はてなキーワード: 類似点とは
自分は特別に音楽に詳しいわけじゃないけど、サビのところで比較してみるよ。
増田のCSSはテーブルセルにボーダーがないので小節がわかりにくいけど頭4小節分を抜き出している。
■Blue Archive
テンポ=104bpmくらい
FM7 C/E | G Am7 | FM7 C/E | G Am7 |
■Shelter
テンポ=100bpmくらい
FM7 | C/E G | Am7 | Dm7 |
しかしどの共通点もひじょうにありふれた王道の要素なので、偶然一致してしまうことなんて普通にある。
このくらいの共通点を共有する楽曲の組み合わせなんて無数にある。
なので、たとえばどっちかがどっちかのパクりか?と言われると難しい。
これが、メロディの並びが部分的に完全一致しているとか、非常に突飛なことをやっていてそこが一致しているとかだと「パクり」と呼ばれてしまうと思うけど、この2曲の間にはそれがないからね。
じゃあなぜこの2曲にとても似た印象を受けるだろう。
それは「Ⅵmaj7」の存在が大きい。
マイナーの曲でこのコードからサビが始まると素敵に物悲しくてキレイな曲になる。
ということは、当然のことながらこのコード進行はとても人気があり、多くの人々が使っている。
サビのコード進行をどのコードで始めるかなんてそもそも選択肢は7個くらいしかなくて、そのうちよく使われるのなんてⅠかⅣかⅥの3つくらいなのでカブッて当然なのだ。
タイトルは純粋な疑問なので結論はありません。誰か教えてくれ。
(まあ自分が例え話を理解できない人を馬鹿だなと思っているだけなので、因果が逆ではある。)
例え話について、そこ本質?みたいな相違点を指摘する見当違いなコメントをする人をまま見かける。
メタとして敢えて例え話をすると、リンゴもバナナも甘いって発言に対して、「色違いますよね」とか「リンゴはバラ科でバナナはバショウ科で全然違いますよ」とか、まあ確かにそうなんだけど、そもそもそんな話してなくない?みたいな相違点を突っ込んでしまう人がよくいる。後者に関してはバナナよりナシの方がよかったのかもしれないけど、いやそこすげ替えても、論旨変わらんやんみたいな。
おそらく、彼らは筆者が何に注目して例えているかを理解していない。そもそも、あらゆる点が合致するような例えなんて存在しない。存在するとしたらそれは単なる類義語だ。そしてそれを理解してい彼らは、存在しない“理想の例え話”を求めて、筆者が例えが下手だと攻める。そしてほぼ例外なく、より優れた例え話を提示することはできない。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20210508032456 からいくつか取り上げてみる。
書くまでもないことだとは思うが、アスリートと平社員の類似点としては、「何かを中止する決定権がない」というところが大きいだろう。
トップコメからしてまずあれ。ブクマカにまともな読解力持った人いないのか?
emiladamas 平社員が国立競技場からメッセージを送るかという気もするけど https://mainichi.jp/articles/20210312/k00/00m/050/169000c それはさておき心底オリンピックしたい人を心底会社に行きたくないはずの平社員に例えられても感はある
まず、平社員が心底会社に行きたくないと思っているのが頭が悪い。あなたが会社嫌いなのはわかったから一般化するな。
まあ、そこはどうでもいいのだが、対象を心底希望しているかどうかはこの例え話の本質ではない。それとも彼は、「平社員」ではなく、「会社の事業がとても大好きな会社員」で例えていたら満足するのだろうか?
getcha 平社員に例えるのがおかしいのよね。無料コンドームを配布する仕事のイベントないでしょ。五輪は他の競技大会と比べても特殊なんよね。
無料コンドームとかどうでもいいやろ。脳内で「無料コンドームを配布する仕事をする会社員」だと思っとけ。
あと「特殊」とか言えば、論破した気になっているのもありがち。どんなに特殊だろうが、論旨に関係なければ無視していい。「こういう点で特殊だから〜だからこのような例えはできない」って論がないと無意味。場合によっては、リンゴとバナナの甘さの話をしているときに、「リンゴは聖書では重要な果物で…」くらいの特殊性訴えてるのと変わらんぞ。
take-it こういう奴出ると思った。この平社員の「会社」は海外から選手だけでも9万人近く受け入れようとしてるのを、何故か前提としてすっ飛ばしてる。ただの社員とは違う。五輪は今絶対にすべきことか?https://bit.ly/3nW9Q6y
会社員の例えなのに、所属会社の性質を気にしている(出されていない情報はワイルドカードだと思うべき)ので、やはり例え話を理解できていない。
ついでに、「五輪は今絶対にすべきことか?」みたいな関係ないコメントを書いてしまうのも頭の悪さを示している。オリンピックの是非はともかく、要するに選手にボイコットを要望するのがどうなのという話が理解できていないことがよくわかる。
susahadeth52623 ろくに給与も出ない裏方の五輪従事者やボランティアを平社員に置き換えるならまだ分かるが、五輪代表選手は少なくとも企業広報の顔ぐらいの地位にはいるだろ。平どころか主役だぞ。
「富士フィルム CMに出ている研究員(あれまだやってる?)」で例えたら満足か?
