はてなキーワード: テーゼとは
動機は怨恨。山上のターゲットは統一教会の創始者の一族すべての殺害だったが、それが無理だったので第2ターゲットとして広告塔になっていた安倍元首相を狙ったといっている。
よって政治的動機はない(つまりテロリズムではない)。ただし統一教会へダメージを与える意図は当然あった。宗教団体をターゲットにしたテロとはいえるかもしれない。
事件で統一教会と、そこに癒着していた自民党、政府を批判するときに一番もにょるのがこのポイント。気持ちはよくわかる。
ただの怨恨事件としてみれば、こういう事件が起きることを防ぐ社会にしようという活動をするのはなんの問題もなさそう。
山上は統一教会を潰すという意図を明らかに持っていたが、その方向に社会が動いていったら社会不安は増大する?どうだろうか。
ただ例えば「国家権力や与党と反社会的なカルト宗教は距離を取るべき」だというテーゼはあまりにも当たり前ではないか? これはだいたいみんな賛同できることなのにこれを進めていったら社会不安がふえる?
ここでの社会不安の増大とは、個人が暴力に訴えることで問題を解決していこうという人が増えること、ということにする。
でも個人の暴力で問題が解決できることがわかっても、みんな暴力を振るうわけじゃない。だいたい2つ理由がある。
暴走自動車に子供を殺された人が相手を殺したいと思ってもみんなが復讐殺人するわけではない。死刑にはならなくても執行機関が妥当といえる制裁をあたえてくれる。そういう信頼があるからだ。
これだ。ここで大切なのは「信頼」ではないか。社会不安を減らすのは社会は公正であるという信頼と、国家暴力とその執行機関が公正であるという信頼といえる。
なぜか?
社会や執行機関がなにもしてくれないなら個人が暴力に頼らざるを得なくなるから。
もちろん個人の望みが反社会的である場合もこれに当てはまる。反社会的行為を支援してくれる執行機関はいないはずだから。なので正確には、「公正か公正でないか」ではなく「個人の望みと執行機関の規範が一致しているか」が問題で一致していない場合個人は暴力的な手段にたよるしかない。
山上が犯行に及びざるをえなかったのは国や裁判所、警察公安などと執行機関が信頼できなかったからではないか。
「カルトを規制してほしい」とか「カルトの活動を野放しにしないでほしい」などの当たり前ののぞみも叶えてくれるという信頼がなかったからでは?
もちろん統一教会の創始者一族の皆殺は無理だとしても、取りうるオルタナティブとして「カルトの規制強化」とか「統一教会の国外追放」とかのまともな望みを国や裁判所がかなえてくれるという「信頼」が残っていれば、彼だってそちらに勢力を傾けたのではないか?
反社会的カルト規制強化はあたりまえのことだし、政権とカルトの癒着を断ち切るのも当たり前のことすぎる。
当たり前のことをやらないのであれば、国家には国民の命と権利を守るという約束(憲法)があるが、それが守れていない。約束が守られないと信頼は失われる。さっきも書いたように信頼が失われると社会不安が増大する。
つまり「個人の暴力による社会変革は他の個人のテロを誘発するのでは」という疑問については今のところ因果が逆なのではないか。
「国家権力への信頼が失われたから個人の暴力に頼る人が出てきた」
であれば国家権力への信頼を取り戻すように社会が動くのは正しい行動だろう。
それを「暴力に訴えれば社会は動く」ととらえて行動する個人が出てくる可能性はあるかもしれず、それについても社会が他の選択肢を示せるようにしないといけない。
(もちろんそれが反社会的な望みだったら無理なわけだが)
統一教会ネタにいっちょ噛みしたいのでプロテスタント系大学での統一教会の扱いについて説明するよ。
https://anond.hatelabo.jp/20220710130132
因みに日本のミッションスクールはイエズス会の作った上智大などの少数を除いて、殆どがプロテスタント系だ。これはプロテスタントの方が伝道師の資格が得やすいというのと、アメリカの影響を受けているからだ。
日本の多くのプロテスタント教会は統一教会と戦っているので、そのミッション校である大学では統一教会の活動ははっきりと禁止されている。「信教の自由」みたいな微温的な言い分には完全に聞く耳を持たない。
特にピリピリしているのが学内での勧誘や原理研の偽装サークルを通じたオルグで、入学時のオリエンテーションでかなりの時間を掛けて注意を受ける。
もし学内での勧誘が発覚したらかならずこうする、と強く警告を受ける。
曰く
1.当該学生は呼び出される。
2.教会の牧師や教授の説得チームが構成され親を交えた脱会説得。親が田舎に居る場合でも大学に出てきてもらう。
3.「説得に応じない場合」という譲歩の想定は無し。
4.偽装サークルを作っていた場合はサークルは強制的に閉鎖、関わった学生は全て停学の上で上記1と2コース。
5.停学の解除条件は統一教会脱会のみ(勧誘しませんの約束ではない)。
「統一教会には絶対に接近されるな、勧誘されるな、勧誘する立場までになったら退学だぞ」と念押しされるんだな。
その結果、ミッション校では完全に原理研フリーになってて、学生は統一教会問題というのは過去のもので既にこの世にないものと思っていたりする。それで、卒業したら統一がまだ現役で活動しているという事を知って驚いたり、逆に接近されても気が付かなかったりする。
増田も卒業後にネットで原理研の話を聞いて、あれってまだ現役だったモノなの?と驚いてしまったくらいだ。
なんでプロテスタントミッション校でこんなに統一教会を徹底的に排除しているのかというと、過去に非常に戦闘的な脱会運動をしていたからなんだな。
統一教会が国会などで問題になって盛んに報道されるようになったのは1990年以降なんだが、その前の80年代には霊感商法や洗脳的な集団生活などが問題になって来ていた。
それで牧師たちがこの邪教から学生や相談を受けた親の子息を足り戻す脱会運動をしていたんだがこれは説得とか生ぬるいものじゃない。何しろまず洗脳解除をしなきゃいけないから使う言語は肉体言語込みになる。
1.まずターゲットは道場や寮で集団生活をして宗教活動に励んでいるので、外に出るタイミングを見計らって路上などで親と牧師達で取り囲み、説得したり怒鳴ったり泣き落とししたり腕力で肉体的に説得して車に押し込んで連れ去ってしまう。その為には生活パターンの把握が必須なので張り込みもやる。
2.統一が身柄奪還の為に連絡を取りに来るので、家には戻さない。教会や大学の寮に入れる。とにかく身柄を確保してしまう。
3.洗脳を解く方法は逆洗脳。寝かせずに説得、キリスト教の教義の論争を仕掛けて全て論破しまくる、大声を浴びせて疲れさせる、急に泣き落とす、急に叱りつけてから急に話を聞いて心を開かせ過去の自分を思い出させる。信者のせいで崩壊した家庭の事を説明してこの先の事を考えさせる。
こんな風に非常に強引な手法で洗脳を解き、日常に復帰させる。その後のセミナー系カルトなどの例を見ても脱洗脳はみなこういう方法を取るようだ。
だけど教団側も手をこまねている訳じゃない。こういう手段で身柄を取り返しに来る。
・通勤通学路や家の近くで待ち伏せして「騙されているんだ帰ろう」と説得する。これは数度だけじゃなくて非常にしつこく、何年間、何十何百回も繰り返される。
だから教会とか寮とかの牧師達の目の届くところに住まわせる必要があるし、法廷闘争に対抗して弁護士を立てる必要もある。
