はてなキーワード: ベクトルとは
平成22年頃の2ちゃんねる大法廷によれば、2ちゃんねらーの意見は次のとおりである。
① 初等幾何の問題は、仮にあったとしても、 ベクトル、複素数、方程式のどれかによって解けるし、未解決問題も存在していない。初等幾何の意義は、小中学生の知能指数の
訓練だけである。未到達の問題に到達するのに際して、 幾何学はする必要がない。
③ 数学の哲学においても、時間に関係しない永遠不変の美は存在していない。 永遠不変の技術美は存在しているが、 結論が時間に寄らず永遠に美しいものがあることは
予見されていない。数学になければ人生にもそういうものはないのではないか?
④ 社会科学系、法律学における美 ・・・ 非常に厳しい。 1分か2分に間に輝くかどうかが見られており、1,2分を過ぎると、社会的には誰も見ていない。
① 2ちゃんねる数学板に対して 2ちゃんねるで最も糞な板・・・
① 解くるわけねえだろ。
まず、ツーオンアイスが打ち切られた。
その頃、ウィッチウォッチでは「ニコが幼稚園のおゆうぎ会に向けて側転をする話」をやっていた。
ウィッチウォッチの方の物語はまあネタバレにならないように言うと、モイちゃんがガッツポーズを決めるシーンを通して俺はスポーツモノの面白さを強く感じていた。
スポーツモノの面白さは、成長や挑戦を祝福されることにあるのだと。
ツーオンアイスはペアの絆は描けてたし、観客から応援や称賛される光景は描いていた。
でも、氷上にいない誰かが成功を祝福する姿を果たして描けていたのかという疑問がある。
祝福なんだ。
仲間たちは称賛はしてくれたけど、それは同じスポーツで凄い結果を出した奴への尊敬であって、目の前に起きた成功を軌跡とさえ捉えて目を輝かせるようなものではなかったのではないか?
氷上にいた二人はお互いを称え合っていたし、シンクロする自分たちに奇跡を感じていただろう。
当事者という壁を超えて伝わる強烈なエネルギーを読者へと届けるにはその表現では足りないんだ。
SLAM DUNKを傑作たらしめる屋台骨とも言われる「今年の山王はいいぞ」おじさんのような存在が足りてないんだ。
見るものに感動を与える何かがあることを読者の元に届けるための中継地点となってくれるキャラクターが必要だったんだよ。
ツーオンアイスは感動を二人の間で閉じ込めることで強いエネルギーを生み出そうという意思があったのかも知れないが、結局それは読者には届かなかったんだ。
近くて遠い場所で、その姿を見守り祝福し、本人たちよりも強い気持ちで、本人たちとは違うベクトルで感動してくれる誰かが必要だったんじゃないのかな?
ツーだけじゃ駄目なんだ。
というか数学が嫌い。
でも算数までは好きだったんだ。
四則演算は得意で、三角関数ぐらいから躓くと高校の数学はずっと赤点。
だから外出先でクルツワイルといった名前を目に入れると苛々するし、セクターをコクセターと空目してビクッとなる。
ベクトルという理論が驚愕的なものであるかどうかの評価は分からないので置くとしても、ベクトルを整備するとかなりの問題を解くことができる。しかし我々はベクトルというものが
どれだけの威力を持っているかまだ正確には教わっていない。道路法における道路が、ベクトルのように驚愕的な技術であるかどうかの評価はまだ分かっていないが、道路法における
道路は普遍的一般的に存在し、その上を自動車等が通過する。自転車が脱輪した場合、我々は自転車店にやってもらうことになるが、前野町にはそうした自転車店がない。
セオサイクルは前野6丁目にもあるし、戸田市にもある。しかし店員の性格が悪いため一般には利用したくない。板橋区では色々なところに修理店があると思うが、蓮根駅前の
小高商会が一番無難である。しっかりしていて頑強な老人がする。その付近にも、サイクルハウスヒロなどもあるが、こちらは中国人がやっているし、話が臭いのであまりいきたくない。
・「さよーならまたいつか!」は「虎に翼」というNHK連続テレビ小説の主題歌
・「虎に翼」は、日本で初めて法曹の世界に飛び込んだ女性の困難を描いたドラマ
・そんな朝ドラの歌詞を、勝手に男性の俺の人生と重ね合わせて解釈する
・かなり邪道な解釈だと思うので、いろんな解釈ができるね~ぐらいの温度で受け取ってほしい
・男性
・女性になりたい気持ちに人生をまるまる振り回されて、気づけばもうおっさんになってしまった
・まず、事前情報なしで「さよーならまたいつか!」を聞いて、「女性が翼を得ようともがく歌」なのかと思った
・そのあと、「さよーならまたいつか!」のインタビュー記事を読んだ
