はてなキーワード: 鏡像とは
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/c/coco_factory/20171227/20171227175659.png
引用:https://cope29.com/entry/2017/12/27/213945
https://mbti.jp/shadow-functions-cj/
MBTIの精神ブロックはソシオニクスで言うところの1,2が自我、3,4が超自我、5,6がイド、7,8が超イドです
ちなみにソシオニクスの精神ブロックは1,2が自我、3,4が超自我、5,6が超イド、7,8がイドです
になります
双対:56781234(一方の第1機能と他方の第5機能、2と6、3と7、4と8、5と1、6と2、7と3、8と4が同じ)
活性化:65872143
準双対:58761432
幻影:76583214
鏡像:21436587
同一:12345678
協力:32147658
共鳴:14325876
疑似同一:87654321
消滅:78563412
超自我:34127856
衝突:43218765
要求+:85674123
要求-:67852341
管理+:41238567
管理-:23416785
になります
これをMBTIに当てはめます
MBTIにそんなモデルはありません
ソシオニクスの相性表は内向型のJとPを反対にするだけではMBTIに使えません
鏡は像を"前後に"反転させる。
では、何故我々人間は鏡像を見て「左右に反転している」と認識するのか?
ーーー
我々がある対象物を見て「まっすぐ正しく見える」と認識するとき、実はその対象物は自分に対して左右逆に置かれている。
絵画のモナリザを"まっすぐ"見るとき、自分(視点)と同一方向に絵を置く馬鹿はいない。それでは額縁の裏側を見ることになってしまう。「正しく」見るためには、必ず「ひっくり返して」自分と向かい合うように置くのである。このとき、私とモナリザは左右反転の関係にある。左右逆なのに違和感を感じないのは、ひっくり返すとき同時に前後も逆になっているからである。(三次元空間においてオブジェクトを2回反転する事で元の形に戻る事は直感的に理解できるかと思う)
ーーー
前後と左右は真実と逆。上下だけは真実の通り。この状態で初めて人は対象物を「正しい方向で見ている」と認識する。その状態の物を「正しいはずの物」として我々の脳はインプットしている。
モナリザ、招き猫、紙に書かれた文字、自分自身のコピー…対象物がなんであれ同じ事だ。
ーーー
鏡は物を前後に反転するが、左右には反転してくれない。左右に真実をありのまま写してしまう。だから我々の脳は「普段見ている(そして脳内にインプットされた)正しいはずの姿」と鏡像を比較して、左右を逆だと認識する。
間違っているのは鏡ではない。我々の脳の方なのだ。
長年、人々をモヤモヤさせ続けてきたこの問題の分かりやすい説明が出来上がったので共有しておきます。
ちなみに「実は上下も入れ替わっているが脳の働きで上下が固定される」や、「目が左右にあるから」といった解答は間違いです。水面に映った像の場合、片目を閉じた場合などを考えてみましょう。
(1)
まず試しに鏡の前に立って右手を挙げてみます。当然、鏡の中の貴方は左手を挙げますが、ここで少し深く考えてみましょう。鏡の中の左手があるのは現実の貴方の視点から見れば右側です。左右が入れ替わるというのは鏡の中の貴方の視点に立った時であって、現実の貴方の視点を基準にすれば右にあるものは右にあるまま。左も然り。勿論、上下も同様です。
と言われると「あれ、左右は逆になるはずでは?」と思うでしょう。たしかに文字を鏡に映せば左右が逆になることは明らかに思えます。ですが、右にあるものは右にあるまま、左にあるものは左にあるままなのに、どうして左右逆に見えるのか、貴方は説明できるでしょうか。できないはずです。何故なら、それが分かっていれば表題の問いの答えも分かるのです。実はこの問題、「なぜ上下が入れ替わらないか」ではなく「なぜ左右が入れ替わるのか」を考える方がずっと自然で分かりやすいのです。原理を理解しているわけでもないのに「左右が入れ替わるのは当然」と思考停止してしまっていることが問題を難しくしてしまっているんですね。
(2)
さて、ということで左右が入れ替わって見える理由を考えていきましょう。ここからは図を使って説明します。
まず貴方の正面に看板があるところを想像してみてください。看板には横書きで文字が書かれています。横書きなので文字は左から右に書かれています。
左 ▲ 右
次に鏡を登場させましょう。後ろを振り返ってみてください。そこには大きな鏡があって貴方とその後ろの看板が映っています。
▽
鏡 ―――――――――――――
左 ▲ 右
鏡の中の看板を見ると、横書きの文字は右から左に書かれています。やはり鏡の中では左右逆になるということでしょうか。
しかし、この図をよく見てみてください。注目すべきは、鏡像ではなく実体の看板の文字の向きです。気づいたでしょうか。実はこの時、実体の文字の向きも右から左になっているんです。
もう分かりましたね。文字が左右逆になったのは鏡に映したからではありません。そう、「後ろを振り返ったから」です。後ろを振り返ると左右が逆になる。言葉にしてみれば当たり前です。
(3)
つまりこういうことです。
私たちが普段、物体の正面を見る時、物体は「自分と向かい合わせ」になっています。もし物体が自分と同じ方向に正面を向けていたら、背面側しか見ることができませんので、必ず体を180度回転させて物体と向かい合わせになってやる必要があります。この時に左右が入れ替わるわけです。一方、鏡に物体を映した時はその必要がありません。物体が同じ方向を向いていても、体を反転させる(=左右を入れ替える)ことなく、正面を観測することができるのです。つまり、鏡に映すと左右が入れ替わるのではありません。鏡に映した時だけ入れ替わらないのです。
(4)
ここまで来れば表題の「鏡に映しても上下が入れ替わらない理由」も分かるでしょう。答えは「後ろを振り返った時に左右は入れ替わるが上下は入れ替わらないから」です。もう少し突き詰めて言えば「人間は振り返る時に横に回転するから」です。というのも、もし人間がブリッジするように縦回転して後ろを振り返る肉体であったなら違う結果になるからです。一種の思考実験として考えてみると面白いかもしれません。
会話ができる能力が手に入ったとして、それだけでは、まあ大したことにはならない。
というのも、動物の認知に関する知識が、最近個人的に面白いんだよね。
鏡を見てそれが自分のすがただとわかるのか? という鏡像認知は有名だが
指さして「あっちを見ろ」というジェスチャーが通じるのか?
叱られたあとに、これをやると叱られるということを、覚えていられるか?