だからネットとかで統一側に立って「信教の自由がー」「信者の人権がー」って言ってるのを見ると悪いが鼻で笑ってしまう。
人権は学校では「崇高なもの」みたいに教わるが法廷では誰もが主張できる武器である。武器を掲げているからそっちが正義みたいに思い込むのは学校のホームルームであって、こっちは法廷である。
本人の脱会が成功しました。おめでとう御座います…じゃない。その後も再オルグ対策は続けなきゃならない。
非常にしつこく信者が接触しに来るので、本人の引っ越しは当然のこと、家族も引っ越しする。その為に家を売り払う場合もある。
本人は何とか大学を卒業する。そして遠方に就職する。友人も本人を追えなくする。交友関係が切れてしまうが仕方がない。
とにかく身を隠す為の生活を余儀なくされるのである。まるで犯罪者だ。
実家の引っ越しには親の転職も含む場合がある。だから相当の金も掛かるし、人生も変わってしまう。でも信者のままで霊感商法に従事すると本人も家族も人生なんて無くなるからずっとましである。
プロテスタントの牧師達はこういう風に統一教会と戦って大学から排除していたのだが、他の私学、国公立では信教の自由の下で放置されていた。だから統一はミッションスクールから手を引いてやりやすい普通の私学国公立でオルグをしていた。
ところがオウム事件が日本中を震撼させると学内でのオルグが問題になってくる。
そこで多くの大学が方針を切り替えた。プロテスタント大学のように戦闘的な脱会運動や退学処分が当然のような方針ではないが、他のカルトと一緒に統一教会や原理研の勧誘に注意喚起が出され、「原理研の偽装サークルに注意!」と張り紙が出るようになった。
因みに1990年頃の大学改革で米国式の実学系学部が人気になり、旧来の学部でも実学系の講義が増えたのだが、その非常勤講師が自己啓発セミナーの勧誘を行う事が問題になっていた。それも当時にそういう講師を学期途中でも解雇にするという形になったのだが、、、後にこれら自己啓発系は企業の社員研修に食い込むようになってブラック企業隆盛の片棒を担ぐようになったのだな。
統一教会は1980年代末にはTVで大々的に批判されたので、こういう状況になると警戒されて学内で勧誘が非常に難しくなった。
そこで統一は名称の変更を言い出す。世界平和統一家庭連合、通称:家庭連合だ。
因みに「家庭」っていうタームは、1990年代の保守陣営の流行のようななのだ。
共産主義の親玉、ソ連が無くなって自由主義陣営と共産主義陣営の戦いという「歴史が終わっ」って戦う相手がいなくなってしまったせいで、陣営としてバラバラになってしまった。運動の核が無くなっちゃったのだな。それでマルクス主義フェミニズムなんかが家族という制度を攻撃している!家族や父性を大事にしようっていう風に再び集合するためのテーゼを共有したのだ。この時、この家族は大家族なのか、戦後の核家族なのかは敢えて問わないようにした。
この名称変更を文化庁はずっと拒否していた。理由は偽装勧誘の為なの明白だから当然な対応である。
これまでの経緯を見るとかなりヤバい事をしたと言っていいだろう。牧師らの長い戦闘的脱会運動とオウム事件で流れた血の果てに統一の勧誘名指しが無されたのにその効果をパーにしてしまった。
保守派の論客や自民党議員でカソリック信徒の人は多い。日本ではプロテスタントが専ら優勢なのに奇妙だ。
それは、以上の経緯で日本のプロテスタントがかなりリベラル寄りになっているって事が原因だ。
そもそも統一信者の霊感商法や家族崩壊という社会問題化を封じてきたのは反共議員達であって、憤怒の的だ。
(反共議員が多いのは自民党だったが、社会党にはもっと濃度の濃い反共議員がいた)
そういう事情が影響していると思われる。
だから日本のプロテスタントが左寄りだ!っていうはそうだと思う。
だが、ネットで「日本のプロテスタントは共産主義!」とかいうのを見る事もあって、そういうのを見ると「ああ、やってるなぁ/誰の影響か知らずに居るんだろうなぁ」と思うのである。
前半→https://anond.hatelabo.jp/20220615180702
こんな形でソ連という敵を喪失してなおアイデンティティの為に日教組を叩いていた人らが居たのだが、社会的には全然相手にされていなかった。
そこでこの批判を既存のコードを使ってアップデートしたのが小林よしのりだった。
左翼や進歩主義者ににとって社会は変革されるべき客体である。人間は変革を担う主体である。
だが、最初に大事なのはその主体が社会的矛盾や疎外に気付く事だ。それによって「変革の主体」との主体性を得るようになる。
だから、大学などに進んでも尚主体性を得ずに高校の延長で勉強しているような学生には「君達は教育による馴致によって自分が何か、何がしたいかの動機が予め奪われてここに居るんです」というような事が言われる。説得でもあり扇動でもある。
ルソーの『エミール』等の自然状態礼賛がベースになった考えで、本来人は高貴な野蛮人として生まれるのに教育を受ける間に躾けられ、個性を封じ込められ主体性を発揮する動機さえ喪失してしまう。
君たちは既に侵され殺され抑圧されているがそのことすら気付いていない。卵の殻を破壊せよ世界を革命する為に、とそういう具合である。
だがこの主体性への気付きというのは進歩主義者の専売特許ではない。帰国子女は異文化経験によって「今ここ」が異化されており概ね主体的でありそれにより成熟している事が多い。私学エスカレーター組と比べると大人とガキの違いだ。
また就職活動で仕事について真剣に考える期間を経ると顔つきが大人びてくる。
そこで小林がやったのは「君たちは教師によって騙されていた。君の本来性は殺されたままだ」という扇動だ。その騙しとは真実である歴史修正主義言説を隠蔽していたというものだ。
今ではこういう覚醒の物語というのは「レッドピル」として一般に認知されている。マトリックスでモーフィアスに「今までの生活がいいなら青カプセル、覚醒して世界の真実が知りたいなら赤を飲め」と言われるアレだ。
この扇動が奏功するには条件が必要だが、その前に指摘しておきたいのが、90年代末当時に流行していたアダルトチルドレン言説である。
アダルトチルドレンとはアル中に育てられた人間が自分の子供にも暴力をふるってしまう現象の事だ。
だがこれが「親の教育のせいで大人になれないガキ大人」という風に俗流解釈されてこれが流布して問題を起こしてしまう。
米国で弁護士事務所が営業をかけて「自分が大人としてうまくやっていけないのは親の教育のせいだ」として親を訴える事例が続出したのだ。
元の意味では自分の問題行動が幼少期のトラウマにある事を発見して自覚し克服するのが目的になっている。
対して俗流では自分の人格の問題は教育のせい、と問題を固定化するのが目的化しているのだ。訴訟を吹っ掛けるのが目的なんだからそうなる。
さて小林の日教組被害論はどっちだろうか?後者であろう。そして小林は当時この言説を知っていたはずである。ビル・クリントンが「僕もアダルトチルドレンだ」なんて言ったニュースが流れたのだから。
まず最初は
1.主体性棄損論がリベラル教師らによって唱えられ受容されていた
これは既に言った通り。
就職面接対策がマナーや受け答え型の技術的なマニュアルから主体性探求型へと移っていた時期である。自分が何故この会社と職種に賭けたいのか、自分を探求して経験者が起業する時のような事を語るのを求めれた時代である。今の洗脳型ブラック研修のオリジンはこの頃にある。
格別に強度がある自分探しの経験をしたとアピールする為に東南アジアの奥地で死にそうになったエピソードを語る学生が沢山居た頃である。
