はてなキーワード: サハラとは
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査読論文持ってないひとが責められるのはまあわかる(査読なし論文でも優れた論文というのは有り得るし,そういうのも業績として認められるべきではあろうが,このご時世ではまあ査読論文は持っといた方がいいよな……).でも英語論文を持ってないことが責められる理由になるのは本当に理解できない.
何度も繰り返すけど,フランスでもドイツでもロシアでもスペインでも,そしてたぶん中国や韓国でも,文系の研究業績の大半は自国語だから!
文系の研究業績が自国語で積み上げられるのは,世界標準だから!
(インドやサハラ以南のアフリカ諸国のように長いこと西欧の植民地になってたり言語の数が多すぎたりして大学教育を英語でやっている国や,ツバルやナウルみたいに小さすぎて自国語のアカデミアが成立しない国を除く.そういう国がうらやましいと言うならもう何も言えないけれど)
そりゃ英語論文を持ってたらすごいと思うよ.でも英語論文がないことが叩かれる理由になるのは本当に理解不能.
そもそも,社会学には膨大な日本語の研究蓄積がある.いくつもの査読誌があり,日本語で査読を経た研究成果が積み上げられている.博論をもとにした出版も多く出ているし,入門書から何から日本語で一通り揃うようになっている.
自国語で用が足りるんだから,論文の執筆言語は自国語でいいだろ.繰り返すけど,それが世界標準です.
イギリスやアメリカの学者が英語で書き,フランスの研究者がフランス語で投稿し,ドイツの博士がドイツ語で教授資格申請論文の審査を受け,ロシアの院生がロシア語で報告している中で,なんで日本の教授が日本語の業績しか持っていないのを責められなければならないのか皆目わからない.
これは社会学に限ったことじゃない.政治学だって,歴史学だって文化人類学だって,文学だってそうだ.だいたいどの分野でも有力な査読つき学術誌を持っているし,それらの雑誌は日本語で書かれている.
そして日本語というのは,世界でも有数の学術言語だ.もちろん英語ほどの網羅性は持っていないかもしれないが,ドイツ語やロシア語ほどの重要性は持っていると思う.それは,先人たちが日本語で積み上げてきた研究業績の賜物だ.
「世界でも有数の学術言語」というのもいろいろな尺度があると思うが,どれだけ広い分野で高度な研究を積み上げているか,というのをここでは述べたい.
もしこれを読んでいるあなたが,アフリカに興味を持って,アカデミックな本を読んでみたいと思ったとしよう.大学図書館で文化人類学の棚の前に立てば,数ダースの優れたアフリカ研究があなたの前に現れるだろう.その多くが,西欧の学者と同じようにアフリカでフィールドワークをし,日本語と西欧語の先行研究を読みこなした上で書かれたものだ.
あるいは,ヨーロッパの歴史を知りたいと思ったとしよう.あなたは造作もなく,フランスやドイツやイギリスやスペインやロシアや,そしてチェコやポーランドやポルトガルやボスニアについての研究書を見つけられるだろう.どれも現地語の史料や文献を消化した上で,日本の歴史学の積み重ねてきた問題意識と接続されている.
それとも,言語学に興味があるだろうか.心配はいらない.オセアニアの数百人しか話していない言語の文法を記述した本も,ヨーロッパの小国の言語の音声を論じた本も,中東の言語政策についての本も,あなたは探し出すことができる.政治学? 問題ない,EUの制度,アメリカ大統領選挙,韓国の歴史認識,ロシアの愛国主義,湾岸諸国の君主制,どれも日本語で最先端の研究が読める.
こんなことは当たり前に思えるかもしれない.でもこれは決して当たり前のことじゃない.
とあるアジアの国に行ったときに書店に行ってみた.西洋史の棚に並んでいるのはどれもそのアジアの言語で書かれた本だったが,著者はみな西欧人だった.それらはいずれも西欧語からの翻訳だったのだ.たまにそのアジアの国の著者が書いた本もあったが,イギリスとかフランスとかメジャーな国についての本ばかり.マイナーな国の歴史について扱った本を開いてみたら,参考文献はほとんど英語で,ちょこちょことドイツ語やフランス語が挟まる程度.要するにその本を書いた学者はそのマイナー国の言語を読めなかったのだ.日本には,そのマイナー言語を読める歴史学者が何人もいるのだが.
あるいは,ヨーロッパの小国の書店.その国は小さいので国民の多くが英語を達者に話すのだが,本屋を覗くと,自国史や周辺諸国の歴史についての本以外は英語の本がそのまま置かれていた.もしも遠いアジアの国に興味を持ってしまったら,その国の人は,自国語のペラッペラの入門書の次は英語を読まなければならないのだ.日本語なら,遠いヨーロッパの国についても専門書が手に入るのだが.
たとえ外国語が読めないシロートだろうと,ある程度自国語で難しい本を読める力があれば,中世ヨーロッパやアフリカ社会やラテンアメリカの先住民や近世朝鮮史や東南アジア政治についての最先端の研究書が読める.そんな豊かなアカデミアを有している国,そんな潤沢な研究蓄積のある学術言語は,実はそんなに多くはない.
私の感覚だと,英語の網羅性には劣るし,フランス語の豊かさには負ける気がしないでもないけれど,ドイツ語やロシア語並の水準に達してはいると思う.もちろん自国民ゆえのひいき目かもしれないし,カバーしている範囲が微妙に違っている以上正確な判定は不可能なのだが.
カバーしている範囲が違う,というのはどういうことか.たとえば,上で英語の網羅性に劣ると書いたが,英語よりも日本語のほうが研究蓄積の豊かな領域というものがある.当たり前だが,日本史については英語の文献よりも日本語の文献の方が圧倒的に豊富だし,日本史以外でも前近代の中国史についてはまだまだ日本語の方が英語よりも網羅性が高いと思う.なので前近代の中国史については,読者はともかく,歴史学者は中国語の他に日本語を読まなければいけない.その人がアメリカ生まれの英語ネイティブな白人であってもだ.ザマーミロ.
