はてなキーワード: 黄金とは
あらゆる業界における黄金トリオの一形態。一枚目・二枚目・三枚目として歌舞伎の時代から安定して人気のある座組。
2人だろうが100人だろうがとにかく同じタイプを揃える。軍隊組織の如き統一感から繰り出されるダンスはまさにマスゲーム。
関係性匂わせを強火で行くなら徹底して相反させていくべき。しばらくしたら役割を反転させて二毛作出来る。
基本構成。4人で揃えるとこれを目指すためにキャラ変更させられるのが2人ぐらい出てきて荒れる。
一人だけ凄く強いキャラを用意するとそれ以外が霞んでしまうが、グループのカラーは分かりやすくなる。リーダーがコケると全滅なのでリスクは高い。
ロリを入れすぎるとただのロリコングループになってしまうが、一人だけなら個人差でなんとかなる。キモい客が増えやすいロリの負担が大きく荒れる。
東方アレンジもここ数年は単独で作ってないし、オリジナル曲も出してないよなぁ~。
「最終鬼畜妹」とか「ナイトオブナイツ」がめちゃくちゃ流行って、東方アレンジの権威を手にした。
それはすげーことだと思う。ニコニコ黄金期とか、東方アレンジといえば!的な存在だったし。
だけどこの数年レベルで、それらの過去の栄光曲を擦りまくって、合作という形でセルフアレンジするだの、各所に依頼しまくってリミックスCD出すだの、過去の曲を再録して販売するだの・・・
「俺の曲を聴け!」じゃなくって「みんな俺を盛り上げろ!」みたいな、つまらない活躍しかしてなくない?
なんというか、億千万の瞳が流行りまくって、それ以降舞台に出て踊るだけの郷ひろみっぽくなったよね。悪い意味で。
曲かけなくなったんだろうなぁ~。
まとめるとこんな感じだった。
①吸引の際は結構咳き込む。心配されるくらい咳き込むけど、体感としては端から見るほど辛くない。
②5分くらいしたら、口の中がめちゃくちゃ渇く。渇いたときに水分がなくなるからか口の中は苦くなる。そして、身体の表面がそわそわする。強さによっては、この時点で揺れてる感じがしたり、回転してる感じがしたりして、気持ち悪くなることも。これは意識変容の最初のサイン。
③まずは、知覚が変容する。音が立体的に聴こえたり、色彩がビビッドに(赤と緑が強くなる気がする)なり、強さによっては少し歪む感じがすることも。そして五感が有機的につながって、ひとつの体験として感じられる。
④そこまできたら、感情が昂ぶっているのを感じるだろう。そして、思考がまどろんでいく。自分が何を考えてたか忘れちゃったり、距離の感覚が把握できなくなったり、腕が催眠術にかかったみたいに固定化されちゃったり、身体や足が椅子や地面と一体化しちゃったり。いわゆるストーン。個人的な体感として30分〜1時間くらいで落ち着く。
⑤上記と並行して、いろいろと気がつくことがある。この体験内容はセットとセッティング(心的構えと使用環境)によって大きく変わる。バッドトリップしないためにも、品質の良い大麻で、事前に偏見は取り除き、正しいセットとセッティングを整えよう。(当然、セッティングには安全な環境≒合法的な環境であることが望ましい点も含まれる)
⑥だんだんと普段生きている世界に帰ってくる。大麻では問題ないと思うが、意識変容体験であることは間違いないため、グラウンディング(心的着地感)についても気をつけよう。具体的には、黄泉がえりだ。つまり、あちらの世界(彼岸)からこちらの世界(此岸)へ、体験を持ち帰ってくるのであって、彼岸に魂をおいてきてはいけない。グラウンディングが適切に行えるかで、体験の質は大きく変わると思う。
