はてなキーワード: 黒子とは
これな、意外と保育園は充実してるんだけど小学生から先がむずかしいのよ。
学童ない(あっても子供が特殊とかで使えない)ママ専業化の要因ですね
3歳児神話とかいうけど、今学校がとても硬直化して、ママ代わりに細やかに動こうなんて気が一切ない。
中学まではそれでもマシだけど高校からものすごく子供をすりつぶす動きをするようになってる。
高校1年生、15歳が一番心が折れる子が多い。いじめが多くなるのも子供同士が全般的に抑圧がきつくなるから。
もうとにかく文科省が無能で子供が一人で学校にいけないようにしてしまったの。昭和のモーレツサラリーマン扱いしてる。
ほんとマンガとかで炊事洗濯掃除ができる子供とか大人(読者を投影したKKOおじさん)の面倒みてる子供とか夢みたいなことばっかりかいてるからそうなる 普通は大学でもろくにできません。ママ奴隷、ママ黒子が前提になってるんだよこの社会
だからって生活科をどうにかしろとまではいわないよ、そもそもカリキュラム詰め込みすぎだし野球とかへんな才能ばっかり伸ばしすぎ
黒子も楽しめないとは拗らせてるな
声オタでもなんでもないKKOなのだが(肥えてはいるが)、もし素っ頓狂なことを言っていたら申し訳ないのだが、
声優が最近は「そこそこ美人」で「似たような声」かつ「演技がうまい」という高品質なレベルで高止まりしている気がする。
20年前で声優といえばお世辞にもおブスばかりだったわけだが、そのかわりに声に個性があったきがする。
その中でも美人といえば鶴屋さんの松岡由紀さんやレールガンの黒子の人などであったが、いまきいても個性がありすぐわかる。
最近では水瀬いのりさんなどはキンキンした個性あるで演技もうまいが、見た目もアイドルで売っているようである。
そういう個性ボイスで売っている人が減ってきていて、誰に任せてもそこそこ無難に演じる、
なにか均質な重箱弁当というかんじがする。
アニメ産業的にはそれでいいと思うが、こういうのは声優スクールとかの産物なのだろうか。
どうも、漫画おじさんだよ。
サンデーってことでトラバでは過去の名作が多く紹介されてるけど、現在連載中のものでも結構面白いのあるよ。
・「第九の波濤」 水産大の話
上記2タイトルは農大ものでウケた「銀の匙」の亜種みたいなもんだけど、
対象年齢がジャンプやマガジンより一回り上で、派手さには欠けるけどしみじみ面白い。
・「Swich」バスケ漫画、画力高い。割とリアル寄りのバスケで面白さ的には黒子と同じくらい
・「BeBlues」サッカー漫画、画力高い。「DAYS」や「アオアシ」と張るくらい面白い
サンデーはスポーツものもいい。本誌のタイトルは地力がしっかりしてる印象。
裏サンデーならマイナースポーツものの「灼熱カバディ」「送球ボーイズ」も荒削りだけど勢いがあっておすすめ。
完結済みなら、王道の名作は他のトラバでも触れられてるので最近完結したタイトルを2作紹介させてくれ。
・「BIRDMEN」 割とスケールの大きい本格SFなんだけど、しっかり青春してる
・「湯神くんは友達がいない」 実在感があって素朴なキャラの魅力がすごいリアル寄りの学園ラブコメ
どちらも説明が難しいけど、「サンデーらしさ」みたいな雰囲気もあって面白く、長すぎず短すぎずで読みやすいと思う。
高橋留美子、藤田和日郎、椎名高志あたりの大ベテランは新規より固定ファンで持ってる印象あるけど、
腰を据えて読んでみるとやっぱり面白いよ。
途中で自分で声優の話してるからうすうす気づいてるんだろうけど、セリフ音読してみろ
とてもいえないような「高速増殖炉もんじゅ」とかいれてねえか?
