はてなキーワード: ピカソとは
すごっ…、って思わさせられるよ。
ピカソの絵とか混じってるとやっぱり目を惹きつけさせるものがある。
美術知らないからピカソの作品ってキャプションを読んでようやく知るんだけど。
ああ、やっぱピカソとかって上手いんだなあ、って感心させられる。
別の作家が描いてるんだけど
邦キチで取り上げられてまた話題になってたシン仮面ライダーの評価の話を書き残しておきたい。ネタバレなし。
棒読み台詞で共感のできない登場人物…つながりの変なカット割り…チープなCG…アニメみたいな謎演出もツライ。
正直言ってつまらない。
でも「一体なんだったんだろう」と思って映画館で見た人からパンフレットを借りて読んでみたり、NHKのドキュメンタリーを見たりしたらだんだん印象が変わった。
ドキュメンタリーは話題になってたころ俳優が愚痴る場面とか一部の切り取りで大げさに騒いでるんだろうなと思ってた。
実際はもっとやばかった。
なかなか決まらないアクションシーンの方向性、スケジュールの問題。
アクション担当が撮影してきた殺陣を全否定したり、現場でもどかしさから声を荒げる庵野監督。
みんな悩んで迷って苦悩して模索し続けて紆余曲折を経てあの映画はできていた
(もちろん番組としてストーリーや対立構図が仕立てられている面はあるんだけど)。
パンフの方はそういう生々しさはないけど、ドキュメンタリーを見てから読み直すと俳優やスタッフインタビューの端々にその苦労が読み取れて味わい深い。
システマチックな映画作りとはまるでちがう、学生が自問自答して自分や環境の限界と戦いもがきながら卒業制作をするような作品だったのだ。
そういう背景や演出の意図、やろうとしていたこと・出来なかったことを踏まえて本編を見返したら今度はおもしろい。
興味深い、に近いのかもしれないけれど。
せっかく制作の終盤で進むべき道筋が定まったんだから続編が見てみたいなあと思うようになっていた。
やっぱり作品単体で見たらつまらないんだからダメじゃないかと思う人もいるかもしれない。
ピカソの絵だってそれだけを見せられても美術のプロはともかくほとんどの人の目には留まりすらしないだろう。
それを「あのピカソの絵」だと知って初めて注意深く見てみようという気になる。
シン仮面ライダーが無名の監督作だったら駄作と切り捨てて終わっていたかもしれない。
でもこれは庵野作品で、庵野監督はそれだけの実績を積み上げてきた。
まあ読み解きが必要というのはマニアックというかアートの領域に近い映画なのかもしれない。
続編、ほんと見たいなあ。
(追記)
ちょっと今更かなと思って投稿したけど反応が多くてびっくりしてる。
目が離せない作品というのはすごい。
ちなみに私はシンゴジラは映画館で見たけどシンウルトラマンは(まだ)見てない、昔のエヴァは見てるけど最近のエヴァは見てない(興味はある)、という一般人です。
通常展示 500円
特別展 1500円
大体どこもこれぐらいじゃん。
恐竜だと多分だけど高いだけじゃなくてチケットが前日予約しないと駄目なパターンかな。
アレ当日行って「おっ、これいいじゃん」で入ろうとした情弱はそこで弾かれるんだよね。
俺も何度か経験したわ。
俺自身は旅行先で時間余ったときにフラっとよる系だから「おっいいのやってんじゃ~ん」からのガッカリはちょくちょく食らった。
ちょっと話逸れてるな。
でも、通常展示の半分程度の規模の特別展で3倍の値段取られる所で逡巡が起きるんだよね。
通常展示✕規模1.5倍=値段✕1.5倍じゃないぞ。+0.5倍なだけなのに値段は4倍だ。
4倍だぞ4倍(小島)。
いやすげーよ完全に足元見てる。
というワケじゃないのは知ってるよ色々他所から展示品貸し借りして大変なんだろなって。
コンセプト系の美術館とか行くと「ゆーて今こっちの絵はあっちの美術館あるんすわ。気になるならそっちまで行ってくれよな!」みたいなこと書かれてのよく見るしさ。
でも0.5倍のプラスアルファで3倍はボってるだろ。