個人的に、マリファナ体験でよく報告されるところの「マンチー」(食欲亢進)はあまり感じられなかった。
詳しくレポートしていく。
まず、体験した国名については推奨するわけではないから敢えて伏せておく。自分で調べてくれ。
もちろん、日本では違法だから吸うんじゃないぞ。合法大麻とか言って売ってる合成カンナビノイドもやめとけ。あれは信頼性の低いデザイナーズドラッグだ。最近は成分もよくわからんのが出回ってる。CBNクッキーとかまでにしておくといい。
さて、ここはとある大麻調剤薬局(ディスペンサリー)。清潔感のある店内で、店頭にはさまざまな品種のマリファナが取り揃えられている。価格としては、日本円にして1,200円〜2,800円/gほど。値段が2倍以上異なるのは、品種ブランドによるためだ。
マリファナには、文化慣習として大きく2つの品種分類があるとされている。夜の使用に適していると言われるリラックス効果が高いインディカ株、感情の高ぶりや笑い上戸、しゃべり上戸になりやすいと言われるエネルギッシュなサティバ株だ。なお、この分類は最近になって実際の化学構成(ケモタイプ)とはあまり関係がないことが明らかになってきていて、あくまで文化慣習的な目安だという。
ディスプレイされているさまざまな品種の前には、その効き方の目安として「意識の上昇」「多幸感」「意識の集中」「睡眠」「会話」などさまざまな効能が書かれている。私は、その中から3種類を選び、それぞれ1gずつ購入した。
ちなみに、購入したらその場でジョイントを巻いてくれた
さて、さっそく試しに吸ってみようと0.5gのジョイントを1本。同行していた友人とシェアしたので、半分の0.25gほどだろうか。火をつけてタバコと同じように吸い込んで、深く肺に入れる。
キック感がかなり強く、咳き込んでしまうわけだが、咳き込んで頭に血が上るような感覚ののち、段々と知覚が変わってくることを感じる。
まずは、口がすごく乾く。砂漠になったかと思った。あとは、少し喉が痛い。一気に吸い込みすぎたかも。喉が痛くて口が乾くから少し気持ち悪い感じがする。というか、世界が歪んできてる?酔っ払って三半規管が狂ったときみたいな、だけど意識はハッキリしてるみたいな、不思議な感覚が襲ってくる。
あれ、いつからここにいるんだっけ?あれ?今何してるんだっけ?聴こえてくる音楽が、風の音が、バイクの音が、なんだかすごく立体的に、リアル以上にリアルに感じるような気がする……
あぁ、そうだ。マリファナだマリファナ。いま吸い終わったんだ。5分くらい?経ったのかな?時間はー、えぇと、うん、進んではいるみたいだね。でも、進んでるとかじゃないよ。ただ、いまここに在るだけなんだから。
あぁー、完全にさっきいた場所とは違うみたいだ。いや、同じなんだけどさ。あれ、いまなに考えてたっけ?あぁ、そうだ。別の世界に来た感じっていうか。景色も随分とビビッドだし、鮮やかで、キレイだなぁ、あれ、時間って経ってるっけ?あぁ、腕が動かない。固まっちゃったみたいだ。あれ?なんか足が、足の裏が、地面が、あれ?どこから地面と足が分かれてるんだ?あれ?分かれてなくないか?一体じゃないか?
