はてなキーワード: ドレスとは
お嬢様ずんだもん叩きで叩いてた側がみーんなイモイモ言ってるけど、パッと見て「うわ!あの人おしゃれだな〜!自分のセンス光ってるな〜!」って人そんな見た事ない。
いたとしても紳士淑女が多い。(多分ご高齢の人は地味な色を着がちだからやたらスタイリッシュだと目立つってのもあるんだろうけど)
菜々緒が黒のロングドレス着てたら「おしゃれ」に見えない?でもそれは菜々緒の顔とスタイル由来じゃないの?
久本雅美がパッチワーク系のアウター着てたら「おしゃれ」か?あれはあの人のキャラあってこそじゃないのか?
おしゃれのジャンルも結構分類されていて、その中でみんな同じような格好するじゃん。ギャル、モード、スポーティ、地雷、原宿系、ロリィタ、ナチュラル、コンサバと様々あるけど「ああこういう感じだよね」があって別に個々人のセンスめっちゃ良い〜!とはならなくない?
自分が着ないジャンルの人見たら「着こなせてていいな、すごいな」とはなるかもしれないけど。私はDIESELとか着こなしてる細くてカッコイイお姉ちゃん見たら「おお〜!」って思うし。
axes叩き自体はかなり昔からある印象で、自分がずんだもんの子と同世代の時にはもう「この着方してる人はダサいよね」という言説があったよ。15年くらい前の話だけどその時点で、研究してケバくない化粧しろ、茶色の合皮はやめろ、髪を巻け、って言ってたわけで……。
でも中学生位の子がピーコート着るのも、180デニールのタイツ履くのもごく当たり前だと思うんだよね。
キラキラスタイリッシュファッションなの東京のトレンドに近い子ばかりだと思う。東京駅で修学旅行生見てると地方の子はみんな基本はダサいよ。制服でもそんだけ差があるんだから当然じゃないのかなあ。
田中みな実がaxes着てても同じような叩き方するの?
おしゃれってなにさ。
本当に焼いただけで、タレや塩コショウ抜きでも旨い。
というか現代人って”料理=味付け”という先入観があるせいで「味付けなちゃ!味付けしなきゃ!」って強迫観念にとらわれ過ぎ。
そもそも野菜だって焼くだけでも旨い。野菜は焼いて食べるだけでも甘みが出てくるから。調味料なしでも問題なく旨い。
焼いた肉だって、塩コショウ他何かしらの味付けを加えなくとも十分に旨い。
それに肉をバゲットに挟む場合、パンの塩味が強いので一緒に食べるとその塩味が肉と絡まり、結果程よい塩梅になる。
味付けだって、今の時代は味をつけてからその味を調整しようと味見をする。
でもこれって本当はおかしくて、正しくは味をつけていないときに味見してみるのが正解なんだよ。
そうすることでまず素材そのものの味がどのようなものかを知るのが大事。
その味に対して、じゃあどういう味をつけよう?
こうなるのが通常のはずなんだ。元々の状態を知らないのに、こっちで勝手に決めて味をつけたところでぼんやりするのはそれ本来に似合う味付けをしていないから。
味付けは、いわば”ファッション”なんだよ。
モデルの状態を把握していないまま服一式を用意して、さぁ着てみて!と着替えさせたところでイメージ通りにならなかった。
そんなことは当然だ。だからそうならないように、モデルの素の状態をちゃん知っておく必要がある。
野菜にだって、一つとして同じものはない。それでも彼らに似合う”調味料”という名の”ドレス”を着せてあげるのが調理人の役割なんだ。
そうすれば味付けなんていうのは本当に必要最小限で良いことが分かるだろうし、素材の味を知ることによって調味料を調整し、素材の味と調味料の味の両方を前面に出すことが出来るだろう。
「これらを使わなければ、それは料理ではない」と言わんばかりに。
しかし実際にそんなことはないのだ。料理は別に調味料を使わなくたっていいし、使うことが絶対なわけでもない。
旨ければいいのだ。そして焼くだけで食べても案外旨い。
味付けせず、素材そのものの素朴な味を一度は食べてみてもいいのでは?と思うのだ。
同じでもいいけど、汗くさくなるので替えが必要。あと最近はビジネスカジュアルの職場増えているから今までの常識は当てはまらない。
どれくらいドレス度を維持しないといけないかはまた職場による。洗濯維持コストの低い、取得コストの低い服に移行できるならした方が楽。
死にたい。
4年前に知り合った彼氏がいる。
当時彼は既婚者であったが、わたしに惚れているのは周りから見ても明らかだった。
飲み会の帰り道で「好きだ」と告白された時、わたしは、「気持ちは嬉しいけど、わたしは不倫とかできるタイプではなくて。既婚者の方はごめんなさい」とお断りした。
「待たせてごめんなさい。大好きなんです。僕は君と一緒になりたい」
あの時の彼の顔をよく覚えてる。待ってないです、でも、ありがとう。努力に免じて、交際関係を受け入れた。
「でも、わたし、君を悪くいうわけじゃないけど、バツイチの恋人が務まるほど、器が大きくないかもしれない」
「大丈夫!君に嫌な思いはさせないし、大事にするし、幸せにする。不安や不満があったら、必ず言ってね。受け止める」
「離婚したばかりで今すぐは無理だけど、かならず一緒になろう。世界中が敵になっても、俺は君だけを愛してるから」
そう言ってわたしを大切にするピュアな彼に、わたしも次第に夢中になった。
彼にプロポーズされウキウキのワクワクでご両親にご挨拶に伺ったら、元嫁に親権を委ねた彼の親から、「新しい嫁がきたら孫に会わせてもらえなくなる」と結婚に反対されたのが2年前。
彼氏は、「まだ早かったかもしれない。両親の説得にはまだ時間がかかる。でも、いつかかならず一緒になろう。だから、赤ちゃんはいまはおろそう。」そう言ってくれたので、わたしはまんまと信じた。
彼が前妻と建てた家で同棲し始めたのもその頃。
この家に住み始めた頃に、ベッドが処分されていないのを見てイヤな気持ちになった。
当然のようにそこに寝るよう進める彼に、「さすがに、ちょっと」と断ると、彼はあからさまにイラついた。
「お前の家のベッドだって、他の男と寝てきたベッドだろう」
「それはそうだけど、「わたしのベッド」に他の男も寝たことがあるのと、「あなたと前妻のベッド」にわたしが寝るのは、心持ちがちがうじゃない?」
わかってもらえなかった。
でも、イヤという気持ちは汲んでくれて、和室に布団を敷いて、寝ることにした。
彼は、最初、「この家に住むのも一時的なもので、ゆくゆくは手放すよ」と言っていたのに、「ダイニングテーブルはお気に入りだから、このまま使わせてほしい。ソファは、買い換えようね」と、心を変えた。
彼は、最初、「お箸とマグカップ買ってきたよ。2人の食器を増やしていこう」と言っていたのに、近頃は「どんぶり?あるのを使おうよ」「ほしいなら勝手に買っていいよ。でも趣味悪いのはやめてね」と、投げやりになった。
毎朝どちらかがあかちゃんにあげていた線香は、いつのまにかわたししかやらなくなった。
「親が来るから、少しの間出ていて」
そう言われることがあった。
ご両親には、この家でわたしも暮らしていることを言ってはいないんだなぁ。と思った。
「ご両親の説得は進んでいるの?」
