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漫画家の「儲け」にまつわる話には、ふたつの矛盾するように見えるストーリーがある。
世間一般の思う、一度当たれば「印税」でガッポガポというイメージ。
一方で、例えば「バクマン」に描かれる、(いちおう)漫画家自身の表現によると「連載が終われば数年で貯金も尽きる」という話。
どちらが間違っていて、どちらが正しいのか? というのは誰しも思う疑問。
しかし深掘りして考えてみると、これは「どっちも正しい」。だからこそ、漫画家って商売は他にない特殊な営業形態なんだとわかる。
※以下では、漫画家業のもっとも「売れる」形態として「週刊連載漫画」に限った話を考える。
まずほとんどの漫画家は雑誌に連載するという形で基本的な収入を得ている。
ここではわかりやすく、1万円とする。
すると、1万円×毎週20P×月4本で、月収は約80万円(100万円弱)くらいが一般的な週刊連載漫画家の最低収入の相場と言える。
ジャンプコミックスの場合約40円。連載が続けば年に約5冊出るわけだから、例えば単巻10万部売れていたら2000万円の収入になる計算だ。
もちろんこれは税金等を一切考慮していない売上高であり、これだけの額になれば実際には半分程度持っていかれるだろう。それでも、なかなかの高収入に見える。
しかし問題は、これだけ大きな売り上げが見込める週刊連載漫画には、実際にはスタジオ制作というコストのかかるシステムが必要なことだ。
最低限度で考えても、アシスタントを4人雇えばその人件費だけで40万は下らないだろう。さらに、それだけの人数で描くと、多くの場合自宅作業ではなく別途仕事場を借りる必要もある。
まあこのあたりは人により原稿料もスタッフの給料もさまざまなので一概に言えないのだが、一般論として原稿料の高いベテランほど、大きなスタジオと技術の熟れた固定メンバーを確保して経費も大きくなる傾向がある。
そんなこんなで、よく言われるのは、原稿料はこれらの諸経費だけで全部消えてしまうという話。
増田にも漫画を描いた経験があるが、20Pの原稿を1週間(弱)で仕上げるというのは信じられないような過酷な作業であり、アシスタント制をなくしては、現代の商業誌に載っている平均的なレベルの漫画を毎週仕上げるなんてことは、作家の「画力」がどれだけあろうとほぼ不可能に近い。
商業漫画のクオリティというものは、この自転車操業のほぼ利益0のシステムが必須であるということはよく覚えておきたい。
一方で、出版冬の時代といわれる昨今、単行本はどれだけ売れているのだろう。
実は、漫画雑誌の中でも押しも押されもせぬ発行部数を誇る「週刊少年ジャンプ」と言えども、信じられないような低い数字も珍しくない。
「鬼滅の刃」や「呪術廻戦」の華々しい数字がメディアに踊るので勘違いしがちだが、ジャンプ連載漫画のほとんどは単巻10万部も売れていない。
例えば、最近アニメ化もした「アンデッドアンラック」や「夜桜さんちの大作戦」(どちらも20巻を越える長期連載)でやっと10万部前後だ(総発行部数を巻数で割って大まかに計算)。
ものすごいものになると、大人気漫画「磯部磯兵衛物語」の作者・仲間りょうの次回作「高校生家族」は、ネット上ではちらほら好意的な感想が散見されたものの、実は売り上げは単巻1万部以下(計測不可)で打ち切りとなってしまった。増田も好きだったのでショックを隠しきれない。ドラマ、絶対いけると思たのに!!!!!