普通は「買った」ですむとこを「購入」みたいな硬い音読み言葉を自然にセリフにいれてしまってないかのチェックに、音読はなるんだ
一度発音してみれば「こうそくぞうしょくじょ、ええとアレ」みたいにどうしてもなることがわかる
どうしても原語のままつたえたければルビ(逆ルビ)を使う手もある
パン咥えたまま発音するやつのセリフの「んもももももっもっも」のルビに「んなこといったって」といれる 抑揚で大体伝わってるんだなってわかる
あと音便 促音便撥音便きっちりいれてこ 「なんでオレがンなことやんなきゃいけねんだ!」みたいな感じ
二葉亭四迷以来、耳で聞いたままのセリフを小説にかいていいことになったんだぜ、感謝だな
はっきり言ってこの文脈において鬼滅の刃はそこまで重要じゃないんだけど、要は生まれ変わりの話である。
鬼滅の刃は最終巻を除いて全て読んでいるし、一年以上前からジャンプ本誌を購読していて大体の展開は知っている。三島に関してはこれまで十冊くらい読んだ。仮面の告白、金閣寺、豊饒の海。そういうやつだ。
要するに生まれ変わりの話である。三島由紀夫は東大を卒業して官僚になった後で小説家に転身した。諸々の経緯を省くと最終的に自衛隊基地で生涯を終えることになる。この事件には様々な思惑が見られるのだけれど、それはそれとして三島由紀夫は生前生まれ変わりというものへの執着を小説において大いに語っていた。勿論、それはポーズだったのかもしれない。荒唐無稽でナイーヴな小説家としてのポーズを取ることで、あるいは自分の目的を推測されまいとしたのかもしれない。
いずれにしても、豊饒の海シリーズを読んでいる限りで彼はかなり真剣に生まれ変わりというものを信望していたように思われる。三島事件だってそうだ。彼が事件を起こしたのは彼の誕生日である一月十四日の四十九日前だった。つまり、事件から数えること四十九日後に、彼は改めてこの世に生を享けようとしたのである。少なくとも三島由紀夫の研究においてはそれが定説だ。
鬼滅の話どこ行ったねんというツッコミが聞こえてきそうなので言及しておくと、鬼滅は正直面白いと思っている。下弦連中の粛清とか柱合会議あたりから特に面白くなったよね。俺はかなり好きだ。上限の六の兄妹鬼のエピソードのラスト辺りとかも特に好きだ。
鬼滅の刃においては、人と人との因縁、因果、あるいは、極言すれば生まれ変わりについて表現が散見される。生まれ変わり、そんなものが本当に存在するのかどうかは確かめようがない。だから、この議論は率直に言ってナンセンスだ。そんなものは分からないのだ。このテの命題にそもそも述語を接続しようとすること自体間違っているのだ。そんなことは我々には分からないし、発言の余地はない。生まれ変わりについてはそれで話が即座に終わる。オーヴァ。本来なら。
とは言え三島由紀夫は明晰な頭脳を持ちながらに生まれ変わりをラディカルな部分で信じていたように思われる。少なくとも、自分の小説でそのようにアピールしている。生まれ変わりを自分は信じているのだと。どうやら、彼は周囲に口にしなかった個人的な体験によって生まれ変わりを信じるようになったのではないかと思われる。彼の遺作である『豊饒の海』の最終巻『天人五衰』が脱稿されたのは三島事件の二日前で、つまり、彼は事件の後で『天人五衰』が出版されるように計らったのであり、『豊饒の海』シリーズにおいて「生まれ変わり」が大体的なテーマとして描かれていたことからも、彼が自身の存在を「生まれ変わり」の信望者として印象付けようとしたことは明らかであった。遺作のテーマは生まれ変わり――そして事件を起こしたのは誕生日の四十九日前であり、これまた生まれ変わりを示唆しているのだ。当然この二つの事象はリンクしている。
『豊饒の海』シリーズにおいて、主人公は松枝清顕と本多繁邦であり、本多は松枝と死別するが、生前松枝の身体に刻まれていた脇の下の三つの黒子を巡って彼は様々な生まれ変わりの事実に直面する。三巻『暁の寺』において登場する東南アジア某国の姫君ジン・ジャンは、本来知り得ようもはずもない前世の詳細な記憶を本多に向かって詳細に語ることで、少なくとも作中において生まれ変わりの事実が明確にされることとなる。
