はてなキーワード: 適者生存とは
この世界は適者生存。社会に適応できる人間が生き残る。因みに私は、適応できない側の人間。
今年の受験に失敗して、もう後がなくなった。学歴社会の日本において、受験の失敗は死を意味する。馬鹿にされ、見下されるだけ。様々なサイトや動画を視聴して、そう悟った。惨めで虚しい人生なんて歩みたくない。
私の未来は、社会不適合者として生きているというものでしょう。即ち、ニートです。嫌だ、ニートになんてなりたくない。生活保護をもらうなんてまっぴら。
八方ふさがり。私の人生に光が射しこんでくることはないでしょう。
ならば、今私が選択できるのはこの世界からの消失だけでしょう。ニートになって親のすねをかじるよりも、この世界から消えた方が賢明でしょう。
仮に私が消えたところで、社会に何の変化もないでしょう。私より優秀な人間はごまんといますからね。
むしろ、この世から消える方が親孝行になるのでは?これ以上生きて親の財産を食い潰すよりも、消えてしまった方がお金はかからないでしょう。葬儀も簡易なものにすれば20万円ほどで済むし。何十年も生きていくよりもずっと親のためになる。
成人する前に一生を終えたい。成人すれば、醜く汚い世界に踏み込まなければならない。
社会に適合できない私には、惨めで苦しい未来しか待っていない。
これ以上生きる意味はあるのでしょうか?
もう終わらせたい。そして、この世に生まれ出てきたくない。
こんばんは、不織布マスクです。
今回の群馬県で開催されたフェス「GLOBAL ARK 2021」の件、様々なメディアからの報道を拝読・拝見しておりますと、もっとも重要であるはずの当事者―すなわちマスク側の見解が欠落していること、および布マスク様への風評被害が気がかりとなり、誠に僭越ではございますがこの場をお借りして一言申し上げさせていただきます。
まず、今回の「不織布マスクNG」騒動については、日々市井の皆様の感染予防に微力ながらも粉骨砕身、尽力しているつもりの弊マスクに対する明らかなヘイトスピーチであり、大変遺憾に思っております。しかしながら、これは私ども不織布マスクにも原因の一端があることは認識しており、身から出た錆とのご指摘があれば甘んじて受け入れる次第でございます。
原因を紐解いていきますと、2020年初頭の新型コロナウイルス禍初期段階におきまして、予想だにしない未曾有のマスク需要があったこと、これが最大のものであったと思います。これまで鼻炎・風邪・花粉症および医療界や飲食業界、製造業の方々からの安定的な、しかし代わり映えのない一定した需要とは異なり、全世界的な規模での私ども不織布マスクへの注目が集まったことは記憶に新しく、ようやく我々の時代が来た、と一同血湧き肉躍る(血も肉もありませんが)思いでありました。しかし、私共は皆様のこの期待を逆手に取り、世界的なマスクの価格高騰・品薄の状況を看過する結果となりましたことは周知の事実かと存じます。正直に申し上げますと、誕生から現在に至るまで、かつて無いほどのお声をかけていただける現実に、甘えがあったかと問われればそれはノーとは言い切れません。驕りがあった、そう受け取られても仕方がない。そう思っております。
私どもがこの所謂”マスクバブル”に湧く中、競合する他のマスク様各種はあくまでも私どもの代用品として、着実にその勢力を伸ばしてゆきました。コロナ禍以前の世の中において、再利用可能なマスクといった需要は実に限定的なものであったと言えるでしょう。私どもとしましても、給食当番を除いては概ねほとんどのマスクについて、人口シェアをカバーしていたものと把握しております。それが、事もあろうに自分たちの犯した失策により、我々にはないデザイン性、昨今のSDGsの考え方にも適う再使用可能という環境配慮への姿勢、またはブランドマーケティングにおけるステータスおよびファッション性までをも身につけた競合の他マスク様方による大きなシェアの喪失を招いたことは、今もってなお痛恨の極みと存じます。