はてなキーワード: ウェルズとは
ケロロ軍曹を始めて見たのは小学4年生のときだった。HGウェルズの「宇宙戦争」を何度か読んで、宇宙人は地球人と相容れない存在であり、
そもそも宇宙人は地球には住めないのだと信じていたあのとき、宇宙人と人間が共同で生活を送っている描写で「なんだこれは」と思った。
でも、何話か見ていくとだんだん面白おかしく感じてきて、毎週見るようになった。友人の家に遊びに行って、ゲームキューブでスマブラを遊び
金曜日の夕方「『ケロロ軍曹』の時間だから見せてくれないなら帰る」と図々しく言っていたような、ないような……。
今でも印象に残っている回は、「ケロロ&冬樹 もうひとつの世界」。ケロロが皆の前から姿を消した世界と、ケロロの事を全く知らない冬樹の世界が
描かれる。ケロロの事を全く知らない冬樹は緑の宇宙人との遭遇を喜ぶが、ケロロが事の顛末を話すと「自分が呼んでしまったのかもしれない……」と
言うんだったかな。中学2年生の冬樹が「自分のせいでこんな事になってしまった」と言っている姿に、誰も見たことのない宇宙人を見つけた後で
自分にこんな事が言えるのかな、と考え込んだ。結局そこでどんな結論づけたかは思い出せないけど、面白さとシリアスさがある良い作品なんだと感じた。
「宇宙人」という存在には相当興味を持っていたので、当時は自分と冬樹を重ねてアニメを見ていた節があったし、中学2年生になったときは
「宇宙人が目の前に現れないかな」とずっと考えていた。正直今考えると変な奴だと思うけど、本当にそこまでハマってた。
だから、冬樹役の川上とも子さんの訃報で声が変わったときは、これはアニメなんだと気付かされて冬樹と自分を重ねることもなくなり、
「『宇宙人』が目の前に現れないかな…」とは考えなくなった。確か、その辺りでケロロ軍曹がパロディアニメだというのを知って、元ネタとなった
機動戦士ガンダム(初代)や新世紀エヴァンゲリオンを見るようになり、どんどんSFというジャンルが好きになって、ケロロ軍曹からは離れていった。
今は働きながら暇な時間を見つけてSF小説を読んだり、海外のSFドラマを見たりするけど、結局自分がSFというジャンルに入るきっかけを与えてくれたのは
ケロロ軍曹だし、ケロロ軍曹というアニメを見たからSFが好きになり、それで今幸せなので、ケロロに感謝してる。
あとは、ケロロ軍曹の制作現場?にケロロ小隊の顔を付けて流していたエンディングが好きでした。
アニメを見る人、アニメを作る人がいて、出来ている作品なんだな、と。
五島勉の最新作「H.G.ウェルズの予言された未来の記録」を読んだ。
「あのウェルズが予言をしていた」って内容で、それはそれでいいのだが・・・。
これを、その時代(日中衝突の時代)には、「日本にアーモンドが咲いている」=「世界の富や文化が日本発で」という解釈はいかがなものか。
「アーモンドの詩」は、「もうそれを私は見れないのだろうか?」につながっているので、「アーモンドの花が見れなくなる」っていう予言なのでは?
