はてなキーワード: テーマとは
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0D6NCB574/
☓1つの文章に山程の文献の知見を入れながらも → 知見は入ってません。読んだのかもしれないけど本人がフィルタになってしまって全部濾し取られてしまってます
☓ガリレオやニーチェまでほんのりと →実際のガリレオじゃなくて本人が知ってるつもりの偽ガリレオとかが書かれてるだけです
☓哲学と仏教と心理学とビジネス書に書いてあることを1つの文章の中にケンカしないように、整合性取れるように入れている → 全部取り入れようとした結果薄味になって哲学以下。仏教以下。心理学以下の薄っぺらい内容になってます
☓1冊の本に数十冊ぐらいの情報をブチ込めたはず →作者の自己満足に過ぎず、読者としては一冊分の情報でいいからしっかり濃い話をしてほしかたです。まじでめちゃくちゃ薄いです
☓「これちゃんと書籍にした人いる?」 「このテーマの本より、私の方が上じゃないの?」 →気の所為です。本人が普段いかに読書をしていないかがすけて見えるセリフですね。
☓「バックグラウンド」でさえ、哲学者が3人ぐらい絡まってる →本人は絡めてるつもりだと思いますが、先程述べたようにこの人がベースだと考えてるサルトルとかも全然理解できてない薄っぺらいものでそのような話はありません
クリエイターと自由と責任、というテーマについて色々考えたことをつらつらと書いてみる。長文。
俺は大学在学中から、もうずっと長いこと個人でゲームを作っている者だ。仕事をしつつ余暇でゲームを作り、すでに何作も公開している。大して売れてはいないので、あまり偉そうなことを言える立場ではない。
これまでしてきた仕事は、ゲームとはまったく関係がない。俺がゲーム業界に入らなかったのは、そこに入っても俺が作りたいものを作れないことを知っていたからだ。会社という組織は、自分の作りたいものを自由に作れる場所ではない。
俺には明確に作りたいものがあって、それは個人でも作れるものだったので、ゲーム業界に入る意味が俺にはなかったのだ。
本業の方では、いくつかの組織を渡り歩き、それなりに人を束ねる立場になってきて、組織の仕組みというものがある程度分かって来たところだ。
日本の企業は……いやもう少し主語を小さくしようか、俺が見てきた組織は、末端の従業員の裁量はとにかく小さく、何をするにも上司の承認を通さなければならない。個人が自由に創造性を発揮できる機会などはほとんどない。
そういう体制をディスりたいわけではなくて、それによるメリットもある。
上司の承認を取ることで、自分の行動で何か問題が起きても、その責任を上司に転嫁することができる。そして上司はさらに上司の承認を取ることで、その責任を転嫁する。
そのように組織の中で責任を広く薄めることで、特定の個人の責任を回避する。これは責任を曖昧にして、組織が社員を保護するための仕組みだ。
しかし普通の会社はそれでよくても、自由な創造性が必要な分野では、そういう体制はすこぶる相性が悪い。
クリエイターが創造性を最大限発揮するには、何よりも自由が必要だ。その点で、うまくやっていると思うのは漫画業界だ。
俺は、日本の漫画が成功している要因の一つは、漫画家が組織に属さず、組織から自由であるおかげだと思っている。もし漫画家がサラリーマンだったなら、漫画の内容をまず企画書にまとめて稟議にかけたり、1コマ修正するにも上司の承認を通したりといった世界になるだろう。
編集者がそれに近いことをしているのかもしれないが、漫画家本人はしていないはずだ。もし漫画家本人がそんなことをさせられたら、稟議を通りやすいテクニック、組織の中での立ち回りばかりが優先されることになり、自由な創造性からかけ離れてしまう。
出版社は漫画家にある程度自由な裁量を与え、漫画家が創造性を最大限発揮できる体制を整えている。しかしそのためには、漫画家を組織の外に置く必要があるのだろう。
漫画家のような存在は、組織にとっては異端者であり、組織の中に組み込むことができない。漫画家がいなければ事業が成り立たないにも関わらず、その主役を組織の中に置くことができない。この辺に、日本の組織運営の難しさがある気がする。
しかし自由の代償として、漫画が売れなかった場合、漫画家は収入の大幅減、連載打ち切りといった形で、その責任をダイレクトに負わされることになる。
サラリーマンであれば、たとえ大きな失敗をしても降格程度が済むことが多く、日本ではいきなりクビになることは少ない。サラリーマンは自由を制限される代わりに、ここでも保護されている。
サラリーマンであってもかなり上の役職であれば大きな裁量が与えられるが、その代わりに大きな責任も取らされる。結局、自由が欲しいなら責任を負う必要があるのだ。
ゲームの話から少し逸れたが、ゲーム業界においても80年代頃のゲーム会社は自由が気風が強かったのではないかと思う。いわばゲーム業界そのものが異端だった頃の方が、ゲーム業界は元気があった。新しいものを作るのは、いつだって異端者だったのだ。
俺はゲーム業界にいたことはないのでこれは想像なのだが、当時から残っている大手には、事業の規模が大きくなるにつれて社会の責任が大きくなり、多様なメンバーが集まり、大企業病に冒され、だんだん普通の会社になっていったところが多いのではないか。
任天堂なんかは今でも元気があるが、他に元気のある日本のゲーム企業は少ない。クリエイターが自由にものを作れない環境から創造性は生まれない。
ともあれ、いまゲームを作るなら昔から存在するゲーム企業ではなくインディーズで作るのが一番だと思う。それがもっとも自由な創造性を発揮できる環境だ。
俺なんかは、別の仕事をやりながら余暇でゲームを作るという、いわば美味しいとこ取りでやっている。しかしそういうやり方では、所詮大したものは作れないとも思っている。本業でゲームを作っている人には、やはり及ばない。
それは創作に掛けられる時間の長さという意味でもそうだが、それ以上に、本業でゲームを作っている人は覚悟が違う。
これが売れなければ倒産する、失業する、借金を背負う、そういうプレッシャーを負うからこそ作れるものがある。自由と責任は表裏一体だが、大きな責任はクリエイターを追い込み、本気にさせる。それで潰れる人も多いが、それを乗り越えて初めて達成できるものがある。
俺にそこまでのことはできないので、それができる人は素直に尊敬するし、感服する。俺は、彼らと同じ土俵には上がらず、慎ましく自分の作りたいものを作っていようと思う。
舞台は、魔法が日常に溶け込む世界。魔法使いは、呪文を唱え、魔力を操ることで様々な魔法を発動する。しかし、魔法使いの才能は生まれつきで決まっており、才能に恵まれない者は、いくら努力しても強力な魔法を使えない。
主人公は、才能に恵まれない少年・リョウ。彼は幼い頃から魔法使いに憧れていたが、自身の才能の無さに絶望していた。そんなある日、リョウは母親の焼いたパンの出来から世界の確率について気づきを得る。気づきは、データに基づいて未来を予測する知恵だった。リョウは、観察を駆使して魔法を数え、その法則を解き明かしていく。そして、魔法は単なるランダムな現象ではなく、分析することで一定の法則性があることを発見する。
とある日、リョウは学園の不良魔術師である「石礫のケン」と決闘することになるが、事前に知らべていた石礫攻撃の分散とパターンを見抜いて勝利する。
リョウは、観察と計算を活かして、畑の収穫を増やし、有効な薬を見極め、のちに「統計学」と呼ばれる強力な魔法体系を編み出していく。彼は、統計学の魔法で、才能に恵まれない者でも強力な魔法を使えることを証明する。
統計学の魔法は、瞬く間に広まり、世界を大きく変えていく。才能に恵まれない者たちが、統計学を学び、魔法使いとして活躍する時代が到来する。
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中田敦彦のYoutube大学というYoutubeチャンネルが叩かれている。
まず結論を言うと、おれはこのYoutubeチャンネルは消えてほしいと思っているし、 もはや中田敦彦には自殺なり事故なりで死んでいただきたいなと思っている。 こいつが、おれがこの社会をおれのような人間にとって生きにくくしてる元凶だと思うからだ。 こいつは、適合人間の権化だ。害悪である。
中田敦彦のYoutubeの大学について、おれはもともと良いと思っていなかった。
誤っていることが多いからだ。 また、文学を紹介する時にも、著者に対するリスペクトが欠けているなと感じることがあった。
ということでおれは無視していた のだが、中東史のビデオが、それに詳しい人に酷評され、そこから中田敦彦批判が広まっていった。