一期一会だからしゃーなしで払うことは多いんだが、飛行機の時間とか近いと「4倍出して焦って回るよりは、のんびり通常展示だけ見ればいいのでは💡」となるわな。
特別展にホイホイ金出せるのってやっぱ金持ちだと思うんすよね。
美術館のチケット売り場でペイペイ使えっかな―とか小銭の確認先にしとこーとかやってると前の人がチャリンチャリン買ってくのが目に入るじゃん。
そこで色んなタイプに合うんすよ。
特別展は追加でかかるっていうの事前に気づいてなかったっぽいのに実質6倍を何食わぬ顔で払う爺さんがいたりして金持ってんなって、
「たけーなー」「でも僕ここみたーい」「金ないし今度にしよー」「今だけだって―」「でもたけーよなー」と言い合ってる若い家族連れがいてやっぱ厳しいよなって、
イチャイチャしてるカップルの片方が「え?高くね?」となってるのを「いやこんなもんでしょ」みたいに片方がしてるのとか、
金が無いのか時間が無いのか腕組して行くべきか行かないべきか悩んでるるっぽいオーラの奴が一番親近感。
もうね十人十色なんすよ。
界王拳4倍出来ますか出来ませんかっていう戦いが入場前にもう始まってるわけですよ。
こ れ ぞ 格 差 社 会
ですよ!
もうね既に始まってる訳ですよ!
なぜこれが視界に入らないんや?
それともこれをもっと強烈にして「更に10倍払った人しか見れない超特別展示ゾーン」みたいのやればええんか?
たとえばティラノサウルスの化石は10倍ゾーンだけですとかやったらええんか?
泣くぞ?
この内容、すっごいわかるんだよな!!!
まず、全くどんな話かも全くわからずに、映画を見るという経験自体が、もうないだろう(特に私は)と思うので、もうそれだけですごい経験をした気がしてしまう。
そしてこんなに映画を見た多くの人々にどんなことを伝えようとしていたかを考えさせることができるジブリの、宮崎駿の、すごさ。
シン・ゴジラで石原さとみが「本当に怖いのは私たち人間ね」みたいなことを言ったことに比べたら、わかるでしょう。何も言わないという手法のすごさが。私たちを信頼していることが。全員にわからなくたっていい。
わたしはこの映画を「君たちはどう生きるか」以上でも以下でもないと思った。それは感覚的な言語表象の超越みたいなことなんだと思う。
この話は宮崎駿自身の人生でもあり、アニメーション業界の言及でもあり、そして私たちの人生でもあり、もっというと、そう、人間が抗うことのできない何か大きなもの、を感じさせるのだ。
だって細かい解釈は置いておいて、みんなの感想ってどこか本質的に似てるじゃん。何か近いじゃん。
わたしは大人になってから、魂をかけた取り組みをみるといたく感動してしまう。ピカソだって、自分の極めたひとつの表現方法を高めては壊し、高めては壊し、そのことに生涯をかけ、私たちはそれを知り、その過程を知らなくてもゲルニカに感動するわけじゃないですか。
今回の映画はそういった今までの人生の、アニメーションの、人間関係の、人間の発展の歴史の、国家の発展の、「破壊と想像」を感じるわけです。
物語には無限の可能性があるから、どう受け取ったかが違ったっていい。作品を世の中に公開した時点で、作品は作成者本人の意図を離れ、解釈される。新しい解釈が生まれ続ける。新しく生まれた解釈は、作成者本人にも届き、作成者自身がさらに新たな解釈を見出す。作成者がそれをインタビューで発信する。発信されたインタビューを見て、さらに解釈が生まれる。ずっと作品をめぐる解釈は、国を超え時代を超え個人を超えアップデートされ続ける。
まるでこの映画だね。映画の感想そのものも、映画の内容みたい。
今までの宮崎駿が作ってきた映画とかなり毛色が違う気がする。これが新たな挑戦の宣告だとすれば、わたしはもうすでに新しい挑戦の上で作成した映画をもう一本作ると思う。
いろんな人が解釈をし発信している。権威ある人の発信を見ると自分が間違ってたのかな?と思うこともあるけど,そう思わずに思ったことを書いてほしい。思うことは自由だ。わたしたちは「君たちはどう生きるか」のなかで巡り合うことができる。
いや、マイノリティで普通じゃないからこそのLGBTQ+だろ?
