はてなキーワード: 道楽とは
子育てしてると「作業」としては色々とキツいとは思う。でも自分の感情としてはそんなに辛くなくて、楽しくて癒される事が多い。
目的があれば「キツい」のが「楽しい」んだよな。クレイジージャーニーみたいな感じ?
キツい事というのは例えば、
棚の色んなもの引っ張り出しては口に入れたり、
深夜夜泣きしてその度に抱っこして寝かしつけして寝不足になったり、
ママ友、パパ友との付き合いもあるし、
出かけるにしても旅行行くにしてもどこかに走って行かないか常に目を向けていなければいけなかったり、
朝早起きして離乳食作って食べさせて保育園の送り迎えをしたり、
仕事帰りもご飯を作って食べさせて、お風呂に入れて、絵本の読み聞かせ、寝かしつけをすると自分の時間はほぼ無くなる。
でも成長するって分かってればその大変さが楽しい。見た目も声も性格も死ぬほど可愛い我が子だが、どんどん体が大きくなっていき、色んな事に興味を持って知識が増えていき、やれる事が増えていくし、色んな事喋り出す。
日一日と成長が見てとれる、この上ない道楽だ。
だから世話したくなる。これはおそらくやってみないと分からない、生来的に備わった本能的な快楽かも。
「子育ての作業」だけに着目すると死ぬほどしんどいが、「可愛い我が子が成長する」事を目的とした「子育ての作業」ならそんなに辛くないんだよ。
子どもに癒されて凝り固まった感情が溶けていくから性格も日々穏やかになっていく。ダウンタウンの松ちゃんもそんな感じじゃん。
だから子育ての経験が無くてなんとなくやっていけるか不安な人はいっぺん子どもの世話してみたらいい。どういう事かなんとなく分かるから。
5chのYouTube収益化関連のスレには妙なbotが住み着いている。
スレに書き込みがされると、関連するスレの、でも全く話の流れに沿わない書き込みをコピペしたレスアンカーしてくるのだ。
よくあるレスアンカー荒らしと違って大量のアンカーを書き込むわけでもなく、ただただ書き込みに反応するフリをしている。おまけにIDは毎回変えてくる。
このせいで一見会話になっているように見えて、実はまったく会話になっていないということがザラにある。
あとついでに「YouTubeだけでは稼げないから、案件やYouTuberの編集を請け負え」って書き込みを定期的にするものや、
「野球を撮影すると儲かるぞ、すげぇ」って書き込みを毎回文章を変えて書き込むものもいる。
こんなbotたちが1年半ほど前から住み着いているので、今ではスレを使う人はほとんどいない。自分もたまに書き込むが、正直まともな反応はあてにしていない。
ここで気になったのが、道楽でこんな荒らしをするとは思えない。短い期間ならまだしも、こいつはかなりの長い期間に渡って荒らしている。
金もらってでもなければこんなことするわけがないのだ。YouTubeのスレを荒らしたところで、どうやったら金がもらえるのかは分からないが。
世の中には、YouTube関連のスレが機能不全に陥ると得をするヤツがいるのだろうか。情報交換されると困る商材屋とかだろうか?
グランツーリスモを観た。
ゲームの実写化という感じではなくて、最近広告とかで見るようなゲームなり道楽なりの技術を現実(?)で活かすやつみたいだった。
実際結果的にはトントン拍子の快進撃ではあるけど、一娯楽にしてはあまりにも大きいモーターレースのリスクがちゃんと描かれるのも良かった。自分が死ぬだけならとまだしも……っていう。
訓練パートもフルメタルジャケットのような、デスゲームもののような感じで中々良かった。そこが最後の24耐で活きてくるのも熱い。
新人潰しの奴がクラッシュして事故のトラウマがフラッシュバックするシーンは、傍から観てる分にはスカッとしか感じの方が大きかった。それはそれとして、金色のチームの嫌な奴には実力で物言わすのも良かった。
やっぱりゲームとは違うレーサーの基本技術が大事になってくるんだけど、最後の最後にゲーマーらしい発想のも熱い。スラムダンクは最後の最後に持って生まれたフィジカルじゃなく地道な練習の成果が決定打になるけど、この作品の場合も別にチートスキルな訳ではなくて、何千時間もゲームに費やして得たセンスだし。
あとは何よりスレた偏屈な師匠と若くて斬新な可能性の師弟関係が良かった。レースに情熱を持ってて色々思う所があるからこそゲーマーを認められないし、認める時は認める。レースだけじゃない信頼関係が生まれて背中を押してやるのも良かった。
モーターレースにはあんまり興味がないけど抜きつ抜かれつの攻防は緊迫感があるし、フィニッシュ時には薄々結果が分かってても身体が動いちゃう。
レースシーンも普通の車映画過ぎず、ゲーム過ぎずくらいのバランス感で良かったんじゃないかと思う。
映画館で観といて良かった。
