はてなキーワード: オーバーラップとは
そこそこ面白いけど内容薄くてとくに感じ入る部分はなかった
うーんこういうゲームをやってるのね、というところは面白かったけど、それ以外は文字もおおいしネタ切れっぽさも感じたりして正直読むのが苦痛だった
週一くらいで読むぶんにはいいのかもだけどまとめてよむのはしんどくなるレベル
きょうも厄日です1巻とネタかぶってるのがちらほらあった(マッサージやで青あざできたとか)
5巻だけなかった・・・
これは面白かった
やっぱり作者自身も思い入れをもってかいてるのがわかるし、密度や濃度も濃い
つーかよくこんだけエピソードおぼえてんなーと思う
演出マシマシにしてる部分もあるだろうとはいえ、小学生のときの話なんかここまでおぼえてねーぞ
あと5巻よんだらおわりだけど、なんか展開的に「この町ではひとり」とオーバーラップしてる部分がおおくてネタかぶり!!!となってる
(「この町ではひとり」は連載でリアルタイムにおっかけてた)
いい友達いてうらやましーなーと思う
おとなになったいまでもこどものときの幻想で自分をみられてて現実とのギャップに苦しむのはガンツのクロノと加藤の関係とまったく同じだなと思った
2ちゃんねるで女叩きがあったことは筆者自身見て知っているが、なぜそのような空気感が醸成されたのか?についてはニコニコ動画登場以降にインターネットへ新規参入した筆者にはわからない
その当時の女性ユーザはただ一方的に男性ユーザから叩かれたのか?と言われれば筆者自身の当時の記憶として「いやそういう感じではなかったな」というのが正直なところで、女性アピールがしつこいと叩かれていたという記憶がある
筆者にはおそらく各年(年代ではなく1年単位)のオタク女性がネット上の女性の扱いに関して受けていた印象が違うのではないか?という推測があって、もしかしたら女叩きの原因は更に上の世代の女性のせいではないか?と考えた
学級会がなぜ発生したのか?と言えば、別にジャンル同士の抗争でも、掛け算の順番に関する論戦でもないわ。
当時のオタク女性(というよりもパソコンの初心者女性)は電子掲示板のトピックやスレッドという概念、そういうものに関する前提のルールというのを理解してないことがあまりにも多かったのよ。
どういうことかと言えば、特定のトピックやスレッドで話題が固定されていることに慣れていなかったのよね。
今では信じられないかも知れないけれど、つまり例えば「幽遊白書を語るスレ」で「幽遊白書以外のことをメインとして語ってしまう」という事が頻発していたの。
(中略)
それで薄々勘付いている人が居るだろうけど、その話題が変わった先がBLだったらどう感じる?
しかもNIFTY-Serveや2ちゃんねるでそのジャンルのメインのトピックや本スレッドで行われたとしたらどうなるかは想像付くわよね?
そう、他の人から注意されるのよ。
でも1人に注意したからと言って慣れてない子たちはまだまだいっぱい居るわ。新規に参加するたび今ではやっちゃいけないとタブー視されていることをやってしまう子が大勢居たのよ。
もちろんパソコンや電子掲示板へ慣れている歴の長いオタク女性たちも居て、慣れていない若いオタク女性たちをどうにかしないといけないという動きが自然と発生したの。それが今で言う「学級会」の元なの。
今でも2ちゃんねる(5ちゃんねる)のジャンル別のオリキャラスレやBL板などには本スレへ投下するなという注意書きが残っているのもあるけれど、なぜそういう記載があるのか?と言えば、やらかしてしまう子がいっぱい居たからなのよ。この辺りはオタク女性の黒歴史ね。
NIFTY-Serveへも言及していること、更に2000年前後という曖昧な時期を指定しているので増田女史の視点では2000年へ入る前からオタク女性のやらかしが在ったという認識だ
その事を裏付けるような、パソコン通信時代のおそらく男性ユーザの視点で振り返えりがある
女オタクはわきまえてたか?と言われれば俺の記憶上じゃ元増田の言ってる通り、当時の俺の感覚からすると「おかしな投稿」をする女オタクが一定数居たというのが正直なところだね
何なら当時はアニメージュとか雑誌の方でもそれっぽいの投稿してた女オタク居ただろ、まぁその辺はアニメージュ編集部の権限の範疇だから俺がなにか言うつもりはないけどな
ただそういった雑誌と同じノリで普通のMAGとかPICとかアップするとこへ今で言うBL系を載せちまうヤツは居たからパソコン通信〜インターネットの初めの頃は女オタク側にコミュニティのノウハウが無かったんだろうなと今になって思うわ
Wikipediaを参照するとMAGやPICは画像形式のことで登場年代は1990年代前半のインターネットが普及する前のパソコン通信時代で増田女史の振り返りと合致する
忘れちゃならないのがインターネットが登場したからと言って直ぐに全員が移動したか?と言えばそうではなく、それまでメインだったパソコン通信と新興のインターネット通信の時代はユーザの本格的な移動が始まるまでオーバーラップしていて、増田女史の振り返り年代のスタートが曖昧なのはオーバーラップしているからだろう
本題とは少し離れるがリアルの雑誌の方でも「おかしな投稿」があったと振り返られている点も意外と重要で、専門誌だったアニメージュだけでなく週刊少年ジャンプへの現代ではミーム化してしまっている投稿が言及される
そういえば「あーん!スト様が死んだ!」っていつだっけ
前述した通りMAGやPICは1990年代前半、その前段とも言える1988年の時点で「そういった雑誌と同じノリ」の投稿があったことは確認できるようだ
スト様が死んだのピクシブ百科事典を参照すると以下の通りである
たまに腐女子とも言われるが、腐女子とはBL好き趣向のことを言うのでこの文面からは彼女が腐女子かは判断できない。むしろスト様と共に少女が描かれたイラストやその少女漫画風のタッチ、文脈などを考慮すると、今で言う夢小説を好む夢女子タイプだった可能性の方が高いだろう。
腐女子かどうかは断定できないがオタク女性であるのは間違いないという推定がなされている
女神ってその当初はエロ自撮りとかアップしてくれる女性ユーザを指すネットスラングなんだけど、意味が広範していって女性ユーザ一般を指すネットスラングへ変化していったんだよ
「女神が現れるとスレが荒れる」ってのは当時のインターネットの一般的な認識でな、元増田の表現を借りれば性別はわからんが女神を排除しようとするユーザは一定数居た
(中略)
電車男は2004年で、女神の「意味が広範していって女性ユーザ一般を指すネットスラングへ変化していった」というのがかなり重要で、女性ユーザ一般の中には当然オタク女性も含まれるので、2004年前後の時点で女神という名の女性ユーザ一般を叩く層が居たことを確認できる
つまり主に2ちゃんねるで女叩きを経験したのは2004年前後以降に新規参入した女性ユーザで、その前段へオタク女性のやらかしや、女神などの存在が挙げられるのではないか?という推測が成り立つことになる
更に興味深いのは今回の流れとは一切関係のない2013年の投稿だ。この投稿は非常に年代が特定しやすい
2013年の時点で25歳、中学生ということなのでその10年前の2003年、高校へ入学するかしないかの年齢15歳と仮定すると増田女史のいう「ホームページを作る知識を学んだりやホームページを自分のものとして所有できる権限が若いオタク女性たちにあったのか?と言えば難しかった」「同人サイト設置を誰でも可能になるのはいわゆるガラケーの勝手サイトやレンタルホームページの登場を待つことになる」という振り返りと合致する
2013年の時点の増田が「ところ構わずBLの話をしたり」「ニコニコでアニメを見たら、「腐コメやめろ」などのコメントが流れてきたりする。ああ、BLに萌えるあまり腐女子中学生がやらかしたのかなぁと思う。」という感想を持っていて、2013年でもオタク女性がやらかすという現象がオタク女性目線で確認できるのだ
しかも更に「でもあの頃の」という部分によって2003年を振り返る増田も似たようなものだったことが示唆されている
いや似たようなものだったと断定するのは良くないと当時のはてブのコメントを参照すると、おおよそ事実であったのかと知ることができる。誰も2013年増田の振り返りを嘘だとは言っておらず懐かしいとすら共感している
まとめるならば、2003年の時点で2013年増田が言う若年の痛いオタク女性が存在しており、それはおそらく2003年以前も数々の証言からやらかす若いオタク女性が存在していることがわかり、そのため当時のインターネットでは女性ユーザへヘイトが集中し、やらかす若いオタク女性を何とかするため学級会により統制を計ったのが増田女史の世代であったと一連の流れで推察できるんじゃないだろうか?