というか,実は文系分野に関しては英語の網羅性は理系ほど高くない.そんなのは当たり前で,ロシア人はロシア史についてロシア語で書き,カタルーニャ人はカタルーニャの言語政策についてカタルーニャ語で書き,チェコ人はチェコ文学についてチェコ語で書き,韓国人は韓国社会について韓国語で書いているのだから,英語の文献を読むだけでそれら全ての情報が手に入るわけがなく,本格的に研究しようと思ったらそれらの言語で書かれた文献を読まなければ話にならない.日本事情について一番詳しく正確な研究が読めるのは,英語ではなくて日本語だ.
なので,上で挙げた主要な学術言語は,それぞれ積み重ねが豊富な領域とそうでない領域がある.得手不得手というやつで,たとえばマグレブや西アフリカの地域研究ならフランス語で,東ヨーロッパの前近代史研究ならドイツ語で,旧ソ連圏の研究ならロシア語で重要な研究が蓄積されてきたので,江戸っ子だろうがロンドンっ子だろうが研究を志すのならそれらの言語を読まないといけない.中国近世史を専門にする者が日本語を読めなければいけないのと同じだ.これらの分野で英語で書かれた研究だけを読んで済ますことはできない.
この辺が,理系とは事情の違うところなのかもなぁと思う.理論物理学とか分子生物学とか再生医療とか深層学習とか,ほぼ全ての分野で英語さえ読めれば研究には用足りる(んだよね?).英語に最先端の研究のほぼ全てが流れ込み,あらゆる情報が蓄積される.しかし文系では違う.英語には限られた情報しか流れ込まず,最先端の研究の全てが英語で提供されるわけではない.
なので文系では,英語が理系ほど特権的な地位を占めているわけではない.もちろん英語文献が読めるのは今や前提だし,重要な先行研究が英語なら読んでいないと問題外だ.けれど,英語ではなく自国語の研究でも研究業績にカウントされるし,外国語での業績といっても英語に限られるわけではない.韓国語やトルコ語で論文を書くほうが英語で書くよりも楽だ,と言う研究者だっているし,日本語でも英語でもろくな業績がないがそのかわりロシア語で何本も論文を書いているという研究者もいる.
というわけで,文系の研究者が英語論文を書いていなくとも,それが直ちに問題だとは思わない.査読論文にしても,そりゃゼロってのはちょっとどうなの,って思うけど,研究者が集まって作った本の一章として論文を発表するとか(いわゆる論集ってやつね),出版社が出してる研究者~教養人向けの雑誌に依頼を受けて研究成果を発表するとか(岩波書店の『思想』とか,青土社の『現代思想』みたいなやつね),査読されてないけど業績としてカウントされ得る論文の発表形態というのはいくつもあるので,査読論文以外にそれらも論文としてカウントしないとフェアじゃないと思う(ただ,私は査読がついていない媒体に出すのは怖いなと思ってしまうので,なるべく査読誌に出している).
別に理系のひとが査読つき英語論文のみを業績としてカウントし和文論文は勘定しないというローカルルールをお持ちなのは結構なのだが,そのローカルルールを文系に押し付けないでいただきたい.
私が危惧しているのは,上で書いたような日本語で積み上げられた先行研究が,日本人に真っ当に評価されていないことだ.
文化の豊かさというものを考えたときに,自国語で世界中の情報を知ることができるということが,どれだけ重要なことか.まして,日本はコンテンツ産業が主要輸出品目のひとつだ.中世ヨーロッパやアフリカの部族社会について日本語での研究が充実していることが,創作者が想像の翼を広げる上でどれだけ有利か.たとえば最近,Cuvieという漫画家さんが『エルジェーベト』というオーストリア=ハンガリーを舞台にした漫画を描いていたが,巻末の参考文献にはずらりと日本人が和文で書いた研究が並べられていた.
別に文化に限ったことではない.政治や経済,そして人権についてもそうだ.ルワンダの虐殺やスレブレニツァの虐殺について日本語で書かれた研究があるのとないのとで,どちらの方が日本人にとって国際情勢を理解しやすくなるだろうか.外国で一旗揚げようと目論む商売人にとって,その地域の専門家が書いた本や論文が和文で手に入るのと入らないのとで,どちらが現地の文化や歴史を理解する助けになるだろうか.欧米のフェミニズムについて日本語で研究を積み重ねる学者がいるのといないのとで,どちらが日本女性の権利の向上に資するだろうか.
すべての国が自国語でこれだけ充実したアカデミアを持てるわけではない.人口があまりに少ない国ではどうしたって物理的な限界があるし,人口が多くとも植民地支配の歴史が長く自国語の大学教育が充実していない国では歴史的遺産がその発展を阻む.
日本人は恵まれた研究蓄積にあまりに無頓着なばかりか,その豊かさをみずから捨て去ろうとしている.それが私にはもったいなく思える.
英語は,世界の始まりから覇権言語だったわけではない.明治時代の日本の医師はドイツ語で論文を書き,外交官たちはフランス語で交渉していた.英語が外交や学術の分野で覇権を握ったのはせいぜい戦後のことで,それまではフランス語やドイツ語と同格の存在だった.今も文系ではprimus inter paresに過ぎない.ひょっとしたら将来,欧米の物理学者たちが中国語で論文を書くことになるかもしれない(そのときは現在の私たちが定冠詞や三単現のsに悩まされるように,欧米人が泣きながら漢字を習得するのだろう.そう考えるとなんとも愉快な未来予想図だ).せいぜい百年単位の覇権言語の移り変わりにあわせて,自国語の学術言語としての地位を貶める必要はないと思う.それは私たちの社会の豊かさを,長期的に損なうことなのだから.
最後に.
どうせ和文論文しか持ってないやつの負け惜しみだろって思ったひとがいるかもしれないけど,和文論文だけじゃなく英語論文も書いたことあるし,英語以外の外国語での論文も持ってます.今それとは別の外国語での研究発表を準備中.私より多くの言語で研究報告してきたひとにならともかく,たかが1言語か2言語でしか論文書いてないガラパゴスの住人にだけは文句言われたくないですわ~~~~~~.