「アーモンドの花が見られなくなる」←「ミツバチが姿を消す」→「アインシュタインの予言(ミツバチの絶滅後4年で人類絶滅)」と言う風に、当然つながってくると思うんだけど、もう、五島勉にはそういうひらめきはないらしい。
「アーモンドの詩」を見直すと、「アーモンドの花、美しい富士山、かわいいものに満ちた宝島、それらはもう見られない(=滅びる)」と読めるので、「ミツバチの絶滅」、「富士山噴火」が予言されているのが明らかだと思うんだけど。
hatena内でオススメのSFをリストアップするのが流行だ。
ホコリの被った旧作(「古典」ではない)ばかり挙げられていて本当に辟易する。
SFはアイデアの新奇性、センス・オブ・ワンダーが重要なのであって、
今さらヴェルヌやウェルズを読んだところで、価値はない(ギブスンやディックも同様)。
そしてこういう「オススメSF」の話題になると必ず出てくるので『夏への扉』を薦めてくるやつだ。
はっきり言えるが『夏への扉』を薦めるやつは見る目がなく、センスに欠けていて、信用できないってことだ。
『夏への扉』は読まなくて結構。今からその理由を端的に3つ述べる。
『夏への扉』は猫好きなら読んでおくべき、みたいな薦め方もされる。
読んでみて驚いたのだが、これはまったくもって猫小説ではない。
では、猫は何なのかというと、主人公が猫を飼っていて、たまに触れられる程度。
一緒に行動するし、『夏への扉』というタイトルは猫の行動から来ているが、
猫が作品のテーマだったり、猫の行動が何かストーリーに影響を与えるわけでもない。
ただの添え物であり、これを「猫小説」だと思ってしまうやつは、どうかしている。
最近、『世界から猫が消えたなら』という小説が20万部?かそのぐらい売れていたが、
これもとんでもない愚作で、主人公が消失物について浅い思弁を展開するだけの小説とはいえない代物だった。
どうやら世の中には猫が出ていればほかはどうでもいい連中がいるようだ。
猫好きは『綿の国星』でも読みなさい。こっちは掛け値なしの名作です。
その理由を正すために過去へと舞い戻ることになる。
主人公が未来にきたのは「冷凍睡眠」によってなので、過去に戻ることはできない。
じゃあ、どうやって戻るのか・・・というのが肝になるはずだが、『夏への扉』は驚くべき処理をする。
たまたま未来世界で知り合った男が、たまたま時間旅行を研究しているマッドサイエンティストと知り合いなのだ!
そして、マッドサイエンティストを紹介してもらって過去に戻る・・・なんじゃそりゃ?
ほかのも「たまたま」で処理される部分はいくつかある。たまたま通りがかったとか、たまたま見逃した・・・とか。
それに未来に過去へと行ったり来たりするが、そこでタイムトラベルらしい伏線を張ったり、解消したりということはない。
例えば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』なら、「過去でのあの行動が未来にこう生きてくるのか!」という驚きがあるが、
『夏への扉』では一切そういうのはない。時間移動というより、単なる舞台移動にしかすぎないのだ。
『夏への扉』はタイムトラベルものとしても優れていない。プロットが杜撰な復讐ものなのだ。
『夏への扉』において、それは一緒に会社を興した男の義理の娘だ。
このヒロインは幼い頃に主人公になついていて、未来世界で主人公と結ばれる。
仲のいい少女がずっと思っていてくれて、未来で結ばれる、というロリコンの白昼夢のような展開だ。
しかし、それでも合理的な説明がなされていてれば文句はない。
ヒロインがなぜ主人公になついているのか、なぜずっと主人公を思っていてくれてるのか(何十年も!)、その説明がなされればいい。
だが、驚くことにそこら辺の理由が一切説明されない。
ヒロインは理由なく主人公になついていて、理由なくずっと待っていてくれるのだ。
これをご都合主義と呼ばずしてなんと呼ぶ。私は読み終わって背筋が凍った。
こんな展開を「感動のラブストーリー」だと思っているやつもいるようで、SFファンはどうりでモテないはずだと合点がいった。
オールタイムベストの類では上位には入ってこないという。
『夏への扉』が人気なのは日本特有のことなのだ。それを知ってはは~んと納得がいった。
中身はないが、何だか心地よい。日本にはそういうものに騙されるやつが多い。
なんていったって『負けないで』みたいな中身空っぽな歌がミリオンになる国だもんな!
