はてなキーワード: 麻布とは
僕は明治学院大学というまあまあ頭の悪い大学に通っていて、運良くそこそこの会社に滑り込み、転職して今の職場にたどり着いた。配属された部署は頭のいい人ばかり。たまにMarch卒がいるけれど、麻布から明治に入ってしまった人がいるくらいで、約8割が旧帝大か海外大を出ているようだ。周りを見回すと中学受験組がかなり多く、やれ日能研だのSAPIXだのに小さい頃から通い、一生懸命努力を重ねてこの会社に入ったようだ。
一方の僕はあまり金のない貧乏な家庭に生まれ、高校まで公立に通って明治学院に進んだ。受験のために塾に通い始めたのは中3の夏、それに大学受験では高3の冬期講習からだ。運良く大学では特待生に選ばれて、実質負担額は国立より低いと思う。自分がたまたまラッキーだったのか実は頭が良かったのか、何にせよ周囲と比べても圧倒的に楽にこの会社に入り、まったり働きながらそこそこの金を貰っていることは間違いない(在宅勤務中です)。
しかし息子が小学校に上がり、中学受験がしたいと主張されたらなんと答えればいいのかわからない。僕の例を出して中学受験を止めさせるのも機会損失なようで、かといって多くの金を出して塾へ行かせて私立中に入れるのも金が勿体ない気がする。もちろん進路や就職時の収入だけが私立中へ進むことのメリットじゃないと思う。いい友人を作ったり、社会に出てからも私立中のコミュニティは強いと聞く。実際に中学受験した人の声を聞きたい。中学受験は人生を豊かにしてくれるんだろうか。
別々に育った双子、というこの記事を読んで、亡父のこと、そしてKさんのことを思い出した。
https://courrier.jp/news/archives/314969/
目黒で生まれて目黒で育った父が、実は双子だった、という話を教えてもらったのは、私が高校生の頃だ。
親戚の法事の写真を見ていた、まだ小学生だった妹が、「あ、パパだ」と言うと、「よく似てるだろ、でも、パパじゃないんだ、パパの従兄弟なんだよ」と笑いながら父が言っていたのを覚えている。
父が住んでいた一帯の土地は、父の伯父(私からすると祖父の兄=伯祖父)が所有していた。
長兄である伯祖父は麻布に住んでおり、月に一度、地代を集めてその麻布の豪邸に持って行くのは父の姉の仕事だった。
伯祖父の家には子がおらず、末弟である私の祖父(既に4人の子持ち)に「次に生まれた子を養子にくれないか」という話をしていたらしい。
同じ顔をした赤ん坊のどちらか片方を、どういう基準で選んだのかはわからないが、Kさんは長兄の家の養子となり、父は末弟の家に残った。
正確には、養子ではない。
そのまま実子として役所に届けたらしい。
Kさんは、慶應幼稚舎から大学まで進んだ後は東京芸大に進み、その後は六本木で音楽教室を開いていた。
一方、末弟である祖父は米問屋をやっていたが、戦争で米は配給制になってしまい、商売は傾き、私が生まれた頃には既に故人だった。
父は、他の兄弟が全員大学進学したにも関わらず、高校を中退した。
家庭の事情もあったかもしれないが、そもそも学校の勉強は好きではなかったようだ。
実はこの高校中退、母との見合いの際には隠していたらしく、それなりに良心の呵責があったようで、70代になってから、酒の力を借りて(と言っても、ほぼ下戸ゆえコップ1杯のビールだが)孫たちの前でカミングアウトした。
孫たちには笑われ、唐突にそんな話を聞かされた母は呆れたという。
そんな父が、自分が双子だったと知ったきっかけは、社会人になってから少ししたある日、同僚から
と言われたことに始まる。
「君そっくりな人を知ってる」
と同僚。
そんな話を家に帰ってから母親(私の祖母)に話すと、「ああ、実はね」と、いともあっさりと、養子に出したKさんの話を教えてくれたという。
そういえば、地代を集めていた私の伯母は、「赤ちゃんが二人いたのに、一人になっちゃった、って不思議に思ってたの」と言っていた。
それ以後も、この二人はたまに法事などで会うことはあったらしい。
Kさんが真実を知ることになるのは、ずっと後、50歳になった頃だ。
それまでも寝たきりで入院していた高齢の祖母が、そろそろ危ない、という段階になった。
大学で授業を受けていた私のところにも連絡がきて、そのまま祖母の入院していた病院に向かった。
さすがに、真実を知らないとはいえ、ここはやはり教えてあげるべきなのではないか、と父も他の兄弟も考えたらしい。
だが、身長が父よりも5cm以上高い。
そんな、父のアップグレード版みたいな人が、私に敬語で話しかけてくる。
これは母も同じことを言っていたのだが、人が発する気配のようなものが、父と同じだった。
誰かが自分の後ろに立っていて、だけど姿が見えないので誰なのかはわからない、でも気配でそれが家族の誰だかわかる、ということがあるけれど、その気配が全く同じだった。
あまり科学的ではない気もするのだが、実際に多くの親族が出入りする状況で、それを何度も感じていた。
父もKさんも故人となってしまい、私自身も歳をとってきて、どこかにこの話を書いておこう、と件の記事を読んでふと思い立って、昼休みにこうして書いてる。
書いてみると、他にもいろんなことが思い出されてくる。