おれも、彼の新選組のビデオは登場人物の名前はじめあまりに誤りが多く、 おれ自身は以前に話したとおり、麻布学園の自由論文テーマで土方歳三を選ぶほど新選組のことが好きであり、 本来ならば、中田敦彦のような著名人に新選組を広く紹介してもらうことは本意であるべきなのだが、 そのビデオを見た瞬間にチャンネルも登録解除したし、レコメンドも停止した。 気づけば、ディスプレイの中にいる中田敦彦に対して中指を突き立てていた。
それ以外のビデオに関しても、見る人が見れば誤ってるとわかるものが多いようなので、 彼のビデオは結構いい加減ということは言えると思う。
おれが中田敦彦のように、 お金を稼ぐためならば、多くの人に見てもらうためならば何をしてもよいと 考える人間が嫌いだ。
また、それに対して群がる人間も嫌いだ。
ツイッターなどで、何も面白くない、知能指数3くらいの白痴ツイートが 1000Likeを得ていたりすることがあるが、 こういうものにLikeするやつは全員ガス室に送るべきだと考えているし、 当然、ツイートした本人も死刑になるべきだと考えている。
なぜか。
それが、適合するということだからだ。
適合人間にとって真実はどうでもよい。 多くの人が正しいと信じていることであれば、それは正しいということになる。 間違っていることであっても、みんなが正しいと思っているから正しいという人間がこの世には結構いる。
中田敦彦にとって正しさの優先度は低い
中田敦彦にとって、ビデオが正しいことを言ってようが何であろうと関係ないのだ。 ただ小説や歴史をてきとうにおもしろおかしく紹介出来て、それによって自分のチャンネルが肥大して、 多くの視聴数が得られ、高額な報酬が得られればそれが正しいことなのだ。
Youtuberは多くの場合、虚業である。 彼らが提供しているのはエンターテイメントであり、 現代の価値基準でいうと、本来なくても良いものだからだ。
しかし、百歩譲って単なるエンターテイメントであれば問題がない。 それどころかおれは、人間が経済的に豊かになった時代においては、人の心を豊かにする エンターテイメントこそが必要なものになると考えている。
では、中田敦彦のYoutube大学はエンターテイメントなのか? 彼はそのつもりかも知れない。 しかし、見ている人間からするとそうではないのだ。 不愉快に思うこともある。
もちろん、不愉快に思う人がいるからやめろというつもりはない。 なぜならばそれはまさに適合サイドの論理だからだ。 全員が不愉快に思っても、正しいことならばやればよい。
しかし、これを「大学」と名乗るのはやめろ。 大学と銘打つのであれば、提供する内容に専門家のレビューを通すのを最善とした何らかの検査をしろ。 正しいことを伝える最低限の努力はしろ。さもなくば、「大学」と名乗るのはやめろ。
なぜ彼が、正しくないことを言ってるにも関わらずそれを大学を呼んでしまうかというと、 そういうものを大学と呼ぶことに罪悪感がないからに他ならない。 なぜかというと、彼にとって大学ないしは学問というのがその程度のものだからだ。
これは恥ずかしいことだと思っていただきたい。 まともに教育を受けた人間で、中田敦彦のYoutube大学を真剣に見てる人は 誰一人いないと断言出来る。 メンタリストDaiGoなんかも似たようなものだ。
中田敦彦がこのチャンネルを「大学」と呼ぶ背景には、 彼が本当に知識を多くの人に届けていることに正義を感じているかというのもあるだろう。
学校でいじめられて引きこもってしまった子などが、自分のビデオを見て学ぶことに喜びを感じているのかも知れない。 経済的に大学にいけない人に学ぶチャンスを与えたいとか思ってる可能性もある。 というか誓ってもいいが、きっとそういうことを言うのだ。なぜならばそれが適合人間だからだ。
しかしおれはそうは思わない。
歴史上の人物について何かしらの真実を捻じ曲げたりすることは、 生きている人間にとって嘘の情報を流してその人間の社会的地位を貶めることとなんら変わりない。
なぜならば、第一にその人の子孫は今の世の中に存在しているからだ。 これは、不愉快に思う人がいるから正しくないと言ってるのとは違う。 単に、犯罪行為をやめろと言ってるに過ぎない。 しかも悪いことに、登録者は100万人を超え、何万何十万というオーダー の人間に見られてしまっているのだ。
また、歴史というのは生きている人間の共通認識でもあり誇り・財産でもある。 これらを穢すことは当然許されない。 歴史は、空気中に浮かんでいる何かではないのだ。
おれは、中東の歴史については詳しくないので上で挙げたツイートについて それが真実かどうか判断する目を持たないが、 もし真実でないとして、それを中東の人が見たらどう思うのだろうか?
理由その2は、一度誤った知識を身に着けてしまうと、 それをあとで修正することが難しくなるからだ。
小学生中学生の子供が、中田敦彦のYoutube大学を見て 何かを学んだ(?)とする。 そしてのちに学校で同じテーマについて正しい知識を学ぼうとした時に、 正しい知識の方が定着しない可能性がある。
理由は、
1.動画で学ぶことは、退屈な教科書で学ぶことより記憶に定着しやすいから
3.多くの人が見ている動画だから正しいと思い込んでしまうから(適合人間の悲しさ)
「人間だから間違うこともある」というのが適合人間の論理だ。 しかも間違うことを許さないと社会が進んでいかないとか言い出したりもする。 というか中田敦彦はきっとそう言うはずだ。
しかしすでに述べたように、 間違ってると思うのであれば、それを大学と銘打って垂れ流すのはやめろというのが一点だが、 その間違いが単にケアレスミスとかそういうレベルではなく 「そもそも正しいことを広める気がない」という点を問題視していることから 自分に対する批判が始まっていることを認識していただきたい。
恐らく制作側に
・「結婚、出産をしつつキャリア仕事もする女」である主人公の対比となる存在として
・なら法科の同級生設定が都合いいが、現実のこの時代にそんな女弁護士は存在しないので弁護士設定にはできない
・無資格のパラリーガル設定だとパートナーとなる弁護士が必要、でも主人公は裁判官になるのでその役割は出来ない
・勿論恋愛脳にはしたくない
・法科の同級生で二人の共通の友人である男弁護士を実はゲイだった設定にして、
そいつと一緒に恋愛感情なしのパートナーとして弁護士事務所開く展開にした
ってのが上手すぎる
大抵の女はこういう関係性大好きだから女性向けドラマとして視聴者にもウケるしSNSで話題にもなって三鳥
あれを恋愛感情じゃなくてただの男の友情と思ってる人もいるけど
轟をよねとも他の女とも恋愛や結婚させないままよねと弁護士事務所やらせる展開のための設定なんだからゲイに決まってんだろと
ただの男の友情なら別腹で女と付き合うだろと
まあそのうち友情婚したり、周りから内縁の夫婦扱いされる展開はあるかもしれない
以前「お前は男に守られるのがお似合いだ」と罵倒した癖に自分も轟に守られてんじゃんになるような
いずれよねも弁護士資格取って轟と対等になるんだろうか、でもこんな女弁護士史実にいないよなあ
つか資格取ったとしても、寅子目線だと「いつの間にかくっついてた」or「かつての自分と同じ社会的地位の為の契約結婚」にしか見えないはずで
この脚本ならその辺も上手くやるんだろうけど
やっぱ同性愛設定で確定じゃん
脚本家の志向(出世作もアロセクがテーマだったし)と作品の都合と、どちらもあるんだろうね
マジカルなんとかとか言うなら、優三の方がよっぽど「女に都合が良いだけの、人間性が感じられない男」だけどな
優三はhttps://news.yahoo.co.jp/articles/40c6488668d9332a9f721cded29fb2cd18ac12cf
こちらで「日曜劇場の妻の男版」と言われてるけどこの記事に同意
番組内容
①くじを引き、福岡県内のランダムな市区町村を決定し、そこに公共交通機関を使って向かう
③おすすめされたうどん屋に行ってその場で取材交渉し、取材OKとなればうどんを食べ紹介する
④店の人にくじを引いてもらう(以下ループ)
この番組フォーマットを実現できる都道府県はひょっとしたら少ないのでは?とふと思った
一般化してみよう
①くじを引き、[任意の都道府県]内のランダムな市区町村を決定し、そこに公共交通機関を使って向かう
②現地の人におすすめの近隣の[任意のジャンルの飲食店]がないか質問する
③おすすめされた[任意のジャンルの飲食店]に行ってその場で取材交渉し、取材OKとなれば[任意のジャンルの飲食店]を食べ紹介する
福岡でもだいぶ大変なのに
くじ運が悪いと西の端から東の端に向かうことになって移動だけで3時間くらいかかるケースがたまにある
「うどんMAP」だと一日のロケ(一回の放送内)で2~3件回ることが多い
②、これも福岡にとってのうどんのような存在が各都道府県に存在するのだろうか?