我が家には、去年から黒猫と白猫が二匹いる。一般的に黒猫は賢い(賢い遺伝子が黒毛遺伝子とセットになっているらしい)といわれるが、うちもそうである。自分の名前の認識、指差し注意、怒られた時の反応、黒猫は理解できる。白猫はできてない。こんなに明確に頭の良さ悪さが観察できるとは思わなかった。
もし動物と話せても、まあ碌な事は喋れまい。
きっと漫画『動物のお医者さん』に出てきた犬みたいに「おれはやるぜおれはやるぜ」というセリフが延々聞こえるのがせいぜいだ。自分の権利を守ってほしいかどうかなんて、まず聞き出すことはできない。やつらには恐らく、そんなの考えること自体が出来ない。考えることが出来ると思ってしまうのは人間の傲慢である。
私は物を介して甘やかされていても、信頼と受容の関係という甘えを体験していない子供であった。輝く子どもであることを無意識に要求され続け、しかし際限のない親の欲望を満たすことができず、常に自己が無力化される機構が働いている。
自己不信を中核とした自己意識は常に悪性の抑うつを生み出し続ける。自己不信が生みだす深刻な抑うつを防衛するために、鏡像で映したような、等価の価値のある自分を発展させて自己をバランスしようとする。甘えと愛を断念して手に入れたのは病理的自尊心であり、背後には茫漠たる自己不信が横たわっている。
内的価値は自分の存在が周囲から許され愛されており、無条件に自分という存在には価値があるという感覚があるときに成立する。周囲の人からどう思われるかに敏感であり、常に他人と自分を比較しながら生きざるを得ない。輝く自分を実現するには、他人を蹴落してでも上位にならなければならない。外的価値は結果を出すことでしか得られず、必然的に対人関係は勝ち負けの世界となる。優越している自分は他者を見下す対象にし、転落した無能な自分は見下される対象になり、対等の人間関係を築くことが困難になる。
拒食症患者は例外なく「平凡恐怖」を抱えている。社会で生きていくためには、誰もが目で見てわかるような外的価値を獲得するしかない。学歴、職業、地位、才能、ブランド、そして贅肉のないスリムな体型はその最たるものである。自分を信じることができない彼らは、他人を信じることができない。自分を愛せないことは、他者を愛することを不能にする。
別段切り離されたり隔離されてこまるものでなければ第三者がみて気分が悪いのを差別だと騒ぐ必要はない
自分のいる空間に入れないことで相手に権利があるものを阻害したりするとしてそれを交渉なく一方的にかつ包括的に
たとえば男性であれば同居人以外に対しても立ち入らせないまたは条件をつけることを広汎に定義として基準を設けるとそれは差別になる
部屋だけなら問題ないが自分のいる場所全ての近くにという無関係な第三者についても独断において強く要請をすることがあれば他者の権利を侵害した時点で差別になる
女性の街が差別的なのは「街」という近代的に発達した空間において女性が専用的に使用するものを
「権利」として得ようというところが差別的なわけで田舎で女性だけが集まって生活するのは差別ではない
だれも傷ついていなければ差別にならないわけで二次元の少女は人権侵害されない例の鏡像のような位置づけになるが
関連する自分が気分を害するという実害がある、商業的に不利益を被らせることができるという行動の起因となる程度に
成人式の着物レンタル着付け会社「はれのひ」が夜逃げ的計画倒産をした事件について。
新成人を迎える女性で被害にあった人はとても可愛そうだとは、まず思うのだけれど、しかしなんぼなんぼでも、こう、不用意すぎねえ? と思うのだ。
素人がさらっと考えただけでも、振り袖のレンタルなんてお見合いと正月と成人式とくらいしか出番がない。つまりレンタル業者側としては数十万〜三桁万の着物および小物を用意してその投資額を年間10日位の出動で回収しなきゃならんわけで、博打性が高い業態だろうなってのは想像がつく。事実、着物レンタルも旅行代理店も、経営不安定で淘汰が始まってるのは検索すれば2010年位からのトレンドだってわかる。
サービスデザイン的な話で言えば、あるサービスが1/20の割合で提供されない場合、価格的には−5%することが可能なわけで(この構造を鏡像化したのが保険という業態で)、「安いサービスを選好する」ってのは、つまり消費者判断としてそういうものだと思うのよ。
もちろん消費者保護って観点は重要で、あまりにも疑心暗鬼になり商取引に専門知識が必要になりすぎると市場経済が冷え込むんで、悪辣な業者は取り締まらなければならない。それは事実なんだけど、物事の成り立ちとしては「売り手と買い手の野蛮な知恵比べとしての商取引があり、それだと円滑な経済活動の足かせになるから、適度になるまで監視と規制を強めた」ってのが経緯でしょう。
商取引も契約の一種なわけで、消費者は常に無謬であり絶対保護されるべきってのは錯覚にすぎない。むしろ基本は自己責任自己防衛であり、企業対個人消費者という力関係の中で個人消費者に力が足りない部分をそっと助けるあたりがバランスの落とし所だと思うのよ。
今回被害にあった人がバカだとかそういう意図はまったくないんだけど、何らかのものやらサービスを購入するにあたって、みんな、相場観とかを持たないものなのか?
てるみくらぶのときもそうだったけれど、明らかにワケアリの価格だったわけでしょう。言い方悪いけれど、安かろう悪かろうなわけで。「このサービスを得るのならばこのくらいの価格がクオリティ維持するには必要だろうから、これより下の価格のアイテムはリスクありそうだな」とか「このサービス提供者は、前入金を急かすようなビジネススキームを使っててひっかかるな」とか、ごく普通の世間知として、ないものなのかな。
何かを購入するときに「あれよりこっちのほうが高い/安い」っていう価格の比較だけじゃなくて、むしろ正札をブラインドした状態で「このサービスの適価ってどれくらいなんだろう?」「このサービスを提供する提供者がサービスを維持可能な末端価格はどれくらいだろう?」って意識がないと、やっぱりマズイと思うんだよ。
それがないと、地元商店街を追放してベンチャーサービスに飛びついて、結果、そのベンチャーサービスさえも破綻して、そうしたって地元商店街は戻ってこないとか、そういうことになるんじゃないかな。外食だって、生鮮食品だって、「その内容を望むならこの価格は覚悟すべき」っていう適価があると思うんだよ。
昨今のジェンダー界隈とか見るとどう考えても「一生童貞でいることが正しい」はずなのに、
いや称賛しないのはいいとしても、罵倒されるんだから分からない。
(女性に迷惑をかけるのは圧倒的に非童貞。ここら辺カンチガイしてるアホボケが多いが)
「俺なんかが近づいたら女性に迷惑かけるし…」と積極的に話しかけたりしない。
アプローチしたりしないしデートに誘ったりナンパしたりもしない。
だから童貞的な男というのはセクハラやモラハラとはかけ離れた存在なのである。
どう考えても日本においてポリコレ的であり反セクシズム的な男というのは童貞的な男だというのに、
http://anond.hatelabo.jp/20161207120909
※原作漫画もドラマもネタバレ全開です。ついでに後半にエグザイル族ドラマ HiGH&LOW ハイアンドロウ のネタバレもします。ご容赦下さい。
【要約】 (できませんでした……。)
1, 面白い! そして超興味深い!