今回のレポートは以上です。先輩諸氏による情報の補完があれば嬉しく思います
(追記)
タイポです・・・ブクマカさんへ本当に感謝を・・・ナオシマシタ・・・
虐められた奴に原因があった論だ!! この手の被害者叩き出てきたらもうガッチガチのいじめ加害者の自己正当化。一人称私にしただけで女アピールが強すぎると叩きまくってたもんなぁ。自らの罪を認められない増田
「虐められた奴に原因があった論」になるから当時のオタク女性の言動を調べるのは良くないって意味でしょうか?何を言いたいのかちょっとわかりません
当時「空気の読める」女性ネットユーザーの多くは男のふりを書き込んでいたと思う 割合は知る由もないが自分もそうだったし、今ある程度の年齢の女性オタク同士の会話では「あるある」ネタになる程度にはそうだった
女性が男性と性別を偽ることと、やらかしたオタク女性が居る可能性は両立すると思うのです。別個で考える必要がないと考えます
ブコメを確認すると男女相応にやらかしはあり男性主体のコミュニティだったからオタク女性のやらかしは目立ちやすかった、そして増田女史世代の自治があったと理解できました
男は叩かれてたのか?という点については、叩かれていたどころか逮捕されたりしてませんでした?電凸とかリア凸とか食らってたような記憶が・・・
もうなんか間違ったことしか書いてなくて増田が何でこんなもの書こうと思ったのかちょっと意味が分からないんだけど
一応気になったところだけ訂正・説明を入れておく。(ほぼ全文にわたっているが…)
途中で「なんでこんな中間テストの採点みたいなことやってんの…」みたいな気分になったけど
万が一これを読んで本気にしている人がいるといけないので義務感で最後まで書きました。
あまりの衝撃に最初からテンション高いですけどね。もう疲れたからこのまま上げます。
なんなんやいったい...
遺伝病の断種は、遺伝病の根絶について特に有効ではないと考えられています。まず、潜性遺伝病の場合はどうでしょうか。これは、両方の染色体に、多くは遺伝子機能欠失型の遺伝子変異があると起こります。親は、片方しか持っていなければ健康なのですね。すると、両方の遺伝子変異を持つ遺伝病患者を断種させたところで、片方だけを持つ親が世の中にたくさんいるわけです。どれくらいの数いるか?実はね・・・地球上の全人類で、これを持ってない人はいないと考えられています。今、個人の全ゲノム塩基配列決定とか普通にできてますからね。観察的にそうです。さてそれでも、両方の遺伝子欠失を持つ遺伝病の人を断種させれば、徐々に遺伝病は減っていくでしょうか?実はね・・・そうならないと考えられます。ハーディ・ワインベルクの法則って言うんですけどね。
まず、
「ハーディ・ワインベルクの法則って言うんですけどね。」じゃねーよ。
選択があるのに対立遺伝子(A、a)や表現型(AA、Aa、aaの組み合わせ)の頻度が変化しなければハーディ・ワインベルクの法則じゃないだろ。
潜性のホモ接合aa(つまり発病してる人)を継続的に人口から取り除いていけば人口中の対立遺伝子Aに対する対立遺伝子aの頻度は低くなるにきまってるだろ。
対立遺伝子aの頻度が低くなるんだからAA、Aaの組み合わせに対するaaの組み合わせの頻度(発病する人の割合)は低くなっていくにきまってる。
つまり両方の遺伝子欠失を持つ遺伝病の人を断種させれば、徐々に遺伝病は減っていくんだよ。ハーディとワインベルクによれば。
学部レベル以下の知識がないぞ自称ゲノム科学者。というか論理的な思考が出来てないだろう。どうやって大学はいったんだ?
頑張れ。もっと頑張れ。
さてそれでは、顕性遺伝病の場合はどうでしょうか。これは、染色体の片方にでも遺伝子変異があれば発症するもので、つまり、遺伝病を発症している人を断種させれば理論的に根絶できます、が、実はね・・・ヒトゲノムには突然変異が起こるのです。もちろんこれが進化の原動力なわけですが、これにより、顕性遺伝病も発生します。つまり、両親が健康で、遺伝子変異を片方持つわけではない場合でも、子に突然変異が発生して顕性遺伝病は起きるのです。デノボ突然変異って言います。
「実はね・・・」じゃねーよ。今どき突然変異が起こることを知らねー人間が存在するのか? 進次郎か。プラスチックの原料か。
そもそも突然変異の発生率がとても低くて、ひとつの遺伝子につき平均で一世代で一万分の一から百万分の一(*1)。しかもアミノ酸のコドンには冗長性があるからベースペアが一ヶ所変異してもアミノ酸は変わらないことの方が多いし、アミノ酸がひとつ変っても即タンパク質の働きに影響が出るわけではないから機能不全が新たに発生する率は実際にはひとつふたつ低いオーダー(十万分の一から一億分の一)。
だから新しい変異による発病はほぼ無視できるんだけど、実際の変異率がいくつにしろ発生率より速いレートで変異を取り除いていけば全人口中の有病者の割合が下がっていくのは当たり前のことだし、変異を取り除かない場合の有病者割合の増加率は継続して取り除いた場合に比べれば絶対に高くなる。当たり前の話だ。
そもそも(十万分の一から一億分の一の確率で)「子に突然変異が発生して顕性遺伝病は起きる」ことと「顕性遺伝疾患を持つ親の子供は100% 50%-100%の確率で(素で間違えた。恥ずかしい)おなじ遺伝性疾患を持つ」ことは別の話だ。子に突然変異が発生して顕性遺伝病が起きたら当然「その子が」生殖することを許さず新たな有病者の発生とそれによる社会の負担の増加を防止しようというのが優生思想だし、それは可能なんだよ。
優生学は「特定の個人が病気を持つかどうか」の話じゃあない。優生学は集団遺伝学の話(集団中の有病者の割合・それがどう変化するか)なんだよ。この違いが分かってない生科学者なんて存在するのか?