すなわち、どんなへき地でもだいたいある県民食のお店……のような存在
③、これも地味に難しい
実際、「うどんMAP」だけではなく「ラーメンMAP」のコーナーも過去にあったのだが、取材NGとなる確率が高かった(←芸人さんのネタ企画だったらしい、知らなかった……トラバで教えてくれてありがとうございます)
そのせいかどうかはしらないが、今は不定期のコーナーになっている
「うどんMAP」は福岡のうどん界隈ではかなり人気のようにみえる、取材快諾となる率がとても高い
極端な話、北海道とか新潟とか長野とか……広そうだったり細長そうだったりする所は①をクリアできないだろう
東京は①はクリアできそうだが、テーマとする飲食店の選定に悩みそうだ
大阪なら①②③全部クリアできそうだな……というか既に類似の番組はきっとあるだろうな
埼玉とかもうどんに一家言ある県だったはずだ、交通機関も整備されているだろうしここらへんでもいけそうか
他の地域のローカル番組の情報は自分が普通に暮らしていると全然耳に入ってこない
さて、今日のお昼は「うどんMAP」で紹介されたうどん屋さんに行くことにしよう
---
あっ!そうか……
ローカルテレビ局と都道府県が一対一対応しているとは限らないのか……
私は何も知らない
---
私の日記の内容はもはやどうでもいい
高校の頃、ブックオフでチューリップのベスト盤を買って青春の影を聴いた。なんかおれが特例なんじゃなくて、世の中にもこんな風に内省的な考えを持ってる人がいるんだな〜ってちょっと感動を覚えた。
自分の抱いてる気持ちが普遍的なものだと、なんだか矮小化された気分にもなった。咀嚼中だった感情を先に言われたような悔しさもあった。そして考えてるテーマが似てる上に端的な言葉で表されてるから自分も共感しているように思えるけど、実は重大な部分がおれのものとは違うんじゃないかという疑念もあった。
そんな感動だった。
そして言わんとしてる事は分かるけど、おれはその考えには与しないぜという気持ちがあった。
自分のために生きてきた時間が他人のために生きる人生の前置きに過ぎないだなんて、そんなのは冗談じゃない。
そういう事を抜かす連中はおれみたいな奴に過去の自分を投影して、そして今の自分が「進歩」した状態だという確信のもと、ヘラヘラと「若いね〜」とでも言うんだろう。
それはお前の納得であって、おれの納得じゃはない。
例え全人類が似たような感情を抱いて似たような後悔を抱くとしたって、おれは他人の納得なんか借りたくない。車輪の再生産で上等だ。自分で作った車輪で走る事に意義がある。
大人っていうのはそういう連中なんだろう。そんな大人には絶対にならねえぜ、と思ってた。閃光少女を聴いて、こうありたいもんだぜと思ってた。それはそれとして曲は好きなので青春の影も割と聴いてた。
そんな思い出を、ガールズバンドクライ第8話「もしも君が泣くならば」を観て鮮明に思い出したぜ。
子供への教育に望みがあるのはそうなんだが、身近にいる親や大人をどうするかの問題がある。
https://anond.hatelabo.jp/20240609080533
https://web.archive.org/web/20170710055651/http://ashihara-hina.jugem.jp/?month=201109
引越しの合間に、うっかり(?)安全地帯のコンサートに行きましたヨ!
@国際フォーラム
アレを見ると、正直人並みにクラクラするんですけど、
92年の「アンプラグド・ライブ」とか、アルバム「ニセモノ」「GROUND LOVE」あたり、
大好きなんですよ。
30代前半ごろの、隅から隅までエモーショナルな歌声は、ちょっとクセになる。
随分声質変わっちゃいましたけどね。
声質どころか、作品も風貌も言動も放つ雰囲気も、10数年の間にここまで大きくゆ
「安定」からしか生まれない、確かで貴重な物も沢山あると思うし、
「安定」からは決して生まれない、不確かで驚きに満ちた煌めきも、
同様に、沢山あると思ってしまう。
「無力の剣」が良かった。
「JUNK LAND」「太陽さん」「MR.LONELY」辺りも、聞けて良かった。
圧巻でした。
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作るものって、隠しきれないその人の本質まで暴き出すよなあ、と
しみじみ思う。
どっちがほんとの自分、とかじゃなくて。
皆、多面体。
1
日記---
どじっこを可愛く語って良いのは、二十歳までだと思うんですよ、、。
(なんだいきなり)
向かったわけです。
電車のがはやいんですけどね。バスでのんびり移動するのが好きなので。
で、約束の20分前にちゃんと最寄駅に到着して、銀行でお金をおろして
家の前まで来て、ハタと気付く。
かっ、鍵忘れてきとるやーーーーん!!!
もちろん新居にねー。
業者の方がめっちゃ良い人で、「大丈夫大丈夫」と御飯を食べながら
待っていて下さいました。
いえ、、罵ってください、、!寧ろ罵られたいです、、!!
に、、、妊娠検査薬、、、!!
「Piece」の1巻で、折口はるかが購入した「妊娠検査薬」、、!!
。。。なんていちいちフォローするのも変なので、しれっと片付けておきました。
色々ダメ過ぎる。
色んな人にお手伝いして貰って、もうほとんど段ボール片付きましたよ。
手伝って貰ったうえに、アシさんにまたお菓子を恵んでもらってしまったよ。
水まんじゅうも大好き。
あとは「動物っこ」っていうマカロン(の、クリームはさんでないやつ)
かっ可愛すぎる メロメロ
暇だと思われる。
1
日記---
台風大変でしたね。
RICOHの方が家に来て下さってる間に、電車がとまっちゃいましたよ。
ス、スミマセン。
他にも、帰宅困難者が周りにチラホラ。
北の方、くれぐれもお気を付け下さいね。
ずっと古いお家を借りて住んでたので、新居の新しい設備にボー然です。
お風呂にお湯がたまると、ポップで陽気な音楽が流れるんですよ。
頼んだわけでもないのに、テンションあげあげな、、
大好きな曲なのに。今日まで気付かなかった。
ポップで陽気過ぎて。
1
日記---
安眠確保!一安心。
「蜂の屋」の「まゆ最中」をくれました。
うわ~い(ほだされた)
今の街に何だかんだで長く住んでたので、
困ったな。ちょっと淋しいです。
私、元々リセット癖があるというか、「も~そろそろいいや、ハイお引越し~」的感覚で、
今の街は気に入ってたんでしょうね、
さすがに9年住んでると、あちらこちらに情が湧く。
元気な時に足しげく通う場所も、しんどい時にホッとできる場所も、
また一から築くのね。
夜中に、ニャンコ追いかけ回すのが好きだった。
懐っこいニャンコがいっぱいいたよ。
昼間のニャンコより夜のニャンコのが魅力的。
何だかとってもややこしい。気がする。
「ああ、こいつ困ってんだな」と思っておいて下さい。
やっぱスマホ欲しいなー。買うかなー。
1
日記---
う、、内腿がぁぁあぁアァ、、!歩き方変、って人に言われた。
しょっちゅう引越し繰り返したら、うっすらマッチョになれる気がするよ。
昨日は新居に新しい大きなベッドが入ったよ。何はなくとも安眠!安眠!
安眠確保!!と思ったら、家具屋さんがマットレスを忘れて来ちゃったよ。
ね、、寝れへんやーん。
って事に、和菓子屋のカフェにうどんを食べに行って気づいたよ。
さわやか~。
今年は満月なのね
か、片付けなきゃ。
(うん。昨日一日じゃ、どうにもならなかったのねー。
そもそも何で一日でどうにか出来ると思ったのか、、謎)
1
日記---
同じく、次号に出てくる卵料理。
美味しそうでしょう~食べたくなるでしょう~と、思ってたら、
編集さんが、にそっくりな「万惣」の「フルーツオムレツ」を食べに連れて行って
くれました。どーーん!
中はシュワシュワふわとろ。
あ~見てるだけで幸せ♡ 食べるけど!
アップしちゃうけど、普段はちゃんと地味な御飯作って食べてるよ~
と、母に向かって言っとこう。
野菜も食べてるよ~。
1
おやつ---
次号のテーマは「卵」です。
アシさんが描いてくれた「目玉焼き」 うまいでしょう!(私が得意げ)
えーっと、来月10月13日発売予定の「Betsucomi 11月号」に載るよ。
お楽しみに~!
お楽しみに~!
気を付けて行ってきまーす!
1
お仕事---
原稿ほぼ終了
作画中に消しゴムで消しちゃったヤツ)入れ直して、最終チェックして、
終わったぜ!やったぜ!祝うぜ!と浮かれて、アシスタントさん達と
お腹があまりにすいてて、ことごとく料理の写真を撮り忘れそうになる私達。
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バーニャカウダとチーズ入りエビチリ、豚肉と季節のお野菜醤油炒め。
豚肉~は大皿に盛り付けられた状態で撮りたかったのに撮り忘れ、
「だめだね~私達。どんだけお腹減ってんだー」なんて舌の根の乾かぬうちに
「たっ、卵かけご飯にしか見えへんやんけーーっ!!」by播州弁
うん、そうだね。日々、ちっぽけなネタの積み重ねだよね。
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どれもこれも美味しかった♡
おやすみなさい~(-_-)zzz
1
ごはん---
かんぼうちょ~~っ
ちょっと淋しい。
あとは「ウォール・ストリート」と「武士の家計簿」と「マザーウォーター」も
借りてみた。
DVD借りてきて、アシスタントさんと作業しながら観る事多いんですけどね。
当たり前ですけど、手元見て仕事してますからね、テレビ画面なんて
ほとんど見てないわけですよ。
難しい。ほぼ捏造。
どれも、あとでゆっくり観てみよう。
いっぱい誤解してそうで、感想すら書けないや。
作業中にこっそり(?)抜け出して、ダッシュで美容院にも行って来た。
ショート飽きてきた。のばすかなー。
心配。速く通り過ぎておくれー。
1
本・映画---
同じく北海道で買ってきたおつまみ系も、今日仕事場で開けてみた。
なのに、あと7枚も残ってる。
、、、、、、、、、、?
