はてなキーワード: まりなとは
↑自己トラックバックである。2chみたいにトリップがつけられたらいいんだが。
私の客を見下した態度がお気に召さない面々もいらっしゃるようだが、あのような書き方であるから当然だとは思う。
実際のところ、勤務中の私は親切極まりない接客である。少し離れたところではあるが、高速バスのターミナルもあり、遠方へ帰る人も多い。手隙の時は、実際に連れていくことがある。私は世間で言うところの「鉄ちゃん」でもあるので、駅員でしかわからにような乗り継ぎにすら答えることもある。中には誰も知らないような雑居ビルの名前だけ聞いてくる人もいるが、そういう場合は「申し訳ありませんが、私どもは存じませんので、あちらにインフォメーションセンターがございます。あちらにお問い合わせください」という案内もする。
私が「愚か」だと思っているのは、あくまで私人としてである。当然そういった人たちも「潜在顧客」であることは承知しているし、困っているんだから助けになろうという考えも持ち合わせている。ただ、そういう人たちを公私を切り離して客観視したときに、それは愚かなことだと思うのだ。
「愚か」なことが表現として適切でないのなら「もったいない」とでも言えばいいだろうか。仮に私に答えることができなくて、その後駅員に尋ねたら目的地への行き方が得られたのだとしたら、少なくとも私と会話していた時間分はその人のロスである。((もうこの際私の時間が奪われたことはどうでもいい))さらに、私のところで尋ねてからインフォメーションセンターへ行くことが遠回りになってしまったのだったら、それは体力のロスでもある。落ち着いて辺りを見回していれば、あるいは余裕を持って下調べが出来ていれば、((その時にこそ、チャイの一杯でも飲めばいいのだ))無論それらができなかった不可抗力といったこともあろう。それらを考慮に入れた上で、すぐ人に頼ろう、という行動が私には浅はかに見えるのだ。
anond:20070126054602が引用した部分に「独立の気力なき者は国を思ふこと??ならず/学問ノススメ(諭吉)」
とあるが、私はちょっとした衝撃を受けた。私がモヤモヤと思い抱いていたことの片鱗を言い当てられたような気がする。
識字率の話を少し思い出した。たしか高校の英語の教材だったと思う。日本ではみんな字が読めるのは当たり前だが、諸外国では必ずしもそうではない、というような出だしで、黒人のおじいさんが、80歳だか90歳だかで字を覚えたのだという。
それはそれでハートウォーミーなお話だったが、その出だしの日本が誇る識字率というのは、今や誇れるものではない。いくらマンガの吹き出しや女性誌のゴシップが読めても((しかし私はマンガやゴシップは大好きである))案内板や地図は読めないのである。まあ、読もうとしてないんだろうが、これはここ数年で作られた言葉メディアリテラシーっていう単語の一番卑近なところじゃないか。案内板だって地図だってメディアだよ。テレビや新聞やインターネットだけがメディアじゃない。この延長上に納豆に振り回される事件もあると思うんだが。
識字が成熟したのなら、次はメディアの識字だと思うのはこれは我ながら浅薄だとは思うが、これを別に教育機関でやれっていうわけじゃない。今更恥ずかしいけど、親に言われた「人に聞く前に辞書を引け」だと思う。躾ってほどのものでもないけど、それこそ独力の気力
だと思う。ネットの界隈で教えて君が出てくると2レス目には「ぐぐれ!」でしょ? 私は電子辞書こそ持ち歩きはしないものの、いつも携帯でGoogleと暇つぶしWikipediaのお世話になっている。auはトップページからGoogleが使えるようになったので重宝している。人前で調べられないというけれど、何もビジネスランチの最中にそんなもの開かなくてもいい。電車で移動中とか、ちょっとした時間はいくらでもある。ただ、ぐぐったり、ネットで辞書を引いたりだと、その前後の言葉を知りにくい。本の辞書であれば、検索の課程でさまざまな言葉の意味を斜め読みするおもしろさがある。私はそれを後に「有益なノイズ」と名付けたが、Googleだとものにもよるが、大抵1番目か2番目の検索結果で満足してしまうことが多くて、そういう楽しみがないのは残念なところだ。
「ピアノ演奏で著作権侵害を繰り返した飲食店経営者に有罪判決」というニュースに関連して、「いい加減にしろ、JASRAC!(ピアノバーに有罪とは‥)」という記事が書かれている。割と長いエントリなのだが、注目して欲しいのはこの部分。
問題の店は検索すると「居心地のいいパブ」といったブログも見かける。ピアノの生演奏が聴ける店って少ないから、ファンがそれなりにいたのだろう。ただ、33席のこじんまりした店だからそれほど儲かっているとは思えない。
著作権使用料は平均で換算すると月7万円(!)。部外者には判断しにくいけど、ライブハウスとして客から入場料を取るようなシステムでないと、月7万円払える店なんてあまりないんじゃないか。
つまり、JASRACに管理曲の使用量を払っていたら、店が継続できない可能性があるということである。下手をすればJASRACのせいでたくさんのバーがつぶれてしまう。
しかし、今度は「著作権料気にせずレッスンしたい ダンス音楽CDの自主制作相次ぐ」という記事のこの部分をよく読んで欲しい。
JASRACは「ジャスラック管理外の曲のCDだけでは顧客のニーズを満たせず、ダンス教室の営業が成り立つとは認識していない。ジャスラックの管理楽曲を使用する場合はきちんと手続きをとって使用してほしい」としている。
横から見ていれば、「JASRACにお金を払っていたら営業なんてできるわけない」ように思えるが、JASRACのほうは「JASRACの管理楽曲無しでは営業できないだろう」と言う。なぜこんな矛盾が起きるのか?