有効だよ。上に書いた通り。「抑制」は「根絶」じゃないしそもそも根絶は目指してないから。
問題は「個人に遺伝病が起こるか起こらないか」じゃないんだよ。問題は「全人口の中の有病者の割合をどう抑えるか」だよ。
さて、ここまで読んでくれば読者は気づいたでしょうが、運動能力、見た目の美醜、学歴、といったものは、これは単一遺伝子型ではありません。もし、学歴を問わない父親と、東大卒の母親から生まれた子の1/2が東大卒になると言うなら、これは単一遺伝子型の顕性遺伝と言うことになりますが、そんなわけはありません、経験的に。誰も行かないこともあるし、佐藤ママみたいに4人全部行くこともあるでしょう。単一遺伝子型なら、こういうばらつきは起きません。ばらつきが起きるが、一定の遺伝性はあるように見える形質、これは多遺伝子型です。
ちょっと待て。
「単一遺伝子型なら、こういうばらつきは起きません。」じゃねーよ。
たとえ「東大卒業する」が顕性単一遺伝子だとしても子供がその顕性遺伝子をもつかどうかは確率の問題で、必ず「生まれた子の1/2が東大卒になる」わけじゃねーだろ。ひとりひとりの子供が「東大卒業する顕性単一遺伝子」を持つ確率が1/2なら「子供4人中誰も東大卒業しない」も「4人全員が東大卒業する」も6.25%の確率で(ばらつきが)起こるだろ。
性染色体はひとつの遺伝子じゃないけどXとYはクロスオーバーしないから単体として遺伝するだろ? 男が生まれる確率(子供がYを持つ確率)は常に1/2だな? それでも全ての家庭で常に「生まれた子の1/2は男」になるか?経験的に。誰も男じゃないこともあるし、佐藤ママ(誰やそれ)みたいに4人全部男のこともあるでしょう? 遺伝というのは確率だから顕性だろうと単一だろうとばらつきは起こるんだよ。
この多遺伝子型の形質には、単一ではないとするならどれくらいの数の遺伝的変異が関与するでしょうか。これはここ10年くらいで確定してきた最新のところではあるのですが、どうも最低数千あるようです。それぞれの形質に、それぞれ数千です。こんなにたくさん因子があるとどうなるかというと、中心極限定理により正規分布します。多遺伝子型の形質は、正規分布するのです。すると何が起こるでしょう?
平均への回帰です。
「平均への回帰です。」じゃねーよ(笑)溜めをつくって関係ねーことを言うな。渾身のボケか。(ちょっとウケた)
無数の試行の平均が母集団の平均値に回帰するのは母集団が(またはサンプルが)「正規分布だから」じゃねーよ。大きい値も小さい値もランダムに抽出するからだよ。
親と子の身長に相関があり、長身の親(正規分布の一方の端)だけ取り出したら(つまりランダムではない。これが優生理論)、その子供の平均身長は「長身の親の平均値」に近づくにきまってるだろ。「長身も低身長も含めた母集団の平均値」に回帰するわけがない。
おまえ本当に大丈夫か? なんかわざと間違ったこと言おうとしてる? ツッコミ待ちか?(たぶんそうなんだろうなぁ...)
いみじくも優生学の創始者ゴールトンが明らかにしたのが、親の身長とその子の身長を比較すると、極端に身長の高い親の子は、どちらかというと平均側、普通っぽい身長の方にシフトする、と言う現象です。それで回帰というわけですね。平均に戻る、ってことです。
ゴルトンの観察が平均に回帰した(ように見えた)のは実験の条件が一定じゃなくて子供のサイズが親のサイズよりも環境から受ける影響の方が大きかった(つまり親のサイズという変数に対して無作為抽出になっていた)からだろ。だいたいゴルトン自身が気付いて生物学的根拠のない統計上のアーチファクトだって言ったものを掘り出して差し上げるな。晒し上げか。
どういうことでしょうか。メジャーリーグMVPの大谷翔平の子は、みんなメジャーリーグとかよりもずっと普通っぽい才能になるだろう、ってことです。ええ、皆さん、知ってますよね。長嶋茂雄の子もそうだった。野村克也の子もそうだった。あれが理論通りなんです。教育環境がいいから、それでも普通よりはいい方に行くわけですけど、親と同じような超絶スーパーエリートにはならなくて、それは統計学的に予想通りでして、確率統計の基礎の基礎、正規分布の性質により説明できます。大体さ、大谷翔平の親はどうなのよ。メジャーリーガーだったわけじゃないわけですね。
大谷翔平、長嶋茂雄、野村克也が周りより一歩も二歩も抜きんでてたのは遺伝形質(身体的特性)に加えて本人が努力したからに決まってんだろ。努力の結果が遺伝するわけがない。遺伝疾患や体格と一緒にするな。わざとか。どっかの詭弁のテンプレートにこういう例があるのか。
まあ、それでも、意味があるじゃないかっていうかもですね。平均への回帰って言っても極端だったのが極端でなくなる、ってわけで、身長が高い親の子の平均値は、身長が低い親の子の平均値よりは高いです。平均だけの話で、大幅にオーバーラップしますが。それでも平均を徐々に上げていけばいいじゃないかと。
だから初めから優生学の対象は特定の個人の能力(大谷翔平の子供は野球が上手いかどうか)じゃなくて集団全体の性質だって言ってるだろう。もともと「全体の平均を上げること」「全体の中で望ましい(くない)ものの割合を増やす(減らす)こと」が目的だ。「背が高いことが社会にとって良いことだ」となったら(どういう理由でそうなるのか知らんが。軍事強化?)長身の者に優先的に生殖の機会を与えて国民の平均身長を大きくするのが優生学の目的と手法だろう。むしろそれ以外になんだと思ってるんだ?
いずれにしろ「身長が高い親の子の身長も身長が低い親の子の身長も平均に回帰する」というのは単純に間違い。もしそうなら長身の者だけに生殖させても平均値が高くなるわけがないし(どういう理屈で「平均への回帰」と「平均を徐々に上げていく」が両立できるんだよ?)長身のものが優先的に子供を残せば集団の平均身長が高くなるのはすでに事実としてわかってる。(*2)
ところが、多遺伝子型には数千もの遺伝的変異が関係するというのはどういうことかというと、単一遺伝子型のように、どれか一つの遺伝的変異はどれか一つの遺伝病に対応する・・・ということになりません。重複しちゃうんです。ある遺伝的変異は、ある形質にも、別の形質にも、関係する。多面的関連と言います。例えば身長を高くする遺伝的変異は、同時にがんになりやすくする多面的関連を持つことが多いことがわかっています。するとどうなるか。身長を高くするように、集団の結婚相手を操作していくと、がんが多くなって寿命が短くなるでしょう。では学歴はどうか?学歴を高くする遺伝的変異は・・うつ病になりやすくすることがわかっています。
ここの部分は必ずしもすべて間違っているとは言えないが、身長の高さとガンの発生にについてはそれぞれが関連する遺伝子座の間に統計的な相関が見つかったというだけで身長を高くする遺伝子がガンの原因になるというわけではないし、長身の集団が低身長の集団に比べ短命であるという証拠もどこにもない。後者(学歴)に至っては関連が指摘されているのは「うつ病」と「低学歴」だし(*3)、それが共通の遺伝子の多面作用によるものだという考えは否定されている(*4)のである。
ていうか今気付いたけどこいつ遺伝的変異ってずーっと 「mutation(突然変異)」の意味で使ってない? 遺伝的変異は variation だから「数千もの遺伝的変異」とか「どれか一つの遺伝的変異」とかないんだけど...
これ、マジでまちがい探しかなんかか? なんで書いてあることがことごとく間違ってるんだ? 罠?