と聞いてみたことがあった。彼はイライラした態度で、「お前が首を突っ込むな」と返した。
そのくせ彼は、「あ、親が来る前にトイレとキッチン、掃除しておいて。だらしない暮らししてるとおもわれたら、めんどうだからさ」とも言った。
付き合った頃、「バツイチの恋人が務まるほど、器が大きくない」と言ったのは本当のことで、
でも、彼は変わってしまっていた。
「面倒くさいな。お前、少しは黙れよ」
「気に入らないなら出て行けば?」
わたしの誕生日を祝わなくなった。翌々日に、あ、誕生日だったんだね。と言われた。
彼の誕生日の日は、昼間にラインが1通あった。「今夜は外食だから、俺の晩飯いらないからね」
セックスが雑になった。わたしに愛撫することは無くなり、奉仕することばかり求めた。やんわり拒むと勝手に口に突っ込まれた。口に出されることが増えた。「抱きたくはないけど射精はしたい」んだって。
彼は、横柄と傲慢を増していった。
「お前がいなきゃ離婚しなくて済んだ」
「お前のためにベッドを捨てたりソファを買い替えたりするような価値は、お前にない」
「妊娠したのも、お前の策略だろう。お前が勝手に孕って勝手に堕したんだろ。俺は何も悪くないし関係ない」
「お前との将来なんて俺は考えていないからな。早く出ていけよ」
なにがいけなかったんだろうな。
わたしは彼を愛してきたつもりなんだが。
お腹のあの子を殺したのは、彼とわたしとあの子の未来のためで、必ず未来でもう一度会うつもりだったから、なのだが。
わたしは悲しくなって、先月ついつい、彼のご両親にお手紙をお出しした。
わたしと彼は一緒にはなれないから、せめて彼のお家で、供養してやってください。と。
お二人にそれをお願いすることが、殺してしまったこの子に、私がしてやれる最後のことなんです。と。
数日後に彼は実家に呼び出しをくらい、夜中に帰宅した時は鬼の形相だった。
「親に余計なことを吹き込んだな。もうお前なんか死んでしまえ」
そう言って彼は、わたしの顔を殴り、突き飛ばし、馬乗りになって首を絞めた。
あー、わたしはこんな乗り換えクズの虚偽のプロポーズを真に受けて、堕胎までして、お腹を傷つけ、胎児を殺した愚か者だったか。と、遠のく意識の中で思った。
愚かにもわたしは、「困難な離婚をしてまでわたしと付き合いたいというくらいだから、相当の本気だろう」と思っていた。全く違う。
こいつは「結婚の本質も知らず軽んじているだけのガキ」というだけだった。
やけに離婚がすんなり行ったのも、今思えばおかしかった。このジジイが事故物件だったのだ。前妻は、このDVモラハラからアッサリ逃げられて、ラッキーとでも思っていたかもしれない。
わたしは気絶した。
多分だけど、それで流石に慌てた彼が119番だか110番だから通報したみたい。気づいたら救急隊に囲まれてた。布団の上で失禁していた。彼は警察に連れて行かれて、わたしは病院で検査を受け、問題がなかったので、警察と少し話した後、実家に連れて行かれた。
最後の恋だと信じて、かけたけど、大外れだったうえに、取り返しがつかない時間と若さを失い、傷をお腹と心に残した。
こんな男を信じて、夢だった結婚式も、ドレスも、ハネムーンも、注文住宅も、出産も、家族も、なにもかも、叶うことはなくなった。
じゅうぶんにがんばった。
できる限りのことはした。
でもダメだった。
もうやれることがない、
なんだか、こんなわたしが、この先誰かを愛しても、愛すれば愛するほど、一緒にいられない気がする。
全力で大切にした今の彼にもこんなふうに粗末に扱われる。
私の価値は本当にないのだなと思う。
仮にいつか、他の善良な男性と想いを通わすことができたとしても、愛されて良いわけがない。
そのような権利は私にない。
なんか、もう、死んでいいと思ってる。
首絞められて、意識が落ちる時、全然苦しくなかった。むしろ気持ちよかった。だから、死ぬのは怖くないんだ。
アイドルといえば、私(25歳女性)が小学生の頃にAKBが流行っていた。
学校で嵐とAKBの話題を挙げない日はなかった気がする。私もFCに入っていたとかではなかったけど、あっちゃんが好きでCD買ったり絶対にMステをチェックしていた。小学校の卒業式では、AKB衣装風のブレザーとスカートを着た。
今考えると謎だけど、ハレの日にそういう格好をした小学生女子は多かった。体感で6-7割の女子は、近所のデパートで買ったよくわからんチェーンが腰に付いてるチェックのスカートと胸元の謎ネクタイという組み合わせだった。(セット売りだった)
今は大学生と同じく、はいからさんスタイルが主流らしい。絶対そっちの方がいいと思う。
大人になって、テレビが必需品ではなくなった。テレビ番組を観ることが少なくなった。逆にYouTubeなどの動画サイトを暇さえあれば開くようになって、ある日動画のおすすめ欄に昭和の大アイドル松田聖子の動画が流れてきた。ふーんって感じで動画を開いた。親がよく「赤いスイートピー」をカラオケで歌ってたから名前は知っていた。
で……気づいたら聖子ちゃんのほとんどのシングル曲を聴いていた。歌っている動画を観あさっていた。(昔のオタクの皆さま映像を残してくれてありがとう)
それでふと、昭和のアイドルって凄いなーとしみじみ思った。備忘録として、私が思う昭和アイドルのすごポイントをゆるく3つ挙げる。
なのでこれは私の好みだが……なぜ歌が上手いと感じたのか少し解説したい。
けれど、昭和アイドルの歌声は「ミュージカルの声」のような印象がある。音に芯があってお腹から出してる感じがする。対して、今アイドルの歌声は「ライブハウスで聞く声」な印象がある。声の芯を残しつつ、喉で息をコントロールしている。(違ってたらすみません)
昭和のアイドル動画を観ると、マイクが歌手の声を拾ってくれない場面がたまに見られる。きちんと音を届けるために、舞台に似た歌唱をする→その歌唱法が当時のトレンドとなったと思われる。
平成以降では、テレビやコンサートで使うマイクは非常に高性能になった。生放送で観客に音が届くかを心配しなくなり、曲に合わせてさまざまに歌唱法を変えることが出来る→今の歌唱トレンド、となったのかな。
昭和的な歌い方は、それこそ某番組の歌のお姉さんが使っている歌い方で聴いていて気持ちがいい。歌声が伸びやかに聞こえる。
同時に、昭和的な歌い方で今の曲を歌うのはすこし難しいかな?とも感じる。感情の細かい機微などを早いテンポで表現するには向いてない歌い方かも知れない。
「昭和 アイドル 衣装」と検索すると、パステルカラーの姫みたいなドレスを着たアイドルの画像が沢山見つかる。もちろん他にも色々な衣装を着用していたのだが、私の中では昭和アイドル=お姫様ドレスの印象が強い。
ドレスを着用するアイドルは今もいるけど、昭和ドレスはまるでリカちゃん人形の衣装のような夢夢しいデザインで、はちゃめちゃ可愛い(例: 『センチメンタルジャーニー』の赤ドレス、『風は秋色』の白ドレスなど)
すこし表現を変えると、デザインがめちゃくちゃブリブリしている。フリルと大きなリボン・ハートが付いていたりして、いかにも母親世代が好きそうなデザインなのかも?