子作りは個人の「子を持ちたい」という願望への依存だけでは、必要十分ではない。→人間が生まれる源である、共同体の維持、持続性には個々人で子作りの負担を分担しようとしないと維持できない。今より格段に貧しかった先祖の苦労で生存できているのに、自分の代になれば、辛ければ後世を残すという責務はなくて良いのか?子作り育児の困難をいかに取り除こうとするのではなく、絶対に負担がある子作りの困難をいかに受け入れられるようにするかが肝心。子作りの「位置付け」を、苦労で諦めてしまう「個人の意思や願望でもうけるもの」から、個人、および共同体の持続性に必要不可欠なものと位置付け、税のように広く必ず「共同体で負担すべきもので個々人が協力すべきもの」へ。現代人の自由と人権を守って、貧しければ子供を作らずに少子化でどんどん日本人が減少し、移民主体の国に置き換わっていくか、個人が貧しくても子育ての負担を受け入れて生き残るか、突きつけられる究極の2択ーー。いや、子を持ちたい人を支援すれば、子供を欲しがる人の意思だけで、増えていくハズ←増えませんでした(確定事実・少しでも出生率が改善しているわけでもないので、量が不足していると考えるより、方向性が間違っていると考えるべき)。
【出生率低下の原因】
・現代は昔と比べて出生の要素が減少した(子作りを個人の意思でコントロールできるようになった)。
→出生率が高かった時代の子が生まれてくる要素は①「子を持ちたい願望」に加え②「農業の労働力や後継男子が生まれるまで子を作ろうとした(インセンティブがあった)」③「道楽としての性欲」④「避妊、堕胎がなかった」←そもそも出生率が高かった昔も親の子供を持ちたい希望だけで、人口が維持、拡大できたわけではない。つまり、本意でないのに作っていた群もいて、その結果、人口が維持拡大できた。いわば、不本意でない出生が人口維持や増加を支えていた。もちろん苦労もあり、苦労と出生数はトレードオフの関係だった。
→しかし現在の日本(他の先進国も)は①子を持ちたい願望だけの「一本足打法」になった
→子供が生まれる要素が減り、これだけでは出生率2以上には足りない。もともと、子供を持ちたい願望のある世帯だけでは、出生率2に足りない。
・個々人にとって結婚や子作りに消極的な主な理由は経済や環境があげられるが、人間社会にとっては少子化になったのは願望や愛情をそそぐ満足感を得るためのものになった(子供の位置付けが生産材→消費財へ)
・原因は子作りや結婚の経済や環境的な障壁ではなく、障壁に感じるかどうか。
→それは、結婚や子作りが個人主義の台頭でほぼほぼやるべきものから、個人の裁量の対象になり、個人の志向
に依存することになり、(例・ペットは狩りができなくなったのは、ペットに聞けば狩りは難しい事を原因に上げるが、本当の原因は人間に飼いならされてしまったから)
・理想の子供の数の平均は2.5人程度だが、これは貧しければ簡単に諦める人も含まれる「熱量」が全く考慮されていない数値。資本主義という制度上、必然的に存在する貧しい層の存在に対し、「賃金を上げられれば」など、無責任で実現できないタラレバを唱えても時間の浪費と共に少子化が進行するだけ。
・したがって、いくら育児支援をしても、子を欲しがる人の数が足りないので効果が出ない。アンケートでも、金銭面や環境面だけではなく、自分の時間が潰れるのが嫌だからという回答多数。
・先進国ほど少子化、豊かになるほど少子化 ←エンゲル係数は下がり、全自動洗濯機など家電は便利になり、家事負担も減り、保育所の整備は進み、待機児童も減り、育児休暇率も上がり、男性の育児参加も進んでいるのに、出生率は低下。結局、子作りや育児の負担がある限り、また別の何かに不満や負担を感じてしまう←不満や負担の問題解決ではなく、どのみち解消できない不満や負担を受け入れることが重要。
・個人が自分にとって最適な行動(コストや負担を避けるために子供を作らない)をするほど、出生率は低迷する
・過去と比べた場合の出生率低下の原因=1970年代前半まで既婚率97%、貧乏人でもほぼ結婚して子供を作っていた。「個人主義の台頭による子づくりの優先順位の低下」(経済や環境で諦める対象になった。子作りにおける世代間扶助より自己実現を優先)経済や環境は原因ではなく結果。
・昔「みんな必ず、大変でも子供は作りましょうね」→現在「子作りは各々の自由ですよ〜」→当然、経済的、環境的に大変な人は子作りを避けるようになる
・逆にいうと、子作り圧力などにより、先代が結果として自己の利益を犠牲(昔の方がエンゲル係数が高かった→昔は今より無理して子供を育てていた)にした結果、現代人が存在できる。
・社会のレールは「子作りと仕事の両立」ではなく、実際には「完全に仕事を優先」(新卒一括採用の掟)してしまっている
・教育費が高い問題→子供の数が少ないから、教育費に金をかけられる→金をかけるから金がかかるになる。
・負担を回避しようとする(無理=その間に少子化がどんどん進行してしまう)のではなく、いかに負担を受け入れてもらうか。出生を子育て世代の願望による産物ではなく、生物学的な道理、摂理に根ざしたものにすべき(人口維持に必要な数を目標にすべき)。→手順や方法ではなく、結果(出生率)に拘る。ターゲット戦略型にする
・子作りは楽ではなく、元々大変なもの→問題なく少子化が解決できる「魔法の聖杯」を探し続ける時間が長いほど少子化は進行してしまう。
・移民政策では、出生率低下により減り続ける日本人の少子化問題は解決しない。→単純に減り続ける日本人の代わりに移民と置き換わるだけで、共存が続くわけではない。X字のように、時間の経過とともに、人種構成が移民と置き換わるだけ。日本人がいなくなっても日本列島に移民がいれば解決ではない。