答えは簡単である。「金よこせ」。そのためだけに小学生でもわかるような矛盾を平気でスルーしているJASRAC。そんな団体に、著作権の管理を任せておいていいとは、到底思えない。
しかも、JASRACは「著作権を管理するのが主な役割なのではなく、著作権料を徴収することが主な仕事である」、という見解もある。その根拠は、「曲数多過ぎ審査フリーパス、盲点ついた阪神応援歌事件」という記事である。元はドイツ人教師であったウィルヘルム・プラーゲが著作権をたてに横暴な振る舞いを行った「プラーゲ旋風」に対抗して1940年に設立されたJASRAC。今は彼自身が、プラーゲと化しているかのようだ。
細々とながらイラストサイトを運営している。自分の描いたイラストを展示するのが目的であるため、身近な知り合いにサイトのことは殆ど話さないし、サイトを通じてネット上の他人と交流することもない。そんな私にとって、同人板・サイト乗っ取りスレまとめに報告される様なサイト乗っ取り厨の存在は不思議な存在だった。他人のサイトを乗っ取ったところで自分の絵が上手くなるわけでもないし、絵を自分のものにしたいにしてもローカルに保存するだけでは不満なのだろうか?と。
しかし、それは私の考え方が間違っていた。サイト乗っ取り厨が欲しがっているものは、サイトの展示物ではない。そのサイトを乗っ取ったことにより得られるコミュニケーションを狙っているのだ。
前述のまとめサイトを読んで、乗っ取りのターゲットにされるサイトは二種類に分類出来ることが分かった。ひとつは優れたサイト、もうひとつは有用なコネクションを持つサイトだ。
優れたサイトを乗っ取ろうとした厨が必ずとる行動がある。それは『自慢』だ。優れたサイトの作者を騙って知り合いに自慢し、そこから得られる優越感を狙っている。
有用なコネクションを持つサイトを乗っ取ろうとする厨の目的はそのサイト自身にあるのではなく、そのサイトの管理人の知り合いである誰かだ。本当のターゲットに取り入りたいがために知り合いであるそのサイトの管理人として振る舞おうとするのだ。もう少し穏やかな場合だと、副管理人という立場になることによって友達の友達は友達理論で本当のターゲットに近づこうとする。また、コネクション狙いタイプの亜種としてそのサイトの掲示板に訪れる訪問者を狙うタイプもいる。サイトの訪問者に対して管理人ないしは副管理人という『特別な立場』で関わりたいのだ。
いずれの場合も迷惑極まりない。それでも、前者の方はかわいそうな厨が自慢の種に自分のサイトを使おうとも多くは実際の知り合いであるわけでもなし、黙殺しておけばまだ被害は少ない。しかし後者は自分の知り合いを巻き込むこと必至であり、実際に自分の交友関係にダメージを与えられるというリスクを持っている。このリスクはネットワークの向こうの人の顔がそう簡単には見えない今のネットの現状だと無くなる事はないだろう(ネットワークの向こうの人が簡単に分かるようになっても、副管理人タイプの手段を使った乗っ取りは無くならないと思われる)。もしかしたら2ちゃんねるの用に匿名が当たり前で個人と個人の間にコネクションが発生しないようにすればこうした騙り行為は無くなるかもしれない。
しかし、乗っ取り厨が狙っているのがサイトを通じたコミュニケーションである以上、事はおそらくイラストサイト界隈だけではなく他の種類のサイトでも起こっていると思われる。ブログやSNSなどにより自分のサイトがより簡単に持てるようになったため、今後はサイトを通じて誰かとコミュニケーションをとる事はより一般的になり、より社会的な意味を増してくる。そんな中で、こうしたサイト乗っ取り厨(特にコネクション狙いタイプ)の犯罪性はより大きくなって行くだろう。自分の身の回りの人々が、ある日突然自分以外の人を自分と認識するようになった、そう考えてみると乗っ取り厨の恐ろしさがよく分かると思う。リテラシーの普及や技術的に騙りを難しくするなどの対応は、なるべく早めにとった方が良いかもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20070122153609
http://anond.hatelabo.jp/20070121232018
に関して。
私は18まで宮崎に住んでいて、それから関東に移り住んで10数年になるが
地元を離れてみて初めて、これは県民性をあらわしている言葉なんだなあと思った方言がある。
それは「てげてげ」と「よだきい」という言葉だ。
「てげてげ」=「細かいことはまあいいから適当に」
「よだきい」=「あぁめんどくさい、いやだぁ動きたくない」 みたいな感じ。
それと方言と気づいていなくて使ってたのが「しれっと」という言葉。これは「すまして」という意味と説明されてたりするが、
「しれっと」=「いちいちアピールしたりおおごとにするのは面倒だから、何事もなかったかのようにことを済ます」
というニュアンスだと思っている。
どの言葉も、「惰」とか「んなことわざわ別に」的な空気が篭っている。
これには、変えたいという気もあまりないし、変わる事もさして望んでない、みたいな県民性があるかもしれないのかなと思った。このあたりはid:TERRAZIさんが「消極・弱気・怠惰・諦め・投げやり」という言葉で端的にご指摘なさっている通り。
「てげてげ」に暮らしていれば何事も適当に緩やかに進んでいくし、そもそも変えるのは「よだきい」。
一方、変える力が加わったらそれに「てげてに」流されよう、流れに逆らうのは「よだきい」から。
「よだきい」ことなんかせずに「てげてげ」にことを済ます。それがみんなが幸せに穏便に生きていくやり方、そこに改革や前進や向上がなかったとしても。
まさに「そのまんま」が風土に合っているのかもしれない・・・
もう適当なまとめページ作って各サークルのサイトに飛ばしたほうが良くね?というお話。
膨れ上がる運営費、参加者の旅費、参加サークルの抽選、ダミーサークル、毎度おなじみ徹夜組。
コミケの重大問題が一気に片付くのは強みでしょう、多分ね。
正しいかどうかはさておき、ネット上のものは原則タダという認識を活用(悪用とも言うか)しましょう。
気合の入った表紙を見て買ったら中身は落書きでしたー!というのは一般の即売会でも避けられますが
なんかすげえ面白そうなスクリーンショットがパッケージに載ってる同人ソフト買ったら超クソゲーでしたー!なんてのは
試遊台なんか用意しない(できない)サークルが多い同人ソフトの世界においては回避が難しいのですが
また、作り手としても、無料となると判断の閾値が下がるので、金取ったらクソゲー呼ばわりされるレベルでも
無料ならそこそこ面白いと判断してくれたりして精神衛生にも良いでしょう。
どんなにかけがえの無い同人(誌/ゲーム/CD)だと思っていたとしても、数年もたてば99.9%良くて本棚、大体は押入れの肥やしです。
しかも本やプレスCDは場所を取る上、捨てるに忍びないという重大な欠点を持っています。
その点一般的な方法でバックアップされたデータは、経年劣化で勝手に消えてくれる上に場所も取らず
消えたメディアは捨てるしかないので心も痛まず理想的です。
コスプレする側は会場でのうっとうしい制限に悩まされることが無くなり
カメコも家に帰ってから、何でわざわざ遠出してまでこんなブサイクの写真なんか撮っちまったんだろう、と
後悔することが無くなります。
評論や学慢など、いくら人が少ないジャンルでもそれなりの交通量になるのがコミケの宿命ですが
目当てのサークルのスペース前でベラベラ喋られると邪魔極まりないですからね。
もしかしたら勝手にインパクの再来と涙を流して喜んでくれるかもしれません。
さあ物質に対する愛着など捨てましょう。
デメリット?知るか!んなもんいくらでもあらあ!
