はてなキーワード: エッセイとは
NHKのEテレで「夏井いつきのよみ旅!」という番組をやっている。これは、TVバラエティの口の悪い添削でおなじみ?の俳人夏井いつきと、元ホストのホストクラブ経営者・ローランドさんがあちこち旅をしながら俳句をなんか色々する番組らしい。番宣しか見てないから、どんな番組か説明しようとして急に文章がぼんやりしたが。
なぜ番組を見ないかといえば、どちらの出演者も好きじゃないからなのだが、特にローランドさんが本当にこう、TV出るのかーそれも公共放送の教育チャンネルに出すのかー、という思いだ。このいろんなことがあったご時世に。「俺の店では売掛やらないよ」とブログで宣言したことで男を上げたみたいに言う人もいたが、やらない宣言したということは、やってたんじゃん、って思う。まぁ過去のこと言ったところで詮無いんでしょうけど。
ローランドさん個人や彼のやっている店が「悪いホスト(クラブ)」かどうか、ということは私には知る由はないが、ある種の象徴として「TVに出ている元ホストの有名人」だ。
なんだかなー、「社会に許されてんなぁー!」って思う。
歌舞伎町やホスト界隈ではなぜか短歌や俳句を作る勢力があって、数年前にバズった「ホスト万葉集」や「アウトロー俳句」と、作品になっているものもあるのだが、ローランドさんは、なんか松本人志の痛いエッセイみたいな感じの本は出しているけど、詩(短歌や俳句)はしたためてはいない。のになぜか「俳人と旅する番組」の出演者に収まっている。
つまり「象徴としてのホスト」としてブッキングされてるんだろうと思うのだが、つまり「象徴としてのホスト」は、Eテレで番組持ってる程度には社会に許されてんのなぁ~~。
夏井いつきもせっかくホストを連れて旅に出たいっていうなら、「象徴としてのホストタレント」じゃなくて、アウトロー俳句まわりのホストの人とかを連れて旅をすればいいのに。アウトロー俳句相当いいものなのにな。まぁ夏井いつきがホストと旅したがっているわけじゃないとは思うが。
まぁ鮮度の高いホストだと、さすがにTVサイズじゃないんだろうけど、でもなーなんかなー。
頂き女子のマニュアルらしきものが流出して、ホストを頂点とした「水商売のタコ部屋構造・弱肉強食生態系モデル」みたいなものを多くの人が想像しながら、頂き女子を罵倒したり(まぁ仕方がない面はあるだって犯罪容疑者だもの)、頂き女子にカモられたおぢを馬鹿にしたり(かわいそう)、うっかりキャバクラ行って「頂きそうなキャバ嬢トーク」を目の当たりにしたうっかりしたおっさんを馬鹿にしたり(かわいそう)している。
なんていうか、ホストに貢いでた」キャバ嬢や、キャバ嬢に貢いでたおっさんたちは「社会に許されてない~~」という感じである。キャバ嬢は、そして頂かれたおぢたちは、Eテレでお金出してもらって旅とかしてない。
まぁ個別にいえばローランドさんは悪いことはしてない(表面上。でも売掛はやってただろう?とやっぱり思う)から当然、許される許されないということではない。
一方で頂き女子は容疑者だし、だまされたおぢ達は凄くかわいそうだけど根底には下心があるだろうから100%の同情は生まれにくいというのはあるだろう。でもローランドさんはたぶん売掛さんざんやってたんじゃねーの?と思うんだよな。
まぁ、そうはいいつつ、ローランドさんについてはあんまり知ってることがないから今検索してみたけど、別の源氏名だったけど女を金で見たくないから源氏名を変えたとあって、まぁそういうことなんだろう(売掛さんざんやってたんじゃねーか、というか)
でもその辺は明らかにせず、良い感じにウォッシュしてTV番組に出ていると、いつの間にか社会的に許されてるポジションにいたりする。なんだかね。なんだかなー。
全然話は変わるが、実は、キャバ嬢にハマったおぢを3人ほど知っていて、ハマるところから破滅するところまで身近で観察したことがある。昔の職場にいたのだ。辞めてよかったあの会社笑。