ウレタンマスクなどという、マスク界の風上にも置けぬ不逞の輩を生み出してしまったことについても、己の責任を感じずにはいられません。そもそも、マスクにダサいもダサくないも、コロナ禍以前は存在しない価値観でした。時々刻々と変化する現代社会に適応し、「給食当番がしてるやつ」から「不織布マスクが売っていなくても手作りできるもの」、そして「国が配ったアレ」から最終的には「ファッションアイテム」までの見事な昇華を遂げた布マスク様は、まさに適者生存の理そのものを指すようであり、私どもの慢心が招いたこのような結果については慙愧の念に堪えないというのが偽らざるところであります。
ありがたいことに、供給体制の安定後は引き続き多くの方から温かいお声掛けを戴き、現在は決して昨年の二の轍を踏むことのないよう、地道に一歩一歩努力しております。また今回の騒動につきましても、多くの方々からフォローするお声を頂戴しましたこと、身に余る光栄に存じております。しかし事実として、私どもがかつて自らの過ちにより皆様のお手元、いやお口元を離れた際、それを救ってくださったのは他ならぬ布マスク様であります。本件につきましては主催者への抗議こそごもっともではございますが、どうか布マスク様への風評被害につきましては、お控えいただけないかと、私ども不織布マスクからも改めてお願い申し上げる次第でございます。
末筆となり恐縮ですが、皆様くれぐれもお体にはお気をつけいただき、ふたたび鼻炎シーズンだけ程度のお付き合いとなる時代を共に迎えられますこととを祈念申し上げまして、弊マスクからの挨拶と代えさせていただきます。
たとえば、詐欺師がおばあちゃんとかの財産を奪ったり、上が手柄を奪い取るみたいなトピックに対して、弱肉強食だから自分が強くなるしかないみたいな話をしていたとする。
そこに「いや、弱肉強食じゃなくて適者生存だよ」と突っ込んでくる人がいる。なるほど、たしかにダーウィンの進化論的には間違っていない。環境に適したものが生き残るわけだよね。
でも「弱肉強食なのってキツいからなんとかしないといけないよね」「今つらいから解決しないといけないよね」という文脈で「弱肉強食じゃなくて適者生存だよ」って口をはさむ意味を理解せず横から言われると、「環境に適応できない貴様は死ね」「悪い方が適者だよ」と言ってるようにしか聞こえない。たとえば「彼女にイケメンの方がいいって言われて振られてつらい……」みたいな状態の人に「適者生存だから仕方ないよ」って声かけるのサイコパスでしょ。「弱肉強食だから仕方ないよ」の方が寄り添ってる感あるでしょ。適者って何。死んだ人は不適だったって言いたいわけ?
適者生存それ自体はマクロな世界で見た生物論としては正しいけど、社会の活動の中で「それは弱肉強食じゃなくて適者生存だよ」って言うのはヤバい。弱肉強食にはそれなりの悪のイメージがついていて「弱いものを食い物にする悪しき価値観」みたいな意味もこめて使える言葉だけど、適者生存にはいいとか悪いとかそうしたものがない。「環境に適応したものが生き残るよ」って、そりゃそうで、適者生存を覆せないからだ。「弱肉強食ではない社会にしていこう!!」とは言いやすいけど、「適者生存ではない社会にしていこう!!」なんて言えないでしょ。
適者生存っていうのは、強い方の傍若無人さを正当化し、立場をフラットにする意味もある。
そうやって「そうか!自分が悪いんではないんだ!環境に適応できない相手が悪いのだ!」っていうふうにこじつけて他者を踏みにじりまくって行き着いた先が帝国主義じゃないのかと思う。優生思想もそう。
おそらく、弱肉強食っていうワードを聞いたときに、どこかで聞きかじったような適者生存について「ここだ!!!適者生存の話をするぞ!!!!自分は知識がある!!」と思って言いたくなってしまうんだろう。正直、高校の歴史や生物の授業で習ったことを謎のタイミングで言われても「はぁ??今その話してないから」「人の話聞いてる?」としか思えない。