閑話休題。そもそも、「磯部磯兵衛」も単巻ではやっと30万部売れたくらいだ。「斉木楠雄の災難」も同レベル。ギャグ漫画はヒット作でももともとそんなものだということも注意しておきたい。
上でも計算したように、10万部売れてやっと年収2000万、税金が多く引かれることを考えると、サラリーマンならそれなりに良い会社に勤めているというレベルだが、長くても数年で終わってしまう印税収入であることを考えると、はっきり言って少ない。これが一桁上がると一気に数億円になって生涯年収というクラスになるが、そういう「上がり」の漫画家は本当に一握りなのだ。
原稿料はスタジオ維持費で消える。「もうけ」は単行本売り上げ次第。この二重構造が生むのは、株の売買でいうレバレッジの危うさだ。
株のレバレッジ買いというのは、簡単に言うと「株価が上がった時は2倍儲かるが、下がった時は2倍損する」ような信用買いを言う。らしい。増田も素人なのでそこら辺は聞き流していただきたい。比喩なので。
漫画家の場合、ある意味でなお悪い。連載があるときは、定期収入でスタジオを維持しつつ、漫画が当たれば大きなもうけがザクザク入るが、当たらなければそれなり。連載がなくなるとスタジオの維持費を賄う原稿料もない上に、普通は昔の単行本もそこまで売れ続けないので、ただ金が減るばかり。
当たらない漫画を描くということは、その連載中の儲けが少ないだけでなく、連載を終わらせることのリスクも同時に上げてしまうのだ。
当たらない漫画ほど、原稿料の維持のためにしがみつきたくなるという負のインセンティブが働くのである。
こうした不思議な構造は、漫画家が作品を当てて印税収入で儲けを出すという「作家」の側面を持ちながら、スタジオを抱えて自転車操業で日々口に糊するという「中小企業の経営」を求められるという二面性を持つ仕事であることに起因する。
本来、トキワ壮くらいの時代の漫画家は、前者の性質しか持たなかった。小説家や他のフリーランスのアーティスト業と何も変わらない「作家業」であった。
しかし、彼らが売れていくにつれ、漫画産業が盛んになるにつれ、漫画家は「作家」ではいられなくなって来た。
当たれば天国、外れてもまあまあの貧乏暮らしという気楽な稼業でなくなった漫画は、作家としての挑戦に誘うものよりも、日々の仕事をキッチリキッチリで稼ぐ真面目な仕事という側面が大きくなってきてしまった。それでいて、やはり作家自身の成功の如何は、印税収入という儚い夢だけに支えられているのだ。
たまに当たりはあるけども、当たったところでそれはそれだけ、次の事業拡大には繋がらないビジネスなんて、他にあるのだろうか?
こうした漫画家業の二重性は、もしかすると将来の漫画産業に負の影響をもたらすかも知れない。あるいは、既に?
週刊連載をしないと、ここまでのスタジオワークは必要ない場合がある。
とは言え、多くのメジャーな月刊誌を見ている限り、やはりある程度売れる作品は週刊漫画と同じスタジオワークとクオリティで商品価値を保っている例が多いと感じる。
さらに、やはり週刊連載漫画は漫画界におけるある種の花形である。
「鬼滅」「呪術」の例に漏れず、誰でも知ってる大ヒット作というものは週刊連載作品が多い。
これは作品の展開が早いこと、露出が多くなり話題にあがりやすいことなどが理由としてはあるだろう。
ジャンプ連載作品というブランドがまだまだ強いとも言える。しかし、それでも上で述べたように、大半は10万部も売れない自転車操業なのが現実である。
逆に言うと、この状況を変えれば、週刊連載という危うい綱渡りに賭けなくても良いのかも知れない。
現代はネット社会である。作品を世に出す、露出させることについては技術の恩恵がさまざまに得られる時代である。
漫画産業がこれからの時代も伸びていくかどうかは、こういった状況をうまく利用して、漫画家という「稼ぎ方」をどれだけ変えていけるのかにかかっているのかも知れない。
美人についても同じだが、同一人物のなかでその判定に容易に矛盾が生じるのがこの観念の脆さ危うさだと思う。
たとえば同じ人間にAとB、BとC、AとC、CとDについて立て続けにどちらの方がイケメンに思うか判断してもらってA>B、B<C、A>C、C>Dという結果が得られたとする。この時点で論理的にはA>C>B>Dであることが確定する。しかしその後さらに間髪入れずにBとDどっちがイケメンであるか聞いたら果たして必ずしもDよりBの方がイケメンであるという答えが得られるだろうか?本人が自分の答えとその論理的関係を記憶しているなら、確かにそう答えるかもしれない。しかし逆の答えであったとしても、その立て続けの質問のごく数分の間に本人の中の美醜に関する価値基準が変化したとは考えにくい。