一晩寝て見直したけど、『それでも「親密フラグ」をコントロールすべき二つの理由』から、タイトル変更。
「べき」とか言っちゃってすんません。
自分語りナシに恋愛話は成立しないってことなんだろうな。個人的経験なんだから。
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『部屋に入るな→じゃああなたとは友達にならない』に納得できないのトラバに。
つまり、親密フラグを3時間くらいかけてたてまくったあげく、朝までセックスをするだけの余裕は十分にあった。
それでも私達は「じゃあちょっとついでに乗っとくか」みたいなセックスはしなかったし、今でも普通の友人だ。
そして、その状況と同じことになっても、世の中のほとんどの男女はセックスしないと私は信じたい。
世の中の男性がみんな「親密フラグを立てたら必ず性的行為に及ぶ」とは、私も思わない。
それでも、「性的な関係を望まないなら「親密なスペース」を守った方がよい」と考える理由は二つある。
その理由を述べる前に、「親密なスペースを許しあう関係」を「私自身が」どう考えているかを述べておきたい。 |
たしかにほとんどはしないで終るだろうが、男に全くその気がなかったとは思わない方がよい。男はちょっとした事でムラっとくる。ただ、それは普通表に出さないし、当然手も出さないだけだ。(中略)
ただ、性欲旺盛な二十歳頃・深夜・頭脳労働による疲れ・達成感によるナチュラルハイは理性を弱める。ちょっと事故が起こればたちまち手を出しかねん。まあ、拒否されて我にかえって落ち込むのがおちだろうが。
せっかく築いてきた人間関係の中で「あなたがそんな人だとは思わなかった」なんて台詞を吐かなきゃならん状況というのは、男にとっても女にとっても不幸だと思う。良好な人間関係を築いてきたにもかかわらず、上記のような事故が起これば、女だけでなく男だって結構へこむと思うのだ。
部屋にあがりさえしなければ、触りさえしなければ、事故的に仕掛けられた「親密フラグ」の駆け引きに乗りさえしなければ、そこにいるその男をそのまま、その男が見せたいとおりのままで、人間関係を続けることができる。「二人きりになったら襲う男かどうか」なんて、男だって事が起こる直前までわかるわけがないと思うのだ。
中には、割合は少ないだろうが「とにかく一打」という男だっている。こういう男はぱっと見ではホントにわからない。結構長い付き合いでも、同級生とか職場の同僚程度だとホントにわからない(それでわかるようでは打てないらしい/そういう奴は打つこと自体が実はmissing piece探しだったりと無意識に人生掛けてることが結構多いので、タカをくくってるとホントにあっという間に打たれる)。偶発的にであっても性的関係に移行してしまった時の自分への破壊力(2.を参照)を思うと、「自意識過剰な女」と嘲笑されることぐらい、全くかまわないと思うのだ。
「親密なスペース」を侵害されたら、人は多かれ少なかれアンコントロールになってしまうだろうと思うのだ。
「親密なスペース」を侵害しあえば、どうしたって感情の開放を伴う。さらに偶発的に性的関係を持ってしまったりしたら、(少なくとも一定期間は)人間的に尊敬とか信頼とかいうことに全く関係なく、寝てもさめてもそいつの顔がちらついたり、「好きなんかじゃない、ただ寝ただけよ」とか誰に言うでもない言い訳したくなったり、嫉妬心や独占欲に苛まれて夜中に「今すぐ来て!」とかメールしたくなったり、いきなり鍋いっぱいのカレーを煮込みたくなったり、満たされない気持ちと人類補完計画について増田に語りかけたくなったり、タバコの煙が立ち昇っていくのを見つめながら急に田舎の話を始めたくなったりして、まあ自分の「面白いけど恥ずかしいところ」がだだ漏れになることが容易に予測される。性的関係に至らない「親密フラグ」の段階であっても、そういう傾向は顕著になる。私は、女って言うか人間って、そういうもんだという認識がある。
「肉体>精神」の判断基準も、精神は個体差や気分の差があって定量的記述に還元できないけれど肉体はある程度それができるので、肉体の社会的コントロールが達成できれば、精神はたとえどんな状態に陥っても必然的に肉体という外枠からはみ出ることができない、というフールプルーフな安全保障の発想だと思う。
「毅然と親密なスペースを守れ」という意見の本質は、まさにこの文章に代弁してもらっていると言ってもいい。
もちろん、そういう人を私は止めない。
ただ、そういう不安定な状態の自分が引き起こした様々なことは、もちろん自分で引き受けないといけない。
私自身は、友達とそういうアンコントロールなやり取りすること自体の必要性を感じないし、もし男友達とそれをやり始めたら、(出来ればセックスなしで)を守る自信がぜんぜんない。
私は「友情」((ここでは「性的関係を伴わないが、お互いに尊重しあい、信頼で結ばれている人間関係」とする。昼ごはんを一緒に、ぐらいの人は含まない))の元に「missing piece探し」をやろうとは思わないのだ。恋人と結ぶ親密な関係は、友情に比べたら「missing piece探し」に近いものがあるかもしれないが、それだって何もかもをかぶせすぎたら、大切な人をつぶしてしまうかもしれない。誰も、自分にはなれないのだから。
自分にあるのと同様に、相手にも人生がある。自分はできるだけ自分で探した方が、平静の心に到りやすいのではないか、と、これは個人的な見解であるけれども。
これは女子に対する親の説教だな。
大人になったら恋愛にセックスはつきものなの。恋愛(=セックス)が絡んだら男の子だけじゃなく「自分も」コントロール効かなくなるってことを自覚しなさい。王子様はいないんだから、寂しいのは自分で何とかしなさい。悪いこと言わないから恋愛(=セックス)するのは一人にしておきなさい。友達って言いたいなら「親密フラグ」立てちゃダメ。わかった?