しかし、そのブリブリデザインが「夢の中にいる女の子」「手の届かないアイドル」のような雰囲気をうまく演出していると思う。
こういった衣装が好きかどうかも個人の好みによるけど、ブリブリドレスは世代に関わらず全女児の夢だったと私は思う。大人になった今見ても、ときめいてしまう。
余談だが、80年代の後半になるとテンプレ的なブリブリドレスはほぼ消える。その後のバブル期のギンギラファッションも現在レトロブームとして再評価されている。
令和の音楽番組と聞いてパッと思いつくのが「Mステ」だろう。昭和には「夜ヒット」「レッツゴーヤング」「ベスト10」など、さまざまな音楽番組があった。
また、今の「FNS歌謡祭」のような歌謡祭系の番組も豊富で新人歌手の登竜門だったり、その年の流行歌手などが多く出演していたらしい。
こうした番組では生演奏をバックに歌っていたのだが、このバックバンドの技術が凄いと思った。
音楽は好きだけどいうて詳しくないので、何がどう凄いかと聞かれると説明に困る。
レコードに収録されていないおしゃれアレンジ(即興なのかはわからない)を後ろでブンブン演奏していたりすると生演奏っていいな〜と思った。
加えて当時(80sごろまで?)のバンドが使っていた楽器はピアノ、トランペット、クラリネット、サックスフォーンやウッド・エレキベース……etc、クラシックな楽器が多い。
なんだかディズニーシーにあるジャズバンドのアトラクションみたいで、とてもオシャレだと思った。
アイドル業界は激しい人気レースの繰り返しだと思うが、今も昔もアイドルは「選ばれし者」なわけで、貴重な若い時間を使って観客に夢を見せてくれた(くれている)アイドルは本当にすごい。
おニャン子クラブ以降のアイドルはグループデビューが多いけれど
私はオートクチュールの制作現場に対する知識がほとんどないに等しいが、ステークホルダーの多さや切迫感は目を見張ったし、最終的に時間との戦いになるさまには共感できる部分もあった。私などが共感を覚えるなんて言葉選びとして軽率では?おこがましいのでは?という点は一旦脇に置くとして、スケジュールの甘さや時間管理の不備ではなく、自分の名前で成果物を提出するときに「もう少し、どうにか良くできるのではないか」と思えてしまい手を止められなくなった経験は、私に限らず、ビジネスパーソンとして経験したことがある人も多いはずだ。さらにそれが、オートクチュールのコレクション…!?その後のルックがメディアなどで写真動画そしてモデルや取材者の感想とともに二次三次と広がる。なんて覚悟のいる仕事だろう。「とりあえず自分の持っているボールをなんとかして、次の人に投げれば、なんとかしてくれる、そしてそれはとりあえず所属会社の名前として世の中に出る」ような仕事のやり方と比較すると、全く異なる状況だ。自分の名前で作品を出す、誰も拭えない。そんな状況、いつまでだって試行錯誤したくなるに決まってる。これで完成だ、と手を止める瞬間はどう決めるのだろう?、あるいは降りてくるもの?そんなことも思った。
試写会では作品上映後にトークショーが行われ、WIRED編集長の松嶋氏が進行をつとめ、登壇者から話を引き出した。
松嶋氏はアフリカのゴミ山で服が舞う様子や鳥が飛ぶ様子が美しかったというようなことをおっしゃった気がする。実際に美しい映像だと思った。嘘みたいに大きい鳥(そして実際にも多分、とても大きい鳥)が前後左右に悠然と歩いたり止まったりしている間でゴミを拾う子供や女性の映像、洋服やその切れ端などが鳥とともに空を舞う映像。その映像を現地で撮影した関根氏と中里氏は、現地で風が吹いたり竜巻が起きたりした時は死ぬかと思ったと笑いながら話してくれたが、その裏側は本編に一切残さず、本編では映像として映すのみで、感想は見る側に委ねてくれたことを嬉しく思った。
全体を通して、感想を視聴者に委ねるような仕上がりになっていたように受け取ったし、私はそれに感謝した。この映画で見ることのできる映像たちに、美しい、汚い、怖い、綺麗、綺麗事、すごい、面白い、行ってみたい、行きたくない、見てみたい、着てみたい、など、どのような感想を抱いてもいいし、自分の抱いた感想に対して、なぜそう思ったのか掘り下げたらいいだろう。白黒はっきりつけず、議論し続けるべき話題はたくさんある。WIREDで取り上げられる特集や話題のほとんどがその類のものだ。人々は対話を続けなければならない。だからこの映画『燃えるドレスを紡いで』への感想も、私のようにとても良かったと考える人もいれば、地球温暖化は陰謀だとか、アフリカにゴミが集まるのは当然だといった感想を抱く人ももしかしたらいるのかもしれない。自分あるいは他人が抱いた多様な意見に対して、なぜそう思ったのか、と対話を続けること、対話を諦めないことが日本にも世界にもファッション業界にも必要なのだろう。
この映画を見て、自分が買っている服、ひいては、自分の買い物という消費行動を見直したい、誰かに拭わせるような生活や仕事をせず自分の責務やその範囲を適切に見定めて、その範囲を広げたりしっかり守ったり、うまく守れた時は余力で周りを助けたりしながら自分と地球の関係性をよく考えながら生活したいと思った。
この作品はパリオートクチュールコレクションに2023年の時点で唯一参加する日本人ファッションデザイナー中里唯馬氏に密着したドキュメンタリー映画だ。これはファッション業界が地球に対してネガティブな影響が多すぎること、GHG排出量や環境汚染の大きな原因になっていることに対してファッションデザイナー自身が向き合い、コレクション制作に取り組んだ記録である。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
ここ以降、ネタバレ的な話、映画制作に関わったステークホルダーたちの発言の抜粋などにも一部言及する。そのためこれから視聴を控えていらっしゃり、なんの前評判も誰の感想も読まずにまず自分の主観で作品を視聴したい方は、ここ以降は念のため読まないでください。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
>Fashion production makes up 10% of humanity’s carbon emissions, dries up water sources, and pollutes rivers and streams. What’s more, 85% of all textiles go to the dump each year (UNECE, 2018), and washing some types of clothes sends significant amount of microplastics into the ocean.
>ファッションの生産は人類の二酸化炭素排出量の 10% を占め、水源を枯渇させ、川や小川を汚染しています。さらに、毎年全繊維製品の 85% がゴミ捨て場に送られており ( UNECE、2018 年)、一部の種類の衣類を洗濯すると、大量のマイクロプラスチックが海に流されます。
(引用:The Geneva Environment Network, https://www.genevaenvironmentnetwork.org/resources/updates/sustainable-fashion/ )
しかしファッション業界も、企業やブランド毎に速度も歩みの幅も大きく異なるが、ネットゼロへ進みはじめている。2023年後半の時点で、NIKEとadidasの靴やアパレルを購入した際には、この2ブランドについては、製品タグを付ける紐は紙製、靴の梱包材も全て紙製など生分解性素材への移行が見られた。近年adidasがコラボレーションを発表し続けている英国のデザイナーであるステラマッカートニーは、ステラ氏自身のアパレルや化粧品において早くから持続可能性を追求している点でも名高い。
それでも私たち人間が消費するファッションアパレルとしての服や靴それ自体が、最終的にゴミとして扱われ、それがアフリカへ、良い言い方をすれば「皺寄せ」、正確に言うと「ゴミ処理先」として送られる。
映画『燃えるドレスを紡いで』では、中里唯馬氏と監督の関根光才氏がアフリカを訪れた。中里氏は自身が身を置く業界がうみだしたものたちが消費された結果どこにいくのかという点で、行き着く先のひとつとしてアフリカを選んだのだ。映画本編では、彼らがアフリカで過ごす様子を視聴したのち、中里氏の仕事風景を見ることができた。そしてそのまま、彼のオートクチュールコレクションの映像と、それらへの評価、メディアの反応などを見ることができ、映画は終わった。