どうでしょうか。基本的に優生学というのは、国家の文脈で語られます。学歴の高い国民をより多数生み出し、国家の生産性を上げたい、というわけです。しかしどうでしょうか。うつ病が増えると、生産性はどうでしょうか。私はうつ病の人は生産性が悪いと言いたいわけではありません。しかし、優生学論者のロジックは成立しますか?(明示的に成立するとは言えないのではないですか?)と言いたいのです。
多遺伝子型の遺伝構造はまだわかっていないことも多く、「優生学的操作」をしてどうなるかすらわかっていないんですよ。形質に遺伝的因子があるなら、優生学的操作をすれば人類は必ず優秀になる・・・というのが元増田の議論の開始点だと思いますが、そこ、すでに間違ってるんです。
だからなんで話を「まだわかっていないこと」だけに限定するんだよ。じゃあわかってることには優生学的手法を使ってもいいのかよ。国や医療システムにかかる負担を軽減するために「遺伝病患者は子供つくっちゃいけません」っていいのか? 問題はそこじゃないんだよ。
優生思想がダメなのは「科学的に間違ってるから」でも「有効じゃないから」でもないんだよ。優生論の生物学遺伝学的手法が有効なのは動植物の繁殖で既に実証されてるから。元増田が優生学とは何かをそもそも理解していないのは確かだが、おまえの言ってることもほぼすべて間違ってる。
結論としてすでに社会的に受け入れられてない優生思想を否定したいんだったら、ウソを書いてまで「科学的」根拠をでっちあげる必要がないだろう。
なにが目的だ?
まさかゲノム科学者(自称)がこれらの間違いを本当に信じているはずがあるまい。
特にうつの「高学歴」と「低学歴」入れ替えてるところなんてワザとじゃなきゃどうやって間違えるんだよ...
*1 https://www.sciencedirect.com/topics/biochemistry-genetics-and-molecular-biology/mutation-rate
*2 https://www.science.org/content/article/did-natural-selection-make-dutch-tallest-people-planet
まあ、なんちゅうか、トラバも盛大に伸びているので、私の書くここまで、元増田は辿り着かないかもしれませんが・・・
私はゲノム科学者ですが、元増田の持つ疑問は、別に自然なものだと思うんですよね。というより、ゲノム配列決定が非常に身近になっている昨今、ちゃんと向き合っていかなければならない疑問だと思っています。私は私の持つ知識の範囲で、疑問にお答えしたいと思います。倫理は専門外なので扱いません。タブーとか扱いません。裏の意図を読もうとしているブコメが多数ありましたが、理系なのでよくわかりません。
まず、元増田の挙げているような、運動能力、将棋の能力、見た目の美醜とか、学歴、といったヒト個人ごとに異なる特徴を「形質」と言います。形質を遺伝学の観点から見ると大きく分けて二つあり、単一遺伝子型(メンデル型)と多遺伝子型(多因子型)です。
おそらく優生学にせよ遺伝にせよ、専門外の人が通常頭に思い浮かべるのは単一遺伝子型です。この場合、メンデルの法則により顕性(優性)または潜性(劣性)のモードで、親から子に形質が伝達されます。単一遺伝子型の形質として最も簡単に思い浮かべられるのは遺伝病です。あと、お酒飲める飲めないもギリギリそうです(これは本当は少数遺伝子+多遺伝子型だけど)。あと、耳垢が乾いてるか湿ってるかとか。親指が90度以上後ろに曲がるかとか。
そして、この遺伝病に対して優生学政策を行ったのがナチスドイツというわけです。遺伝病の人を断種させようとしたんですな。流石に元増田はそんなことが良いと思っているわけではないと思いますが。
遺伝病の断種は、遺伝病の根絶について特に有効ではないと考えられています。まず、潜性遺伝病の場合はどうでしょうか。これは、両方の染色体に、多くは遺伝子機能欠失型の遺伝子変異があると起こります。親は、片方しか持っていなければ健康なのですね。すると、両方の遺伝子変異を持つ遺伝病患者を断種させたところで、片方だけを持つ親が世の中にたくさんいるわけです。どれくらいの数いるか?実はね・・・地球上の全人類で、これを持ってない人はいないと考えられています。今、個人の全ゲノム塩基配列決定とか普通にできてますからね。観察的にそうです。さてそれでも、両方の遺伝子欠失を持つ遺伝病の人を断種させれば、徐々に遺伝病は減っていくでしょうか?実はね・・・そうならないと考えられます。ハーディ・ワインベルクの法則って言うんですけどね。
さてそれでは、顕性遺伝病の場合はどうでしょうか。これは、染色体の片方にでも遺伝子変異があれば発症するもので、つまり、遺伝病を発症している人を断種させれば理論的に根絶できます、が、実はね・・・ヒトゲノムには突然変異が起こるのです。もちろんこれが進化の原動力なわけですが、これにより、顕性遺伝病も発生します。つまり、両親が健康で、遺伝子変異を片方持つわけではない場合でも、子に突然変異が発生して顕性遺伝病は起きるのです。デノボ突然変異って言います。
ただしね・・・現在では、人工授精の際、受精卵の染色体やゲノム配列を調べて、遺伝病になるゲノムを持つ受精卵を選択しない、という医療、これって、実現化してるんですよ。ダウン症はすでに一般化してますが、単一遺伝子疾患もできます。この、遺伝病の子になるなら産まない選択・・・これは優生学的判断ではないのか?これってめっちゃ難しく、元増田を多くの人が簡単に批判しているほど単純な問題ではないと思います。私は、個人の選択は優生学とは言わず、個人の自由であるとは思うものの。倫理の専門家ではないので理論武装がしっかりしているか、自信はありません。受精の時点で人権が生じるという考えからすれば、これは殺人であり、虐殺です。ただ一つ言えるのは、ナチスドイツの断種法と異なり、この受精卵選択は、科学的に有効な医療であると言うことです。
さて、ここまで読んでくれば読者は気づいたでしょうが、運動能力、見た目の美醜、学歴、といったものは、これは単一遺伝子型ではありません。もし、学歴を問わない父親と、東大卒の母親から生まれた子の1/2が東大卒になると言うなら、これは単一遺伝子型の顕性遺伝と言うことになりますが、そんなわけはありません、経験的に。誰も行かないこともあるし、佐藤ママみたいに4人全部行くこともあるでしょう。単一遺伝子型なら、こういうばらつきは起きません。ばらつきが起きるが、一定の遺伝性はあるように見える形質、これは多遺伝子型です。
単一遺伝子型は、確かに、遺伝情報を調べると病気になるかどうかかなり高い確率がわかって、この事実だけを見ると、遺伝子決定論を信じたくなります。ところがですね、幸いなことに、遺伝病ってとっても稀なんです。世の中のほとんどの病気は多遺伝子型です。あなたのコレステロール値すら予測が難しい。多遺伝子型は、遺伝的変異が多数関わるだけでなく、環境によって大きく変化するんです。学歴も、運動能力も・・・そして見た目もです。
この多遺伝子型の形質には、単一ではないとするならどれくらいの数の遺伝的変異が関与するでしょうか。これはここ10年くらいで確定してきた最新のところではあるのですが、どうも最低数千あるようです。それぞれの形質に、それぞれ数千です。こんなにたくさん因子があるとどうなるかというと、中心極限定理により正規分布します。多遺伝子型の形質は、正規分布するのです。すると何が起こるでしょう?
