はてなキーワード: 金字塔とは
鬼滅を子供に観せんな!って日記に触発されて、オッサンの子供の頃の話をするよ。
オッサンが保育園児の頃、帰りのお迎えが遅い子たちは男女に分けられてテレビ鑑賞タイムだった。分けられてる理由は単に趣味趣向の問題。(男の子でも希望すれば女児向け部屋に行けたのかとかは知らない)
で、男の子の部屋、つまり幼稚オッサンのいた部屋は基本的にロボットアニメが流されてた。
オッサンの母親はそこの保育士だったので、自動的に帰る時間は子供の中でも最も遅い時間帯になっていた。
突然だが、オッサンは今32歳だ。これでピンとくるオタもいるかもしれないが、当時放送されていたロボットアニメの中でもガンダムシリーズはやはり金字塔だった。そしてこの頃に放送されていたのはVガンダム。
ガンダムなんてよくわかんないよって人にザックリ説明すると、Vガンダムはガンダムの中でも特に戦争のダークサイドにスポットを当てたヤツなんだ。割と当たり前のように人がバラバラになり、主人公の母親が頭だけになってたり、大人のエゴが暴走して主人公相手に児童虐待したり、差別的なニュアンスが仄めかされたり、やたら主人公(たち)が理不尽な目に遭ったりする。正直言ってとにかく暗いんだ。
製作者(脚本家だったかの責任ある人)があの頃はおかしかったと述懐するくらい悪趣味な作品なんだ。一応言っておくと、視聴に耐えられるなら駄作ではないらしい。オッサンは大人になってからも耐えられずロクに観れていない。
そして、中でも多くの視聴者に印象を残したとされる要素の一つがギロチンだ。完全にヤバイ顔とファッションをした女の人がおじいさんをギロチンにかけていた。
その時、首が落ちるシーンが明確に描写されたか覚えていないが、首が落ちたらしき音が流れたのは覚えている。「ゴト、ゴロ」みたいな音だったはずだ。
オッサン自身としては、子供に残虐描写を見せるなとか、昔はもっと酷かったんだよとか言う気はない。
これを見たから人格が歪んだとも、見ない人はもっとまともだろうとかは思わないからな。案外、幼い頃に観るアニメの影響なんてそんなもんだと思う。
おまえが社会に出る時に出鼻をくじかれたのは100%上の世代のせいかもしれないが、その後20数年経った現在の問題の責任の一端はおまえにもあるんだよ
<野球>
・種田仁 特徴的なバッティングフォームは「ガニ股打法」と呼ばれた。
・小久保裕紀 一本足打法の長距離砲。引退後は日本代表監督を務める。
・元木大介 「クセ者」として活躍。バラエティー番組でもおなじみ。
・新庄剛志 傑出したスター性で日米を沸かせた「球界のプリンス」。
・稲葉篤紀 打席に入ると「稲葉ジャンプ」で球場が揺れた好打者。
・小林雅英 ロッテ時代は「幕張の防波堤」の異名をもったストッパー。
・松井秀喜 日本を代表する長距離打者。2013年に国民栄誉賞を受賞。
<サッカー>
・岡野雅行 元サッカー選手で元日本代表。ニックネームは「野人」。
・三浦淳宏 FKの名手であり、日本における無回転フリーキック、ブレ球の先駆者。
<その他のスポーツ>
・高橋尚子 元マラソン選手。シドニー五輪金メダリスト。国民栄誉賞を受賞。
・貴乃花 第65代横綱。兄若花田とともに「若貴フィーバー」を巻き起こした。
・清水宏保 元スケート選手。二つの五輪で三つのメダルを獲得した。
・野村忠宏 柔道史上初、全競技通してはアジア人初となる五輪3連覇を達成。
<アイドル>
・GLAY CDセールス、ライブ動員数など数々の金字塔を打ち立ててきたバンド。
・平井堅 シンガーソングライター。代表作は「瞳をとじて」など。
・YUKI 元JUDY AND MARYのボーカリスト。現在はソロで活動。
・GACKT シンガーソングライター。俳優としても活躍。
・岡本真夜 「TOMORROW」は200万枚を突破する大ヒットを記録。
・華原朋美 代表曲は「I'm proud」「I BELIEVE」など多数。
・松岡充 俳優、タレント。ロックバンド・SOPHIAのボーカリスト。
・常盤貴子 代表作に『愛していると言ってくれ』『ビューティフルライフ』など。
・竹山隆範 お笑い芸人。元カンニングのボケ担当。俳優としても活動。
・塚地武雅 お笑いコンビドランクドラゴンのボケ。俳優としても注目を集める。
・サンドウィッチマン ツッコミ担当伊達みきお、ボケ富澤たけし。
・後藤輝基 お笑い芸人、司会者であり、フットボールアワーのツッコミ担当。
・梅宮アンナ ファッションモデル、タレント。父親は俳優の梅宮辰夫。
その他
・門倉貴史 経済評論家。日本における地下経済学の権威として知られる。
・荒川弘 漫画家。代表作は『鋼の錬金術師』、『銀の匙 Silver Spoon』。
・うすた京介 漫画家。『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』などが有名。
ユークリッドからガウスの手前くらいまでの数学は、我々の感覚から自然に延長された世界の把握の仕方である。
一方、19世紀初頭、リーマン、ガロアあたりから登場した現代数学の基底となったアイディアは、一見、実世界では観察されえないものの、人間のもつアプリオリな思考からは確実に真相を表していると考えられる世界・宇宙のとらえ方である。前者は「悟性」、後者は「理性」に相当するのではないか、と解釈しながら読んだ。
「AはBである」という命題には「分析的命題」と「総合的命題」の2種類あることが示されている。
「分析的命題」は、言い換えのようなもので、Aをよく吟味すれば、Bであることがわかる。「総合的命題」は、「理性」を必要とし、思考の飛躍が必要である。つまりAをいくら眺めたところで、Bはなかなか出てこない。BはAの世界の外にある。
昔、大学初年のころ「数学は単なる式変形や定義のトートロジー(言い換え)であるからつまらない」と言っていた友人がいた。彼はその後数学科から哲学科に転向した。
中学生のころ、速く動くと時間が遅れるとか、空間が曲がっているとか、そういう相対性理論の話を聞きかじったときに、なぜそういうことが人間にわかったのか不思議に思った。
「悟性」の単なる延長上で、数学を進めていっても、数学がトートロジーであったならば、現代物理でわかっている宇宙や素粒子の構造は理解できなかったに違いない。つまり、現代の数学や理論物理は「分析的命題」によるのではなく、「総合的命題」の積み重ねによっている。
この本は、なぜ、このような理解が可能であるか、を説明しようとしている本なのではないか。本書のすごいところは、現代数学や現代物理学が誕生する以前に書かれたにもかかわらず、現代数学の諸概念を考えるきっかけを作ったのではないかと思えるところだ。実際、リーマンやガロアが出現した時代は、この本が出た直ぐ後であり、本書が、まるでその後の現代数学の誕生を予見していたかのように見える。さらに、現実の宇宙がまさに、それらの現代数学によってしか記述てきないものであることを発見したアインシュタインや、物質の状態に不確定性を見たハイゼンベルクなどドイツ系の理論物理学者は、若い頃にカントを読んでいた節がある。
現在では、宇宙が量子場の曲がった多次元空間であり、群の対称性から素粒子とはまさにその多次元空間の変換の規約表現そのものであることが発見され、物質の質量は後天的に獲得されたものであることがわかり、人間の思考と実験によって、「理性」による「総合的命題」が積み重なり、驚くべき宇宙の理解が進んできている。
この現代の数学、物理学の飛躍的発展に、本書が間接的に果たした役割は、かなり大きいのではないか。人類の残した書物の金字塔の一つであろう。