英語論文が優れているとは言わんけど、査読なしの研究なんてゴミだし。
id:bocola 自分でも言ってるように査読なしなのが問題。査読なしの論文なんて、読書感想文と変わらない程度の価値。やはり文系は無価値だと改めて思った。
arXivのない世界線からやって来たのかな? グリゴリー・ペレルマンって聞いたことない? 査読なし論文が業績としてカウントされてるひとだけど.
事前の査読は,論文の信頼性を担保するための手続きのひとつであって,それが欠けている「から」ダメ論文というわけでも無価値というわけでもない……というのはわかってくれるよね? 当たり前だけど論文の価値は最終的には書かれている内容に依存するわけで,だからこそペレルマンは査読なし論文であってもポアンカレ予想を解いたと認められたんだよね.
私も査読はないよりはあった方がいいと思うけど,査読がすべての論文につくわけではない分野のすべてをダメと論ずるのは不当すぎる.まあ最近は文系も査読が重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないからダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメな論文は後発の研究によってちゃんと批判されるか鼻にもかけられず無視される.公募の際には論文を提出させたりするんだから,査読なしダメ論文を量産していればそこで撥ねられるでしょ.理系のローカルルールで事前の査読が必須なのはよくわかったけど,そのローカルルールを文系に敷衍されても困る.
id:zyzy まぁでもこの噛みつきは、もうすでに南京大虐殺の時に通った道だし、虐殺否定論者と同じ轍を踏み続けている以上、恐らくオタにこの説明が通ることはないんですよ。
私もオタクですが.
スウェーデンは、プロトコル1及び4の改正に関する欧州連合・モロッコ王国間協定の署名と締結に関する理事会決議を採択する提案について、仕方なく指摘させていただく。スウェーデンは、欧州連合とモロッコ王国間の協定に対するプロトコルの適用に関する交渉開始の承認に賛成票を投じたとき、スウェーデンは国家としての声明において、将来の協定は、欧州司法裁判所ケースC-104/16 Pの判決を含め、国際法を完全に尊重するものと理解することが、それを行う際の基礎であるとはっきり申し上げた。法的確実性はすべてにとって必要である。かかる判決では、西サハラの領土をカバーするモロッコとの協定は、西サハラの人々の同意を得なければならないと述べている。 しかるにスウェーデンは、この国家声明にて、この判決に沿って「利害関係者」が「西サハラの人々」であると理解したことを明確にした。スウェーデンは、協議プロセスの実施を含め、交渉過程での欧州機関の実質的な作業に感謝する。スウェーデンは、「西サハラの人々の同意を確かめるためにすべての合理的かつ実現可能な措置が取られた」と結論した理事会の法務サービス(WK 10738/18)の貢献をよく覚えている。スウェーデンは西サハラの人々がこの協定に同意することが重要であると再確認し、協議の過程で相談した団体が西サハラの人々であると規定しうるか曖昧であると指摘した。 協議プロセスおよび/または協定案に対する拒否、特に国連プロセスにおけるサハラ以南の人々の公式代表であるポリサリオによる反対に鑑みて、西サハラの人々の自由なインフォームドコンセントを構成すると言える……との当協議プロセスの結果に、スウェーデンは満足していない。
チャップリンは、自分の映画の出演女優ミルドレッド・ハリス(16歳)に手を出し妊娠させたというスキャンダルが発覚し、急遽できちゃった結婚をしたが、この妊娠話自体が狂言であった。
次の結婚も、自分の映画の出演女優リタ・グレイ(16歳)に手を出し、本当に妊娠させての出来婚である。
好きになったら年齢は関係ない!
#ロリコン
#禁断の愛
#許されざる恋
#純愛
日本人の体格は江戸時代の後期が最も身長が小さく成人男性平均が150cmだったが、戦後の栄養状態改善で体格は大型化した。これに伴い思春期も早期に発現するようになり、女子は初経年齢つまり性成熟の時期も早期化した。
つまり13歳くらいで結婚していた昔の方が、未熟な子供に欲情していた。
「心を開こう、誰にでも」
必ず両想いになれるなんてことはない。というかむしろ、両想いになれる確率の方が少ない。でもいいじゃない。好きだって。https://twitter.com/ren_i_bot/status/817637053294788608
誰だって、好きな人のことを幸せにしたいって思ってるんじゃないかな。
https://twitter.com/ren_i_bot/status/817788049253765120
君は君らしく生きていく自由があるんだ
#大人たちに支配されるな
誰かと違うことになにを躊躇うのだろう行動をしなければNOと伝わらない
NOと言いなよ
「nudist」をGoogle先生に聞いてみると、けっこう若い女性とか老若男女の裸体を見つけてきてくれるぞ!
nudistは楽しく爽やかなことなので、児童虐待等に当てはまる訳が無いと、児童ポルノには厳しいGoogle先生も公認だぞ!
ヌーディストって基本的にエロではありません。小さな子供連れでヌーディストビーチに来て開放感を楽しむ方も多いです。
子供も映ってるヌーディストのビデオってヌーディスト団体自らが販売していて、欧米では文化として合法になっています。
「メイジーの瞳」という映画らしいです。
素敵ですね。
pic.twitter.com/RDfIgRETsk
Youにゴチュウサの絵を踏ませ、踏んだら児童虐待者として逮捕し、踏まなかったら児童ポルノ愛好者として逮捕だっ!!
