はてなキーワード: まなかなとは
よーわからん
といっても内容がまったく分からないという訳ではない(全部わかったとは言わんが)
読むと自分の感情の現在地がよく分からなくなる、そんな感じの漫画だった
他の人はどうか分からんが俺の場合は物語を読んでる時も、自分で書く時も結末に向かって遠心力がかかっていく感覚がある
それで「こっちに飛んでいきそうだなぁ」ってのが見えてきて、読んでる時はそれを裏切られるか、書く時は裏切るかが軸になる
この作品では右か、左かって構えてたら真上にポーンと打ち上げられた様な感覚に陥った
その後の展開も読んでも真上に打ち上げられたままなかなか戻って来なかった
で、最後にもっかい(一度目ほどではないけど)天丼的に打ち上げられて終わった
藤本タツキさんの漫画はあんまり読んでないし、映画ネタとかよーわからんけど俺はこの打ち上げられた感覚が面白くはあったな
嫌いな人は嫌いだろうなぁってのは分かる
子供のころは、家の方針でペットを飼うことはできませんでした。母曰く、「ペットは死んでしまうから悲しいからダメ」。子供心に残念でしたが、幸いにも友人がトラ猫を飼っておりたまに遊びに行っては撫でさせてもらうなどしていました。
中学・高校と進学するにつれ、猫と触れ合う時間は無くなっていきました。たまに野良は見かけるのですが、ほとんどの猫は荒々しく、遠くから警戒しているのが明らかだったので、近寄ることはありませんでした。
大学進学のため一人暮らしを始めると、それこそ猫と触れ合う時間は皆無となってしまいました。当時の私は猫より犬派を自称しており、猫はあまたいる家畜の一種でしかないとうそぶいていました。
そんなある日、半年ぶりに実家に帰省すると黒猫がいました。玄関で一瞬だけ目が合い、すぐにドタバタと走り去り部屋の押し入れに飛び込む太ましい黒猫の後ろ姿を見て、私は思わず言ってしまいました。
「おかあさん、ペット飼わないんじゃなかったの?」
母は、マンション入口で鳴き声がうるさかっただの、やせていてみすぼらかっただの、餌を与えたら部屋に入り込んできただの言い訳がましく言っていましたが、先ほど見た後ろ姿は、どう見ても丸々と太るまでかわいがられた毛並みの良い黒猫です。本当にありがとうございました。
この猫、仮にイチゴと名前を付けましょう。イチゴは、人見知りする猫でした。帰省した日も含めて7日ほど滞在したのですが、結局押し入れから出て私の目の前に現れたのは最終日です。カリカリを食べている間だけ仕方ないなと撫でさせてくれる。そんな関係を構築して帰省は終わりました。
大学に戻ると、母親から怒涛のようにイチゴの写真が送られてくるようになりました。これまで後ろめたかったのか我慢していたのでしょう。毎日のように送られてくる猫写真にさすがにあきれてしまったのですが、送られてきた写真をスマホに保存しては日替わり待ち受けにしてしまう自分も結局は同類でした。
さらに数か月後、猫用のおもちゃ片手に帰省しました。イチゴと遊ぶ気満々だったのですが、こいつ、私の顔を覚えてねぇ。押し入れに飛び込んだままなかなか出てきません。やはり猫畜生かとつぶやいて、こたつに入ってテレビを見ていると、ふと背中に視線を感じたような気がしました。振り向くと、押し入れから出てタンスの上にいるイチゴと目が合ってしまいました。
いえ、違いますね。正確にはイチゴがタンスの上から垂らした尻尾と目が合ってしまいました。そこから微妙な心理戦が始まります。基本的にイチゴと目は合いません。テレビ見ていてふと気づくと、イチゴが部屋のいろいろな場所で後ろ向きに存在しているのです。私から近づくと逃げることがこれまでの経験からわかっているので、私も知らないふりをしています。
でも、トイレに行くために立ち上がった瞬間、ダッシュで押し入れに逃げるのは、傷つくのでやめてくれないかな。
この神経戦は母が家事を終えてこたつに入ったところで終わります。こいつは母にはデロデロに甘えていやがります。母が首元なでるたびにゴロゴロ言っています。くやしいので、母の膝の上にいるイチゴに近づき、撫でさせてもらいました。あ、ちょっとゴロゴロ言っている気がします。