・少子化対策は質より量を目指す。数字ありきが正解。←質を保ちつつ、量を目指してきたが、結局失敗した(量が競争により質を向上させる面も)。
・出生の機序と誤解
→子供が欲しいから作る人が大半だが、全てではない。←ここがポイント。完結出生児数が2ならば、100%の人が結婚しないと少子化確定(そんなの無理)。
・そもそも、全ての人が最初から結婚し、子供を望んでいるわけではない。←生物学的にも子供は本能や希望だけではなく、元から全ての要素ではない。←あくまで授かって生まれた子供に愛情が芽生えるのであって、愛情が最初からあって作ろうとするのではない(本来は順序が逆)。
・労働ややりがいではなく、出生率を優先すべき。持続性が生命の大前提。それが担保された延長線上に個人のやりたいことや夢がある←人間は目先の報酬を優先してしまう
・子作りは生物学的原理なのに、個人の価値観の対象としてとらえらてしまっている。→生物は自己の価値観に合致しているから子供を作るわけではなく、あくまで本能。人間は生物額的本能が退化してしまった可能性がある。
・共同体の持続性は、個々人の負担で達成される。(個人の利益と相反)共同体というプールがあるから、人間が存在できる。一代(今の自分自身)の人間の利益を最大化すると共同体の持続性が毀損され、やがて人間は少子化によりどんどん存在できなくなる。
・選択肢が多いほど不幸になる「選択のパラドックス」江戸時代の農村は結婚相手が限られていた
・「出生率向上の目標」は子育て環境の満足度や子作りの納得感を上げることではなく、出生率の数値を上げること。子育て世代の満足感の向上への努力は出生率向上に繋がっていない。納得感、満足感ではなく、出生率の数字向上を重要視する(少子化は感情やモラルや倫理観ではなく、「数」で決まる現実を受け入れる)
・子供を増やすことによる副作用より、まずは頭数が重要。無理に増やすと、問題も増えるといって対策を打たなければ、プラマイゼロではなく、出生率低迷の長期化による出生数減はどんどん進行する。
・無理やり増やそうとするデメリットより、少子化のデメリットの方がはるかに大きい(子供を無理に増やすことの問題が増えても社会は持続できるが、少子化は時間の経過で物理的に絶滅する・例=癌と一緒。痛みがなく治る方法を探しているうちに、どんどんガンが進行して取り返しがつかなくなる。
→痛みがない方法はあるかもしれないが、見つからない段階ならさっさと痛みを堪えて切除するしかない)。現状は、「賃金を上げよう。環境を改善しよう」と雀の涙の給付と無責任な念仏を唱えるだけ
・子作りは自由だから逆に責任が生まれ、責任回避の動機から減ってしまう。
子供を作る方法自体は、性交渉であり、実は簡単。動物の繁殖もやることは分かっているため、簡単。ただ、現代社会で性交渉の機会を増やすことは非常に難しい。また、人間で難しいのは人権があるという点。逆に言えば、出生率が改善しにくい原因は子育て世代の人権保護を「優先」する為と言える。さらに逆に言えば、かつての子育て世代は周囲のプレッシャーなど窮屈な思いをして、自己実現や生活水準を我慢した結果とも言える。10割、自分の為に生きるのではなく、3割は次世代の為に負担を受け入れるという考え方の共有が重要。
・子作り(親世代が子世代を作って育てる=「世代間扶助」)の重要性を教え、その価値観を社会と共有する
→親や先祖による世代間扶助(子作り負担)の結果、現代人が存在できるという仕組みを、しっかり社会で共有する(自由や人権を主張できるのも、親や先祖の子作り負担の結果、出生できたから)←この因果関係をしっかり理解する。
→子を持つことを、子育て世代の「幸福の実現手段の一つ」から、社会的に共同体にとって「絶対に必要不可欠な原理」に変える。←子育て世代の子どもを作ることへの責任感の向上があり、社会からの協力も得られやすくなる。
→子作りを義務的に考えれば、必然的に教育競争は弱まる。現在は自由意志だから結婚も子育ても競争になる。(生物学的に必要不可欠な要素は競争ではなく、分配の方が結果的にうまくいく)義務的になれば、無茶な競争意識から解放され、育ってくれればとりあえずOKとなる。実は義務である方が責任がなく子ができた後は精神的にはかるかに楽。自由意志だから責任が伴う。
↓↓
・社会的に解決困難な課題、個人にとって避けたい行動を導くにはルールを作り、負担を社会全体で分担するのがセオリー。つまりルールを作ることが解決策。出生率が高かった時代も事実上、ルールとして意識されていた。
①ルール化と政府による積極的な子作り推奨・子作りの「社会的な位置付け」の変更←子育て世代の希望者だけ子供を作るのではなく、皆で分担して作る→結婚し子供を作る人が増えれば、相手も見つけやすくなる。
(個人として避けたい負担でも全体にとって必要不可欠な行動はルール化するのが古今からのセオリー、例えば税金は貧困者も負担する。国によっては徴兵制もある(こちらは国を守るために命を投げ出せと言ってる)