#ロリコン
pic.twitter.com/GDHwwGzawz
子供時代にレイプ被害にあったある女性は「子供に対する性暴行事件を起こすのはポルノではない。ポルノの有無にかかわらず、そのような嗜好を持つ人が犯罪を行う。当局はインターネット監視をやめて、外に出て本物の犯罪者を捕まえるべきだ」と述べた。出世目的の警官が効率よく偽犯罪者を捕まえる
韓国のアチョン法でマンガアニメが児童ポルノ扱いされるようになって
2012年に韓国警察が児童性犯罪に関連して捜査に着手した事件は2224件
漫画規制が盛り込まれる前に比べて22倍に増えた。捜査対象者の相当数が学生や女性である。
明治16年福岡県統計書の現住結婚者年齢ノ對照(国立国会図書館デジタルコレクション p.51)
妻年齢15歳未満と夫年齢18歳以上は564組
妻年齢15-17歳と夫年齢18歳以上は1428組
妻年齢18歳以上と夫年齢18歳未満は101組
夫婦共に18歳未満は697組
全7072組
2011年に日本性教育協会が全国の7682人の学生にアンケート調査したところ
が性交経験済みという結果になった。
性的同意年齢は13歳ですが、性行為は青少年保護育成条例で禁止されています。
これって逆に言えば青少年は管理されないと自己判断は全て信用できない。と言われてるわけで、
まあ騙したり脅したりする大人は100%悪いのですが。
セーラームーンは、日本でも海外でも女の子から大人気のアニメですが、
主人公のセーラームーンの正体は中学2年生で、恋仲のタキシード仮面の正体は大学生です。
#ロリコン
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http://masterbiero.blog.fc2.com/blog-entry-9.html
l o l i-con光源氏の完成だ!
#年号
光源氏18歳の時に、9歳ぐらいの美少女を見つけて連れ帰り、理想の女性に育て上げつつ添い寝をして暮らしていたが、5年後に性行為におよんだ。
ピュリツァー賞の写真を「児童ポルノ」として削除 Facebookが検閲撤回へ
#ロリコン
http://www.huffingtonpost.jp/2016/09/10/kiddie-porn_n_11946664.html
#ロリコン
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小 ( ゚д゚) 吾り
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( ゚д゚) 小五ロり
(\/\/
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現代でも一部のポリネシア社会では12歳を過ぎると性行為の同意能力があるとみなされ、多くの女性が12歳から15歳の間に初出産を経験するという伝統が受け継がれている
常に妊娠出産を繰り返し、初潮を経験しない者も少なくない
割合は少ないけど、おじさん好きの女子中高生もいるんですよ。
ロリコンを犯罪者予備軍として差別することは、彼女たちも犯罪者予備軍として差別することにもなります。
昔は15歳ともなれば世界中で大人として扱われ、結婚することができた。
15歳の人とのセックスはダメ!犯罪!ということに世界中でなったのは、ここ20~30年の間の変化である。
#ロリコン
20~30年前の日本では、オカマはキモいやつ、ロリコンは若い子好きのスケベ、小児性愛者は変態という扱いだった。
今やオカマは社会的に配慮されるべき健常者に格上げされ、ロリコンや小児性愛者は犯罪者予備軍に格下げである。
#ロリコン
#LGBT
#セクマイ
しかし、全ての自分の嫌いなものを法律で縛るという考え方は間違っています
嫌いだからと法規制するのは、それを好きだと思う少数派の権利の侵害です
ゲイの友人がいたとしても、その人のいないところでホモネタで笑ってたら「寛容」とは言えない。
小児性愛者の友人がいたとしたら、「寛容」に接するのだろうか
#ロリコン
#LGBT
#セクマイ
安倍死ね→許される
フランスでは、1994年に実在する未成年者のポルノ写真の製造配布が禁止された(それ以前は児童ポルノは合法だった)
マルク・デュトルー事件をうけ1996年に仏マスコミはペドフィリアに対するモラルパニックに襲われ
児童ポルノの描画は1998年に、単純所持は2002年に禁止された
文化人類学者による無文字社会の民族研究では、女性の平均初婚年齢は15歳くらいである社会が多いことが明らかになっています。文明社会でいわゆるロリコンがタブー視されるようになってきたのは、高学歴化によって女性の社会的自立可能年齢が上昇したからです。
児童の合意を得たと言えるのはどのような条件か
等を議論すべき
この手の話題はキモイって言う人多いけど、現実で面と向かって言われたら「お前も○○な部分キモイじゃん」って100%反論できそう
キモイ部分は誰にでもある
ネットは、誰しも自分のキモイ部分には目を瞑り、他者をキモイと呼ぶことで対照的に自分はキモクないと言い聞かせられる
自戒を込めて
少子化の今、児童誘拐なんかの事件が多発している現代では子供の身が危惧されている。
かと言って世間では子供がちゃんと大切にされてるかと言えばそうでも無い。
親に大事にされない故に家出をして生きていく為に身を売っている子供さえいる。
近年、マスコミの取り扱いが変わった。同性愛の差別は許されないが、小児性愛を肯定することは決してない。マスコミが変われば社会的風潮として小児性愛は叩かれる。少し前まではマイナージャンルとして存在していたけども、例の連続殺人のせいで、悪い意味で認知されて、その後はロリコン=犯罪者
虎舞竜の楽屋に来た14歳の三船美佳に、38歳だった高橋ジョージが一目惚れ。結婚を前提にした交際に発展したという。
交際を2年間続け、三船美佳の16歳の誕生日に結婚、結婚生活は18年続いた。
この当時の三船美佳には責任能力が無く、性的に蹂躙されたのだろうか?