身体が椅子に、足が地面に根を張って、私はいつのまにか大樹になっていた。
1時間ほど経った後だろうか?だいぶ落ち着いてきて、立ち上がって歩けるくらいにはなってきた。まだ、世界は鮮やかだし、心は躍ってる。そのまま寺院観光に行ったけど、黄金に輝く仏像に、カラフルに彩られた建築が、なんだかこの世のものとは思えないほど荘厳に見えた。
上の体験記だけ読むと、ちょっと、いやかなり怖いものなのかなと思うかもしれない。たしかに、マリファナ体験の核となる意識変容体験は、認識に現れる世界をその根底から覆してしまうような、そんな衝撃があった。まさに、別次元の体験といっても差し支えない。だけど、不思議と怖いものではなかった。そこには、底しれぬ一体感があり、神秘の愛に包まれるような感覚がある。
思考がまどろんでいき、幸せな気分(THCの主作用に陶酔感、多幸感が含まれる)に包まれていく。「これはあれ」といったような識別作用、分別作用が弱くなっていく。だけど、不思議とそれを冷静に見つめる一つ上の自己みたいなものは保っていられる。そして、そんな変容意識体験においてしか、気がつけない「ナニカ」がそこにはあり、その「ナニカ」を受け取って日常世界に帰って来る。その体験は、さながら黄泉がえりであり、セラピューティックな気付きに溢れている。
自然の中での一服では、鳥の鳴き声、風の音、擦れる木々、すべてがハーモニーを奏でて聴いたこともないほど心地良い交響曲となっていた。
その日は一日観光をしてご飯も済ませたところで、23時頃だったかな。ホテルに戻ってきた。帰りに、ペットボトルに装着するかたちで使えるボング(簡易水タバコみたいな吸引器具)を買ってきた。個人的に、ジョイントでの喫煙は量の調整が難しいし、私は喫煙経験が浅いこともあって、こちらのほうがずいぶんと吸いやすく感じた。ボングの場合は喉の痛みもほとんど緩和されたし、氷水とかで試したらもっと快適そうだ。
それはさておき、ぶくぶくぶく。
もう慣れたもので、吸って5分くらいすると、口の渇きと身体のソワソワ感、その直後に「完全に別のリアリティに来た」という明確なテレポート感を感じたら、トリップスタートだ。
吸って30分くらいは、やはり少し混乱するし興奮する。2mくらい先にあるペットボトルを取りに行こうとするんだけど、動けない。なんというか、水取りに行こう、あれあんな遠くにあったっけ?あれ、何しようとしてたっけ?あぁ、水だ水。あれ、手を伸ばせば伸ばすだけ遠くにあるような感じがする。あぁ、もういいや、Let it be. だ、そういう感じ。
人間の慣れとはすごいもので、こんな超越体験でも1度経験してしまえば、体感のコントロールは効きやすくなる。30分も経てば、波は超えて、穏やかなチルタイムが始まる。
布団で横になって目を瞑ると、身体が風になって、世界の中空にただポツンと漂ってるような、そんなビジョンが浮かんでくる。ただポツンといる。そのはずなのに全く淋しい感じはしない。それは、まさに、風であるような体験だ。漂っている風はどこからか吹いてどこかへと消えていく、何かが振動し、その振動は空気を伝う。自然の振動は、どこかで区切られるものではなく、それは全体性の連関の中で生まれては消えていく。
風は一人ぼっちじゃない。この世界に〈私〉は一人しかいないし、実存的な〈私の世界〉は誰とも共有できない。だけど、ひとりじゃない。家族、友だち、社会、人間に限らずモノだったりコンピュータだったり、自然だったり、ありとあらゆる万物の関わり合いの中で、ただポツンとそこにある。そんな感覚が、ワンネスが愛そのものなんだ。