弱肉強食という言葉を使うとすぐに「適者生存だ!!!!!!」というふうに警察してくるので「人工無脳か?」と感じる。
自分がよく弱肉強食というワードを使うからか、よく適者生存おじさんと遭遇する。みんなも、弱肉強食という言葉を使うとどこかから駆けつけてくる適者生存おじさんには気をつけてくれよな。
今、生き残っているのが適者であり、
努力するということは無理をしているということでもある
もちろん、ヒトは道具でそれを乗り越えることはできるかもしれない
例えば氷河期がやって来たとして、ヒトは火や服で乗り越えるかもしれない
種の保存もそれは本能として性欲があり、
人類すべてが同性愛者になるならたしかに問題はあるかもしれない
これが人類全体の何パーセントなのか、ということでも話は大きく異なる
繰り返すが、適者生存、自然淘汰、生存競争、種の保存、みたいな言葉はすべて結果論であり、
ヒトの意志が介入するものではなく、これは自然、神が定めたものと考えられる
そして、我々人類はその自然、神の恩恵を受ける、またそれに逆らって生きてきた歴史がある
シン・ゴジラで人間が葛藤する様子をたくさん描写したにもかかわらず「ヒューマンドラマがない」とかいう浅すぎる感想を抱く視聴者にまでリーチしてる問題は映画公開の当時からあるけど、それってのはヒューマンドラマを陳腐な「男女がくっついて終了」だと思っているような視聴者までもがシンゴジラを見た、ってことなんだなあ。
サンマをホネとって解体してはらわたを味わうようなことなく、カマボコしか食えない人間みたいな感じ。これだから若い男は。
でも時代の流れ的に仕方ないような気もするんだよな。ライトノベルが流行っているように。読者層やニーズの変化。
めっちゃ長いラノベタイトルは何故か?というと、消費者が「失敗したくないから」だ。今の人はお金がないのでコスパを重視する。お金を払って買ったコンテンツが面白くなかったらコスパが低下してしまうから。内容あらすじがある程度わかってる必要がある。
本邦は30年も経済的に失われているので、国民もそれに最適化した処世術になるわけです。若い人は特に。生きていくというのは、そこに適応していくということですね。適者生存。強いお金持ちだけが生き延びるのでなく、お金がなく経済的に弱い人もその状況に適応して生きていく。
「自分で考察して楽しむ」というのも、古いオタク世代の楽しみ方なのかも知れない。第四第五世代のオタクはあまり考察をエンジョイしないのかも知れない。ラノベですら、ラノベ作者が「読者が読解力が低すぎて困ってる」みたいな嘆きをしてるの見たことあるくらいだから・・・。謎を楽しめないのかも。忙しく拙速なので、じっくり考える余裕も習慣もない。YouTubeの動画も少しでもつまらんと視聴者はすぐ離脱するから、そうさせないために視聴維持率を高めるためにとめどなく喋るように編集する。
それこそこないだのNHK特番で「謎を残すようなことが好まれなくなってきている」みたいな話で、それを反映してかシンエヴァのDパートは怒涛の答え合わせだった。全自動魚の骨とりマシーンみたいな。
「すいませんサンマ食べにくいですよね、ホネとっておきますんで、どうぞお召し上がりください」よろしく
だから今後の庵野作品のテイストって、焼きサンマが出てくるか、カマボコが出てくるか、それが見どころになるのかなーと思った。
NHK特番で「自分が面白いと思うものは好まれないじゃん」みたいな愚痴をブツクサこぼしてたのは、本当はサンマが食べたいしお出ししたいけど仕方なく時代に合わせてカマボコに近づけてるってことなのかなと。
「一般的に読めない名前をつける親は頭が良くない可能性が高い」
適者生存とは、最も環境に適した形質をもつ個体が最適者として生存を許される仕組みの事だから、
読めない名前の子供が増えている現状では、現代日本において頭の良い事は必ずしも適応的でないと考えられる。
いわゆるキラキラネームと呼ばれるものが増えだしたのは30年ほど前の事だ。その後どうなった?