米津玄師「さよーならまたいつか!」インタビュー|“キレ”のエネルギー宿した「虎に翼」主題歌
・米津玄師はこの歌詞を、「米津玄師の主観」として書いているっぽい
・米津玄師がどういうつもりでこの歌詞を書いているかはわからないけど、自分を重ね合わせて読んだら個人的に染みたので、記事を書きたくなった
・何かしらルールを守れば細かく引用していいかもしれないが、ルールを詳しく知らないので各自歌詞サイトなどを見て、後述の解釈と比較しながら読んでほしい
・俺は、すごく小さい頃から女の子になりたい気持ちを抱えていた
・いつかこの気持ちが薄らいだりして平和な時期(=春)が来るのかなとぼんやり思っているまま、大人になった。結局そんな時は来なかった
・仲良くしている女性(=燕)たちは、俺が高校生になっても、成人しても、おっさんになっても、自動的に「女性らしさ(=翼)」を持っている。素知らぬ顔で
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(※注:長くなるけどセンシティブな話なので書く)
ここでいう「女性らしさ」は、顔や体の美醜の話ではなく、生まれつきの女性ホルモン量に由来するような女性的特徴の話
例えば、脂肪が付きやすい・骨盤が太くなりやすい・声が高くなりやすい(声変わりがない)・身長が低くなりやすい・胸が大きくなりやすい・髭が生えにくい・体毛が薄くなりやすい、など
(女性ならではのセンス!みたいな話にもピリッと来てしまう。俺には女性ならではのセンスがないんだ……みたいに)
磨き上げたもの(例えば、ダイエットした結果の体型や、美容した結果の肌、勉強した結果のセンス)ではなく、生まれつきの女性的特徴に憧れがある
嗜好として理解しづらいかもしれないけど、俺個人の話なので、どうかそういうものだと理解してほしい
後天的に声を高くしたり、脂肪が付きやすいようにしたりはするものの、どうしても人工的な女性らしさは生まれつきの女性らしさとは違っていて、コンプレックス
脱線するから女性ホルモン投与の細かい話まではしないけど、女性ホルモン投与なんてそんな良いもんじゃない
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・(そんな悩み、いつかどうにかなるよと言われたけど)いつの間にか成人し、おっさんになった。どうにもならなかった(=嘘をつかれた)
・今、女性を取り巻く環境にはいろいろな困難(=土砂降り)がある。それでも、俺から見れば女性らしさ(=翼)は持っている。””俺は””女性らしさが欲しかった
・だから、「男性は〇〇でいいね」みたいなことを言われると「お前たちには女性らしさ(=翼)があるじゃん」って言いたくなってしまう。でも、そんなひどいことは言ってはいけない。土砂降りの中を飛んでいるので
・なので、奥歯を噛み締めて、口の中に血をにじませて、天に唾を吐いて、自分の顔で受け止める。(と、歌詞にはあるけど俺は受け止めきれてないかも)
・これはただの俺の恨み節なので、女性各位は俺のことは気にせず(=気儘に)生きてほしい 知らねえけど!
・社会に出て色んな人と出会ったけど、俺の悩みは何も解決しない
・「いい年して女の子になりたいとか馬鹿なこと言ってないで結婚でもしたら?」とか言われるけど、そんなことをしても幸せ(=春)じゃない
・俺はこのままグズグズしているかもしれないけど、俺が生きてる間に、俺がグズグズしてしまった原因の固定観念(=縄)ぐらいは破壊しておきたいなぁ
(少なくとも、いい年して女の子になりたいとか馬鹿なこと言ってないでとか言われない世の中にしたいなぁ)
・どうか俺以外の同じ思いの誰かは虎のようにやりたいことに突き進んでほしい がんばれよ!(=消え失せるなよ)
(ここは「俺も虎のようにやりたいことに突き進むぞ!」が本当は正しい解釈なのかもしれない。自分はそんな気持ちになれてないけど)
・また今日も「女性のここがしんどい」みたいなツイートが流れてくるけど、奥歯を噛み締めて、血をにじませて耐える(俺の苦しさはその人たちとは無関係なので)
・俺が刺さった部分が特殊だからややこしいけど、「女性が持ってないものを男性が持ってる!」っていう読み方とは真逆の読み方もできる米津玄師すげぇよね
・当たり前に才能(=翼)を持っている人へのキレと、それを羨む自分の泥っぽさと、「変えられないものを追うのやめたら?人に合わせたら?」と言う人へのキレは全人類共通だと思う
・きっと「虎に翼」の主人公にとっては男性的であることが才能(=翼)なんだろう。当時の社会的な特権の話もあるから似ているようでベクトルは違うけど