みくりさん やっぱり小賢しい。が、そこが頼もしいし、愛らしい。
ポリティカル・コレクトネスを完全に満たした上で女性の欲求ダダ漏れ全開だと思う。
2, 私は本作最大の『虚構』は、(このような鑑賞法は不純だが……)
プロの独身を自称する超高スペック童貞の 津崎 平匡氏が、同時に最初から「女一人が転がり込める『家』を保有している事」
だと思ってるのですが、皆さんは どうでしょうか?
平匡氏は童貞と、特大の父性 という相反する属性を両方とも持っている。 メシアかな?
3, 本作は 『リベラル』だと評されるが、私は半分はそうだが、もう半分は違うと考える。
finalvent翁曰く、「愛とは公正さ である。」とのことだが、
女性が、男性に求める「理想の公平さ」を描こうとした結果。平匡氏の初期スペックと人徳がMaxに設定されてしまっている。そこが良いけど……
リベラルを極めた結果。平匡氏≒超マッチョも同時に顕在化してしまうのは、極めて皮肉だ。そこが良いけど……
4, イヤな言い方になってしまうが、結局のところ、
男性は女性に対し、最初から 対等な社会人/ 恋人/ 妻/ 我が子の母 の 何れかを選べるけど、
女性は男性に対し、対等な社会人/ 恋人/ 夫/ 我が子の父 の全てが『必要』ということになるのでは?
「男性は女性に対し何れかの属性の100点満点を求めるけど、女性は男性に対し全教科100点満点の400点が『必要』である。」と、読み取りました。
まー、しょうがないよねー。
夫婦 までなら、理性的合理的近代的自我で「計量計算」出来るかも?しれないけど、
妊娠出産育児を含む 我が子の両親 となると、そんなの不可能だろう。
そもそも、無から有を生み出すわけで、合理性も自我も超えた領域だもんなー。その分は、男が負担しないと……、少なくとも覚悟は……
5, ゆえに「逃げ恥」は、最高最良最狂の『女のポルノ』であると言える!!! 逆説的だけど、男性こそ必見!!!
女性は男性に堂々と「全教科100点満点中の400点」を要求しつつ、同時に その無茶と矛盾とを理解して頂き、
男性は少なくとも女性に対し「全教科100点満点中の400点」を求められている事を理解し、その矛盾を解く覚悟が要る。と……、
辛い……。そして無茶だ……。
しかし、「逃げ恥」によって「女性の欲求」を定義出来た……。少子化も解決するんじゃない?!
万のポリティカル・コレクトネス、百のフェミニストより、一作の「逃げ恥」。ですよ!
▽
・新垣さんと星野さんに影響されないように原作から読んでみました。
2週目以降、津崎 平匡氏の「男子力」を計測しようと思って、原作とドラマ見てるけど、まぁー。辛い辛い……。私では計測さえ出来んわ……。
作中、平匡氏が自身の「男子力」の低さを嘆くシーン有るけど、普通に超高いよな?
童貞という属性と、恋愛周りが やや弱いだけで、他はカンストしてね?
普通、もっと童貞拗らせてるでしょ! ドラマの方は ちょっっっとだけ拗らせ度強いけども、
・本作の みくりさん と平匡氏の「恋愛」をスリリングかつ安心して喜劇として楽しめるのは、
平匡氏が みくりさん に対して、対等な社会人としての敬意と感謝。
(形式上だけど)夫としての安定と安心を両方共、最初から100%保障してるからよね。
つまり、みくりさんは最初から平匡氏の愛を200%保証された状態で、更に恋人としての300%目の上積みを狙っとるわけだ。
・流石に平匡氏と言えど 恋人契約を提案された時点で みくりさん の好意を確信しないのは
人物描写として無理があるのでは? このイベントはもう少し作品の後半にまわすか、
・食事は殆ど外食とコンビニで済ませる平匡氏が、何で男女2人分の食料保存できる冷蔵庫を初期装備してんねん!
・みくりさんが平匡氏を可愛いと言うのも興味深いし、ムカつくな。
そりゃ、初めから内側に保護された状態で平匡氏の愛を再確認すると そう感じるのも必然なんだろうけども。
・みくりさん。さぁ。 安心と安定の平匡城を堂々と内部から蚕食するのは良いけどー
平匡氏、完落ちさせてから~の 外部に求職活動は流石に小賢し過ぎるわ! 私は見逃さんぞ!
貴方が家事代行の給金を求めるのは良い。 だったら! 平匡氏が最初から提供してた「生活保障」にも値段 付けんかい!!!
まぁ、平匡氏からすれば、そんな貴方の小賢しさも頼もしさや愛おしさとしてプラスに評価するんでしょうな! お幸せに!