AからDという四つの中での比較では、数が少ないので論理的に一貫した答えになる可能性が高いと思う人も多いので、もっとたくさんの中からの比較でもいい。美醜に関する価値基準が変化を起こさない程度の長さで、比較作業が完了する範囲でならいくらでも比較させる人数を増やしてよい。人数が多いほど、その人数間の美醜の優劣の判定により全ての間での順序が確定するのに必要な比較数と、順列組み合わせとしての考えうる比較数との間の差は大きくなるだろう。考えうる比較数から順序の確定に必要な比較数を引いた残りの比較数分の比較において、それ以前の比較に対して矛盾した答えが得られそうなことは、人数が多ければ多いほどそうなりそうなことは想像に難くないだろう。
またAとB、BとCみたいに二人ずつ提示して比較させるのと、最初から比較対象を全て提示してこれらをイケメンである順に並べ替えてもらうのでも、同日人物なのに結果は違ってくるかもしれない。
そう考えると「美醜に関する価値基準」なるもの自体存在しないという仮定が浮上する。これは一瞬一瞬その基準が変化するという意味で存在しないと言っているという次元のものではなく、そんな基準なるものは一個人の中にある一時点においても論理的に記述可能な形でなど存在していないのではないかということを言っている。
もちろん一つずつ提示して、こいつはイケメンかブサイクかと聞いていくやり方でならどっちかの答えを得られるのだろうから、定性的観念としてのイケメンとか言うのは破綻なく存在しているのだろう。そこもまた奇妙なわけだが。
だけども二者比較をさせれば全体の順序関係がわかる、その人の美醜に関する基準がそこから論理的に推測できるような。半定量的観念としてはそのような観念は存在していないのではないかと思う。
もし多数派にとって今現在顔面偏差値がトップクラスの顔の割合が全体の99.9%でも占めるようになったらどうなるだろう?そういえばテストの場合だと満点の人数がそれ以外の点数を取った人数の合計よりも多い時の満点の偏差値はいくつ以下となるのだったか。多分一般に高偏差値と言われるような数字ではなかったはず。
つまり顔面偏差値という言葉自体使われてなくなるかもしれない。
ただし0.01%のブサメンの恋愛市場における価値がその希少性によって上がるかといえば、これは生理的に受け付けないという要素によるものも大きい可能性があるので、無関係かもしれない。
同じ理屈で、99.9%が今でいう超ブサメンになっても、相対的にその低い価値が普遍性によって押し上げれられるかといえばそんなことはないように思われる
名前の漢字を電話越しに説明するときは、部首ごとに説明するか、一般的な単語を用いて説明するのが基本だろう。
田中さんなら「田んぼの田に、真ん中の中」、佐藤さんなら「にんべんに左と、藤の花の藤」だろうか。
まあこれくらいメジャーな名字なら「名字でよくある一般的なヤツ」で通じるだろうけど。
では「貞」という漢字が名前に入っている人は何と説明しているのだろう。
ただ私はほぼテレビを見ない20代で、「おうさだはる」という字がパッと出て来なかった。
パソコンで変換して確認したから問題は無かったが、若い世代だと王貞治はすぐ出て来ないことも多いのではないか?
私が「貞」が使われている単語を思い浮かべても、どうしてもビジネスの場では向かない単語しか思い浮かば無い。
ビジネスの場で使える単語でも、電話越しに伝えることを考えると、世の中一般的に知られている単語でないとあまり意味がない。
見ていない方のためにざっくりストーリーを説明させていただこう。
ドラえもんがまだ帰っていないことを伝えると「野球に誘うつもりだったのに」と憤慨し帰っていく。
のび太が裏山の掃除をしているのを見て感激したドラえもんが心の土という道具を貸すと、感情を得た山とのび太はみるみるうちに仲良くなる。
のび太は山にばかり行くようになり、学校ではぼんやりとしていて帰りも遅い。
「のび太くんのためにのび太くんをこれ以上山にこさせないでくれ。」
山はのび太を突き放す。
ドラえもん「山は本当にのび太くんが好きだったんだね」と微笑む。
感動ストーリーとして書かれたものだと思うし、私も感動しそうになった。
でもこのストーリー、これを児童アニメが軽率に感動として扱うにはあまりにも危うくないだろうか。