それで「べき」とか言ったのね。ひとり納得。
まず書いておくが別に私はパーソナルスペースについて無知なわけでも否定したいわけでもない。
むやみに男性になつく女はアホかと思うし、それで襲われたとしても(力にものいわせた男性が悪いのは当然としても)「あなたにも原因はあるよね」くらいは思うだろう。
だからと言ってヘテロセクシャルの場合の異性間友情、あるいはホモセクシャルな場合の同性間友情を否定したいわけでもない。
なぜなら、なぜ「親密フラグ」が立つとされるパーソナルスペース内に存在していても「家族」とはセックスしないで、「男女」なら友情が成立せずセックスすることにつながるのかという記述がないからだ。
恋愛文化のドグマについて語るのであれば、そもそもそれ以前のタブーについても考えるべきではないだろうか。
私は別に人類学や社会学を専門に習ったわけでもないので、ここから先の記述がおかしい場合は申し訳ないがどなたか訂正していただけると助かります。
さて。
人間同士のセックスについての基本的なタブーといえば、やはりインセスト(近親相姦)タブーを第一にあげるべきだと思う。。
http://anond.hatelabo.jp/20070118224317では「家族はセックスしない」というのを当たり前の前提としていえるが、セックスだけを考えたら血のつながりなどたいした問題じゃない。
私にも彼氏がいるし、弟には嫁と息子がいる。お互い仲がよく、いままでセックスをしようなどという話題は一度ものぼったことなどない。
でも私と弟はある特定の状況下に入ればおそらく9割以上の確率でセックスするだろう。
それは例えばこうだ。
私や弟の家族、友達がそろってどこかに閉じ込められている。
そして私と弟だけが別室に呼ばれて、見知らぬ人間がむごたらしく殺されるのを見る。
この状況で「あなたたちがここでセックスすれば家族は助けてあげますよ?」と言われたら?
このような類の限界状況を考えれば、行為としてのセックスに、不可能はあまりない。
目の前で二人、三人、と殺されていけば自らを狂信的異性愛原理主義者だと言っている人でも、同性とでも家族とでもセックスする方を選ぶことが多いだろう。
肉体的にセクシャルな関係、など所詮その程度のものなのだ。
そもそもインセスト(近親相姦)タブーや制度としてのエクソガミー(外婚)が存在するのは、我々人間が血のつながりなど関係なく、手近な人間とセックスできてしまうからだ。
原始社会においては乱婚が当然だったし、社会によっては未だにエクソガミーを禁止していないところもあり、そこでは近親婚が当たり前のように行われている。
それでも現代日本に住む私達は家族とは普通セックスなどしない。
ヘテロセクシャルな例で言うならば、娘にべったりされた父親は「親密フラグ立ちまくりでたまったものじゃない」はずなのに、裸で一緒に風呂に入ってもセックスしないのだ。
なぜなら私達は、そのようなタブーや制度を『お互いが暗黙のうちに受け入れているものと信頼して』家族という集団を形成しているからだ。
ちなみに私は一度だけ、男性の友人の布団が敷かれたままのワンルームマンションに、終電がなくなるのを承知の上で、ひざ上のスカートで入っていったことがある。
なぜなら「翌日提出の卒論がPC以外で受け付けないっていうんや!」と泣きつかれたからだ。
終電がなくなるまでにパソコンを運び込むことに気をとられていて、洋服のことなんてまるで考えが及ばなかった。
お互い顔をつきあわせて「こんな文字、手書きじゃ教授だって読めないよ!」と叫んだり、私のすぐ横でパソコンの画面を覗き込んでは「打ち間違えとるで」「うっさい!!」とか大騒ぎを繰り返し、半分に折り重ねた布団を横にしたまま、作業は3時間ほどで終わった。
つまり、親密フラグを3時間くらいかけてたてまくったあげく、朝までセックスをするだけの余裕は十分にあった。
それでも私達は「じゃあちょっとついでに乗っとくか」みたいなセックスはしなかったし、今でも普通の友人だ。
そして、その状況と同じことになっても、世の中のほとんどの男女はセックスしないと私は信じたい。
でも、「親密フラグ」のコントロールができる人間にのみ、性的欲望の対象となりうる関係性での友情を得ることができると考えるのは、信頼を前提とした社会に生息する人間としては、原始的な欲望を優先させるものの見方にわりと近いような気がしてならない。
肉体の距離を第一の判断基準として、精神を劣後させるような記述は、相手が一人の人間である以前に物体だという考え方をとる人間が増えていることのような気がして、あまりにも哀しい。
http://anond.hatelabo.jp/20070119141655
デバッグに地獄を見た話とか、エクストリームプログラミングの話とか、みんなバグを取るための方法論を語るけれど、バグを内包したまんま動きつづけるものを想定する発想、あんまりないんだろうか。
半素人の私が言うのもなんだが、面白い考えだと思う。
大きなアプリケーションの中で、もっとも大切な部分はコンペ型式で作って、一番まともに動いたものを「一軍」、それ以外を「控え」にする。
これらとは別に、「正しい結果を出したかどうか?」を判定するプログラムを別に作って、「正しく動いていない」と判断された場合、同じデータを控えに回して、その結果を出力するようにする。
動作判定は素朴なもの、たとえば結果が出てくるまでの時間とか、得られたデータの桁数とか、そんなもので判定して、ちょっとでもおかしかったら次々に「控え」を前に出して、とにかくまともそうな結果が出るまで選手を入れ替えていく。
この辺のやり方はいろいろあると思う。
そこそこの品質の同機能・別設計プロセスを流行のマルチコアで、並列に走らせる。もちろん、高度なプログラミングが要求されるモジュールだけを並列に走らせても良い。
当然、ひとつのプロセスがバグったり、フリーズしたりしても、そのプロセスだけ終了させれば良い。また、例えば、各プロセスの演算結果の「多数決」で、正しい演算結果を決め、信頼性を上げることも可能だ。子プロセスとして「部品化」させておけば、親プロセスには影響はないし。
部品は壊れるのが当たり前。
では、冗長性を上げるには?