母の仲介で少しだけ仲良くなったわけですが、次の日から少しずつ関係を深めていき、帰省の最終日には、「撫でれ!」という雰囲気で首をこすりつけてくるまでになりました。でもなんででしょうね。しばらく撫でていると、「へたくそ!」とガッと噛みつこうとしてくるの。フリなんでしょうが、びくっとしてしまいます。
私とイチゴの関係は、母が送ってくる無数の猫写真と、帰省中のぎこちないふれあいが中心となりました。なお、帰省初日に玄関押し入れダッシュから始まり、尻尾との挨拶そして撫でれガっ!という一連の流れは、何年たっても変わりませんでした。
実際、イチゴはとても臆病な猫でした。母は飼い始めてからほとんど家の外に出したことがないようでした。一度ベランダに出したところ、車が通る音に驚いてオシッコもらしたよと母が笑い話をしているくらいですので、本当に臆病だったのでしょう。でも、家猫としてクッションの上でくつろぐ姿には貫禄すらあり、少なくとも家を出て半年に1回しか帰らない私よりは家の主の資格がありました。
また、イチゴはもとよりそこそこ年寄りだったようです。写真をよく見ると頭の付近にちょっと毛が薄い部分があるのに気づいてしまい、母とちょっと笑ってしまったのを覚えています。年寄り猫ですので、寒暖差にも年々弱くなっていきました。母は昔からクーラー嫌いで頑なにクーラーをつけなかったのですが、イチゴが真夏日にバテて病院に運び込まれてから、部屋に最新のクーラーをつけると宣言したのです。驚きつつ、もちろん母のクーラー選びに付き合いましたよ。ええ。
そんなある日、母から深刻そうな声で電話が来ました。イチゴは腎臓がよくないのですが、病院でもらった薬を飲むのをとても嫌がるとのこと。毎日飲ませないと死んでしまうのだけど、嫌がるのに無理やり飲ませ、無理やり生き延びさせるのは母自身の自己満足なのではないかと母の声は暗く落ち込んでいました。
そのとき、私はなんて答えたのでしょうか。正確には覚えてませんが、母親だけでなく、私もイチゴには生きてほしいと思うと答えたような気がします。母だけでなく私のわがままでもあると。結局、無理に飲ませることになりました。腎臓がよくないので大好きな煮干しも食べられなくなったイチゴ自身はどう思っていたのか、今でもわかりません。
その後、1年ほど過ぎたでしょうか。母から短いメールが来ました。「イチゴが逃げた」
たしか夕方でゼミ中だったと記憶しています。メール見て、ゼミを抜け出し、母に電話をかけました。
事情を聞くと、昼前に洗濯物を干すためにサッシを開けたところ、イチゴがベランダに飛び出したようです。そのまま木を伝って降りて見えなくなってしまったと、すぐに外に出て探したのだけど全然見つからないと、途方に暮れているようでした。
ごめん、すぐには帰れないと私は返事しました。そう返事したことを今でもはっきりと覚えています。大学と実家は飛行機の距離でしたし、卒業に必要なレポートの締め切り日も迫っていました。最終的に帰省したのは、電話から2週間後の土日になりました。そして、その間、母に電話もメールもできませんでした。結局連絡せずに帰省し、母を驚かせることになりました。
母は意外と元気でした。急な帰省で驚いてはいましたが、何のこだわりもなく温かく迎えてくれました。とはいえ、もちろん忘れたわけではありません。夜に二人で軽くお酒を飲みながら話をしました。
近所に写真を持って聞いて回ったこと、首輪をしているから野良と間違えられることはないであろうこと、それでも見つからない可能性が高いこと、薬を飲んでいないので半分諦めていること、年寄り猫だったので覚悟していたこと、そして、悲しいけれど目の前で死なれることの悲しさと比べるとまだましであると気丈に話していました。
次の日、私も母と一緒に近所を回りました。もちろん、見つかりませんでした。
今私は就職し、一人暮らしをしています。しかし、ペットを飼うことは今後もないでしょう。母もペットを飼うことはないと断言しています。この前気づいたのですが、母のスマホの待ち受けが、先日生まれた姪っ子の写真になっていました。元気におばあさんをやっているみたいです。姪っ子にはおばあさんと呼ばせず、下の名前で呼ばせるつもりのようです。