『負けないで』に励まされるやつってどんだけ寂しい人生を送っているんだろう。可哀想だ。
うん、おれも仕事がつらいときにたまたまラジオから流れてきて、泣きそうになっちゃったけどな。
お前ら、他人の評価に惑わされるんじゃねえぞ。お前にとって何が面白いのか、知っているのはお前だけだ。
参考記事
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20130511/1368241656
■読んでいてもたいして良いことはないSF名作私選十作
http://d.hatena.ne.jp/Lobotomy/20130511/p1
■お前らわざわざ無理してSFなんて読もうとするんじゃねえよという6冊
http://banraidou3rd.hatenablog.com/entry/2013/05/12/021854
■全部読んでるとコイツヤバイ(!)ってレベルのSF小説家 6選
http://d.hatena.ne.jp/kwsktr/20130512/1368303146
http://d.hatena.ne.jp/pub99/20130511/p1
http://d.hatena.ne.jp/NOV1975/20130511/p1
http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2013/05/11/165646
ほとんどの場合、大学院を持たず、教授は学部学生の教育に専念する。
著名なリベラル・アーツ・カレッジ出身者
宋美齢 (中華民国の指導者、蒋介石の妻) (ウェルズリー大学)
ジェームズ・ガーフィールド(第20代アメリカ合衆国大統領) (ウィリアムズ大学)
カルビン・クーリッジ(第30代アメリカ合衆国大統領) (アマースト大学)
ゴー・チョク・トン(シンガポール第2代首相) (ウィリアムズ大学)
スティーヴン・ソンドハイム(作曲・作詞家) (ウィリアムズ大学)
ウイリアム・スミス・クラーク(札幌農学校初代教頭・"Boys be ambitious!") (アマースト大学)
マイケル・ヘイデン・アマコスト(アメリカの元駐日大使) (カールトン・カレッジ)
ジェフ・バーグランド (帝塚山学院大学教授) (カールトン・カレッジ)
ウォルター・モンデール (アメリカの元駐日大使) (マカレスター大学)
ヒラリー・クリントン(元上院議員・国務長官) (ウェルズリー大学)
マデレーン・オルブライト(アメリカ初の女性国務長官) (ウェルズリー大学)
コフィ・アナン (元国際連合事務総長) (マカレスター大学)
バラク・オバマ (第44代アメリカ合衆国大統領) (オクシデンタル・カレッジに最初の2年間。その後コロンビア大学に転学)
http://umiurimasu.exblog.jp/12210453
この記事のブクマ(http://b.hatena.ne.jp/entry/umiurimasu.exblog.jp/12210453/)が300を超えたので、逆張りというか、疑問に思った2点、『アメリカ人は本当にタコが嫌いなのか?』『「怖い」という感情に「一神教」と「多神教」は関係あるのか?』ということについて、考えてみる。
ブログ主のumiurimasuさんに対する反論というよりかは、ブックマークコメントの傾向に対する反論である。
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>>ちなみに、魚介類を食べるのがあたりまえな島国文化圏の人からすると、アメリカ人のタコ嫌いというのは、それこそ冒涜的なまでに理解を絶する感覚ですね。
イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、韓国……などの国々は島国ではなく半島国だが、タコを食べる。中国でも食べる。
また、アメリカには昔からイタリア系、スペイン系、ギリシャ系、中国系の移民は多かったし、ポルトガル系や韓国系も少なからずいた。彼らはアメリカでも昔からタコを食べる。
しかも、いまでは寿司や日本料理、イタリア料理やスペイン料理、ギリシャ料理や中国料理はすっかりアメリカ全土に定着した。だから、イギリス系やアフリカ系のアメリカ人でもタコを食べる人は多い。
なので、これは「アメリカ人のタコ嫌い」ではなく「ラヴクラフトのタコ嫌い」にするべきではないか。
「昔のWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)のタコ嫌い」にしてもいいような気もするが、やはり、「食べない」からって「嫌い」には直結しない。
タコが全面的に禁忌(「食べてはいけない」)とされているのはユダヤ教であり、キリスト教では一部の宗派のみ。
そもそも、「アメリカ人(あるいは、欧米人)はタコを悪魔の使いとして忌み嫌っている(忌み嫌ってきた)」という説は日本に広く流布されているが、本当なのだろうか。