すでにあってもいい考えだ。(…すでにありそうだなあ)
こんな前提条件が成立しうるなら、バグの少ない高品質なプログラムに労働力をつぎ込むのではなくて、同じ動作をするプログラムを複数重ねて、動作判定をするプログラムを追加するという戦略を取ることはできないだろうか?
具体的には以下のとおり。
大きなアプリケーションの中で、もっとも大切な部分はコンペ型式で作って、一番まともに動いたものを「一軍」、それ以外を「控え」にする。
これらとは別に、「正しい結果を出したかどうか?」を判定するプログラムを別に作って、「正しく動いていない」と判断された場合、同じデータを控えに回して、その結果を出力するようにする。
動作判定は素朴なもの、たとえば結果が出てくるまでの時間とか、得られたデータの桁数とか、そんなもので判定して、ちょっとでもおかしかったら次々に「控え」を前に出して、とにかくまともそうな結果が出るまで選手を入れ替えていく。
ひとつのデータの処理と出力が終了したら、また一軍が元の位置に戻って、次のデータの処理にかかる。
デバッグに地獄を見た話とか、エクストリームプログラミングの話とか、みんなバグを取るための方法論を語るけれど、バグを内包したまんま動きつづけるものを想定する発想、あんまりないんだろうか。
人間の頭なんかは、どちらかというとこんな構造をしているように思うんだけれど。
http://anond.hatelabo.jp/20070118012343
心配しなくても世界中で今この瞬間に死に行く子供達はいっぱいいるからそういう子の予備軍を養子にして育てればおk。しばらくはこれで「生物学的」とやらな欠陥もカヴァー可能。むしろこれが進めば君の言う「多様性」溢れるもっと素敵な社会になる。しばらくすればセックスなしでも子供が作れるようになる(今でもレズビアンは精子なしでも遺伝子を取り出して受精可能、商業化されてないとは思うが、技術的に)。
ちなみにゲイが遺伝かどうかは完全には証明されてないよ。証明する方法があまりないしね(ゲイだから子供があんまりいないし)。証明する方法のひとつに、幼い頃に別れた双子で(少なくとも)片方がゲイな人の片割れがゲイであるかどーかを調べる、っていうレトロな方法がある。あまりに症例が少ないんで完全な結果は出ていないけど、結局どちらも半分半分くらいで遺伝なのかそうじゃないのか判らなかったと記憶してる。ただすごいのが一例あって、生き別れた双子の男性同士が再会して、そのことに気づかずにしばらく恋人同士だったっての。
それ聞いた瞬間、欠陥だろうがなんだろうがそれは美しすぎると思ったがねえ(この場合近親相姦タブーが自分には働かないのは同性愛だからだろうな、まあノーマルな意見だとも思わないが)。
http://anond.hatelabo.jp/20070117115520
距離の話はその通りだと思った。
見ず知らずの人であれば、なんだこいつは?と意識するくらいだが、これが顔見知りのそれも仲のいい相手、しかも異性とくれば、これは明らかに男女関係意識せざるを得ない。「いや近い近い近い!」と叫んだ挙句、「このこは自分に気があるのかな?」と思い、最終的には、好かれると好きになる、という王道。よく分かる。
ところで、この手の話は、単なる性欲と、恋愛感情の問題とを分けられる気がする。
<性欲な話>
親友だろうが友達だろうが知り合いだろうがすれ違いの人だろうが、ムラリとくれば、相手のカテゴリーおかまいなしに寝たくなる時はある。性的衝動の部分で話せば、その時もっとも問題となるのは、その人が「女」であることで、親友とか恋人とか、そういう分類自体がナンセンスなのではないだろうか。とにかくそういう時は相手に「女」以外のタグ付けはないような気がする。
なので、女性は、相手とどんな関係であれ、自分が望んでもいない限り、そういうムラリと来させるような状況を許さないことは大事なことだと思う。そういうのって、大人のマナー的なものなんではないだろうか?とも思う。密室2人きりほろ酔いで、相手ががっついてきたから失望したというのは、あまりにあんまりな話だ。本能は仕方ない。まあ女性に限らずかもしれない。男性も気をつけなければならないことだろう、きっと。
<恋愛感情の話>
こと話が寝る寝ないの話ではなくて、恋愛感情の話となると、悪戸さは際立つ。相手に思考と打算のプロセスを踏ませて勘違いさせるのは、ある意味、騙していることになるからだ。自分を好きにさせるような、思わせぶりな態度を取って、「あれ?この子は自分のことが好きなのかな?」と勘違いさせておいて、相手が食いついてきたら「その気は無い。友達のつもりだったのに。そんな目で見てたのか。ショックだ。」などとのたまう。実際、こういう人いますよね。男、女関係なくいますね。そういう人ってのは、なんというか、精神構造が子供なんじゃないだろうかと思う。要するに、他者(この場合は自分に対して恋愛感情を抱くであろう可能性のある人)をもう一人の自我として認めていないのではないだろうか?無邪気な子供のイタズラ的なのりでそういうことをする人は本当にタチが悪いと思う。
相談するのもいいだろう、人生語り合うのもいいだろう、だけど、その気もないのに自分を好きにならせるような誘導は絶対駄目ですよ。友達なら友達の精神的一線は引きましょうよ。相手は友達のカテゴリーだと思っているなら、相手に恋愛感情抱かせるような行動は慎みましょうよ。そこら辺もやっぱり大人のルールですよ。
そういうわけで、どちらの場合も、マナーというかルールというか、その辺りはわきまえるべきなのではないでしょうか。でも、わきまえていても自然に自分が相手を好きになる、相手が自分を好きになるケースもありますから、悪戸い、悪戸くないの判定は、それもう社会常識に照らし合わせるしかありません。