主役かどうかが関係ないのが理解できていない。小学校の劇の主役は劇を中止させられますか?
給料とかもどう論旨に関わるんですかね?
商品説明がとても下手だなと思う。良し悪しを決める前に離脱するよ?
増田は最初から取説を持ってきているけど、そうじゃなくて広告としての説明が欲しい。テレビCMであれこれ使い方を説明しないよね。名前と外観と簡単な機能を伝わって欲しいから、細かいところは端折っている。増田もまずは「これがなんであり、転売にどう結びつくのか」を一言で表して欲しい。どの文章も同じようなくどさを感じて、閉口しちゃう。
要点っていうのは
こんなところかな。このサービスでわかるのは「電話番号使う」という点だと思う。正直それはネガティブ要素だ。それがポジティブになるようにさらっと利点をあげておこう。
使う場面も、個人販売の露店から大型スーパーまで幅広い。実際にどういう場所のどういう場面を想定しているのかを頭の中で想像できるくらい具体的に書いた方がいい。ここもくどくならないように。あと、似たサービスがあれば例に出すのも忘れずに。
シンエヴァンゲリオンを見た。
最後の結末を見て、エヴァンゲリオンはスターウォーズになれなかったという結論に至った。
エヴァンゲリオンとスターウォーズエピソード6との類似点は父子との対決だ。
スターウォーズは、父親であるダースベーダーのアナキン・スカイウォーカーは子のルーク・スカイウォーカーと対決する。
シンエヴァンゲリオンは、父親である碇ゲンドウが子の碇シンジと対決する。
どちらも対決するという点では同じなのだが、結果はまるで違う。
この父子に歴然とした力の差があるのだ。
これでは父子において大事な要素である父を超えるということができない。
現実世界の東京においては、超える必要など全くない父子関係における父を乗り越えるという儀式。
碇ゲンドウは劇中で言っていた。父子同士戦うという行為、これは儀式なのだそうだ。
もしシンジがルーク・スカイウォーカーだったらどうなっていただろうか。
碇ゲンドウが発する挑発に激情し、右手を吹き飛ばしていたに違いない。
スターウォーズでは、ルークが父の善性を信じることによってアナキンを改心させた。
シンジは対話をし、その後の改心のためゲンドウを理解しようとする。
だがそこまでである。ゲンドウはひとしきりしゃべった後、退場してしまう。
当たり前だ。父子が対話で乗り越えられるなら、ルークとアナキンも戦う必要はなかった。
ゲンドウは改心することなく消え、シンジは父のやったことは自分が責任を取るというのだった。
スターウォーズはどうだろうか、アナキンは改心し、自分の命を顧みず息子を守り、敵である皇帝を倒す。
もしシンジがルーク・スカイウォーカーだったらどうなっていただろうか
「僕にユリはいらない。僕は大人だ、かつて碇ゲンドウという人間が大人がだったように。」
ゲンドウはシンジが自分を上回る大人になったこと、そして自分が子供になっていることに気付き改心する。
五感で得た情報を司り、言語という枠を使って漠然としたイメージを表現する一種の記号である。
言語は想起のための指標である。それは経験や知識の曳き手であって、イメージのリアリティではない。
書くことは、他者とのコミュニケーションが可能であることを前提に、ラベル付けされた一連の記号を用いて、他者に対して主張や理性を主張する方法の一つである。
口頭での主張は、私たちが獲得した仮説推論の致命的な能力と、類似点を見つける病気を悪用して、メディアやミームに感染させる一種のツールである。
インターネットを通じて他人のイメージを乗っ取ることを意図して書かれている。この思索は、言語というナンセンスな方法を使っているので破綻している。
