はてなキーワード: トピックとは
カウンセラーは基本的に傾聴してくれる人で答えは出してくれない。例えば相談者が違和を感じているが、原因がわからないような事柄について、カウンセラーはうまく発言や思考を促すことはするが、気づきや解決は相談者自身が行う必要がある。
なので、初回ないし数回のカウンセリングで「あなたの問題はこれこれなので、こうすると治りますよ」みたいなアドバイスを期待しているんだったら、また裏切られた気持ちになるかもしれない。
もしそういう端的なアドバイスを数回のセッションでしてくるカウンセラーがいたら、自分は警戒する。
自分もカウンセリングを1週ごとに1年以上受けているけれど、最初は期待外れな印象を抱いた。こいつ子供時代まで遡って色々聞いてくる割に何もアドバイスしてくれないじゃんって思った。
でも、自分の過去や気持ちを主題に1時間近く他人と会話する機会なんてなかなか無いよなあと思って続けている。単純に多少話すと楽になるというのもある。
効果のほどはというと、自分の思考の癖がわかってきたり、自分がこうだと思い込んでいたことが他人に話すことで「いや、そうとも限らなくね?」みたいに思い直すこともあった。そういう気づきに伴う思考修正に痛みというか心理的負荷が伴うこともあって、それは医者の処方で対処した。
また、自分の場合は幸いなことにこれが問題の原因なのでは?というトピックに辿り着くことができたので、1年以上かかったけど成果はあったと思っている。
1ヶ月4回通うとして、3万弱。これを1年以上。
まとめると、自分が抱えている心理的問題についてカウンセリングでの対処を考えているなら、年単位の長期的なアプローチと可処分時間の減少、ある程度の出費を覚悟した方が良い。
もし即効性のある救済を求めるなら、他の人が挙げているようなリスクをとりつつ処方薬に頼るのがいいと思う。
抗不安剤は一時的にはなんでも解決してくれるので、うまく使えば便利だけど、医師がいないとうまく使うのは難しい。
蛇足だけど、キャリアとか特定の領域で悩みがあるならコーチングの方が有用かもしれない。この人たちは目標設定とそれを達成するためのステップ分解、習慣化について具体的なアドバイスをくれる。
左翼ネタで埋まっていたときも正直辟易したけど、ブコメ自体はわりかし知性的だった。建設的コメント順位付けモデル導入位から左翼ネタの割合が心持ち減った(けどまだまだ多い。しかも知性はあんまりないブコメが多い)トピックはバランスが若干とれたな、と思うものの、ブコメはもう無茶苦茶で見るに堪えない。
EV(電気自動車)について熱心に語る人がボットのような書き込みをする傾向があると感じる理由にはいくつか考えられます。まず、多くの場合、特定の技術や製品に情熱を持つ人々は、その情報を広めることに熱心であり、その過程で似たようなメッセージを繰り返し投稿することがあります。これは、彼らがその技術のメリットを強調し、より多くの人に受け入れてもらいたいという熱意からくるものです。
さらに、ソーシャルメディアやフォーラムなどのプラットフォームでは、自動化ツールやスクリプトを使用して特定のメッセージを広めることが可能です。実際の人間が書いている場合でも、これらのメッセージはしばしばテンプレートや既成のフレーズを使用しているため、機械的あるいはボットのように見える可能性があります。
また、電気自動車に限らず、あるトピックに対する強い信念を持つコミュニティの中では、同意見の人々が集まりやすく、同じ種類の情報や意見が繰り返し共有されることで、エコーチェンバー(意見の共鳴室)が形成されることがあります。これにより、外部から見ると、そのコミュニティのメンバーの書き込みが非常に似通っていて、自動生成されたもののように感じられることもあるでしょう。
しかし、このような現象はEVに限った話ではなく、多くの熱心なコミュニティや話題、特に技術や製品に関連するものに共通して見られます。情報の共有や意見の表明方法において、人々はさまざまな動機や方法を持っていますが、それが時には機械的あるいは自動的に見えることもあるのです。
俺自身は反出生主義がそこまでヤバい思想だと思ってない。苦しみを絶対悪としてそれを避けようとするなら、最初っから生まれなきゃいいじゃんって理屈になるのは筋が通ってる。俺自身も、最大の苦痛である死がいずれ必ず訪れると知った七歳のときの絶望感を覚えている。あの時はどうして俺は生まれてしまったんだと叫びたかった。
なぜ生きている/生きてしまっている/生かされてるのかって驚きこそが、哲学の始まりだ。
それに野良犬なんかの管理で「不幸な犬を増やさないために」って去勢するのと理屈とどう違う? あるい出生前診断や重い障害を持つ人々を重荷とみなす世間のまなざしなど、生命が完全に平等で尊いという考えに疑いをさしはさむ発想は結構身近だ。実は言語化されてないだけで、今まで多かれ少なかれ反出生主義的な発想はあったはずだし、自分は出生主義者だと思ってても、反出生主義的な考えをまったくしたことがないってことはないだろう。ちょっとくらい「なんで生まれたんだろ」「生まれさえしなければ」と考えたことくらいあるんじゃない?