明日の私が、がんばる。
おやすみなさいー。
https://anond.hatelabo.jp/20240609080152
https://web.archive.org/web/20170710054752/http://ashihara-hina.jugem.jp/?month=201206
2012.06.29 Friday15:14
2がある前提で、その1。
皆さんとっても忙しい人ばかり。
しばらく会ってない方も来てくれて、ちょっと同窓会気分でした。
作家さんの半数は先輩方で。
初めてベツコミの(小学館の)謝恩会でお会いした時、緊張してドキドキしながら
すっかりグダグダでスミマセン。
笑いっぱなしで楽しかった♪お祝い事は良いですね!
祭りはまだまだ続くよ~
マメじゃないのに、今回幹事っぽい事をやってみた私へのご褒美に、
アシスタントさんがお菓子をくれました。渋谷だ(笑)かわいい♡
会計時、お店の方が気を利かせて先回りして領収書を用意して下さったのですが、、
宛名に「株式会社 講談社様」って書かれてあって、皆でウケました。
ケーキのプレートに「講談社漫画賞」って描いてもらったもんね!
そりゃそうだよね!そう思うよね!
さすがに、受け取らずにおきましたよ~(笑)
1
日記---
お肉を焼くのが上手い!と噂の方と?焼肉に行きましたよ~。
焼肉、1年ぶり。
そんでもって、まずはレバ刺し。
次に食べられる日はいつなんだろう??
好きな食べ物は?と聞かれて、「スウィーツと生肉とお寿司です♪」と、
答えてしまいがちな自分に、若干鼻につく自意識を感じつつ、帰宅。
どれもほんとに大好きなんだけど。
何が言いたいかって言うと、考え過ぎ!って事です。
近くのお店だから、また行きたいな。
1
日記---
私徹夜しないんですけど(眠いから。)、万一追い込まれた時用に。
「眠い眠い」言ってる忙しそうな人に、半分分けてあげようかな。
どうもありがとう♪
端的に言うと、またテレビが壊れたんですけど、
2011.11.25 の事件再びなんですけど、(その日の日記参照)
イマイチ謎が多くてですねえ。。?
話せば長くなるので、詳細はまた今度。
(続くのか。)
たぶん、前よかマシ。
1
日記---
2012.06.14 Thursday23:50
ペロッと聞かせて貰えたりもして、なかなか興味深かったんですね。
結構個人的な事をペラペラ喋って良し!な気分になる自分に、ちょっと驚きました。
占い師って、個人情報&暴露ネタ使って、ユスリタカリ出来そうだよなあ。。??
(性悪アピール)
みたいな。不倫とか社内の際どいトラブルとか、喋っちゃう女子多そう。
脆い所を突かれに行くようなもんだし。
ハマっちゃっても仕方が無い様な。
ちなみに、占って貰った未来は、ピシャッと当たった事もあったし
「アマゾネスのボスになり損ねた女」と「中世ヨーロッパのマッドサイエンティスト」!
お待ちくださいませ~。
資料本などなど。
1
お仕事---
恐ろしい程のスピードで。
よ、予想以上ですね。驚愕です。
2週間前の動画が、すでに懐かしい。
それはそれで可愛らしいです。
https://anond.hatelabo.jp/20240609080053
https://web.archive.org/web/20170710055555/
http://ashihara-hina.jugem.jp/?month=201209
そろそろ書店に並んでるかな?
「私、雨女っぽいんですけど、行って大丈夫ですかねえ。。?」と
一応聞いたら、編集さんの顔がくもってた。
大丈夫かな。
今回もちょこっと描きますよ。
こういうレポート&エッセイ漫画って、もう一生コミックスに再録されない
はずなので、、雑誌掲載後、ブログにアップしちゃっても良いかもですね。
1
お仕事---
すごいな~。
なんとなく頭が混乱する。
「最強のふたり」も観てきましたよ。
なんか変なところで泣く。映画館で観れて良かった。
予約いっぱいだったので、、天王洲アイルの「t.y.harbor」でビール。
この季節、気持ちいいな~このお店。
夜風はすっかり秋ですね。
1
本・映画---
発売直後に買ったまま、ずっと積ん読だったのを
やっと今日読みました。
そこまで明確にランク分けされてなかった気がするなあ。。
うちの高校は。私が鈍かっただけかな。
口にすら出せなかった。(絵が下手だったから。)
そんなことを思い出しました。
「絵を描く仕事がしたいです」なんて、もの凄く絵の上手い人しか
言っちゃいけない気がしてたんですよね。たぶん。
生きるのが楽になったりはしますよね。
語ってた理由が分かりました。語りたくなるなる。
昨夜、原稿終わりましたよー。
あとはゆっくりチェックをしながらネームを入れて、編集さんにお渡ししたら、終わり。
今回読み切りと重なって量が多くて大変で、「疲れた疲れた」言っちゃう
アシさんのおかげで、何とか無事今回も大真面目に〆切前に
あがりましたよー。いつもどうもありがとう!
秋服買いに行きたい。
(いきなり物欲)
あとは、平和を願うよ。ほんとうに。
1
本・映画---
ベツコミ発売してました。
10月6日(土)深夜24:55~ 日テレさんにて放送ですよー。
初回は一時間拡大版ですけど、基本は30分枠です。
実は物凄く物凄く悩んでしまったのですけど、
(そして周囲に迷惑をかけた。)
最終的には、これもご縁なのかなと思い至って、お受けする事になりました。
「漫画」という便利なツールの力を借りて、ギリギリ「読み物」として
成立するか否かの、なんというか、わりと痛々しいモノを描いてる自覚が
あるので、、、
実写は正直、いつもテンパります。
どうぞご覧くださいませ。
通常ドラマより尺が短いので、原作の全てを詰め込むのは無理ですが
(1h×1クールでも、何もかも丁寧に描くのは無理ですよね、きっと。
ボリューム的に。)、
それはさておき。
どうぞ最後までお付き合いくださいませ。
次号、10月13日発売のベツコミは「Piece」特集号ですよー。
成海がぶっ壊れてます。
なぜかうちのニャンコが載ってたり(多分。使って貰えてれば。)
色々盛り沢山なので、手に取ってみてくださいね。
発売前に、またお知らせします。
長くなりました。
ではでは!