ファッション業界とそこに携わる人間としての中里氏の考えなどについては、ここでは言及しない。それぞれが視聴した上で、それぞれの考えを抱いて欲しい。
私自身は、人間の存在とその経済活動ほとんど全てが地球への負荷であると考えている。ファッション業界の影響が大きいにしても、私そしてあなたの存在も地球環境に負荷をかけているのだから、それをわきまえれば「特定の業界が悪だ、最悪だ」なんて意見は軽薄ではないかと思う。気分によっては、2024年に子供を産もうとしている人は、2044年や2064年の地球環境は確実に悪化するだろうことがわかっている中で、なんて酷なことをするのだろうと考えることもあるくらいだし、しかし、そう考えるが子供を産み育てる人を軽蔑や見下げたりすることは決してない。ファッション業界だけが地球環境を悪化させているわけではないと言いたい。
しかし、人間たちの研究開発と技術革新は進み、各業界で既存業界の課題と技術のブリッジが続く中、ファッション業界においては、消費者の意識とともにいろいろなことが遅れているのかもしれない。
映画『燃えるドレスを紡いで』で中里氏がアフリカで過ごしている時の映像で、中里氏がたびたび自分の見たものや景色に対して「美しい」と口にしていたのが印象的だった。その形容詞が、多勢に同じ感想を与えるものかはわからない。実際、監督も「どのあたりが美しいですか」というように問うていた(言葉が少し違ったかもしれない。違いましたら後日修正します)。
アフリカの映像は、日本などの先進国とは全く違う環境で、雑多としたものたちに溢れ私たちがゴミとして扱うものが最終的に行き着いたアフリカのゴミ山や、雨が降らず乾燥し切った土地、そこを移動しながら暮らす遊牧民たちの生活などだ。
中里氏はここから美しさを見出したし、私はそれに感動した。キュレーションされていない場所に行って何を見て何を感じ、どう言語化するか?、これは人による。単純すぎる感想だが、美しさを見出せる人は美しいものを作る側にもなれるのかもしれない、と思った。
中里氏がアフリカから戻り、チームに制作のコンセプトなどを発表したときの様子が好きだった。
制作のコンセプトをチームに発表する、チームはそれに従う、でいい。それでいいのだが、そのときにチームメンバーがそれぞれ発言をして、その様子は「中里氏に完全に従う」といった様子ではなかった。語弊があるかもしれない、もちろん彼の名前で発表するコレクションであり、彼のチームメンバーは彼のコレクションのために働くことになるのだから結果的には従うことになる部分が大きいだろう。しかし、中里氏の決意や発表に対して、取り掛かる前に、チームメンバーが各自発言ができること自体が、これができるチームは日本にある数多の組織の中でも意外と少ないのではないかと思えたのだ。とても良いチームに見えた。
私はオートクチュールの制作現場に対する知識がほとんどないに等しいが、ステークホルダーの多さや切迫感は目を見張ったし、最終的に時間との戦いになるさまには共感できる部分もあった。私などが共感を覚えるなんて言葉選びとして軽率では?おこがましいのでは?という点は一旦脇に置くとして、スケジュールの甘さや時間管理の不備ではなく、自分の名前で成果物を提出するときに「もう少し、どうにか良くできるのではないか」と思えてしまい手を止められなくなった経験は、私に限らず、ビジネスパーソンとして経験したことがある人も多いはずだ。さらにそれが、オートクチュールのコレクション…!?その後のルックがメディアなどで写真動画そしてモデルや取材者の感想とともに二次三次と広がる。なんて覚悟のいる仕事だろう。「とりあえず自分の持っているボールをなんとかして、次の人に投げれば、なんとかしてくれる、そしてそれはとりあえず所属会社の名前として世の中に出る」ような仕事のやり方と比較すると、全く異なる状況だ。自分の名前で作品を出す、誰も拭えない。そんな状況、いつまでだって試行錯誤したくなるに決まってる。これで完成だ、と手を止める瞬間はどう決めるのだろう?、あるいは降りてくるもの?そんなことも思った。
試写会では作品上映後にトークショーが行われ、WIRED編集長の松嶋氏が進行をつとめ、登壇者から話を引き出した。
松嶋氏はアフリカのゴミ山で服が舞う様子や鳥が飛ぶ様子が美しかったというようなことをおっしゃった気がする。実際に美しい映像だと思った。嘘みたいに大きい鳥(そして実際にも多分、とても大きい鳥)が前後左右に悠然と歩いたり止まったりしている間でゴミを拾う子供や女性の映像、洋服やその切れ端などが鳥とともに空を舞う映像。その映像を現地で撮影した関根氏と中里氏は、現地で風が吹いたり竜巻が起きたりした時は死ぬかと思ったと笑いながら話してくれたが、その裏側は本編に一切残さず、本編では映像として映すのみで、感想は見る側に委ねてくれたことを嬉しく思った。
全体を通して、感想を視聴者に委ねるような仕上がりになっていたように受け取ったし、私はそれに感謝した。この映画で見ることのできる映像たちに、美しい、汚い、怖い、綺麗、綺麗事、すごい、面白い、行ってみたい、行きたくない、見てみたい、着てみたい、など、どのような感想を抱いてもいいし、自分の抱いた感想に対して、なぜそう思ったのか掘り下げたらいいだろう。白黒はっきりつけず、議論し続けるべき話題はたくさんある。WIREDで取り上げられる特集や話題のほとんどがその類のものだ。人々は対話を続けなければならない。だからこの映画『燃えるドレスを紡いで』への感想も、私のようにとても良かったと考える人もいれば、地球温暖化は陰謀だとか、アフリカにゴミが集まるのは当然だといった感想を抱く人ももしかしたらいるのかもしれない。自分あるいは他人が抱いた多様な意見に対して、なぜそう思ったのか、と対話を続けること、対話を諦めないことが日本にも世界にもファッション業界にも必要なのだろう。
この映画を見て、自分が買っている服、ひいては、自分の買い物という消費行動を見直したい、誰かに拭わせるような生活や仕事をせず自分の責務やその範囲を適切に見定めて、その範囲を広げたりしっかり守ったり、うまく守れた時は余力で周りを助けたりしながら自分と地球の関係性をよく考えながら生活したいと思った。
あと、WIRED JAPANが大好きなので、これからも愛読し続けたい。
追記。
映画に登場する人々に、登場シーンでクレジット(登場人物の名前や所属)を表示させた上で、もちろんエンドロールにも名前を掲載する、という画面の作り方は、ドキュメンタリーの手法としてめずらしくはないのでしょうか。この辺りの知識がないため滅多なことは言えないのだが、登場人物の名前や所属をその画面で明示する編集が好きだった。やはり、協力者の一人として自分が登場するシーンには、期待や嬉しさなどをもっているはずだ。私はこのような、協力者たちへ感謝を伝えるようなあたたかな編集や画面作りに強く好感を持つ。1人ではできなかったことへ協力したくれたステークホルダーにできる限りの感謝を述べる姿勢を、私も忘れないようにしたい。
ジェニファー・ローレンスもだけど。
あの場所は差別を行ってはいけない場所と近年何年も繰り返し舞台上でも言われてた場所なんだよね。
別に二人とも公園で散歩してたらいきなりアカデミー賞の会場に連れてこられたわけじゃなく「最有力候補」「前哨戦を見てもほぼ確定」「てめえら受賞すんの知ってたよな?」状態でそこにいる訳で、言うほど取り乱すような状況でもなく、オスカーの場も初めてではない。新人でもない。だから驚いた様子なのは演技だとわかるんだけど(流石ハリウッド俳優だね)(ドレスが壊れたって?コート借りろよウケ狙いかよ)
あの場所はオスカーの舞台なんだよ。何度も言うけどオスカーって人種差別撤廃運動してたとこなんだよね。
なんならお前らが無視したミシェル・ヨーとキー・ホイ・クァンは、前年度の映画賞受賞時のスピーチでアジア系であることでアメリカで受けてきた差別を訴えてきてくれた人たちなんだよね。
具体的に言おう。
今のオスカーは有色人種がそこに居たら、白人は差別言動が見えないように振る舞わなければならない場所なんだ。つまりオスカーの差別撤廃運動って白人に向けられたものなんだよ。
まあロバート・ダウニー・Jrはもともと馬鹿だよ。いかれた元薬中だよ。でもエマ・ストーンってなんか差別はんたーいとかKPOP好き〜とか言ってた人だよね。有色人種の手を真っ先にとって意識があることをアピールするくらいしても良かったんじゃないの?