子作り子育て世代になれば、子供を作りましょう(もちろん健康に問題がある人は除く)
・子作りのタスク化(個人の願望の産物だと、モチベーションや環境に左右されてて必要な出生率を確保できない)
(政府は期待、支援するだけではなく、能動的に子作りを「要請し、積極的に推奨」する。あらゆる生物に共通する、共同体が持続するための『世代間扶助の原則(負担があるから持続する)』を説明すれば多くの人は理解できるはず)
・個人の「幸福の手段」の一つとして子作りを位置付けるから、幸福でないなら子供を作らないという行動になってしまう(幸福の手段という位置付けだから、基本「勝手に自助努力でやれ」になる)。大前提として子作りを「幸せの実現手段」ではなく、「個人の存在の源でもある共同体の持続性に不可欠な存在」と定義する。そうすれば子育て世代は子作りに対する責任感が生まれ、政府も会社も社会も負担を受け入れて協力的になるはず。
②有利不利で動機付ける
・実質的な「子なし税」の導入
人間は得をするための行動より、損を避ける行動を重要視する(「損失回避」=プロスペクト理論)例えば45歳以上で子供がいなければ、所得の10%を課税される→早めに結婚でもして子供を作ろうとなる。また、子なし税は応分負担の原則からいっても、共同体の構成や成立、持続性において必要不可欠である子供を作らないのに、福祉だけ享受するのは不公平という理屈もある
・多額の給付金(財源は一般会計とは別枠の「子供国債方式」で持続性を担保→時の政権の介入を防ぐ。不正受給を防ぐために日本国籍限定)
一生の納税額は少なくとも3000万円。1000万円配っても十分、ペイできる。
財源節約には、最初の動機を高める第1子と子供を増やすための第3子以降を手厚くする。親のパチンコ代のために無責任に生まれても、生まれてこないよりもはるかにマシ。
良いこだけ産まれてくればいい、という都合のいい解決策は存在しないことを良い加減、学習しましょう。現代人が存在できているのも、元々は祖先の労働力欲しさや性欲など打算の結果でもありす。もともと「子を持ちたい親の気持ち」だけで子孫たる現代人が存在しているわけではない。
・誰でも使える認可保育園や学童保育の24時間営業(バカ親に育児放棄されるより100倍マシ、育児負担感は大幅軽減、効果的な幼児教育もやればいい)
繰り返すが、人権や個人の自由などを一部、我慢して、仮に自身の環境が悪くても、後世を残すことに対する負担をしないと、共同体の持続性が損なわれ、やがて個人も少子化により、存在できなくなる。いわゆる移民政策を導入しても、減っていく日本人の傾向は変わらず、日本人が滅んで移民に取って代わられるだけで、日本人の持続性を担保できる政策ではない。
俺にそういうバイアスがかかっていることは否定しないが、食を重視する奴ら、グルメな奴らの傲慢さがどうにも鼻につく。
奴らは基本的に、繊細な味覚をしてない奴を馬鹿にして、憐れんで、下に見ているのだ。
俺は30過ぎでアメリカのガキが好きそうな食べ物が好きだ。ピザ、ハンバーガー、ポテト、ケチャップとマスタードたっぷりのホットドッグ。濃くてわかりやすい味で、質より量が大事だ。
反面、和食の御膳みたいので出てくるよくわからん小鉢みたいなのは食べても美味いのか不味いのかわからん。オエってならないから不味くはないんだろうが、量も少なすぎて食った気がしない。
回ってない寿司屋とくら寿司の違いもよくわからんし、高級とされる焼肉店と安楽亭の違いもわからん。どっちも美味い。
要は子供舌ってことだな。美味いのボーダーがかなり低いってことでもある。
それでも自分としては「マックのチーズバーガーで満足できるんだからお得だな」って思うんだが、ネット上では俺みたいな奴を馬鹿にしたり、憐れんだり、蔑んだり、病気を疑ったりされる。俺はこの風潮に異を唱えたい。
個人的な話だが、俺は機械式時計が好きだ。何百年も連綿と引き継がれてきた機構によって、電池を用いずに動く技術の粋、って感じが最高だ。シースルーバックを眺めていると勃起しそうになる。
副業で株式投資を10年くらいやっててそこそこ儲かってる(車も家も買おうと思えばキャッシュで買えるがリタイアは怖くてできないくらい)のだが、基本貧乏性ゆえに悩みに悩んでブレゲクラシック(5277)を買った。大切な大切な宝物だ。
だが俺は、高級時計を持ってない奴を馬鹿だと思ったことは一度もない。なんならむしろ高級時計を買うやつの方が、釣りバカ的な意味で馬鹿だと思ってる。
時間が見たけりゃスマホでいいんだ。それでも時計を着けたいなら、そこに貴賤はない。ポールスミスのファッションウォッチはオンオフ問わず着けられてクールだし、ダイソーの時計だって世界を変えたクォーツ技術が用いられているし、アップルウォッチもスマートウォッチを定着させた素晴らしいデバイスだ。ダニエルウェリントンは中身の割に少々割高だとは思うが、短期間でブランドが作り上げた世界観を身に付けていると思えばそれもまた良い。全部最高だ。
なあ、千円出せばそこそこ美味い飯が食える世の中で、グルメな奴らは、たかだか一食に何千円何万円も出す自分を疑ったりはしないのか?ましてやそうしない人間を下に見るのは、傲慢以外のなにものでもないのではないか?
