はてなキーワード: もう一歩とは
「漫画家はフリーランスのアーティスト業の収益構造を維持するために中小企業経営のような自転車操業を続ける必要がある二重構造である」という話をしたら(https://anond.hatelabo.jp/20240515193304)、それを読解することの出来ない馬鹿が、フリーランスのアーティスト業なら何にでも当てはまることを漫画家特有の事情かのように偉そうに講義してくる(https://anond.hatelabo.jp/20240515194535)という目に遭った。
これがほんと、無知の知がないってことだよなあと思う。
馬鹿が何故馬鹿なのかって言うと、自分が知らないこと、理解してないことが何かを理解することも出来ないから、自分の視点が足りてないことが、何故か相手よりものがよく見えてる証拠になると本気で思ってるんだよな。
まあただ、こんな抽象的なことを言うだけでは「自分を客観的に見れないことはみんな同じだから誰も馬鹿かわからないことになる」とかって屁理屈が言い訳に使われるので、もう一歩踏み込んだ話をしよう。
これを高精度で見分ける方法は普通にあって、それはこういう風に「他人へのリアクションでしか言いたいことを言えない」奴は大抵馬鹿ってこと。
本当に他人より上の目線でものを考えてる奴なら、それを語るのには一次発信をする必要が出てくる。
その必要を覚えず、他人へのリアクション、コメント、ブコメ、トラバ、SNSのリプライばかりして賢ぶってる奴は、ほぼ間違いなく100%自分を賢いと思い込んでる馬鹿。
反論されないところから相手の揚げ足を取ることばっかりやってて、本当に批判的思考力がつくことなんてないのよ。だって、批判的思考力って、自分の気づいてないことを気づこうとする努力とか、それで磨かれたセンスのことなんだから。
でもそれを、逆に考えてしまうのが真の馬鹿なんだよね。批判されないところから他人の揚げ足ばっかりとってるのが、成功体験だから賢くて偉い証拠だと本気で思い込んじゃう。
もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事の書類ばかりとなった昨今。
でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。
書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。
生まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖の詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。
頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初の感想だった。普通に文章だったからだ。
調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで
「韻」という言葉もその時初めて知った。
井上靖の詩集を手に取ったのは、国語の教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。
というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初の詩集だった。
小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。
季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなものが短歌や俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。
特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平の短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉のニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。
幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。
自分の世界の表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。
例えば、雪という詩がある。
雪
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
みつけた詩だ。雪が降って来ると、
私はいつもこの詩のことを思い出す。
中学生の私は、なるほどと思った。
詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉のなかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。
鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。
当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。
いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。
ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。
山頭火は面白い。普通の俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。
定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌のエントリーポイントとなって、
しかし俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。
いつしか手にしていたのは、興津要の解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。
剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代の言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。
その後は巴毎晩組み敷かれ
木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代の川柳で妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい。
一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。
俵万智のサラダ記念日がベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。
例えば、こんな一首。
あさま山荘事件を起こした連合赤軍の幹部、坂口弘が収監中の東京拘置所から毎週のように短歌を朝日歌壇に投稿していた頃だ。
朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌の表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。
風花って知っていますか
渡辺松男と太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇をリアルにみていた人にしかわからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱が発酵すると詠んだりする太田美和。
実生活で恋をしていた私は太田美和の言葉に自分を重ね合わせた。
でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。
大学を卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。
生活が一変した。
書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。
世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。
山頭火も武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接と資格だ!という日々。
就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。
たまに思い出しては、現代短歌の最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。
若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。
それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。
そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。
思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分が死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。
中年になっていいかげん自分の限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖の感覚がとてもよくわかるようになった。
これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。
詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。
どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。
鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯な子供の姿を思い浮かべる、という
文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワインと食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。
ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種やビンテージ、気候土壌などさまざまな情報がある。
しかしワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのときの話題、体調などに大きく左右される。
水だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。
マリアージュという言葉があるように、ワインは一種の調味料として機能するため、食べ合わせは重要だ。
ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見のワインでしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。
逆に偽の情報を表現豊かに補完してしまえば、コンビニで販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。
ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的な規律として表現することはできない。
詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。
井上靖が「小学校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき、井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。
その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。
どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときのメンタル、いわば偶然の力だと思う。
渡辺松男と太田美和が並んで歌壇に掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。
失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会。
そのときに自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。
ところで、先日、Yahooの芸能ニュースをみていたら、TBSのプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人が俳句の先生から5点と酷評されたと報じていた。
消しゴムが 白き水面に ボウフラを
というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味を説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。
ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人の俳句が酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組の演出・脚本としてはそれがオチなのだろう。
演出もさることながら、これは、他の出演者の俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。
虹の下 クレヨンの箱 踊り出す
天王山 黒ずむ袖に 薄暑光
薫風や 隣の君と 教科書を
こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。
バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージで作品のクオリティが補完されてしまうのだ。
しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校の児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。
消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月の番組で文房具だからまだ気持ちはフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。
ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。
それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。
いいかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。
一方で白い水面(ノートの隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。
ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。
と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ。
ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。
また、どんくさいもの、弱者がボウフラというノート上のより小さい存在に視線をフォーカスする、という手法は小林一茶の方法とも通じるところがある。
番組の評者は、この芸人の俳句を酷評したうえ、次のような添削をしたという。
夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。
しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組だからね。
ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界は一種のルッキズムだ。夏休みとかいって勝手におめかしさせようとするんじゃねーよ。
そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつの動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語や川柳で身につけたものだろうから、ゆりやんの一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。
核家族化して親戚活動が少なくなったことで、身近に結婚している若い夫婦がいないというケースの一方で、ネットのステレオタイプにまみれた不幸な結婚論ばかりが溢れている。
そのため「食わず嫌い」みたいなことが起きている
そこで、ごくありふれた結婚している若い夫婦の例を紹介したり、話を聞いたり、家族の短い旅行に同行したり、家に遊びに行ったり、と言う付き合いを通して、結婚というものを身近に感じてもらうと言うプログラムがある。
これは結構有効らしく、受講した人は結構早い段階で結婚して子供を作っているそうな。
ズバリ恋愛学としていて、ガチで単位がもらえるところから、コミュニケーション学として軽いスクールとしているところまで様々だが、きちんと順序立てて恋愛とはなにか、家族とは何か、結婚とは何かを教えると言う活動をやっている大学がある。
中にはもう一歩踏み込んで、共同の合コンみたいな合宿を用意しているところもあるとか。
社会問題として捉えて、高校生までだとなかなか教えづらい部分(生殖に適した年齢の話など)もタブーに切り込みやすい大学の良さをいかしてやっているらしい。
①前の2人組(日本語分からなそうな外人)が何を発券するでも無く、ちょっとのゴタゴタの末案内されて行った
②入口横に何かの発券タブレットは見えたが、「テイクアウトが云々」って文字が真上に見えたのと明らかに入店を察知した店員2名(どちらも忙しそう)が何も言わなかったので、入口横に避けてただ待つ
③後から来た人が入口で戸惑ってたら「発券してお待ちください」って言われて自分より先に発券
④しょうがねえなと思いつつ発券したけど待ってる間にイライラが募って行ったので退店
で滅茶苦茶イライラしててあと一歩で店員にキレかかる所だったんだけど、今別の店でモーニング食べながら考えると②でどうすりゃ良いか聞けば良かっただけで、自分の予想と違ったからってキレそうになるのもう一歩でクレーマーだなと思い認知が下がる将来が怖い
わかる。みてればわかるだろ。
でもそれは一観客としての自分だ。
国が同じでも格ゲーとか。ちょいちょい挑発しぐさを入れるのはそれでゲージためてるとか、やってみないとわからないことがものごとにはたくさんある。
それを事前に知りたい人もいるわけだ。
もう一歩ふみこむと、観客としては見るともなくみて流すシーン、
つくるとなるとどうやればこんな表現ができるんだろう、すんなり入ってくるようにするには?となやんだりする
だから言語化してくれるというのはけっこうありがたいものなのである
ただ「不穏なシーン」といえば済むことなのに「死ぬ!ほら死ぬ!」と騒ぐのは
こどもっぽいというかうざいので実際のところあまり見ないけど。
悪いけど、ちょっとオエッてなる。
大きい方がよいみたいな意図が見えて、嫌になる
大切なキャラなら、デカい胸を押し付けずに平均的なカップ数の胸にするべきだろうに
まあ楽しいんだろうね
本当にやめてほしいって思うけど、この傾向は変わらないだろうなぁ
漫画雑誌でもさ、グラビアの女性は胸を強調するし、あれもやめてほしい
そうじゃなくて、胸をアピールするのはなんかもう古くない?