自由や幸福は、自分の手に負えないものを無視することで得られる。
これは古代ギリシャの哲学者エピクテテスの発言です。これは権威的な重み付けのための引用であり、特に意味はありません。
松井秀喜がこのストイックな哲学者と似たようなことを言っていたので、歴史的にも理解できる考え方だと思いました。
言語の美点は、話し手が意図した通りに「もっともらしい」ものを人間に刷り込むことができることである。ある公理を真理として刷り込み、恐怖や扇動によってその絶対性を刷り込む行為は、様々な組織の中で日常的に見られる。
そもそも言語の誕生は、人間による宗教の獲得と不可分である。人間はある時点で、言語を通じて空想力、理性、類似性を見出す能力を獲得し、自分ではどうしようもないことを生活の中に内在化させてきた。
それは例えば、お金や権威などの暴力の一種であったり、感情という人間の状態の一種であったりする。
すぐには永続させることのできない現象が、言語という記号を使って他者と共有されるようになったのである。
それだけでなく、活版印刷やインターネットの技術革新によって、言語は時空を超えて広く、長く保存されるようになりました。
それと引き換えに、宗教の絶対性を広めることで、言語習得のデメリットである上記のような制御不能な事象を打ち消そうとする試みがなされたのである。
上記の記述には何の根拠も示せないので、適当な本やネット上の類似情報を相互参照して、ご自身の結論や否定の判断にお任せすることにします。
エピステーム
精神病についての深い考察は、ミシェル・フーコーの著書をお読みください。エピステームという重要な概念が提唱されています。
エピステーメとは、ギリシャ語で「知識」を意味する言葉をもとにフーコーが造語した言葉である。簡単に言えば、私たちの認識が形成される知識の枠組みを指す。私たちの知覚は、私たちの経験から直接、媒介されずに得られるものではありません。私たちの経験はすべて、私たちが持っているある認知的枠組みに適用されたときに知識となるのです。
そもそも「精神病」という名前を使うのはよくありません。何と言っていいのかわからない。ラ・ラ・ラ・ラ・ラ。なんだっけ?
インゲニヤトーレ
12~13世紀のヨーロッパでは、労働組合の倫理規定により技術開発が停滞していましたが、後のルネサンス期の15世紀には、相次ぐ戦争に対応するために様々な技術が開発されました。この時の新技術はインゲニウムと呼ばれていました。その技術を開発したのがインゲニウム・トールである。インゲニウムは、今日のエンジニアの語源です。レオナルド・ダ・ヴィンチもインジニアトールの一人でした。
レオナルドの写本の中で最も有名なのは、アトランティコ写本とマドリッド写本である。彼はすべてのものを描写するために、フォトリアリスティックな絵を必要としていました。言語のような一対一の記号ではなく、より具体的なイメージを捉える方法が必要だったのだと思います。
ピクトリアルジオメトリという幾何学的技法があります。ガスパール・モンジュによって確立され、産業革命期にエコール・ポリテクニークで教えられました。ルネサンスの数世紀後には、主に軍事目的であったが、イコノグラフィーが導入された。
ん?
自分が見たのは、Vtuberをキャバクラ扱いするのはVtuberもキャバクラも差別してる、というやつだった気がするけど…
元増田が言ってるのはVtuberの「客」とホストクラブの「客」、客同士の類似点じゃないか?
もっと広げれば例えばAKBとか大衆演劇でおばさんがおひねりの万札の輪っかを役者の首に掛けるやつとか…、対象は何でもいいのじゃないかな?