のび太は野球が得意ではないし、ジャイアンはのび太をいじめている。
のび太にとっての野球に行くというのはいじめられに行くというのと同義だ。
頭ごなしに叱られ、笑い者にされるだけで適切なケアは受けられない。
勉強ができるようになるためのフォローは受けられず、のび太のなかで“自分は出来ない”という考えだけが積み重なっていく。
学校も野球ものび太にとってただただ自己肯定感と尊厳を剥奪される場所だ。
この話のなかでのび太は逃げ出し、“逃げ出し先”を奪われることでまた元の場所へと戻る。
結局のび太を逃げ出させた原因はなにも変わっていない。
追いやられたから出ていかざるを得なかっただけで何も根本的には解決してない。
あやとりも射撃も得意だ。それが評価される世界で生きられていないだけだ。
それだけなら良い。ドラえもんはそれでも面白いから、一作品としてならそれでも構わないのかもしれない。
でもドラえもんが児童アニメであるならば私たちは“のび太のような子供”について考えなくてはいけない。
運動も出来ない勉強も出来ない。馬鹿にされるばかりで得意が評価されない。自分は何も出来ない。
児童アニメはそういう子供に「君は何も出来なくなんかない」「仮に何もできなくても君には価値がある」と伝えるものでなくてはならないのではないか。
いじめられるような笑われるような理不尽な環境からは逃げたって良いと教えるべきものだ。
ようやく見つけた居場所を問答無用で取り上げて、辛い環境に向かわざるを得なくすることを美談として流してはいけないのだ。
私はドラえもんが好きだ。
ドラえもんは凄い。ずっと昔に描かれた漫画なのに今の価値観を先読みしてるような話さえある。
藤子F不二夫先生は、常にその時の最新の価値観を追って、噛み砕いて考えて自分の価値観として落とし込んで漫画を描いていたんだろうと思う。
ドラえもんは紛れもない傑作だ。
でも、だから、やはり言わなくてはならない。
児童アニメとして、子供に“これが当たり前だよ”と伝えるものとしてはあまりにも厳しい。
作品としての良し悪しの外の話だ。
なまじ子供向けとしての立場を確立しているからこその危うさだ。あからさまにエログロのあるアニメは見せないか、見せるにしてもある程度気を使うがドラえもんは皆が無警戒で流してしまう。そういう土壌がある。
テストで0点をとり続ける息子にするべきは、頭ごなしに叱らず話を聞くことだ。
のび太はけして駄目な奴じゃないし、辛いときは逃げたって良い。
ドラえもんがそのまま放映されているということは、私たちがそのままだということだ。
停滞してはいけない。与えられるものをぼんやりと当たり前として享受し続けるのは愚か者のすることだ。
左派が反科学志向、右派が科学志向、みたいな話をネットでちょいちょい聞くじゃん。
まあお偉い人たちは右派もカルトやらEM菌やら親学やらに浸かってるけど、市井のSNSだと、右派が科学を武器に左派と戦ってる分野がちょいちょいあるわけ。
これについて、元々左派の方が革新とか合理性とかで世の中を変えてたはずなのにどうしてだろう、って不思議に思う人もいるだろうけど、理由の一つは浮かぶ。
左派が、合理性や効率の名のもとに切り捨てられた人々を救う方向を選んだ、というのがソレだ。
たとえば「人間を数字として扱うな」というメッセージをパッと見た時、右派の物だと思うだろうか、左派の物だと思うだろうか。
今ではおそらく、左派の主張かな、と感じる人が多いだろう。
大昔は、宗教や迷信や慣習によって物事を進める右派に対して、数字で効率を見て改善していけというのが左派だったはずだが、
今は物事が数字で評価される(少なくともそう装う)ことが標準となり、左派はそれで切り捨てられる個人の感情や物語、弱者や少数者の立場などを守れという立場になりつつある。
海老フェミは、科学的・統計的な調査ではカウントされてなかったり、カウントはされてもリソースを割く必要がないくらい少数の被害であっても、被害は被害としてあるから対処すべきってことなんよな。
西洋科学エビデンス認定からは切り捨てられる部分にも問題があるんだぞ、その「非」西洋科学的なエビデンスが私自身だ、西洋科学を唯一絶対とするな、と。
だから表題の通り、東洋哲学的なニュアンスを帯びつつあるんだよね、今の市井の左派って。
私は東洋哲学にも価値があると思ってるので、必ずしも左派が間違ってるとは言わない。