日教組被害論が端的に奇妙で揶揄の対象となるのは経験で上書きされていないという事だ。普通は大学や社会での経験で上書きされて中高の頃の事などいつまでも覚えていない。
上書きされないのはレッドピルだからなのだが、それ以外にも当時は社会経験で上書きされないという条件が揃っていた。
当時の新卒就職率は大学でも5割程度である。高校卒なら殆どが就職できていない。
「学校の上書き」がされずに経験の類型を話す時に仕事じゃなくて学校での事で話してしまうような者が半分以上居たのだ。
みなバイトや派遣してるうちに社会が変わって何とかなると考えたが何ともならなかった。
小林はリベラル界隈で活動している時に薬害エイズ訴訟の支援をしていたが、菅直人が厚労大臣になり原告の請求是認して謝罪し一応の解決を見ても運動に参加した学生がいつまでも新たな課題に飛びつき運動から離れないので嫌気がさしてしまった。
運動で正義を追及する自分がアイデンティティになってしまうからである。
更に運動に参加した学生が一律同じことを言うようになる。戦後に天皇が存続しているのもおかしい、自衛隊が存在しているのもおかしい、と。
明らかに左翼運動家に「世界観」を吹き込まれているのだ。レッドピルである。それらのパッケージの全体性は自己のアイデンティティの保持の為に支持されている。これに「汚ねぇやり方だ」と感じるのは正当であろう。
こういう運動のイヤな面を見て嫌気がさして辞めたのに、その方法論を覚えて転籍先で援用したのだ。
世界観提示による実存囲い込みの方法もその効果も、経験が少ない若年者を囲うと世界観の保持の為に経験での上書きを避けるというのも知っていた。就職しないで運動を続けたいというのがこれだ。
異論は個々の方法には許されるが、世界観を構成する箇所への異論はNGだ。その世界は積み上げたものではなくてパッケージ全体性が担保されねばならないものでそれを棄損するものだからだ。
小林はこんな風に左翼の思想/行動的に拙いところの要点を教示されるなどで認識しているのにそれを後に右翼扇動に使うという事を沢山していて例えば橋爪大三郎が後に口の端にも上げないのは小林の転向の為ではない。自分が説明した事の悪用のせいだ。
まとめると、社会が安定した日教組衰退期にソ連が敵性を喪失した為に敵の乗り換え先としてテーゼとなったが世間では相手にされていなかった。左翼運動の方法を知る小林が若年者の実存囲い込みの方法をこのテーゼにコピーして実行したところ社会情勢がマッチして成功した。
日教組被害論者があり得ない条件を言うのでツッコミ多数で、いやあったんだ北教組は…などという話によくなっているが、日教組は実在するのはみな知ってる。
そうでなくて日教組によって自分の主体は棄損されて間違った世界を見せられていたというのが訴えたいことだったのだろう。あれはマトリックスに封じ込めるブルーピルだったと。
だから揶揄している人は実在を問題にしているのではなくて中高の経験をいつまでも語るおかしさを揶揄している。思想的な事を多少知る人はその日教組の存在は世界の全体性パッケージの外郭を保持する為のアプリオリな仮想経験だという事に気付いている。
ネットでの対話なら揶揄して終わりだが、身近に居る人なら「それに拘泥している間は経験を擦り合わせて積むことが出来ない」「自由世界の住民の自我は小傷が多いがそれで壊れたりしない」と忠告してくれるはずだ。
冷戦と社会党瓦解の影響で日教組が協調路線に転じたのが1995年頃なのでもう30年近く前なのだよ。その当時の中高生はもう40代半ば以上なのだ。
https://www.pixiv.net/artworks/97652638
ともかく、今回の話は凄かった
杉浦氏が「34話、うまく描けた気がする」「自分は34話みたいなお話が描きたいんだな」と言うのも良く分かる
「ロボットの考えてた事を吐き出せてスッキリしたけど、もう自分の中に何にもないな…そろそろインプットしないとな〜」となるのも良く分かる
これを描いてしまうと、この先に何を表現すればいいのかが見えなくなってくるだろうな、と
とりあえず、私は私が感じたことを書いていくことにする
【ネタバレ要素】
ちょびっツ、ブルーピリオド、物語シリーズ、ライ麦畑で捕まえて、異世界迷宮の最深部を目指そう、風の谷のナウシカ、余は弁明ス
【4コマ目】
「真剣に聞かないでどうするの」
最後のコマのセリフを聞いてから読むと、この時の気持ちが、もう伝わってくるようで
【5コマ目】
個人的に好きな所
【6コマ目】
ここは難しいところ
家族でやるのが正しいのか、アップデートという名の支援を受けるべきであったのか
答えはない
【7コマ目】
今回のメイン
表情も含めて、本当に苦しい
「ひとつ残らずいなくなればいいのにって思う」
自分が何も生み出せないことを“気持ち悪い”と思い、自分自身の事を“不自然”であると感じる
誰しも、同じような気持ちになったことがあるからこそ、このセリフは響く
ある種の特性・特徴を持ち、自分がその特性をネガティブに感じている時、“いなくなればいいのに”と感じるよなあ、と思った
ひとにすがたを 見せられぬ
「早く人間になりたい!!」
【8コマ目】
「私はずっとロボットを 町から追い出したいと 思っていました」
「追い出すということは その先で壊されることも あります」
後のコマを見てもわかるんですが、これもこれで本心なんですよね
久永先輩の誠実さ(フェアさ)はこういう形なんですよ
厳しく辛い道である
もう一つ言うなら、今回は一人の人間が持ち得る色々な思想・考え・立場をそれぞれの登場人物に振り分けているところが読み応えのある所だな、と
【9コマ目】
「みんなのことが好きで ホイホイ入っちゃったところがあって…」
「ロボットを追い出すって どういうことか 考えてなかったんです」
「あの子たち みんないい子で やさしくて 頑張り屋なんです」
“自分(自分たち)と違う相手を排除することについて、深く考えてこなかった”という自覚
この種の「良い子で優しくて頑張り屋で、純粋なんです」というセリフが刺さる
ここが、この話の本質だ
頑張っていない人より、頑張っている人の方が好きだ
意地悪な人より、優しい人が好きだ
醜い人より、美しい人が好きだ
自分の事を理解してくれない人より、理解してくれる人の方が好きだ
自分を憎む人より、愛してくれる人の方が好きだ
至極当たり前の人だ
自分に害をなす人を、自分にとって“良いこと”がない相手をどうして大切にできるのだろうか
それをなしに、我々は我々を規定できない
その町には 誰もいなかったの
お家もあるし
窓から明かりも見える
でも 道には誰もいない
窓から中をのぞいてみた
ヒトがいた でもアレといっしょだった
ほかの家もみた
やっぱりアレといっしょだった
この町も ほかの町とおんなじだった
みんなはもう外には出てこない
この町には誰もいない
「最初は 好き好き言っててもさ」
これとか、これとか、これとか、これとか、これとかで考えていたことと近いな、と感じる
自然だとどうして良いんですか
「裸も」
「幸せになれなくとも、なりたいもんになれりゃいいんだし」
【14~15コマ目】
「死ぬほど頑張って 恋人も友達も 出来ない人は どうするんですか?」
「一生孤独に 生きて行かないと いけないんですか」
「… 振り向いて もらえなくても 努力は無駄に ならないはずです」
「頑張って 頑張って 頑張っても 誰ひとり 振り向いて 貰えない人に」
「それでも『成長できてよかったね』って言うんですか?」