元増田はそうやって金の力で一瞬の夢を買う、買う側のお気持ちの話をしてる。
元増田みたいに800万とか言うのは極端だけど(フィクションではないと仮定すれば)。
フィクションかどうかは自分には判断できないが、さほど違和感なかったのは似たような話を依存症の記事かなにかで読んだことがあって、既視感があったから。
Vtuberにドハマりしている人間とホストにドハマりしている人間は似ている。
これはもうめちゃくちゃ似ている。私自身、ホストに800万くらい貢いだ経験がある。そして今、毎月Vに数十万投げるオタ友達に誘われてVを遠巻きから見ている。何かあるたびに赤スパチャを投げる友人は、それでも決して幸福そうには見えない、むしろ辛そうにも見える。私にはそれがなぜだか、わかる。
Vtuberとホストの一番の類似点は、意外に思われるかもしれないけど「一対不特定多数」だということだと個人的には思っている。「ホストは一対一じゃんでサービスしてくれるじゃん」と言うかもしれないが、実際にはホストは複数のお客さんを抱えている。その瞬間は私のことを見ていても、呼ばれれば別の女のところに行ってしまう。金を払って平等に相手をしてもらっているだけだ。不特定多数のお客さんの中の一人、それが私だ。
ホスト狂いがなぜ数十万、時には数百万もするボトルやプレゼントをホストに入れてしまうのか。それはその瞬間だけは彼らが自分のことだけを見てくれていると確信できるから。君が俺のナンバーワンだと言ってくれるから。
そしてより特別でありたいがために、ライバルの女よりもより高いものを、よりすごいものを渡そうとする。私たちは相手が「より多くの金を払わないと自分だけを見てくれない存在」だと知っている。
Vtuberは不特定多数を相手にしているけど、それを見ている側からは「ディスプレイに映る推し」と「自分」の一対一の空間。でも「推し」は自分の為だけに話してはくれない。
でも、金を払えば別だ。
スパチャを拾うとき、スパチャの読み上げをするとき、その瞬間だけは本当に「推し」と「自分」の一対一が成立する瞬間なのだ。1000人10000人いるなかでその瞬間だけは推しが自分を見ていてくれると確信できる瞬間。
その瞬間のためにV狂いは金を投げる。
徹底して青スパチャ(1000円以下)から赤スパチャ(10000円以上)まで平等に扱うVもいるが、多くの場合は赤スパチャを優遇する。高額だけ拾うようなあからさまな人もいれば、そこまでではなくても反応の速さだったり、大きさだったり、些細な違いは出る。そして、その些細なことこそがとても大きい。自分だけが他の不特定多数よりも特別であることの証明。身も震えるほどの喜び。
私にはその気持ちがわかる。
そして、そのあと別の人が同じ赤スパチャを投げたときに感じる、腹の底が冷えるような焦燥感や絶望感も、わかる。自分だけが特別でないかもしれないというジリジリとした気持ち。
怖くなってまた金を投げる。投げた瞬間だけは自分は特別だと感じられる。
でもいくら投げたって気持ちは満たされない。最後にはただ焦りだけが募る。
たくさんお金を投げられる人ほど、たくさんお金を投げられるのはそういうことだ。
ホストの世界でも上位層ほど雪だるま式にたくさんの売り上げを上げる。それは単に彼らのサービスが特別だというわけではなく、他の人がたくさん入れるから、それに負けじとたくさん入れずにはいられないからだ。
おそらくVに金を投げている総額上位人のうち少なくない人がもう「Vを応援したい」なんていう純粋な気持ちで投げられていない。「金を貢ぐことで自肯定している」。スパチャを投げずに不特定多数の中の誰でもない一人になることなんて今更耐えられない。
ホストの界隈では定期的に自殺未遂や借金で首が回らなくなって犯罪に走ったりまともじゃない商売をしたりする人が出る。Vの界隈でもそうなる日は遠くない。本質は同じだ。同じことになる。
私にVを勧めてくれた友人にも一応警告はした。だが止まらないだろう。私は止まらなかった。
残るのは空っぽの通帳と督促状だけだ。
https://anond.hatelabo.jp/20200825210340
https://anond.hatelabo.jp/20200826102020
なんかいろんな人が必死に反論してるけど、否定派は相違点をあげてるだけで肯定派はキャバクラとの類似点を言ってるんだよね。
個人的にはサービスというより課金システムがキャバクラと近いのかなと思う。
https://anond.hatelabo.jp/20200826095724
否定的な反論してる人はそもそもこういう考えが根底にあって、健全なVTubeを健全でないものと一緒にするな(怒)みたいな感情がなのかなぁと
その「かなりの類似点」とは?
これから放映するならダイの大冒険やひぐらしのなく頃にとか。
放映済みのだったらフルーツバスケットやキノの旅、異論はあるかもしれないけど封神演義みたいな。
何となくこれらの作品から考えた類似点は以下。
これは、飽くまで既存作品から見出した類似点なだけなので、トラバやコメントこの条件とは無関係にどうぞ。
他にも、こんな条件もあったほうがいいんじゃね? というのがあれば、それも是非教えてください。