内省的で詩的なことを考えていたと思ったら、気が付いたときには朝だった。眠っていた。こんなにも熟睡できたのはいつぶりだろう、というくらい本当によく眠れた。眠りに入っていくその瞬間まで愛に満ちたまま眠れた。
もう3ヵ月以上前の話。日本に帰ってきてから無理をしてまで入手して吸いたいとは全く思わない。
あったら幸せだけど、捕まるかもとか勘繰りながら使ってたら安心してチルアウトなんてできたもんじゃないからね。それなりに異常な体験だし、セットとセッティングには気を付けたい。
いずれにしても、1回吸ったら廃人になる、気づかないうちに依存症になってるなんて類のものではない。世界でも解禁の流れは進んでるんだし、もうちょっとマトモな議論をしたほうが良いんじゃないの、とこの間のアベプラを見て思った。
中国大陸版の方が日本など海外版より半年分ほど先行している。そのため、日本版ではなく大陸版をぷれい、または日本と大陸で両方プレイしているユーザー(ドクターという呼称がある)がいる。
その大陸版ドクターには、単純に「実装されたステージやキャラクターを楽しみ、それらの解説をする」人と、「世界観考察」をする人に分かれる。
アークナイツは非常に設定が細かく(大陸版で出た世界観資料集は辞書並みに厚く細かい)日本語に翻訳される際に落ちてしまう情報やフレーバーテキストがあるため、「考察」するドクターは大陸版に触れざるを得ない。
もうすぐアークナイツは春の限定イベント(大陸版ではハーフアニバーサリーイベントだった)が行われる。
そのイベントタイトルが「ツヴィリングトゥルムの黄金」である。ツヴィリングトゥルムは都市名。長い。
「中国語での表記でも、モデルとなっているドイツ語の表記でも『ツヴィリングトゥルメ』が正しい。なぜツヴィリングトゥルムにしたのか」「そもそも一人のオペレーターがボイスで『ツヴィリングトゥルム』って言ってるだけなのでそれを修正すればいいだろう」
始めは「そうなんだ」と思っていたが、正直考察もほどほどで単純に楽しんでいる一般ドクターからすれば単にカタカナ一つでグチグチ言える神経の方に驚く。そして、ボイスは開発元のハイパーグリフの管轄なので、それは日本の運営のせいにするのではなく、ハイパーグリフにボイス修正しろというご意見をするのが筋だと思う。
また、最近限定イベント前にお知らせ生放送があった。運営会社社員と声優たちが情報をお知らせする形式だが、特に声優たちが遊んでワーキャーすることもなく、ひたすら情報が言い渡される。前半はゲーム情報、後半は日本独自の施策(商業施設とのコラボなど)の紹介。
それにも「考察版」ドクターたちは「大陸の放送のやり方を見習え」と注文をつけている。
大陸であったイベントPVを流せ、そもそも大陸は情報を圧縮して1時間以内にしている、制作陣が直接説明しているなどなど。
いや、大陸版がよければそっち見るからというかそっちも見てるから……
「俺たち私たちの望む日本版生放送のあるべき姿」をいい大人たちが愚痴っているのは本当に怖いし陰鬱。
あと何が問題かって多分この人たちが界隈で「偉い先生」みたいに持ち上げられていることだと思う。
上にも書いたのでアークナイツの設定は細かい上に世界観が練られているのでそれを「考察」する人たちは歓迎される。実際へーって思うこともある。
でもそれは「ドクター」同士の間であって、「大陸の運営とか生放送はねぇ、こんな風にしっかりしてるの!日本版のこれは一体何?ちゃんとしたの出してくれなきゃ困るよ〜自分たちは『本物』を知ってるんだから納得させてよ」という運営に上から目線するのは……違うだろう。
あなたたちはどこまで行ってもドクターでファンのはずでは?他の無知なドクターたちから知識すごい!って褒められることに慣れてなんか自己認識がずれちゃったのかな。
真鍮に黄金をつけるのだ