大人と17歳の恋愛は犯罪者扱い、18歳以上ならエロい事し放題というのは確実に変
法的線引きは必要だろうが、18歳まで責任無能力なのは確実におかしい
刑法では14歳から、民法では小学校卒業から責任能力があるとされ、子供でも商売をし、親の許可無く運営資金の借金等は法律上認められる
小児性愛は、妊娠・出産に死の危険があるからダメっていう人は、
#ロリコン
宮沢は撮影前にはヌードの話を聞いていなかった、嫌だった思い出はひとつもない。と語った。
goo.gl/UyN3f9
小児性愛差別者は「差別や感情的な拒絶はダメだが私が嫌いな対象にはそれをやっても良い」という人が多い
1950年代、手塚治虫のロボット等の描写は、荒唐無稽なデタラメを描く子供の敵と非難され
明治中期、近年の子供は夏目漱石等の小説ばかりを読んで漢文を読まない、子供の危機だと言われた
未成熟な身体の女児に性的感情を抱くのがキモいと非難するのなら、
50代の妊娠不能な熟女に性的感情を抱くのもキモいと非難しなければならない。
#ロリコン
#LGBT
#セクマイ
「人口増加に寄与しない」「生物として不自然」という人が責められるのだとしたら
「宗教に身を捧げて、生涯伴侶を持たない」っていう人も責められなければならない。
#ロリコン
#LGBT
#セクマイ
それで慰められて犯罪が抑制されているという可能性は考えないのだろうか
それが有ることで犯罪が助長されるというなら、痴漢・強姦もののAVやヤクザ映画の方が問題では?
漫画なんて単なる線と点の描画だし、ドールもただの人形に過ぎない。
http://thailog.net/2016/04/08/340189/
「こんなものはあってはいけない。この人形で少女を愛する練習をして、実際の少女が欲しくなったらどうするんだ」という批判の声も上がる
格闘ゲームで練習して、実際に殴りたくなったらどうすんだ!
小児性愛者も、LGBTと同じように、カップルでデモ行進できるようになれば良いけど、同性愛よりは大人と子供はカップリングが難しい。
だから、小児性愛者はLGBTより性的マイノリティであり、性的欲求の解消が難しい者として配慮されるべきなんだ。
#ロリコン
#LGBT
#セクマイ
小児性愛者は、相手が大人になると興味が無くなる期限付きの愛で無責任だという意見があるが、
多くの人は結婚をする気がない相手との恋愛を楽しむし、真実の愛があれば何でも乗り越えられる。
「ホモ=欲求のおもむくままに男を襲う犯罪者またはその予備軍」
と言ったら差別主義者だと言われる。
「ロリコン=欲求のおもむくままに少女を襲う犯罪者またはその予備軍」
という扱いは当たり前のように行われる。
これは差別だ。
#ロリコン
#LGBT
#セクマイ
ロリコンは、ロリコンであることを公言し、それは社会的に認められるべきだ。
もちろん、合意の無い性行為は、老若男女問わず犯罪であり許されないということは言うまでもない。
#ロリコン
神に讃えあれ
国民よ
この「緑の行進」四十周年記念式典は、いつもの行事や通過的祝典ではありません。それどころか、王国の領土保全を完成させる過程における重要な局面なのです。
我が国土の解放、そして平和と安全の強化の大いなる達成に続いて、我が国はサハラの人々がれっきとした国民となり威厳のある生活を楽しめるようにしようとしてきました。
今日、「緑の行進」の40年の後、我々は、その有利不利にかかわらず、サハラ問題についてこれまで対処されてきたやり方からの、金利生活者経済や特権からの、民間部門の参加が貧弱であることからの、そして中央集権的なメンタリティからの、根本的な決別を求めます。
何故今日、40年の後なのでしょう?
そう、何年もの犠牲と、政治的かつ開発志向の努力の後に、我々は成熟を達成しました。
今、国家の一体性統合過程における新時代の夜明けと、我々の南部地域の祖国への完全なる統合の達成のために、機は熟しています。
「南部地域開発モデル」の実行と進歩的地方分権化の適用は、その過程の一部です。
国民よ、
私は是が非でも、南部地域の我が国民達へ彼ら自身の仕事をこなすのに必要なすべての手段を与えて、彼らが彼らの地域を開発できることを確かめたいのです。
太古の時代から、このサハラの人々は学者や季節的交易者として知られてきました。彼らは額に汗をして生計を立て、威厳と誇りを持って暮らしていました。厳しい生活環境にも関わらず、誰からの助力も期待していません。
私が話しておりますのは真のサハラウィ、彼らの祖先とモロッコの王との間にいつも存在していた忠誠の絆へと身を捧げて続けてきた本物の愛国者のことです。
我等が敵たちのものの見方に乗せられて彼らを支持する少数の者についていえば、それらを許す余地は我々の間にはないのです。しかしながら、本心に立ち返り悔い改めた者に祖国は、概ね寛容かつ寛大であります。
国民よ、
「南部地域開発モデル」を実行することは、これらの地域の我が同国民への我等の義務を果たすことに我々がどれほど身を粉にするかを示すもので、それゆえに統合的開発のモデルとなるでしょう。
我々はこの「開発モデル」に、統一祖国へとこれら地域を統合すること、そして、経済的ハブとして、またモロッコとそのアフリカのルーツとの間の決定的な絆として、サハラ地域の影響力を拡大することを望んでいます。
そのために私は、利用できる全ての手段を集めること、全能の神の御恵みにより、ラユーン=サキア・エル=ハムラ、ダフラ=オウド・エッダハブとゲルミム=オウド・ヌーンの諸地域にて社会・医療・そして教育のプログラムとともに、多数の主要計画を遂行することを決断しています。
インフラに関しては、この地域の道路ネットワークが拡大されるとともに、国際標準に準拠した二車線道路がティズニットとラユーン、ダフラを繋ぐために建設されることになります。
私はまた、アフリカ各地とを結ぶハブ空港を南部地域に設ける検討をすることも、政府に求めました。
私の念願の一つに、アフリカ他地域とモロッコを繋ぐためにタンジエとラグイラを結ぶ鉄道を実現することがあります。今日のマラケシューラグイラ線完成のために今必要となっている資金の確保に助力いただけるよう、全能なる神に祈ります。
我々にはまた、「偉大なるダフラ大西洋港」を建設し、南部にて主要太陽光及び風力エネルギー・プロジェクトを遂行して、ダフラと国立送電網とを接続する意思があります。