・女性の小賢しさって、相手の男性の度量の範囲内なら頼もしさや愛おしさになるけど、超えると途端にウザさになるよね。
…… 逆でも一緒か……。 っていうか人間関係全てでそうだな……。
・原作8巻で、平匡氏が みくりさん を解呪するイベント有るんだけど、これって別に みくりさん に限らないよね。
平匡氏は、他者に壁こそ築くものの、(おそらく)誰も馬鹿にしないし、値踏みもしない。自分からは挑発も攻撃もしない。 の~に、
壁の内部に2人分以上(ぶっちゃけ、赤ちゃん含めた3人分)の安心空間を単独で作り維持出来る……。やっぱりメシアだよね。
・森山みくりというキャラって、本質的に(平匡氏に対して)相対的肉食女子で、(平匡氏に対して)貪欲女子じゃん。相対ビッチじゃん。
清純な新垣結衣さんのタレントイメージを壊しかねないキャラだから心配してたけど
ドラマでは平匡氏のスペックを若干落として、面倒臭さは足してバランス取ってるの 上手いよなー。
・ドラマでは「やっさん」=田中 安恵を最初から出してるのも上手いよね。
みくりさん と平匡氏のスペック差を縮める代わりに やっさんを比較対象に出す事で平匡氏の誠実さを際立たせている。凄い。
・ドラマでは百合さんと風見の関係が弱くなっているのは残念。完全にメイン2人の補強材よね。良い配役なのに、仕方無いけど
風見と平匡氏の年齢差が縮まった(って言うか役者さんの年齢的にも逆転もある)ために平匡氏の優勢が削がれてるのも緊張感が出てて良い。
・ぶっちゃけ、森山みくり役は新垣結衣さんである必然は無いけど(イヤ、他の女優さんでも成立するって意味ね。)、
津崎 平匡 役は星野源さんしか考えられんよね。スマートさ、余白力!、清潔感。 ちょっと他の役者さんは考えられんよね。
躍動する星野さんを見られて良かったです。ご病気も良くなられたようで。
・ドラマでは家の間取りを変更してるのも興味深い。ドラマの間取りだと平匡氏はどうやっても
みくりさん の前を通らないと自室に入れない。 家のグレードを原作より下げてるのも平匡氏に肉感を与える効果になってるよなー。
・藤井隆さんの恋ダンスが一番良いわ。逆に新垣さんの恋ダンスは そうでもない。露骨なあざとさが好きじゃない。嫌いでもないけど……
・って言うか……、【童貞】という【枷】って、こんなに重いんやな……。平匡氏程のスペックと人徳で、やっと釣り合うってことでしょ?……
▽ここから HiGH&LOW ハイアンドロウ のネタバレもしまーす。
・「逃げ恥」って凄くブッ飛んだ作品じゃないですか。んで、アレ?最近、同じ位カルトなドラマ見たな―。と HiGH&LOW を思い出しました。
男同士で馬鹿騒ぎはするが、女性の安全と尊厳を殆ど顧みない『HiGH&LOW』と、
(White RascalsとRUDE BOYSは一応、女性を守ろうとはしているが手段が無茶苦茶で、主人公チーム山王連合会に至っては守ってさえいない。琥珀も、)
みくりさん にとって平匡氏が超都合の良い男性として徹底されている『逃げ恥』は
異性を 極端に神格化、偶像化するか、人格を完全に無視する点において 同質ではないか?と思うのです。
故に、逆説的に
女性には 男の(って言うかレベル的には小学男子なんだけど)馬鹿さ加減を知る意味で HiGH&LOW を見て欲しく、
ちょっと違うと思う。「直接的な身体描写がなされているわけではな海女のキャラクター」と「直接的なホモ関係表現のない県警キャラクター」は対比しうる素材だってことでは。海女のキャラは淡い男オタク的表現であり県警キャラは淡い女オタク的表現であるという点で鏡像っぽくて良い対比じゃん。BLってワードに拘る気持ちはわかるけど、拘らないほうがわかりやすいと思う。男に比べると女は関係性に燃えるんだって言うだろ。男にとってエロいのは直接的な身体(裸)描写だけど女は直接的な身体が描かれてなくても関係のなかにエロを見出すんでしょ。だから県警キャラの「制服がはだけているか否か」とかわりとどうでもいいの。海女のキャラを「性的だ」とする見方が正しいのであれば、同じように県警のキャラも性的だと見ることができる。だから海女のキャラと県警のキャラを同じ土俵で批評すると面白いと思うし、正しい議論だと思う。
あっ こういう言及もされていたところを見落としていた。
筆者が現代社会に存在する主体・客体と精神分析の概念を対応付けて、概念間の類似を説こうとしているとみられ、ここから近代社会の合理性が下層階級を抑圧する状況をノイローゼかなんかにたとえ批判を試みようとする筆者の主張が推測できる。
「疎外される存在/連帯する存在」の対立をもとに様々な概念を対応付けて類似性を説こうとしている、なら分かります。
また「下層階級を抑圧する状況をノイローゼかなんかに対応させ」ってどこから読み取ったんですか?
あなたが意図的に無内容とされているところで別の側面も取り上げてみますね。
・無意識(エス)
≒社会的あるいは象徴的に交換されなかった大文字の他者の語らい
≒自己幻想の世界≒無条件の連帯の肯定も平等も存在しない共同体で自己愛を過剰に傷つけられ自己認識が悪くなった存在=承認の供給不足にある存在
≒権力者側の情報ネットワークからヨソモノとして外されている存在
≒スケープゴート≒異人≒リンチの対象≒排除された後も外での動きも捉えられる存在≒誇大自己を持った者の自尊心の基盤
≒暴言連発したり失礼な言葉を吐いても責任をとらされる事なく看過される対象
≒パノプティコン的な匿名の不可視の視線の下で見世物化された監視付き生活を強制されている存在≒近代社会の合理的理性を自称する存在による抑圧的意志の対象
フロイトの無意識と岸田秀のエスと吉本隆明の自己幻想とルネ・ジラールのスケープゴートと民俗学の異人概念の関係を、まとめて書いた人を見た事がない。
それと仕返しを招くような親密な共同体の絆が欠けている存在に対しては暴言連発したり失礼な言葉を吐いても責任をとらされる事なく看過されがちである事、それらの現実的な現象を具体的事例をあげて(たとえば自らの体験と関連付けて)書いている人も見た事もない。それとフーコーのいうパノプティコン的な見世物化された監視付生活を強制されている存在と警察権力の関係を、はっきり書いている人を見た事もない。そうした待遇を強制されている存在がいる事で象徴秩序が安定するという話を具体的事例と関連付けて明確に書いた人も見た事がない。
だから私は(私のようなパンピーくんの触れれる範囲の情報源では)先例のない事を書こうとしているところがあるという事です。