私も、姉から送られてきた姪っ子の写真を待ち受けにしました。今度、姉の家に遊びに行く予定です。もちろん私も下の名前で呼ばせるつもりです。
スマホの中のイチゴの写真は、日々増えていくたくさんの写真に押されて奥へ奥へと流れていきます。だから私は、今日もネット上でかわいい猫画像をあさります。特に太めの黒猫が大好物です。
若い読者は知らないかもしれないが、健康診断に胃ガン検査があると、バリウムを飲まされる。白くてねっとりしていて飲みにくいことこの上ないのだが、最近は技術の進歩により必要量が少なくなるなど、だいぶ改善している。
しかし、飲みにくさなど、実は大した問題ではない。最大の問題は検査後に待ち受けている。このバリウム、体内でいっさい消化されずに、そのまま排泄されるのだ。
ここでは、この排泄された物体の後処理について、自分が集めた情報をまとめる。自分は、医療も化学も水道工事も専門外なので、有識者からのコメントやトラックバックでより良い情報が集まることを期待している。
なお、これ以降、かなり尾篭な話になるので、読み進む方は覚悟されたい。
胃ガン検査後に渡される下剤が効き、トイレに行く。すると、大便とともに、いっさい消化されていないバリウムが出てくる。そして、このバリウムと便の混ざったものは、便器の底にどっしりと鎮座するのである。この白くて茶色い物体は、通常の便に比べてかなり重く、またべったりしているため、便器の底にへばりついたままなかなか流れない。便器の構造にもよるが、バリウム混じりの便は、10回ぐらい水を流したところでビクともせずに鎮座し続ける。実際に目撃すると、自分のものであってもなかなかつらい光景である。ましてや、他人のものなら…。
グーグルで調べてみると、悩んでいる人は多いものの、ブラシ等で物理的に解決ぐらいしか方法がない。しばらく原始的手法で格闘してみたが、つらすぎるので、徹底的に調べてみることにした。
なお、上記の「べったりしている」という性質は、原始的手法を試みる過程で、イヤと言うほど確認することになった。ぱっと見た目は、石のような硬さに見えるのであるが、実際には地面に踏み付けられたガムのようなものである。
通称「バリウム」だが、正しい化合物名は硫酸バリウムである。「バリウムは金属だから重い」などと書いてあるサイトもあるが、金属のバリウムと、化合物である硫酸バリウムとはまったく別の物質である。
物質の性質は原子によって決まるわけではない。化合物によって決まることを忘れてはいけない。水素に火を着けると爆発するからといって、一酸化二水素が爆発するわけではない。ちなみに、一酸化二水素の化学式はH2O。一般的には「水」と呼ばれる。ナトリウムを水につけると爆発するからといって、塩化ナトリウムが爆発するわけではない。ちなみに、塩化ナトリウムの化学式はNaCl。一般的には「食塩」と呼ばれる。
話がそれたが、そういうわけで、便器の底に鎮座する白くて茶色い物体に対処するには「硫酸バリウム」の性質を調べなくてはいけない。
しかし、硫酸バリウムの性質を調べると、ほとんど水に溶けない。溶解度は水100mlに対して0.22mgしかない(水温18度)。食塩の約35gに対して、10万分の1以下である。ネットではお湯を流せば溶ける説もあるが、水温100度でも100mlに対してわずか0.40mgである。しかも、ほとんどの酸にも溶けないらしい。絶望的である。
考えてみればこの溶けなさゆえに、体内の水分にも、強酸である胃液にも溶けることなく、レントゲンに写ってくれるわけだが、ここではその性質が大きな障害となり、白くて茶色い物体は、便器の底に鎮座し続けるのである。
サイトによっては「しばらくすると自然に流れる」という記述もあるのだが、自宅のトイレを眺めている限り、とてもそうは見えない。何度水を流しても、白くて茶色い物体はビクともしない。そこで便器の仕組みについても調べてみた。
洗浄レバーを引いたときに、いったん水が流れ込んできて渦を巻いたあとに、「ゴーッ」という音と共にすべての水がいったん排水されてから、再度ゆっくりとたまる洗浄方式は「サイホン式」と呼ばれる(サイホン式のバリエーションは色々あるが、ここでは省略)。