異性愛を普通としない社会って・・・人類滅亡しとるやんけー!(ズコー)
異性愛者が半分、LGBTQ+が半分で男女・男女・女女・男男の組合で仮定しても
全人類の4分の1しかパートナーの子どもを産めないんだけど・・・
1異性愛夫婦でLGBTQ+2組が産まない分を最低4人産まないと人類存続できませんけど・・・?
これは義務化して単純に計算したもので実際は結婚しても子ども産まない異性愛家庭はどんどん増えるから、
「子どもを産む異性愛家庭」の方が本当の意味で保護しないといけないマイノリティになっていくんじゃないの?
というか今の時点で少数派だから先進国で減少してるんじゃないの・・・・・・???
「ゲイのカップルでも養子を育てられる!」その養子を産む子宮の数の話してるんだが。誰かゲイに子宮を支給してあげてー?
「レズのカップルは産める!」子宮2つゲットで計算していいの?男を拒否したレズが男の精子を受け入れるケースなんて相当稀だけど2つ子宮ゲットできんの?
確かに欧米ではゲイやレズがバレたら物理的に危害を加えられて殺される歴史はあった
その反動で過激なことをしているようだけど、それならば江戸時代からホモを容認していた日本を見習えばよくないか?
今の時代は西洋寄りになったからホモの風当たりはまだ強いけど、ホモバレしても腫物扱いされるくらいで殴られたり刺されたり殺されるようなことはない
日本のホモ文化に欧米は学べばいいのに、彼らからすれば劣ったアジア人程度の認識のままなんだろうな
俺個人としてはLGBTQ+の権利が認められること自体は自由の拡大で祝福されるべきことだと理解している
一方でその新しい自由が強力かつ不可逆的に今の先進国の社会を破壊してしまう予感もある
その結果は異性愛者はもちろんLGBTQ+を含むこれから産まれてくる全ての子どもたちが影響を受ける
今の世論の反対派も賛成派も真剣にその問題について考えているのか?
