はてなキーワード: 髪美とは
具体名挙げてしまって著者には申し訳ないのだが「未来からのホットライン」の核融合炉の施設内部の描写がてんで理解できない。説明が緻密なのがむしろネックになってる感じで、キャットウォークとかトンネルとか配線とかの位置関係が三次元的に脳内に構成されていかないんだよ。本当に上下左右という程度の確度でしか把握できない。
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小説は漫画とかと違ってイメージが押し付けられないのがいいという意見を聞くことがある。個人的にはこれはイメージという単語の前に「自分が気に食わない(特に人物の容姿)」という文言が省略されているように思える。
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想像することって、はっきりいえば単に手間でしょ。小説は想像することを楽しむものって手段と目的が逆転してる感じで、本来は「筋書きを楽しむもの」だと思う。筋書きさえ面白ければ、そして挿絵とかが適切なら、想像しなくて済むのならそれに越したことはない。
くだんの小説も建物の「構造」について図があるからといってイメージを押し付けられたと感じる人は例外的だと思うから、文章で全て言い尽くそうとしないで見取り図ぐらい添付してもよかったと思うんだよね。
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私と同じ考え方っぽい人を二つ挙げとく
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https://modernclothes24music.hatenablog.com/entry/2014/02/21/090746exit
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1514063554/exit
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そしてどうしてもこれだけは抜粋しときたい(5chのレスから)
文章だけで考えてると「この馬はどこから走って来てどこに行ったの?
なんでそんなとこから馬が走ってくるの?」
みたいな変な部分が必ず出てくる
読む側からしてもまさしくそういう感じで、結論としては始点と終点が一致したループだと言っていても、今までも風景の説明から本当にそのことが導けるのだろうかという感覚になることがある。
各部分の描写から全体を統合できない感じで、整合性を認められないことがある。
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前記の小説の施設を見学するシーンでも各区画を主人公たちの足取りに沿って説明していってるのだが、いつのまにか前いたところが主人公達の頭上にあることになっている。
確かにエレベーターで地下に降りる描写はあったけど、上下の関係で足取りが立体交差できるような文章だったか。
区画という各部分の風景だけは十二分に頭に浮かび上がってくるんだけれど、ジグゾーパズルでいうならそれはピースの凹部や凸部があやふやになっている状態にたとえられる。
なのでそのパズルを組み合わせる=建物全体の構造を把握することもできないとなる。これが読後感にもやもやを生む。
そもそも自然言語というものはねじれの位置とか含めた抽象的な位相関係を表現するのに不向きなのかもしれない。
そうでないにしてもせめてPISAとかは単純な論理パズルで読解力を測るんじゃなくて風景の説明文に対して、少なくともこれは与えられている文に矛盾しないという図を選択させる問題も導入してほしい。
ネックが読者側にあるかもしれないかもしれないのにその問題が十分には剔出すらされていないように思われるから。
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「船べりに足をぶらぶらさせていた」文学事典に載ってるような作家の手になる表現だ。しかし「船べりに」とは一体どういう状況なのか。
「船べりで~」であれば人がデッキの手すりでも背にして寄りかかって片足をぶらつかせる風景が想定される。
この話は作家自身の航海記であって大西洋を横断できるような鉄の船の話だから「船べりに」何かをするにはへりは高すぎると思われる。和船の小舟のように足をへりに置けるような状況じゃない。
たとえれば無理に腰よりも高い塀の上に片方の足を足の裏を外側に向けて乗せるイメージでただでさえ不安定な姿勢だから、せいぜいへりをかかとで擦るようなことはできても、重力に逆らってぶらつかせるとは描写として不自然と言わざるをえない。
思い込みで文章を書くとそういうことになると聞いたことがあるから、ちゃんと正確に書いてほしい。
正確に書けば書くほど想像の余地が少なくなるから小説としてつまらなくなる、というものではない。
想像する楽しみと小説の楽しみ方としては二次的なものだとは前にも書いた。限定的で端的な例だが、泥のように眠るという慣用句を小石のように眠るとアレンジすることで生まれるような詩的な妙味を味わうことも小説の楽しみ方の一つだ。
酒などを希釈しないで飲むことを生一本といっても、水で薄めずにといっても、神の創りたもうたままにといっても、どれも全く「希釈しない」という全く同一の事態を指しているうえでにその同一性こそがその描写が正確であることを示す必要条件でもあるわけだが、こうした同義のフレーズが畳みかけられている箇所にも、同じ事態の概念への落とし込み方の多様さに面白みが認められるだろう。
俳句は小説じゃないけれど、あれなどは兼題写真があるのが普通だ。写真というこれ以上なく正確な像を前提としているからといって、そこから派生される俳句の数々に「想像の余地がないからつまらない」と批判する人間がいるだろうか。
むしろ想像の喚起を重視する人のブログとか見ると「容姿の描写ほとんどされてないのを逆手にとってわざと金髪美少女のイメージで読んだ」とか言ってるような人もいて、想像するのを楽しむというやり方は小説をカップ麺の重しにするのと同じぐらいひねくれた本の使用法なのではないかとさえ思えてくるわけだ。筋書きを楽しむ、表現そのものを味わうというのが文句なく一義的な意義であるとすればなおさらだ。