そこで自宅の便器の型番表示を探してみると、TOTOのC482というものである。調べてみると、この便器は「洗い落とし」という洗浄方式である。この方式は、サイホン式と違って、「すべての水がいったん排出される」という過程がない。要するに上から水を流すとあふれた分が下水管に回るだけの、単純な仕組みである。これでは、底にへばりついた白くて茶色い物体がビクともしないのも道理である。
ここまで調べたが、たまの検査のためだけに「サイホン式の便器に買い替える」という選択肢はありえないので、「そもそも便器の底に鎮座させない」しかなさそうだ。トイレットペーパーを水面に浮かべてから排便するという手法もあるようだが、トイレットペーパーだと溶けやすく破れてしまうこともあり、結局着底して鎮座されてしまう可能性が高い。代わりに、トイレに流しても良いが、多少は破れにくい「トイレクイックル」を使おうと思う(ちなみに、トイレクイックルは、トイレットペーパーのJIS基準に適合している http://www.huffingtonpost.jp/2013/05/06/consumer_commission_n_3225990.html )。
以上の検討をしているうちに、今年の検査で摂取した硫酸バリウムは処理できたのだが、その後、さらなる情報を発見した。下記2点の論文である。
これによると、検査で使われる硫酸バリウム懸濁液には粘度を増すための添加物が入っているが、水温によって大きく粘度が変わるらしい。粘度自体は、メーカーや添加物の種類によってだいぶ違うのだが、水温が20度から40度になるだけで、50%ぐらい粘度が下がるものもある。
つまり、他のページで見かける「トイレにお湯を流したらバリウムが流れた」という記述は、硫酸バリウム懸濁液のこの性質に基づいていて正しいという可能性がある。
次回の胃ガン検査では、お湯を用いた処理方法についても試してみたい。
なお、調べたところ、便器に熱湯を流すと割れることがあるため、お湯の温度は40~50度程度までにとどめる必要があるらしい。試す方は注意されたい。
翌年以降の記事(随時追加)。
その時、小学生のときに同じ野球チームに所属していた二個上の先輩にとても可愛がってもらった。
可愛がりでもないしほもぉでもない。
地元では、中学のときの上下関係を大人になってもひきずって生きているような人が多い。
そういうのが嫌な人間は当然街を出ることになるが、
高校を出るとすぐに親の建設会社を継ぎ、ベンツを乗り回すようになった。
まあまあ有名な建設会社だったし、官公庁の下請けをするような会社だったので
矢口先輩は、18になるとすぐに免許を取り、これまたすぐに中古だがデフォルトで500馬力まで改造されている
僕はその矢口先輩たちのチームのようなものに参加させられることになり、
週末だけでなく、先輩たちの気が向くときには山へと走りに付き合わされた。
深夜近くにならないと蠢くことはない。
一般車の走る時間帯は走れないし、
ではそれまでどうしているか。
ちなみに、車で10分も走れば首なしライダーが出没するという峠もある。
走り屋の間では、この首なしライダーとレースをした、というのが武勇伝として語られているが、
大抵は友達の友達とか知り合いの話であり、実際に首なしライダーをみた人はいなかった。
僕らも、あきるまでその峠を攻め首なしライダーとの遭遇を願ったが、
一度も出会わなかったくらいだ。
まあそんな風にして心霊スポットへ行ってから走りに行く、というのがぼくらの過ごし方だった。
心霊スポットへ行くのはさすがに500馬力のFD3Sでは情緒がないため、
他の先輩のでかいクラウンだかセルシオだかに同乗させてもらい、
4~5人、男ばかりで行っていた。
ある週末の夜。
以前ギャラリーからナンパした女子が3人一緒に心霊スポットへ行ってみたいということになった。
僕と矢口先輩が、その時矢口先輩が狙っていた女子、まな(仮名)の車に乗り、
二台で向かうことになった。