少なくとも、恋人同士がすることと、親友同士がすることは、あからさまに違うということだけは注意しておくべきなのではないだろうか。
<ところで>
恋愛感情は無い、相手は友達だ、でもお互いにタイミング的にムラついてしまった、寝てしまった。こんなことも起こりうるのは事実です。しかし、お互いそれで納得しているのならば、それもまたしょうがないのではないでしょうか。それから付き合うのか付き合わないのかはまた別にして、事故的にムラついて寝てしまったということはありえるのではないでしょうか。
だけど、そこまでくるともう、自己責任、としか言いようがありません。
もともと空気読まずに発言したんだからさ‥
過去異性とやりまくった‥
それほど異性交遊をする機会が無い人に反論する余地は
だって、空気読めてないって自覚してるんだもん。
ちまたで話題になっている「残業代ゼロ法」こと「ホワイトカラー・エグゼンプション」について。
大昔、労働における生産量というものは労働時間にほぼ比例していた。例えば畑を耕すのでも工場で物を組み立てるのでも、個々人に差はあれどそれは微差の範囲内で、基本的に長い時間働いた人ほど労働量が多いことになる。このような労働体系下においては、対価としての賃金は労働時間によって支払われるのが妥当と言える。
だが、情報化が進んだ現代では「時間=賃金」という等式は既に崩れている。例えば私の所属するエンジニア業界でも、同じ時間働いても個々人のスキルによって生産量が数倍から数十倍も違ってくる。1時間に3の生産量を上げられるAさんと、1時間に1の生産量しか上げられないBさんがいて給料が同じだとして、「時間=賃金」という対価の与え方では、同じ金額を稼ぐのにAさんはBさんの3倍の量の仕事をこなさなければならない。このような不平等をなくすために登場したのが「成果主義」であり、「ホワイトカラー・エグゼンプション」なわけだ。
「ホワイトカラー・エグゼンプション」は残業代ゼロ法などと揶揄されて暗黒面ばかりが話題に上がっているが、そもそもの目的は労働法に記載されている「1日8時間、週40時間」という枠を取っ払おうというものだ。この法律が施行されることで、労働者は会社に9時から5時までいなければいけないという縛りから除外(エグゼンプション)され、各人が自分にあった労働方法をとることが出来る。
例えば、幼い子供を持つ親御さんたちは、決まった時間に会社にいなくてもよいので、打ち合わせの時だけ会社に出向き、後の仕事は持ち帰って家でお守りをしながらやる、といったことが出来るようになる。仕事が物凄く出来る人は、一日2時間働いたらさっと切り上げ、残りの22時間をプライベートに回すことが出来るようになる。持ち帰りの作業が一週間分ほどたまったら、ノートパソコンとともにのんびりと旅に出て、旅行の合間に仕事をするということが出来るようになる。安倍総理が「この法律を施行することで出生率が上がる」といってネチズンの失笑を買っていたが、彼の意見はあながち間違っていないのだ。
だが、こんなのは単なる原理原則論、理想論であって、実際の運用上でもちろんこんなパラダイスのようなことが起きるわけはない。
昨今の情報漏洩ブームのおかげで在宅勤務なんかは夢のまた夢。仕事が物凄く出来る人は出来ない人の5倍10倍の量を押し付けられ週日会社に縛り付けられ、旅行なんかは行く暇すらない。労働者はますます困窮する。
「ホワイトカラー・エグゼンプション」の根底にあるのは、働いた時間など関係ない、生産量で人を評価しよう、というものだ。これ自体は間違ったものではないけれど、日本の企業風土では幾ら生産量を上げても決まった時間会社にいなければならないという暗黙の了解が既に出来上がっている。うちの会社はフレックスタイム制で、仕事が終われば3時半に帰ってもいいのだけれど、まずそんな人はいない。定時まで仕事をして、残業をしてやっと帰れるというのが社員の「当たり前」になっている。私なんかは仕事が暇な時は毎日定時に帰れるけれども、あちこちの島で火の手が上がっている職場でそんなことが許されるわけはなく、会社に居残って資格の勉強をしたり趣味のツールを作ったりしている。馬鹿馬鹿しい話だが、幾ら生産量を上げても早く帰れば「あいつは駄目だ」と思われるのが日本の企業風土であって、これだけはどうしようもない。実際私も「俺の会社は毎日定時に帰れるぜ」とか聞いたら脳たりんの集まりなんだなと思ってしまうしね。まあその逆もまたしかりだけど。
こんな状況下でホワエグなんかを導入したらますます惨状になるのは目に見えている。現在の企業側の認識としては、「サービス残業はいけないことだが仕方がない」という辺りだろうが、この「いけないことだが」の部分が結構大きくて、ホワエグによってサービス残業が合法化されてしまえば日本の労働環境は地獄と化す。何せ過労死をしても会社側は何ら責任を取らなくてよくなるのだ。良心的な会社ならともかく、悪用しようと思えば幾らでも出来るこの法案、ストッパーが完全になくなってしまうこの法案は大変危険だと言わざるを得ない。「現在も残業代出てないし、別に構わんよ」と嘯いている人は、もっと危機感を持ったほうがよいと思う。
先輩の会社のお偉いさんなのであまり遡上にあげたくないのだけれど、経団連の御手洗氏がよく言う「国際競争力の向上」というのは、つまり「安い賃金で多くの労働を」という以上の何者でもなく、こんなバイアグラのような方法で経済を伸ばそうと言う発想は極めて幼稚で短絡的である。日本の労働環境の向上なくして、経済力の向上などあり得ないのだ。音楽でも何でもそうだが、「人間的である」というものは普遍的で強い。法律も一緒で、非人間的な法律、そこに人間性や国民性が反映されていない法律は凶器と化す。今回の国会では廃案になりそうだが、来年以降も経団連と自民党の動きから目を離してはいけないと思った。