脇の下にある三つの黒子、というのがキーになっているこの連綿とした転生は、恐らくは三島本人の人生においても見られたのではなかろうか。三つの黒子とまでは言わずとも、身体的特徴の極度なまでの類似、そして死者と当事者しか知らぬはずの記憶が語られること。それらによって三島は生まれ変わりの事実を、自身の人生においても確認したのではないか――? 無論こんなことを考えるのはナンセンスだ。そんなことは三島当人にしか知る由はないし、重ねて、生まれ変わりに何らかの述語を接続してはならないのだから。
因みに、彼の遺作のタイトルである『豊饒の海』はミスリードを誘うもので、本来このタイトルは、ヨーロッパにおける月のクレータの異称を指している。
古来よりヨーロッパにおいては月に存在する巨大なクレーターのことを「豊饒の海」と呼ばうのだ。
それは、月に存在する一滴の水も存在しない茫漠とした荒野のことである。「豊穣」という言葉とは裏腹な、無益と徒労を象徴する荒野の存在が、彼の作品には浮かび上がっている。
もともと炭治郎・禰󠄀豆子兄妹は主役ではなく脇役として設定されたキャラだから、
が、ダブル主人公のブームが2013年からというのは謎すぎる認識。
それにたとえば黒バスはメイン主人公の黒子が冷静タイプでサブ主人公の火神が快活タイプ。
テニプリも最初は天真爛漫タイプの遠山金太郎が主人公だったが、
そのライバルだったクール系キャラの越前リョーマを主人公に変えたという経緯がある。
鬼滅の後だけど、Dr.STONEの千空と大樹なんかも逆の組み合わせだよな。
「主人公といえば馬鹿で熱血」「親友・ライバルは知的で冷静」というステレオタイプがあるのはそうだけど、
それを逆転させて「ズラす」のはそこまで珍しい作劇ではないよ。
いつだったか忘れたが数年ほど前に、
「それは差別的呼称であり、当事者以外の者が謙遜・自虐・卑下に使うことは適切ではない」
事実、かつて多くの腐女子は自分の嗜好について自虐する風潮があり、
(乱暴な口調=男勝りなキャラ=自分カコイイ!!、という中二病も多くいたが)
それを本来の当事者であるゲイセクシュアルの方と思われる方の一部が、
「なぜ第三者である人間に立場を低く言われなければならないのか」
と憤慨するのは、当然の流れだと思う。
wikipediaによると、「同じ、よく似た」という意味のギリシャ語から生まれた言葉だそうだ。
(ちなみにホモサピエンスのホモはラテン語で「人」を意味するらしい)
「同じ性別を恋愛対象とする人」つまり「同性愛者」を指すに過ぎないのだ。
男性の同性愛者のことは「ゲイ」と呼び分けていることが多いが、
そのふたつを総括する言葉が「ホモ(セクシュアル)」なのである。
かつては「ゲイ」という言葉すらもしょっちゅう中傷に使われていたと思う。
現在ネットやテレビを見る人で、LGBTという言葉を聞いたことが無い人は滅多にいないだろう。
「ゲイ」は差別的なニュアンスで使われることが減ったと言えるだろう。
つまり、「分類上の呼称のひとつ」という本来の意味で使われるようになってきたということだ。
2chなどで多く見られる「ガイジ」「池沼(ちしょう)」という言葉だ。
2chなどで、と前置いてしまったが、私が小学生の時(10年ほど前)、
同じクラスに自閉症の子(支援学級に入っていた)がいたにも関わらず、だ。
この競争社会に生まれ落ちた存在として容易に陥りやすい思考である。
しかし、「障がい者である」ということそのものは、本当の障がい者にとっては単なる事実に過ぎず、
「マイノリティ」に属すること自体を屈辱的、普通よりも劣っていると決めつける集団心理だ。
(グループに属せないゆえにマイノリティと呼ばれるのかもしれないが、ここではあえてこう書かせてもらう)
とどのつまりは、「自分(達)よりも能力や数で劣っている人間は社会不適合者だ」というレッテルを貼る者達が、
ここまで色々書き連ねておいてなんだが、
私個人の意見としては、ああいうものは被差別者と差別者達が議論して折り合いをつけていくものだと思っている。
つまり、特に肩を持つようなことはしないが、一方的に攻撃するのはおかしいよね、くらいの認識だ。
しかし、社会の本質として「似ている人間同士の集団」こそあれ、
もしもクローンが作られ、同じ生育環境だったとしても、それは同じことだと思う。
「自分と違う存在」「自分より一見劣ると思える存在」を容認し、
それを愛する世の中に住みたい、と私は切に願うばかりだ。
文化などの違いによって
たとえば
OKのマークが しりのあな、という意味の差別用語の国もあるため
本人が意図していない用語の、海外からのクレームによって急遽非表示にしなければならず