「言います…」
「人でなし!」
ここはコミカルに描いているように見えて、凄く鋭い
皆がその理想に殉じられるわけではないということに通ずるものがある
そうはいっても腹は減るし、金は欲しい。人を憎むことも上昇を望むこともある。すべて人の業である
もとより、私は、こはれる。私は、たゞ、探してゐるだけ。汝、なぜ、探すか。探さずにゐられるほど、偉くないからだよ。面倒くさいと云つて飯も食はずに永眠するほど偉くないです。
私は探す。そして、ともかく、つくるのだ。自分の精いつぱいの物を。然し、必ず、こはれるものを。然し、私だけは、私の力ではこはし得ないギリ/\の物を。それより外に仕方がない。
それが世のジュンプウ良俗に反するカドによつて裁かれるなら、私はジュンプウ良俗に裁かれることを意としない。私が、私自身に裁かれさへしなければ。たぶん、「人間」も私を裁くことはないだらう。
――坂口安吾「余は弁明ス」
【16コマ目】
「文明が発達して それをしなくても済む人が 沢山増えました」
「お腹を満たす事以外に リソースを割く事が できるようになった代わりに その過程で 無くなった仕事や大切な物が 沢山あったと思います」
「ロボットが居る事で 私たちは 必死に苦労しなくても 心を満たせるようになる」
「満たせない事で 苦しまなくて 済むようになる」
「代わりに失うものも たくさんあるでしょう」
「でも私は そうするべきだと 思います」
「心が満たされた あとの社会」
「その向こう側に 行けると 信じているからです」
「ロボットと 一緒ならね」
ここがどうしてもこのエントリを書きたくなった所だ
以前に語ったように、人間は「自分でできることの増加」ではなく、「自分の周り(環境)」を変えることを志向して進化してきた
究極的には、全てが自動で行われる「システム」となるかもしれない
その向こう側に行けるのだろうか
「信じているからです」と言いきる、その横顔が眩しい
機械も含めて、全ての存在(生命も含めて)に対する信頼が見える
「…………どの真実をだね?」
「あの時代 どれほどの憎悪と絶望が 世界を満たしていたかを 想像したことがあるかな?」
「有毒の大気 凶暴な太陽光 枯渇した大地 次々と生まれる新しい病気 おびただしい死」
「ありとあらゆる宗教 ありとあらゆる正義 ありとあらゆる利害」
「とるべき道はいくつもなかったのだよ」
私はあなたの期待に応えるためにこの世に生きているわけじゃない。
そしてあなたも、私の期待に応えるためにこの世にいるわけじゃない。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。
天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
「ロボットが 初めて 二足歩行した時 感動したと 思うんだよね」
「? そうですね」
「で 次は段差を どう乗り越えるか 観たくなるでしょ?」
「私 ブロックになりたいの」
全然文脈が違うが、「ライ麦畑で捕まえて」を思い出す言い回しだ
「ともかく僕は子供たちがみんなこの大きなライ麦畑の中で何かゲームをしているところを思い浮かべるんだ」
「何千という子供たちがいてね、辺りには誰もいないんだ」
「大人は誰一人いないんだよ。その僕以外はね」
「そして僕はすごく急な崖の端に立っているんだ」
「僕がしなきゃならないことは、子供たちが崖から落ちそうになると捕まえてやることなんだ」
「子供ってのは走っている時には前を見たりしないから、僕がどこからか出て行って捕まえてやらなきゃならないんだ」
「一日中僕はそれだけをしてる」
「僕はライ麦畑の捕らえ人になりたいんだ」
――J・D・サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」
【18コマ目】
「私の意見は 変わりませんが 皆さんの意見も 変えられませんでした」
「今回の件は保留ということにします」
地味に好きポイント
やはりフェア
「そうだ 『勇さんを壊すべき』と 結論が出たら当然 壊さなければいけない」
「『壊すべきでない』と 結論が出たら 勇さんの内面を 否定することになる」
「どちらにしても 勇さんは救われない」
「どうすれば…」
やはり誠実だ
そして、ここのテーゼ・アンチテーゼが次のコマからアウフヘーベンの布石となる
「あなたが誰かを 傷つけても」
「人やロボットを 殺しちゃっても」
「自分を 殺しちゃっても」
「私は そのとき 一緒にいたいの」
「殺していいって言ってます?」
「久永先輩 いいんですか? こんなの」
「いいわけ ないでしょ」
「でも その 良くないことで 勇さんは救われたの」
これがジンテーゼとなる
否定も肯定も、自分が認めがたいことも含めて、それ自体を受け止めてくれる他者
これが正に尊厳であり愚行権であり、ハーム・リダクション的でもあり、アクセプタンスである
ただあるがままを受け止めて貰い、その衝動も含めて「(肯定でも否定でもなく)存在を承認」してもらうこと
「正しくあれ正しくあれと教えられっ、教えられた通りに正しく生きて正しく生きてっ、最期には正しいまま死んでしまってっ! やっとそれに気づきました! 正しくあれなんてそんな言葉、教えた人の都合でしかありません! ええっ、薄々とわかっていました! 正しい人ほど不幸になるってことくらい!!」
「だから、わたくしは思うのです。ええ、いまこそ、正直に申します。
ずっとずっとわたくしは――間違いを犯したかった」
神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。
一日一日を生き、
この時をつねに喜びをもって受け入れ、
困難は平穏への道として受け入れさせてください。
これまでの私の考え方を捨て、
イエス・キリストがされたように、
この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。
あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。
天鵞絨の海にも 仕方のないことしか無かったら
あたしはどう致しましょう
【27-27コマ目】
「みんなが」
「勇さんが 要らないって 言うまで 無くしたりしない」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないわ」
もう、なんというか
ズルいと思う、このセリフは
これをやられたらもう何も言えない
仰る通りだと思う。
これまでの騒動だと,「女性への偏見・蔑視を促進する」とか,「女性が性的対象になっている」とか,最大でも「環境型セクハラ(みたいなもの)」という,良くも悪くもふわっとした指摘にとどめてあった
ここは本当にそうで、あえて「ふわっと」立証不可能なテーゼを立ててるんじゃないかと思うほど。
でも、実はここが本丸なんだよね。
このふわっとした批判の問題点は、その薄い因果関係は、表現側に削除を要求するのに十分なのか?という所だと思う。
「その可能性がある」程度をもってして、差別的表現のレッテルを貼り事実上その表現を封じるのは、リベラリズムに反するのでは?という。
<追記>
「削除して」を支える理路の話をしています。
根拠なく、あるいは立証不可能な薄い因果関係を根拠であるかのように偽装して、差別的表現のレッテルを貼る行為は、紛れもなく誹謗中傷だよ。
キャンセルカルチャーに立ち向かうジョニーデップの話は知ってるね?