地元にちゃんとした彼女がいるくせに、まなを口説きまくる矢口先輩に少しいらつきながら、
僕は後部座席で眠ったふりをした。
心霊スポット到着。
見た目は普通の別荘だった。
しかし一旦中へ足を踏み入れると、まさに心霊スポット特有の線香の臭いが鼻をついた。
ジュンジーのファンだった僕は、
と矢口先輩、AB先輩へ告げた。
「○○くん、怖いの?」とまなが言った。
てめえ、ぶっころすぞ、と心の中で思った。
矢口先輩が続ける。
「こいつ童貞なんだよ。」
まなが笑いながら言う。
なんてことを言いながら二人は急接近しているようだった。
AB先輩も、かな&あなといい雰囲気のようだった。
僕は一人でとぼとぼと彼らから離れて歩いた。
A先輩が
「おい、このドア開けてみようぜ。」といいながらドアノブにてをかけた。
見た目はすごく重厚で、簡単に開くようにはみえなかったが、
僕の想像に反し、ドアはぎぃいい、と音を立てながら開いた。
「おい、階段だぞ。」
その扉はどうやら地下の貯蔵庫へ通じているらしかった。
その別荘が建てられた当時、地下室を作ることがある種の流行だったというようなことを父か叔父から聞いたことがある。
よく熱帯の豪華な家に暖炉を作るのがステータス、というのと同じような流行がかつての日本にもあったらしい。
そもそも貯蔵庫に食料を溜め込まなければいけないほど、雪の深い地域ではないのだ。
とにかく、ぼくらは懐中電灯を片手に、階段を下りてみることにした。
ぼくはもちろん最後だった。
矢口先輩はまなといちゃいちゃし始め、きゃーきゃー言う彼女を隣にし、さらっとお尻をなでていた。
あのキャラクターは俺も欲しい。
心の中でうらやましく思ったものだ。
地下の貯蔵庫へ入ると、大きな金庫のようなものが目の前にあった。
「おまえ、入ってみろよ。」
矢口先輩が言うと、まなが
「えー、あぶないからやめてあげなよー」と言ってくれた。
しかしAB先輩まで僕に入るように言い始めたので、仕方なく中へ入ってみた。
案の定、というか当たり前のように後ろでドアが閉じられた。
懐中電灯の明りだけを頼りに、回りにちらばっているものを確認していくと、
そして、目をこらしながら良く見ると、缶詰のようなものがはいったダンボール箱を発見した。
ちなみにこの貯蔵庫、内側からも開けることができる。
そう、外でわっかが固定されていなければ、内側のわっかを回せば開くのだ。
僕もさすがにこわくなってきたので、そのわっかを握り、勢いよく回そうと手を下ろした。
勢いよくわっかがまわるのを期待したが、途中でがくん、と止まってしまい、
再びそのわっかを握ったときのことだった。
「*+>?+<>#””#($%’%’(#」
何か聞こえた。
しばらく耳をすましていると、再び、
「*+>?+<>#””#($%’%’(#」
女の人の声だった。
ああそうか、そとにいるまなかなあなが何か言ってるんだ。
そう思いながら重いわっかを動かし扉を開けた。
しーん。
扉の前には誰もいなかった。
僕は再び耳をすました。
「*+>?+<>#””#($%’%’(#」
もしやこれはジュンジーの例のやつか?
とぼくはすこしわくてかしながら、聞き耳を立てた。
「*+>?+<>#””#($%’%’(#」
しかし、なんど聞いてもその女が何を言っているのかわからなかった。
ぼくは彼女の言葉を理解するのをあきらめ、階下へとあがっていった。
AB先輩、かな&あなが不機嫌そうな顔して待っていた。
「矢口がよぉ、ちょっと彼女とドライブしてくるって行っちゃったからお前乗っけてけだってよ。」
A先輩がとても不機嫌そうに僕にいった。
やぐち、ぶっころす。
宮崎正弘『トンデモ中国、真実は路地裏にあり』(阪急コミュニケーションズ)
ウィグル自治区で殆どのモスク(イスラム寺院)は静謐そのもの、宗教活動は地下へ潜ったと見られる。
新彊ウィグル自治区は地理的にみると中国の西北に位置し、その面積は百六十四万六千八百キロメートル。じつに中国総面積の六分の一を占める。日本の総面積の四倍以上だ。
大半が砂漠である。だから中国は平気で核実験場としてきた。そのうえ新彊ウィグル自治区とカザフスタン、キルギス、アフガニスタン、パキスタンなどとの国境線だけでも五千七百キロに達する。