まあ、そこからニューエイジやヒッピー、代替医療、ベジタリアン、スピリチュアル、カルト、などにいっちゃうルートが色濃くあって、それはかなり左派の危うさだなと思うんだけど。
一見して光るものを、今のところ、この人の絵に見出せないけれども
努めて一心に描き続ければ、個性はそのうちに開くのではなかろうか
あと、その本領をあくまで銭湯絵というさだまった枠に限るならば
実際の需要に堪えるだけの地力を身につけた時点でまあ食べて行けて
比較的、専業の画家としてやっていくことのハードルは低そうなので
ひとまず一人前の銭湯絵師と認められてから我流を得ればよかった
でも、今回の盗作はどうしたって過ちというほかに言い様が無いよね。
この人の容姿がすぐれて自分の好みを射ているので、軽蔑し切れず
ひいき目からおもいついた擁護を手短に述べると以下のようになる
たぶん、この人は芸術家の真剣さをもって絵に向き合ったことがない
自分の絵が他人を喜ばせることに満足する域をいまだ脱しないようだ
これを自己顕示欲と見做すのは確かにまちがってないと思うけども、
銭湯絵師のような職人には、純粋な創作衝動が必要なわけではなく
お客さんの注文に応じられるだけの技量がそれに先んじて求められる
つまり、その技術さえあれば、注文した人を満足させられる筈なので
他に類を見ない個性というものを伴わない自己顕示が、よく成立する
また、これは紛い物でも三流でもなくれっきとした生き様になりうる。
が、恐らくこの人はマジメに芸術家を志しているのではなかったから
他人の作品の構図、意匠、いやそのものの剽窃に対する感覚が無い
どうだろう、落ちていた百円を拾う位の罪悪感があればいいほうかな
それはサイコパスっていうよりも、謂わばしろうとの能天気にみえる
悪いことには違いないけれども、なんというか、邪悪では無さそうだ。
とはいえ、言い尽くされているように、これは明らかに悪いことだ
絵を仕事にするはずの人間の心がけとして、致命的と言うほかない
web広告の情報へのアクセス方法などの特性などを考えると、リンクされてるタイトルにPRと記載されていないのは、落とし穴を掘って獲物を待っている状態なので、消費者に対してフェアな態度であると胸は張りにくいと思います。
世の中には、リテラシー()が高くきちんと内容を理解し情報の取捨選別ができる人と、そうじゃない人がいるので、クリックする場所にPRと書いていない場合、残念な人は広告だと思わずに落とし穴に落ちてしまうかもしれないですよね。落とし穴が浅くてふかふかクッションが敷き詰められた「内容が良い落とし穴」であったとしても、落とされたくないなと思っているかもしれない人を落とそうとしていることには変わりないので。
ヨッピーのPR広告は面白いからまぁいいかと思われている、要するに「読ませる内容にする」ことと、きちんと読めば記事の中に盛り込まれた正しい情報を取得できるという質の高さで、バランスを取りリスクを担保していますが、そのバランスがずっと続く保証があるわけじゃないことが「構造的」に問題だということです。
ヨッピーがいつか「悪ヨッピー」になって、面白おかしく読ませる記事でねずみ講や水素水や怪しげなFX教材などを薦めはじめないという保証は、ご本人含めだれにもできない。もっと高い確率で起こることは、質の悪い「ヨッピーフォロアー」みたいなのが簡単に残念な商材のインチキPRに手を出すことでしょう。DeNA騒動なんかを見ても簡単に予想ができる。
だから「内容の良さ」の問題じゃなく、「構造」の問題だと言っているわけです。ヨッピーの人間性や作った記事ものへの批判ではなく、構造への批判です。まぁ宜しくない構造に乗っかっちゃってるのが、どうにもなぁ…という残念さはありますが、彼も稼がなければいけないでしょうし、ポジショントークに堕ちるのも仕方がないのかもしれないです。
個人的にはweb広告業界自体が、自浄作用が低くPV重視で社会的規範を超えやすい構造があるのも気になります。広告メディアとしての信頼性が下がることは、結局はそのメディアを扱う人の首を絞めることになると思うんですけどね…
これは、リアルの媒体じゃないからこその危うさだと思いますが、web広告業界で仕事をしている人たちは、量で凌駕できる時代が後どれだけ続くと思っているのか割と心配してはいます。プルメディアとして使うなら別にどうでもいいんですが、PR記事ってプッシュメディアとして期待されることが多いと思うので、なおさら、それ言っちゃうのかヨッピーが。首絞めてんなぁという面白さはあります。