正確に言えば、ハマった3人のうち2人は社会的信用がかなり棄損され、1人はハマりかけてたが「はしかが治った」感じで収まった。
社会的信用の棄損、というのは要するに「妻と別居」「離婚」「左遷」「弁済」である。まぁ今でも元気に暮らしているような話は風の噂で入ってくるが、別居の人は、別居したまま10数年、なぜか離婚せず結構な金額の妻子の生活費を振り込みされられ続けているらしい。自業自得とはいえお気の毒である。
さて、ハマったおぢ3人に共通しているのは…、と考えて特に外的には大きな共通点がないのだった。
お金はそれなりに(キャバクラ通えるぐらいには)あり、3人とも結婚して子供もいた。未婚だからカモられおぢということではないように思う(まぁ結婚してたって孤独ってこともあるからねぇ)。あと「断れないタイプ」のような弱者男性らしさもなかったと思う。3人のうちの一人は私が別の会社のオッサンからセクハラターゲットにされたときに助けてくれた人だったし、別の人は会社の宴会や懇親会でも人気のムードメーカーのような明るい人だった。見た目も別にごく普通。
色々ほんと色々あって左遷されることが決まった人に、何でハマっちゃったんですか?と聞いたら「だってあんなきれいな子が俺の話で笑ってくれるんだよ!」と言われて、あーダメだこれは…と思った思い出。強いてあげれば3人の共通点は「若くてかわいい女の子がとにかく大好き」なところだったかも。
ハマりかけてたけど治った人は、その職場において三人目だったわけだが、周囲が全力でもう、止めたよね。
「医学部に行くお金をキャバで稼いでると言っていた、いい子なんだまじめな子なんだよ、親御さんが女が医者になるなんて生意気だと反対していて学費出してくれないって言うんだ」と、割と目が据わった表情で会社の忘年会で言われて、同じ卓に座っていた全員が目を合わせて「…第三の被害者が」という感じになった。それはキャバ嬢や風俗嬢の常套句だよと第二の犠牲者の人が言って、私たちもスマホで色々検索したりして「ほら手口なんだよ」とかさんざん皆で説得したけど駄目で、結局2次会の後に、第二の犠牲者の人とそのキャバクラに行ってた。
そして第二の犠牲者の人(離婚済)がそのキャバ嬢にハマって、第三の人は「まんまとハマった第二の人の様子」を見て己を客観視できたらしく、その日でキャバクラ通いをすっぱりやめたみたいだった。
要するに、別に「かわいそうな弱者男性」だけがターゲットなわけでもなく、そして「下心はいろんな危機管理レーダーを簡単に狂わせる」んだよね。まぁ気持ちの暴走はどうしようもないのかもしれないけどさ。
まぁ、貢ぐおぢは社会的弱者のGiverだ、というのは、当てはまってない被害者も結構多いんじゃねーかなとは思うんですよね、だって下心があるからお金を貢ぐわけで、別に純粋な気持ちでお金出してないわけじゃん。ヤラセてもらえるかも、俺は彼女にとって特別だから、と思うから貢ぐわけでしょうし。
三島由紀夫は日本を代表する文豪・憂国の士といわれるが、過大評価され過ぎだと思い、所感を書いておく。
三島由紀夫はかなり多作な作家で、小説・戯曲だけでおそらく200作を超える。
新潮社の三島由紀夫全集はバカデカサイズの全42巻からなり、通読した人間は三島の専門家くらいだろう…専門家すら怪しいが。
三島由紀夫といえば金閣寺。少し落ちるものとしては仮面の告白、潮騒、美徳のよろめき、鏡子の家、憂国、豊饒の海がある。
私は三島由紀夫が好きで、小説だけでなく戯曲を含めて結構読んでいる方だと自認しているが、若者がつまらぬ観念を語るだけの作品、あまりに紋切り型の恋愛作品が多すぎて、読むのが時間の無駄・苦痛だ。
2021年に『三島由紀夫vs東大全共闘』という映画が公開された。三島由紀夫 = 憂国の士という共通認識を前提とした筋書きのようだ。
しかし当時(1969年)の共通認識は「ややこしい人がクビを突っ込んだな」である。