1
お仕事---
もう解禁でいいのかな。
詳細はまた後ほど。
https://web.archive.org/web/20240127104246/http://ashihara-hina.jugem.jp/
ありがとうございました。
色々と悩んだのですが、今回のドラマ化で、
私が9話、10話の脚本を書かざるを得ないと判断するに至った経緯や事情を、
きちんとお伝えした方が良いのではと思い至りました。
この文章を書くにあたって、私と小学館で改めて時系列にそって事実関係を再確認し、
ただ、私達は、ドラマの放送が終了するまで、脚本家さんと一度もお会いすることは
ありませんでしたし、監督さんや演出の方などドラマの制作スタッフの皆様とも、
ドラマの内容について直接、お話させていただく機会はありませんでした。
ですから、この文章の内容は私達の側で起こった事実ということになります。
「セクシー田中さん」は一見奇抜なタイトルのふざけたラブコメ漫画に見えますが…。
自己肯定感の低さ故生きづらさを抱える人達に、優しく強く寄り添える様な作品にしたい
という思いが強くあり、ベリーダンスに纏わる方々の思いにも共鳴しながら、
ドラマ化のお話をいただき、当初の数話のプロットや脚本をチェックさせていただきながら、
最終的に私が10月のドラマ化に同意させて頂いたのは6月上旬でした。
「セクシー田中さん」は連載途中で未完の作品であり、また、漫画の結末を定めていない
作品であることと、当初の数話のプロットや脚本をチェックさせていただいた結果として、
・漫画が完結していない以上、ドラマなりの結末を設定しなければならないドラマオリジナルの終盤も、
まだまだ未完の漫画のこれからに影響を及ぼさない様「原作者があらすじからセリフまで」用意する。
原作者が用意したものは原則変更しないでいただきたいので、ドラマオリジナル部分については、
原作者が用意したものを、そのまま脚本化していただける方を想定していただく必要や、
これらを条件とさせていただき、小学館から日本テレビさんに伝えていただきました。
また、これらの条件は脚本家さんや監督さんなどドラマの制作スタッフの皆様に対して
大変失礼な条件だということは理解していましたので、
「この条件で本当に良いか」ということを小学館を通じて日本テレビさんに
何度も確認させていただいた後で、スタートしたのが今回のドラマ化です。
ところが、毎回、漫画を大きく改編したプロットや脚本が提出されていました。
・漫画で敢えてセオリーを外して描いた展開を、よくある王道の展開に変えられてしまう。
・個性の強い各キャラクター、特に朱里・小西・進吾は原作から大きくかけ離れた
別人のようなキャラクターに変更される。
・「性被害未遂・アフターピル・男性の生きづらさ・小西と進吾の長い対話」等、
私が漫画「セクシー田中さん」という作品の核として大切に描いたシーンは、
大幅にカットや削除され、まともに描かれておらず、その理由を伺っても、
納得のいくお返事はいただけない。
といったところが大きなところですが、他にも細かなところは沢山ありました。
私が描いた「セクシー田中さん」という作品の個性を消されてしまうなら、
どうして変更していただきたくないのかということも丁寧にご説明し、
粘りに粘って加筆修正し、やっとの思いでほぼ原作通りの1〜7話の脚本の
完成にこぎつけましたが…。
脚本家さん、監督さんといったドラマ制作スタッフの皆様と、私達を繋ぐ窓口は
プロデューサーの方々のみでしたから、プロデューサーの方々が当初「ドラマ化の条件」として
どのように脚本家さんや監督さん、ドラマ制作スタッフの皆様に伝えていらっしゃったのか、
残念ですが私達には知る術はなく、
当初お伝えした「ドラマ化の条件」はどうなってしまったのだろう?という
その頃には私も相当疲弊していました。
そして、私があらすじ、セリフを準備する終盤のドラマオリジナル展開は
8話〜10話となりましたが、ここでも当初の条件は守られず、
私が準備したものを大幅に改変した脚本が8話〜10話まとめて提出されました。
特に9話、10話の改変された脚本はベリーダンスの表現も間違いが多く、
ベリーダンスの監修の方とも連携が取れていないことが手に取るように分かりましたので、
「当初の約束通り、とにかく一度原作者が用意したあらすじ、セリフを
「足りない箇所、変更箇所、意見はもちろん伺うので、脚本として改変された形ではなく、
といったことを、小学館から日本テレビさんへ申し入れをしていただきましたが、
それを小学館サイドが「当初の約束通りに」と日本テレビさんにお戻しするという作業が
数回繰り返されたと聞いています。
最終的に、日本テレビのチーフプロデューサーの方から「一度そのまま書くように」との
指示が出たとも伺っていましたが、状況は変わらぬまま約4週間が過ぎてしまいました。
ドラマの制作スケジュールのリミットもどんどん迫っていましたので、
本当はドラマオリジナルとなる8話〜10話全ての脚本を拝見してオリジナル部分全体で、
何とか改変前の内容に修正させて頂いて、日本テレビさんにお渡しすることになってしまいました。
9話、10話に関する小学館と日本テレビさんのやりとりを伺い、
時間的にも限界を感じましたので、小学館を通じて9話、10話については、
当初の条件としてお伝えしていた通り、
「原作者が用意したものをそのまま脚本化していただける方」に交代していただきたいと、
結果として、日本テレビさんから8話までの脚本を執筆された方は
9話、10話の脚本は、プロデューサーの方々のご要望を取り入れつつ、私が書かせていただき、
脚本として成立するよう日本テレビさんと専門家の方とで内容を整えていただく、
という解決策となりました。
何とか皆さんにご満足いただける9話、10話の脚本にしたかったのですが…。
素人の私が見よう見まねで書かせて頂いたので、私の力不足が露呈する形となり反省しきりです。
漫画「セクシー田中さん」の原稿の〆切とも重なり、相当短い時間で脚本を
執筆しなければならない状況となり、推敲を重ねられなかったことも悔いてます。
9話、10話の脚本にご不満をもたれた方もいらっしゃるかと思います。
どのような判断がベストだったのか、今も正直正解が分からずにいますが、
改めて、心よりお詫び申し上げます。
最後となりましたが、素敵なドラマ作品にして頂いた、素晴らしいキャストの皆さんや、
ドラマの制作スタッフの皆様と、「セクシー田中さん」の漫画とドラマを愛してくださった
2024.1.26
※こちらのブログ、10年も放置してしまったため、1日の訪問者数が既に一桁でして…
なので今回、X(旧Twitter)新規アカウントを作って、同時にご報告させていただいてます。
@ashihara_hina
お仕事---
テストです
----
実は今発売中の『cocohana1月号』予告にミスがありまして。
本当に申し訳ないです。
夏くらいから体調崩してばっかりなので、しっかりリセット出来ると良いなあ~。
あとは、ずっとお世話になってたcocohanaの担当さんが他誌に異動されて
cocohanaでの初めての担当替えがありました。さすがに寂しいなあ~。
色々有難うございました!
1
お仕事---
3冊同時に発売中です~!!
「Bread&Butter]2巻は、水色に近いエメラルドグリーンの表紙です。
可愛く仕上げて頂いて、とても嬉しい。
2巻は「フレンチ・トースト」「イースト菌」「プレッツエル」「パン・サプライズ」ですよ~。
あと、「芦原妃名子傑作集・1・記憶」と「芦原妃名子傑作集・2・祈り」も同時発売です。
これ、一応私の20周年記念本なのですよ。なのでほぼ過去作で構成されてます。既刊コミックス未収録の新作は「乞う女」と「スゴロク」のみなので、どうぞお間違えの無い様、お気をつけくださいませ~。
途中お休みもしてるので、20周年といっても若干サバ読んでる気がしないでもないですが、、
一作一作コメントも書いてますので、興味のある方は手にとってみてくださいね。
1
お仕事---
2014.07.16 Wednesday02:13
原稿終わった~~! とりあえず、いっぱい遊ぶ!
1
おやつ---
2014.07.06 Sunday00:36
7月19日(土)発売です!
どうぞよろしく~。
詳細はまた後ほど。
1
お仕事---
2014.06.08 Sunday04:44
ほったらかしてました。ごめんなさい、、、。
ずっと調子のおかしかったPCを買い換えて、すさまじくメカオンチの私は
えーーっと、まず・・今発売中のCocohanaには、私のパン漫画は載っていないのですが、
私自身は特にお休みを取っていたわけではなくって、小学館さんでの別の読み切りを描いておりました。
なぜか、、なぜか、、「ビッグコミック オリジナル」に載りますよ!!
少女マンガ絵ど真ん中の、私の漫画が!なぜか!オリジナルに、、!!
昔、うちのお父ちゃんが読んでたよ、、。今も読んでるか知らないけど、黙っとこ。
なんでオリジナルに描くことになったかは、たいした理由もないんですけど、省略。
ちょっとした珍事件ですので、興味のある方は是非読んでみてくださいね。
パン漫画は、なるべく「業」とか「欲」とかを排除しながら描いてるのですけど
(出来るだけ「優しいモノ」を、、との注文を頂いてスタートした漫画なので)
「Bread&Butter」は、6月28日発売Cocohana8月号より巻頭カラーで再開です!
あ、あと、「砂時計」1~3巻(デジタル版)が、6月18日まで無料で読めるみたいです。
未読の方は是非、この機会にご覧くださいませー。
少し前、小学館の編集さんに、美味しいパンを沢山いただきました。
美味しい、、。へんしゅうさん皆やさしい、、悲しス。
1
お仕事---
2014.03.22 Saturday05:07
「Bread&Butter」第1巻☆3月25日発売です!
宜しくお願い致します
1
お仕事---
悲しい出来事がありました。。
土曜の最終で「ダラス・バイヤーズクラブ」を観て、余韻冷めやらぬまま売店のレジに行き
「パンフレットください、、」とつぶやいたら不透明の袋に入ったパンフレットをお姉さんに手渡され
中身を確かめないまま自宅に帰って袋から取り出してみましたら。。
なんでやねーーーーん!(500円返して~~~!)
せっかくなので「マチューテ・キルズ」のパンフレット読みましたけども、
私が観たのは「ダラス・バイヤーズクラブ」です。ハイ。
マシュー・マコノヒーもジャレッド・レトも凄かった。
描かれるのは、「生」に対するあまりに真っ直ぐな執着心。
「執着心」って、あまり聞き心地の良い言葉ではないけど、やっぱりもの凄いエネルギーを生むんですよね。
屈折してると痛々しく映るけど、ストレートな執着が爆発する様は、むしろ爽快。
主人公はあくまで自己中で自業自得で貪欲で、だけど彼のエネルギーが周囲を巻き込んで救済し感謝され、そのこと自体に戸惑いながら少しづつ他者との絆を得て行く描かれ方が、とても良かった。
自堕落な過去の自分を全て否定して、綺麗に生まれ変わったわけではないんですよね。
差別する側だった人間が、差別される側に転げ落ちる様は、「第9地区」と被るな。
パンフレット、、、。声が、小さかったのかな。
もっと腹の底から声を出して、強くたくましく生きようと思います。
うちのお姉ちゃん家に子ニャンコがやって来ました!