≒「象徴的他者」の位置より一段下の、原始的な対象の位置(想像的なもの、性的慰安の対象)に留めおこうとされた「想像的他者」。ラカンは「対象a」とよぶ。転移を拒否された患者が、分析家をおく場所も、この「対象a」としての場所である。この関係は、相手に社会的な幻想を抱いていた転移の局面と比べてはるかに不安定で、患者の攻撃性が分析家に向け、容易に発動しやすい状態(これは樫村愛子「ラカン派社会学入門」からのそのままの引用が多くを含まれており、対象aだけ抜き出した部分との関連が付けがうまくできていない。全てをわかり易く統一的に書いている本も読んだ事がない)
≒他者から尊重されたり対等な存在としてメッセージを交換する「人間」の壇上に上げないように弾圧される<生ける死者>といった世界
≒「傷つけられる」という条件により発動した摸倣欲望
また「影」に関しては、村上春樹が小説内で繰り返し出している概念で、「掟の門」はカフカの有名な短編で思想的に言及価値のあるとされるものですが。
それらをまとめて精神分析や現代思想の用語で語っているのなんてどの先生の本でも見た事がないのですが。
他者から尊重され対等な存在としてメッセージを交換する立場になく、非人間的に表現された他者からの暴力誘発性を帯びた存在と、心理的に傷つけられるという条件により発動する模倣欲望の関係を深く語っているのも、日本の学者では私のようなパンピーくんの触れる事ができる可能な範囲ではほとんど見ないのですが。
宮台真司はミメーシスという概念をいつ頃だかか頻繁に使うようになったけど、「心理的に傷つけられた事により生じる模倣欲望」という意味で使っているのは見た事がない。
≒マスコミやカタログ文化でつくり出された美化・理想化された自己イメージ
≒自己の統一を預けることのできるような相手を探してさまよう、鏡像としての他者の中への囚われの関係
≒魅力を持った生に変わらなければならない場であり、魅力による上下関係や差別や排除がある世界
≒魅力の低い者が客観的な理屈として正しいと思って主張した事も認められない世界
≒魅力の高い者が客観的な理屈として間違っている事を主張しても容認される世界
≒目に見えない効力をもつ法としての場の空気や人間関係の網の目に支配された世界
≒労働や勉強で生産的な成果を挙げ社会的に評価される事が美徳であるとされる世界
ここからは美男美女が多い芸能人さんたちやファッション誌を飾るモデルさんの世界も自我理想の範囲に入る対象となる事が分かると思います。
•超自我
≒誇大自己に執着した存在=他者を非人間的に判断したりする存在=モラルのない世界
≒集団の「エス」や「小文字の他者a」の位置にある存在を徹底マークして情報を「大文字の他者A」の位置にある存在に流している存在
≒植民地主義の国家、民族差別を容認する国家、人権侵害を推奨する国家、死刑を支持する国家、同じ国民の中に棄民を作り出す国家
集団の「エス」をリンチする事に日本が国家レベル加担している事を思想書から得た発想で語ろうとしていますが、それを語っている先生の存在も見た事がないです。
•対象a
≒現実の領域は対象aの除去の上になりたっているが、それにもかかわらず対象aが現実の領域を枠どっている
≒リンチのメカニズムにより歪められた表現を被害者よりに修正した回顧的な文章を書く暴力行為を告発する探偵
≒まなざし
これも統一的に語っている日本の先生は見た事のない事を語ろうとしているのが理解できると思います。
なんか思想的に意味のあるところをごっそり切り落として対応せず、自分の立場に都合のいい所だけを提示して、形式と演出だけ知的な雰囲気を醸し出した内容の乏しい書き込みをするのはやめていただきたいですね。
「≒」を用いて、推移的な類似性を説いているとみられるが推論過程の妥当性をいちいち検証したところで大した意味はなく、最終的に導出された観念のみが筆者の主張せんとするところに過ぎない。
したがって本論の内容は以下の対応関係に帰着させるのみで十分であり、これ以外の部分は無駄である。
無意識(エス) ⇔ 一般市民より下の階層の者として認識され、愚か者の範疇に入っており、隠している愚かな事物を暴いても重大視されていない
理想自我 ⇔ 理想化された鏡像として他者の表現の複製を取りこみ、融合しつづける動き
自我理想 ⇔ 共同体(言語的に構造化されている共同主観的な世界)
超自我 ⇔ 近代社会の合理的理性を自称する存在(非理性的な「エス」とした存在を抑圧的制裁の対象としていいとしてもいいとする存在)
筆者が現代社会に存在する主体・客体と精神分析の概念を対応付けて、概念間の類似を説こうとしているとみられ、ここから近代社会の合理性が下層階級を抑圧する状況をノイローゼかなんかにたとえ批判を試みようとする筆者の主張が推測できる。
しかし、そもそも精神分析は占星術の理論体系と大同小異の迷信でありその種の迷信を今でも奉ずるもの(知的弱者)以外には無意味・無内容。
≒世界の不毛化された記憶が凝結する地下墓地=ミイラや<死者>の住処
≒社会的あるいは象徴的に交換されなかった大文字の他者の語らい
≒自己複製子の乗り物(?)
≒相互性の平面の下方に放逐された過剰な欲動の場≒バタイユのいう「呪われた部分」
≒自己幻想の世界=無条件の連帯の肯定も平等も存在しない共同体で自己愛を過剰に傷つけられ自己認識が悪くなった存在=承認の供給不足にある存在
≒権力者側の情報ネットワークからヨソモノとして外されている存在
≒仕返しを招くような親密な共同体の絆が欠けている存在
≒植民地化された地域の周縁化された存在=ほかで許されないことが許される別世界=誇大自己を持った者の自尊心の基盤
≒暴言連発したり失礼な言葉を吐いても責任をとらされる事なく看過される対象
≒パノプティコン的な匿名の不可視の視線の下で見世物化された監視付き生活を強制されている存在≒近代社会の合理的理性を自称する存在による抑圧的意志の対象
≒生政治的範例
≒排除された後も外での動きも捉えられる存在 ≒日常においては禁止され構造から排除されている部分=構造内で下層に抑圧された者
≒非差異、無差別、連続=差異の抹消=相互暴力状態=怒号と喧嘩の音
≒警察権力が市民生活の内に力を発揮する場=秩序創成暴力の対象
≒一般市民より下の階層の者として認識され、愚か者の範疇に入っており、隠している愚かな事物を暴いても重大視されていない
•理想自我=想像界=小文字の他者a=内在的な他者=生物的な世界
≒マスコミやカタログ文化でつくり出された美化・理想化された自己イメージ
≒貧しい文化や洗練されていない不自然な表現=モテない存在=影の薄い人
≒掟の門の前で衰退していく棄民=勝手に「悪」とされ共同体メンバーに愛されず衰退していく者
≒状況を自覚していない灰人と知らされている共同体メンバーとの境界線上にいる人