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必要だと思ったとこだけ読み込んで不必要だと思ったところは読み飛ばせばいい、授業だって教師の言うこと全部覚えてない、それと同じだというような人もある。
しかし授業内容と違って小説は内容を問い合わせることができない点で致命的に異なる。
不十分だと思って読み込もうとした箇所も独力では一生かかっても理解できないかもしれない。
作者は思い描いた風景を必死に文に落とし込もうとしたかもしれない。作者は情景を読者と共有したがってる。なのに十分に伝わらない。こんな悲惨なことがあっていいのだろうか。
小説には攻略本もITの専門書にありがちなサポートダイヤルもないんだ。
二重回しとか大島紬みたいな名詞の指すものが単に想像できないとかだったら画像検索すれば済むことだけど、実際に読んでてつまづくことが多いのは文や文章という総体がどういう具象や抽象を指し示しているかとことで、でもこうなったときには打つ手がない。
人工知能は与えられた文章をイメージに接地させずに意味を理解できるが、人間としてはイメージに還元できないことには文章を味わうことはできない。
もちろん読者側の能力の問題かもしれないからそこは見極めなければならない。
先述のようなPISAなどの結果によりそういう能力が不十分と分かれば、出版業界に小説には抽象的な構造に関して図解を挿入するよう働きかけるか、さもなくば教育を刷新するか、そういう判断の指針が得られる。
教育を刷新するというのは単に文章を多読すれば読解力を身に着けさせられるはずだという今の態度が不十分という意味で、一つ文を読ませたらその文が一般的に指し示すことになる図を提示するといった訓練を導入するべきだと思うということ。
単文が示す風景(あえて情景とはいわないでおく)すらもまともにイメージできないようでは複文や文章の指し示す風景もまたイメージできるはずがない。
基礎(単文)を固めることでしか応用(文章)を扱えるようにはならないということではむしろ数学と同じだ。そういう心持で読解の養成には取り組むべきだ。
たとえば百聞は一見に如かずといっても社会生活のうえでいつも文章が指し示す現物を持ってこさせられるとは限らないから、文章をイメージに還元する力は実務的な能力でもあるわけさ。
元増田の言うこと、大体あたってる。
でもね、東京に住んでる俺からすると、まったくおんなじ理由で、まさにまったくおんなじ理由で田舎に住む増田どもが憎い。
だって、東京にメリットがあるのは、元増田の主張した点において自明なわけじゃないですか(女にもてるのはネタだから横に置くとしても)。
ってことは、にもかかわらず地方に住んでる増田たちは、東京のそれらのメリットを代替できるほど別のメリットをもってるんでしょ?
具体的に言うと山とか。山とか。莫大な不動産とか。親族のコネ一発で就職できる市役所とか農協とか。あと適齢期になると自動的に配布される黒髪美少女の許嫁とか(ネタ)。
昨夜の飲み会で、黒髪美脚美人さん(仮にAさんとします)から表題の台詞を言われました。
昨夜の飲み会ではAさんは超ミニスカートで来ていたので、自分は「Aさん脚綺麗ですねー」と言っていた訳です。この台詞自体は割と頻繁に言っているものです。
すると、「脚触っていいのよ」と言われた次第。
理由を尋ねると「○○さん(自分)に一線を越えるキッカケを作れたら」とのこと(私は日頃から非モテ・彼女いない歴=年齢・童貞を公言しています)。
その場にはAさんの彼氏も居り、彼も「さわってみようよ」と言います。
ちなみにその場に居た他の男性が「触って良い?」と尋ねると「ダメ」とのことで、自分だけ特別に許可が出ている状態です。
当事者達は「触っていいよ」と言っていますし、周囲も背中を押す状況であるのですが、なんか色々と考えてしまいます。
彼氏も私の友人ですし、彼の存在は問題ではありません。むしろこの場で目の前にいることは望ましい。
Aさんはとても雰囲気の良い黒髪美人さんで、とても好みのタイプ。
敢えてそのようなことを言うということは、その点では少なくとも自分のことを嫌いではない、触られても構わないと思っているのでしょう。
飲み会で周りに居た友人達は気心が知れた仲間であり、彼らに見られて恥ずかしいとかそいうのも無いです。
人間関係的な条件は、問題無いでしょう。
結論から言えば、触れませんでした。
自分は女性をどこかしら神聖視しているところもあり、自分のような汚らわしい者が触ることで汚れるのではないかとも考えてしまうような気もします。
でも、Aさんも彼氏が居る訳で、その意味では既に汚れている(汚されている)と言えます。
相手を汚したくないとかではなくて、実は自分が可愛くて、自分自身が汚れたくない、ということなのかもしれません。
そういう発言に引いたというのは無いつもりです。むしろ、そう言って貰って嬉しかった。それも自分だけ特別というのは嬉しかった。自分のために、そうやって脚を出してくれたのは凄く嬉しかった。
それに対してはしたないとか貞淑さが足りないとか言うつもりは無いです。
あるいは、じらすことで何かをしたかったのかもしれません。
要するに「据え膳に箸を付けなかった」訳ですが、彼女にどう思われたか、わざわざそのようなことを言ってくれた彼女に対して失礼ではなかったかというのは後からもやもやと考えてしまいます。
そうしたくないなら、よくいる「俺はモテる幻想をまわりに抱かせたい」人なので、
そのまま放置してひたすら相手があきらめるのを待つか、
何を言われても「それより最近気になる人がいて」と自分の恋バナに持っていくとか。
本当にいなくてもいい。その人に自分のことだと誤解されないような相手にしておく。
今時黒髪…とか言ったら「男の人は黒髪のほうが清潔感があっていい!」とか。
まあ、とりあえず男友達Aをシメといたほうがいい。
「紹介されること自体はいいけれど、あの相手はいくらなんでもないわー。
ということをキツク言い聞かせるべきだ。
じゃないとまた次に似たようなのを連れてくるし、昔のことをペラペラしゃべる。
手短に。
1.自分のサイズを知る
大は小をかねる、と言う。
確かに少し大きい服であればちょっと太ってもOK。
さらにストレッチが効いてれば楽だよね!