そんなに胸が好きか?という話だよ
俺は漫画が読みたいのに、表紙がグラビアだからどうしても目に入ってしまう
話は好きでも胸がデカくて辛くなる
たとえばさ、僕ヤバとか
もっと小さくしてほしい…
あんな色気いらないんよ…
でも作者さんは好きでやってるんだし、仕方ないんだろうけどさ
個人的にはあの胸の大きさが雑音になってる
でも大きい方が読者も喜ぶし、Win-Winなんだろうなぁ
あー胸が大きいのが良い世の中なんて、生きにくい世の中だ
(追記)
寝る前に勢いで書いた増田がホッテントリ入りしててびっくりした。
一つ釈明させてもらうと、僕ヤバは初期は胸大きくなかったんだよ
https://mangacross.jp/comics/yabai/1
それがいつの間にか大きくなってて、こんなキャラだったかな?と感じるようになってしまった
やっぱり胸が大きい方が人気が出るのかな、商業誌だから仕方ないのかな、なんて思ってた
僕ヤバは大好きな作品なんだけど、そこがちょっと引っかかってしまってる
とにかく言いたかったのは、胸が大きい方が人気が出るみたいな傾向がある気がして、
自分のような大きいと引いてしまう層もいるってことが書きたかったんだ
その方が話にも集中できるしさ
ごめんなさい。筆者男です。嘘ではありません。
女と思った方は間違っています。
証明することはできませんが、男子トイレに「もう一歩前へ」みたいな張り紙があることを知っています。
(また追記)
俺は女だったのか・・・
匿名の相手の性別を間違えることは、誰にでも間違いはあるので仕方ないです。
でも、匿名とはいえ、他人をきちが◯とか犯罪者呼ばわりするのは流石に一線超えてませんか?
考え直してください。
続き
NTRジャンルはAV界でも盛んだが、これをもう一歩踏み込んで実践的にやろうという試み。
まず、特定の推しを定め、その女優さんとアダルトVRで徹底的に親しくなる。
動画だから先方は親しくなってくれない。だが、同じ女優さんのVR動画を繰り返し見ているうちに、自分のほうには特別な愛着が芽生えてくるだろう。
なのでVR作品はなるべく彼氏彼女という立ち位置がはっきりしたイチャラブ系がよい。ほかにも妹系とかオナサポ系とか、心理的親密度が高い作品ほど望ましい。逆に、風俗系ナンパ系や家出少女、ハーレムものなど心理的紐帯の弱いものは向かない。
(2D作品でもできなくはないだろうが、アダルトVRは立体的な主観映像なので、特定の女優に対する愛着を育む力が2D作品よりはるかに強い)
実際にVR動画を見ながら会話を交わすのも効果的だ。「○○ちゃん、また会えたね」とか、問いかけに返事をしたりとか。
これを真剣にやっていると、そのうち推しがAV女優・セックスワーカーという記号を脱ぎ捨て、自分の中でひとりの女性になる。そうなると、推しが服を脱ぐだけでめちゃめちゃ興奮するようになる。
さて、キスをしようと迫って来られたら狼狽するくらいまでに感情移入が仕上がったら、推しの2D作品を鑑賞しよう。