平均への回帰です。
いみじくも優生学の創始者ゴールトンが明らかにしたのが、親の身長とその子の身長を比較すると、極端に身長の高い親の子は、どちらかというと平均側、普通っぽい身長の方にシフトする、と言う現象です。それで回帰というわけですね。平均に戻る、ってことです。どういうことでしょうか。メジャーリーグMVPの大谷翔平の子は、みんなメジャーリーグとかよりもずっと普通っぽい才能になるだろう、ってことです。ええ、皆さん、知ってますよね。長嶋茂雄の子もそうだった。野村克也の子もそうだった。あれが理論通りなんです。教育環境がいいから、それでも普通よりはいい方に行くわけですけど、親と同じような超絶スーパーエリートにはならなくて、それは統計学的に予想通りでして、確率統計の基礎の基礎、正規分布の性質により説明できます。大体さ、大谷翔平の親はどうなのよ。メジャーリーガーだったわけじゃないわけですね。
まあ、それでも、意味があるじゃないかっていうかもですね。平均への回帰って言っても極端だったのが極端でなくなる、ってわけで、身長が高い親の子の平均値は、身長が低い親の子の平均値よりは高いです。平均だけの話で、大幅にオーバーラップしますが。それでも平均を徐々に上げていけばいいじゃないかと。ところが、多遺伝子型には数千もの遺伝的変異が関係するというのはどういうことかというと、単一遺伝子型のように、どれか一つの遺伝的変異はどれか一つの遺伝病に対応する・・・ということになりません。重複しちゃうんです。ある遺伝的変異は、ある形質にも、別の形質にも、関係する。多面的関連と言います。例えば身長を高くする遺伝的変異は、同時にがんになりやすくする多面的関連を持つことが多いことがわかっています。するとどうなるか。身長を高くするように、集団の結婚相手を操作していくと、がんが多くなって寿命が短くなるでしょう。では学歴はどうか?学歴を高くする遺伝的変異は・・うつ病になりやすくすることがわかっています。どうでしょうか。基本的に優生学というのは、国家の文脈で語られます。学歴の高い国民をより多数生み出し、国家の生産性を上げたい、というわけです。しかしどうでしょうか。うつ病が増えると、生産性はどうでしょうか。私はうつ病の人は生産性が悪いと言いたいわけではありません。しかし、優生学論者のロジックは成立しますか?(明示的に成立するとは言えないのではないですか?)と言いたいのです。
多遺伝子型の遺伝構造はまだわかっていないことも多く、「優生学的操作」をしてどうなるかすらわかっていないんですよ。形質に遺伝的因子があるなら、優生学的操作をすれば人類は必ず優秀になる・・・というのが元増田の議論の開始点だと思いますが、そこ、すでに間違ってるんです。
私の実家がある地域では、成人の日の前日、日曜に成人式が開かれる。それなりにこだわって選んだ振袖と、それなりに調べて決めたヘアスタイルで、成人式に出た。コロナ禍とはいえ、それなりに盛り上がったように思う。二次会の飲み会は“自粛”の名の下に日付が変わるくらいまでで終わった。友達同士で三次会に繰り出すグループもあったけれど、私は優等生、つまり「クソつまらない真面目グループ」の人間だったので、二次会で帰ってきた。
「クソつまらない真面目グループ」の面々は、都会暮らしをして垢抜けてる子も、高校デビューか大学デビューを済ませ少し派手になっている子もいたけれど、「地元」の中ではまったくかたなしで、おしゃれにしているはずの着物姿の向こうに、当時の地味な彼女等の姿がオーバーラップしてみえた。たぶん、「それなり」のよそおいはできていたはずの私の向こうにも、耳の下で馬鹿みたいに量の多い髪を箒みたいに括っていたダサい芋女が映っていただろう。
いじめられるほどの哀れさも、いじられキャラに躍り出るような強さもなかった私は、同じ中学出身者が誰も受けない高校を受けた。真面目グループのひっそりしたマウントの取り合いにも疲れたから、誰にも相談しなかった。高校ではそこそこのポジションで、なんとか過ごし切ることができた。でも、何か満たされなかった。都内に住むためだけに受けた滑り止めの滑り止めの大学に進学しても、やっぱり満たされない。
満たされなさの理由に気がついたのは、オンライン塾講師の面接を受けていたときのことだ。面接官とは名ばかりのヘラヘラした先輩講師からかけられた「ところで◯◯大ってことは、◯◯サークルあるでしょ?俺、そこのOBなんだよ〜、立ち上げからやってさ〜。楽しいから入りなよ笑」という言葉がきっかけだった。面接だしニコニコしておくか、と思った私は、ひたすら「そうですか、いやあ私どうにも出不精で」と断る方法に話を進めつつ相槌を打った。その後しばらく話してようやく、私を「アルバイト志望の学生」ではなく「ヤれそうな女」として話している、と気がついた。「てか結構おっぱい大きいよね笑 やべ、セクハラだよね笑」とまで言われてからだったが。
私はそこで、目の覚める思いがした。そうか、私がかけられたかった言葉はこれなのか、と。電車通学をしていた高校生の頃は、何度か痴漢にあい電車を変えたりしていた。痴漢にあうのはムカつく以上に怖いので、ひたすら恐怖と戦っていた。「性的な目で見られる」ことは不快なことで、恐ろしいこと、だったはずだ。それなのに、私はどこかでカースト上位のちやほやされるために生きているような同級生には憧れていた。服装検査で引っ掛かる以上のメイクと、校則で禁止されたリュックを背負って、彼氏の話ばかりしている子たち。私はといえば、高二の冬に一度彼氏ができたけど、たった一度キスしただけで別れてしまった。それからは、ダサい人間に落ちないように過ごしただけだ。
私はそれまで、満たされなさの理由を、「彼氏が欲しいから」だと思っていた。周りに自慢できる、顔が良くて優しい素敵な彼氏がいたら、それはそれで満たされるだろう。でも、現実問題そこまで高望みできない。だから、青天の霹靂だった。「てか結構おっぱい大きいよね笑」そうだ、私は、おっぱいが、大きいんだ。そして、おっぱいは、手っ取り早いセックスの代替だ。そこにあるだけで、(そこそこの数の男性は)ニヤニヤした目つきを私だけに向けてくれる。
アンダー75のGカップ。Gカップなんて、ネットの世界では、有象無象に近い、どうでもいいサイズだと思う。それに加えて、アンダー75は正直デブだ。運動部に入ろうと思ったことすらない私は、我ながら締まりのない体をしている。でも、自撮りならおっぱいだけ写せばいい。もっとびっくりするほど大きいおっぱいの女の子や、アニメキャラみたいなスタイルのいい女の子も自撮りをアップしているけれど、おっぱいだけを撮影している限り、それでも私(のおっぱい)を褒めてくれるのだ。ダルダルにふにゃけた体だって、ぽっちゃりです、と言ってネットにあげれば、「ぽっちゃり好きです」なんて褒め言葉が飛んでくる。みんな私を承認欲求を満たすために気軽に乳を晒すバカな女、としてちやほやしてくれる。
私はおっぱいを晒しながら、今も(リアル男性を対象とした)処女であり続けている。私の膣に挿入されたことがあるのは、ひとり暮らしを始めてからAmazonで取り寄せたピンクローターとスティックローター、そして無数のポスカくらいのものだ。別に大事に取っておきたいわけなんかではなくて、小心者なだけだ。根っこは今も、「クソつまらない真面目グループ」の半端者だ。死ぬ程セックスはしたいけれど、危険を冒す勇気はない。ネットで知り合った男性は、みんな私をナマで犯し、中出しして、要らない子供を産ませようとしていると思う。それか、ホテルで私に薬を飲ませ、刺し殺すかも。
だから、私はネットにおっぱいを晒す。成人式でさもそれなりの大学生活を送っているかのような話をした飲み屋のトイレで撮影したおっぱいを、晒す。オナニーだってそこそこ気持ちいいし、何より安全だ。これまで「それなり」で生きてきた私にとっては、いろんな人におっぱいを褒められて、ローターを挿れて、AVで喘ぎ声を聴きながらイくことができているだけでほぼほぼセックスだ。
顔を晒して叩かれたら立ち直れないから、晒すのはおっぱいだけ。でも、みなさん私をちやほやしてくれる。いつかちやほやされなくなる日までに、処女を捨ててめくるめくセックスライフを享受できるようになればいいんだけど。そうは言っても、そのための努力より、手軽に得られる「えっちだね」「ペロペロしたい」なんて言葉の方が、やっぱり手軽だ。安全なセックスが手軽に得られるようになればいいのに、そんなことを思いながら、成人式の夜を終えようとしている。名前も朧げなかつてのクラスメイトのおちんちんには、やっぱりとうとう縁がなかったみたいだ。
アメリカが、
左翼 右翼 民主党 共和党 |-―――――-||-―――――-| ▲ 国民の中央値
だとしたら、日本は、
左翼 右翼 立憲民主党 自民党 |-―――-||-―――――――-| ▲ 国民の中央値
という感じではないだろうか。
要は、自民党が中道~左派の政策まで押さえていて、差別化を図ろうとした立憲民主党が左に行き過ぎて、国民の左右分布の中央値から外れているということである。だから、人気が出ない。
したがって、立憲民主党が支持を集めるためには、共産党と協力して左派色を強めるのはむしろ逆効果で、右寄りの政策を取り入れていくべきなのではないだろうか?