誰もが自明の前提として、大学は金持ちの道楽だと理解している。
基本的には、社会の大半の業務に関する汎用知識は、小学校から高校卒業までの年月をかければ十分獲得できる。
しかし大学はわざわざ高い学費を支払って学ばなければならないのだ。
貧者の親は、子供に対して「学費はお前自身で稼げ」と言うだろう。その子供が学ぶ能力があっても、である。
自分自身で学費を払わなければならない者だけが、「大学は金持ちの道楽である」という文章を真に理解することができる。
しかし、学ぶことは主体的行為であるので、大学を必要としない。
仮に「超弦理論を学びたい」と思えば、インターネットを使うだけで学ぶことができる。
この世の中はすでに「アテンションエコノミー」であると言われている。なぜ大学へアテンションを注ぐことを当たり前の行為と考えなければならないのか。
確かに、学歴フィルターといって応募者を足切りするJTCも沢山あるだろう。だからなんだというのか。東大・京大へ行けない者は高卒で良いではないか。
例えば英語とプログラミングのスキルを持っていれば、国際的に働くことは可能だろう。そのようなスキルは無料で手に入れられる。
エリートたちが金の余裕のある層を評価し、社会を牛耳るならば、非エリートは別のやり方を模索するべきだ。
エリートに従順に従うのではなく、非エリートのコミュニティを作り、非エリートのやり方で知識・スキルを向上させ、そのコミュニティの中でイノベーションを起こす。
シリコンバレーでは、大物が大学中退者であることが多いという伝統がある。
従順な羊であることをやめよう。非エリートは、羊を先導する山羊であることを望め。山羊は確かにスケープゴートとして駆使されるが、経験豊富であることは確かだ。
荻窪・西荻・吉祥寺を紹介した以下のインタビュー記事。紹介されているエリアについて、そもそもお金がないと住めない場所、お金のある人はよろしおすな~といったシニカルな論調のコメントが集まっている。ようするに荻窪・西荻・吉祥寺で「『お金と物質』以外の価値観」について語ること自体が金持ちの道楽であることについて、批判的なコメントが寄せられているらしい。
https://suumo.jp/town/entry/kichijoji-homurahiroshi/
コメントをひととおり読んでみて、まあそうだよな、という感想を私は持った。それと同時に、そんなに目くじらを立てることかな、とも思った。というのも、このインタビューで体現されているのは、バブル時代の典型的な価値観だからだ。それを発信する個人についてどうこういってもしょうがないだろう。まだこういう話題を出す向きがあるのかとは思うが、それは別の話だ。
インタビューを受けているご本人もカウンターカルチャーに触れているとおり、バブル時代はカネ一辺倒の時代ではなくて、ヒッピー的なカルチャーの余波がずっと続いていた時代だ。1980年代から90年代の前半くらいに小中学校で国語のテストをうけた人は覚えているかもしれないが、「日本人は物質的には豊かになったが、心は貧しい」みたいな論調のエッセイばかりが現代文の問題文に使われていた。荻窪・西荻・吉祥寺を紹介したインタビューの倫理的な立ち位置はそういうエッセイと地続きのものだ。だからこそ、なんかずれていると現代の人には感じられるのだと思う。
氷河期世代で長く非正規として働いていた私は、「日本人は物質的には豊かになったが、心は貧しい」とか学校では習ったが、自分は物質的にも精神的にも貧しいままなんだが、いったいどうなっているんだと、ずっと思っていた。それはいまもさほど変わらない。だから荻窪・西荻・吉祥寺エリアの中産階級的な視点から、「よくわからないゆるさがいいよね」「生き方の多様性がここにあるよね」「やっぱりお金じゃないよね」的な語りをされると、「よかったですね!」と言い返したくはなる。
この記事に微妙ないらつきを感じるポイントは次のようなところだと思った。サブカルについて、あるいはカウンターカルチャーについて語っている人の立ち位置が、高等遊民的な、スノビッシュなものに見えて、語っている人はそれを隠そうともしていないし、自己のそういう立ち位置についてあまり自覚的でないように見える。
バブル時代には敗者のものだったカウンターカルチャー的、サブカル的な生き方が、じつはそこそこお金がないとできないことに人々が気づいたのが、この30-40年間くらいの展開ではなかったか。人々の生活感あるいは貧しさの感覚にもとづいたそのへんの気づきをすっ飛ばして「よくわからないゆるさがいいよね」「生き方の多様性がここにあるよね」「やっぱりお金じゃないよね」とやってしまうことへのいらだちが現れていたのが、今回の記事への反応だろうと思っている。
そういう語りをする人が時代に抗って高踏的であるのか、時代に取り残された感覚の持ち主であるのか、インタビューの対象者となっている方のことを私はよく知らないので、判断する根拠がない。だがなんとなく、人々が感じているいらだちの原因を自分なりに言語化しておきたいと思った。
大量生産と効率化でコストダウンしてるチェーン店に個人店がコスパで敵うわけないだろ。同じような価格で勝負になるのは家賃払ってない道楽でやってる店だけだ。
チェーンより上の価格帯で、チェーンでは食べられないレベルのものを食べるのが個人店で、だから大人のやることなんじゃないか。