「その表現において、誰かの人権が損なわれているか?(損なわれていない以上は自由)」
これはid:muchonovによる、id:rag_enさんのエントリ muchonovさんの提示した「判断力が未熟だから」論法では、年齢による“パターナリズム”を肯定するのは無理があるよという話と、あとリテラシー - Click Game. への返信です。
まず、rag_enさんがご引用くださっている、自分が増田で書いた文章「子供の権利は制限されているし、性行為に伴うリスクを判断できない」の位置づけなんですが、これはmuchonovが何か新しい提案をしたぞとか、今からそういう社会を作るぞ、という内容ではありません。このスレッドの親増田の「なぜ、子供が性を売ってはいけないのか」という疑問への応答として、今の社会がそういう風になっている理由として、法律的・社会的にこのような背景がありますよ、と説明するものです。言い換えると、これは〈べき論〉ではなく〈である論〉のつもりで書いたものです。このことは、ここから先の話とも繋がってますので、ひとまずスタート地点としてご認識ください。
rag_enさんは以下のように、「『社会的コンセンサスがあるから』という理由でのパターナリズムの肯定」や(判断力が未熟な当事者を保護する)「手段としてのパターナリズム」自体を強く批判されています。
未成年に対しては愚行権を含む自由権に一定の制約を課すべきだという社会的コンセンサスがあるからです。未成年に対しては人権を制約するレベルのパターナリズム(保護者的統制主義、当事者の能力やリソースの不足を社会が保護者として補い、庇護する)をとってもよいし、分野・状況によっては積極的にそうしなければいけない
いやもうこれ、『社会的コンセンサスがあるから』なんていう、ふにゃふにゃな理由での“パターナリズム”を肯定してしまっているの、控えめに言っても完全に思考が狂ってますよね。
そもそも『「判断力」によって峻別すべき』だと仰るならば、「ペーパーテストして免許制にでもすれば?」でほぼほぼ終了する話なわけです。『「判断力」によって峻別すべき』ならば、その「判断力」をテストする、というのはどう見ても最も正道な手段なのですから。“パターナリズム”などという手段を用いる必要は全くありません。
ここを読んでいて、最初「ん?」と混乱してしまったのですが、もしかしてrag_enさんには、「パターナリズム」という概念について重大な誤認がありませんか。rag_enさんが「“パターナリズム”などという手段を用いる必要は全くありません」という主張とともに、代案として展開されている「判断力によって(ある問題についての当事者能力や責任能力の有無を)峻別する」、そして、判断力がないとみなした対象の自由権を(当人の保護のために)何らかの形で制限する…という考え方は、まさに『パターナリズム』そのものではないですか?
現行の日本の法律が、年齢によってその人物の判断能力を推認し、それが十分でないとされた年齢に属する児童を保護するために彼らの自由権を一部制約するのも、別の方法で判断能力を吟味・裁定し(たとえば精神的な障害を持つ人や依存症に苦しむ人や認知症患者などを、家裁の判断によって成年被後見人とすることなど)、彼らを保護するために彼らの自由権を一部制約するのも、どちらも法学の分野でいう「弱いパターナリズム」だと思います。
憲法学の世界で「パターナリズム」といえば、まず未成年者の人権制約の場面が思い浮かぶ。すなわち、十分な判断能力のない未成年者については、親が子に干渉するようなやり方で、国が未成年者の人権を制約することが認められると考えるアプローチである(1)。たとえば佐藤幸治は、未成年者の人権制約について、未成年者が「成熟した判断を欠く行動の結果、長期的にみて未成年者自身の目的達成諸能力を重大かつ永続的に弱化せしめる見込みのある場合に限って正当化される」とし、これを限定されたパターナリスティックな制約としている(2)。このようなパターナリズムは、個人の判断能力の不十分さを補うために後見的措置を行うことから、弱いパターナリズムと呼ばれる(3)。
そして、未成年や年齢が低い児童の判断能力が不十分とみなされる理由は、法学の世界では、彼らの判断が、それ以上の年齢層による判断に比べ、①知識や情報を得た上での判断・②適切な理解に基づく判断・③強要なき自律的判断・④実質上も自発的な判断ではない可能性が高く、それによって、当事者自身が想定しない結果や不利益をもたらすリスクが懸念されているからです。[^1]
[^1]性的自己決定に関しては、古い調査ですが、10代の人工妊娠中絶についてのアンケート結果(https://www.jaog.or.jp/sep2012/JAPANESE/MEMBERS/TANPA/H15/030217.htm)を読む限り、確かにそのリスクは存在しているといえます。10代の妊娠中絶経験者の68.1%は妊娠して「困った」と回答しており、その多くが①②膣外射精や安全日など誤った避妊方法を選んだり(情報や理解力の不足した判断)、③相手が避妊をしなかったり(強要された判断)、④経済的事情などを踏まえれば出産・育児は不可能なのに妊娠する可能性のある行為をしてしまう(実質的には非自発的な判断)など、当人の判断能力の不足によって、望まない妊娠と人工妊娠中絶に到っています。
この前提において、当事者の自由権を法と社会が一部制約することが正当化されています。これはmuchonovが勝手に言ってることじゃなくて、法学におけるパターナリズムの議論の中で整理されている話です。
「ソフト(弱い)パターナリズム」が自由への介入を正当化できるのは、人の行為が以下の何れかに因って判断された場合です。
1. 実際に情報を知らされないで判断した場合(not factually informed)、
2. 適切に理解していないで判断した場合(not adequately understood)、
4. その他、実質的に自主的にではなく判断した場合(oterwise not substantially voluntary)。
http://www.fps.chuo-u.ac.jp/~cyberian/personal_responsibility.html
そして、未成年者や特定年齢に満たない児童に対する「弱いパターナリズム」に基づく人権制約は、日本を含め、大半の近代国家の法制度に含まれています。性交同意年齢という概念もそうですし、制限行為能力者という概念もそうですし、ある面では責任無能力者という概念もそれに関わっています。そのような、未成年者や児童の人権を明らかに制約する仕組みが各国の法制度に組み込まれているのは、当然、その国家が議会立法などの民主主義的手続きを経てその法律を定めた結果であり、『社会的コンセンサス』の賜物でしょう。
だから先ほどのrag_enさんの、「『社会的コンセンサスがあるから』なんていう、ふにゃふにゃな理由での“パターナリズム”を肯定してしまっているの、控えめに言っても完全に思考が狂ってますよね」とか、「muchonovさんの提示した「判断力が未熟だから」論法では、年齢による“パターナリズム”を肯定するのは無理がある」という指摘は、日本だけでなく、性交同意年齢や制限行為能力などの概念を法制度に組み込んでいる全ての国家や社会に対して「完全に思考が狂ってますよね」「論法に無理がある」と非難していることになりませんか。
現在の日本では、性交同意年齢(13歳)未満の男女と「性交等」をすることは法律で禁じられており、もしそうした場合、それが13歳未満の側の当事者の主体的判断によるものであっても、相手は強制性交等罪(非親告罪)で処罰されます。13歳未満の側の当事者には、必ずしも性交に関して正しく判断する能力が備わっておらず、その能力の不足による誤った判断の不利益から彼らを保護しなければならない、とみなされているからです。これも「完全に思考が狂っている」「無理がある」論法でしょうか。