エマ・ストーンについては擁護論があるが、エマが丁寧に対応していたらどれも不要だった論だし、ジェニファー・ローレンスだって大御所のサリー・フィールドがあんなにドレスを引っ張ってんだから、止まればよかっただけだろ?サリー・フィールドの焦りが全てじゃないか。擁護派はミシェル・ヨーが「あなたから渡してあげて」と言った幻聴が聞こえたらしいけどさ。それでもサリーが止めてんだからジェニファーは止まれよ。
ていうかアジア人差別とかで二人話題に上がってるけど、今年のオスカーひどいもんだったねぇ。
黒人が少ない印象だったのはそれはそうなんだが、
イスラエルを支持して虐殺を推奨するプロデューサー=オッペンハイマーのプロデューサー、ジェームズ・ウッズに製作から謝辞が送られたりさ。
ガザの停戦のアピールバッジをつけてる人が多いのに、ガザやウクライナ問題の話が出たら拍手がぱらぱらで全体的に興味ないのか、戦争推進なのか。(じゃあドキュメンタリー映画に賞やるなよ)
メディアもなんも言わんな。
韓国語や中国語で燃えてる気配もあり他アジアの言語も見かけるし、日本でも荒れてるけどなんも言わんな。
おそらく欧米誌待ちか……いや欧米の記事でねぇぞ。だってあいつらのポリコレにはアジア人なんて含まれてないんだからな。洋画ファンだって普通にそれ受け入れてるもんな。
思い出したけどトップガンマーヴェリックで申し訳程度にモブにアジア系居たの、大昔の欧米映画の黒人っぽくてウケたよね。
まあ洋画沼にハマった自称欧米人のアジア人は詳しいけどそういう状況は見えてないか。
ギャルゲ・乙女ゲ界隈の著名ゲームライターの抜擢による良シナリオに定評のあるライトフライヤースタジオ(現WFS)だが
器楽部と夢世界を舞台に心を紐解いていくRPGだったららマジは、運営時期の大部分をエロに媚びず水着ドレスなどを頑なに出さずに続けていた結果
まあVtuberブームの勃発による事業的な浮気のせいもあったとは思うが運営がおぼつかなくなった
末期には事実上の新上位レアで搾り取り、あれだけ避けていた水着やバニーなどの露出系も出し、それでもサ終してしまった
次に出したヘブバンはヒットしているようだが、露骨エロをやっているのかどうかは知らない
少なくともハーレム構造のゲームであるなら、いくらシナリオが良くても多少のセクシーさをたまには出していかないと成功しないだろう
むかしむかし、あるところに「まほうつかい」と
「おじいさん」が住んでいました。
ある日、おじいさんは年金を受け取りに街へ
まほうつかいが川で洗濯をしようとすると、川の上流に箱が捨てられていました。中を見てみると
そこには裸の赤ちゃんが寝てました。
「まあなんてかわいいこなんでしょう」
まほうつかいがそう思って、手を伸ばすと
「おぎゃあおぎゃあ」とすごい声で赤ちゃんが泣き出しました。それはそれはすごい声で、獣は逃げ出し、木は揺れて、まほうつかいは鼓膜を守ろうと耳をふさいでしまうぐらいでした
すると、川から桃が一つどんぶらこどんぶらこと
流れて来たので、まほうつかいはそれに「えい」と魔法をかけると桃が大きくなりました。
「とりあえずここにはいってなさい」と
そうして、まほうつかいは大きな桃をゆりかごの様に持ち帰りました。
まほうつかいはおじいさんに事のあらすじを説明しましたが、年金に浮かれたじいさんは全く聞く耳を持ちません。しまいには包丁を取り出して、桃を真っ二つに割ってしまいました
おじいさんはやっと、まほうつかいの話を理解しました。そうして、桃から生まれた女の子を
脈略も無く「新田玲蘭」と名付け
玲蘭はまほうつかいとおじいさんに愛されて
ある日玲蘭は二人に「鬼ヶ島で舞踏会が行われているとか噂があって、面白そうなのでいくね」と
言いました。
まほうつかいはシンデレラに金色のドレスとガラスの靴を履く魔法をあげました
おじいさんはきびだんごをくれました
そうして、鬼ヶ島へ向かっていると
行こうとゆうんだい?」
行くのです。この格好は一時的なもので、きれいなドレスは持っています」
女性はそれを聞いて「ははぁ、こいつは嘘つきの頭がおかしいやつかもしれないぞ」と思い
玲蘭についていく事になりました
こうして、鬼ヶ島へたどり着いた二人
島を歩くと、音楽が聴こえてきました
そこでは鬼たちが踊りを踊っていましたが、なにか楽しくなさそうに踊っています
「鬼さん鬼さん、どうしてそんな楽しくなさそうに踊っているの?」玲蘭は聞きました
「だって鬼どうしで踊るのは飽き飽きしたよ。
人間と踊りたいなぁ出来るなら…ん?」
鬼たちは玲蘭の姿を見て、びっくり!
あわあわし出したと思ったら、次々と「私と踊ってください!」と玲蘭に頼みました
踊ってあげました。嫌がっていた女性も見ていたら踊りたくなって、いつの間にか踊っていました
次第に、噂が島中に広まって、鬼の大将がやって来ました。鬼の大将はとても恐ろしい顔をしていましたが、玲蘭に一目惚れしてしまいました
「ええ、もちろん」玲蘭は大将の手をやさしく握ると、すらりすらりと踊りだしました
鬼の大将は踊りが実はあんまり得意ではありませんでしたが、玲蘭に合わせているとまるで風に流されてるみたいに楽しく踊れました
そうして、踊り疲れてついに玲蘭も帰らなきゃいけない時間になってしまいました
玲蘭は「いつか会いに来てくれる時のためにこれをあずかっててください」と大将にドレス・ガラスの靴をあずけました。
そうして、もう一人の女性は鬼ヶ島へ住むことになり、玲蘭は家へ帰りました
数ヶ月が経ち、鬼の大将は「玲蘭ちゃんに会いに行く!」と女性が止めるのを振り切って島から玲蘭のところへ向かってしまいました
街へつくと、鬼の大将は靴を見せて「この靴の持ち主を知りませんか?」と聞いてまわりました
靴を抱えて座り込んでしまいました
そこへ、一人の女性が通りかかって
「こんなところに座っていたらおしりがつめたくなっちゃいますよ」と声をかけました
みるとその女性は格好こそ違いましたが、間違いなく玲蘭でした
「れ、玲蘭さん…」大将は涙を流しながらぴかぴかに輝いたガラスの靴を渡しました
「まあ、覚えていてくださったのですね。靴が戻ってきたら踊りたいなと思っていたのですよ」
玲蘭は大将の冷たくなった手を引くと、街の中心に走っていきました。そして、大将と何回も何回もぐるぐるとまわりました。まるであの時みたいに何回も…
大将が言いましたが
玲蘭は笑って「いいえ、雨なら誰もあなたをいじめたり嫌ったりする人は来ませんから」と大将を持ち上げてしまいました
大将は玲蘭の力にびっくりしましたが、今度は逆に大将が玲蘭を持ち上げてしまいました
そうして、疲れるまで踊った二人は空が晴れた瞬間に互いに「好き」とぶちまけました
すると、家に篭っていた人々が飛び出して、祝福の踊りや歌をみんなそれぞれ披露しだしたのです
そして、鬼ヶ島ではいつでもダンスパーティーが開かれる様になって、いくつもダンスホールが建てられて、いくつもの出会いが産まれました
でも、その中心では恐ろしい顔をした鬼とガラスの靴を履いた女の子が誰よりも楽しそうに踊っているそうで、島を歩いているとまほうつかいやおじいさんに出会えるかもしれないとか…
をおわり)
体型を3種に分けてわかりやすくしたかと思いきや、3種のどれかにきれいに当てはまらない人用に新種の分類案が出てくるじゃん。
パーソナルカラーも顔タイプもそう。最初4種だったかと思いきや、当てはまらない人が出るから増えて、どうせ複雑化するんだよね。
私は上半身が瘦せていてデコルテが貧相なので胸筋の上部を鍛える自重トレーニングしました。