どうしてもコスパが気になるなら、どこまで個人店と言うかは判断が分かれるけど、個人店でも2号店とかだすレベルに繁盛してるところは流石にコスパも良い。規模が必要ってことやね。
あと出てるチェーンの感じからして飯系の話なんだと思うが、飲み屋系はチェーン店が客を舐めてるとこあるから個人店の方が概ねレベル高いぞ。
その昔、私(放置タイプ毒親育ち)と友達A(毒親まではないけど放置寄り)とで、共通の友達B(過干渉タイプ毒親育ち)の話をしてて、同じ毒親育ちでも放置タイプと過干渉タイプは分かり合えないところあるよな、って思ったのをぼんやり思い出した。
AがBの事を
「大体自分が行きたい道楽系な大学行かせてもらって学費も生活費も出してもらって、今更私の親は毒でしたとか言われてもこっちははぁ?って感じなんだけど!」
って言ってて、同じくこっち(親の都合で進学断念)な私も同意しか無かった。
過干渉毒親エピソードもよく見るしそれなら放置の方がマシかもなーって思うとこもあるけど、
は多分一生思い続けるだろうなと思う。
子作りは個人の「子を持ちたい」という願望への依存だけでは、必要十分ではない。→人間が生まれる源である、共同体の維持、持続性には個々人で子作りの負担を分担しようとしないと維持できない。結果的に、今より格段に貧しかった先祖の苦労で生存できているのに、自分の代になれば、辛ければ後世を残すという責務はなくて良いのか?子作り育児の困難をいかに取り除こうとするのではなく、絶対に負担がある子作りの困難をいかに受け入れられるようにするかが肝心。子作りの「位置付け」を、苦労で諦めてしまう「個人の意思や願望でもうけるもの」から、個人、および共同体の持続性に必要不可欠なものと位置付け、税のように広く必ず「共同体で負担すべきもので個々人が協力すべきもの」へ。現代人の自由と人権を守って、貧しければ子供を作らずに少子化でどんどん日本人が減少し、移民主体の国に置き換わっていくか、個人が貧しくても子育ての負担を受け入れて生き残るか、突きつけられる究極の2択ーー。いや、子を持ちたい人を支援すれば、子供を欲しがる人の意思だけで、増えていくハズ←増えませんでした(確定事実・少しでも出生率が改善しているわけでもないので、量が不足していると考えるより、方向性が間違っていると考えるべき)。
【出生率低下の原因】
・現代は昔と比べて出生の要素が減少した(子作りを個人の意思でコントロールできるようになった)。
→出生率が高かった時代の子が生まれてくる要素は①「子を持ちたい願望」に加え②「農業の労働力や後継男子が生まれるまで子を作ろうとした(インセンティブがあった)」③「道楽としての性欲」④「避妊、堕胎がなかった」←そもそも出生率が高かった昔も親の子供を持ちたい希望だけで、人口が維持、拡大できたわけではない。つまり、本意でないのに作っていた群もいて、その結果、人口が維持拡大できた。いわば、不本意でない出生が人口維持や増加を支えていた。もちろん苦労もあり、苦労と出生数はトレードオフの関係だった。
→しかし現在の日本(他の先進国も)は①子を持ちたい願望だけの「一本足打法」になった
→子供が生まれる要素が減り、これだけでは出生率2以上には足りない。もともと、子供を持ちたい願望のある世帯だけでは、出生率2に足りない。
・個々人にとって結婚や子作りに消極的な主な理由は経済や環境があげられるが、人間社会にとっては少子化になったのは願望や愛情をそそぐ満足感を得るためのものになった(子供の位置付けが生産材→消費財へ)
・原因は子作りや結婚の経済や環境的な障壁ではなく、障壁に感じるかどうか。
→それは、結婚や子作りが個人主義の台頭でほぼほぼやるべきものから、個人の裁量の対象になり、個人の志向
に依存することになり、(例・ペットは狩りができなくなったのは、ペットに聞けば狩りは難しい事を原因に上げるが、本当の原因は人間に飼いならされてしまったから)
・理想の子供の数の平均は2.5人程度だが、これは貧しければ簡単に諦める人も含まれる「熱量」が全く考慮されていない数値。資本主義という制度上、必然的に存在する貧しい層の存在に対し、「賃金を上げられれば」など、無責任で実現できないタラレバを唱えても時間の浪費と共に少子化が進行するだけ。
・したがって、いくら育児支援をしても、子を欲しがる人の数が足りないので効果が出ない。アンケートでも、金銭面や環境面だけではなく、自分の時間が潰れるのが嫌だからという回答多数。
・先進国ほど少子化、豊かになるほど少子化 ←エンゲル係数は下がり、全自動洗濯機など家電は便利になり、家事負担も減り、保育所の整備は進み、待機児童も減り、育児休暇率も上がり、男性の育児参加も進んでいるのに、出生率は低下。結局、子作りや育児の負担がある限り、また別の何かに不満や負担を感じてしまう←不満や負担の問題解決ではなく、どのみち解消できない不満や負担を受け入れることが重要。
・個人が自分にとって最適な行動(コストや負担を避けるために子供を作らない)をするほど、出生率は低迷する
・過去と比べた場合の出生率低下の原因=1970年代前半まで既婚率97%、貧乏人でもほぼ結婚して子供を作っていた。「個人主義の台頭による子づくりの優先順位の低下」(経済や環境で諦める対象になった。子作りにおける世代間扶助より自己実現を優先)経済や環境は原因ではなく結果。