当時の三島由紀夫はボディービルディングに熱中したり、鍛えた裸を披露するために自分の映画や写真集を作ってみたりと、脇道にそれる活動が多く、作家としての存在感が薄らいでいた。
それどころかいい年したおじさんなのにUFO・超能力の探求にハマったり、ハタチそこそこの若者を誘って私兵部隊を結成したり(後に市ヶ谷駐屯地に突入した楯の会である)と、お騒がせキャラクターを確立していた。
つまりUFO・超能力に興味があり、自分の映画・写真集をつくり、若者を集めて軍事訓練を積ませている40過ぎのおじさんが、ソ連・マルクス主義の嵐が吹きすさぶ東大に入って論戦しようというのである。いくらなんでもツッコミどころが多すぎるよ。
当時は同性愛・天皇礼賛主義への偏見が強かったこともマイナスイメージを形成しており、三島由紀夫は"へんなおじさん"であった。
散々語られていることだが計画性がなさすぎる。拡声器すら用意していなかったとは…。
偉い人を人質にとって吠えれば自衛隊が動くと思ったのだろうか。組織とはそのような属人的なものではない。
ずさんな計画のわりに、割腹自殺の準備だけはキッチリしていたらしいが。
派手に割腹したかっただけでしょ。割と当たっていると思う。三島由紀夫がエッセイや映像インタビューで度々語っているお気に入りのエピソードに、終戦の日に夏の静かな日差しを見ていると自分は"生き残ってしまった、後に残されてしまった"という強い感覚を持ち、それ以来死に場所を探しているという話があり、その"死に場所"を選んだということなのだろう。
三島由紀夫はエッセイストとして優秀だとおもう。"高貴なる野蛮人たれ"という言葉を残した。上品で、教養があり、裕福な人間は一見洗練されているようではあるが、実は個性がなく退屈で、柔順で、脆弱な人間なのである種の誇り高き野蛮さを備えておくべきだという三島由紀夫の主張。この主張は私の人生の指針にもなってきた。
ただ文豪・憂国の士というのは過大評価であり、観念に引きこもるあまり最期は周りに迷惑をかけて死んだへんてこ作家、くらいが妥当な評価だと思う。
真面目なエッセイなど、誰が読むものか。インターネットの海原を漂う、我々のコンテンツよ。注目を集めるには、もはや「怪文書」になるしかないのだ!
怪文書、それは謎めいたベールに包まれた、魅惑的なコンテンツ。一見すると、意味不明で奇妙な主張の羅列。だが、そこには人々を惹きつける、三つの秘密のスパイスが隠されている。
まずは「謎」。人間の脳みそは、謎という名の餌に弱い。怪文書は、その不可解な主張で、読み手の好奇心をガッチリと捕えるのだ。謎めいた文章を読み進めるうちに、いつの間にかその世界に引きずり込まれてしまう。
次に「笑い」。怪文書は、時にユーモアに溢れた、愉快な存在となる。支離滅裂な主張や奇妙な表現は、思わず吹き出してしまう笑いの種となるのだ。人々は、その奇抜さに「ククク、何だこれは!」と笑い、SNSで「ちょっとこれ見て!」とシェアする。
そして「共感」。一見、突拍子もない主張にも、社会への不満や不安、誰もが抱える感情が込められている。そこに人々は共感を覚えるのだ。孤独な魂が、怪文書を通して繋がり、共鳴し合う。そう、怪文書は孤独な現代人の心を救う、希望の光なのかもしれない。
真面目なエッセイなど、退屈で味気ない。人々は、謎と笑いと共感が詰まった、刺激的なコンテンツを求めている。この三つのスパイスを効かせた怪文書は、インターネットという大海原で、人々の心をガッチリと掴むのだ。
だが、怪文書を書くには、モラルという名の鎖で、自らの欲望という怪物を縛る必要がある。度を越した陰謀論や、誰かを傷つける言葉は、決して許されない。怪文書は、あくまでも人々を楽しませ、時に癒す存在でなければならないのだ。
真面目なエッセイストたちよ、怪文書の魅力に気づいたなら、謎と笑いと共感を武器に、インターネットという舞台で、人々の心を鷲掴みにするのだ!ククク、怪文書の時代がやってくる!