失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫) 文庫 – 1991/8/1
戸部 良一 (著), 寺本 義也 (著), 鎌田 伸一 (著), 杉之尾 孝生 (著), 村井 友秀 (著), 野中 郁次郎 (著)
敗戦の原因は何か? 今次の日本軍の戦略、組織面の研究に新しい光を当て、日本の企業組織に貴重な示唆を与える書。ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ沖海戦、沖縄戦という大東亜戦争における6つの作戦の失敗の原因を掘り下げ、構造的問題と結びつけた日本の組織論の金字塔。
何もかわってないと失望ばかりしていては何も解決しないので、どうすればいいのかを考えたい
といっても自分が読んだのはこっちのほうです
「超」入門 失敗の本質 日本軍と現代日本に共通する23の組織的ジレンマ 単行本 – 2012/4/6
鈴木 博毅 (著)
→ 戦略を決める
まずはこれ。
これを最高の優先度にして全ての計画を立てる
まあ、オリンピックとの優先度をどうするのか、これを決めて宣言することが大事だよね
っていうか、これだけだよね
やるのって
個人的な備忘録もかねてここ10年ぐらいの「(少なくとも一時期は)ゲームとして成立してた基本無料スマホゲー」の中で抑えておきたいものを整理してみる。
盆栽ゲーの完成形。今や「コツコツ育てるゲーム」という意味で使われる「盆栽」という単語だが、なめこに比べればどこが盆栽なのかと言いたくなる。
ゲームとして成立しているのかと言われれれば「ガチャで引いたカードでデカイ数字が書いてあるかどうかを比べるだけより1000倍ゲームである」と声を大にしていいたい。
通称クラクラ。AIの行動を読んでハックするという遊びはまさにゲームそのもの。
結局は金を積んだやつが強いのは事実だが、強くなるための片輪としてプレイヤーが工夫をこらす余地があるのは極めてゲームゲームしている。
ガチャゲーとしての要素も強いがそれはまずパズルゲームを攻略するのが大前提。
パズドラのライバルみたいな立ち位置だが、より間口が広くガチャから引いたキャラの個性も出しやすく作られている。
でもゲーム性が簡単になるとガチャの重要度が高まるから相対的にパズドラよりゲーム度下がってね?とは思うがバシーンよりは100000000000倍マシ。
今増田で話題の駅メモや、ポケモンGO系作品の中で最も純粋に位置情報ゲームをしていた作品。
やることはシンプルに「日々の生活の中でスタンプラリーをしまくる」というだけなのだが、そこに工夫やプレイヤーの個性が出る時点でガチャゲーより100000倍ゲームである。
眺めてるだけじゃ駄目だもんな。
スマホのクイズゲーム自体はQMAのスマホ版が先んじていたのに、なんかやる気がない作りで勝手に忘れ去られこっちが残った悲しみ。
ぶっちゃけカードの数字が重要なガチャバシーンな所はあるのだが、そうはいってもクイズが出来なきゃバシーンもクソもないのでクイズゲー以外の何物でもない。
タワーディフェンスゲームはコレ以前からあったし、R-18要素ありのブラゲーもあったのだが、ガチャバシーンじゃなくゲームとして成立しているR-18ゲーはアイギス辺りから。
でもアイギスがあったDMMでも本格的に遊べるR-18ゲーは似た路線のガーディアンミストレス(ガーミス)ぐらいだったような気がする。
ちなみにガーミスっていうのは「AV女優×ドット絵の新鮮な世界観で織り成す究極のハーレム堪能型本格エロタワーディフェンスが登場!」という紹介文から分かる通り、コスプレAV女優をドット絵にしたキャラをリアルタイムに操作して戦うタワーディフェンス風面クリア型RTSなんだけど、コスプレAV女優を駒にするというシステムを衣装替えという形でゲームに落とし込んだことで、ガチャゲーが抱えがちな属性相性や射程距離が単なる持ち物検査で終わりがちな部分が戦略性として機能していて、衣装替え中や必殺技発動時の無敵を上手く活かしたり、近接キャラで交戦状態にすることで相手のタゲを1キャラに固定して時間稼ぎやタコ殴りをしたりするといった様々な戦略を練ることが出来て、ガチャ要素のあるゲームの中では圧倒的な「択」の多さを誇るまさに本格的エロタワーディフェンスゲームだったんだけど、そういうゴチャゴチャしたゲームが好きなオタクに限って二次元オタクのロリコンが多いもんだからゲーム性的にメインターゲットになりうる層三次元はグロだからと敬遠されがちだったり、逆にAV女優に釣られたプレイヤーがゴチャゴチャしているからと避けていったり、難易度上昇(特に反射能力を持ったギリメカラ的な敵がキツかった)でプレイヤーが疲弊していったりと、ユーザーが離れる要素も多くていまいちマイナーなんだけど、スマホゲーやブラウザゲーの中ではまさにトップクラスと言っていいゲーム性を誇る作品が何故か三次元コスプレAV女優というややニッチなジャンルから飛んできたことも含めて「超ヤバイゲーム」なんだよな。
まあ色々アレだけどスマホのアクションRPGとしては人気でるのに必要な所は踏んでる。
でもガチャの重要度は高いのでゲーム性そんなでもない気もするが、バシーンバシーンでは流石にないよね。
本格スマホカードバトルを名乗るように、スマホで本格的なカードバトルが出来る時代が来たことを業界に突きつけている。
そこはHearthstoneじゃね?思うだろうが(でも俺ならShadow Eraの名前を挙げるね(ドヤァ)、PCでプレイする前提で本格DCGをやるのと、スマホをメインにして本格DCGをやるのとでは客層に対するアプローチが違うと思うのでこっちで。
いやマジでWoWとかやってた超熟成古参オタクにTCG投げるのと、神バハやグラブルやってるような連中にTCG投げるのは商業的には限りなくて似て非なるものだと思うよ。
確かにレアカードはクッソ強いんだが、ガチャから出たカードの数字がそのままぶつかりあうだけのガチャゲーに比べるとゲーム度は天文学的数字となる。
クイズゲーとトトカルチョの間の子で、未来の出来事を当てるという行為でポイントを競う。
スマホで出来るけど本格的に遊べて運の要素が絡むという非常にナイスなアイディア!だとは思うんだが……いまいちビジュアル面がパッとしなかった。
つうかバトル要素いらねーだろ面倒なだけだぞっていう……いやでもマジで貧弱ゴミスマホでも遊べるゲームを成立させるアイディアとしては正しかったのに色々惜しかった勿体なかった。
ススススススススマホでFPSwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwがオンラインで出来る時代なんだから凄いな(老人感
すまん。
10年振り返るといったんだが、ここ5年ぐらいでグラフィック以外で圧倒的にゲーム性が進化したと思えるのがいまいちない。
アクションRPGやMMOは確かにパワーアップしてきてるんだが、でも結局は初期のアクションRPGからゲームとしての部分で大きな変化があったようには思えないんだよな。
エヴァについて色々質問してくる娘に答える。昔流行ったアニメであること。今も作られ続けていて、今度ようやく完結すること。画面の中で動くキャラの名前と兵器のこと。あれこれと説明していく私の横で、娘は一言こう言った。
「面白い?」
私は答えられなかった。あらためて新劇場版を前にして、序を見ても、破を見ても、浮かんでくるのは「懐かしい」「キャラがかわいい」という感想だけで、「やっぱり面白いな」という感覚が私の中になかったのだ。1995年のテレビ版と2007年の序を観た時には確実に心にあったものが、今はすっかり抜け落ちていた。
一体私は、あのアニメの何を楽しんでいたのだろうか?