いわゆる骨格ウェーブというやつに当てはまる点が多く、首元が詰まったとろみ素材のブラウスやニット、小さなアクセサリーをつけるとかが似合わせの定石なのだろうけど、
ただでさえ我が強い性格しているのに「おしとやか」な性格だと誤解されやすくて迷惑していて、そこに女子アナみたいな服装をして助長させたいわけがないだろうと。
どうせ抵抗してカジュアルやマニッシュ似合わせるために筋トレするわけです。そんで下半身デブだからあまりパンツスタイルは似合わないし、
骨格ウェーブにはスカートが推奨されがちだけど、それでもジーパンを穿きます。
それに「骨格ウェーブに似合うジーンズ」とされているものと、実際に試着して似合う(デブ脚が比較的すっきり見えて、脚が長く見える)ものが全然違う。
結局試着しないと分からない。分類云々言うより片っ端から試着するべきだと思う。店員の接客がしんどいならチェーン古着屋でやれば良い。
彼氏はなで肩で、メンズのファッション定石からいえば肩パッド入りのドレススタイルでジャケパンとかにしたほうが良い。
だけどTシャツ似合わせのためにダンベルで肩鍛えてます。結局、着たいものを着るために抵抗するんだよ。
そして3種4種に分類するのは無理。顔が大きいとか、首が短いとか、ウエストが寸胴とか、脚が太いとか、脚が短いとか、背が低いとか、デブとか、個別に対応するしかない。
あとどう考えても洋服が似合うには、身長が高めであることと、体が引き締まっていることが重要だと思う。遺伝と生活習慣。服選びの前の問題。
タイプとかこねくり回してても仕方ない。着る布をとりかえるよりも脂肪減らして筋肉増やすほうが明らかに好印象得られる。布取り換えだけでなんとかしようとしても自己満になる。
小さい頃に観たディズニーを大人になってもう一度ひとつずつ観ている。改めて見るといろんな発見があって面白い。感想を残しておく。
・「動きの研究のためにスタジオで子鹿を飼ってた」という話を聞いたことがあるが納得。動きの正確さ以上に「見て!うちの子鹿!かわいい!」という作画の圧がすごい。壮大な鹿ノロケ映画を見せられている
・神作画なのでただ鹿の親子が歩いているだけで春も夏も秋も絵になる。そして冬の終わりに人類へのフレッシュな怒りが湧く
・二度目の春、鹿とうさぎとスカンクの三匹が「ショートコント・急に共学になった男子校」をやりだして面白かった
・というかメス鹿もメスうさぎもメススカンクも出てくるなり色気がすごすぎて美人局だったらどうしようと思った
・バンビがメス鹿について行ったらヤカラの鹿が出てきたので「やっぱり美人局じゃないか!」って言いそうになったけど違った
・自然は美しく動物はけなげで人類は最悪、地球の文明はもう鹿に譲ったほうがいい
・犬が犬に似た人間さんぽさせてるとこ好き
・クルエラのキャラが立ちすぎている。主人公(人間のほう)の家に来た数分の間に悪役がやりそうなこと全部やって出て行った
・けど主人公サイドも完全に善良なわけではなく、別室からクルエラdisソングを演奏して煽り散らかしたりする
・子犬が15匹産まれるシーンでこのまま101匹まで増えるのかと思ってはらはらしてしまった。残り84匹は別途で追加があるらしい
・泥棒たちの観ているテレビで「懲役囚をスタジオに呼んで何の犯罪で収監されたかをクイズにする」というコンプラの墓場みたいな番組をやっていた
・101匹のダルメシアン、圧巻すぎる。犬を無地にするだけで作画コストが半減するのにあえて犬種をダルメシアンにした漢気がすごい
・脱走の道中、「ありがてえ牛」としか言いようのない存在に救われる
・クルエラは本当にどうしようもない最悪の女だけど、それはそれとして売れた曲の印税の1%ぐらいは分けてあげてほしい
・冒頭のラクダに乗ってるシルエットを見てアラジンえらい頭身低いなと思ったらぜんぜん違うおっさんだった
・小さい頃観た時、アラビアンナイトの歌詞の「魂も溶けそうな物語」をなぜか「ふかし芋とけそうな物語」だと勘違いしていてずっと美味しそうだなと思いつつ謎だった。大人になってやっと疑問が解けた
・ジャファーの化けたジジイ、名演すぎる。普段のおすましぶりを考えるとここまでキャラを崩したという事実だけで笑えてしまう
・ジーニー、世界中のお祭りを一人に凝縮したようなパーソナリティなので画面にいるだけでずっと楽しい
・ジーニーが片手間に化けた踊り子の女の子がかわいすぎて行くあてのない恋心を持て余してしまった
・ホールニューワールドのあとに完全にメロメロになるんじゃなくてハッキリさせるべきとこハッキリさせるジャスミン、本当にしっかりしてる
・海に沈んだアラジンを助けるジーニー、この時点で契約関係を超えた友情を築けてるんだよなと思うと感慨深い
・アラジンからジャファーの目をそらすためにキスまでするジャスミン、ディズニープリンセスの中でもかなり体張っててかっこよかった
・ジーニーの渾身の「やなこった!」が気持ちよかった。自由になれて本当によかった
・実はこれだけディズニー+に登録して最初に見たから当時の記憶を頼りに感想を書く
・推しの等身大フィギュアとイチャついてたらブチギレ親父が入ってきてオタク部屋破壊されるアリエルかわいそう
・アリエルの歌ってたメロディをたて笛で完全再現できる王子、絶対音感がすごい
・お城のシェフのくだり、「人間のシェフが普通に魚を料理してるだけで魚にとっては恐怖」ってネタだと思ってたらシェフの言ってることもまぁまぁヤバかった。料理人になっていなければシリアルキラーになっていた人材
・巨大化した完全体アースラをドライビングテクひとつで串刺しにする王子、人間界最強の男
・アリエルがアースラの力で人間になったときは服着てなかったのに、親父の魔法で人間になったときは綺麗な青いドレスを着てるのに気づいてぼろぼろ泣いてしまった。世の中、むしろアースラとの契約みたいに有償で成り立っているものの方が多数で、だけど親父がアリエルに贈った魔法と花嫁衣装だけは泣きたくなるぐらい無償なんだよな
----------
前回はこれ
https://anond.hatelabo.jp/20240128001150
そのさらに前はこれ
https://anond.hatelabo.jp/20240126051251
ピノキオとアリスとピーターパンとターザンについて書いた記事もあったんだけど誤操作で消してしまってかなりショックだ……。どこかに下書きが残ってたら再掲するかもしれない。
また溜まったら書きにくる。
その昔、ある国にシンデレラ(灰被り)というクソ野郎がいました。どうしてシンデレラというのかと言いますと、彼女は母親の葬儀で自身の頭に遺灰をかけたのでありました、その様子から灰被りと呼ばれており、本名を失ったのです
妻に先立たれた夫もまたクソ野郎で、葬儀の翌日には三つ歳下の女を騙し、身体を重ね、結婚まで
血の繋がっていない姉と妹が出来たのです
数日経つや、「離れがあった方が便利じゃないかしら」と庭にあったシンデレラの母親の墓と墓のそばにあった樹齢何百年の木を伐採し、離れの建設を強行しました。
そんな、クソ野郎の一家にある日城から舞踏会の知らせが届きました。が、姉はシンデレラが読む前に「お前が行けるわけねぇだろ」と知らせを破いてしまいました。「最初から行くつもりなんかねぇよ。地獄にでも行った方がマシだ」とシンデレラも行く気はさらさら無かった様ですが…
そうして、出産のため母親が入院した日に姉は舞踏会へ行ってしまいました。庭では相変わらず、離れの建設が進んでいました。
そんな事も考えましたが、シンデレラは止めました。そこへ突如、魔女が現れました
「シンデレラよ、どうして舞踏会に行かないんだね?」魔女は聞きます
「てめぇに言ったとこで何になる?」