我々の目標の一つは、これらのネットワークとインフラをアフリカ諸国へと繋げて、これにより諸国の発展に寄与することであります。
もちろん私は、これらのインフラが、それ自体では、国民の生活状況を向上させることができないと理解しています。それゆえ私は経済発展を推進し、人間開発計画にてこの行程をサポートすることを切望しているのです。
強調しておきたいのは、この点について天然資源からの収入は、この地域の人々の便益の為、そして彼らとの協議と協力にて、この地域へと投資され続けるであろうということです。
地域の資源と製品の利用と振興のために、ダフラの主要海水脱塩プラントや、ラユーン、エル・マーサ、ボジュドーの産業区と施設類の設立のような、幾つかの計画が遂行されるでしょう。
これらのイニシアチブをサポートするために、国内及び海外の投資家のために明快さと競争力とが共存して、彼らがこの地域の発展に貢献できるよう、投資しやすい法的枠組みが制定されることを切望しております。
経済構造を拡大し、事業と社会経済をサポートし、定収入を発生させ、特に若い人々の雇用を創出するために、経済発展基金も立ち上げることになりましょう。
国民よ、
私にとって、最も重要なこととは、サハラにおける我々の同国民の尊厳…とりわけ、若い世代の尊厳…が保護されることを確実とし、彼らの愛国心と祖国への傾倒を強めることであります。
よって私は、人口の殆どのセグメントで要求されている公平と社会的正義の原則を維持するため、社会保障システムに立ち戻り、これをさらに透明で公平なものとするよう、政府に求めています。
さらに、サハラの人々の心臓と心の中で特別な位置を占めているハッサーニ文化を考慮して、サハラの伝統の保存と推進のために必要となるメカニズムを、とりわけ、この国の南部に劇場、美術館、カルチャーセンターを建設して、強化することを切望しております。
人権についてですが、モロッコは、全能の神のお恵みにより、国家の動員、良好な治安統制、そして国民社会組織との建設的連携を通して、たくみに我が敵の目論見を打ち砕きました。
そのうえ、憲法にて定められた機関であります国家人権協議会とその地域委員会は、権利と自由の保護を任務としておりますが、如何なる違背があろうとも、これに対し、公的機関、市民社会組織、そして国民との対話と協力を通じ、取り組んでおります。
国民よ、
進歩的地方分権化を遂行して、モロッコの信用を強化するとともに、公約を重んじる国であることを示すのです。
私が国会開会式で強調したように、この地域で選ばれたオフィシャル達は、国民によって民主的に与えられた正当性により、国家機関だけでなく国際社会とも向かい合う、南部地区居住者の真なる代表者となります。
進歩的地方分権化の遂行は南部地域が最優先であることを確かなものとするために、一連のプログラム契約が、中央政府と本地域との間で、開発プロジェクトの実行に関する其々の義務をはっきりさせるために、締結されることになりましょう。
私はそれゆえ、王国の他の地域の経験が繰り返されることを期待して、権限委譲の立法文書の採択を急ぐこと、適任な人的資源と資金とを移転してこれをサポートすることを、政府に対し命じています。
我々はまた、地域部局に対し、この地域の物事を地方レベルで動かしていくのに必要な特権を与えるための、本当の行政権限移譲勅許状の準備を急がねばなりません。
私はそれゆえ、我々の南部地域の居住者とその代表者達が、彼らの責務を遵守することを期待します。今や、彼らが自らの物事を執り行って自身の要求を満たすために、制度化された開発関連のメカニズムを設定しているのですから。
国民よ、
モロッコが何かを約束するときは、言行をともにします。我が国は、履行できないことは公約しません。
ですから、我々は世界に向けてこう言いたいのです:他とは違って、我々、モロッコに居る者は、空疎なスローガンを使うこともなければ、幻想を売ることもしないのだと。我々が何かを公約するときは、その内容を履行して、大地の上で物事を執り行うのだと。
今日、モロッコは「モロッコのサハラ」をサブーサハラのアフリカ諸国との通信及び通商のハブとすること、そしてそれを達成するのに必要なインフラを建設することを誓いました。そして今一度になりますが、我が国はこの約束を守るでしょう…敵たちが好むと好まざるとにかかわらず。
ところで、ティンドウフでは…アルジェリアのですが…人々が、貧困や、絶望、収奪そして基本的人権の侵害に苦しみ続けています。ですから、私はこう問うべきと思うのです:
「何百万ドルもの人道的な援助はどこに行ってしまっているのか…一年あたり6千万ユーロも?…分離主義者たちの装備、プロパガンダ、そして弾圧に費やされる莫大なユーロについては言うに及ばず。」
「分離主義者の主導者たちが腹立たしくも裕福で、欧州やラテンアメリカに不動産や銀行口座を所有しているという事実を、どう説明できるのか?」
「どうしてアルジェリアは、人口がせいぜい四万人のティンドウフ・キャンプの生活条件を…例えば、アルジェの中程度の人口の区域と同程度にまで…向上させようとしないのか?」
これはつまり、彼らの威厳を守る住宅6,000軒を、アルジェリアは建てることができていない…もしくは建てるつもりがないのだ、40年にも及ぶのに…ということなのです。
どうしてアルジェリアは…モロッコに軍事・外交で対抗するために莫大な額を費やしているのに…ティンドウフの住人達をあのような恐ろしい、非人間的な状態で生活させておくのでしょうか?
かのサハラの、自由で立派な息子たち・娘たちを、人道援助を乞う者に変えてしまった者どもには、歴史が裁きを下すでしょう。
彼らがサハラの女性や子供たちの集団の悲劇を利用して、彼らを戦利品に変えてしまっており、違法な商業活用だけでなく外交的論争のための道具としても使っているという事実を、歴史は物語ることになるでしょう。
ティンドウフのキャンプに居られる人々に問います:ご自分たちの生活状況がすさまじいというのに、あなた方はそれで良いのでしょうか?このキャンプに居られる女性は、息子さんたちや娘さんたちの間に広がっている絶望と落胆の意味を理解しておられるのでしょうか…期待できる展望も未来もないというのに?