この説の傍証は、タコは英語で「devil fish」と言われること、および、「クトゥルフ神話」や「宇宙戦争」などでタコが人間に敵対する悪役として描かれているから、ということである。
まず、「devil fish」であるが、現代のアメリカでタコを示す言葉のうち、一般的に使用されるものは「octopus」である。
「devil fish」でgoogleの画像検索をすると、真っ先に表示されるのはエイの画像で、タコが出てくるのは10番目以降である。
さらに、「devil fish」だからといって「タコ=悪魔」だと思っているとは限らない。
すくなくとも、エンゼルフィッシュを天使だと思っている人はいないだろう。
クトゥルーにタコが出てくるのはラヴクラフトが(個人的に)タコが嫌いだったから。
「宇宙戦争」の火星人がタコなのは、原作者のウェルズがタコを怖がっているからではなく、「火星は重力が少ないから頭が大きくなって手足が退化して、タコになる!」という疑似科学的な理論のため。
「インデペンデンス・デイ」などの宇宙人映画でも宇宙人はタコとして描かれていることがあるが、それは「宇宙戦争」(と、もしかしたら「クトゥルー神話」)へのオマージュのためではないか。
というわけで、「アメリカ人のタコ嫌い」という言葉は、「伝統的なアメリカ人」と「最近のアメリカ人」、「主流派(WASP)のアメリカ人」と「少数派のアメリカ人」のタコに対する態度の違いなどを考えたうえで使うべきであると思う。
アメリカ人が日本人に対して間違ったイメージ(「忍者、ゲイシャ」「エコノミックアニマル」「イエローモンキー」)を抱いていることが多いが、それと同様に、日本人がアメリカ人に対して抱いているイメージも、その多くは間違っている可能性がある。
さらに、「アメリカ人」という言葉が文化論において使われるときは、WASPを指すことが多く、黒人や黄色人種、アフリカ系アメリカ人や先住アメリカ人、カソリックのヨーロッパ系アメリカ人などを無視する場合が多い。
たしかに、一面では、アメリカの主流文化はWASPの文化であるが、マイノリティの文化の一部が主流になることも多いし、WASPの文化とマイノリティの文化が影響しあってできた新しい文化が主流になることもある。
だから、「アメリカ人」という言葉をつかうときは、その言葉はいったい何を指し示しているのか、自覚的になるべきである。
このような問題(主流文化とは何なのか?「〜人」は何なのか?)は、移民国家である「アメリカ」を論ずるときには特に注意されるべきだと思うが、日本やイタリア、中国やブラジルや南アフリカ共和国など、どこの国を論ずるときでも、注意したほうがいいことである。
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ブログの記事内では、『ともあれ、そうした文化的理由でクトゥルー神話を本来あるべきように怖く感じられないのだとしたら、やはりちょっと残念です。アメリカ人はほんとうに、日本人よりも怖さを感じているのだろうか。それとも「いや別に、全然怖くねーよ」という感覚なのか。アメリカ人に直接聞いてみないことにはどうにも。』や『こういった反応、恐怖の感じ方がひどく違うことについて、どこまでが個人の感性でどこまでが文化の差異によるものか、きちんと切り分けができたら面白かろうなあ、と思いながら読んでいます。』と書かれていて、慎重な姿勢が保たれている。
しかし、ブックマークコメントでは、「キリスト教文化圏では、何を考えるにも常にキリスト教の神を超越者・絶対的存在としていちばん上に置くというものの見方が根底にある」や「日本人の場合、神も仏も混ぜこぜに、かつあいまいに信じていて、絶対的な何かを世界観のよりどころにしていないからでしょうか」という文章ばかり注目されている。
そもそも、欧米の文化や芸術作品・物語が紹介されるときには、「キリスト教的」「一神教世界観」などのマジックワードを持ち出し、日本の「多神教的世界観」と対比させて論ずることが多い(そして、往々にして、「多神教的世界観」の方が寛容で複雑で高度なもの、と優劣をつける場合が多い)。
しかし、例えば日本の文化や芸術作品・物語についても、「神道的」「仏教的」「多神教的世界観」だけでは論ずることはできないだろう。
文化や芸術作品の成立には、もちろん宗教や世界観も大きく関わるが、それだけではなく、自然環境・経済的環境・歴史・政治・偶然など、様々な要素が関わっているはずである。
また、フィクションに対して「怖がる」という反応は、宗教よりも時代と個人的な経験に左右されるものである。
ホラー小説の「人を怖がらせる」技術は年月を重ねるにつれて蓄積されるものであり、現代のホラー小説は過去のホラー小説より「怖い」、ということは一般論として言える。
スティーヴン・キングの作品は、ラヴクラフトの作品と同じくアメリカ人の作家によって書かれた、キリスト教的世界観の影響の強い作品であるが、日本の読者でもスティーヴン・キングの作品を「怖い」と思う人は多い。
