はてなキーワード: ゆきゆきて神軍とは
シンゴジラとか邦画論争と関係なくてすまんが、逆張りではなく、「野火」は面白くなかった
良くなかった点のまとめ
・映像
NHKの再現ドラマっぽいハイビジョン感というか、RGBなギラギラな緑(自然)にギラギラな青(空)
そこにわざとらしく墨を塗られたようなボロい日本兵がくっきり映る
それはそれでいいとして、時間の経過を表すために挟まれる、内容とまったく関係無い「移り変わる雲」「夕陽の海」とか、ダサい上にダルい
映像のオーバーラップの手法とか、あえてやっているとしても何の効果も感じない
内臓飛び出たり四肢が舞う感じの殺戮シーンも、特に印象に残るほどではない
・演技
これといって迫力あるシーンがない
(わりと重要な役である)若い役者の下手くそさは再現ドラマ感を際立たせ、
普通だった
予想通りの話(別に急展開を望むような題材ではないが)
ただ、上記の映像と演技がベースで話も普通だとすると、どこを見ろということである
一部ファンに神格化されてるサブカル映画ってイメージだったので、全然期待せず見たのが逆に良かったのかもしれない
内容としては「野火」の後日談的なドキュメンタリーとも言えるわけだが、
戦争でのやましいことを忘れて生きようとするおじいちゃん達と、それを許さぬ奥崎さんとの取っ組み合いの喧嘩とか、
こっちのほうがちゃんと地獄を感じる
【旅の恥はかき捨て】ということじゃないのかな。
あるいは精進落としと同じ理屈で、マツリ的な非日常から日常へ戻るときに、マツリの時空間で通用していた別の論理を遮断しようとする。
きちんと調査したわけじゃないからやっぱり憶測なんだけど、戦地での戦争体験を決して語りたがらない人たちの心的な傾向というのは、戦地での論理を現在の日常に接続することにって日常の論理が混乱するからなんじゃないかという気がしている。
だからしかたがなかったんだ、という幕をひきたがる。
「ゆきゆきて神軍」のなかで奥崎健三がなぜあんなにも吼えていたのか。彼の関心は戦地での振舞いをすっとぼけていられる我々のメンタリティそのものだったように思う。彼の要求のエキセントリックさは、暴力的である一面だけではなく、やっぱり私たちのメンタリティにドスを突き刺すようなところがあるからなんじゃないかというふうに思う。
他方、戦地での振舞いと日常をアイデンティティとして連続的にとらえる傾向が強ければ強いほど、自分自身の自律性が問われ続ける。
恐らく、日本では、個の自律性が相対的に弱かったからこそ、戦後すぐに頭を切り替えていち早く日本の復興を進めていくことが可能だったんじゃないかな。