あなた方は、このような非人間的な状態などよりも良い扱いを受けるに値するものと、私としては信じております。あなた方がこういったことに耐えるのだというなら、誰を責めるわけにもいかないでしょう。そうしている間にも、あなた方の目前でモロッコは、その南部地域の発展を強力に推進していき、この地域の居住者が自由で威厳のある人生を楽しむのを確実にしていくのです。
国民よ、
この「サハラ問題」は、モロッコがその歴史のなかで初めて直面した問題ではありません。この国はシバ(無法)と混沌を知っています…保護領統治のもとで生きながらえ、占領を耐え抜きました。この国は、現代国家を築こうとして独立を勝ち取るうえで、不和と争いの時季も経験しました。
困難な状況に直面する度に、モロッコがいつも昂然として、強固であり団結していることが判ります。何故かといえば、モロッコ人は、自分たちが同じ運命のもとにあると信じ、自らの普遍の価値と領土の保全を維持しており、この王と民との間にある密接な絆と団結へと、全面的に委ねているからです。
進歩的地方分権化の遂行と開発モデルの適用を開始することにより、モロッコは、我々の領土保全に係る不自然な論争に対する不変の解決策を見出す機会が多くなることを望んでおります。
そのように信ずる理由はただひとつ、2007年にモロッコは、国際社会の呼びかけに積極的に応じ、この袋小路から出る道を見出すための案を編み出したからです。
そうして我々は「南部地域の為の自治イニシアチブ」を提案しました。その国際団体からは、真剣で信頼できる提案であるとの判断が出ております。
昨年私が「緑の行進」の記念日を祝う式辞にて指摘したように、このイニシアチブは、モロッコが提供できる精一杯のところなのです。その遂行は、国際連合機構の枠組みでの最終的な政治的解決の達成にかかることとなります。
モロッコの一部について何か別の譲歩を待っている者たちは、思い違いをしています。それどころか、モロッコはそこで与えるべき全てを与えています。モロッコは、このサハラを守るために、自らの息子たちの血を惜しみなく捧げています。
我々は、それ以上の譲歩をしなければならないのでしょうか?一部の国際非政府組織たちが、我々に望んでいるような?
我々は、こういった敵対的態度の裏にある理由を知っています。彼らの狙いは、この国を分割することなのです。しかし当の彼らには我々のことに干渉する権利などないことも、我々は知っています。
これは、国際組織内のある団体がモロッコの歴史を知らないままシナリオを創り出そうとするのに対処するうえで、我々が支持しているのと同じ原則です。そうしたシナリオは、エアコンの効いたオフィスで創り出され、現実から遠く離れて、モロッコ・サハラに係る地域紛争の解決のための提案として示されているのです。
モロッコは、如何なるものであれ、深刻な結末をもたらしかねない愚かで危険な行動方針も、「自治イニシアチブ」で生まれた前向きな趨勢を転覆することが狙いでしかない実行不可能な提案も、いずれもお断りいたします。
モロッコ製品への敵対的キャンペーンに対しても、モロッコの団結と不変の価値を守る政治と防衛のセクターで発揮されたのと同じ、犠牲と献身の精神に則って、立ち向かっていくことになります。我々の製品のボイコットを求める者たちについては、歴然とした国際法違反でありますが、彼らにはそうさせておきなさい。とはいえ、彼らは自ら決めたことの責任を執らなければならなくなるでしょう。
モロッコには、立ち上がるであろう大規模プロジェクトの恩恵で、この地域に生まれる投資機会から利益を得るために、自らのパートナーを…国家も、グローバル・カンパニーも…招待する権利があります。
丁度、我々がモロッコの北部と南部とを何ら区別していないように、トマトにおいてアガディール産とダフラ産の間でも、イワシにおいてララシュ産とボジュドー産の間でも、燐鉱においてコウリブガ産とボウクラア産の間でも…広く知られるデータで裏付けられているように後者が我が国の埋蔵量の2%に満たないとしても…我々の目には何らの違いも、みとめられないのです。
同様に強固な意志と揺るぎなさをもって、モロッコ・サハラの法的状態を疑おうとする企てにも、この国の北部地域でと全く同じように、この土地、この南部地域にて力と特権の完全なる行使を行う我が国の権利へ疑問を投げかける企てにも、モロッコは立ち向かっていきます。
これはつまり、我々の正当性を良く知らしめ、我が国がなしている進歩をスポットライトで照らし、我々の敵のもくろみに対抗するための、取り組みの強化と警戒の維持、これら全てを、我々は総動員で行っていかなければならないということです。
国民よ、
緑の行進を特徴づけたのと同じ献身と犠牲の精神を保ちつつ、我々の南部地域の開発を推し進め、その地方の息子たちや娘たちの尊厳を護ること、そしてこの国家の領土保全を維持することは、我々の集団的責務です。
そのようにすることが、「緑の行進」の考案者…私の尊敬する父であって後の王ハッサン二世陛下…安らかにお眠り下さい…と、この国の栄誉ある殉教者たちへの、忠節の証しとなる筈です。
アッサラーム・アライクム・ワロマツロー・ワバラカア-トゥ
★この前読んだ日経によれば、2100年の世界各国人口、ナイジェリアが9億人に達する予想らしい。
そのほか、西アフリカのサウスサハラ、ブラックアフリカな国々が、軒並み人口数億人になってる。
一方のアジア諸国は、中国が人口をどんどん減らし、東南アジアは「タイの出生率1.4、ベトナム1.8」なので、これまた減少する。
インドがどうなるかはわからないが、2100年には、世界人口の重心はアジアからアフリカにシフトすることが確実。
★これが1900年頃の世界人口分布マップだと、いわゆる「帝国主義の列強」の母国の人口シェアが、相当高いんだよね。
この100年で、列強側の人口はほとんど増えなかったが、アフリカ側は数倍になった。
あと100年で、さらに加速する。