≒「象徴的他者」の位置より一段下の、原始的な対象の位置(想像的なもの、性的慰安の対象)に留めおこうとされた「想像的他者」。ラカンは「対象a」とよぶ。転移を拒否された患者が、分析家をおく場所も、この「対象a」としての場所である。この関係は、相手に社会的な幻想を抱いていた転移の局面と比べてはるかに不安定で、患者の攻撃性が分析家に向け、容易に発動しやすい状態
≒外部の情報が入ってこない<下>に見られた人のいる壁に囲まれた世界の外の世界を知ろうと巨人のいる世界を調査しようとする人
≒他者から尊重されたり対等な存在としてメッセージを交換する「人間」の壇上に上げないように弾圧される<生ける死者>といった世界
≒暴力誘発性、脆弱性を帯びた存在
≒「傷つけられる」という条件により発動した摸倣欲望
≒自己をそれとして措定してくれる言葉をもつ代弁者の探索にとらわれている状態
≒自己の統一を預けることのできるような相手を探してさまよう、鏡像としての他者の中への囚われの関係
≒動物のルアーへの反応をモデルにして語りうるような直接的な関係
≒理想化された鏡像として他者の表現の複製を取りこみ、融合しつづける動き
•自我理想=象徴界=大文字の他者A=超越的な他者=社会的な世界
≒文化の秩序、象徴秩序、言語的秩序としての構造=サンボリック
≒エディプス期につくられる=父、母、子どもの三者関係の中ではじめて成立する一つの小社会
≒掟によって自己中心的な万能感の感覚を否定し、その掟を守ることで成立する秩序と理念をもった世界
≒個々人の欲望や自己中心的な感情を一度克服してはじめて、確立されるような世界
≒自己中心的な個人的な自己愛を一度否定したところから成り立っている
≒万能感を捨てて入っていく世界=個人の実質、個人の存在全体の基盤
≒社会的絆であり、信頼を保証し、義務の支えとなる基本的な象徴的契約
≒共同幻想の世界=個体保存の欲望と各人のナルシシズムを言語の内に吸収し共同化された世界≒豊かな影を持った存在
≒仲間意識で連帯した世界=倫理的関心を内輪に限定する世界=感情で動く世界=ビオスの世界
≒魅力を持った生に変わらなければならない場であり、魅力による上下関係や差別や排除がある世界
≒魅力の低い者が客観的な理屈として正しいと思って主張した事も認められない世界
≒魅力の高い者が客観的な理屈として間違っている事を主張しても容認される世界
≒目に見えない効力をもつ法としての場の空気や人間関係の網の目に支配された世界
≒掟の門の門番
≒セミオティックの位置にある存在が自我理想を持った対等な「人間」であると主張すると生意気に感じて苛立ち権力や言葉の暴力を振り回し「下」に置こうとする存在
≒「下」に見られた人の過失は吹き散らすが自分達の過失は隠してしまう存在
≒長い例外的状態にある<エス>や<対象a>など存在しないという主権者
≒「小文字の他者a」を対等な人間として文字に残る形式で相手にする必要がないと判断している存在
≒近代国家の一市民の世界=国家の保護の下にある者=権力者側のウチワの情報ネットワークの中にいる存在
≒ネットの掲示板やコミュニティを教育的な豊かな知識を与える場所として使う事が禁止されている世界
≒労働や勉強で生産的な成果を挙げ社会的に評価される事が美徳であるとされる世界
≒人が自分を社会化するために選ぶ標識=名誉の対象=美徳のもとになる秩序
≒人が憧れる、かくありたい存在=モテる存在=小文字の他者aに模倣される存在
≒第三者の審級=規範的な判断の究極的な帰属先=権威を感じ自発的に従おうと思う存在
≒言語的、父権的な中心ないしコード=象徴的父の表象であり、制度であり、掟
•超自我
≒誇大自己に執着した存在=他者を非人間的に判断したりする存在=モラルのない世界
≒法の影=狂った法であり法を無視する=「享楽せよ」という命令
≒集団の「エス」や「セミオティック」の位置にある存在を徹底マークして情報を「自我理想」の位置にある存在に流している存在
≒植民地主義の国家、民族差別を容認する国家、人権侵害を推奨する国家、死刑を支持する国家、同じ国民の中に棄民を作り出す国家
≒近代社会の合理的理性を自称する存在=非理性的な「エス」とした存在を抑圧的制裁の対象としていいとしてもいいとする存在
•対象a
≒羊抜け
≒現実の領域は対象aの除去の上になりたっているが、それにもかかわらず対象aが現実の領域を枠どっている
≒犠牲のメカニズムにより歪められた表現を犠牲者よりに修正した回顧的な文章を書く暴力行為を告発する探偵
≒秘密の宝=他者にとっての私に還元されない<私> ≒象徴秩序の外
≒寄る辺ない存在
今回は貼るだけにしておく。
真善美の探究【真善美育維】
【真理と自然観】
《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。
我々の世界は質感。
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。
《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。
《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。
《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』
生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。
*己と自の発展
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
然の理・然性
然の理・然性(第1法則)
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。
【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。
善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。
美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。
《抑止力, 育維》
【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。
【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。
真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。
■本文。