ときどき反出生主義主義者がやべーやつ扱いされるのは、興味ない人を無理やり説得しようとするやつがいるからなんじゃないかって推測してる。
で、当の俺自身は生まれる事の善悪を判断する能力を、そもそも人間は持っていないと思っているんだけど、反出生主義者に聞いてみたいことは結構ある。だからまとめてみた。
そんなん好きにしたらええがな(終)
いや、終わらない。
かれこれ前のこと、航空機の座席に備え付けてある冊子で、養老孟司が「脳に旅をさせよう」のようなタイトルで2〜3ページ書いているのを読んだ。
機内誌への寄稿なので、「移動」して脳を刺激を与えることがいかに必要かが書いてあったんだろう。氏なりに脳が移動することの意味を巧みに解説してあった気もする。特定班でもいるなら調べてほしい。
人はなぜ旅をするのか。やんなきゃ心が死ぬからかな。人によれば、一心不乱に専門領域の知的な探究に埋没し、象牙の塔で生涯を終えてなんの過不足もない、ということもあるだろう。けれどもなんてことのない日常で、思惑の合間に、何か必要な物資を買いに行く馴れた道すがら、普段見かけない渡り鳥を河川に見るかも知れないし、季節の草木を見て心に揺らぎを感じるのかも知れない。それで停止していた何かが始動したり、爆ぜていた衝動を和らげたりするなど、回復やら安定やら向上の時を得てしまうことだってあるだろう。むしろそれが、意識すらされないほど日常には繁多にあって、捉えようによっては旅とも言い得るが、あまりにも当然のことで忘れ去られるために意識にも刻まることもない、流れる風景の瞬きのような。そんな旅ならざる旅もあるだろうさね。
令和、旅すらも他者に自己を宣伝するためのバエ文化の手段なので、とりあえずその場所に行って、所定の写真を撮影し、あのインフルエンサーが投稿していたレストランのあのメニューもバエて、無事帰国/帰宅することに尽きる。土産話は、多数の嫉妬心を催すために聞かれるまでは答えるべからずセンシティブ事項なのか、主要なトピック以外の、壁の亀裂や石畳の隙間の土に生える雑草のようなディテールを知らせてくれる人は稀有。USSR。ウルティメットスーパースペシアルレア。
作業用にね、よく喋る演者のYouTubeの旅動画を流すんだけど、調べの不足や誇張、思い込み、「世間のイメージと違う」も違うだろ問題などなど、「こ、これが再生回数の力か…!?」となる。勿体ない。そんなものを見ている自分の時間が勿体ない。
そもそもの、それなりに時間を要する旅をすると、常に快適にとはならない。汚れた下着をすぐに替えて換気の良い浴室の脱衣カゴに投げ込めない。ポリ袋やチャック袋に密封して一緒に旅するんやんな。糠床を携えて明るい未来へと突き進むんや。エアコンがない、シャワーも出ない。Wifiない。くさい。我くさい。我くさい、故に他人の視線が気になる。
洗面台とは別のメイク用の鏡の前に化粧品を領域展開して精巧な意匠を造作しちゃえるようなラグジュアリな旅行なら出来るかもよね…
ChatGPT:
それはなかなかユニークな反応ですね!AIと人間の対話は、予測不可能な展開があるからこそ面白いものです。AIは学習モデルに基づいて情報を処理し、対応するため、人間のように感情を持っているわけではありませんが、そのようなユーモラスなやり取りが対話に楽しさをもたらすこともあります。
AIとの対話では、時には意外な反応や予期せぬ回答が出ることもありますが、それもAI技術の面白さの一部と言えるでしょう。AIは継続的に進化し、より洗練された対応を目指していますが、その過程で人間とAIとの関わり方についても考えさせられる機会があります。
もし何か特定の質問や、さらに話し合いたいトピックがあれば、遠慮なくお知らせください。AIとのやり取りを通じて、新しい発見や楽しい体験があるかもしれません。
こんにちは。外国人として、日本人のスペースに入って失礼しますが、
日本語の授業を取っています。期末試験だから、教科書から習ったトピックの中で一つ選んで発表することになりました。
宗教的な迷信の発表したいと思っているんだけど、日本の迷信はあまり知らなくて。。
もちろん、インターネットで調べられるけど、日本人の日常の知識から学びたいから、ここに聞きに来たんです。
有名も有名じゃない迷信は知れば、できれば、この三つの質問に答えてください。
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1) 短く説明してください。
(でも、詳しい説明は必要であれば、詳しく書いてもいいです!)
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(これに答えなくてもいいけど、)
3) その迷信を信じるなら、どうしてですか。
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よろしくお願いします!ありがとうございます!
貴方の主張が何となく分かりはじめましたが, 変わらずその主張は数学を持ち出すことなく可能であるように思われます. むしろ数学の言葉をあえて用いることで理解を遠ざけているような印象さえ感じられます. 私は誠実性を感じません.
究極的に人間が行う営みである限りは, ボトムの部分で曖昧さや人間の感覚に基づく部分が残ってしまうため数学は厳密でないという主張は少し乱暴に思えます. それこそ, これは数学の部分をあらゆる人間が行う営みに置き換えられるのではないでしょうか? 少なくとも私にとっては貴方の主張は人間が行う営みに厳密なものなどないという結論を導いてしまうように思えます.
再三になりますが, 哲学的にそのようなトピックを議論したいのであれば, 無理に数学の言葉を使わなくとも可能だと思われます. 時には数学における言葉遣いが通常の言葉遣いと異なる場合もあります. また度々言及されいる事柄のいくつかは様々なな分野で歴史的に議論, 研究されているトピックがいくつもあります. いくつかの文献を読んでみて一度整理されると, 誤解, 車輪の再発明を避けることになりますし, あなたがどういう問題, 問題意識を持っているかをきちんと言語化する助けになると思います. それに加えて, これまで人々が様々な学問領域で積み重ねてきた多くの結果に敬意を払うことが重要であると私は考えます.