幾多の批判に晒されながらも勢力を増し続け、今じゃ読める名前の方が少ないほどに一般化してしまった。
彼らが大人になる20年後の世界を想像できるだろうか?上級国民になれなければ、下流社会で生きていくしかない。
優生主義を考えるにあたって、進化論の適者生存のコンセプトが重要になる。
「この生き物が今ここにいるということは、この環境に適合したからだろう、いない生き物は環境に適合できずに死滅した」
という結構シンプルなものだ。別にその個体が優れているわけでも劣っているわけでもない。「生き延びたからここにいる」ということだ。
優生主義においてはこの「適者生存」のコンセプトが「優れているから生き延びた」にすり替わっている点だ。たまに創造論とかのアンチ進化論者のなかにわざわざこの優生思想を持ち出してだから進化論は間違いだという論をはる人がいるがお前も間違ってるからなとか突っ込みたくなるが閑話休題。
優れているから生き延びたのなら優れた遺伝子だけを次代に残せばもっとすごくなるんじゃね?という考えになるのだけど、そもそも生き延びる条件に優先劣後なんかないというポイントを思い切り間違えているという点で優生思想はおかしい。もっと言うなら間違っている。
優生思想を弱肉強食にまで昇華させてしまったのがナチスドイツだ。その結果虐殺行為にまで及んだわけだが、このときの優生思想、と言うよりは、食べる側に回る強者の条件、というのが政治的に決められたという点だ。科学的にではない(そもそもそんなのを決める科学はないと思うが)。
というように優生思想の問題は「何を持って優れているか」の基準がないという点だ。言う人が言うなら「単なる一左翼思想」でしか無い。
ちなみに優生思想が本当に間違っているかと言うと、ある意味正しい。競馬のサラブレッドなんかはまさにそうだろう。ただ、これは競走馬を競馬場で早く走らせるという限定された条件のもとでの優生思想なので、成立する。
単純に「優れた馬だけを残したい」といっても、優れた馬の条件は時と場合によって変わる。早く走れる競走馬、重い荷物を引っ張れる馬力のある馬、御者のコントロールをキチンと理解できる馬車馬なのか、馬という動物にすら簡単には当てはまらない。
約半年に亘る抗うつ剤の服用をやめてもう数ヶ月になる。28にもなって普通にただ、生きるということすら叶わない自分のポンコツさと、毎日毎時毎刻襲ってくる猛烈なネガティブ思考にノックアウトされ続けている。今も。君にこの苦しさがわるか。
生きるのに向いてない。社会生活に向いていない。とにかく早く死にたい。こういう人も世の中にはいるんだともっとたくさんの人が主張して、笑ってそんな人を安楽死に送り出すような社会であってほしい。自分のような生きる目的も気力もない人間が死ぬことで限られた地球資源を節約することができる。まともに経済活動をして社会貢献ができない分、死ぬことでエネルギー消費をしないという社会貢献の形で、この世界に感謝を捧げたい。そうすれば残った人はもっと多くの資源を使えて、より幸せになれるだろう。それに、自分のような内省的なタイプが子孫を残さずに死ぬことで、適者生存の力が働き、将来、不幸な人間が生まれることが減っていくではないか。生きたくもないし生まれたことを後悔しかしてない人間でも、社会的圧力に負けて子供を産んでしまうこともあると思う。安楽死制度ができて、それをみんながポジティブに受け入れる社会では、子供を残さずに安心して死ねるから、こういう不幸の再生産は避けられるだろう。死にたい、死にたい、死にたい。
逆から考えてみればいい。
つまるところ人間(生物)が持つ性質の大部分は自然淘汰に対して有利な物ばかりだ。
ここでデブ(バカ)向けに補足をすると、これらは「生き残ろうとする意思の結果」ではなくて「たまたまランダムに持った性質のうち生き残りやすいものが残った」というだけだ。
そうだな……君が無造作に粘土を捏ねて作った物体をお盆に並べてそれをグラグラと揺らしたとしよう……するとその中で球体に近いものや滑りやすいものは下に転がっていき、より摩擦を獲得しやすいものや傾きにくいものがグラグラに耐えてお盆の上に残るだろう。
しかし、それに対して、丸いものよりも角張った物が形として全面的に優れていると論じるのは暴論でしか無いことは肥満の人(頭悪い人)でもご理解頂けるだろう。
自然淘汰に対する耐久力を優劣として判断するのは、単なる物差しの一つでしかないのだ。
しかし、自然界においては子孫を残せなければそもそも存在できないので、いま地球にいる多くの生き物は、自然淘汰を乗り越えるような性質をいくつも"持ち合わせられてしまっている"のだ。
人間がカロリーが高いもの美味いと感じるのは、人類が子孫を残すのにおいて非常に有利な性質だ。
人間が甘いと感じる糖が多く含まれたものは栄養価の吸収効率が高く、それを積極的に求める生物はカロリー不足に陥って死ぬリスクが当然のように低くなる。
だが今度は逆にそういった食べ物によって肥満化しやすい連中が子孫を残すのが不利になるという逆転現象が起きている。
これもまたある種の淘汰によって獲得した性質だ。
必要以上のカロリー摂取は無意味な体重の増加という形で余計なカロリーの消費を生み出し、群れ全体にとっての餌場の効率(ナワバリの範囲と生活可能な日数の比率)を低下させることになる。
もう一度逆から考えてみよう。
つまり、人間が本能的にカロリーが高いものを美味いと感じることなど、「自然界で生き延びやすくなるにはどちらが有利なのか』という物差しを当てて考えれば、自明でしかないのだ。