「雨月物語」は過去の日本人作家によって書かれた作品であるが、そこに収録されている「吉備津の釜」は江戸時代の日本人が読んでも「怖い」と感じたであろうし、現代の日本人が読んでも「怖い」と感じる人は多い。
しかし、現代の日本人である鈴木光司によって書かれた「リング」は、おそらく「雨月物語」よりも多くの日本人読者を怖がらせると思う。
だが、スティーヴン・キングの「シャイニング」や「クジョー」と鈴木光司の「リング」のどれが一番「怖い」か、ということは、現代の日本人でも読者によってそれぞれ違う。
さらに、「リング」はアメリカ人が読んでも「怖い」という評価を得ている。
ここにラヴクラフトを代入すれば、ラヴクラフトが「雨月物語」よりも怖いと思う日本人もいれば、「リング」がラヴクラフトよりも怖いと思うアメリカ人もいるだろう。
彼らの「怖い」という感情には、多少は「一神教的世界観」「多神教的世界観」が関与しているかもしれないが、それよりも個人的な趣味や感性(「ホラーに慣れているかどうか、じわじわとくる恐怖に弱いかびっくりさせるような恐怖に弱いか」「日常的な恐怖に弱いか、非日常的な恐怖に弱いか」などなど)の方が強く関与しているだろう。
つまり、ホラー小説の話題で、「キリスト教の世界観」「多神教の世界観」にばかり注目するのは、適切ではない。
また、ホラー小説の話題に限らず、欧米の文化や芸術作品・物語について考えるときに、「キリスト教」「一神教的世界観」に還元させるのは適切ではない。キリスト教の影響はあるかもしれないないかもしれない。あったとしても、強いかもしれないし、弱いかもしれない。
「一神教的世界観」というマジックワードで説明されることで、安易に「理解した」と思いこむのではなく、宗教や世界観以外の、他の側面からも考えることが必要である。
生活維持省は価値観の転換が主眼に置かれてるけど、イキガミは、試し読みしたかぎりでは、余命宣告をされた人間が残りの時間をどう生きるかを描いた作品っぽい。
星さんはエッセイで『いまタイムマシンものが書けるのは、ウェルズの「タイムマシン」の二番煎じをした人がいたおかげだ』(出典は覚えてない)とか
『フィクションには発想の新鮮な意外さが要求されるが、さらに重要なのはストーリーのまとめ方。うまくストーリーが組みあわさると、強烈な現実感のある、なまなましい余韻を持った作品ができることがある。たとえばジェイコブスの「猿の手」など、三つの願いというアイデアはありふれているが、そこからの展開と結末はまったく異色。』という主旨(『きまぐれ暦』の『SFと寓話』から)のことを述べてたから、もし設定を借りていたとしても十分な独創性があれば焼き直しにはあたらない、と言っていいんじゃないかな。俺は生活維持省のほうが好きだけど。
そもそも、問題になっている「全体の利益のために誰かを殺す制度」が、星さん独自の発想なのかも微妙。『生活維持省』の数年前に海外のSFで既出とかいう話もあるみたいだ。国内にも類似した設定の作品は多い。
こいつまったく勉強する気がないな、と。
「こいつまったく勉強する気がないな、と本を読まない人間を軽蔑」する理由は明らかに自己肯定だよね.
人生一生勉強だけど, 勉強や学問したくない人もいるし, ニコ動から勉強できるすごい人もいるらしいし.
まあ学術系の知識や智慧はつかんだろうが
いわく、「そんな本読んでなんの役に立つの?」
月20-30冊ってレビュー書くわけでもないんだから多少趣味が入ってるよね?
確かに読んでも役に立たない本も多い。そんなにバリバリ読む必要はないのではないかと思う。
いわく、「勉強してる気分になりたいだけなんじゃないの?」
趣味なら別に構わんだろうね.
読みたいから読んでいるんだが、なぜ読んでいるかと聞かれると、読んでないことが不安だから、勉強し続けてないと不安だから、というのもあるように思う。
いわく、「実体験から積み上げたものじゃないと信用できないよ」
「科学は実体験によらないけど信用できるよ」
本を読みすぎること自体、自分で考えることを放棄しているんじゃないかと自問することもしばしばだし。
確かに読むことに時間を取られると 考える時間が減るけど放棄とまでは言えないな.
まある程度考える時間を取るべきではあるが:
でも、俺より稼いでる。(1個上なんだけど、月収で5万は違う)
で、俺、読んだ本を読書録的にブログにまとめてるんだけど、それをどうやら見られたらしくて。
それで、増田で書いたようなことを言われたんだ。
「人のことなのに恥ずかしいとはどういうことか」「職場での居眠りが給料につながる理由を教えてくれ」「過去ログです」
もしくはコンプリートw
そう思ったら「○○さんも本の一冊も読んでから反論してくださいよ、エロゲばっかやってないで」って言っちゃった。
「○○さんも 実体験から積み上がったものじゃない脚本のエロゲで、恋愛やセックスした気になって、そんなにエロゲやって何の役に立つの?」
とでも言えばおk
所詮趣味だ