つまり、
左翼 右翼 自民党 |-―――――――-| 立憲民主党 |-―――――――-| ▲ 国民の中央値
https://twitter.com/If0r5do2xx3iL/status/1436884369231126536
これの話ね。
元ツイートの指摘がズレてるんだがブコメも同じようにズレてるコメントが多くて変な方向に行ってる
何がズレてるのかって道徳の教師は道徳科でやる道徳の話をしているのに、元ツイート主やブコメがなぜか人権の話や憲法の話をしろと主張する点だ
発端はDaiGoのホームレスの話なんだけどあの話自体は人権に絡んでくるものだと思うよ?ただそれは人権すなわち公民の授業でやれ
元ツイートでまず引っ掛る部分が「憲法で人権が保障されるということは道徳科においては重要すべきことではないっぽい」という一文
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである
と記されてる通り基本的に国家権力を縛るものであって私人同士のあれこれを既定するものではない
※1一応一部は私人に影響を及ぼすこともできる。でないと納税の義務とか適用できない。ここも参照
https://anond.hatelabo.jp/20210902174107
https://twitter.com/yorinobu2/status/1437267319411994624
じゃあ私人は基本的人権なんて何も考えずに行動していいの?って話だけど、そこは自然権としてみんなの心に備えつけられてるんで憲法では触れないよという建てつけになっている
そんなバカなとは思うけど憲法はそういう扱い。なので、元ツイートの文脈で憲法を出すのは変。
まあ憲法は筆が滑っただけかと思うけど人権そのものはDaiGoの話と超関係ある
でもそれを道徳科の教師にしてもしょうがないんじゃないか。一部オーバーラップしてても目的は別だ
例えば国語の教科書にはよく反戦をテーマにした題材の文学が載るけど
国語の目的は日本語の文章を理解することであって憲法で平和主義が歌われることは国語科においては重要すべきことではないっぽいとか言われてもそれはそうという感想しか出てこないわな
んじゃあ道徳科の目的は何かって言うと成り立ちから言うと戦前からの修身科に変わって現代的なモラルを教える教育だ
ぶっちゃけ今は何が主目的かって言うといじめ問題とかを防いで学級を恙無く運営するっていう感じになってる。(含むSNSいじめ)
こういうのを人権思想から解決しようとすると、人権には移動の自由みたいなのが含まれてるのでいじめが発生したらそれぞれ別の学校で勉強しましょうみたいな解決法が出力されちゃう
ていうか人権思想をちゃんと教えるには背景となる知識がいっぱい必要なんで
そもそも天賦人権説は王権神授説の対抗として出てきたものだけど、絶対王政の背景のない日本でいきなりそこを説いたとして
なんでホームレスの人権を蔑ろにしたらルイ十四世みたいなのの台頭に繋がるのか全然わからんじゃん?
アメリカやフランスは国家統合というか国の成り立ちの起源に絶対王政の否定が深くかかわってくる※2からピンとくるんであって
日本は何で日本なのかと言ったら昔から日本なんであって人権については社会を強くするのに便利だから思想を借りてきただけなんだよ
なんで、人権が弱いと社会も弱くなるって機序から勉強しないといけない
迂遠じゃん?だから中学高校あたりで地理歴史ちゃんと習ってから段階踏んで教えるもんだと思う
つーわけでこんな大変な話を道徳の教師に期待するな。彼らは学級運営でいっぱいいっぱいなんだ
※2 つまりホームレスだろうが何だろうが「俺たち」に安全と意見を言う権利を与えろと主張している
採用サービスのメンテサボってるっぽいけど6月時点で12社14サービスで採用されてるってさ
はてなはC2Cメインになったって言われてるけど、たしかにブクマなんかよりよっぽど儲けてるな
https://hatenacorp.jp/press/release/entry/2021/06/11/153000
「少年ジャンプ+」「となりのヤングジャンプ」(株式会社集英社)/「マガジンポケット」「コミックDAYS」(株式会社講談社)/「くらげバンチ」(株式会社新潮社)/「コミプレ」(株式会社ヒーローズ)/「コミックボーダー」(株式会社リイド社)/「コミックガルド」(株式会社オーバーラップ)/「ゼノン編集部」(株式会社コアミックス)/「MAGCOMI」(株式会社マッグガーデン)/「webアクション」(株式会社双葉社)/「コミックトレイル」(株式会社芳文社)/「コミックブシロードWEB」(株式会社ブシロードメディア)
『映画やドラマを観て「わかんなかった」という感想が増えた理由』という記事について、
どうせ現代ビジネスで書くようなライターにとって対岸の火事だから無責任なこと書いてんだろうなと思って読み始めたら、
エウレカセブンの脚本家・佐藤大氏がインタビューに答えてて驚いた。
自分は熱心とまで言うほどじゃないけど新作映画が出たら劇場に行く程度にはエウレカのファンで、
特にANEMONEは面白かったから割とハイエボ3にも期待してたんだけど、このインタビューにはかなり腹が立った。
エウレカってTV版は名作と言われてる割にポケ虹やAOは冷ややかな目で見られていて(なおこの2作に佐藤氏は関わっていない)、
それって端的に言えば分かりにくい上に面白くないからなワケじゃん。
”『多少おもしろくなくなってもいいから、わかりやすくしてくれ』というオーダーなら、筋が通っているので聞きますけど”とか言ってて、
「良し悪しが分からん客に合わせてレベルを下げます」って言い放ってるかのような傲慢さを感じたのよ。
ANEMONEは細部はなんだかよく分からんが展開はTV版とのオーバーラップも込みでエモい!みたいな作品で、
とにかくTV版からついてきてくれるファンに対してレベルを落とさずに難解だけど面白いものを作ろうっていう時代に逆行する矜持があるものと思ってたのに、
それが実は細部の良し悪しじゃ客は評価不能だからとにかくラストのエモさの一点突破でなんとかしようっていう技巧的な発想で作られたんじゃないかって疑念が湧いてきた。
仮に後者だとしたらこんな視聴者を馬鹿にした態度で作ってたのかってめちゃくちゃ腹立つんだよな。
エウレカなんてポストエヴァで難解な作品を作っとけば売れた難解さバブル時代の寵児じゃねーか。
そうやってチヤホヤされてたのが時代向きが変わってウケなくなったら客が幼稚化しただの泣き言言いやがって。
”もしリテラシーの低い視聴者が『逃げ恥』の背景にあるテーマを十分に汲み取れなかったとしても、排除された気分にはなりません。ドラマはちゃんと楽しめる。そういうふうに、脚本が書かれているんです”
と言って、作品の作り方自体を変えなきゃいけないというようなことを言ってるんだけど、
TV版は名作と言われてる割にはハイエボが全然一般ウケしてないエウレカの脚本家がそれ言う?みたいな気持ちになった。
こうなるとリテラシーの低い視聴者を排除された気持ちにせずにドラマを楽しめるように作っているであろうハイエボ3EUREKAがどんな作品になってるか楽しみだね。