1995年当時、エヴァが社会的にヒットした理由は「新奇性」なのだと思っている。暗い世界観、謎に満ちたストーリー、コンプレックスを抱えたキャラクター、迫力の戦闘シーン、人間ドラマ、そして何より「空気感」。
後世に残る大ヒットをかました作品は、往々にしてその時代の空気感を反映している。エヴァというものは今までに無かったもので、そこに震災やらオウムやら世紀末やらといった「世相」が絡まっていた。1995年に生きた人間にしか分かり得ない何かがあって、でもそれは2021年からは振り返れない何かであって、その熱量が本物だったから、エヴァは時代を超えるアニメになったのだと思う。
当時小学生だった私は、エヴァの裏にある複雑なストーリーは理解していなかったが、「何か凄い」という感覚だけは頭の中にずっと走っていた。それは私よりずっとずっと大人の人も同じ感覚だったのだろう。「〇〇みたいなアニメ」という枠で語れない、それが新世紀エヴァンゲリオンであった。
新奇性がそこにあった。時代の先駆者となれたからこそ、25年も続くアニメシリーズが作られ続けたのだ。
しかし、今は違う。エヴァンゲリオンフォロワーは世の中に多く溢れかえり、設定も、キャラクターも、その後に続くフォロワー達の中に埋もれていった。アニメの表現が自由になるにつれて、「エヴァっぽさ」は1995年という文脈から独立して一人歩きを始め、当時の世の中を取り巻いていた空気は、25年の歳月の中で霧散していた。
スペースオペラの金字塔を打ち立てたスターウォーズが、新三部作で散々な評価を受けたように、またオープンワールドの先駆けたるシェンムーが、20年の時を経てリリースされた3で大ゴケしたように、時代の先駆者は、往々にしてその後のフォロワー達からの突き上げにあい、自分の立ち位置と時代性を見誤る。オリジナルからのブラッシュアップを得たフォロワー達は、技術進歩と数の恩恵を受け、先駆者を時代遅れへと追いやっていく。
それでも、先駆者は死なない。死ぬのは2番手以降の粗製品だ。一番乗りにはブランドと、話題性と、そして神話があるのだ。
その神話はエヴァにおいては非常に重かった。定期的(と言えるか微妙な間隔)に公式から供給がある。あのころのファンは存命で、まだ強い熱量を持っている。そして何より、エヴァはまだ完結していないのだ。
しかし、序からでさえ14年経った。もう時代遅れなのではないだろうか。2021年の空気感を捉え、エヴァを完結へと導くには、あまりに長すぎる時が経ってしまったのではないだろうか。私は一挙放送でそう感じてしまったのだ。
それは私が大人になったからなのかもしれない。色々な作品を観てきたうちに、珍しさも目新しさも感じなくなり、エヴァそのものへの興奮が薄れてきたからかもしれない。
隣に座っていた娘におそるおそる聞いて見た。「エヴァ、面白いと思う?」
私が子どものときに抱いた感想と同じであった。娘は娘で、エヴァを「なんかすごい」ものだと思っている。
子どもは面白さに敏感だ。面白いものを前にしているときは、外から分かるぐらいはっきりと目がキラキラする。しかし、画面の前に座っていた娘の目は、Youtubeを見ているいつものときとあまり変わらなかった。
娘は派手なシーンでよく「すごい」と言う。それは恐らくアクション映画を観る感覚であり、一瞬一瞬のパーツの面白さを味わっているのだろう。TwitterやTikTokの動画のようなインスタントな面白さが、ハイテンポで繰り返される、その状態をすごいと表しているのだと思う。
「〇〇とどっちが面白い?」口にしかけた言葉はすんでのところで飲み込んだ。
Twitterで散見された感想も、ほとんどはキャラクターへの感情だけであり、ストーリーや、世界観や、その他色んな「エヴァらしさ」に触れている人はあまりいなかった。ハッシュタグを追って見ても、あのころを懐かしむ意見ばかりで、新たにエヴァの世界に参入してきた人は見かけなかった。
もう、そこには「新奇性」は無いのだ。世界観も、メカニックも、専門用語の羅列によるバトルシーンも。何なら綾波やアスカといったキャラクターすら、無数のフォロワー達によって「よくあるもの」となっていた。新世紀から20年経ち、時代はエヴァを完全に置き去りにしていた。
でも、エヴァはまだ死んでいない。新劇場版4部作、中でもアニメと大きく異なる3、4作品目、ここにまだエヴァが残されている。エヴァらしさのほとんどは時代によって風化したが、まだ、一番大きなものが残っており、ファンもそれを強く求めていた。
そして、その期待を受けて出来上がったのが他ならぬ「エヴァQ」であったのだ。
私は、エヴァQは残された「エヴァらしさ」を極限まで追求した結果生まれたものだと思っている。その純化した素材は、考えられる限り最悪の料理を作り出したわけだが。
何も描かれていない背景の下でぐりぐり動くメカ、声優と口調以外に面影のないキャラクター、そして「難解」というよりも「支離滅裂」なストーリー。最先端だったアニメ表現は当たり前のものとなり、1995年の空気感どころか、2012年当時の空気感すら作れていなかった。
Qを観て、私は思ってしまった。目の前で繰り広げられる群像劇の一つひとつが、キャラクターの心情を深掘りするのではなく、制作者の考えたオ○ニーを少年少女に代弁させているだけのような気がしてしまったのだ。ただただ意味の無いセリフが飛ぶ奇妙な寸劇を眺めて、言い知れぬ不快感を覚えてしまったのだ。17年の集大成が結局ただのキャラ萌えであり、もうエヴァはとっくに時代に耐えられないのだと、そう感じてしまったのだ。
だけど、エヴァがどこかに向かって逸れていくのは、きっと仕方がないことだ。エンディングをぶん投げてから25年、今さら「シンジ君がサードインパクトを止めて世界を救いました」では、ファンが許さない。時代が進むにつれエヴァは古くなっていき、それに反比例するようにハードルは上がっていく。
もう一度エヴァが築き上げたものを再構築し、あの熱狂を甦らせようと、制作者はエヴァらしさを突き詰め続けた。ただ、その先に、未来が無かっただけなのだ。
一体私は、このアニメの何を楽しんでいたのだろうか?