私はrag_enさんがそういうチャレンジングな主張を展開されるのは別に構わないと思っていますし、繰り返しそう申し上げてもいますが、だったらその主張はmuchonovという個人に向けて言うべきことじゃなくて、そうした法制度を運用している国家やそれを是認している国民に対して言うべきことなんじゃないかな、と思います。だから自分は、再三「rag_enさんのお考えを、広く世間に問えばいいと思います」と申し上げているんですけども。
あと、これはこちらの邪推ですけど、おそらくここでrag_enさんが問うべきだったのは、「性的自己決定権をめぐるパターナリズム的な人権制約の適用対象を決める上で、年齢という指標を用いて一律に決める(現在の法制度に組み込まれている)方法と、ペーパーテストを行って免許を付与するという(rag_enさんが提唱する)方法の、どちらが制度設計として筋がよいか」ということだったのではないでしょうか。そうではなく「パターナリズムという手段ではなく、ペーパーテストと免許制という手段を使えばいい」と主張されている姿勢から、rag_enさんのパターナリズムについての認識は、一般的用法とズレがあるように感じました。もし「そうではない」ということなら、そうおっしゃってください。
※ここでもし自分がrag_enさんを先回りして擁護するとしたら、「rag_enさんの言うペーパーテスト+免許制という提案は、パターナリズム的な観点(判断力が未熟な当事者を保護するため)に基づくものではなく、その行為による他者危害のリスクなどを鑑みて、本来は無許可では行ってはいけない諸行為に対し、当事者の能力・知識・技術を総合的に認証したうえで特別にアクセス権を付与するもの、つまり自動車免許や医師免許に相当するものであるから、パターナリズムにはあたらない」という立場は、かろうじて取りうると思います。未成年や児童が関わる性行為について、当事者の不利益よりも他者危害のリスクを先に考慮しなければいけない状況というのは自分には俄には思いつきませんが、まあそこはよしとしましょう。
しかし、そのような制度---国家が国民の性行為に関わる知識や判断能力をペーパーテストで弁別し、それが当局の定めた水準を満たしているかどうかによって、セックスの権利を与えたり奪ったりする制度---というのは、自分は国家による生-権力的介入・管理のアプローチとしていささか度が過ぎていると思います。というか、「規律化による〈従順な身体〉の構築」というフーコー的テーゼをそのまま戯画的に具現化したような感じすらします。
また、自動車免許の社会実装コストについてのrag_enさんの記述を踏まえると、rag_enさんは、その「セックス免許」の仕組みを社会実装するコストも、免許取得費用として「受験者」から徴収して賄えばいい、とお考えのように見えます。セックスへのアクセス権を求める市民自身から試験料を徴収して、セックス免許センターで受験者にテストを行って、合格者に免許を発行する。もしそういう制度運用をイメージされて仰っているのなら、この構想が現行の法制度にある「年齢によるパターナリズム的保護」の仕組みよりもメリットが多くデメリットが少ない現実的な提案だと感じる方は、あんまりいないんじゃないでしょうか。もちろん、rag_enさんのような考え方の人たちが社会運動などを通してそのアイディアを人々に受け入れさせて、社会的コンセンサスを変えていくことができれば、その状況も変化する可能性はあると思いますが。
・マルクス・レーニン主義(一名に「科学的社会主義」とも)が放棄されていないこと
・党の体制として、民主集中制を採用し、及びそれが放棄されていないこと
・高齢の実力者が、未だに重職を占め、重大な意思決定に関わっていると見なせること
・1922年の22年テーゼ以降に採用又は確認された二段階革命論並びに暴力革命の企図
及び選択肢が放棄されていない、又は放棄されたと見なすことができないこと
・1961年以降に採用されたいわゆる「敵の出方」論が放棄されていない、又は放棄されたと見なすことができないこと
・日本国憲法を廃棄する意図等が全く無いと見なすことが困難であること
(例えば、二段階革命論)
・現在、日本国が採用する統治上の基本的方針としての、民主主義、自由主義並びに立憲主義を廃棄する意図等が
(例えば、二段階革命論)
・基本的人権を、日本国憲法及び法律に規定し、及び最高裁判例に判示される範囲から
けっこうな頻度で、ランニングするようになった。死にたい気持ちが襲ってきてからでは遅いので、今のうちにせっせと走る。ランニングによって海馬に誕生したピチピチの新生ニューロンたちが可塑性の天才児なので、ランニングしたあと28時間以内に記憶したい情報を海馬に叩きこめば、パンチされた粘土のように、長期間記憶に残りやすい。もはや肉体の鍛錬というよりも、脳の鍛錬のために走る。ピアノのうまい子どもは数学を習得するのが早いという事例があるように、ある運動によって形成された複雑な脳内ネットワークはその運動以外の学習でも使用できるので、ランニングによって汎用可能な脳のバイパスを張り巡らせることができる。いろいろ本を読んで研究した結果、週4日の中強度ジョギングをして、そのうち隔日週2日の強度ランニングをまぜることによって、新生ニューロン生成とBDNF生成・放出を効率的に促進できるとわかった。強度ランニングでは全力疾走30秒を5回はさむことで、HGHの増加と全成長因子の大量生産を促進しチートモードに突入する。ランニング終了後トマトジュースの摂取で活性酵素を除去し、バランスボールを使用した平衡運動によりBDNFを倍加する。政治的義務の形而上学的な根拠は、制度の正義性を維持し促進するという自然的義務のテーゼに集約されるが、制度からつま弾きにされたところのプロニートにあっては、精神衛生を維持し促進するの一条に全ての義務が集約されている。
突然こんなこと言ってごめんね。
でも本当です。
*
すんげー雑な言い方をすると、フェミニズムはその役割のピークを迎えようとしている。
言い方を変えれば、フェミニズムは相対化され、限界を迎えている。つまり、フェミニズムは数あるライフスタイルや思想の一つに過ぎず、全ての女性や少数者を包括的に支持し救済するといった、かつての理念として見られていた役割からは剥がれ落ちつつあるということだ。
結局のところ、フェミニズムは全ての女性を対象としているわけでもなければ、全ての少数者を対象としているわけでもないということである。論点先取的に言うならば、この時点でフェミニズムは全ての女性を救うこともできれなければ、全ての女性や少数者を支持する立場から脱落することになるのだ。
考えてみれば当たり前の話で、フェミニズムの原義は男女同権主義であり、そもそも女性のみを対象として扱っているわけではないからである。勿論、男性自身らを扱っていることは自明だし、更には、いわゆる少数者であるところの男性や弱者的男性のみならず、男性や女性の総体、そして全ての人間に対して地平を開いた、社会救済としての思想――それがフェミニズム本来の理念であったのだ。
とは言え考えるまでもなくこのような理念は有り得ない。全てを対象とした救済の思想、という考えが仮に存在するのであれば、それは宗教に求められるべきであるし、我々は誰を対象として救済や支持を表明するかを一考しなければならない。我々は全てを救うことなどできない。全てを救うという思想が仮に現実存在し得るのであれば、それは有史以来の悠久の歴史において既に達成されている筈であるし、そこにフェミニズムの参加する余地は存在しない筈なのだ。
換言すれば、「フェミニズムが全てを救済する」というテーゼを本気で信じている人は一人もいないということだ。