朝のワイドショーで[社会的ひきこもり]を特集するようになるとは、世の中、つくづくアレなんだなあ、と思う今日このごろですが、今月のお題は『ONE』です。本当は最終回まで取っておこうと思っていたのだけど、小倉さんとデーブ・スペクターと斉藤環が同じ画面に映っているのを見たら、辛抱たまらなくなったのですよ。しかし、『二時のホント』が終わったのは、ワイドショーマニアの筆者には痛い……。
―――さて、『ONE』をプレイして強く感じたのは、母性と父性の欠損に対して、援護射撃に頼らない直球勝負を挑んでいることだろう。ただ、同じ主題を扱っていても、手慣れたテキストの『Kanon』に比べると、まだ手探りの部分が多く、比喩などにあからさまな引用も多い。だから、必ずしも褒められたものではないのだが、BGMと画面演出の組み合わせを効果的に使う[音の魔法]に頼っていない分、言霊の比重が高くなっている印象を受けた。
重要なポイントは、この作品で描かれる世界には、超えるべき父性は最初から存在しないことだろう。同時にそれは、学習することもできないということでもある。[他者]は、主に母性を巡るものとして描かれているが、主人公である浩平の母親は、カルト系の新興宗教に盲従した結果、母親であることを放棄している。そして、浩平は、他人との関係性を肉親から学習しないまま=子供のままで妹に対し、父の代わりを演じたが、妹の死により、父性の獲得=男性としての自立にも失敗してしまう。そのため、主人公は二重の意味で心理的欠損を抱えているのだ。
更に、母親が発狂し、ウロボロス的な母性を発動させてしまった際に、母親を拒否している浩平は、壊れた母性に対する嫌悪感を潜在的に抱き続けている。由起子おばさんが、一度も浩平の視界には現れないことや、長森シナリオでトゥルーエンドに辿り着くためには、長森を嫌悪し続けなければならないことの理由でもある。いわば、母性と父性の欠損を巡る内面の問題こそが、『ONE』という物語の核になっている。また、宗教によって母親が発狂し、浩平の前から姿を消すシーンは、『ONE』の前作にあたる『MOON』の主題を継承しているとも言えるだろう。
だから、この作品の基本構造は、どのシナリオもアプローチの違いこそあれ、本質的には同じだ。他者との距離感を知らないまま成長していくことに、情緒的な病による死を予感した浩平自身の本能が、自然死を避けるために、偶然を装った出会いを起こし、浩平に欠損した部分を取り戻させようとしたことが、物語の動機になっている。そして、浩平自身の本能は、ゲームの作り手であり、浩平はプレイヤー自身である。
だからこそ、浩平の鏡像となる女の子たちは、それぞれが身体的なハンディキャップや心理的外傷を持つ者ばかりが選ばれたのだろう。同情という媒介を用いなければ、出会いという動機を持つことができないほどに、浩平の病状は悪化していたし、宝探しを始めるには、同じ宝を共有できる相棒が必要だったのだ。
本能の企てに乗せられた浩平は、達成されなかった父性の確立に再度挑戦する。ところが、達成寸前に壁が現れる。それが[えいえんのせかい]という、癒しの象徴でもある異界への願望だ。もっとも、異界が具体的に描かれることはない。まあ、具体的に描いたら、山上たつひこの『鬼面帝国』か、出口王仁三郎の『霊界物語』みたいになってしまうような気もするが(笑)。
―――いや、最初から浩平は異界に取り込まれていたのだろう。つまり、浩平が抱いていた、思春期独特の中途半端な世界認識が、そのまま、異界への潜在的な願望として、妄執のように内在していた。それが、絆の発生で、完全な鏡となった女の子を介して照らし出されたのだ。つまり、中途半端に終わった目的を今度こそ達成しようという意志(現在)と、中途半端のままで反復しようとしている記憶(過去)が衝突したことで、[えいえんのせかい]という、思考停止状態に陥ったのだろう。
さて、プレイヤーとしての浩平が一度、舞台から退場することで、今度は、選ばれた女の子が自身の母性=主題を自覚することになる。そして、父性と母性が相互補完的に成立することで、浩平は再び舞台に戻ることができる。つまり、互いを鏡像=他者と認識することによって、欠損を補填した訳だ。この構造自体はありふれたものだが、ありふれたものであるがゆえに、強い言霊を生み出すことができる。そして、この作品で特筆すべきことは、美少女ゲームで描かれる世界が失われたロマンティックであり、実際にはあり得ない世界だということを巧妙に描いていることだ。
何故なら、『ONE』の登場人物たちの多くは、自分たちの生きている世界に対し、無自覚な肯定をしない。強い否定もしない。約束された楽園が既に失われてしまっているということを、登場人物自身が自覚しているように見える。プレイヤーもまた、物語を介し、その完結に立ち会うことによって、楽園が失われたことを知りながら、ゲーム内の楽園に耽溺するという、二律背反的な認識を持つことになる。
例えば、『ToHeart』が、ゲーム内ではいったん完結しながら、アニメ化(メディアミックス)にあたって物語世界を再構築した際に、約束された楽園=主題を持たない真空状態を維持すること……終わらない物語であり続けることを選択し、ユーザーの楽園願望を全面的に肯定したことで、現在でも現役の商品として、人気を保っているのに対し、『ONE』の場合は、主題を巡る部分が『Kanon』と『鈴がうたう日』という二つの作品に分岐&移行してしまったことで、作品と商品の両面で、既に幕を閉じているのだ。
この辺の違いについて、最も分かりやすいのは、やはり、長森シナリオであろう。『ToHeart』のあかりシナリオに対するメタ的な構造を持っているからなのだが、筆者も鈍いので、気づくまでに何度かキレそうになったのは余談だ(苦笑)。
もっとも、『ONE』以降、恋愛描写を重視した[泣き系]の作品が氾濫したことで、相対的に主題の空洞化と、[お約束]としての普遍化が起こっているのは否めないが、この作品自体は、非日常と日常や、万能感と無力感の間で葛藤する思春期独特の世界認識と通過儀礼を描いた作品として評価できるだろう。
更に言えば、本来は『WhiteAlbum』や『デアボリカ』のような、ユーザーの価値観を揺さぶるタイプの物語が担っていた役割を、『ONE』の成功で、思考停止による癒しを主目的とするタイプの物語でも担えることを証明したのだ。
物語とは、社会と個人を繋ぐ媒介だと思う。いつの時代も、その本質は変わらないが、物語を伝達する手段は、時代の変化と共に変わっていくものだと、筆者は考えている。美少女ゲームを媒介として、社会と繋がり、社会を学習していくという構図も存在できると思うし、一見、楽園を肯定するような表現に重層的な含みを持たせることで、現実社会との距離感を認識させる手法の確立を、本格的に模索する時期に入っているのではないだろうか?