・やっぱり書いてて思ったけど、自分のこの悩み自体は理解されがたいかも。たかが容姿、たかが精神の話でごちゃごちゃと、と言われるかもな。そういう人にキレたいけど。
・米津玄師も俺から見れば才能を持ってる人に見えてるけど、こんな歌詞を書いてるんだしきっと何かしら羨むようなこともあるんだろうなぁ
・性の話って炎上しそうでコエ~~~~~とこんな場で記事書いてる俺が思うぐらいだからそんなテーマ性の朝ドラの歌詞書くってすげぇよ
(1) sinθ cosθの 定義を述べろ。 (2) sin(α+β) cos(α+β)を証明せよ、 というものだった。
教科書の定義を述べさせて、 定理を証明させるもので、 純数学的な問題で、教育委員会に激震が走った。
定義と言えば、 ベクトルの内積の定義すら分かっていなかった学生が多い時代だったので、ショックだった。
(1)は、 単位円の x 座標が sinθで y座標が cosθである。 このように定義する。 すると、三平方の定理により、 sin^2+cos^2=1 は自明である
一般に高等裁判所は、 刑事訴訟法396条により控訴を棄却するが、 訴訟費用の不負担は、 刑訴法181条1項但書を適用して、行う。 ここで、 「により」 と、
高等裁判所の裁判官は、 福岡高裁では、令和4年4月の、 岩坪朗彦が有名だが、 岩坪朗彦は、 民事訴訟法の3つの条文により棄却した。ここで、
幼い頃から、小説をいつか書きたいと強く願っていて、文章読本や小説講座的な本などを多数読み込んできたけれど、それらが小説に変わることはなかった。
好みの文体やストーリーパターンはわかってきたのだけれど、それらを何らかの社会、何らかの人間関係に落とし込んで書くことができなかったからだ。
つまり、社会の仕組みやわだかまりをどう描いていいかわからなかった、会話や気持ちの移り変わりをどう描いていいかわからなかったのだ。
文章読本などで、文章というガワの部分を学んだとしても、そこに盛り込むものがわからなかった。
ストーリーとして導きたい方向に、社会や人間関係を配置する方法がわからなかったのだ。
増田ではわりと、ブックマークをいただけたりする自分ではあるが、書く文章は常に一人称で、自分の思ったことをエッセイ的にまとめることしかできない。
これを、背景装置としての社会や人間と絡めて、ストーリーとしての段階を踏んで、人々を驚かせる素晴らしい結末につなげる小説として昇華させることができない。
それなりの人気を持つ雑文に仕上げるためのアイデアはたくさんあるのだ。それを、小説として具象化できないだけ。
いや、なんだろう、プログラム的に組み立てることができないといった気分。
そもそもが理系なので、プログラムもそれなりに組んだことがあるのだが、小説としての文章の組み方がわからない。
結末に向かう伏線を社会のどの部分に絡めて描写し、物語の展開をどのキャラクターの変容に仮託するか、みたいなものがよくわからない。
文体やレトリックのような基本文法はわかるのだが、社会や人間を相手にした「組み込み関数」みたいなものが何なのかが見えず、途方にくれてしまう感じだ。
というか、そもそもだが、こんなにダラダラ文章を書く私ではあるのだが、小説は一行たりとも書けたことがない。
だって、結論に至るアイデアが思いつけても、そこに向かう「これは書けるぞ!」というビジョンが見えないので。
この小説ならプログラム的に書けそう、ああなってこうなって結論に至りそう、みたいなものが、私の場合、小説に対して浮かんでこない。
そうそう、プログラムでもそうなんだが、もっと言うなら、数学の入試問題のように、とりあえず三角比を求めるとかベクトル計算するとか、
この「とりあえず○○を書いてみる。そのうち、ストーリーがつながってくる」みたいなのを知りたい。
とりあえず手を動かして、作り出す小説を何らかの方向に進める方法を、まずは身につけていけたらいい。
この文章だって思ったことをズラズラ書いているだけなのだ。ビジョンで書いてない。
って、あっ、それが小説を書く前のキャラクターシート、世界観作成シートみたいなものなのか。
あれも苦手なんだよな。好ましい感情を抱けるキャラクターを造形できないというか。
いや、自分以外のキャラクターが描けない。世界観も、今自分が感じるもの以外組み立てられないし。
結局のところ、私は自分のことしか書けない。自分のことならそれなりに書いて、それなりに注目される文章が書ける。