いずれにせよ、全てを救う思想というものは現実的に存在しない。にもかかわらず、フェミニズムないしフェミニストが越権的にその立場を乗り越えようとした結果、それが不可能であるということはもはや陳腐なまでに自明化しつつあるように思う。
フェミニズムは世の中の全ての女性を救っているであろうか? と問われた時、その答えは勿論ノーである。例えば、「セクシーな広告は現実の人間にリスクを生むので自重すべき」、というシンプルな命題においてさえ、女性間で紛糾は起こる。
「広告のセクシーな魅力を私は評価するし、そのようなポテンシャルは広告的価値のみならず女性の価値にも還元されるのではないでしょうか?」と言う女性は、この文脈においてぶっ潰されることになる。「はあああああ!? 貴方が評価したところでもしストッキングやタイツを身に着けた一般的な女子の存在が性的に眼差されたら貴方は責任取れるんですか!?」と。この言明によって既に「一般的な女子」とされる存在の中から、「広告のセクシーな魅力を私は評価する」と言明するような女性はパージされることになる。この時点で、どう考えてもフェミニズムは、あるいはフェミニストの活動は、女性の総体を救済しているわけではなく、最も好意的な言い方でも「女性の部分集合Aを救済しようと『試みている』」に過ぎないのだ。
でもフェミニストはそう思っていないらしく、「我々の活動は最終的に女性全てを救済し、どころか、ホモソーシャル的な思想に囚われた男性さえをも救済することができる」と考えているフシがある。
無理。
無理だから。
例えば、ソマリアでレ○プされている少女をフェミニズムは救うことはできない。彼女らを救うことができるとすればそれは政治の役割である。とにかく、世界同時革命的に思想的啓蒙を行うことは無理なのである。逆襲のシャアを見ろ。
そんなこんなで、フェミニズムの役割は限定的であるし、それは全ての女性に対して及んでいるわけでもない。というか、対象としている女性たちそのものでさえ救済できているかは謎である。いや勿論されてる人もいるんだろうけどね。
話を戻すと、結局のところフェミニズムは限定的に人を救うしかないし、それが活躍できる範囲は決して広くはないのである。この時点で、フェミニズムはある種の専門的な救済機構への道に進むことになる。というか、最善でもそうなるしかないのである。因みに最善以外の可能性としては「自分たちが救世主だと考えている思想強要集団」という可能性が存在している。
逆に言えば、フェミニズムは自分たちの救うことのできる範囲というのをしっかり限定して、その上で物事に取り組むべきなのである。企業のマーケティングの一挙一動を監視し「社会に悪影響がある!」と発信するのはフェミニズムの役割ではない。それは本来、公共広告機構とジャロの役割だ。
ソマリアの女性を救うことができるのが政治であるのと同様の意味で、役割はきちんと分担しなければならない。広告のことはジャロにまかせておいたらどうじゃろ? という話である。
役割を限定することは極めて重要で、繰り返すように我々は世界同時革命的に全てを救うことはできない。しかも、救済の対象を限定することによって全てが解決するのかと言えばそうではなく、そこには必ず利害のバッティングが起こる。例えば、広告をバッシングされることで不利益を蒙る企業が存在するのが現実だし、あるいは、広告をバッシングされることで不利益を蒙る献血促進団体が存在するのが、そのような例に当たる。必ずそこにはお互いの利害の衝突があり、お互いの倫理があり、お互いの目標があり、お互いの努力がある。
全てを救うことができないというのはそういうことで、要はそこにはお互いの、利害の衝突があるということなのである。誰かを救おうとすれば誰かが救われないということなのだ。
そして、誰かを救うということは、別の誰かを救おうとする人間を切り捨てるということなのである。
つまりここにおいてフェミニズムの立場は相対化されることになる。
フェミニズムは自身の擁護しようとする人々と利害的に対立しているところの、別のグループとの対立を味わう。お互いに誰かを切り捨て、自らの救いたいと望む人々をのみを救うしかない袋小路に辿り着く。その時点で、思想の優位性、発言の正当性などは捨象されてしまうのだ。つまりフェミニズムは誰かを救うことを諦める代わりに誰かを救うという形を、最善の可能性においてさえ取らざるを得ないのである。全てを救おうとしてもそこには最悪の可能性が導かれるだけで、まずは、誰を救いたいのかを限定しなければ、誰も救うことなどできなどしない。
そして、現実に生きる人々が常に取るべきなのはそのような態度である。現に、今を生きる人々はそのような態度を常に取り続けている。例えばアツギという企業が社員や依頼先のイラストレーターを守るように、それが当たり前のことなのだ。そしてそこには避け難く対立が起こる。誰かをぶん殴れば誰かにぶん殴られる。誰かをぶん殴れば誰かに毛嫌いされる。何も、フェミニズムだけが特別というわけではないのだ。
警句的に言えば、ありとあらゆる対立において、ありとあらゆる闘争において、誠実な闘争というものは存在しない。どんな対立であれどんな闘争であれ、それは不実で胡散臭くて汚らしいものだ。しかし、今回の件を見る限りで、そこには一般論を超えたきな臭さを感じざるを得ない。
それは恐らくフェミニズムの限界に起因するきな臭さなのではないかと思う。彼女たちは、全ての女性を救うことはできないし、男女同権思想が自明として救済しなければならないところの男性を救うこともできない。また、強い社会的ストレスの中で生きる少数弱者を救うことができない。時には、彼女たちは女性をも切り捨てる。
勿論、救う対象を限定することは大切だ。誰もかもを救おうとすることなど人間には所詮できないのだから。
とは言え、まさにそこに、一般論を超えたきな臭さの源がある。つまりそれは、自覚なく人々を切り捨てておきながら、自身の限界を意識せず、まるで全てをも救い得るかのように振る舞う、フェミニストとフェミニズムの傲慢のことである。突然こんなこと言ってごめんね。
でも本当です。
努力をする、という行為はそもそも矛盾であって、人間は努力をしないようにできている。更に言えば、人間は努力をしてはいけないという命令を脳から受けつつ生きる。
というのは、努力をする、という行為が必要な時点で、それは努力するべき価値のない物事だからである。夢中は努力に勝る、という言葉があるように、本来成功する努力とは無意識的なものである。つまり、「努力しなきゃ」という客観的観点と、有意義で効果的な努力は不協和なのであって、「努力しなきゃ」とか意識してる時点で、貴方はその物事に向いていないし、もっと言うと、その物事に関して努力をしたところで極めて期待値が低く、恐らくコスト(努力)に比してあまりにも小さなリターンしか手に入らないか、あるいは全くリターンが手に入らないか、最悪、リターンどころか自身のマイナスにしかならないということなのである。
脳はそのことを知っているので、そもそも客観的に見て「努力が必要」と感じた時点で自分の体にブレーキを掛ける。「努力が必要=期待値が低くあんまりやらない方がいいこと」なのである(それが我々人類におけるこれまでの生存戦略だったのだ)。本当に向いていることは「努力しなきゃ」とか考えるまでもなく体が動くし、特に意識なく精進していけるものであって、要は才能がない人間の努力は無駄どころかその人間の心身を蝕むことになるという厳然たる事実を脳は知っているのである。だからこそ脳は人の体にブレーキを掛ける。「やめとけ」と。だから、人は努力ができないのが普通なのだ。