国境警備にも力点をおくわけだから長大な防衛戦において兵站の確保は並大抵ではなく、どこからでも駱駝は進入できる。ビンラディン一派に通じるイスラム原理主義過激派のゲリラが武器を中国国内に運びこむのもさぞ容易なことだろう。
極めて厳しい自然環境、乾燥した気候である。とても住み良い、暮らしやすいという環境ではない。砂漠では水の確保も簡単ではない。広大であっても貧しいこの地域におよそ千六百六十万人が住んでいる。そのうちウィグル族が約九百五十万人、言うまでもなく大半はイスラム教徒で、古くからマホメットを信仰している。
中世から近世にかけて現在の中国北西部を収めていた元は原住民のイスラムの信仰には介入しなかった。近代になっていまのカザフスタンから新彊ウィグルにかけて「東トルキスタン」が建国されると、復古を主張する地下運動が盛んになり、血の弾圧に屈しないばかりか、ますます闘志をかき立てて原住民は漢族に立ち向かうようになった。
新彊ウィグル自治区の党書記・王楽泉(山東人)はすでに十年以上(駐 執筆時点。いま現在は17年)に亘って、この地域の党書記として君臨している。
あたかも欽差大臣のごとく居丈高に振る舞っているが、九八年九月二日の記者会見で!)宗教の管理をさらに強める!)共産党員はイスラム寺院に行ってはならない!)女性が顔を隠すのを禁止する!)ウィグル青年が長期不在となれば「過激分子」とみなし「宗教の自由」を剥奪する、などと時代錯誤の対策を語った。
ウルムチへ入った。ウルムチ市内には西安やチチハルの清真寺のように迷路の奥の路地裏の、さらに裏にこじんまりと立つ小規模なモスクもあれば、福建省泉州のように街の真ん中に公園化した瀟洒なモスク(漢字で「清真寺」を一般的に充てるが、泉州だけは「清浄寺」という)もある。道路沿いに多くの信者が住んでいるが、各地で表向きの信仰生活がみられない。公安の警戒を懼れ、モスクに信者がちかつかないのだ。
冷戦終了直後に旧ソ連領のカザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタンを歩いた経験があるが、随所で早朝から大きなスピーカーで「アッラー、アクバール」とコーランが流れているのを聴いた。
ホテルでこの聖なる音に目覚め、やおら窓を開けると、♪アラーは偉大なり♪
イスラム圏のまっただ中にいるという旅情がわき上がってきた。バグダットでもイスタンブールでも、エルサレムのアラブ街でもサマルカンドやタシュケントでも同じ情景があり、必ずそこに宗教音楽が付帯した。
しかし中国は違っていた。宗教音楽はおろか公然とした祈りさえないではないか。
一方でアルカィーダ秘密基地に「東トルキスタン独立」を掲げたイスラム原理主義過激派が訓練を受けていた。
寧夏回族自治省のみならず新彊ウィグル自治区のトルコ系住民のなかにイスラム原理主義が拡大している事態の到来は、五輪をひかえた北京中央にとっては鮮明なる脅威という認識である。
北京は「9・11事件」の事後処理に便乗し、ウィグル独立運動を「テロリスト」とそそくさと規定した。そのうえで米国に圧力をかけ、容赦ない弾圧を新彊ウィグル自治区で強化した。911テロ以降も一万人もの「テロリスト容疑者」を拘束、一部を拷問にかけた。
イスラムの動きに鈍感で敵対心を潜在意識に潜ませる欧米諸国は、ウィグルに関してはチベットに寄せる同情心と較べるとやや薄い。まして米国は02年八月にアーミテージ国務副長官を訪中させた際に「ウィグル独立運動」を中国が要求するまま「テロリスト」に認定し直した。イラク包囲網を実行し国連で武力容認決議を急ぐあまり米国は拙速にも北京と妥協したのだ。
(中略)
村全体がウィグル人だったりする農村では、当たり前のようにモスクに集う人々の姿がある。また西安のような大都会でも、中心部のイスラム寺院「清真寺」には人々の礼拝が絶えない。モスク近くでコーランのテープやCDを買おうと尋ねてみるが、一枚もない。一軒だけコーランの経文を売る店がトルファンにあったが。。。