すると、シンデレラはなぜか宝石のようなドレスに包まれてしまったのです
「舞踏会に行かなければ、そのドレスがお前を殺すよ。さあ、行ってらっしゃい」
流石にこんな所で死にたくはないシンデレラ、しぶしぶお城へ行くことにしました
お城では姉と同じようなクソ野郎が一夜の出会いを求め、踊り狂っていました。誰一人として本心で他人を褒める者はおらず、内心は皆「自分が世界の中心だ」とばかり思っているようでした
シンデレラは踊らず、部屋の端でタバコを吸いながら時間を潰してました。そこへ、誰よりも派手で高級な礼服を身につけた男が「お嬢様、踊らないのですか?」と話しかけました
答えました。男はなぜだか一目惚れしてしまいまして「じゃあ、別室でもおっと楽しいことしましょうよ。ほら、来るんだ」と無理やりシンデレラを城の別室に連れて行こうとしました。しかし、シンデレラは咥えていたタバコを手に押し当て
「手が滑りましてよ」と笑いました
タバコを押し当てた時の声があまりに情けなかったものですから、誰もその男とは身体を重ねる者も踊る者もいませんでした。もちろん、そんな憐れな男がこの城の持ち主である王子さまである事も誰も知ろうともしません。
やがて、飽き飽きしたシンデレラは靴を階段へ放り投げ、素足で家へと帰りました。靴はガラスだったので、粉々に砕けてしまいました。
翌日、下人が城を掃除していると片方だけの靴を階段で発見しました。明らかにこれは変だなと思い、ひっそりと靴を調べてみるとなんと致死量の猛毒が塗られていたのです
これは王子を殺害するために違いないと城の中で噂が広まり、やがて大規模な調査が行われることになりました。調査と言っても、単純なもので
靴のレプリカを作成し、サイズがぴったり合った人を容疑者として投獄するというものでした
そして、次々にサイズの合うだけで人々が投獄されていきました。中には舞踏会に行って無かった人もいましたが、嘘に違いないと無理やり連れていかれてしまいました。
やがて、シンデレラの家にも調査がやってきました。それは退院した母親と子供を皆で眺めている時です、姉はもちろんサイズは合いませんでした
なので残りはシンデレラのみでした。そうして、シンデレラに姉は呟いたのです「あなたには現世より地獄お似合いなようね」と
が、私は舞踏会に行っていない、証拠に家のどこにもドレスが無いからと無実を訴えました
しかし、王子さまはゴミ箱に捨てられたタバコの空箱を見せ「これはあの時、犯人が吸っていたものと同じ銘柄だ、なぜなのかな?」と言いました
すると、シンデレラはニヤリと笑って
「やっぱりあたいは死神と踊りたくなっちまったよ。ね、王子さま」と言いました
王子さまたちが気づいた時には既に手遅れでした
足元に転がった手榴弾はシンデレラごと、王子さまを爆破したのです。
時刻は正午を回ったところでした。街に鐘が鳴り響き、住民たちは昼食に祈りを捧げていました
飛び散った靴の破片は凶器となり、やがて誰かを傷つけるだけの悲しい破片となり、誰もそれの元の姿など想像しませんでした
おわり
人が死んでも天使になるわけじゃない、キリスト教的世界観においても
この表現を多用している一番有名な漫画はおそらくドラゴンボールだろう
どこかで発想の飛躍があったのかな
気になるねえ、ぐぐりましょうねえ
天使に限らず聖人などを描いた絵画にも、聖人の後ろに光が差す表現が用いられたのだとか
天使に限らないのであれば以降は天使の輪じゃなくヘイローとここでは書くようにしておこう、ブルーアーカイブ風の呼び方
発想としては仏教の後光と同じか
まだ足りない
天使や聖人を描いた絵画→???→漫画的表現の死者を表す記号としてのヘイロー、間に挟まるものを探さないと
なんかこれだ!って情報がなかなかヒットしないな
勘だけど風刺画が間に挟まる気がするんだよな
天使や聖人を描いた絵画のパロディで、天使を例えば政治家に差し替えた風刺画みたいなのがどっかにあるんじゃないか
それが転じて死者の頭上にヘイローを用いるのが一般化したとか?
一応、英語圏のイラストで死者の頭上にヘイローがあるイラストはまあまああるっぽいが……
日本でもなんかドラゴンボール以前に死者の頭上にヘイローがある表現をした漫画無いかな
……手塚治虫がやってる気がする
あの人だいたい何でもやってるからな、あとで探すか
うーん、探し方が下手
wikipediaの「光輪 (宗教美術)」の「大衆文化における使用」の記述が少ないな
英語版だと……英語版の「Halo (religious iconography)」には大衆文化の項自体無いのか
うーんアメコミにもヘイローの使用あるかもだが、アメコミに詳しくない
ここまで調べたというメモ
なんかコレ!っていう本があれば読みたいんだが、この疑問をずばっと解決する文化史本は無いかもなあ
今週の『サチ録』、番外編15を読んだ結果
---
こういう路線で調べていくのがよさそうか
---
なぜ亡くなった人の頭上に「天使の輪」を描くようになったのでしょうかよろしく... - Yahoo!知恵袋
漫画の記号的表現としては昔からある定番スタイルですよね。 ディズニーのアニメにも、ヨーロッパのカートゥーン(cartoon)にも良く死者の記号として使われていますね。
人間は死ぬと天使になりますか | ものみの塔 オンライン・ライブラリー
アリーロという,まだ7歳の幼い女の子が亡くなりました。悲しみに打ちひしがれた両親は,柩に横たわる白いドレス姿の娘を前に,ぼう然としています。慰めようとして,神父がこう言います。「神様は,天使をもうひとりお望みになって,アリーロちゃんをお召しになったのです。幼子の魂は,今ごろ,神様のみそばで翼を広げて飛んでいますよ」。
死んだ人間の魂が天使になる,と信じている人は少なくありません。公式の教理として教えられることはまれですが,映画やテレビの連続ドラマでは,死んだ人が翼のある天使になって,生きている人を守る,という話がよく取り上げられます。
あなたはいかがですか。愛する人が死後に天使になると考えておられますか。聖書は何と教えているでしょうか。では,天使の本質について,また死んだ人の本当の状態について,聖書そのものが何と述べているかを調べてみましょう。
うーん、「死んだ人間の魂が天使になる」という発想は無いわけではないのか
それが転じて天使ではない死者の霊魂的な何かの頭上にもヘイローが描かれるようになった?
っていうかドラゴンボールつまみ食い的にしか読んだこともアニメを見たこともないんだよな
---
ここら辺の本があるいは参考になるか
だいたい最終章は「現代における天使がどのような姿で描かれているか」みたいな話題だから、そこに期待が出来る
---
英語圏の情報を探そうとしてもゲームの『HALO』ばっかり引っ掛かってやりにくいったらありゃしない
---
そうだ、『トムとジェリー』で爆死したトムが雲の上でヘイローつけた状態で不満そうな顔してるってオチのエピソードがあった気がする
プレゼントボックスに入ったトムが針でめった刺しにされるシーンは涙なしでは見られない
やっぱり「死んだら天使になる」って発想がポップカルチャーである程度一般的に表現されていたようだ
---
ってことは
天使や聖人を描いた絵画→死後に天使になる認識、またそれを表現したイラストやアニメ→天使ではなく単なる死者にもヘイローがつけられた
……か?
まだ足りないぞ
キリスト教の教義だと死んでも天使になるわけじゃない、それはカトリックだろうがプロテスタントだろうがエホバだろうが他の何かであろうがだいたい同じだろう
ヘイローは聖なるものの加護を表すからどんな死者でもヘイローは頭上に表れる?