3月8日、いよいよ新劇場版最終作が公開される。私も娘を連れずに観に行くつもりだ。
しかし、正直きちんと完結するとは思えない。毎週更新され続けたテレビアニメ版ですらまとめきれなかったのだ。たった4作で綺麗に締められるわけがない。
ただもし完結することがあったなら、ファンがかける言葉はきっと、「面白かった」や「つまらなかった」よりも、「完結おめでとう、お疲れ様」なのだと思う。それはまるで野球選手の引退試合のように、時代と戦い続けた者を称え、時代に敗れた者を見送る、そんな言葉がたくさん注がれるのだと、私は強く思っている。
今、テレビアニメ放送中の魔術士オーフェンはぐれ旅の原作小説について、雑に語ろうと思う。ネタバレ満載原作4部まで話すので、ネタバレ苦手な人は回れ右。
魔術士オーフェンというシリーズは90年代ファンタジーラノベの金字塔と言われている。私は98年くらいからオーフェンを読んでいるが、確かにあの頃にとても売れていた。いわゆる夢と冒険のファンタジー的な売り文句だったと思うが、今思うとほぼ全ての読者がこの物語の本質を誤解していたから売れていたのだと思う。
私もオーフェンを夢と冒険のファンタジーだと思っていた。が、当時巷に溢れていた物語とは何かが違うとも思っていた。その時にはただの予感でしかなかったが、あれから20年以上経った今になって、それはようやく確信となった。魔術士オーフェンという物語は夢と冒険のファンタジーではない。人間の倫理についての思考実験だったのだ。
まず、第一部である西部編。これは罪と償いについての物語である。一巻でチャイルドマンを殺したアザリーが、その罪を償うために何が出来るのかを模索したのが第一部だ。
先に言っておくと、作者の秋田禎信氏は殺人という罪を否定しているが、それを人間の絶対的な汚点とは見做していないと考えられる。なぜそう思うのかというと、第一部では主人公も含めて殺人者が登場するが、彼らに物語の神の立場で罰を与えてはいないからである。しかし、安易な赦しも与えていない。彼らが殺人者であるという事実に直面させ、その上で彼らの生き方を描いている。これについては同作者のエンジェル・ハウリングにも同様の特徴がある。
そして第一部では、アザリーのチャイルドマンへの償いを通じて、この世界の秘密が語られる。この秘密の明かし方は非常にドラマティックに演出され、私は陶酔すらした。
この演出の妙があまりにも素晴らしかったので、私も含めて多くの読者はこの物語を夢と冒険のファンタジーだと誤解したのだと思う。精緻に設定された世界を楽しむ物語なのだと。
しかし違った。作者は世界を描くということに、もっと自覚的であった。その自覚が存分に描かれるのが第二部、東部編である。
東部編は西部編で明かされた世界の秘密、滅びに晒されている世界を6種のドラゴン種族の長たちだけで守っているという事実に対して、そのために現れる世界の歪みと、その世界の在り方をどう捉えるのかということを克明に描いていく。これもまた、倫理的な話である。
最終的に、オーフェンにはその歪みを好きなように書き換える機会が与えられた。歪みを正す機会ではない。好きなように書き換える機会である。
この時の彼は神にも等しい魔王の力を持っており、ドラゴン種族の守りをより完璧にすることも、自身がドラゴン種族の代わりに世界の守護者になることも、好きに選べた。
しかし、オーフェンはごく僅かな人々が世界を守るという在り方を否定した。世界が滅ぶことによって死ぬかもしれないというリスクは全ての人で平等に背負うべきだという道を選んだ。そして、ドラゴン種族の守りを消し去ったのである。
例えば、これをかつての王制になぞらえることも出来ると思う。王制と言えば王権による暴力ばかりが注目されがちだが、政治という大きなものをひと握りの人間に押し付ける装置でもあった。これをドラゴン種族の長達による世界の守りと同等の問題だと見做すことは出来るだろう。
そうした世界の在り方を認めてよいのか?という問題に否という答えを出したのが第二部であった。
第四部では、力と人間の極限を描く。力の強大化が行き着く先はどこか。人間が強大化する力を持ったとき、いつまで人間と呼べる存在でいられるのか。そうした問題を扱う。
オーフェンが第二部のクライマックスで手に入れた魔王の力はそれから20年経ってもまだ彼の中に残っていた。しかし、オーフェンはその力を振るえば自分は人間ではいられなくなると考え、その力を自らの自制心だけで抑え続けてきた。オーフェンがドラゴン種族の守りを消し去ったことが原因で遭遇することになった神人災害でどれだけの人が死のうとも、それらを全て蘇らせることが出来るのに、だ。
この、とても人間とは思えない自制心故に人間でいられるという二律背反を背負ったオーフェンと、それを生み出した作者の秋田禎信氏に深く敬服の念を抱く。
・どういう人?