その後、年賀状のやりとりくらいをする間柄になったKさんが、実はある新興宗教の幹部になっていたとか、そういう話まで思い出しちゃったけど、それは書かないでおく。
麻布ならではだなあと思った
俺の家族は揃って露悪的だった。
フィギュアスケートを家族で見ていて、テレビに鈴木明子選手が映ると、母さんは「デメキンが出てきたよ」と言った。
それを見て俺や兄弟もデメキンと呼んでいた。愛称というよりも蔑みが入っていた。
フィギュアスケートはシーズンになると何度も見ていた。鈴木明子は毎回出ていた。
もう分別がついていたはずの俺も、家族に交じってデメキンと呼んで馬鹿にしていた。最悪な冬だった。
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冬は別の意味でも最悪だった。
小学校からずっといじめられていたが、中学になっていじめはより苛烈になった。
田舎の学校で、スマホも出る前で、娯楽なんてものはテレビしかなかった。
学校という小さな社会の中で、出ることも許されない俺は耐えるしかなかった。
俺の荷物が捨てられたり、鼻をかんだティッシュを机の上に置かれたり、
俺がどこのトイレでシコっただの意味不明な噂を流されて、そこのトイレがネームドトイレになった。
ある年の冬に、露悪的な連中が俺の暴行事件をでっち上げて、先生に呼び出されたこともあった。
俺が反論すると、先生は「火のない所に煙は立たない」とか「どっちもどっち」とか言っていた。
そういう冬だった。
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家でフィギュアを見て、鈴木明子の容姿をなじることで、鬱屈とした気持ちを晴らそうとしたのかもしれない。
俺は家で気持ちよくなっていた。母さんや兄弟もそうだったかもしれない。
インキャな俺は人の容姿をあげつらうためのボキャブラリーを持っていなかったが、
これが唯一の武器だった。
俺にしかできないことを頼みに俺のところへ来た。
お願いする立場でありながら、全員が俺のことを小馬鹿にしていた。
頼みを断れば何をされるか分からない俺は怯えていた。
結局俺は頼みを聞いたのだが、聞いた瞬間に棟梁格の女から信じられないことを言われた。
まわりも「そうだ」と言わんばかりで俺を見てくる。
その中に、ひときわ目の大きい女がいた。
その女も周りと一緒になって、ツンケンした態度で俺を見ていた。
棟梁格の女がそのまま引っ込むと、周囲の女も散らばりはじめたが、
目の大きい女は最後まで残された。
俺は何を思ったのか、あるいはやり返したい一心で「デメキンがよ」と言った。
女は泣き出した。散った女たちが戻ってくる。
女たちがデメキンを慰める。理由を聞くまでもなく女たちは俺を睨みつける。
この件は10:0で俺が悪いことになった。俺は中学校に行かなくなった。
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俺は個別塾で勉強して、知り合いが誰も来ないような遠くの高校を受験した。
家は裕福ではなかったが、同情した親が頑張って働いてくれた。
背伸びをして交友関係を広げた。すんなり輪に入ることができた。
いじめはされる側も原因があるとよく言われるが、俺に過失があったとはどうしても思えない。
俺は都心の、まあまあ自慢できるくらいの大学に入ることができた。
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大学では遊んでいるほうだった。
悪い先輩についていって、大人の遊び方をいくつか覚えた。
女のいなし方も覚えた。実践を重ねて身に着けた。
なんとなく付き合って、なんとなく別れることを繰り返した。
こんなところに出てくる中学の同級生は、どれだけいただろうか。
俺は悪い優越感に浸っていた。風の噂だと、そのころに中学の連中はポコポコ結婚していた。
こんな早く結婚するのは田舎者のすることだと思って馬鹿にした。
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ある女性と知り合うことになった。
この人の目は少し出っ張っていた。
でもそんなことが気にならないくらいの速度で、この人を好きになっていた。
仲良くなりたい。お話したい。
俺はこの人がいる、若干アカデミックな界隈に顔を出す頻度が高くなった。
恰好もおとなしい感じに寄って行った。
チャラいのを経由して落ち着いた男はモテるとよく言うが、実際ちょっとモテた。
俺は調子に乗っていた。このまま行けばこの人は落とせると思った。
でも俺がモジモジしている間に、この人には素敵な彼氏が出来た。
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少しして、また俺はオラつくようになった。
オラついた界隈で遊び相手を作った。
そこで別の女と知り合い、仲良くなった。
さっきの女と雰囲気が似ていた。俺のタイプはこういう感じになっていた。
目が飛び出ていて素敵だった。
俺がモジモジしていたら、女は俺の友達とイチャイチャしはじめた。
あとから聞いた話だと、このころからセフレとも恋人とも言えない関係になっていたらしい。