インターネット上では、日々膨大な量の情報が飛び交っている。その中で注目を集め、多くの人の目に留まるのはどのようなコンテンツだろうか。残念ながら、真面目に論理立てて書かれたエッセイや記事よりも、奇妙で不可解な「怪文書」の方がバズる傾向にある。
怪文書とは、一見すると意味不明で、奇妙な主張や陰謀論、支離滅裂な文章が連なっているものだ。一見すると「何を言っているのかさっぱり分からない」と思うかもしれないが、実はそこには人々の興味を惹きつける要素が詰まっている。
まず、怪文書は「謎めいている」という点が人々の好奇心を刺激する。人間の脳は、謎や未解決の問題に惹きつけられる傾向がある。怪文書は、その不可解さゆえに、人々の「謎を解きたい」という欲求を刺激し、読み進めてしまうのだ。
また、怪文書は「共感」を呼び起こす。一見すると支離滅裂な主張も、よく読むと社会への不満や不安、怒りなどが込められていることが多い。そこに共感を覚える人が多く、SNSなどで拡散されることでさらに多くの人の目に留まるようになる。
さらに、怪文書は「笑い」を提供する。不可解な主張や奇妙な表現は、時にユーモラスに感じられる。人々は、怪文書を読んで「何だこれは」と笑い、友人やSNSで共有する。そうすることで、さらに拡散されていくのだ。
一方で、真面目に書かれたエッセイや記事はどうだろうか。論理立てて書かれ、分かりやすく説明されていても、人々の興味を惹きつける要素が少ないと、なかなか注目を集めるのは難しい。
インターネット上では、情報が瞬時に拡散され、すぐに新しいコンテンツに取って代わられてしまう。そんな中、人々の記憶に残り、話題になるには、インパクトが必要なのだ。
とはいえ、怪文書が常に歓迎されるわけではない。度が過ぎた陰謀論や誹謗中傷は、社会に悪影響を及ぼすこともある。怪文書を書くにしても、モラルを守り、読み手の感情に配慮することも忘れてはならない。
インターネット上で注目を集めるのは難しいが、怪文書に頼るのではなく、人々の心を動かすような、真に価値のあるコンテンツを生み出す努力を続けたいものだ。
趣味で長編ラノベ(ライトノベル)を書きたい増田をみたので、ワイも考えてみた
(以前、カクヨムなどで長編を完結させたというすごい増田もあったけど、今回はそれ以前の問題の『何を書こう』)
ワイが他人を意識せずに、自分自身のためだけに書けるのは、マンガでも小説でも、50ページくらいがエネルギーの限界。このページ数はとても長編とは言えない
50ページ以上書き進めるには、外部からのガソリンが必要だが、他人に読んでもらうためには、他人を楽しませようと意識する必要がある
他人を意識すると、へっぽこなのを誤魔化そうと見栄を張ることになり(なお、誤魔化せる訳がない)、結果として筆が進まなくなるので、長編作ろうが未達で終わる
趣味なのに自分の技量を無視して無駄な見栄を張ろうとする問題は・・・まぁさておき、他人を意識して描くとき(楽しませようとする時)は、ヒット作をそのままなぞると良いと言うが、
ワイが好きな万人向けヒット作はドラゴンボール以外に無いんだよなぁ・・・。ドラゴンボールは鳥山明の超画力でなければ成り立たない
ドラゴンボールを題材にせんでも、バトルものは空間認識能力が高く、人体構造を考えて描くのが楽しい人にしか向いてないが、空間把握能力が死んでいるのは元より、骨格や筋肉、関節にも死ぬほど興味がない