社会的に認めるけど、一般的ではないということを自覚してもらわないとこの流れは止まらない
けれどもLGBTQ+の人たちは元々が精神疾患を持っているため、理解してもらえない
この「精神疾患の権利と自由を認めることによって巻き起こる社会問題」がおそらく今世紀最大のテーマだと俺は思っている
ウィルスや戦争やAIなんかよりもこっちの方が圧倒的に社会を壊す能力がある
「普通」って言ってるけど実際は「普通」も色んな普通があるんだよ
個人個人でどっかしら異常性を持っているけど、みんなはそれを隠して表に出さないようにして普通の仮面をかぶってるだけ
あなたたちLGBTQ+からみて普通だと思ってる人たちは、誰一人同じじゃないし普通ではないんだよ
あなたたちLGBTQ+は一層普通じゃないからこそ、外からみてできるだけ普通に見える文化を作らないといけない
男が男好きでも全然良いよ
でも好きだと告白して断られた人にしつこく付きまとうのはどう考えてもおかしいだろ
一緒に飯食ってるときに「俺、美人がゲロ吐かないと性的興奮しないんだよね」とかカミングアウトしてきたらキッショでLINEグループで拡散するだろ
何が相手にとって地雷になるか分からない、だから俺たちの地雷踏むんじゃねえ
これお前らがいつも他人に言ってることだろうが
デリケートゾーンに踏み込む前に相手がゲロ好きか男好きかくらい、それなりに察しろよ
なんで自分たちはできない、やろうともしないくせに全部相手に押し付けるんだよ
「理解してください」という前にまずお前自身が相手を理解する努力をしろよ
理解してたらトランスジェンダーの元男が女湯にも入りたいとか女トイレに入りたいなんて言えるわけがない
いや、そもそもの話、人間なんてそれぞれで事情があって違いがあるんだから理解なんてできっこない
「何となくこういうルールを決めてお互い理解した気になりましょうね」という薄っすらとした幻想で社会はできてる
それを積極的に破壊しに行くもんだから色々とおかしな問題が出てくる
社会が問題だらけじゃなくてお前が相手を理解しようとしないからどこいっても問題が起きるの自覚してくれ
「普通」の人は実際は異常なのに理解しようと心掛けてるから普通のフリをしてるんだ、できるんだ
そんなときに突然理解する気が無いのに相手に理解を一方的に求めるやつが来たら排除されて当たり前だろ
「自分は普通だ」と思ってる人間の10割がどっかしらに異常性を抱えていて、それが社会的に許された場合は個性になり、反社会的になると異常性になる
エジソンは人格破綻者でテスラは天才だが政治が下手でピカソは社会不適合者でクズは啄木だけどメリットがあれば社会的に異常でも許容される
普通の人間は才能がないから何とかして社会に対してメリットを示そうとしている、これが資本主義社会の異常性の1面でもある
みんな必死に普通の仮面をかぶってるんだよ、産まれつき普通なやつもいないし、普通なんてもんは幻想でしかない
その幻想を社会人で崩れないように守ってる、そうしないと社会が崩壊するから
俺がコミケ打ち上げでゲロフェチなことを話した相手も腹パン好きの紳士と相手見て話してるんだわ今でもそいつとは親友です
何が言いたいのかというとお前らは「性癖が普通じゃないから迫害されている」んじゃなくて
「空気を察したり何を隠さないといけないのか理解したり他人がしてる程度の我慢することができない」から精神疾患であり異常者なんだよ
レズやゲイでも表向きは隠しながら生活して理解者を見つけて社会に変な影響与えないで人生を生きてる人が普通であり健常者なの
そういう生き方を女が好きな男も男が好きな女もみんな色んな我慢して生きてるの
俺は絵を描くのが趣味だ。独学で絵を描いている。
絵を描いていて割と最初に気がつくのは、視点を固定しなければ絵はぐちゃぐちゃになってしまうということだ。
例えば、人物の全身像を描いているとする。もしそのとき、人物の顔を割と近くから真正面に見ているとしたら、その人の足は上から見下ろすように描かなくてはならない。そういうルールがある。
もっと極端なことを言うと、ある人物の左向きの横顔を書いているのなら、その人物の顔の右半分は描かない。視点は一つに固定するから、左向きの横顔が見えるとき顔の右半分が見えるわけがないのだ。