・昔「みんな必ず、大変でも子供は作りましょうね」→現在「子作りは各々の自由ですよ〜」→当然、経済的、環境的に大変な人は子作りを避けるようになる
・逆にいうと、子作り圧力などにより、先代が結果として自己の利益を犠牲(昔の方がエンゲル係数が高かった→昔は今より無理して子供を育てていた)にした結果、現代人が存在できる。
・社会のレールは「子作りと仕事の両立」ではなく、実際には「完全に仕事を優先」(新卒一括採用の掟)してしまっている
・教育費が高い問題→子供の数が少ないから、教育費に金をかけられる→金をかけるから金がかかるになる。
・負担を回避しようとする(無理=その間に少子化がどんどん進行してしまう)のではなく、いかに負担を受け入れてもらうか。出生を子育て世代の願望による産物ではなく、生物学的な道理、摂理に根ざしたものにすべき(人口維持に必要な数を目標にすべき)。→手順や方法ではなく、結果(出生率)に拘る。ターゲット戦略型にする
・子作りは楽ではなく、元々大変なもの→問題なく少子化が解決できる「魔法の聖杯」を探し続ける時間が長いほど少子化は進行してしまう。
・移民政策では、出生率低下により減り続ける日本人の少子化問題は解決しない。→単純に減り続ける日本人の代わりに移民と置き換わるだけで、共存が続くわけではない。X字のように、時間の経過とともに、人種構成が移民と置き換わるだけ。日本人がいなくなっても日本列島に移民がいれば解決ではない。
・少子化対策は質より量を目指す。数字ありきが正解。←質を保ちつつ、量を目指してきたが、結局失敗した(量が競争により質を向上させる面も)。
・出生の機序と誤解
→子供が欲しいから作る人が大半だが、全てではない。←ここがポイント。完結出生児数が2ならば、100%の人が結婚しないと少子化確定(そんなの無理)。
・そもそも、全ての人が最初から結婚し、子供を望んでいるわけではない。←生物学的にも子供は本能や希望だけではなく、元から全ての要素ではない。←あくまで授かって生まれた子供に愛情が芽生えるのであって、愛情が最初からあって作ろうとするのではない(本来は順序が逆)。
・労働ややりがいではなく、出生率を優先すべき。持続性が生命の大前提。それが担保された延長線上に個人のやりたいことや夢がある←人間は目先の報酬を優先してしまう
・子作りは生物学的原理なのに、個人の価値観の対象としてとらえらてしまっている。→生物は自己の価値観に合致しているから子供を作るわけではなく、あくまで本能。人間は生物額的本能が退化してしまった可能性がある。
・共同体の持続性は、個々人の負担で達成される。(個人の利益と相反)共同体というプールがあるから、人間が存在できる。一代(今の自分自身)の人間の利益を最大化すると共同体の持続性が毀損され、やがて人間は少子化によりどんどん存在できなくなる。
・選択肢が多いほど不幸になる「選択のパラドックス」江戸時代の農村は結婚相手が限られていた
・「出生率向上の目標」は子育て環境の満足度や子作りの納得感を上げることではなく、出生率の数値を上げること。子育て世代の満足感の向上への努力は出生率向上に繋がっていない。納得感、満足感ではなく、出生率の数字向上を重要視する(少子化は感情やモラルや倫理観ではなく、「数」で決まる現実を受け入れる)
・子供を増やすことによる副作用より、まずは頭数が重要。無理に増やすと、問題も増えるといって対策を打たなければ、プラマイゼロではなく、出生率低迷の長期化による出生数減はどんどん進行する。
・無理やり増やそうとするデメリットより、少子化のデメリットの方がはるかに大きい(子供を無理に増やすことの問題が増えても社会は持続できるが、少子化は時間の経過で物理的に絶滅する・例=癌と一緒。痛みがなく治る方法を探しているうちに、どんどんガンが進行して取り返しがつかなくなる。
→痛みがない方法はあるかもしれないが、見つからない段階ならさっさと痛みを堪えて切除するしかない)。現状は、「賃金を上げよう。環境を改善しよう」と雀の涙の給付と無責任な念仏を唱えるだけ
・子作りは自由だから逆に責任が生まれ、責任回避の動機から減ってしまう。
子供を作る方法自体は、性交渉であり、実は簡単。動物の繁殖もやることは分かっているため、簡単。ただ、現代社会で性交渉の機会を増やすことは非常に難しい。また、人間で難しいのは人権があるという点。逆に言えば、出生率が改善しにくい原因は子育て世代の人権保護を「優先」する為と言える。さらに逆に言えば、かつての子育て世代は周囲のプレッシャーなど窮屈な思いをして、自己実現や生活水準を我慢した結果とも言える。10割、自分の為に生きるのではなく、3割は次世代の為に負担を受け入れるという考え方の共有が重要。
・子作り(親世代が子世代を作って育てる=「世代間扶助」)の重要性を教え、その価値観を社会と共有する
→親や先祖による世代間扶助(子作り負担)の結果、現代人が存在できるという仕組みを、しっかり社会で共有する(自由や人権を主張できるのも、親や先祖の子作り負担の結果、出生できたから)←この因果関係をしっかり理解する。
→子を持つことを、子育て世代の「幸福の実現手段の一つ」から、社会的に共同体にとって「絶対に必要不可欠な原理」に変える。←子育て世代の子どもを作ることへの責任感の向上があり、社会からの協力も得られやすくなる。