ANEMONE同様にラストのエモさで一点突破する作品だったら、EUREKAだけじゃなくANEMONEまで見る目変わっちゃうわ。
しかもそれがまたまた一般ウケせずに固定ファンだけが語る作品になってたら目も当てられん・・・・・・。
いや、そういう邪念をもって映画館に行くことになるのが一番悲しいよね。もう純粋に作品を楽しもうって気持ちでEUREKAを見れないことが。
憤懣やるかたない。作り手側が客を評価するようなことは言わないでくれ。
推しは白い髪のミステリアス系少年キャラでここではN.K.としておく
厳密にいうと髪は真っ白ではなくてそれも良い
もともと作品自体はあまり知らなくて、ネットでふと見た推しを最初は気持ち悪いと思っていたけどそのうち興味が湧いて
気がついたときには推しのためだけに作品の履修を心に決めていた
ネタバレをいろいろ見てしまっていたことは悔やんだけどそれでもなお新鮮な驚きがあった
主人公くんが異様な状況で驚き慌てているところに優しく現れる推し
推しの謎の好意を受ける主人公君に場所代わってほしいと思ったのは一度や二度ではない
しかし主人公君と推しの関係性や美しい対称性を考えているうちにそこは主人公君の場所なんだと納得して代わってほしいとは思わなくなった
ネタバレ見て知っていたが推しの本性はアレだから二人の蜜月は長くなかった
推しはある目的のために一人でこっそり入った謎の部屋であの世界の真実を知ってしまっていたのだ
手が固定された磔になって腹に神話の槍を刺されてる白い体の衝撃
他人の手で殺されることを選択するに至る覚悟は最初戸惑ったがそのうち深く納得した
グッズの出し方が露骨だったのはまだいい
許しがたいのはシリーズ5作目(リメイクなどは抜きで数えている。3作目といった方がいいか?)なにあれ
「希望は残っているよ、どんな時にもね」推しはそんなこと言わない
他のキャラもいろいろおかしかったからとても正史とは認めたくない
常人には理解できないことばかり言ってて主人公君を好きな理由もよくわからないナギちゃんを
白い髪白い肌に白い半袖シャツで
シンジくんの少年らしい声と心地よくオーバーラップする人外っぽい喋り方のナギちゃんを
ついでに
例のセリフはi love youとi like youのどちらが良いかで揉めてたけど私はどちらも同じくらい間違い派
○ご飯
朝:なし。昼:うどん、天かす、梅干し、オクラ。ラップサラダ。夜:豚肉、白菜、人参、エノキ。おじや(ごはん、たまご、海苔、梅干し)
○調子
お昼寝めっちゃした。疲れてるのかなあ。
散歩行きたいけど雨なので行けない。明日も雨の予報なので洗濯物が悩ましい。
○グラブル
水六竜したり、水プシュケー連戦したり。
水六竜、かなり苦手だ。
ただ土は武器キャラともに成長の余地が賢者に依存してるからすぐすぐに打てる手があんまりないなあ。(神石にするとか終末五凸みたいな極論は抜きね)
予兆解除用のソリッズ、予兆解除出来なかった用のサラ、何でも屋のマキラ。このメンツで苦戦するようじゃやっぱ僕のPSだよなあ。
5の城まで。
○劇場版ポケットモンスターココ
面白かった! 露骨に泣かせにかかるベタが多そうで怖かったけど、まさにそのベタにどハマりして泣きながら見てた。
ザルードとココが本当の家族になっていき、そして前向きないい意味での別れに繋がっていくのは、サンムーンのあれやこれやを踏まえているようでもあって、ポケモン25年続くコンテンツとして親目線を取り入れてるってだけじゃない流れも少し感じたり。
この前向きな別れというか若者は旅をせよって価値観は、首藤剛志さんのポケモン感と終わらないコンテンツとしてのポケモンとの折衷案を模索しているようにも感じる。
首藤剛志さんはポケモン自体からの決別のようなものを書くべきだと思っていたみたいですけど、ここまで日本はおろか世界に浸透したコンテンツになると、それも逆に不自然で、良い距離感を持ってずっと付き合っていきたいなと思わせられるような映画を見ている人の気持ちと、ココのそれがオーバーラップするようで、良い映画だったんじゃないかな。
みんなの物語に続いて、サトシとピカチュウは主役というよりはレジェンド枠のようなココを導く先輩キャラだったのも面白かった。
特にサトシの口からのパパのエピソードは珍しく興味深かった。これも家族ものだからこそのシーンで印象的。
主役を嫌う難しい役をやってたコノハナが良かったな。超ダンといい、コノハナは難しい役が似合うなあ。タネボーを抱える優しいシーンもあったりで好き。
同じ森の仲間のゴロンダ、スカンプーはチョイ役とはいえ存在感はあったかな。スカンプーのオナラのところ笑い声も聞こえて子供向けに面白いシーンだったのかな。
渋谷区で一人暮らししていたが、祖父はいくつか不動産を持っており、その1つを生前贈与されたので住むようになった。場所はほぼ埼玉の東京の某市。
が、引っ越しして1年ほどたって耐えられなくなってきた。本当につらいし、東京市部を心の底から舐めていた。都心で生活できることのすばらしさを舐めていた。住環境というものを過小評価していた。
俺と同じように代々東京で、ずっと東京で生活していて、でも都心の家賃は高いから市部の生活も悪くないかもと考えている都民は多いと思う。そいつらに全力で警告したい。
・東京の生活に飽きたから田舎で生活してみたい、は絶対後悔する
幼い頃からスーパーに東京野菜というのが売られているのを見ていたし、親に練馬では大根を作っているという話を聞いていた。しかし、実際自分の目で東京の畑を見たことがなかった。厳密にいえば、新幹線や自動車に乗っているときに窓から見ていたことはあっただろう。しかし、それがほんとうに東京であることを意識したことはなかった。
実家の裏手には某美術館の庭園、一人暮らしの家からは某公園があったので自分の部屋から小さい森みたいなものは見えていた。自然から疎外されて育ってきてはいないはずなのだが、いま外に見えるのは洒落た庭ではなく畑である。同じ植物でも庭園と畑の決定的違いがある。食べるための作物か、鑑賞のためだけにつくられた緑か、という点だ。
その差は小さいようでかなり大きい。畑をメンテナンスしているのはしがない農家のオジサンだ。聞こえてくる音は見た目を整えるチェーンソーではなく、収穫するためのトラクターだ。
生きるために必要であるとはいえ、そのプリミティブな行為が自分の生活圏内にあるということは大層居心地が悪い。
東京に空が無いと誰かが言っていたが、たしかに俺が生まれた街にはない(昔は青山も今ほど高いビルがなかったからもう少し空は広かったが)。しかし、市部にはある。高さ制限や用途制限があるわけではないのに、高い建物がない。
ふつう広い方が落ち着くのではないかと思うだろう。どっこい、そうではない。俺にとって、都心のビルは圧迫ではなく受容なのだ。そのそびえるコンクリートとガラスに守られて生きてきた。しかし、市部にはビルがない。落ち着かない。ダイナミックに変化する空の脅威に直接晒されているような感覚になる。これも大層居心地が悪い。
都内と23区外、いや、都心とそれ以外は天と地ほどの差がある。電車で新宿まで40分?普段行く場所が新宿だけならいいが、丸の内にも赤坂にも恵比寿にも品川にも上野にも行く用事はあるだろう。うまい店、気の利いたものを売ってる店、友人宅etc..