http://d.hatena.ne.jp/Hamachiya2/20070114/ha_url_janaiyo_poem_dayo_hi_konnnichiha
URLって住所みたいなものでしょ。で、URLを作成するっていうのはいわば自分が大家でマンション名をつけるみたいなものだと思うんだ。「メゾン山の彼方の空遠く」とか「幸い住むと人のいうハイツ」とかマンションに名前をつけて、地図会社に「このマンション名は自分の作ったポエムで著作権は自分にある。勝手に地図に載せるな」といって通るのかなということ。
あるいは、図書館戦争という本があって、私は読んだことがないんだけど、これは確か各章の題をつなげるとひとつの宣言文になるんだよね。仮にこの本が章ごとに一冊ずつ出ていたとして、「題をつなげた宣言文は私の著作物である。それを勝手に転載してはいけない」といっても、タイトルに関しては著作権は限定的にしか適用されないからそれはどうなのとか。(今ちょっと調べたら図書館戦争の章題は実在の宣言からとってきたものなのかな? まあこのたとえ自体なんか本筋からずれちゃってるしそこら辺は適当に読み替えてということで。)
ちなみにこの日記のタイトル部分に含まれるリンクのURLが日付止まりなのは文字数制限に引っかかったから。決して他意はないよ。って、はっ!! まさかそれがはまちちゃんの陰謀だったのか!? タイトル中にリンクを張っていたのを、本文中にURL直書きに変更しました。
ボールが飛んでくるのを怖がって避けモーションをとったら、トラップが発動して他のボールが飛んできた。
それに対して、「お前が避けようとするから他のボールが飛んできたんだよ!」って指摘はおかしいでしょ。元々ボールが飛んでくるのが始まりなんだから。啓蒙活動(笑)はご自由にどうぞ。それに付き合わなければならない理由はよく分からないし、啓蒙である事が無断リンク禁止サイトへ無断リンクする行為の正しさを証明しているわけでもないけど。
無いよ。なんでリンクを貼られただけで「悪質な業者に利用」になるの?
えっと、サイトポリシーでリンク許諾制を掲げなければ『「うちは警察へリンクさせてもらっている」というようなことを言われて、警察の信用を悪用されてしまう』可能性はゼロになるということ?
普段は世間に無関心でいるのに、たまに「負けたくねぇーっ」と思うときがある。
2年ほど前、人を見て異様に羨ましく思った。
その人というのが、まぁ知り合いなわけで、元○大院生で、就職のときに地元に戻ってきたのかどうかは知らんけど、偶然地下鉄で出くわしたわけです。
えらいカワイイ嫁さんつれて、いや、まぁそっちはどうでもいいのだけど、すでにかなり交通の便のいい場所都会な場所に家を買ったとかなんとか。
なんだよこの差は、と。
まぁ僕がフラフラしてる間に、彼は僕なんかが想像も及ばないような研鑽を積んだに違いないのだろうから納得もできるのだが、やはりやるせないものはやるせない。
そう人を羨みつつも、やはり自分がその羨望の対象になりたいなんて俗っぽい欲はあって、しかしながら苦労している様はあまり人に見られたくないなぁ、なんて思っている。
結局のところ、僕は楽して裕福な生活を手に入れたいわけで、ぶっちゃけ怠惰なんです。怠惰。
その彼が死に物狂いの努力をしたかどうかは知らないけど、彼はものすごく頭の切れる人物なので成果につながらない努力はしてないだろうし、気転も利くので簡単に不利な状況を挽回するのだろうし、ひょっとしたら苦労らしい苦労はしていないのかもしれない。
僕のような凡人というかダメダメ君とは違って、優秀な彼はいろいろ実になることを身に付けつつ生きて行くのだなぁ、と思ったり。僕はあまり何か見についたような感じもしない。プログラミングなんて誰でもできるし。
ここまで約27年間ダメダメ君を続けていると、さすがにこの自分という人格では一生成功しないのではないかという危惧もあり…というか薄々、僕が「僕」である限りは成功しないのだろう。
飛躍しまくるが、成功するためには「僕」では無理というなら「僕」でなければいいじゃん、ということになって要は別人になってしまえというわけで。
ダメダメな「僕」と別人になるということは言い換えると「僕」に対して自殺宣言するようなもので、大した成果も残せないこの自分という人間にそこまでの未練はあまりないと思っているのだけど、やはりこの27年間のしがらみというか怨念が成仏できないことになる。
「この27年間の人生が報われたい」と。
まぁどうせ自分自身がスゴイ人間でないことは僕自身が誰よりも知っているし、だったら別に報われなくてもいーじゃん、とは頭で考えてても、やはり今の自分に愛着というものがありまして。
でもいきなり人間を変えるなんて激しくストレスが伴う上に一から再構築とか積み重ねというものが無くなってしまうわけでやはり効率が悪い。
あぁ、何を言っているんだ俺は。人間を変えられるわけなんてないのに。
まぁそうなると現実的なのは欠点を修正し、長所を伸ばして、(他分野の)武器を増やすなんてことがセオリーとか王道とか確実とか言われるんだけど、なんで僕はそれができない。やはり怠惰か怠惰か怠惰か。
で、怠惰ということは裏を返せば欲が無いということなんかねぇ、と思いつつ、やっぱ俺って強烈に何かをやりたいとか欲しいとか思うことなんてねぇーや、と再認識。
某心理学セミナーに行った時でも「もし願いが全部叶うなら、やりたい事は何?」と聞かれたときでも全然思い浮かべることができず「地球にいいことをしたい」とかガラにもない事を言い出したエコな自分を思い出したり。