絵はこのように「どの視点から見ているのか」を気にして描くのが基本だ。視点が変われば見え方が変わるということを把握しなければならない。
視点が変われば見え方が変わるというのは価値観みたいなものもそうだと思う。
例えば「真実はいつも一つ」という言葉があるが、これは人ひとりの主観から見ればその通りだけれど、俯瞰して何人もの人を見てみると、その人の数だけ真実があり、決して一つとは言い切れない。
視点を語るとき、忘れてはならないのはピカソが創始したキュビズムと呼ばれる様式だ。
このキュビズムの何が革命だったのかというと、冒頭で述べた視点の固定をしていない絵を成立させた点にある。
左を向いた横顔と同時に顔の右半分が見える絵がキュビズムの絵だ。キュビズムの絵には、さまざまな視点が同居している。左を向いた横顔を見る視点と、顔の右半分を見る視点、それらが同居しているのである。
神様でもなんでもいいけれど、自分の中で絶対に動かない価値観を設定し、そこから演繹するようにしてものの見方を構築していくのも悪くはないと思う。
自分の考える理論だから間違ってるかもしれないが一応書いてみる。
人力車や靴磨き(・・・なんで靴磨き?)は元々あるものを機械に任せた、つまり1を2とか3に増やしただけってことだと思う。
ピカソの絵に似たものをかけてもピカソみたいな評価を得られる絵を描けって言っても無理だと思う。
ちなみにAI絵師とか批判してる人もいるけど、パクリ系の人は論外だとしてもAIを利用して自分が考えた作品を作るのは良いと思ってる。
何故かと言うとペイントソフト系で描いているアーティストとかがいるから。
ペイントソフト系は設定を変えたら筆とかスプレーとか変更できるからAIの初期版くらいの認識なのよね。
こんなところかな?少数派の意見だとは思うけどこんな考えのヤツもいるよ。
パクリ元とされる小学生探偵ピカソ君シリーズは主人公が小学生のときの事故と病気で成長が止まって英国で13年治療を続けた後
…とだけ書いて終わるのは雑なので、個人的な偏見等を込みで色々思うところを書いていく。
おそらくここで語るものは陳腐で凡庸な面白みのないものであろう、しかしもし興味を持っていただけたら読んでもらえると幸いである。
オタクコンテンツはみなさんご存知の通り一般化した、街中にはアニメやVtuberなどとコラボした商品が散見され、街中でアニソンが流れていたりする。
アニメや漫画の話をしても嫌がられないし、むしろそのような話を積極的にしてくる人もいる。
オタクコンテンツは一般に広まったせいで過度に一般化してしまったと私は思っている(これはあくまで偏見である)
というのもまずは売れるかどうかという数値が前提にくるからである。
もちろんこれらは"商品"であるため、売れるのがいいというのは間違いがないし企業としては売れなければ価値がないというのは間違いないであろう。
そこで問題にしたいのはオタクコンテンツの精神性というふわっとしたものになる。
これらコンテンツは個人的な偏見等込みではあるが迫害の歴史であったと私は思っている。話をすればキモがられ、売っている場所は隔離されるそのようなものであった。
しかしそのような状態であってもコンテンツを作り続けた人たちがいた、彼らは自身の溢れ出るものを解放させコンテンツを作り続けた結果今のように市民権を得ることができた。
このようなコンテンツは最初はごく一部の人間が面白がり小さいコミュニティ、もしくは執着に近い発掘欲を持つ人間にのみ評価されていた。
また自身が面白いと思うコンテンツは他者に知らせたいものでさまざまな機会で、さまざまなツールで面白いと思う感情を広げていった。
問題はここからで私は一般層はものを評価する能力がない、もしくはあったとしてもそこまで高くないと思っている。
動物に悲劇があれば泣くし、子供が頑張れば感動する。弱者のサクセスストーリで涙し、悪徳企業に怒り、永遠の愛でしんみりする。
しかしわかりやすい感動にしか反応しない、もっと正確にいうならばわかりやすい感情の変化にしか反応しないのだ。
感動というものはさまざまなものがあるが大きくまとめれば感情の変化であろう。
感情の変化というものは各人のセンスや知識、経験に依存するものだ。感動するという行為にも才能と経験が必要になる。