でもトムは爆死して天使になっとるじゃろがい
まだまだ調べないと納得できないな
---
ひょっとしたら演劇やミュージカル側の文化が関係している可能性もある
死者を表現する記号として頭の上にヘイローをのっけた衣装を着ていた……とか、あるかもしれない
一応留意して調べる事
---
「池にコインを投げる風習はいつから始まったのか?」みたいなテーマでおととい調べて日記書いたときは、その風習を有名にした「Three Coins in the Fountain」っていうアカデミー賞受賞作品を見つけたんだよな
聖者の記号としてではなく、単なる死者の記号としてヘイローを使った何らかのヒット作品があったので一般化したみたいなキッカケがひょっとしたらあるかもしれない
しかしあんまりこの仮説に固執するのはよくないな、気長に探そう
あるとすれば19世紀後半以降くらいのはず
---
そうか、調べるポイントが二つに分かれちゃったんだなあ
②漫画的表現で死者が天使となった描写→漫画的表現で死者に(翼など他の天使的要素抜きで)ヘイローのみが付与される描写となった転換点を探すルート
こりゃ大変だ、いったん追加調査ここまで
---
次にやる事
→実は守護聖人の頭上にヘイローだけでなく、翼がはえているなどあったりするかどうか
:積んでるキリスト教入門みたいな本をさっさと読む
→なんもかんも体系的な知識が欠けているのが悪い
→でもなー、自分の興味の向き先は「キリスト教の教義はこういうものです」って知識じゃなくて「人々はキリスト教をこのように解釈して信仰していました」という知識なんだよなあ、基礎の勉強ってどうしても飽きちゃって
→第一次世界大戦は1914年7月28日~1918年11月11日、ちょうど探したい年代
:キリスト教的素養がない私がヘイローの描写を見たとき、それが宗教的な性質を持っているのかそれとも記号化したものなのかを区別できるのか?という点について考える
:そもそもヘイローがあって翼があったらそれは天使とみなしていいのか?「天使」って何?「御使い」って何?何もわからない、調べる
→基礎(略
---
②についてだが「ゲームのドット絵でキャラが死んだことを表現するのにヘイローが便利で、ドット絵で翼を描くのが大変だったから省略された」という仮説を思いついた
流石にお話として出来すぎな気がする、この仮説は最終的に棄却することになりそうだ
しかし調べるとっかかりとしては魅力的
ヘイロー関係ないけど「ゲームで戦闘不能をどう表現するか?」というテーマを調べるのめちゃくちゃ楽しそう
また別の機会に調べよう
---
「Heaven Cartoons」というジャンルの風刺画があるらしい
画像検索してみるとなるほど確かに天国で天使がなんやかんやする種類の一コマ漫画
いつ頃から描かれているかをちょっと調べてみたがなかなか難しい
Wikipediaの「カリカチュア」のページの「主な作家」の項に載ってる人の代表作を一つずつ見ていくしかない
---
星新一がアメリカの一コマ漫画を蒐集してそれについてエッセイを書いた『進化した猿たち: The Best』をkindleで購入
権利関係の問題のせいかほとんど掲載が無くなってしまっているようだ
もっと挿絵を見たいから挿絵が載ってる物理書籍のほうを読まないといけないなこれは
---
やっとひとつ見つけた
ざっくり言うと政治家が天に召されている様子の風刺画が1868年?1869年?に描かれた、ってところか
翼があり、ヘイローもしっかり完備
しかし余談だけれど死後4年後たってから風刺画が描かれていて不思議だ
なんか「天使になる」ってのは語弊があって「昇天するときに天使と同じ装いをする」という言い方の方が正確なのかもしれない
---
トムとジェリー以前のオールドカートゥーンを片っ端から観ているが、天に召されるシーン自体を全然見つけることができていない
ところでチャップリンの『キッド』に天使が登場するシーンがあった
オールドカートゥーンの本当に初期の初期は紙の漫画をそのまま映像化したようなやつだったから、漫画の文脈だと思うんだけどな……
---
『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文を見つけたが、これは読む価値がありそうだ
絵やイラストとして描かれていなくても天国に行くとヘイローと翼とハープが通行証かのように与えられる認識は当時の人々視点で昔からあったようだ
18~19世紀の文学作品で天国を描写しているものを探すべきだな
---
Elizabeth Stuart Phelps Wardという人が書いた『The Gates Ajar』という宗教小説がアメリカで1868年に刊行されめちゃくちゃ売れたらしい
当時の人々の天国観に影響ありそうに見える
In contrast with traditions of Calvinism, Phelps's version of heaven is corporeal where the dead have "spiritual bodies", live in houses, raise families, and participate in various activities.
カルヴァン主義の伝統とは対照的に、フェルプス版天国は、死者が「霊的な身体」を持ち、家に住み、家族を養い、さまざまな活動に参加する身体的なものである。
とのこと(『The Gates Ajar』のwikipedia英ページより引用しdeepl翻訳)
うーむ、おぼろげに流れが見えてきた気がする
『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文の序文あたりに19世紀半ば以降に天国ものの小説が流行ったみたいなことが書いてあったが、その一因はこの小説な気がする
---
そういえばこの日記メモには記述をしていなかったが、宗教美術におけるヘイローは写実主義の高まりによって19世紀までにほとんど衰退しているらしい
なので宗教美術において死者(例えば聖人、殉職者など)にヘイローが描かれたものがあったとしても、カートゥーンのヘイロー描写がその影響を受けているとはちょっと考えにくいのではないか
一度断絶しているのでは?という疑問を持っている
ヘイロー描写は一度衰退し、再び風刺画やカートゥーンなどで記号として便利なので復活したという前提で調べている
あー、いや……この前提本当に大丈夫か?自信ないな
19世紀のアメリカで人々が見ることが出来た美術や絵画はどのようなものだったのか?というのがわからないと正確なことは言えないな……
---
自分が確認した限り、カートゥーンアニメで「死んだら天使の装いをして天に召される」表現をやった一番古いものは『トムとジェリー』の『ネズミ取り必勝法』
オールドカートゥーンを全て総ざらいして確認したわけではないからもっと古いのがあってもおかしくはない(アカデミー短編アニメ賞受賞作品すらすべて確認できていない)
幽霊は沢山出てくるんだけどねえ
『ネズミ取り必勝法』はアカデミー賞とる程度には人気だったので、カートゥーンにおける元祖でなかったとしてもビジュアルイメージ固定に大きく貢献したといっていいかも
---
キリスト教の教義では死者は天使になるわけではない、という認識があった(今でもそうではある)
→19世紀半ばにスピリチュアルな小説が流行り、人々の天国観を変えた
→それは死後に霊的な体を持った死者が天国で現世と同じような生活を営むものだった
→たまたま印刷技術の発展とタイミングが同じで新聞の挿絵、風刺画、漫画などで聖人でもなんでもない普通の人の死者の絵が多く描かれるようになった
→死者に天使の装いをさせた風刺画、紙の漫画、カートゥーンアニメでビジュアルイメージが固定される(この時点ではヘイローと翼はセット、あくまで天使など聖なる魂的な存在(専門用語を適切に使う自信が無いので曖昧な表現)と同じ装い)
→日本でキリスト教の文脈が無視された記号的な描写がされ、ヘイローのみで死者を表す記号的表現となる
……という流れだという仮説を立てることが出来た
うーん、自信ない
「18世紀以前に普通の死者も天に召されるときは天使と同じ装いをするという認識があった」と言える材料を見つけることができていない
印刷技術が生まれる以前だと絵画にそこらへんの人が天に召される絵なんて描かれないんだよなあ
探すとすれば厳格な宗教者が教義通りに書いた本でなく、人々を慰撫する目的で教義からすれば不正確な内容が書かれた本みたいなのがあればあるいは……(というか、それが『The Gates Ajar』なのよ)
また、『The Gates Ajar』などの天国観を変えるイベントによって死者が天使の装いをするようになった、とある程度の自信をもって言えるような材料は正直見つけることができていない
しかし、とりあえず一定のレベルで納得は出来たからこの疑問はクローズ