フランス生まれ(1835-1921。七月王政~第一次大戦後)。小さいころは神童で、ピアノもオルガンも超一流で教養もあったすごい人。旅行も好きだった。オペラ、バレエ、合唱曲、あとは超絶技巧ものみたいな総合芸術が流行ってたフランスで、交響曲とかソナタみたいな堅苦しいジャンルをフランス人が書くならどうすればいいか模範を見せた。意識的に「フランス音楽」を作り上げた功績は大きいけど、長生きしすぎた(あと口が悪かった)せいで晩年は時代遅れ扱いを受けた。
・普通に有名な5曲
ザ代表作。交響曲とかいうドイツ語圏名産の重苦しい形式を、華、明快、節度が大事なフランス流の美学で仕立て直した金字塔。近いコンセプトのピアノ協奏曲第4番、ヴァイオリンソナタ第1番を聴いてみると、編成に合わせてどう曲想を変えてるかも楽しめる。
www.youtube.com/watch?v=eTsbgDBC4_k
サン=サーンスといえば協奏曲。ヴァイオリン協奏曲第3番とかチェロ協奏曲第1番も名作だけど、この曲は重厚な第1楽章、軽くて無邪気な第2楽章、情熱的な第3楽章とそれぞれ対照的な雰囲気が一度に楽しめる。
https://www.youtube.com/watch?v=tk_eqKUjDXE&list=OLAK5uy_kFlhz7yMPIyXhc1pQ-5NDDtQL0XezyFz8
若いころのサン=サーンスは「現代音楽家」で、古典を大事にもするけれど、形式の堅苦しさからは脱出しようとした。交響詩は当時最新鋭のジャンルで、死神のヴァイオリンとか、ガイコツを描写する木琴とか、ちょっと品のない表現もたくさん使って悪夢的な情景を表現しようとした意欲作。「オンファールの糸車」「アルジェリア組曲」もおすすめ。
www.youtube.com/watch?v=k1s28gmLicc
本人は発表を嫌がったっていうのもわかるけど、言いたいことを短く言い切る発想力と技術、やっぱりサン=サーンスだからこそ書けた作品だと思う。神秘的な「水族館」と馬鹿騒ぎの「化石」が個人的ハイライト。
www.youtube.com/watch?v=7SjagpXeNhM
サン=サーンスの堅いところと砕けたところが両方いい感じに出たオペラ。全部聴くと長い(でもオペラとしては短め)から、オリエントっぽさ満点の「バッカナール」が入ってて最後も派手な第3幕をとりあえず聴くといいと思う。異国趣味だとピアノ協奏曲第5番「エジプト風」の第2楽章とか、本人なりになんとか日本っぽさを出そうとがんばった「黄色の王女」も面白い。
www.youtube.com/watch?v=GNa8HOMcDvk
・そんなに有名じゃない(好きな人はたぶん知ってる)5曲
20代半ば、1860年ぐらいはサン=サーンスが最初に輝きはじめた時期だと思う。自分はこの曲が一番好きだけど、序奏とロンド・カプリチオーソ、ピアノ協奏曲第1番、交響曲第2番、チェロとピアノのための組曲 作品16、冒険心と若々しい覇気を感じる秀作ばかり。
https://www.youtube.com/watch?v=J34_SiyzsUw&list=OLAK5uy_nfoGOwtSlxkICv6SpIOPGmTsLh7soAVnU
ドイツっぽいド根性(ベートーヴェンとかブラームスとかワーグナーとかそういうやつ)はサン=サーンスの持ち味とは違うけど、この曲は珍しくベートーヴェンっぽい激しさ、硬質なかっこよさが味わえる。普仏戦争でドイツに負けて、自分たちのとこでも交響曲とかソナタとか作ってやろうと奮起した時期の曲だからだろうか。いわゆる「精神性」「深み」みたいなのは、「糸杉」作品156とかクラリネットソナタの第3楽章とかにある。
https://www.youtube.com/watch?v=AU2Eq1jKJGE&list=OLAK5uy_najeRAiKZJwnS2_n9wzLaYdgzMiOZ1RtY
ピアノの名人だったからピアノソロの曲もたくさんあるけど、楽器が身近すぎたからか良くも悪くも一瞬のひらめきで書いてて、波長が合わないといまいちアガらない。むしろ2台ピアノのほうが頭を悩ませながら作ったみたいな感じがあって工夫を楽しめる曲が揃ってる。この曲は優雅なワルツが軸なんだけど、ちょっと気を抜くと不穏な世界があるみたいな前衛的なシュールさもあって面白い。
www.youtube.com/watch?v=wNc7UNFcPMA
「オルガン付」で一度総決算して一息ついたあとの60代(20世紀に入る前後)は完成した作曲技術をつぎこんだ、地味だけど傑作の森だと思う。ヴァイオリンソナタ第2番、チェロ協奏曲第2番、弦楽四重奏曲第1番とかを経てこの曲はヴァイオリンとチェロの二重協奏曲。どこをとってもいい音楽を聴いてるなあと思う。
www.youtube.com/watch?v=wDT21gGt9FQ
そして死んだその年の曲。年をとって無邪気になるというか、どっか遠いとこを見るようになる作曲家はいろいろいるけど、86の爺さんはやっぱり格が違う。もう思い残すことはなさそうな感じ。クラリネットソナタとファゴットソナタと合わせて三部作だからそっちもぜひ聴いてほしい。
ちょっと興味あるけど調べるとあんま評判よくないんだよなうーん
ポケモンがたくさんあったけど興味ない
アダルトコーナーへ
スイートナイツがポップにレアゲー!ってかいてあったけど馬鹿言うな
だいぶ前だけどアリスの館456にプレミアソフト!とかポップつけて3kくらいで売ってた糞店だからなあ
エロゲDVDが付録でついてるメガストアとテックジャイアンが大量にあった
たぶん60冊くらい
ラインナップみた
目についたので覚えてるのは、
ライアーのインガノック、NTRゲーの金字塔TRUEBLUE、DARKBLUE、はっぽうびじん原画のやたら評判がいい低価格ゲーなんとか迷宮みたいなの、VIPERシリーズ4つはいってるの(駿河屋買い取り価格1200円でなぜか高かった)、ジブリール1,2、群青の空をこえて、フォークロアジャム(冴えカノの丸戸史明がてがけたオカルトエロゲ)、とらは1-3、魔法少女アイ2,3、夜勤病棟1、姦染2,3、カナリア+青カナリア+カナリア茶(bambooゲー好きだから迷ったけどガマンした)、
最初全部買っちまおうかと思ったけどまずやんねーだろうしかなり迷ってガマンした
もやし2袋だけ買った
ドラッグストアで半額のをいろいろかった
来週の話なのだが、日本競馬史上、おそらく最初で最後の頂上決戦が行われる。
「頂上」決戦というのは、3頭のとんでもなく強い馬が、初めて対戦するからだ。まずはその馬たちを紹介しよう。
アーモンドアイ:2018年の牝馬3冠馬。G1を8回勝つという、ディープインパクトやテイエムオペラオーですらなしえなかった金字塔を打ち立てたとんでもない馬。この馬と同世代の牝馬は不運であったが、その馬たちも後にG1を勝ちまくっている。これが引退レース。騎手はルメール。
コントレイル:2020年の牡馬3冠馬。まだ負けたことがない。菊花賞では直線で初めて他馬に並ばれるが、並ばれども絶対に抜かせないオーラを感じさせた。騎手は福永。
デアリングタクト:2020年の牝馬3冠馬。まだ負けたことがない。どんな馬場、レースになっても圧倒的な力を見せつける姿は、2年前のアーモンドアイを彷彿とさせる。騎手は松山。
という感じで、日本競馬を3年間牛耳って、未だ衰えのない(先日、天皇賞というG1を勝った)アーモンドアイに、2頭の若き無敗馬がチャレンジするというストーリー。
本題はここからなのだが、これを例えようとすると、なかなかうまい例が見当たらないのだ。日本競馬界においてはトップホースや無敗馬が激突するということはあまりなく、過去のレースでは例えられない(無敗トウカイテイオーVS古馬チャンピオンのメジロマックイーンという30年ぐらい前のレースはあったが)。
いわゆる「ぼくのかんがえた最強レース」が実現した例であり、なかなか現実世界で例えるのは難しいかもしれないなと思っている。馬場VS猪木が近いかもしれないが。
J.K.ローリングが探偵小説シリーズの新作『Troubled Blood』で、事件の犯人のキャラクターとして「女性を殺害するために女装をして犯罪を繰り返すシスジェンダー(異性愛者)の男性連続殺人犯」を登場させたことが話題になり、
「#RIPJKRowling(J.K.ローリングよ安らかに眠れ」)」というハッシュタグがツイッターでトレンド入りしたらしい。
J.K.ローリングは以前からTERF(トランス排除的ラディカルフェミニスト)として批判されていて、今回の件があったわけだが、
これ受けて女性やフェミニストの人達はどう思っているのだろうか?