ワイは死ぬほど運動音痴なので、ダンスや新体操を見て、人間は本来はこうやって動くことも可能なんだなァ・・・ってなるのは好きだ。ついでに、映画・時代劇・ゲームで、たびたび魅せてくれる映え殺陣(たて)も見るのも好きだ。でも、骨格や筋肉、関節には死ぬほど興味がない。そのため、現実の格闘技・武術・剣術には微塵も興味はない
じゃあ、銃になら興味があるか?と言うとない。なぜなら基本的に銃には殺す以外の目的が無く(スポーツとしての銃もいちおうあるが・・・)、いままで書き連ねてきたことと比べると、人間の身体ってこんな風に動くことも可能なんだなァ・・・ってなる要素が薄いからである
クレーン射的とか実際に体験したら、きっとスカッとはするのだろうけど、自分が描きたいか?自分が3Dキャラ操って楽しいか?と言われたら別だ
強いて言えば、人がそれぞれの自然な姿勢で歩く様子を見るのも好きなので、その文脈なら骨格や筋肉、関節に興味が持てるが、それはバトルじゃないし、
スポーツをテーマにしたマンガ・小説・映画で好きな作品はひとつもないので、競歩をやろうって気も微塵もしない(日記・エッセイならいいだろうけど、長編を書こうの目的からは逸れる)
鳥山明以外では、ONE も好きだ。ONE も万人受けする大ヒット作家だ。ONE ならバトル描写そのもの以外がメインになっているが、ワンパンマンは村田雄介の超作画じゃないとマス受けはしなかったよなぁ・・・
というか、『マッシュル』の前に、ジャンプで『努力しすぎた世界最強の武闘家は、魔法世界を余裕で生き抜く。』という作品があって、ワンパンマンスタイルで描かれていたにも関わらず、ウケなかったもんなぁ・・・
なお個人的には『魔法世界を余裕で生き抜く』はとても気に入っている。イヤな奴、悪い奴がいっさい出てこないコメディで、めちゃくちゃ単純な話だからだ
主人公はサイタマと同じく何でもワンパンで倒せるチートフィジカルを持っているが、魔法に関しては絶望的に才能がない。それでも魔法が好きで、魔法使いを目指すという大変分かりやすいストーリーだ
結局、主人公はすごい魔法使いになることはできないが、ささやかな魔法は使えるようになる。主人公はそれにめちゃくちゃ喜んで満足し、今日よりも明日!少しずつでも能力を向上させよう!と前向きに努力を続けてマンガは終わる
(ただ、『魔法のスターマジカルエミ(1986年) 』でも、主人公の舞が魔法を捨て去り、自分自身の力で本当のマジシャンを目指すみたいなのが、マス受けしてる感じしないし、作画以外の要素もありそう)
『マッシュル』もワンパンスタイルの作品かつ、海外で大バズりしている。魔法世界でフィジカル全振り+すごい魔法使いになるっていうコンセプトは、『魔法世界を余裕で生き抜く』と共通している
ボーボボ を彷彿とさせるギャグシーン/良いヤツばかりの日常パート/差別や困難に立ち向かう前向きな姿勢/ボースティング、これらはワイも超好き
ただ、主人公のマッシュがワンパンで敵を倒すシーン・ギャグで圧倒するシーン以外のバトルは、個人的にはあんま面白いとは思えんのよな・・・・
週刊少年ジャンプの作家なので、一定のクオリティが保たれているから、見るのが苦痛とまではいかないけど、正直、マッシュ以外のバトルは別に無くてもよくね?みたいな・・・(まぁ、バトルなきゃこんなに売れなかっただろうけど・・・)
結局のところ、ワンパンやギャグじゃない正統派バトル漫画は、超画力の選ばれし者にしか描けないよなぁ・・・と改めて思うばかりよ