絵を描かない連中が永遠に理解してくれないから、屋上屋を架すことになった。いい加減理解してくれ。
少しでもデジ絵を触ればわかるんだが、生成AIで出力しただけの画像は、見ればもうAI産だとわかる。なんもしてないんだなって。こいつ何も考えてないってわかるんだよ。手が3本生えてるとか、髪がめちゃくちゃとかじゃなくて。もうコンテキストがない。わかるかなぁ。
絵を描くときには基本的に目的があって筆をとってるわけ。そうすると、何処を描き込んで、どこを描き込まないかっていう、気圧の差っていうか、そういうのが産まれるわけ。
これは絵を描くことが楽しいバーサーカーでも同じ。そういうやつはだいたい、普通はそんなことまでやらんってことをしてくる。こいつやりおったって。そういう、画面の向かいのニンゲンの意思が伝わってくる。何を伝えたいのか、なんとなく伝わってくるわけ。これはなにも高尚なメッセージじゃなくても、「金髪のチャンネー最高!」とかでもいい。本当に何でもいいが、おれたちはそのメッセージと、メッセージの伝達方法の工夫を楽しみにネットの絵を見てるわけ。
でも、生成AIから「出しただけ」の絵はそうじゃない。そういうのはもう気圧がめちゃくちゃ。おまえこの絵のどこを見てほしいの?何を伝えたくて書いたの?何もわからない。その結果、おれたちはどうでもいい天井のシワを見つめて、お前たちが伝えたいのはこれなのか……?っておそるおそるプロフを見に行って、やっぱAIじゃねーか!ってなる。全く無駄な行為だったわけだ。そこに意図なんてなかった。誤解したおれが悪かった。そんなことを繰り返した結果、絵を見た瞬間に「それが生成AI産なのか」がわかるようになった。
最近はもう「その雰囲気」を感じ取っただけで見るのをやめてる。昔から知ってる神絵師だけをフォローして、新しいメッセージを、たまにしか降ってこない甘露を、延々と待つようになった。pixivをディグるのはもうやめた。イラストを凝視しても得られるリターンが担保されないので、虚しいからだ。
リターンがなければ、無視すればよろしい。それが黄金則だ。絵師と生成AI絵師は別世界に棲み分ければ良い。実際、生成AIにもメリットと独特の良さがある。それは認めるところである。
だがしかし、絵師には絵師なりの理由があって、今日まで生成AI許すまじと論争を続けている。ある問題があるからだ。
それは、生成AI丸出し、なんのコンテクストもない画像が、何故か一部民衆に受容されつつあるということだ。
他の、著作権がどうのという問題は、絵師が共通で抱えている嫌悪感のすり替えに過ぎない。無視したいが、なぜが周りの民衆が無視しないから、何かの理由を付けて批判せざるを得ないのだ。
冒頭で、審美眼がないと言った。それは一部の生成AI絵師もそうだが、何よりあれを「手書き並のクオリティ」と持て囃す消費者層を形容した言葉だ。
少しでも絵を触ったことがあれば、生成AIのファーストインパクトは「へーすごいね。でも仕事にはならないな。すげーおもちゃだ」だっただろう。それなのに一部の消費者層は、これを大変有り難いと言わんばかりに使い始めたわけだ。
おい待てと。これのどこがいいんだと。じゃあお前らはいままで俺たちが描いたもののどこを見てきたんだと。
当然、嫌悪感を抱く。だが、「だってそれ生成AIで出しただけじゃん!」と伝えても、彼奴等は首を傾げるばかり。
最近は、どうみても実写丸出しの自称「アニメ」がニュースに載った。何より驚いたのは、あれにゴーサインを出した報道陣である。絵に対する恐ろしいまでのリテラシーのなさだ。あれのどこが良いと思ったのか、まるで理解できない。仮にもアニメ制作会社と関係のある会社の振る舞いがこれかと、閉口したものだ。