私はその小説を読んでいないのでニュースの情報しか手がかりは無いが、「これでアウトなの?」と思った人も居るのでは?
件のニュースのブコメでも見たが、性別を誤認させるトリックはよくある。ネタバレになるので言えないが、かの叙述トリックの金字塔や、確か金田一少年の事件簿にもそんなエピソードがあったはずだ(便座の蓋を上げてた事で男だと見破られた、とかだった筈)
そういうものを書く自由もないのか、普段TERFとして批判されているから?しかも「RIP」だなんて、菊の花を置いて暗に「死ね」と言ういじめのようじゃないか。
そう思う人も居るのではないだろうか?
私は表現の自由戦士として、当然J.K.ローリング氏の表現の自由を支持する。
そしてツイッター上での運動は彼女の表現の自由を侵害する不当な運動だと思う。
ならば、これを機に表現の自由戦士と(一部の)女性、フェミニストは手に手を取り合えるのではないか?
一部、表現の自由よりもTERF叩き女性叩きを優先させてしまっている表現の自由戦士たちが居るのは残念な事だが、
もし女性やフェミニスト達と和解できるなら考えを改める者も出てくるかもしれない。なにしろ、私達は実の所、あなた達が怖いのだ。
どう怖いか、それはあなた達が今感じている恐怖と非常に似ている。「こんな事もアウトなのか」「これも差別だと言われるのか」「差別だと思われたらこんな仕打ちも正当化されるのか」「あれも批判されるかもしれない」「これからもっと厳しい基準で批判されるかもしれない」
その恐怖の中で、表現は委縮せざるを得ない。J.K.ローリング氏もこれからの執筆活動に支障を来すかも知れない。
そういう事は不当だ。表現の自由は守られなければならない。「ツイッター上の運動は一般人の行いだから、表現の自由の侵害には当たらない」なんて、彼女が実際に陥っている危機を無視している。
そう、思う人も居るのではないか、なら、
これ書いた人。せっかくヨルシカのただ君に晴れを好きと言ったので、好き長文も書いてみる。
私の年代でギター伴奏・バンドサウンドのボーカル曲作ろうとしたら、カッコいいリフを作るところから始まると思う。リフ一発で黙らせる強さが欲しい。米津玄師のLOSERなんて、それこそ現代的でリフがかっこよくて歌謡曲要素もありながら韻踏みのラップ要素も違和感なく突っ込んでポンキッキーズのオマージュまで入れるように肩の力の抜きかたまで分かってる、老練な作曲家が「今の時代ならコレっしょ」と作るような曲を体現したような曲だ。サビのとこのクッソかっこいいマイナー→メジャーの転調の話とかもしたいが、主題じゃないので割愛。
この曲の良いところは、歌詞と声だ。suisの声の良さはもはや全国6兆人のsuisファンが語り尽くしてるからいいだろう。歌詞だ。全体としては「あの夏」の君の思い出を思い返している曲だ。「夏日 乾いた雲 山桜桃梅 錆びた標識」の名詞を紡いでいく歌詞なんかはボサノヴァの金字塔、アントニオ・カルロス・ジョビンの三月の水を彷彿とさせる。この時点で美しい、美しかった光景を書こうとしている意思は伝わってくる。「絶えず君のいこふ 記憶に夏野の石一つ」の、文学性とオリジナリティを損なわない程度の引用とか、凄く綺麗でうまいと思う。
そして曲名にもなっている「ただ君に晴れ」だ。実は曲中では1回しか出てこない。そして、その周りの詩だけ読むと、「ただ君に晴れ」は「ただ君と晴れの日だけが思い出にある」という意味にしか読み解けないようになっている。しかし、全体を通して曲を聞くとこの「ただ君に晴れ」は、「君にただ晴れの日があらんことを」という祈りにしか聞こえなくなってくるのだ。どちらも、極限まで短くすると「ただ君に晴れ」の6文字になる。どちらが正しいか?はPVに書いてある。後者だ。願わくば、PVにすら書かずに、誰にも真実を明かさないのに、誰もが後者と受け取るような芸術を見せてほしかった。ちなみに言っておくと、Youtubeの英語版タイトルが「Just a sunny day for you」になっているが、これは間違い。作者公式の英語タイトルは「Cloudless」。快晴である。このダブルミーニングなのに誰もが真意を読み取ることになる、それこそYoutubeの翻訳した人が真意の翻訳をできるくらいには、エモが過ぎる曲なのだ。他の歌詞は、いかにも内省的な、語彙貧弱な私が言ってしまえば陰キャじみた独りよがりな歌詞なのだが、「ただ君に晴れの日があらんことを」という真摯な祈りだけは恐ろしく真摯に聞こえるのだ。祈りというのは恐ろしくも、人が生きゆく、死にゆく際に最後に残るものだ。「幸あれ」という祈りは、般若心経の頃から連綿と続く歌の真意の1つである。人に、自分に祈るということこそ、音楽の、詩の、本質かもしれない。
ここまで読んでくれてありがとうございます。どうか皆々様に幸あれ。そして私の嫌いな者たち、最近やたら暑いですね。どうか晴れの日のあらんことを。
金曜ロードショーで『バック・トゥ・ザ・フューチャー』見て「なにこれ面白いじゃん!」と思った人は是非これも見て欲しい。
と言っても『ショーシャンクの空』とか『ニューシネマパラダイス』みたいなのじゃなくてもっとベタなやつね。
題名は聞いたことあるし、なんかの元ネタらしいぐらいは知ってるみたいなやつ。
『ロッキー』
あーあれだろ、最後エイドリア〜ンて叫ぶやつ。階段登ってガッツポーズだろ、生卵丸呑み。悪いけどボクシングとか興味ないし。
脚本はスタローンてマジかよ。なんか実は性格も悪いらしいよね。だいたいあの脳筋男に文章なんて書けんの?