自分の考え方を、ある社会やある人間関係に落とし込んで、世の中にその素晴らしさを理解してほしいんだ。
「私の気持ち」じゃ他人に届かないんだ。客観性というか、作者でない「キャラクターの気持ち」として描写しないと、私ではない誰かに届くことは無いんだ。
だから、ここに書くような、一人称の雑文じゃダメなんだ。物語に仮託しなくちゃダメなんだ。
そういった点では、私は「物語」というものに、論文のようなものを感じているのかもしれない。
つまり、物語の人間関係や世界観という客観性のもとに、自分のアイデアに向かって組み立てた文章を、誰かに対して発露し、評価を得たいのだ。
いや、誰かに届けばいい。個人的なアイデアなり感情なりが、誰かに届けば、無意識的にでも届けば、それで十分なんだと思う。
…などと長々と書いてきて、結局は今回の文章も小説にはなりえなかったわけだけど、まあなんだか、そんな気持ちなのだ。
んー、Shiversじみた幻視としては雰囲気があっていいと思う。
個人的には「コミュニケーションだって、努力次第でどうにかなるはずだ。」「自分なりのペースで、着実に成長していくしかないのだ。」が唐突すぎる楽観で、文章ベクトルにnoiseがあるように感じる。
自分だけの形。それぞれの形、自分は自分だけの形で、あなたはあなただけの形で幸せになれる。はずだ。これが多様性か?Z世代の自分だから出てくる思考なのだろうか。わからない。恋愛イデオロギー、崩れてもマッチングアプリは台頭する。単なる自他の境界線でしかないのかもしれない。自分の幸せを他人に託すのがもう辛い。だけなのだ。多分…。だから恋愛ができない。他人が幸せになるために自分が幸せになる感覚がわからない。
だから祈る。努力や行動と違うベクトルで自分は祈る。自分が幸せになってほしい。あまりにも!愛する、愛される、そういう強烈な欲求。息が苦しくなるくらい熱くて、必死で自分の意思とは違うところから圧迫してくるものだ。目がくらむ。気を抜くとすぐに身体を支配する。これ以上歪んだ自己愛で血眼にはなりたくないから、自分の幸せを祈る。
自分だけの形。それぞれの形、自分は自分だけの形で、あなたはあなただけの形で幸せになれる。はずだ。これが多様性か?Z世代の自分だから出てくる思考なのだろうか。わからない。恋愛イデオロギー、崩れてもマッチングアプリは台頭する。単なる自他の境界線でしかないのかもしれない。自分の幸せを他人に託すのがもう辛い。だけなのだ。多分…。だから恋愛ができない。他人が幸せになるために自分が幸せになる感覚がわからない。
だから祈る。努力や行動と違うベクトルで自分は祈る。自分が幸せになってほしい。あまりにも!愛する、愛される、そういう強烈な欲求。息が苦しくなるくらい熱くて、必死で自分の意思とは違うところから圧迫してくるものだ。目がくらむ。気を抜くとすぐに身体を支配する。これ以上歪んだ自己愛で血眼にはなりたくないから、自分の幸せを祈る。
自分だけの形。それぞれの形、自分は自分だけの形で、あなたはあなただけの形で幸せになれる。はずだ。これが多様性か?Z世代の自分だから出てくる思考なのだろうか。わからない。恋愛イデオロギー、崩れてもマッチングアプリは台頭する。単なる自他の境界線でしかないのかもしれない。自分の幸せを他人に託すのがもう辛い。だけなのだ。多分…。だから恋愛ができない。他人が幸せになるために自分が幸せになる感覚がわからない。
だから祈る。努力や行動と違うベクトルで自分は祈る。自分が幸せになってほしい。あまりにも!愛する、愛される、そういう強烈な欲求。息が苦しくなるくらい熱くて、必死で自分の意思とは違うところから圧迫してくるものだ。目がくらむ。気を抜くとすぐに身体を支配する。これ以上歪んだ自己愛で血眼にはなりたくないから、自分の幸せを祈る。
自分だけの形。それぞれの形、自分は自分だけの形で、あなたはあなただけの形で幸せになれる。はずだ。これが多様性か?Z世代の自分だから出てくる思考なのだろうか。わからない。恋愛イデオロギー、崩れてもマッチングアプリは台頭する。単なる自他の境界線でしかないのかもしれない。自分の幸せを他人に託すのがもう辛い。だけなのだ。多分…。だから恋愛ができない。他人が幸せになるために自分が幸せになる感覚がわからない。
だから祈る。努力や行動と違うベクトルで自分は祈る。自分が幸せになってほしい。あまりにも!愛する、愛される、そういう強烈な欲求。息が苦しくなるくらい熱くて、必死で自分の意思とは違うところから圧迫してくるものだ。目がくらむ。気を抜くとすぐに身体を支配する。これ以上歪んだ自己愛で血眼にはなりたくないから、自分の幸せを祈る。