例えばよくピカソの絵を見て誰でも描けるとかこれが芸術なんだとかいう人間がいる。しかしピカソが写実的な絵も描くことができ、キュビズムが本来なら同じ平面上に存在しないものを写実性を捨て記号化することにより同時に存在させるようにしようとした試みであることを知ればそれは難しいことがわかる。
コンテンツというのは歴史の流れがあり新しい評価基準や表現、感性を探求するという性質がある。
しかしそれらを評価するためには今までのコンテンツへの理解などが必要になる。
一般層の人間はこの知識や経験がない、そのため評価基準が他者に依存することになるかもしくはわかりやすいものしか評価できなくなる。
さてさまざまなコンテンツの多くは営利活動の結果生まれた産物である、営利活動の評価を行う際に基準となるものは収益であろう。
当然のことではあるが収益性のみを考えた場合、新しいコンテンツを評価するようなオタクやコミュニティ(ここではこのような人やコミュニティをまとめてオタクコミュニティと呼ぶことにする)と一般層、どちらの方が人口が多いであろうか。
考えるまでもなく後者だ、そして後者はわかりやすいものしか評価できない。
ではどうなるか
なので1手先しか考えていないようなわかりやすい一見深そうで薄いコンテンツが生産されていく。
間違いなくオタクコミュニティー向けの作品を作るクリエイターは一般層に評価はされないだろう、わかりづらい作品を作るので歓迎されることはないだろう。
では誰がコンテンツを作るようになるか、これは間違いなく一般層のクリエイターになる。
というのも感情が近いので作りやすいのだ、またオタクコミュニティー向けの作品を作るクリエイターと比較して、コンテンツ自体に執着が薄い(無いわけではないし一部の方はとても強いと理解しているが集合として見た時の話である)ので仕事と割り切れたりするという強みもある。
企業からすると一般層のクリエイターは収益も産みやすく優秀な金の卵であるが、オタクコミュニティー向けの作品を作るクリエイターは収益を産まない腐った卵であろう。どちらが優遇されるかは明白である。
このようにしてクリエイターの層が更新されていく(新陳代謝といえばそうかも知れない)
クリエイターが変わっていくとコンテンツ自体オタクコミュニティー向けのものから一般層向けのものへと大部分がシフトしていき、そのうち入れ替わる。
そうしてオタク向けのコンテンツは一般向けのコンテンツへと狂気が希釈されていく。(私はこれを一般層の文化的侵略だと呼んでいる)
そのような状況であってもオタクコミュニティー向けのコンテンツを作る人は作るだろう、しかし評価はされづらくなる。
もしくはそのようなクリエイターが時代の変化などさまざまな要因で一般層向けのものを作ることもあるだろう、映画などにある細かいネタや裏設定はそのようなクリエイターの少しばかりの一般層への反乱ではないかと思えて仕方ない。
さてオタク向けのコンテンツがオタクコミュニティーから一般層向けのコンテンツへと変わっていくという話をした。
ここで一般層の評価基軸をもう一度説明すると他社が評価しているか、わかりやすい感動かという軸で評価している。
後者と比べ前者は容易にハックすることができる評価基準である。資本とマーケティングの勝負に落とせるからだ。
つまり一般層のコンテンツは、芽が出そうなものに対して資本という栄養剤を投与することで完成する、そして一般層に収穫され消費されるのだ。
私は最近のコンテンツが話題になる期間が短いのはこのような背景があるからではと思っている。短くしないと次のコンテンツを消費できなくなるからだ。
ここで一つ誤解を解く必要があるが、私はこのような企業の行為に対して悪だと断罪するつもりはないし、営利活動を行う団体として収益を上げるのは正しい行為だと考えている。
このようにしてオタクコンテンツは終わっていくし、すでにアニメや漫画などは終わっていると私は考えている。終わっていなかったとしても一般層にリーチしないのでそのようなコンテンツを知り得る人はごく僅かであろう。
これが悪いのかどうかと言われるとそうではなくただ集団の行動の結果であるとしかいえない。
しかし、間違いなく言えることは一般層がオタクコンテンツに入ってきた瞬間にそれは終わるということだ。