→子作りを義務的に考えれば、必然的に教育競争は弱まる。現在は自由意志だから結婚も子育ても競争になる。(生物学的に必要不可欠な要素は競争ではなく、分配の方が結果的にうまくいく)義務的になれば、無茶な競争意識から解放され、育ってくれればとりあえずOKとなる。実は義務である方が責任がなく子ができた後は精神的にはかるかに楽。自由意志だから責任が伴う。
↓↓
・社会的に解決困難な課題、個人にとって避けたい行動を導くにはルールを作り、負担を社会全体で分担するのがセオリー。つまりルールを作ることが解決策。出生率が高かった時代も事実上、ルールとして意識されていた。
①ルール化と政府による積極的な子作り推奨・子作りの「社会的な位置付け」の変更←子育て世代の希望者だけ子供を作るのではなく、皆で分担して作る→結婚し子供を作る人が増えれば、相手も見つけやすくなる。
(個人として避けたい負担でも全体にとって必要不可欠な行動はルール化するのが古今からのセオリー、例えば税金は貧困者も負担する。国によっては徴兵制もある(こちらは国を守るために命を投げ出せと言ってる)
子作り子育て世代になれば、子供を作りましょう(もちろん健康に問題がある人は除く)
・子作りのタスク化(個人の願望の産物だと、モチベーションや環境に左右されてて必要な出生率を確保できない)
(政府は期待、支援するだけではなく、能動的に子作りを「要請し、積極的に推奨」する。あらゆる生物に共通する、共同体が持続するための『世代間扶助の原則(負担があるから持続する)』を説明すれば多くの人は理解できるはず)
・個人の「幸福の手段」の一つとして子作りを位置付けるから、幸福でないなら子供を作らないという行動になってしまう(幸福の手段という位置付けだから、基本「勝手に自助努力でやれ」になる)。大前提として子作りを「幸せの実現手段」ではなく、「個人の存在の源でもある共同体の持続性に不可欠な存在」と定義する。そうすれば子育て世代は子作りに対する責任感が生まれ、政府も会社も社会も負担を受け入れて協力的になるはず。
②有利不利で動機付ける
・実質的な「子なし税」の導入
人間は得をするための行動より、損を避ける行動を重要視する(「損失回避」=プロスペクト理論)例えば45歳以上で子供がいなければ、所得の10%を課税される→早めに結婚でもして子供を作ろうとなる。また、子なし税は応分負担の原則からいっても、共同体の構成や成立、持続性において必要不可欠である子供を作らないのに、福祉だけ享受するのは不公平という理屈もある
・多額の給付金(財源は一般会計とは別枠の「子供国債方式」で持続性を担保→時の政権の介入を防ぐ。不正受給を防ぐために日本国籍限定)
一生の納税額は少なくとも3000万円。1000万円配っても十分、ペイできる。
財源節約には、最初の動機を高める第1子と子供を増やすための第3子以降を手厚くする。親のパチンコ代のために無責任に生まれても、生まれてこないよりもはるかにマシ。
良いこだけ産まれてくればいい、という都合のいい解決策は存在しないことを良い加減、学習しましょう。現代人が存在できているのも、元々は祖先の労働力欲しさや性欲など打算の結果でもありす。もともと「子を持ちたい親の気持ち」だけで子孫たる現代人が存在しているわけではない。
・誰でも使える認可保育園や学童保育の24時間営業(バカ親に育児放棄されるより100倍マシ、育児負担感は大幅軽減、効果的な幼児教育もやればいい)
繰り返すが、人権や個人の自由などを一部、我慢して、仮に自身の環境が悪くても、後世を残すことに対する負担をしないと、共同体の持続性が損なわれ、やがて個人も少子化により、存在できなくなる。いわゆる移民政策を導入しても、減っていく日本人の傾向は変わらず、日本人が滅んで移民に取って代わられるだけで、日本人の持続性を担保できる政策ではない。
それでいいなら道楽息子の方が楽じゃね?
道楽息子にもなれるポジションで真っ当な職に就くってのがやりたいかな
大企業の創業家っていう名前と環境は持ちつつ、かと言って経営陣みたいに責任あったり下手したらWikipediaに載ったり新聞とかに顔と名前が出ちゃうポジションには就かず外交官か外科医って肩書き手に入れて生きて行きたい
日本の博士課程は学振に通っても月20万円しかもらえない。この額は東京でギリギリ一人暮らしができる最低限の額であり20代後半の若者が人生を謳歌できる金額とはとても言えたものではない。給料が安いと言われる日本の大企業の新卒よりも酷い待遇である。大企業の新卒は月22万円程度しかもらえないがボーナスがあったり家賃補助があったりと実際の生活だけを見ると博士課程よりは遥かに裕福な生活ができる。
博士課程が厳しいのは何も日本に限った話ではない。アメリカのPhDのstipendがよくバズるが物価を考慮しなければならない。例えば4k USD/month(=58万円/月)もらえるとしよう。日本円での額面を見ると良く見えるのだがこれは現地では底辺の収入である。ギリギリ一人暮らしで生活ができる額という意味で日本の20万円と同じようなものである。むしろ食や交通の便の悪さを考えると東京で博士をやる方が豊かな生活を遅れると言えよう。
アカデミアはどこに行けど金持ちの道楽である。人生を捧げる覚悟があるか人生が楽勝であるかのどちらかが必要な世界である。そういった意味で芸能界や芸術の道に通じるものがあると言えよう。