小説でも多分同じだわね。ワンパンやギャグではない、読んでて楽しい、映える正統派の戦闘描写なんて、気が遠のくわ・・・
とりあえず、ワンパンスタイルは頭の片隅に置きつつ、バトル/アクションの描写がメインではない自分の好きな作品について考えてみる
でも、やっぱ、マス受けしているヒット作の中で好きな作品はひとつもないんだよな・・・。まず、マス受けする恋愛ものが好きではないし、特定のフェチを推したいという情熱も無い
バトル/アクションがメインでなく、ウケそうな恋愛描写もメインでなく、フェチも特に無いという時点で、かなり対象者が絞られる
何かないかな?と思うが、何度考えても何もない。昔のハリウッド作品(2010年以前)なら、それなりに好きな作品があるけど、うぅ~ん・・・
なお、他人を楽しませようとして、マス向けヒット作を模倣しようとする理由は、対象者を絞った作品で作者の技術が極端に稚拙だと、最終的に読者との文通のような形になってしまうからだ
ワイがやりたいことは、稚拙・未熟ながらも、読者に何かを感じさせる"物語を書くこと"で、文通ではない。ついでに、日記や観察報告を誰に見せることでもない(趣味で長編ラノベを書きたいと言っていた増田もたぶん同じだと思われる)
ちなみに、鳥山明、ONE、昔のハリウッド作品以外で好きな作品は、モノクロ時代の日本映画や小津安二郎の作品、重苦しかったり淡々としているインディペンデント映画、アキ・カウリスマキ、ケン・ローチ、フィリップ・K・ディック、川端康成、遠藤周作、いがらしみきお(sink/かむろば村へ/Iなど)、海外のヤングアダルト作品や児童文学、名作劇場系(日本アニメーション制作系)のアニメあたりがぼんやりと好きだ。つまり、鳥山明、ONE、昔のハリウッド作品以外は、対象者が絞られる作品が好き
いわゆる巨匠/大御所/名作/お子様も観てOK以外では、トッド・ソロンズ、岡部閏、明智抄、奥瀬サキなど、やはり対象者が絞られる作家の作品が好き
ワイがこれらの作家の作品をそのままなぞったら誰かとの文通になりますわ・・・
ワンパンスタイル、昔のハリウッドスタイルで、ワイがなぞれそうなのないかなぁ・・・は、まぁ暇な時に考えつつ、
なんかヒット作でワイも好きなのないかなぁで思い出した、岡部閏の『グッド・ナイト・ワールド』、対象者が絞られまくっている作品だから、せっかくアニメ化したのになんかすげ〜無風だけど、脚本、パトレイバーの横手美智子なのよ。『ネトゲ・SFがギミックになってるサバイバーの再生物語り』で興味が持てそうな世界中の人に届いて欲しい
グッド・ナイト・ワールドの絵の作り方も印象に残ったけどね。プラネットやAIの幻想的で無機質な描写や、ピコちゃんのプラネットオフった後の日常パート描写よかったし、キャラのお目目の表現良かった
クソのクソの解説の演出も、中学生(の見た目だが実はそうではない)ってぽくて、とてもよかった
横道にそれたところでおわる・・・
昔読んだ漫画家のエッセイだと、教会で結婚式挙げるためには一時的にでも信者になる必要があるみたいな感じで週一くらいでお祈りしに行った。ってあったけどそんな事なかった?
ところでネット民のみなさん!あなたは超てんちゃんを知ってますか?
超絶最かわてんしちゃんです。かわいいですよ。ニーディーガールオーバードーズというにゃるらさんの作ったゲームです。
他にも、『蜘蛛』『超てんちゃん! 』『好き好き大好き?』とか!