まあそう思うかもしれないけど、まだ売れない役者だった頃のスタローンは、少なくともこの時は奇跡のように素晴らしい脚本を書き上げたんだよ。
それに『ロッキー』のテーマはボクシングじゃない。冴えない生活を送る無名の男が一つのチャンスをきっかけに立ちあがろうとする姿。
まさかスタローンに泣かされるなんて思わないだろう?まあ見てみなよ。
『ダイハード』
2以降はクソ。1だけ見ればOK。
エンターテイメントとしてはまさにパーフェクト。アクション映画の金字塔。
あちこちに散りばめられた伏線が見事に回収されていくさまにゾクゾクする。
ブルース・ウィリス演じる主人公と黒人警官の友情とか、いかにも良きハリウッド映画って感じだよね。
これを見れば、なぜあの太ったハゲ男が『アルマゲドン』で地球の運命を託されたのかわかる。
『男はつらいよ』
あれだろ、じいちゃんばあちゃんが良くみてたやつ。下町だろ、人情だろ、マドンナだろ。昭和の話だよな。
まあそれはそうなんだけど。
これを見れば、なぜ今だに「寅さんの世界に憧れて日本に来た」という外国人が時々いるのかわかる。
昭和の下町の人情溢れる、いかにもありそうでどこにもないユートピアの物語。男はつらいね。
『ブロジェクトA』
あー、あのジャッキー・チェンがセーラーでアクションするやつだよね。コメデイでしょ。この撮影で大怪我したんだっけ。
それはそうなんだけど。それ以上何が要るっていうんだよ。
他は見なくてもせめてこれだけは見て欲しい。見ないと人生損してるよ。
これを見れば出川哲朗がなぜ内村光良をチェンと呼ぶのかがわかるよ。
見た目が似てるとかものまねをしてたとかもあるんだろうけど、それはやっぱり出川の内村に対する敬意の現れなんだよね。
つまりはそういうことなんだが、アクタージュ好きなんよ。私はね。
ちょっと前にチェンソーマンおよび藤本タツキ激推しお気持ち長文書いたんだけど、この増田に対してあのレベルの激推し文が書けるほどのバックボーンが私にはない。ただアクタージュってワードに反応して語りたく成った迷惑な早口キモオタだ。許せ。
漫画マニアなら、演劇漫画と言えば大御所も大御所、金字塔も金字塔のガラスの仮面が思いつくだろう。累も大好きだけど、あれは演劇が主体かと聞かれたら微妙なところだ。アクタージュの凄さ、面白さは、ガラスの仮面を下敷きにしながらきっちり少年漫画に落とし込む上手さ、現代性の取り入れ方だ。演劇なんてジャンプっぽくない題材で、どうやって少年漫画に落とし込むか?という方向性に疑問が行くだろう。しかし、違うのだ。元々のガラスの仮面、このガラスの仮面こそが、極めて少年漫画的で、かつ化け物じみた少女漫画なのだ。
ガラスの仮面において、しばしば主人公マヤの狂気性がクローズアップされる。どれだけ弱めても「狂気」だ。少女漫画はえてして、人間関係のドロドロを誇張含めて描きがちである。ガラスの仮面ファンも、アンチも、なんとなく読んだことがある人も、「こいつはヤバい」と思っただろう有名エピソードとして「泥まんじゅう」がある。ネタバレは出来るだけ避けるが、この狂気性はどうしても伝えたい。ガラスの仮面をこれから読む人でネタバレが気になる人はさよならだ。まあ流石に居ないだろ。
基本的には、マヤは「月影先生や速水の寵愛を受け、美味しいところを持っていく」役柄で、作中でもきちんと周りから指摘され、嫉妬される。なろう系のように「さすマヤ」状態にはならない。それこそ、ほぼ殺人未遂の石(本物)を舞台上で投げつけられたりする。まんじゅうを泥団子にすり替えられたりする。さすがのマヤも手が止まる。だが、「おらぁトキだ!」と、マヤが演じるトキになりきって、泥まんじゅうを満面の笑みで食ってしまうのだ。もはや「さすマヤ」である。あまりにも強烈過ぎる自己否定だ。彼女はマヤではなく、あの瞬間、間違いなくトキだったのだ。マヤは、自らがマヤであること、演技力がある人間であること、紫のバラの人に憧れを抱く人間であることなど、そんなアイデンティティにほとんど執着がないのだ。劇中で自分ではない何かに成った自分こそが彼女のアイデンティティなのだ。物語に没入していなければ「なんだこいつ」だし、没入してても「狂気」だ。「演劇をやりたい」という極めて明確な目標を元に、自分すらも捨て去る。演劇を主体として見ればとても少年漫画的であり、生き様としてみれば少女漫画のエッセンスがこれでもかと濃縮されている。不朽の名作だ。
さて、アクタージュの話だ。主人公の夜凪景は、いわゆる演目になりきる憑依型のアクターだ。まんまマヤである。さらにライバルキャラの百城千代子もほぼ亜弓である。そして主人公を演劇界に引っ張り上げた演出家には、いつかやりたい「幻の演目」……当然ながら「ガラスの仮面」への類似性への指摘されるし、あの名作と比較してどんな差別化をしてくれるのか、と比較される読み方をされていたと思う。ガラスの仮面を読んだことがない人も、ガラスの仮面ファンにも、ちゃんと面白いと思ってもらわなければ連載は続かない。
アクタージュは、必ず「この人はなぜこうなったか」「なぜそれができるか」「なぜそうするか」が描写される。つまり、描写される演技には必ず「アクター個人としての」アイデンティティが関わってくるように描かれている。ガラスの仮面のあまりにも強烈過ぎる自己否定など、微塵もない。この一点こそ、マヤと夜凪の、ガラスの仮面とアクタージュの決定的に違うところだ。ガラスの仮面ファンもニッコリ。
そしてもう一つ大きな違い、「個と組織」の違いだと考えている。ガラスの仮面は圧倒的に「個」だ。読めば分かるが、ガラスの仮面は組織が組織の強みを生かしたシーンが実は少ない。組織の良くない、ドロドロしたところの描写のほうが多いくらいだろう。マヤの理解者である、月影先生も劇団の主催ではあったものの、強烈な周りに理解されない天才、「個」だ。速水さんも明確な「個」である。強烈な個がぶつかり合う様でガラスの仮面は成り立っている。