1
本・映画---
「オンリー・ゴッド」観てきました。
「復讐モノ」だと思ってたけど、違ってた。「親殺し」が主軸。
「ドライヴ」より私は好きでした。
母親より更に偉大な「神」が、新たな依存先に見えなくもないけれど。。
戦いを挑んでコテンパンにやられて裁かれて赦されて、救われたのかな?
「親殺し」はどうしてもパターン化してしまうけど、それほど普遍的なテーマなのかもしれないです。
バイオレンス描写より、KARAOKEシーンのがインパクトでかかった。
一人殺したら、腕一本。マイルールに則って無感情に淡々と人を裁いていく様は、
「神様」って言うよりも、「法」とか「規則」とか、そんな感じ。
人に勧めにくい。私は好きだけど。 <h3>o- **</h3>
パンをチマチマいっぱい描きました。
デザイナーさんが考えてくれたカバーデザインがとっても可愛いので、
仕上がりが楽しみです♪
「Bread&Butter」コミックス第1巻は、3月末発売予定です!
また、改めてお知らせしますね。
[芦原ブログ魚拓コピペ]2014.2.2〜2024.1.26
https://web.archive.org/web/20240127104246/http://ashihara-hina.jugem.jp/
ありがとうございました。
色々と悩んだのですが、今回のドラマ化で、
私が9話、10話の脚本を書かざるを得ないと判断するに至った経緯や事情を、
きちんとお伝えした方が良いのではと思い至りました。
この文章を書くにあたって、私と小学館で改めて時系列にそって事実関係を再確認し、
ただ、私達は、ドラマの放送が終了するまで、脚本家さんと一度もお会いすることは
ありませんでしたし、監督さんや演出の方などドラマの制作スタッフの皆様とも、
ドラマの内容について直接、お話させていただく機会はありませんでした。
ですから、この文章の内容は私達の側で起こった事実ということになります。
「セクシー田中さん」は一見奇抜なタイトルのふざけたラブコメ漫画に見えますが…。
自己肯定感の低さ故生きづらさを抱える人達に、優しく強く寄り添える様な作品にしたい
という思いが強くあり、ベリーダンスに纏わる方々の思いにも共鳴しながら、
ドラマ化のお話をいただき、当初の数話のプロットや脚本をチェックさせていただきながら、
最終的に私が10月のドラマ化に同意させて頂いたのは6月上旬でした。
「セクシー田中さん」は連載途中で未完の作品であり、また、漫画の結末を定めていない
作品であることと、当初の数話のプロットや脚本をチェックさせていただいた結果として、
・漫画が完結していない以上、ドラマなりの結末を設定しなければならないドラマオリジナルの終盤も、
まだまだ未完の漫画のこれからに影響を及ぼさない様「原作者があらすじからセリフまで」用意する。
原作者が用意したものは原則変更しないでいただきたいので、ドラマオリジナル部分については、
原作者が用意したものを、そのまま脚本化していただける方を想定していただく必要や、
これらを条件とさせていただき、小学館から日本テレビさんに伝えていただきました。
また、これらの条件は脚本家さんや監督さんなどドラマの制作スタッフの皆様に対して
大変失礼な条件だということは理解していましたので、
「この条件で本当に良いか」ということを小学館を通じて日本テレビさんに
何度も確認させていただいた後で、スタートしたのが今回のドラマ化です。
ところが、毎回、漫画を大きく改編したプロットや脚本が提出されていました。
・漫画で敢えてセオリーを外して描いた展開を、よくある王道の展開に変えられてしまう。
・個性の強い各キャラクター、特に朱里・小西・進吾は原作から大きくかけ離れた
別人のようなキャラクターに変更される。
・「性被害未遂・アフターピル・男性の生きづらさ・小西と進吾の長い対話」等、
私が漫画「セクシー田中さん」という作品の核として大切に描いたシーンは、
大幅にカットや削除され、まともに描かれておらず、その理由を伺っても、
納得のいくお返事はいただけない。
といったところが大きなところですが、他にも細かなところは沢山ありました。
私が描いた「セクシー田中さん」という作品の個性を消されてしまうなら、
どうして変更していただきたくないのかということも丁寧にご説明し、
粘りに粘って加筆修正し、やっとの思いでほぼ原作通りの1〜7話の脚本の
完成にこぎつけましたが…。
脚本家さん、監督さんといったドラマ制作スタッフの皆様と、私達を繋ぐ窓口は
プロデューサーの方々のみでしたから、プロデューサーの方々が当初「ドラマ化の条件」として
どのように脚本家さんや監督さん、ドラマ制作スタッフの皆様に伝えていらっしゃったのか、
残念ですが私達には知る術はなく、
当初お伝えした「ドラマ化の条件」はどうなってしまったのだろう?という
その頃には私も相当疲弊していました。
そして、私があらすじ、セリフを準備する終盤のドラマオリジナル展開は
8話〜10話となりましたが、ここでも当初の条件は守られず、
私が準備したものを大幅に改変した脚本が8話〜10話まとめて提出されました。
特に9話、10話の改変された脚本はベリーダンスの表現も間違いが多く、
ベリーダンスの監修の方とも連携が取れていないことが手に取るように分かりましたので、
「当初の約束通り、とにかく一度原作者が用意したあらすじ、セリフを
「足りない箇所、変更箇所、意見はもちろん伺うので、脚本として改変された形ではなく、
といったことを、小学館から日本テレビさんへ申し入れをしていただきましたが、
それを小学館サイドが「当初の約束通りに」と日本テレビさんにお戻しするという作業が
数回繰り返されたと聞いています。
最終的に、日本テレビのチーフプロデューサーの方から「一度そのまま書くように」との
指示が出たとも伺っていましたが、状況は変わらぬまま約4週間が過ぎてしまいました。
ドラマの制作スケジュールのリミットもどんどん迫っていましたので、
本当はドラマオリジナルとなる8話〜10話全ての脚本を拝見してオリジナル部分全体で、
何とか改変前の内容に修正させて頂いて、日本テレビさんにお渡しすることになってしまいました。
9話、10話に関する小学館と日本テレビさんのやりとりを伺い、
時間的にも限界を感じましたので、小学館を通じて9話、10話については、
当初の条件としてお伝えしていた通り、
「原作者が用意したものをそのまま脚本化していただける方」に交代していただきたいと、
結果として、日本テレビさんから8話までの脚本を執筆された方は
9話、10話の脚本は、プロデューサーの方々のご要望を取り入れつつ、私が書かせていただき、
脚本として成立するよう日本テレビさんと専門家の方とで内容を整えていただく、
という解決策となりました。
何とか皆さんにご満足いただける9話、10話の脚本にしたかったのですが…。
素人の私が見よう見まねで書かせて頂いたので、私の力不足が露呈する形となり反省しきりです。
漫画「セクシー田中さん」の原稿の〆切とも重なり、相当短い時間で脚本を
執筆しなければならない状況となり、推敲を重ねられなかったことも悔いてます。
9話、10話の脚本にご不満をもたれた方もいらっしゃるかと思います。
どのような判断がベストだったのか、今も正直正解が分からずにいますが、
改めて、心よりお詫び申し上げます。
最後となりましたが、素敵なドラマ作品にして頂いた、素晴らしいキャストの皆さんや、
ドラマの制作スタッフの皆様と、「セクシー田中さん」の漫画とドラマを愛してくださった
2024.1.26
※こちらのブログ、10年も放置してしまったため、1日の訪問者数が既に一桁でして…
なので今回、X(旧Twitter)新規アカウントを作って、同時にご報告させていただいてます。
@ashihara_hina
お仕事---
テストです
----
実は今発売中の『cocohana1月号』予告にミスがありまして。
本当に申し訳ないです。
夏くらいから体調崩してばっかりなので、しっかりリセット出来ると良いなあ~。
あとは、ずっとお世話になってたcocohanaの担当さんが他誌に異動されて
cocohanaでの初めての担当替えがありました。さすがに寂しいなあ~。
色々有難うございました!
1
お仕事---
3冊同時に発売中です~!!
「Bread&Butter]2巻は、水色に近いエメラルドグリーンの表紙です。
可愛く仕上げて頂いて、とても嬉しい。
2巻は「フレンチ・トースト」「イースト菌」「プレッツエル」「パン・サプライズ」ですよ~。
あと、「芦原妃名子傑作集・1・記憶」と「芦原妃名子傑作集・2・祈り」も同時発売です。
これ、一応私の20周年記念本なのですよ。なのでほぼ過去作で構成されてます。既刊コミックス未収録の新作は「乞う女」と「スゴロク」のみなので、どうぞお間違えの無い様、お気をつけくださいませ~。
途中お休みもしてるので、20周年といっても若干サバ読んでる気がしないでもないですが、、
一作一作コメントも書いてますので、興味のある方は手にとってみてくださいね。
1
お仕事---
2014.07.16 Wednesday02:13
原稿終わった~~! とりあえず、いっぱい遊ぶ!