あまりの弾圧ぶりに、宗教活動は地下に潜ったのだ。年齢によって差はあるが、人々の服装を見ても若者の一部はイスラム帽もかぶらず、ピアス、茶髪、ショート・パンツが珍しくない。ウルムチにさえディスコやカラオケがあって暴走族がいる。カザフ・カラーという独特の模様の民族衣装はかろうじて残るが、TVと新聞を北京に握られている以上、イスラムの主張は宥和的、微温的にならざるを得ないようだ。
ウィグル族の首都であるにもかかわらず、ウルムチには圧倒的に漢族が多い。動物園にはパンダ、市民の公園、遊園地も漢族の家族連れが目立った。いまやウルムチは「ウィグルのチャイナタウン」ではないか。
街の看板は漢字とアラビア文字が併記されている。ところが目立つのはカラオケ、瀟洒なビジネスビル。大通りに溢れるのはトヨタ、日産、ホンダの車である。
服装もあか抜けしたデザインが主流で、ウィグルカラーの民族衣装を着た人は少数派になりつつある。自転車が道に溢れ、商店の物売りたちの活気ある呼び声。バザールの喧騒。中国全土のどの都会にも見られる風景で、設計思想は似通っている。
最近のおびただしい漢族の入植は、この地にも工業化をもたらし、経済的な発展を遂げた。生活が少しでも豊かになれば物質的な欲望が果てもなく拡大するのは致し方のないものであろう。
都会のウィグル人の若者は懸命に北京語を学んでいる。言葉ができないと官として出世は望めず、給料も上がらないからだ。
中国沿岸部の人たちは競って英語か日本語を習得し、外資系企業に勤め、うまくすれば外国人の伴侶を見つけて外国籍をとりたいと考えているようにムスリムのあいだにも漢族と同化し暮らしを豊かにしたいと考える若い世代が増えている。むろん村の古老たちはこうした現象を苦々しく見ている。
~~~~~~~~~(中略)~~~~~~~~~~~~
「交河古城」は岩の大地を上から発掘して造った、世界でも珍しい彫刻都市である。
南北一キロ、東西が三百五十メートルの大地の真ん中を道路が貫いている。寺院、仏塔、住居跡が掘り起こされていて壮観であるが、どんな理由があってこんな苦労をして大地の中に都市を閉じこめようとしたのか。異民族の進入を防ぐための秘密都市だったのだろうか。
交河古城はそうした思惑の通りには行かず、漢族に滅ぼされ、城は徹底的に破壊され、新たに建てられた高昌城にとってかわられた。その高昌城とて後年には唐の大軍隊が侵略してきて滅ぼされた。数千年の間、仏教とイスラムの苛烈な戦いが繰り返された新彊ウィグル各地の仏教遺跡には、一つとして満足な仏画、仏像がない。偶像崇拝を禁ずるイスラム教徒の手によってことごとく破壊されたからである。
嘗てタリバン支配下のアフガニスタンではヘラートに近いバーミャンの石仏をイスラム原理主義過激派らはミサイルで破壊した。「世界遺産」であれ、なんであれ狂信的教徒は他宗派を認めない。それは共産主義も同様である。
南に天山山脈を挟むクチャ、カシュガルともなるとイスラム教は俄然、強い色彩を帯びる。カシュガルのエティカル・モスクは中国のイスラム教徒のメッカだ。ここに巡礼を果たしたイスラム教徒は仲間の尊崇を集めるという。
現代の宗教の一つである共産主義は他の宗教指導者を逮捕し、拷問にかけ、北京に刃向かうと見れば次々と処刑した。モスクを物置にされたイスラム教徒の怨念はなまなかなものではなかろう。
血の弾圧を受けた新彊ウィグルの民は、チベットと同様にイスラム教への信仰をひたすら内面に押し込めた。その分、人々は心の中に蓄積された漢民族に対するルサンチマンを歪んだ形で膨らませだ。歴史的に蓄積されたこの反漢感情のエネルギーに火がつけば予想外の炎となって燃え広がるのは明らかである。
イスラムの歴史と文化は漢民族に蹂躙され、独自の文明は形骸化した。イスラム教は地下に息を潜めている。したがってもしイランのホメイニ師のごとく強靱な精神的指導者が現れたなら、かつてシャーを打倒したイラン革命のように漢族に対する一斉蜂起が起こるだろう。
(拙著『トンデモ中国 真実は路地裏にあり』(阪急コミュニケーションズ)からウィグル箇所をダイジェストしました。同書は全33省を寄稿した、おそらく日本で唯一の本です。アマゾン ↓)