アクタージュは、組織的なものがちゃんと組織として役割を担っている。それだけだと、ただ主人公とライバルが活躍するだけの漫画かと思ってしまうが、きちんと「組織」が役柄をもっているため、組織の存続に関する視点が本筋に関わっていく。商業的な視点も取り入れながら、きちんと少年漫画をやっている。実に現代的な視点であり、ガラスの仮面リバイバルとしても十分に面白い作品となっている。ガラスの仮面知らない人もニッコリ。
強烈過ぎる自己否定からくる演技への執着、それによって誰にでもなる、なってしまうガラスの「仮面」のマヤ、時には暴走するが、自らのバックボーンを捨てることなくリアルを演出する「アクター」ジュの夜凪。対比として美しいって書いてて思った。
どっちかのファンでもどっちも知らない人でも、片方読めば楽しめるし、両方読めば4倍楽しめる。1+1で2じゃないぞ、2の2乗で4倍だ4倍。読んでくれ、特にガラスの仮面。
愛人云々はどうでもいいけど、島耕作読んでると日本のサラリーマン全体が勝ち筋が見えなくなってるのはかなりヤバいと感じる。
元々島耕作は、日本の男性サラリーマンの願望充足させることで人気が出た漫画
仕事ができて、女にモテて、若い愛人作って、権力者にも気に入られて、仕事もプライベートも充実したサラリーマン描写が売りだ
で、女にモテての部分はともかく、仕事ができて。の部分にはモデルがある。
初期は作者の弘兼のサラリーマンとして働いた経験から、後には世の中の仕事がうまくいってるサラリーマンや経営者を取材して、
しかし、日本のバブルが崩壊し、長期的なデフレによる失われた20年に突入したあたりから、
徐々に仕事による成功の描写が怪しくなってくる。日本経済全体が失速しているからだ。
誰も勝てなくなってきたので、成功しているサラリーマンの絶対数が減っていき、
リアルでの成功体験を漫画の描写にトレースするという手段が徐々に無効化されているのだ。
他人のリアルな体験談が使えないので、漫画家の想像力に頼るしかない。
その結果、生み出されたメソッドが女とセックスしてたらなんか仕事もうまくいっちゃった。という定型パターンだ。
島耕作が段々セックスファンタジー化していったのは、そういった理由だ。
あれ凄いよな。超律儀な男じゃん。
コンドーム1ダースくらい使って、全部結んであったりするだろ。
普通無理じゃね?お前A型の極みかよ。そもそも12回もできねぇ、という野暮は言わないとしても、出す、モノを抜く、ゴム外す、結ぶ、次のコンドームの封切る、着けるってことを11回やるわけだろ?
それ想像して笑っちまって抜けねぇ。
イラストだとケダモノのように犯してるように見えるけど、実際は外して結んでつけるという作業をちゃんとやってるわけだよな。
その間女の子どうしてるんだろ。
「あー…もう疲れたわ…」って絶対なるだろ。でもやっぱり男がまた挿入してきたらイラストみたいな感じにアンアンしちゃうわけで。ものすごい演技力じゃね?淫乱とか堕ちとかそういうんじゃなくて、普通に冷静でかつノリのいい理想の女の子だろこれ。
描いた人の意図としては「理性を失うくらいのセックス」なはずなのに、同じイラストの中に「二人が真顔に戻る瞬間が11回もある」ことを内包してるわけだよ。これ凄くね?
コトが終わった後のその二人の会話が気になる。絶対内心で「いやーキツいわぁ」ってなってるって。でもそれ言うと相手の頑張りに水さしちゃうから、ウェヒヒとか笑ってごまかすしかないわけだろ。
和んじまって抜けねぇ!
しかも、クッソ汚いオッサンでもたまに全結びのA型の鑑がいる。下品で臭くて男の俺でもマジ勘弁なオッサンでもちゃんと結んでるんだよ。
これは快挙だろ。いや、何が快挙なのか意味が分からんが、見てるこっちとしてはさ。そういう気持ちがしてくるだろ。
なんか…あのゴム厚くね?
つーことは、すげぇ激しくセックスをする性豪と見せかけて、早漏防止の極厚コンドームを使用しているという推測が成り立つわけだよな。
という絵面に反して、「極厚コンドームで自分のコンディションを調整する男」という妙に冷静な視点が加わるわけだよ。
以上のことから、使用済みコンドームが散乱しているタイプのエロ絵の男は
・数回~十数回も訪れる『沈黙の時間』に屈することなく行為を行い続けられる鋼の精神力
・「もういいだろ…」という空気をものともせず行為を行い続けられる不屈の精神力
・早漏という己の弱点を認識し、テクノロジーで解決していこうとする柔軟な対応力
を兼ね備えた存在ということになる。
疲れてんだから早く終わらせろよとか思ってる間も男はしっかりと極厚コンドームを結んでいるわけだよ。
辛いわ…。
昔はあんなに好きだったのにな…。
俺はもってけ!セーラーふくが聴けない。イントロはまあなんとかいけるが「いーかげんにシナサイ」でダメになる。恥ずかしいのだ。なんというか2007年の"萌え"がガッっと懐に飛び掛かってくる。俺の心はまだそれを受け止められない。電波曲は嫌いじゃないしむしろ好きなんだが、どうしてももってけ!セーラーふくという電波曲の金字塔を前にすると照れが生まれてしまう。
で、
なぜ俺がもってけ!セーラーふくに感動したかというと、月ノ美兎がこの曲の歌詞をうろ覚えで紙に書いたものをツイッターにあげていたのをふと思い出して、さっき歌詞を検索してみたからだ。
すごいね。畑亜貴は天才と言われている所以を再確認した。他の畑亜貴作詞の曲も聞くけど、ちょっとこの曲は段違いだ。
一番すごいと思ったのは多分Cメロにあたるところの「うんだかだーうんだかだーうにゃうにゃはれってほれってひれんひらー」だ。
それまでに散々荒唐無稽な、いや実際には女子高生の"萌え"を表した言葉を紡いできているんだけど、ぱっと見何が何だかな歌詞を書いていきながら、この「うんだかだーうんだかだーうにゃうにゃはれってほれってひれんひらー」であぁこの曲は、この歌詞はもうすぐ終わるんだなということがわかる。いやそれまでの英語歌詞あっての「うんだかだー」ではあるんだけど。
畑亜貴はすごい。
俺がもってけ!セーラーふくが聴けるようになるまで、もう少しかもしれない。