1
おやつ---
2014.07.06 Sunday00:36
7月19日(土)発売です!
どうぞよろしく~。
詳細はまた後ほど。
1
お仕事---
2014.06.08 Sunday04:44
ほったらかしてました。ごめんなさい、、、。
ずっと調子のおかしかったPCを買い換えて、すさまじくメカオンチの私は
えーーっと、まず・・今発売中のCocohanaには、私のパン漫画は載っていないのですが、
私自身は特にお休みを取っていたわけではなくって、小学館さんでの別の読み切りを描いておりました。
なぜか、、なぜか、、「ビッグコミック オリジナル」に載りますよ!!
少女マンガ絵ど真ん中の、私の漫画が!なぜか!オリジナルに、、!!
昔、うちのお父ちゃんが読んでたよ、、。今も読んでるか知らないけど、黙っとこ。
なんでオリジナルに描くことになったかは、たいした理由もないんですけど、省略。
ちょっとした珍事件ですので、興味のある方は是非読んでみてくださいね。
パン漫画は、なるべく「業」とか「欲」とかを排除しながら描いてるのですけど
(出来るだけ「優しいモノ」を、、との注文を頂いてスタートした漫画なので)
「Bread&Butter」は、6月28日発売Cocohana8月号より巻頭カラーで再開です!
あ、あと、「砂時計」1~3巻(デジタル版)が、6月18日まで無料で読めるみたいです。
未読の方は是非、この機会にご覧くださいませー。
少し前、小学館の編集さんに、美味しいパンを沢山いただきました。
美味しい、、。へんしゅうさん皆やさしい、、悲しス。
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お仕事---
2014.03.22 Saturday05:07
「Bread&Butter」第1巻☆3月25日発売です!
宜しくお願い致します
1
お仕事---
悲しい出来事がありました。。
土曜の最終で「ダラス・バイヤーズクラブ」を観て、余韻冷めやらぬまま売店のレジに行き
「パンフレットください、、」とつぶやいたら不透明の袋に入ったパンフレットをお姉さんに手渡され
中身を確かめないまま自宅に帰って袋から取り出してみましたら。。
なんでやねーーーーん!(500円返して~~~!)
せっかくなので「マチューテ・キルズ」のパンフレット読みましたけども、
私が観たのは「ダラス・バイヤーズクラブ」です。ハイ。
マシュー・マコノヒーもジャレッド・レトも凄かった。
描かれるのは、「生」に対するあまりに真っ直ぐな執着心。
「執着心」って、あまり聞き心地の良い言葉ではないけど、やっぱりもの凄いエネルギーを生むんですよね。
屈折してると痛々しく映るけど、ストレートな執着が爆発する様は、むしろ爽快。
主人公はあくまで自己中で自業自得で貪欲で、だけど彼のエネルギーが周囲を巻き込んで救済し感謝され、そのこと自体に戸惑いながら少しづつ他者との絆を得て行く描かれ方が、とても良かった。
自堕落な過去の自分を全て否定して、綺麗に生まれ変わったわけではないんですよね。
差別する側だった人間が、差別される側に転げ落ちる様は、「第9地区」と被るな。
パンフレット、、、。声が、小さかったのかな。
もっと腹の底から声を出して、強くたくましく生きようと思います。
うちのお姉ちゃん家に子ニャンコがやって来ました!
1
本・映画---
「オンリー・ゴッド」観てきました。
「復讐モノ」だと思ってたけど、違ってた。「親殺し」が主軸。
「ドライヴ」より私は好きでした。
母親より更に偉大な「神」が、新たな依存先に見えなくもないけれど。。
戦いを挑んでコテンパンにやられて裁かれて赦されて、救われたのかな?
「親殺し」はどうしてもパターン化してしまうけど、それほど普遍的なテーマなのかもしれないです。
バイオレンス描写より、KARAOKEシーンのがインパクトでかかった。
一人殺したら、腕一本。マイルールに則って無感情に淡々と人を裁いていく様は、
「神様」って言うよりも、「法」とか「規則」とか、そんな感じ。
人に勧めにくい。私は好きだけど。 <h3>o- **</h3>
パンをチマチマいっぱい描きました。
デザイナーさんが考えてくれたカバーデザインがとっても可愛いので、
仕上がりが楽しみです♪
「Bread&Butter」コミックス第1巻は、3月末発売予定です!
また、改めてお知らせしますね。
修正について
漫画とドラマは媒体が違うので、本当はドラマ用に上手にアレンジして頂くのがベストだって事は、私も良く理解してるんですよ。
(中略)
でも、ツッコミどころの多い辻褄の合わない改変がされるくらいなら、しっかり、原作通りの物を作って欲しい。
(中略)
これは私に限らずですが…作品の根底に流れる大切なテーマを汲み取れない様な、キャラを破綻させる様な、安易な改変は、作家を傷つけます。
悪気が全くないのは分かってるけれど、結果的に大きく傷つける。
それはしっかり自覚しておいて欲しいです。
最終的に意にそぐわないモノが出来ても、多くの作家は公に文句が言えないです。
莫大な数の役者さんスタッフさん達が、労力や時間を使って関わってくださってる事を知ってるので。
その事に対しては、本当にとても感謝をしているので。
なので、闇雲に原作を変えるな!と主張しているわけではなく、よりよいドラマになるように、自分を守るために、現段階で出来るベストを尽くしているつもりです。
宜しくお願い致します。
「ラーメン」や「らーめん」をテーマにした漫画はたくさんありますね。以下にいくつかのタイトルをご紹介します:
極道ラーメン:多重債務者の男の家に暴力団が取り立てにやってきた。その男の話を聞き、歌舞伎町一のラーメン屋「極道ラーメン」の店長、万吉の怒りの鉄拳がうなる!
闘将!! 拉麺男:馬賊に親を殺され、自身も瀕死の重症を負った少年は、超人拳法の達人・陳老師にその命を救われた。やがて少年は、12年の拳法修行を経て「超人一〇二芸」を習得!
ラーメン発見伝:一億人の国民食、ラーメン!百戦錬磨のプロたちが鎬を削る世界に、ラーメン好きの普通の(?)サラリーマン・藤本が挑む!!
ラーメン大好き小泉さん:美少女 × ガッツリ系ラーメンという異色の作品。ラーメンをこよなく愛する主人公がメインの作品です。
闇金ウシジマくん外伝 らーめん滑皮さん:「闇金ウシジマくん」のスピンオフ作品で、ラーメンをこよなく愛する主人公がメインの作品です。
ラーメン王子:無人島で10年も過ごした成宮が「ラーメン大事典」を読み続け、その知識は誰にも負けません。
これらの作品は、ラーメンをこよなく愛する主人公がメインの作品から、実在するラーメン屋や職人が登場するものまで、作者のこだわりが詰まった名作が多数存在します。ぜひチェックしてみてください。他に何か質問がありましたら、お気軽にどうぞ!