本人との連絡を待っていられない状況 というのは起き得るから
そういう場合に急遽 数週間非表示として、その間本人を探し出し 差別用語ではない事を確認した上で
訂正を申し込む処理というのは必要だが
非表示になった段階で自主的に表現をチェックして書き直しておくのが、ブロガーのマナー あくまでも自主的な変更
英語への翻訳などをチェックして 差別用語になっていないかチェックしたほうがいい
いま、やりやすいのがブラックリスト これが差別用語ではないか?というので揉めている。ホワイトリスト ブラックリストではなく
許可リスト、非許可リストではだめなのか?というのはよくあるが
直すのは簡単だが歴史的文化的な理由であるから、逆に表現を守り、歴史を尊重するために代えられないし、差別の意図など歴史的になかったものであるから、変える必要性を感じない
ブラックリスト というのは、黒子などとあり 黒子は見えない などから日本人としてはとらえるものであり、黒人のことではないため 変更できない 黒人のことであれば謝罪して変更しただろうがあれは、黒子などと同じで 日本文化などであるから、変更する必要性を感じない 黒人のことであれば変更するだろう
玄人 黒子などは、日本の伝統芸のうのことであり、黒人の子供という意味ではない。日本文化にも配慮してほしい。
毛深いのがずっと悩みで就職してすぐに手足の永久脱毛をした。そこから十年経ち、今回デリケートゾーンの脱毛を始めた。誰にも見られないしなと思っていたけどとにかく毛深いので蒸れるし、衛生的に悪い。邪魔だしやっちまうか!と思って申し込み完了。
VとIラインの脱毛を終えて、O(肛門のこと)の施術が始まるとレーザーを当ててるナースが固まる。何かと思ったら「この黒子昔からあるやつですか?」と声がかる。私はわりと黒子はある方で、VにもIにも黒子はある。VとIの施術中には何も言わず「黒子避けますね」と声をかけたナースの様子に何事?!と心臓が縮み上がる。昔からあったような、ないような……医者にも見せたことがないと答えると「一度診てもらったほうがいいかもしれません」と答えられる。
帰宅して急いで鏡の前に立って足を上げるが肛門は見えない。スマホを自撮りモードにして足を上げて撮影。明らかにやべえ形の黒いものがそこに…………いつからそれがあるのか思い出せない。1〜2年は触れてイボっぽいのあるな〜って放置してた気がする。1年かもしれないし半年かもしれない。視界に入らないからそれが黒いと全く気付かなかった。しこりというかふにゃふにゃしたイボなのだ。
もしもパートナーがいたらすぐ気づいたのだろうかと思うと彼氏いない歴年齢を恨むしかない……心臓が痛い………今週中には皮膚科にかかろう。緊張で、不安で気が狂いそうだ。こんなこと誰にも相談できない。何もありませんように……
胸騒ぎで、夏が来るのが怖い。
じりじりと太陽の照りつける、白昼夢のようにまばゆい、青と白と緑のコントラスト。溢れ出るジューシな蝉の鳴き声。
それは記憶の奥底に眠る、美しい影のような夏の記憶。それは、遠ざかる波音の残響。
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少女には、頬の下あたりに黒子があって、仔馬のように綺麗な二つのまなこが私を見つめる。いつも涼しそうなワンピースを着て、はにかんでいる。
昼下がり、ふたりは麦茶が汗をかいているのを眺めたりしながら、うなだれている。
コンビニエンストアに行こうと話して、歩いて冷やしうどんと白くまアイスを買いに行く。
巨大な入道雲を眺めながら、ふたりは黙って、白くまアイスをかじった。
それから、夏の夕暮れがふたりを包み、遠い果ての方で、かすかに残った雲がつめたく、あかあかと燃える。
緋色に焼ける空と、哀愁を奏でるひぐらしの声は、まるで、世界の終焉をも示しているように感じられた。
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夜、世界は眠るように、静かな虫の音と蚊帳のとばりに包まれる。
昭和生まれの扇風機が送る、ゆるやかな風がふたりの頬を撫でて、通っていく。
その風は向きを変え、次は黄色と緑をあしらった風鈴をかすかに叩く。チリン、チリン、チリン。かりん、かりん、かりん。風は、薄いガラスの砕けてしまいそうな危うい音を叩く。