どうせ伝えても伝わらない。そのうち、この嫌悪感を「そういう層」に伝わるような問題点にすり替えて問題を論ずるようになった。やれ著作権が、権利が、そういったものに。
だが、それらは理論上は手描きでも可能で、AI独自の問題じゃないということは、誰にだってわかる。だから平行線なのだ。
この感覚は、なかなか伝わらないらしい。だから、比較的広い層に伝わりそうな類例を持ってきた。
機械翻訳もまた著しい発展を迎えた界隈である。が、機械翻訳だけで全てが事足りるとは思っていないはずだ。
これはアカデミックに属したことがあればわかるが、英語の論文を機械翻訳して読む、という行為にはまったくの意味がない。著者が伝えたい事実を、機械翻訳は考慮しないからだ。そのうえ、業界の慣習を無視した翻訳がなされるので、その翻訳された文章に意味はない。なんとなく読んだ気になるだけだ。
小説もそうだ。ハリーポッターでもなんでもいい。あれらの「機械翻訳版」と「訳者監修の日訳版」どっちを手に取るか。当然後者だろう。
そうした現状にあるのに、海外製品の公式ドキュメントは多言語翻訳版を機械翻訳によって作成する。「機械学習により作成されたため、不正確な場合があります」と但し書きを付けながら。
これはビックテックであっても例外ではない。訳者を雇う金はありながら、正確な訳を提供しない。
なぜか?日本語話者なんてよく知らないし、どうでもいいからだ。
それでも有り難がる連中がいる。英語を読めない層だ。そんな不正確な日本語読んでる暇があったら英語勉強した方が早いよと伝えても耳を貸さない。それで満足している層に恐怖する。機械翻訳版を読んで何かした気になっているニンゲンの、その感性に恐怖している。それは天井のシミなんだって。そこに別の人間が伝えたかったメッセージは存在しないんだと、伝えても伝わらないことに恐怖している。
というわけだ。
現在抱えている嫌悪感のその本質は、「メッセージ性も何もない破綻した絵を持て囃す連中の審美眼が信じられない」ということになる。
さらに恐ろしいのは、彼らが生成AIの発達とともに、その審美眼と理性を失ったわけではないということだ。
彼らとて、三歳児の落書きと、絵の修練を積んだ人間の描いた絵の区別はついていた。だから、絵師たちは自分たちが絵に込めていたメッセージが市井に伝えられているのだと信じることができた。それを感じ取ってくれているからこそ、自分は市場に支持されているのだと信じることができた。
が、今は違う。
生成AIから出しただけの画像と手書きとの区別もつかない連中がいるのだと知ってしまったからだ。
だから、自分の支持者の中にそんな「肯定派」がいないか魔女狩りもしたくなる。それを肯定する気にはなれないが、その絶望は理解できる。
そうせざるを得ないのは、少しでも正気に戻ったら「生成AI丸出しの画像のクオリティでいいなら、おれたちこんなに心身削って絵を描く意味ないじゃん」と気付いてしまうのを避けているからだ。
高精細なイラストなんていらなかった。市場がそれを求めていなかった。顧客は、一分で生成された「なんかよさげな画像」に吸い寄せられていく。なんだよ。それでいいなら、おれたちこんなに描かなくて良かったじゃん。
そして、この価値観が行き着く先は、「誰も作品に込めたメッセージを理解してくれない」「誰も自らの磨いた技術を評価してくれない」という絶望の世界だ。
それが繰り返されれば、当然続ける意味もなくなる。そして現在の伝統的製法によるイラスト制作技術は失われ、生成AIによる模造品が市場に氾濫することになる。廃業なんて話じゃない。業界自体の喪失だ。絵にメッセージを込めるという行為時代が廃れるのだ。
どうもこんにちは!