★だから、1800~1900年代に、列強が軒並みアフリカとかを「植民地」に出来てしまったのは、勿論軍事力の差が一番の理由ですが、
「列強側が、人口が多かった」の要因もあったと思う。今だと信じられませんが
★ちなみに、「満州は日本の事実上の植民地になった時点で、人口はわずか数百万しかなかった」と聞いてビックリした記憶がある。
だから戦前の人は「満蒙開拓団」で満州で農業開拓に行ってたんだな。
単に出生率が高いだけじゃない。
日本人が30歳でようやっと次世代を出産するのに対し、ナイジェリアは20歳で次世代を出産。増殖スピードが1.5倍
日本だと、60歳で「おばあちゃん」になり、子供2人孫4人なのに対し、
ナイジェリアだと、60歳で「ひいおばあちゃん」になり、子供5人孫25人ひ孫125人
ひ孫125人だと、いちいちひ孫の誕生祝いなんかしている余裕はないし、そもそも「ひ孫の顔や名前を、覚えきれてるか、疑問」
「人口の過半数が子供」という社会は、こういう社会なんだろうなあ
日本から見たら、「なぜナイジェリアは、ひ孫が125人もいるの?」だし、
ナイジェリアから見たら、「なぜ日本は、孫が4人しかいなくて、60歳なのにひ孫もいないの?」だろうな
明治維新の3000万人が、100年で12000万人になったというのは、そういうこと。
逆に言えば、2100年、ナイジェリアのラゴスが世界最大都市になってるだろうな。人口1億人都市とか。
★明治維新時の全人口が、今の日本では1都3県に集約されてるのか。
よく考えてたらすごいな。
因みに縄文時代の日本の全人口は、横浜日産スタジアム収容人員程度しかなかった(8万人)
★未來の人口大国ナイジェリアに、日本はほとんど関心示さないが、ちゃんと中国は接近している。
クーポンと言う言葉は「券」と言う意味なので「クーポン券」では「券券」
襟裳はアイヌ語のエンルムからきていて意味は「岬」の事、つまり襟裳岬は「岬岬」
フラダンスの「フラ」とはダンスを意味する言葉なので、フラダンスは「ダンスダンス」
スキーという言葉は元々ノルウェー語で薄い「板」を差す言葉なので「スキー板」では「板板」
アラーの神と言う言葉、「アラー」とは「神」の事なので「神神」
イスラム・シーア派の「シーア」は派閥という意味で「シーア派」は「派派」
サハラ砂漠のサハラ、ゴビ砂漠のゴビは「砂漠」という意味なので「砂漠砂漠」
アフリカのナイル川のナイル、ガンジス川のガンジス、インダス川のインダス、メナム川のメナム、メコン川のメコン、アムール川のアムール、すべて川という意味で「川川」
ttp://journeytoforever.org/jp/foodfirst/report/hunger/12myths.html
神話その1
膨張した世界人口を養うだけの食糧が足りない。だから食糧増産が必要だ。
* インドでは、2億人の国民がお腹をすかせていたとき、6.25億ドル分の小麦・小麦粉と13億ドル分の米が輸出されていた(1995年)。
* 典型的な飢餓地域のバングラデシュでは、国民全員に2,000カロリーを供給して充分な量の米が生産されている。野菜・果物・豆類など他の食品を加えると、全国民を余裕を持って養うことができる量の食糧が生産されている。また肥沃な沖積土と水資源に恵まれたバングラデシュでは米だけで2倍も3倍も収穫量を増やす可能性があると推測されている。
* ブラジルでは、7,000万人の国民が充分食べられなかったときに、130億ドル分の食糧が輸出された(1994年)。
* アフリカでは、2億1,300万人が飢えるサハラ地方の国々が盛んに食糧を輸出している。1960年代末から70年代初頭に西アフリカ諸国が史上最悪の干ばつに襲われたときも、12.5億ドルもの食糧が輸出され続けた。1982~85年の干ばつのときもこれらの国からの食糧輸出は続いた。
* 先進国のアメリカでは、3,000万人が充分な食糧を確保できず、アメリカの子供たちの8.5%がお腹をすかせており、20.1%が飢餓に面している。一方、代々アメリカ政府と農家は過剰生産に頭を痛め、1995年にアメリカ政府は300万トン以上の穀類を海外に輸送するのを援助している。
世界の食糧供給事情は「過剰」の一言につきる。今日の世界では小麦や米などの穀類だけで全人口に毎日3,500カロリーを提供できる量が生産されている。野菜や豆、ナッツ、根菜、果物、草食の家畜肉、魚など他の食品も加えると、一人当たりに毎日4.3ポンド(約1.95キログラム)の食べ物がある。穀物と豆とナッツが2.5ポンド(1,133グラム)、果物と野菜が1ポンド(453グラム)、肉と牛乳と卵も1ポンド(453グラム)ぐらい。毎日食べていると太ってしまうほどの量だ。問題は多くの人があまりにも貧しくて、食べ物が目の前にあるのに買うことができないこと。世界で一番「餓えた」国にも国民全員が満腹になるだけの食糧がある。それでも飢餓が続き、餓えた国々から食糧や他の農産物が輸出されている。
(Hunger is real; scarcity is not.)
元増田です。
>この期に及んで富は増大し続けるといえる能天気さが心の底からうらやましい。
なるほど、そういう考え方もあったか。
こういう人は多分短期的な景気変動だけを見てモノを言ってるんだろうね。
確かに特定の時期、特定の地域で富が増大しない、あるいは徐々に減少するということは
あるだろうけど、世界全体で富の増大が止まった気配は全くないのだが。
もしそうだとしたら、世界史的な転換期にあるということだけど、
そういう意味で言ってるのかな?
まあ、この20年、日本じゃ富が実質的に増大していないので、普通に考えると
こういう人も出てくるかもねえ。
でも中国とか行ってみなよ。20年前と比較したら本当に豊かになってるから。
インドだってそうさ。
そうやって世界全体では富は増大しつづけてるよ。
・・・と考えてみると、過去20年で豊かにならなかった地域というのは、
1. 日本
くらいじゃないかという気がしてきた。