それはどうして涼しく、気持ちいいのだろう。氷の冷たさなのだろうか、それともスイカを冷やす水の、きらきらとしたせせらぎなのだろうか。ふたりはこんな話をした。
冬のように長い夜、線香の残り香は妖しい夢を誘い込み、ふたりはひと時、“間違えて”、清らな青い水底を泳ぐ二匹の若い鮎になって、絡み合う。
音もなく、照明から垂れた紐が揺れている。
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天井を通して、ふたりはつめたく、透き通るような星屑の空を眺めた。
さようなら、と呟いた。
原作厨「演じる俳優は声優と同じであくまで黒子でいてほしい、キャラクターに準拠してできればカテコでも素を出さないで、SNSでは変にキャラの真似はしないで。原作へのリスペクトとプロ意識を感じれば推すこともあります」
俳優厨「推しくんのキャリアの一端として興行のことを考えて推してるのを批判されても困る、こっちのファン活動はこれ。カテコで素の俳優としての想いは聞きたい。原作厨がキャラクターを通して接触イベに来るのはおかしい」
これは一例であり、原作厨にも俳優厨にも全く違う考えや主張もあることは勿論承知している。
その上で、たとえば上記のように、原作オタと俳優オタのスタンスはおそらく永久に相入れないものだ。
考えてみれば当たり前のことで、2次元至上主義のアニメオタクと芸能畑の追っかけは、同じオタクと括れないほど違う人種。それらをひとつの舞台という作品にブチ込んで両取りしようというのだから、価値観も大事にしているものも衝突するに決まっているのだ。
2.5次元の厄介なところはこのネーミングだ。2.5と言うが、個人的には3だと思う。強いて言えば3-0.5だ。そこに展開されている舞台も、興行に必要な様々な役割の人や会社も、すべて芸能界のものである。.5とはただ単に、発案・企画を二次元作品から持ってきたというだけのことで、舞台という形がもはや、アニメ・漫画・ゲームを中心とした二次元コンテンツの世界とは全く違う、三次元の芸能の世界のものなのだ。
そう、あれほどオタクが忌み嫌っていた実写映画化・実写ドラマ化と、実態的に言えばなんら変わりはないのである。
ところが、二次元コンテンツ界隈に理解がある人が、「原作へのリスペクト」という実写化批判の最大の争点を持ち出し、さらに二次元コンテンツがベースであることを強調するために考え出した名前が「2.5次元」。このネーミングのおかげで今日の商業的成功、2.5次元という界隈の確立に至ったのだと思えてならない。
仮にも2とつくから、二次元しか知らないオタクが騙されるのだ。あれは3だ。三次元の、芸能の世界と関わりたくないのであれば、どんなに好きなジャンルでも2.5次元には触れない方が身のためだと思う。
個人的には地雷も特になく、昔から二次元も三次元も並行して消費してきた雑食なので、2.5次元に特に強い抵抗はないものの、それでも二次元をベースに考えて2.5次元を見ようとは思えない。基本的に生身の人間が出てきた時点で、三次元の世界の存在だ。それを二次元に重ねる面白味もあるものの、もともと三次元を楽しめる人間にしかできない楽しみ方ではないかと思う。
そう考えると、女オタク界隈はいつの間にか三次元を楽しめる人間がずいぶん増えたような気がする。昔はナマモノと聞けば忌避し、少しでもアイドル的なものに拒否反応を示すオタクが多かった。今2.5次元を楽しんでいるオタクは、たとえ原作で見る作品を選んでいるとしても、三次元を楽しむ才能がある人なのではないか。
三次元を楽しむ才能のないオタクはいる。おそらく今は少数派になってしまっていて、肩身の狭い思いをしている。俳優や声優にキャラを重ねることに違和感がある、コスプレやフィギュアすら避けているという人。2.5次元のライブ(ミュージカル作品の曲だけやる)のMCで、役者として喋ることに動揺するオタク。それは三次元のオタクの感覚から言えばごく普通の、なんの違和感もないことだ。だからそういう人は、2.5次元に近づかないほうがいい。
なぜ「近づかないほうがいい」とまで言うかというと、本人が傷つくということも勿論あるが、周りの2.5次元を楽しんでいるオタクも必死だからだ。原作厨は原作厨、俳優厨は俳優厨でオタク特有の苛烈な必死さを持っている。これは出会わないようにするより他に打つ手がないのである。