■あと一回のお知らせと総括。
ホームページでは既に告知済みだったのですが、本コラムは次号で最終回となります。次回は連載総括という形で、これから発売される作品について触れたいと思っていますので、作品ごとの論評としては、今回が最後です。
降板の理由は、今年に入り、筆者の健康状態が悪化して、月刊ペースでの連載が難しくなってしまったからです。無理に書いて、自己模倣に陥ってしまっては意味がありませんし……。
―――そういう訳で、読者とメーカーの方々には、一年と少々、筆者の回りくどい文章に付き合っていただき、本当にありがとうございました。連載はあと一回ありますが、この場を借りて御礼申し上げます。
■本文。
今回プレイした『夜勤病棟』もそうなのだが、ダーク系の美少女ゲームの場合は、非日常的な体験を核としている以上、表層的には、プレイヤーから遠い存在でなければならない。無論、内面的には、闇の部分を共有させる必要性もあるのだが。
なので、ダーク系のゲームの場合、プレイヤーがダイレクトに投影できるような、無個性な主人公では駄目なのだ。もっとも、『河原崎家の一族』のように[覗き見る]ということに主題を置いたゲームは例外なのだけども、基本的に、背徳的な行為を行う、プレイヤーの代理人である主人公は、アクが強く、ウィットに富み、性的な超人だ。それは、恋愛系の美少女ゲームに於ける主人公像とは、鏡像的な関係にあると言えるだろうし、それは……フランス書院文庫や、マドンナメイトといった、既存のポルノ小説を支配する概念だったりもする。
そして、それらに共通する超人願望を、悪しきマッチョイズムと評する人もいるのだが、ポルノメディアは本来、男性原理が基盤となっているものだから、それを責めるのは、ちょっと違うような気もする……ポルノメディアとは、本質的に「そういうもの」なのだ。
そういう意味では、ゲリラ戦の天才であり、エロゲー界のチェ・ゲバラとも言える臭作さんは、まさに完璧超人だったんだけど、『夜勤病棟』の主人公である[比良坂竜二]の場合は、調教者としての天才的な手腕よりも、コミュニケーション不能者としての印象が先に立つ。性格が狡猾な割には、根が幼稚というか……ほとんど子供です。なので、キャラクターとしては、『好き好き大好き!』のラバーフェチな主人公に近いと思う。特定のイコンに対する執着……竜二の場合はスカトロジーへの執着が強いというあたりも似ているかもしれない。となると、ゲバラというよりはカストロかなあ(何を言ってやがる)。
まあ、感情移入するには紙一重の人物設定なのだが、実はこの落差がダーク系では重要だったりもする。個人的には、竜二となら美味い酒が飲めそうな気がするが。同病相憐れむ、といった感じか……。
ところで、竜二の場合は、歪んだ支配欲(自己顕示欲)の背景となっている、自分のコンプレックスに言及している箇所が、やたらと目立つ。例えば、恋に対する感情の変化は、ある意味で[お約束]と言えるが、同時に、[お約束]に対する違和感を描いているという面もある。
例えば、お近付きの印に花を貰っただけで、相手が自分に恋愛感情を抱いていると思い込み、その相手に恋人がいることが判明すると一転して、逆恨み的な復讐を誓う……という心の動きは、暗く、自己中心的な欲望ではある。しかし、子供的であるが故に、一定の共感を持つことはできる。けれども、非日常的な舞台&人物設定は、過剰な思い入れを抑える。結果、ダーク系な美少女ゲームで、最も重要な[紙一重]の感覚を上手く成立させているのだ。
そして、『夜勤病棟』という作品は、被調教者の心理描写に加え、調教者の心理描写にも踏み込んだことで、『雫』や『好き好き大好き!』といった作品の系譜で捉えることもできるだろう。もっとも、前出の作品に比べると、非常に明るめな印象はある。これは、従来のポルノ小説に於ける、エアブラシを用いたリアル系イラストレーションとは正反対な、淡くパステルカラー系なグラフィックを用いていながら、作品的には、ポルノ小説の世界観を骨格として援用していることに起因する。結果、一種の異化効果が働き、独特の雰囲気を醸し出している。
そして、前号の原稿でも書いた、マッチョイズムにもフェミニズムにも共感できなかった人々にとっての信仰……という要素が強い、前出の二作品と同じ文脈で語れるであろう要素を持ちながらも、『夜勤病棟』という作品は、従来の定型……つまり、マッチョイズム寄りの作品としても成立しているという、不思議な立ち位置のゲームだったりする。
無論、ポルノメディアとして捉えた場合は、こちらの方が正統であることは言うまでもないし、不思議な立ち位置を確保していることが、昨年あたりからの手詰まりな状況に対し、ちょっとしたヒントになるんじゃないかな……という気はするんだけど、どうなんだろうか……?
でもって、また、話がズレるんだけど、ダーク系とは逆に、恋愛系ゲームの場合は、主人公の意志がプレイヤーの意志と同一化し……シンクロ率を上げ、それが頂点に達したところで、何らかの感情を獲得し、それが[快楽]に繋がっている。つまり、涙を流すことが、射精の代理行為として成立するケースもある、ということだ。まあ、調教によって隷従させるのも、恋愛によって心の繋がりを構築するのも、繋がったことに対する快楽という点では大差ないような気もするのだが……。
だから、表面的な情念をノイズとして、削ぎ落とし、隠匿した、いわゆる村上春樹的な文体の方が、実は好ましかったりもする。この場合、隠匿された情念を追い求めることが、セックスと同じく、快楽を生み出す行為になるのだろう。もっとも、その文体で、えっちシーンを構築するのは難しいのだけど……。
何故なら、恋愛は情念を削ぎ落としても、ある程度は成立できるが、エロという部分を記号化するには限界がある。早い話、情念を削ぐと、色気も失せてしまうのだ。ただ、ポルノ小説という場所では、別の意味でフォーマットが確立されていて、記号的な表現技法として体系化されている。しかし、記号化したのは主に、表層の情念なので、両者を組み合わせると、水と油のような状態になってしまう。
これは、前々回で『夏祭』をレビューした際にも言及したが、恋愛系の美少女ゲームでえっちシーンになると、途端に主人公が饒舌になり、オヤジ臭くなるのは、親和性の限界を完全にクリアしていない証拠でもある。恋愛描写とセックス描写の食い違いが、萌えと泣きの二項対立を助長しているとも言えるし、逆に、美少女ゲームが、まだ進化の余地を残している証拠でもある。
さて、進化に関連することとして、美少女ゲームが持つ物語媒体としての構造については、一部のユーザーの間では、ファンサイトという形で研究されているが、主に[トラウマ]と[癒し]という現象にのみ、着目しているケースが多く、セックスという行為に介在する身体的な感覚や、その意味性については、やや軽視される傾向があるようだ。
ただ、これは作り手の側の問題でもある。しかも、意図的に言及を避けている作品もあるから、仕方が無い……という面もあるのだ。加えて、マッチョイズムとフェミニズムの類型的なイメージを排除しようとすると、同時に、性的な要素を排除しようとする力が、無自覚に働いてしまう……というのもある。
そして、フェミニズムの影響に囚われがちな、サブカル系のジェンダー化運動に比べれば、美少女ゲームを含めた、オタク向けポルノメディアの方が、思考の行動範囲は広いと言えるかも知れない。自由度が高い、とも言えるのかな……その分、目標が曖昧なので、途方に暮れたりもするのだけど。しかし、既存のジェンダー区分が持つイメージとは異なるものを構築する可能性、という意味では、共通しているだろう。
■畜生にも劣る総括。
萌え不能症気味の筆者は、センチメンタルな感傷や同情ではなかなか泣けなくて、むしろ、物語の流れにシンクロして感極まるって感じなんだけど、これって、結局、同じことなのかなあ……分からん。あ、あと、そろそろホームページ更新します……過去原稿もそろそろアップしないと……げふ。