実際、自分が権力者やとてつもない資産家になった暁には「権力をフルに使って地球温暖化を止めてやるぜ!」とかそりゃー青臭すぎて恥ずかしいことも考えたりしたもんで。
何というか、僕って無欲だね、なんて思ったけどよくよく考えれば世の中の楽しい事とか気持ちいい事を大して知らないからそんな事を言ってるだけで、いろいろ知っちゃうと絶対に「アレもしたい!コレもしたい!」なんて言ってる自分が容易に想像できてしまう。
見識が狭い、楽しみ方を知らない、という問題もあるけど「コレは何が何でもやりてぇ!やらなきゃ死ぬ!」なんて渇望っつーか強烈に望むものなんてものは僕は何一つ無いので、もう家庭を持っちゃったからそこで満足しちゃってるのから、とか思った。そうだ。もう満足しちゃったんだ。
だから漠然と「世の中を良くするのが目標です」なんて思ってもそんなのハナクソ程度のモチベーションにしかならん。死ぬときゃ死ぬし、寿命が来るまでに地球環境が壊滅的になるわけでもなし。
それにそんな目標を達成できたところで射精&失神するほどの快楽を得られるわけでもなし。
あぁ、そうそう。油田を探す山師が巨大油田を掘り当てた時はマジでイッてしまうらしい。そういう快楽。
そんなエキサイティング&エクスタシーとは縁遠い生活をしているので、仕事で歯軋りすることはあっても、興奮することは無く、もしかすると修行僧とかお寺の坊主という感じの生活じゃねぇの、という味気なさに愕然としたり。
欲はとりあえず置いといて、「世の中のために…」とかの「地球のために…」なんて奇麗事満載な行動方針だと人生で痛快な出来事に遭遇することは無いのではないかと。
痛快と言えば『自分を見下した人間に対して「俺は正しかったんだ、ザマァ見ろ」と言う』みたいな雪辱を果たしたり復讐成功したりみたいなドス黒い一面があって、この27年間のうちにこのドス黒い怨念が染み付いてしまって成仏できないのでは、なんてことも思ったり。
あぁ、でもコレって自分自身を証明というか存在意義をアピールしたいという願望なのか。アイデン&テイテイですか。元ネタ知らんけど。
そろそろ社会に出る年齢なので、近い将来のことは最近よく考えるんだけど、
今日はなんか恐らく現実になるだろう妄想がやけに加速して泣いてしまった。
哀しみとか絶望とかももちろんあるんだろうけど、何かもっと色んな感情がないまぜになって
堤防が決壊してしまったようだ。こんな思春期真っ只中みたいな泣き方したのは本当に久しぶり。
あんまり久しぶりすぎたので、泣いた後のスッキリ感と懐かしさとが合わさって
今物凄く晴れ晴れとした気分だ。さっきまで十人並みとはいえ不幸のどん底を覗いてたっていうのに。
こういうことを考える時間は大抵夜で、後は寝るだけっていうのもなんか都合がいいもんだね。
寝りゃあ大抵のことは忘れられるっていうのは嘘だけど、大抵のことはちょっとだけ薄まってくれる。
そんでもって近い将来に今日の妄想が現実となってしまっても、すっかり薄まりながらも
刻み込まれた今日の記憶がイメージトレーニングの役割を果たしてきっとダメージを軽減してくれる。
俺が最悪な人生を生きていくために他にも色んなことが最低に都合よくできてる。だからもう寝よう。
なんかさ、情報量が膨大すぎてトレンドを追うだけでも疲れてしまうね。
個人ニュースサイトもソーシャルブックマークもやってみたけど、手段自体が
目的になってくるわけだ。続けるために続ける。
2chやYouTubeを見ていると、あっという間に時間が過ぎる(はてな界隈の
内輪ネタはどうでもいいので見ないけど)。やっぱり、自分に何らかの縛り
を設けたほうがいいと思った。
なんというか、ネット時間には縛りを設けて、読書とか、映画鑑賞とか
近所探索をせねばならんと思いました。あれだ、「本物の味わい」を味わう
必要があるというか。
別に、ネットに「本物」がないというわけではなくて、やはり、「後に残るものが
あまりない」気がする。(ゲームやテレビよりましな気はするが)
そりゃ、瞬間的・享楽的に軽く楽しめるけれども、それにハマり続け、溺れることに
よって、自分の現実問題や肉体時間のリアリティを見失うこともあるだろう。
これは、「手軽さがもたらした弊害」なんだろうか。
まあでも、ブログをつけるのはちょっといいと思った。本の感想とか書き始めてから、
本を読む時間も増えたし。要は、情報のトレンドだけを追いかけることに夢中になって、
自分が自分として積み上げていくべきペースや立ち位置を見失ってしまうことが
問題のような気がする。
当たり前だが、現実逃避としてネットをやっても、現実は変わらない。
自覚的に現実逃避するならば、また話は別かもしれないが。普段の態度においては、
「自分の現在の状況を整理するためにネットを利用する」程度の距離感が
良いのかもしれない。
つまりそれは絵本の商売と同じなんだよね。
市場があって、客も需要もちゃんとあるけど、全部の出版社が絵本を売っているわけじゃない。
詩集ばかり売ってる出版社もあれば、エロ漫画ばかりつくっている出版社もある。
それと同じ理由で、ファミリー層に向けたアニメ企画をやろうとする動機が、すべての制作会社にあるわけじゃない。
結局、その分野で儲けてやりたいという製作者側のモチベーションが小さいからなのではないかな。
絵を描いてる現場ではどこも忙しくてたまらないのに、安い単価でつまんねえ絵なんか書いていられるか、って気持ちなんだろう。(つまらないかは、作り方にもよるとは思うけど)
単純に作る側が楽しめない、っていうのもあるのではないかな。作る側が楽しめないと低賃金で絵を描き続けることが困難。製作進行がピンチの時にヘルプで絵を描いてくれる所があまりないので、大資本でないかぎりシリーズを作るのが難しい。
そんなところじゃないかな。