例えば、もし原始時代において、あんまり期待値が高いわけでもない試行を繰り返す個体(努力をする個体)がいたら、周りの人は彼にこう告げるであろう。「お前そんなことしてないでもっと向いてることやれよ、コミュニティを存続させるために重要なこともっとあるだろ、あるいはそういうのはもっと向いてる奴に任せとけよ。コミュニティが存続しねえとお前も生きていけないんだから、お前がやるべきことは他にもあるってことくらい分かるじゃねえか」と。はい。明らかにこのような忠告は正しいし、正鵠を射ている。そういうわけで、「努力をしない」あるいは「努力と感じられるような努力はしない」が人間の生存戦略となっているのである。これは極めて合理的なことで、人間は要するに努力できないように作られているのであるし、努力という行為は人間の生存戦略上の矛盾なのである。
とは言え、原始時代はともかくとしても現代においては、一人の人間が期待値の低い努力をしていたところでコミュニティの存続には特に関係がないので、そういう「努力」が許容されるようになっている。しかしながら、「努力」と認識し「努力しなきゃ」と思っている時点で人間の生存戦略に矛盾していることには代わりない。脳は、そのような努力をしている人間に対して、絶えず命令を送り続ける。「やめとけ」「向いてねえぞそれ」「多分ほかのことやった方がいいと思うぞ」などなど。
繰り返すが、そのため人間は脳の影響によって「努力」というものができない(やりにくい)のである。
才能のあるやつにはそういうことがない。あるいは、あったとしてもごく少ない。脳は才能あるやつにこう告げる。「その調子だぞ」「向いてるぞ、それ」「その研鑽は期待値高えからそのまま続けろ」などなど。というわけでこの文章は才能のあるやつには向けられていない。才能のあるやつにおいて努力は努力じゃねえので生存戦略において矛盾はない。彼はそれを殆ど無意識に行い続ける。多分ドーパミンとかそういうのも結構出るので、むしろ努力をやめることができなくなる。
とにかく「努力しなきゃ」と考える時点で貴方は凡人である。脳としては「やめとけって……」の無限打診を続けるしかない。とは言え、そういう負のスパイラルに没入しても、原始時代においてはそういう期待値の低い試行をし続ける人間は下手するとぶっ殺されちゃうんだけれど、現代においてはぶっ殺されずにそのまま負のスパイラルを続けることができる。この文章は、そんな負のスパイラルを続ける人間に向けて書かれている。
俺は凡人である。つまり、努力をしている人間である。期待値の低い試行を繰り返している人間である。
というわけで基本的には努力とかせずほかの事柄にリソースを割いた方が明らかにマシなんだけれど、そういう合理的な判断能力はとっくの昔に欠落している。
さて、そのような凡人にとって、基本的に努力というものは期待値が低く、努力なんてことはせず別の行動をした方が絶対いいんだけれど――アンチテーゼを敢えて唱えるならば、「凡人にも最高効率の努力がある」というテーゼがそれに当たる。
凡人――最も努力の費用対効果(コストパフォーマンス)が低い人間にも、その人間にとって費用対効果の高い努力というものが存在する。それは事実である。「努力は矛盾である」という原初的命題(テーゼ)を止揚(アウフヘーベン)するために、このアンチテーゼを用いる。これによってジンテーゼを生じさせる。
「制限された状態から効率の最大化を求める行為は矛盾ではない」。
これがジンテーゼだ。
努力をしなければいけない人間は、能力に制限と限界(リミット)のある人間である。よって、そのような人間の行う努力は基本的に効率が良くなく、あまり価値がない。これまでその事実を俺は言い続けてきた。とは言え、全く制限のない人間というものが存在しているかと言えば、それは誤りである。例えばチェスの世界における現人類最強の人間はノルウェー出身のマグヌス・カールセンであるが、彼に比べれば、全ての人間は相対的にチェスの能力に制限を受けていると言ってもいい。もっと言えば、チェスコンピューターには流石に敗北を喫するであろうカールセンにしたところで、能力には制限が設けられている。つまり、人間には万民において制限が、限界が、リミットが存在している。
となれば、基本的に我々の取るべき生存戦略は次のことになる。「制限のある上でいかに効率よく振る舞うかを追求する」ということである。ここにおいては、次のテーゼも成り立つ。「制限の多い状況においてある行為が可能ならば、制限の少ない状況においては尚更その行為は可能であるし、制限の多い状態に比べればよりコストパフォーマンスも高くなる」というテーゼである。これは、ドラゴンボールにおける悟空の重力トレーニングを想像してもらいたい。重力が高い状態である程度のパフォーマンスが発揮できるならば、適正な重力下においては更に多くのパフォーマンスが発揮できるであろうということだ。
そう、この場合の「重力」という比喩は、我々における一種の制限、つまり「才能の無さ」と対応している。我々は、悟空が重力において制限を受けるように、常に「才能の無さ」という重力に晒されている。そこにおいて我々は、常に脳から「やめた方が良いぜ」という圧力、その行動に対する一種の重力を受け続けているのである。これは、寧ろ努力する人間に限らず、ほぼ全ての人間が常に晒されている恒常圧でさえあると言えるかもしれない。
そう、人間は、基本的に、何らかの重力に晒されている。だからこそ、その強い圧力下において、強い重力下において行動することに慣れなければならないのである。そう、つまり、我々は努力をするべきなのだ。そうすることによって、重力の低い事柄、例えば自身における「向いている」事柄において、更にパフォーマンスを発揮できる可能性が高まるのである。
ここから得られる結論としては、必ずしもある努力は、その努力している対象(例えばスポーツとかチェスとかその他の競技とか)そのものに対する努力ではないということだ。それは、重力それ自体に対して慣れるという努力なのである。重力をある程度克服するという努力なのである。そう、努力の対象を、自身の受けている恒常圧であるところの重力へと転換させること、そのことによって我々は初めて努力に意味を見出すことができるのである。あるいは、重力そのものを、つまりは才能のなさそのものを克服することによって、本来才能のない向いていない出来事に対しても、これまで以上のパフォーマンス発揮することも、決して夢ではないのである。
テキストとしては以上なのだが、些か抽象的な記述になってしまったので、具体的なアドバイスを一つだけ書いて終わりにしたい。
人は脳によって恒常圧、重力を受けている。なので上手く受け流して重力を克服するしか、我々才なき者には道はない。
誰もが言っていることだが、難しいトレーニングをすることは脳の負担を増大させる。脳からの重力を増大させる。なので、簡単なことからしなければならない。
例えば、「あいうえお」と記述することは誰にだってできる。文章の練習をしたいのであれば、毎日必ず「あいうえお」と書くことだ。そういうことから始めよう。
毎日あいうえお、と書いていると、殆どの人間は次のように思う。「『あいうえお』簡単すぎるわ」と。「何かもっと難しそうなことできるわ」と。ここにおいて、脳の恒常圧はやや薄れることになる。
そうなったならば、相対的に難しいけれど比較的簡単なことをすればよい。例えば、「あいうえお」だけでなく、「かきくけこ」から後を書くとか。あるいは、俺が実際に行ったトレーニングは、まずここに書いてある通り五十音を書き写すといったものであった。その後、脳の恒常圧がやや薄れたのを確認して、次のステップに移ったのだけれど、それは、昔暗記したとある小説のページをひたすら書き写すというものであった。自分の好きな小説のページを、同じページを書き写すのである。とにかく、物事は簡単なことから始めるのが大切だ。誰にでもできることから始めるのが、一番脳の恒常圧、重力を騙すにはうってつけなのである。
そうすることでしか我々は重力を騙せない。後は、毎日最低限栄養のある飯を食べて、ちゃんと寝て、人と会話をしよう。そんくらいである。
才なき人々は、脳を騙して、重力を克服しよう。
すると矛盾は消える。