪に自分の好きなアレンジを加えてみなさい。」とか、試行錯誤を促すような課題を学校側が率先して出すくらいのほうが教育的だ。
例えば攻撃的な髪型にする課題を実習すれば、「攻撃的な髪型にすると気分が高揚するな」とか「痴漢されなくなった」とか「コンビニ前でたむろしてる輩に凄まれなくなった」とか「むしろ絡まれるようになった」とか「思いのほか恥ずかしい」とか「セットするのが面倒くさいな」とか、人それぞれ思うことがあるはずだ。最終的に、その髪型を気に入って続ける人もいればやめる人もいるだろうけれど、髪型が人に与える印象や、そのメリットデメリットについて各人の理解が進むことは間違いない。
たいていのことは、一律禁止するのではなく安全策は講じた上で自由にやらせてみるほうがはるかにいい結果を生む。そんなことは歴史や政経の時間に当の学校が生徒に教えているはずなのに、肝心の学校側が実践できていないのだ。
高校生のとき、オシャレな友人がオシャレなマフラーをオシャレな巻き方をして、オシャレなハンチング帽を被って来ていて、自分も真似したくなった。
でも、オシャレするお金がないから親に相談したら、親の持っている地味なマフラーを渡され、帽子はベレー帽を渡された。
鏡を見て、友人スタイルを真似て身につけて、登校すると、友人に大笑いされた。顔から火が出るくらい恥ずかしかった。
それ以来、このスタイルへの憧れを捨てられず、大学生になってからバイト代貯めて、同じようなオシャレなマフラーとハンチング帽を買って、身につけてみた。
最高に似合ってなかった。やっぱり友人がイケメンだけど、自分はブサイクだからかなと気落ちした。
最近妻と服屋で買い物中に、ふと当該のオシャレなことを思い出し、妻に話してみた。
すると、「すごく似合いそうだけど」と言われて、実際に適当に探して身につけてみた。
鏡を見ると、カッコいい自分がいた。
1人はたまに会うので近況もまぁまぁ知ってるが、もう1人は卒業以来。TwitterやInstagramによく投稿しているので、最近の雰囲気は分かっているつもりでいた。が、待ち合わせ場所にちょっと遅刻してきた彼女を見て、2人とも驚いた。
黒地のアニマル柄のニットワンピ(しかも太ってるのにタイトなやつ…)にベレー帽。大根足に黒スト+可哀想なくらい小さなブーティ、爬虫類みたいな黒コンタクトにおてもやんみたいなチーク、という、ものすごくギトギトした格好で現れた。
あまりの変わりっぷりに最初は彼女だと気付かなかった。「ごめ~ん!」と近寄ってきたとき、あまりの衝撃に横目でもう1人の友達を見た。
その子も横目で私を見てて、一瞬、目が合った。ああ、と思った。
3人で適当な半個室居酒屋に入り、たわいもない風を装った近況報告をした。太った友達はスマホが手放せないらしく、料理が来ると撮りまくり、食べてる私達を撮りまくり、人が喋ってるのをそっちのけでビューティプラスで自分の顔をいじっていた。
彼女は大学を出てデザイン事務所で働いていると聞いていたが、結局3ヵ月で辞めて、ずっと服の販売員をしていたらしい。
なんか、のんびりした子だったのに、無理して体育会系に合わせるような、常に汗をかいてるような話し方になってて、あぁ喋り方も変わったなぁと思った。
帰り道、彼女が撮った写真がLINEに連投された。3人で撮った写真の中の彼女は加工が行き届いてて、私達と同じくらいのサイズになっていた。
だから何、て話ではあるが。
デブになると、色々大変だなと思った。
女の帽子はお洒落アイテム、そして似合う人は似合う。それはわかる。本題は男だ。謎ベレー帽 室内でもツバ付き帽子脱がない何処で買ったのよ?と突っ込んでほしい帽子、貧乏臭い麦わら帽子、どれもこれも軽蔑の邪念が湧いてしまって困る。
なるべくリスペクト成分多めに生きていきたいのに、男が帽子かぶってると冴えない感じが多いので軽蔑にまわってしまうモヤモヤ感。だが、まて。そもそも、モヤモヤ感や軽蔑感を発生させる風貌と帽子が悪いんじゃなかろうか?少なくとも、ダサイ帽子をかぶってなければ、内心、冴えない男子一匹発生で完全スルーしておけばいいのに、帽子をコンデンスしてしまったがために軽蔑の情が湧いてくる結果を生じさせたとも言える。私の心の中への業務妨害。
うん。帽子とそれをチョイスする男が悪い。