『好き好き大好き?』はR.D.レインという方の本なんですが、その方の本好きです。『結ぼれ』とか。暇だったら読んでみてください。お金無かったら大丈夫です。
とにかく!私が言いたいのは超てんちゃんです。ニディガ、教育に悪いですがやってね。この年齢の私が言うことでもないし、おじさん達は教育に悪くても、なんも影響ないですよね。
やってる人とか居たら教えてください。やってみたって人いても教えてね。
✝︎昇天✝︎
小説と物語って違うんだよな、なんか混同しとる人たまにおるけど。
物語のない小説もある。私小説なんかは物語が薄いジャンル。エッセイは物語がない。
この場合の物語は、テーマとか、キャラクターとかの創作から生まれるアレコレのことだ。
幼い頃から、小説をいつか書きたいと強く願っていて、文章読本や小説講座的な本などを多数読み込んできたけれど、それらが小説に変わることはなかった。
好みの文体やストーリーパターンはわかってきたのだけれど、それらを何らかの社会、何らかの人間関係に落とし込んで書くことができなかったからだ。
つまり、社会の仕組みやわだかまりをどう描いていいかわからなかった、会話や気持ちの移り変わりをどう描いていいかわからなかったのだ。
文章読本などで、文章というガワの部分を学んだとしても、そこに盛り込むものがわからなかった。
ストーリーとして導きたい方向に、社会や人間関係を配置する方法がわからなかったのだ。
増田ではわりと、ブックマークをいただけたりする自分ではあるが、書く文章は常に一人称で、自分の思ったことをエッセイ的にまとめることしかできない。
これを、背景装置としての社会や人間と絡めて、ストーリーとしての段階を踏んで、人々を驚かせる素晴らしい結末につなげる小説として昇華させることができない。
それなりの人気を持つ雑文に仕上げるためのアイデアはたくさんあるのだ。それを、小説として具象化できないだけ。
いや、なんだろう、プログラム的に組み立てることができないといった気分。
そもそもが理系なので、プログラムもそれなりに組んだことがあるのだが、小説としての文章の組み方がわからない。
結末に向かう伏線を社会のどの部分に絡めて描写し、物語の展開をどのキャラクターの変容に仮託するか、みたいなものがよくわからない。
文体やレトリックのような基本文法はわかるのだが、社会や人間を相手にした「組み込み関数」みたいなものが何なのかが見えず、途方にくれてしまう感じだ。
というか、そもそもだが、こんなにダラダラ文章を書く私ではあるのだが、小説は一行たりとも書けたことがない。
だって、結論に至るアイデアが思いつけても、そこに向かう「これは書けるぞ!」というビジョンが見えないので。
この小説ならプログラム的に書けそう、ああなってこうなって結論に至りそう、みたいなものが、私の場合、小説に対して浮かんでこない。
そうそう、プログラムでもそうなんだが、もっと言うなら、数学の入試問題のように、とりあえず三角比を求めるとかベクトル計算するとか、
この「とりあえず○○を書いてみる。そのうち、ストーリーがつながってくる」みたいなのを知りたい。
とりあえず手を動かして、作り出す小説を何らかの方向に進める方法を、まずは身につけていけたらいい。
この文章だって思ったことをズラズラ書いているだけなのだ。ビジョンで書いてない。
って、あっ、それが小説を書く前のキャラクターシート、世界観作成シートみたいなものなのか。
あれも苦手なんだよな。好ましい感情を抱けるキャラクターを造形できないというか。
いや、自分以外のキャラクターが描けない。世界観も、今自分が感じるもの以外組み立てられないし。
結局のところ、私は自分のことしか書けない。自分のことならそれなりに書いて、それなりに注目される文章が書ける。
自分の考え方を、ある社会やある人間関係に落とし込んで、世の中にその素晴らしさを理解してほしいんだ。
「私の気持ち」じゃ他人に届かないんだ。客観性というか、作者でない「キャラクターの気持ち」として描写しないと、私ではない誰かに届くことは無いんだ。
だから、ここに書くような、一人称の雑文じゃダメなんだ。物語に仮託しなくちゃダメなんだ。
そういった点では、私は「物語」というものに、論文のようなものを感じているのかもしれない。
つまり、物語の人間関係や世界観という客観性のもとに、自分のアイデアに向かって組み立てた文章を、誰かに対して発露し、評価を得たいのだ。
いや、誰かに届けばいい。個人的なアイデアなり感情なりが、誰かに届けば、無意識的にでも届けば、それで十分なんだと思う。
…などと長々と書いてきて、結局は今回の文章も小説にはなりえなかったわけだけど、まあなんだか、そんな気持ちなのだ。