それなのに、よりによってその両者を引き合わせ、両方から動員数を稼ぐことで成り立つ興行。それが2.5次元舞台である。この文化の交差点は地獄だ。この地獄が金を生み出す仕組みは、一体いつまで栄えるのだろうか。
二ートを抱えた家族は、すぐに崩壊はせず、緩やかに壊死していく。
私の実家もその典型的な一例であるため、「ザ・ニート家族」はこのように形成されるということを、
兄と私の半生を交えながら紹介したいと思う。
2人兄弟の末っ子として生まれた私は、兄と年齢が少し離れていたこともあり、両親、祖父母、親戚から可愛がられており、兄は必然的に放置されがちだった。
兄からしてみれば、自分を蔑ろにされている感覚からさぞ私を恨んでいたことだろう。
しかし、家族全体を通して見れば、多少ケンカをする2人兄弟の4人家族という一般的な家庭であった。
定期テスト、塾、受験、進学に関して、成績が悪かった兄を強く叱るようになり、それに兄が反抗し更に勉強をしなくなるという、負のフィードバックループが起こっていた。
また、学業だけでなく、日常生活全般に関しても気に入らないことがあれば怒鳴り散らし、自分が思う「躾け」の型に兄をはめていった。
そんな中、高校卒業を間近に控えた兄は、今まで自分の進路や行動を母に縛られていたため、
当初、大学に進学せずに働こうと考えていた兄だったが、やりたい仕事もなければ行きたい大学もなかった。
結果、ただ親に「今のご時世、大学には進学しておけ」と言われたから進学しただけの、Fラン大学生が誕生した。
高校は自由な校風の進学校に進んだ自分は、真面目に部活と学業に打ち込み、上位の国立大学に進んだ。
決定的な転機が訪れたのはここである。
今まで母は過干渉なぐらい兄につきまとっていたが、
今まで自分の人生に無頓着で、重要な選択さえも母の干渉を受けていた兄は、
「ただ今が楽であればいい」と考えるようになった兄は、
親がうるさく言ってこなくなったのをいいことに、大学卒業を間近に控えても就職活動をせず、ニートの道に進んでいった。
一方、兄への干渉を辞めた母は、幼少期ぶりに自分に接近するようになる。
しかし、今まで自分は母親に悩みも相談したことが無ければ、進路や人生の指針を相談したこともなく、
就職も結婚も確定してからの事後報告であり、「親を喜ばせる」なんてことは一切頭になかった。
そしてこの物語には、父は一切出てこない。
父は仕事人間であり、躾けどころか子どもの相談にも乗ろうとしなかった。
母が兄を怒鳴り散らしていた日々においても、その教育方針に口を挟むことはなく、黒子に徹し続けていた。
今まで教育を母親に任せきりにしてきた父は、無職の兄に対し躾けをする権利も、家庭内での発言権も無くなっており、
そんな威厳の無い父親を、兄と母は敵扱いしていた。
父→普段から育児に加わらず、家庭が崩壊寸前でも何もしようとしない
子(ニート)→小さいころから主体性を奪われているため、一人では何もできない
子(非ニート)→実家から逃亡し、何を言われても他人で押し通す
これら過干渉・不干渉の極端なバランスが、家族の形をいびつにしていく。
このパターンに当てはまる(緩やかな)崩壊家族、日本に結構あるんじゃなかろうか?
兄が30後半に差し掛かり、両親も定年に入り収入が無くなった今、
親が亡くなれば、家や土地を兄が継ぐのかもしれないが、後に残されうるのは主体性を失った兄であり、
そんな兄にいくら財産が付与されようとも解決の道は開けないだろう。
ブックマークコメントの中に、メガネが有史以降かなり最近になって発明されたデバイスなのに、何故にフェチになってしまうのかというコメントがあった。
これについては、個別の作品が引き金になる、という問題とは別に考察の余地があるように思う。
個人的にはかつて人類が今よりもずっと当たり前に行なっていた刺青の風習が関係しているように思う。
本州人は、『魏志倭人伝』の記述を信ずるのであれば「鯨面文身」していたという。
当然、刺青の風習が長く残った北海道や千島・樺太に住んでいたアイヌ民族の事例もある。
近代国家の軛によりアイヌ民族の刺青は厳しい抑制を受けたが、元来はああした風習は少なくとも東アジアにはあったのだろう。
顔に何か意味を持つものが付いているってのはフェチに十分なりうると思う。黒子とかでもなるんだから。
時は流れて、科学的なものや文字に依拠した社会を構築している我々の時代においては、その機能を補助するメガネというものは実利的な意味合いに力点を置きつつもおしゃれの一つとしても位置付けられている。