じいちゃんばあちゃん若返る の第一話を見て、どうしても突っ込みたいところを突っ込むので気が向いた人だけ読んでくれ。
漫画の方は今後買う予定だけど今月クレカの支払いがヤバいので来月以降の予定。
ちなみにこれは「こう書かなきゃ行けない」という話では無く、興味を持ってくれた人により深く楽しんでもらうための解説であるからして、そのつもりでひとつよろしく。
りんごは高木にあたるので、そのままにしておくと凄く大木になってしまう。すると作業性が著しく悪くなる。剪定、収穫、防除が難しくなる。
また、日の光が均等にかからないとまずいので、背が高くならないように、また横に向かって伸ばすように育てる。
そのため、上から見ると、枝が放射状に横に向かってにょろにょろと手を出すように広がっていく。
ただし、こうするとりんごの実がることによって枝が折れたりする。それを木の棒で支えている。これも作中で描かれているね。
じいさんばあさんが昔植えたという、そして黄金りんごを実らせた木がこれにあたる。古木に多い。
一方で、作中には、並木状になっているりんごの木があったと思う。これを「矮化栽培」という育て方だ。
先ほど言ったように、りんごというのはそのまま置いておくと大木になる。またコントロールが難しい。そこで、わざと大きくならないりんごの木を作って、それを高密度に植える育て方、それが矮化栽培だ。
りんごに限らず果樹は基本接ぎ木苗である。根っこの部分には生命力と根が強い木を台木にし、更にその上に目的の木を接ぎ木する。通常はそれだけなのだが、そのままでは大木になる。
そこで、根っこの台木の上に、一度矮台という大きくならない木を間に挟んで、更にその上に目的の品種を継いだ特殊な苗を使う。これを矮化栽培という。これによって木が大きくならずに育てる事ができる。
のだが、しかしこの矮化栽培も、だんだんと木が大きくなってきて、旧来型の丸木栽培に近くなっていく。こうして、並木のように並んでいる大きなりんごの木ができる。
じいさんばあさんは戦中派なので、最低でも90歳オーバーであることを考えると、ちょうどこの矮化栽培の普及時期に開拓をしていると思われる。
若返ったので、今後、じいさんばあさんは改植を進めていくものと思われる。
大きくなった矮化栽培は、矮化栽培のメリットがほぼ無くなる上に、丸木栽培よりも高密度なので丸木栽培のメリットも無い。と言う事で、通常は一定より大きくなったら切り倒してしまって、新しい苗を植える。この時に最新の品種を取り入れたりする。これを改植と言って、果樹農家は基本的に絶えず行っていく。
のだが、改植すると当然一時的に収入が減る。また高齢になってくるとなかなか未来の事を考えて行動するということができにくくなってきて、改植が進まない。
そこで、じいさんばあさんは大きくなった矮化の木を残していた(矮化栽培は枝を支える手を使うレベルまで育てるのは育てすぎ)と思われる。
が、若返ったので、この後は矮化栽培を進めていくと思われる。
さて、今の時代は、更に進んだ栽培方法がある。じいさんばあさんは、日本でりんご栽培が本格化するところ、その近代化を担ってきた世代である。当時最先端の技術を使ったベンチャー企業みたいなものだ。そう言う精神を持っている2人なので、今後は新しいことを入れていくと思われる。例えば以下の様な栽培方法がある
まず、OP 果樹農家が使うのは三脚なのだが、これが脚立になっているのは、おそらく参考になる品物が近くになかったからかな。
基本的に果樹農家が使うのは三脚である。足が多い方が安定するように思うかもしれないが、三脚の場合は3本目の足の位置を調整することで下が安定していない坂などでも安全に安定させる事ができると言う特徴がある。これが脚立の3本足だと、一本が浮いてしまうのだ。
日本では、伝統的に平坦な場所はコメまたは麦を育てる場所として使われる。そのため、果樹園は傾斜地にある事が多いのである。
りんごの栽培が本格化したのはここ150年ほどで、更に言うと戦後である。戦争から引き上げてきた人々が、食っていくために開拓をした土地にりんごを植えた所から本格化している。
日本の農業は米を重視していて、それに適した所はほぼ開拓されていた。その残りと言うのは、傾斜地で水がなかったりとするところである。そこを開拓した所だ。
じいさんばあさんは戦中に生まれ、若い時期を戦後の混乱期を過ごした人たちなので、恐らく先祖伝来の土地よりも、自分たちで開拓した土地の方が多いと思われる。
ただ、聞くところによると、2人とも元々地元の豪農の生まれらしいので、そういう点ではあるのかもしれない。
全国から考えると比較的収益性が高く後継者も多い優良な事例が多い。また、じいさんばあさんは最低でも90歳と考えると、恐らく息子さんは定年直前ぐらいではにだろうか。
一緒に暮らそう、と言うよりも、どちらかというと定年帰農を考える話になっていくのが現実によくある話だと思う。
そうすると話が複雑になってしまうので、省略されたのだと思う。