(前半からの続きです。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093126
もっとも、現代アートは手放しで褒められるものでもないでしょう。多くの批判者が火のないところに煙を立てているとは言えないと思います。作品の出来が悪いものも混じっていることは否めません。
大方の批判にもかかわらず、私は今回のトリエンナーレではそのような「的外れ」感のある作品はほとんどないか、かなり少なかったと感じています。これもキュレーションのよさでしょう。
思い返せば2020年のトリエンナーレにあった「エビにSEXをさせる方法を考える」という一連の展示はひどかった。テーマはとてもよかったのですが、日本(だったと思います)のクリエイターたちの作品はふざけているとしか言いようのないものでした。その課題は、「エコスフィア」(エビと水草の入っている閉じた水槽)の中でエビは酸素を吸って二酸化炭素を出し、水草は二酸化炭素を吸って酸素を出す。この循環のバランスはうまく保たれているが、一つ問題があって、エビは生殖をしなくなる。そこでエビに生殖をさせる方法を考える、というものでした。多くの作品はエビにセクシーな格好をさせるとか、エビの秘宝館のようなものを作るとか、そういうものだったと記憶しています。しかし、クリエイターたちはこの「エコスフィア」が地球の生態系の比喩であると気づかなかったのでしょうか? だとしたら愚かに過ぎるとしか言えません。それとも、気づいていてこのような作品を作ったのでしょうか? だとしたら二倍悪い。エビとは「私たち」に外ならないのだから、つまりクリエイターたちは女がセクシーな格好をして男を誘えばよいと言いたいのでしょうか? それはあまりにも「男尊女卑」に終始していると言わざるをえません。そこには問題意識が欠如しています。「教授の課題テーマはよかったが、学生たちのレポートがだめだったという感じだ。」私は友人とそう語りあったことを覚えています。
2020年といえば壁にブレインストーミングのように年号と出来事を書いてゆく展示もありました。そこには作家のメモも展示してあり、『荘子』の「胡蝶の夢」の故事が引用してありましたが、「與」を「興」と書き誤っていたことを覚えています。自分のことは棚に上げつつ、非本質的でささいな事をあげつらうようですが、「どうかわからないことで見栄をはらないでほしい」と思われてなりませんでした。
現代芸術の作家たちの一部が「見栄をはろう」としていることは薄々感じられます。人文学、哲学、歴史学、経済学などに議論の蓄積がありとっくに通過してきた知見について、芸術家たちが何周も遅れて的外れなことを言っている光景は、あまりみっともいいものではありません。なぜそのようなことになっているかといえば、芸術家が「作品」だけではなく、その「意味」で評価されるようになっているからでしょうか。
かつて芸術家は貴族の注文にこたえて絵を描いていたそうです。今の作家は自由に作品を作れるはずなのに、ただ社会の要請にこたえて作品を作ろうとして、中身のないステートメントを打ち出しているのは、痛々しくさえあります。
しかし、これは決して「アーティストはよけいなことを考えるな」と言いたいわけではなく、むしろその逆で「もっと学問をしてほしい」ということです。しかもそれは「芸術家」としての意識以前に、「市民」として当たり前にもつべき意識であると思うのです。芸術家は作品だけで力のある面白い作品を作って、そしてそれとは別に最低限、当たり前に市民として的外れでない発言もしてほしいのです。
トリエンナーレと同時開催の展覧会Bank ART Life7「UrbanNesting: 再び都市に棲む」に足を運ぶと、新高島駅地下1階の会場の入口には巨大な土のダンゴがありました。これはかなり面白かったのですが、説明を見ると福島の土で作ったとありました。もちろん福島の原発事故はまだ収束したと言えませんし、提示された問題は深刻です。しかし、その場では私も友人も何となく興が醒めてしまったのです。それはなぜでしょう? 何となく、「作品の面白さにテーマが負けている」と感じました。私も「キラキラ」なアートを好む一員であり、私の中で「無意味」のもつ破壊的な力に「意味」が負けてしまったのかもしれません。あるいはその逆で、テーマの重さのために、作品が軽く見えてしまったのかもしれません。いずれにしても、私は作品のよい受け手になることができませんでした。
しかし問題は受け手だけにあるのではないと思います。「作品」と「意味」のバランスは難しいことであり、作り手の側でもうまく調整しなければならないものです。先程述べた通り、今回の展覧会にはピンボケな作品が少ないと感じました。しかし、今回の出品作のうち、どれくらいが「意味」(言葉による解説)なしに「作品」だけの魅力で勝負できるものだったかは疑問も残ります。
今回の展示にあったBゼミの試みはよかった。「意味のないものを作る」とか「新しい楽器を作る」とか、芸術を意味から解き放つような試みは今でも頼もしく思われます。どうもいまのアートは、意味を付与された瞬間に弱くなってしまうような気がしています。作品と意味との関係性については、まだまだ考える余地がありそうに思います。
私の身近に YOASOBI のアニソンが好きでないという人がいます。「アニソンというのはアニメの解釈であり、アニメへの讃歌であり、しかしアニメ本編とはズレているから面白い。YOASOBI の歌はアニメのストーリーをそのまま歌っている。だから面白くない」と言うのです。何となくわかる気もします。偉そうに勝手なことを言うならば、現代芸術も世界にあるモノをそのまま出すのでなく、世界をアートの形で表現するとどうなるのか、「意味」に傾きすぎず「作品」の力で見せてほしいと思います。
しかし、芸術に「意味」をこめるなというつもりではありません。批判者の中には、芸術家は被災地を創作で消費するのではなく、実際に活動をすることで被災地に貢献すべきだというような意見を言う人があったような気がします。もちろんそのような活動はしないよりもしたほうがよいのですが、それはあくまで「市民」としてのはたらきであって、「芸術家」としてのはたらきではないでしょう。芸術家には芸術家にできることがあり、それは創作であるということを否定するつもりはありません。しかし、だからこそ「作品」と「意味」にはもっとよい関係があるのではないかと思います。その答えが何かということは、残念ながら即座に提示できないので、偉そうに勝手なことを言うだけになってしまうのですが……。
批判めいたことのついでに言えば、今回のトリエンナーレを批判する意見の中には、電気を使ったインスタレーションと環境問題を訴える作品を同じ空間に並べることの違和感を語る人がいたように記憶しています。その違和感も理解できますが、それとは別に、芸術と資本の関係という問題も感じました。入り口の協賛企業の一覧を見たとき、たいへん違和感がありました。資本主義への警鐘をならす作品(全てではないにしろ)が、大資本の資金で展示できるとは! 大企業はそのようなお金を出すほうがよいと思いますけれど、その一方で企業がそれを「みかじめ料」として批判されなくなるべきではもちろんないでしょう。作品が意味をもつときには、その作品のおかれる「場」までもが、自らの意味を暴露するようになるのかもしれない。初っ端からそんなことを考えさせられるなかなか面白い「展示」でした。
咎め立てばかりしてしまったようですが、最後によかったところをいくつか述べたいと思います。友人は、今回のキュレーターの解説文(紹介文)がよかったと言っていました。友人によると今や「この作品はこう見るべきだ、ここが素晴らしいのだと天から決めつけて、自分に酔ったような解説」を見ることも多いなかで、今回の解説文は「キュレーター自身が作品をどう見るか、真摯に考えて書かれていたので好感が持てる」というのです。また、「キュレーションにも工夫が多かったような気がする。例えば商業主義のマルボロの広告の下にインドの貧しい生活を描いた版画を配置するなど、『対比』を意識したものがいくつかあったように感じた」とも言っていました。キュレーターの仕掛けた「作品」と「意味」の関係性のバランスは果たして十分達成されたかどうか、それはよくわかりませんが、キュレーターが真剣に構成しており、私たちに問いかけるものがあったのは確かだと思います。
要するに、初めに述べた通り「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということです。言いたいことはこれに尽きます。
魅力のある作品も少なくありませんでした。友人は勅使河原蒼風のファンになり、富山妙子の画集を買いました。私は土肥美穂の buttaiが気に入りました。同時開催のBankART Life7では、みなとみらい駅の腕木信号のオブジェや、Bank ART Stationにあった送風機で立ち上がる足などの機械仕掛けの作品が好きでした。
つらつらと思いつくまま書くうちに、思いがけなく長文になってしまいました。次回のトリエンナーレにも期待しつつ、このあたりで終わりにします。
第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのときの感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています。
今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやかな感想を述べたに過ぎない」と述懐しています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。魯迅の感想が短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想をもつならば、それで満足です。
人は物事に触れて感想を持つものだと思います。SNSの批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想は自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というものも自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。
今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスがキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います。
今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成る」ものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的なもの、追憶的なもの、観念的なもの、象徴的なもの、風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特の雰囲気をもった作品集です。
これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります。
そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会は作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり、言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味もキュレーターの解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレットの文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」
しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍や文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論の余地がありえますが、言葉と芸術の距離がそう遠いものでないことは確かです。
さらにテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきます。キュレーターが中国の出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙の試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文や文字が芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。
いっぽう、日本で一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭なものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたかも展覧会から「あなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。
では、「芸術(アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から「芸術(アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいものが芸術なのか?」とか「言語表現は芸術と無関係か?」といった問題はゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。
鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります。批判もひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要な展覧会であったと言えるのでしょう。
友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術は抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品を面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉の時代なのでしょう。考えずして何が現代の芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日にちょっと芸術に触れてみよう、子どもを芸術に触れさせてみよう、デートで美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品を面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」
たしかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館の改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。
私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います。
ここで、ちょっと過去のトリエンナーレを振り返りたいと思います。
私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています。
2014年の第5回「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家や芸術家がいかに体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代や脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治」であるという意識が出てきていたためかもしれません。
2017年の第6回「島と星座とガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権のさなかにあって、政治の右傾化が懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)
2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」、映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続。
きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います。
今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術が政治的であることの何が問題なのかとか、政治が生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーターが中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。
たしかに、今回の展覧会ではヨーロッパの戦争に関連する展示や国粋主義者の移民反対デモの映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつの世界に見立てて、このような出来事が遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます。
そのデモの映像のひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別のデモが行われています。ヘイトクライムの危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。
思い返せば2014年や2017年はかなり「政治的」な展示があったと思います。しかし今回、キュレーターは日本の問題をひとつも指摘しませんでした。日本で美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれた事件もそう遠い昔のことではありません。日本は美術の表現が自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときにもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっとも自由な表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身地である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパも安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります。
しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品のなかに普遍性を見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。
ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会のなかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅が木版画という簡易で複製可能な芸術を通じて、民衆に文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争を撮影した写真が展示されていたのは、芸術と政治の問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います。
(後編へ続きます。)
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