それらに行こうとすると、片道1時間は平気でかかる。バーに行くことも、カフェに行くことも、フレンチに行くことも、ブティックに行くことも、本屋に行くことも、美術展に行くことも、コンサートに行くこともかなり腰が重くなる。
いや市部にも、うまい店気の利いた店は確かにある。あるのだが選択肢がないのだ。その店が休みだったら代わりの場所に行くこともできないし、気分によって切り替えることもできない。あ、時間できたしあそこ行こうかな、というのもできない。
市部には畑しかない訳ではない。むしろ畑は割合的には小さく、それ以外は画一的な戸建て住宅と古びた団地と老朽化した遊具を備える公園がある。その風景は悲しいほどに寂れている。古びた団地には本当に気が滅入る。かつて大勢の若い親たちとその子供が暮らし栄華を極めた団地だが、今は高齢者しか住んでいない。ひび割れたコンクリートを補修した跡と、その前を歩く老人の皺がオーバーラップする。終焉目前の団地1階の商店の色褪せた看板を見ると、俺の心の色を奪っていくような感覚になる。
東京に住んでいた頃にも自転車はいた。主には送り迎えするお母さんたちだ。しかし、市部の自転車の半分は老人たちだ。チェーンは錆びつきキーキー音が鳴り、よろよろとハンドルを握るおじいさん、おばあさんたちだ。あとは通学の中高生。ヘルメットこそ被っていないものの都内ではあまり見かけない「自転車通学」。田舎にしかないと思っていたものが、市部にもあった。もちろんお母さんたちも自転車に乗っている。そのお母さんたちが来ているダウンはモンクレールではなくユニクロだ。そして自転車の総数自体が都内に比べて断然多い。それは歩くのがとても窮屈だということだ。
メインの国道も狭いし、路地はもっと狭い。246の歩道より狭いんじゃないかという道を、よぼよぼの自転車と元気な通学自転車が駆け抜けていき、その間を自動車が通っている。田舎や都心ほど道が広い訳でもないのに通行量はそこそこある。こんな滅茶苦茶な道は市部にしかないのではないか。
ちょっとした用事で実家に1週間ほど戻ったことがある。その時感じたのは住むなら都内だ、ということだ。
ジャンパーだけ羽織ってスマホさえ持って外に出れば、パスモも持たずとも、カフェも本屋もブティックも何でもある。身なりのひどいおじさんもいないし、余裕のなさそうな顔で自転車を漕ぐお母さんを見ることもない。農作業している老人を見ることもない。
田舎者には「でも自然がないじゃないか」と言われそうだが、少し足を延ばせば明治神宮があるので、緑に囲まれることができる。都心には、代々木公園でなくとも新宿御苑、皇居前広場、上野公園、芝公園など実は緑に触れられる場所は多い。本格的な自然ではないが、木に囲まれたすこし湿った空気を吸うことくらいはできる。
今住んでいる家を賃貸に出して引っ越せばいい話ではあるし、実際そうしようとしている最中なのだが、都内に住んでる都内育ちの同志に同じ思いをしてほしくない。相続したからといって、気軽に市部にいくのはよしたほうがいい。どうか、貴重な人生の時間を無駄にしないようにしてほしい。
○ご飯
朝:なし。昼:海鮮丼。ネバネバサラダ。夜:人参と大根と玉ねぎとシメジと溶き卵のコンソメスープ。フライドチキン。間食:ブルボンのプチシリーズのクッキー。
○調子
むきゅーはややー。お仕事はそれなりー。
○プリコネ
ただ今回のEXクソむずかった。多分、ユイのランクとかストーリー解放ボーナスとかその辺の細かいところが重要になってるんだと思う。
○グラブル
ドバの周回。いやーソロ団が無理して遊ぶコンテンツじゃないな。天星器は取りきりたいけど、うーむ。
○ワーフリ
シナリオイベント「妖怪図鑑編纂記」を読んだので感想を書きます。
毎回のことだけど、シナリオタイトル出るところが素敵すぎて一気に引き込まれた。今回は「紅葉」が映える絵で、ドット絵の郷愁と相まっててしゅきしゅきだ。
ドット絵での物語の魅せ方を磨きつづてるワーフリならではの絵作りの気持ちよさが映えるところなので、ここは毎回褒めたい。
お話は、和の国(でいいのかな?)を舞台にしたガールミーツガールもの。
絵の才能はあるが新米のリョウキと、絵にまつわる謎の力のせいで絵を描くのを怖がっているクグイの二人が主役なのだけど、まずこの二人の性格は対照的なのに根っこの芯は同じという構図が大好き。
ワーフリの女性同士の関係を書いたシナリオは、ステラディア、バレッタラヴなどがありましたけど、また違った魅せ方がされてて素敵でした。
二人が絵を好きでそれを磨くもの同士でかつ、互いの絵が大好きな関係だからこその物語になっていて、メインシナリオで再来訪は難しいだろうけど、何度もイベントシナリオでこのエピソードが見たいなあ。
特に今回の加入キャラでもあるクグイの方が、リョウキに対して絵の先輩だし妖怪と戦う力も持ってるのに精神的には未熟で引っ張ってもらうところが好き。
シナリオ後半、リョウキが「描くことに理由が必要なら、私がなるよ」と啖呵を切るシーンなんかは大量スクショしまくりました。(グラブルでいうルリアノート的なの欲しいなあ)
物語の構造としては、強い力を持ちながら悩むクグイと、力はないけどまっすぐひたすらに進むリョウキの二人の関係が主なのだけど、ここに未だ何も持たないことがキーワードのアルクやステラの関係もオーバーラップするシーンもあったりして、ワーフリの積み重ねも活かしたいいシナリオだった。
ベストシーンはクグイの「生意気な後輩に、先輩の意地を見せなければなりません。そのために…… 返してもらいます。絵が好きだっていう、気持ちを!」です。
毎回、シナリオイベントはこういう決めシーンから逆算したような丁寧さがあって、今回もバシッと決まってて最高だった。
マナサ六層解放とか超級武器などゲーム的なアップデートも気になりますが、やっぱり僕がワーフリを遊ぶのはシナリオなんだなあと再認識できました。
個性だから仕方がない、には自分で何とかするべきという考えがオーバーラップするから反発を生むんだろう
KKOって大雑把にくくられ過ぎなのに罵倒になってるように思われてるのが不思議だ。
最初のKはいろんな要素があるだろうから置いておいて、次のKは氷河期とかがあるし、自己責任として責めるのはおかしいだろう。
最後のOは年を取って生きていられたらどの男性もいずれおっさんになるのであって、自分より年が下の女性でもババアだのいつも罵ったり嫌がらせするような糞男でもなければおっさんと罵倒するのはおかしいという気がする。