俺はただ遊びでイチャイチャしているだけだと思ってそれを眺めていた。
眺めながらいつ突撃するかモジモジしていた。
そんなときにほかの女が俺に近づいてきた。
俺はその女を抱きながら、先の女を想像していた。
毎回果てる時は、大体その女が脳裏にあった。
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俺は俺の経歴に満足している。
たまに合コンとまではいかないくらいの、男女混合の食事会に呼ばれる。
事故みたいなフリをして体を触ったり触られたりしている。
触られるほうが多いかもしれない。
こんなことで喜んでいる、底の浅い人間として天寿を無駄にしている。
ウェーブがかった綺麗な髪、赤くてキッとした唇、
そして一際大きな、宝石のような瞳。
真面目なお付き合いをしたい。
何も真面目なお付き合いを知らない俺ではない。今回はこの人としたい。
そう思って近づいて、仲良くなってすぐに、
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俺は容姿や経歴でピックアップされた、誰かのスペア。誰かの人生のバーター。
俺に抱かれているときでも、違う男の夢を見ているようで、
俺がどれだけ言い寄っても、もの悲しさをごまかすような顔をしていた。
そして数か月後に、彼女は返信をしなくなった。
本命クンとうまくいっているのか、俺よりマシなスペアを見つけたのか、分からない。
けれども、それでも、と二週間くらい我慢してから、俺は泣いた。
ヤリ部屋みたいな自室に洗濯物が散らばり始めて、
その中心に座り込んだ時に、突然涙が込み上げてきた。
俺に涙を止める力はなかった。
冬の寒い日だった。
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いま、人生の岐路に立たされている。
素敵な女性と付き合っている。お互いに腰を落ち着けたい感じがある。
このままパワーカップルとしてタワマンに住んで、子供を何人か持つのが、最適な人生だとも思う。
でも彼女は目が出ていない。
このまま彼女と結婚して、そのあとに目の出た女性に押されたら、俺はどうする。
不誠実な自分を思って胸がキッとなる。
胸がキッとなるのはこう逡巡するときだけではない。
俺は俺がかつて罵った容姿に近い女性を前にして、毎回尻込みしてしまう。
俺は俺がかつて罵った時の感情を一生涯一度も相手に向けずにいられるのか?
俺は俺がかつて罵った相手と似た人の近くに居座ろうとする自分を許せるのか?
でも俺には前科がある。
自衛としていじめに加わったであろう加害性の低い女を泣かせた。
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俺はずっとトラウマを抱えている。
帰責性のない女たちへ向けた悪感情が、今の俺にぶっ刺さって苦しめている。
トラウマが原因で尻込みしている節は大いにある。
たとえ男女の出会いは時の運だとしても、そのすべての持ち駒を俺は棄ててしまう自信がある。
それくらい自分に自信がない。
そして今、新しいトラウマとして、
「好みのタイプの女性を一度も自分のものにできなかった」という事実が、
俺に、俺が、植え付けようとしている。
俺は結婚するかもしれないこの女性を、そして生まれてくるかもしれない子供たちを、
幸せにできる自信がない。
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ヤフーニュースを見ていたら、イスラエルでスケート指導をする鈴木明子の記事があった。
写真を見てため息が出た。美しい。
次に涙が出た。俺はこんなに素敵な女性を罵っていたのか。
涙がポタポタと出た。少し熱っぽくなるのを感じた。
俺があの時に呪ったのは俺自身だったのだ。
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必ずだ。
俺はどういうジジイになるんだろう。
分からない。
キショい説教を唱えながら、煙たがられながら死ぬのかもしれない。
何でもいい。何でもいいけど、
俺みたいな過ちを、だれもおかさないようになればいい。
麻布競馬場どうさ慶應らへんのしょうもない人間がやってんだろうと思ったら案の定そうだった。某メンタリストもそうだけど慶應ってプライド高いのに実力ないから拗らせてるやつ多いんだよね。
そのスペックで今住んでる家を「こじんまりとした」と言う感覚がよくわからん
それなら死ぬまで住む家というよりは
タイトルの通り。最近話題のTwitter文学である麻布競馬場作品
東京でもがいている若者からもうそれではない何者たちの解像度が異常に高い。自分はその中の人々とは違うと感じつつも何故か重なる気がするから不思議である
「何者にもなれなかった」という感覚だけ共有している気がする
ここで自分語り、これが目的と言われればそれまでだけど、何が重なるのか客観視したい
九州の田舎の進学校から旧帝の大学へ。なんなく就活もこなし、銀行に就職。飽きて転職。20代で年収1000万円に手が届いた。早くに結婚して子供もいる。都内にこじんまりとしたマンションも買った。