でもその前に、今の体型に不満はない?
そこから、自分の体型に疑問を抱くようになる。
成功者が多いことで知られるレコーディングダイエットも
肩幅が狭い?頭が大きい?ウエストが大きすぎる?
欠点ばかりに目がいくかもしれないけれど、そこは魅力かもしれない
大抵のモデル・女優さんは見る人が一般的な部分がコンプレックスだと言う
でもどう考えてもネガティブ要素だろ…と思うのは目立たせなければいい。
そして、自分のいいと思うところを前面に押し出せば誰だって何とかなる
2.TPOを知る
好きなものを好きなときに着るのは自由。
ジョブズだっていつでも黒タートルにジーンズだからネタにされている。
背広を着ていればたぶん、誰も服装についてネタにしなかっただろう。
TPOとはTime(時間)、Place(場所)、Occasion(場合)の意味。
夏のセールでゲットした服をさぁ、着ようとしてもそれは果たして夏の服?
大体は素材の厚い春物だったりして夏に着れなかったりする
冬服と夏服がごっちゃになってたりしない?
そして一張羅と普段着がごっちゃになってない?
まずは自分の持っている服がどこに着ていくに相応しいかを考えること
ファッションはTPOといわれるけれどそこに「年齢」も加えたいところ。
だって、おばあちゃんが革ジャンきてたらロックかもしれないけれど
10代の黒髪美少女がラクダのシャツをチラ見せしながら豹の顔がついた
これに一番大きいのは何歳ぐらいかというものがある。
小学館から出てるファッション紙CanCamだってAneCanという姉妹誌を出している。
エビちゃんこと蛯原友里はCanCamのモデルだったが年齢とともにCanCamを引退して
AneCanでモデルをしている。理由は年をとってターゲット層にあわなくなったから。
別に30代でコロコロ読んでてもOKだけど、私服がTシャツ短パンにビーサンではいける場所が限られる。
自分の年齢にあった雑誌を読んでいけば気になる服が出てくるはず。
そのブランド名をメモってサイトを見たり、ヤフオクを見たりしてなんとなく相場や雰囲気を確かめよう。
最初は自分の着慣れているパンツやトップスから始めて、ジャケットやコートと大物を買っていくことをお勧めする。
ブランドも流行があるから、次のシーズンだとまったく好みじゃなくなるかもしれない
でも、逆にシンプルなアイテムと組み合わせて自分流に世界観を薄めていけば
着こなしと言うものがわかってくるはず
某作家の、遊びのつもりでヤったら処女でドンビキしてる男の小説を読んで心を砕かれてきた。
私は、某喪女板の処女でよかったースレを定期的に覗いては(i)に泣きながらすまんこー!すまんこー!する癖があって
さすがに前向きに生きるために見るのをやめてたんだけど、どっかに張られてたそのあらすじに引かれて魔が差して読んでしまった。
そこで、「えーマジ童貞?」「童貞が許されるのは(ryのAAみたいな記述を見てしまった。
穴があればいいと思ってベッドイン(死語)したヤリチンでも後悔するなんてことあるんだ。ショックだ。
処女厨の人たちは、「好きな人でも他の男に抱かれたって知ってしまうと冷めるよな(キリッ」って言ってくれて、結婚するなら処女だって言ってるけど、
実際会ったら「…※ただし18歳以下の黒髪美少女に限る」になるのかな。
処女厨の主張が正しければ、男の非処女嫌いは本能らしいから、いつ本能が目覚めて意見が変わってもおかしくないよね。
非処女肯定派は処女厨になれるけど、非処女は処女になれないもんね。
おかしいな、学校でも家庭でも教えてくれない事をそんなに重視する人がたくさんいるはずなのに、それでも余る処女がいるなんて。
人を愛してセックスして、別れても教訓にして成長していくことは素晴らしいことのはずなのに、その気配すらないなんて。
(i)に申し訳なくて生きてるの辛いよ。