はてなキーワード: 進化論とは
これって地味に不思議だよなあ。
知恵袋の同人カテで、対人関係のトラブルやこの絵文字どういう意味みたいな質問を見ると質問が話題にしてる界隈自体は違えど同じような回答が返って来る。しかもそれが有効な解決策として機能してる。
同担がうんたらかんたら、絵文字の意味を教えるのは晒し行為だから教えない、とか。
いや絵文字の意味とかパスワードとか晒されても気にもしない界隈もあるかもしれないじゃんとも思うんだけど、実際そんな界隈は基本的に存在しない(無視できるほど少数、考えるだけ無駄)。
多くの界隈に一括りに「同人あるいは腐女子のルール、慣習」が通有しているのが不思議に感じるわけよ。
だって界隈自体は一個人がこの作品が好きだと思った瞬間に自発的に発生するものであって、中央集権的に管理されてるわけじゃないんだから。
特にボーイズラブなんてものはオタクなんて概念がある前から男と男がくっつくのを妄想して楽しむという趣味は、わりと原始的なものとしてわりとどの時代にもそういう人がいたと思う。
ともすればガラパゴス化して独自の慣習を持った界隈が無数にあってもおかしくないのに、そんなことはない。
実際現代にもカップリングも腐女子も言葉として知らないけど男と男がくっつく様を常日頃妄想して消化してる人はいるかもしれない。個人プレーとしてのガラパゴスはあり得る。
しかし界隈という規模になったとたん、各界隈は同人のルールに束ねられているように、そこかしこで同じような慣習が観測されるわけだ。
絵文字についてもう少し掘り下げることにすると、ツイッターの自己紹介欄に書かれたりする絵文字というのは独り善がりに使われるものではないらしい。
だいたいにおいてその絵文字がそのカップリングを表すという共通認識のうえで使われるというそうだのだ。
しかしこの説には穴がある。絵文字が検索避けのための符丁として使われるものであって、しかもそれに対する共通認識が使用の前提となっているのなら、「遡れば」必ず共通認識など存在し得ない段階にたどり着く。
「その絵文字を(ツイッターとかで)使い始めた最初の一人」だ。
それでも符丁なので直接自分の口からその意味を解き明かすことはできないはずだ。しかし共通認識もない段階なので(共通認識がなければ伝わらない程度の難度に設定されてるはずの)この符丁が相手に伝わることを期待するのは難しい。そういうジレンマがこの説にはある。
ひょっとすると伝わったものだけが生き残りそうでないものは広まらず淘汰される進化論みたいなモデルが適用できる事案なのだろうか。
海賊版サイトでエロ漫画やCG集を漁ってそこのコメント欄でレスバする程度の(電車男の影響がむしろ逆かネットであめぞうなんか使ってて見ず知らずの人と議論をする日課があるだけでも人によってはオタク扱いしてくる時代もあった)、オタクかどうかも分からないような俺みたいな存在には、こうやって理屈で迫るのが限界なのだった。コミケに行くような連中と違い、人と健全な付き合いを築いたことがないのだ。
先決問題要求の虚偽とは要するに、証明されていない勝手な前提をさも大前提のように持ってくる詭弁の一種
わかりやすい例でいくと大昔に進化論を否定する際によく使われてて、
「すべての生物は神が作ったのだから、進化論は矛盾している よって進化論は間違っている」
というように、そもそも『すべての生物を作ったのは神である』という前提が怪しいのに大前提として持ってくる感じ
大体は「○○が正しいのは大前提として~」として疑わしい『正しさ』の前提を前置きで持ってくる人が非常に多い気がする
ぱっと思いつくのでいうと、「(性的消費は滅ぼすべき社会悪だというのは大前提として)この作品の描写は性的消費にあたりますよね?」
「○○の格差が間違っているのは大前提として、格差を生み出している○○は滅ぼすべき悪である」みたいな
「いやそもそもそこの前提あってます???」って言いたくなることがめちゃくちゃあるのだが、リベラル自身はどう思ってるのだろうか
この文書で何が批判されているか知りたいだけの人は、一番下の節「まとめ」までジャンプ。
清水先生の講演についてここ一週間くらい悪口をTwitterで書いてた江口先生に、それブログに纏めてよと言ったら気が乗らないと断られてしまったので
「うまい人びとは、前に書いた辞書的定義や約定的定義や明確化定義や理論的定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます」
と最新のブログで書かれているのを、清水先生の講演を題材に自分なりにスケッチしてみる。
続き、というか中間にあたるのだが「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセル・カルチャーってなんだろう」を書くかは未定。
つまり、この記事は書き起こしで言う「Part1 〜学問の自由とその濫用〜 」の検討が中心だが
最後の方で全体を対象にする前に他のPartの検討を書くべきところ、途中で力尽きている。
とはいえだいたいPart1の検討とほぼ同じものを繰り返すだけ
を先に見ていることが前提。
の説明はほぼ書かないので、分からなければブログを参照するように。
1998年 国際大学協会(IAU)声明「学問の自由、大学の自治と社会的責任」による定義です。
「学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者、教員や学生が、倫理的規則と国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由」
人びとがその言葉をどう使っているかを国語辞典の載っているような形で説明している。
「一般的には、〜〜、というふうに考えることができる。」
「従来はそして一般的には、〜〜、というふうに理解されています。」
世間一般の用法という文脈なわけですから、当然、スライドの引用の言い換えに相当する語釈が、聴衆には予期される、
同じく 辞書的定義 が与えられようとしているものと解釈されます。
実際に与えられた定義を見てみましょう。
ある種の公の定義であるIAU声明に対する言い換えとして、清水先生による定義を読んでみると一つ気にかかるところがあります。
と非常に具体的な形になっています。
世間一般の用法として紹介される割には、議論のあり得るところで
「こういうのは多数派も少数派もない、学問の独立って話なんですが、多数派からの圧力は特に抵抗しにくいので」
というふうに説明するほうが世間の認識とあっているように思える。
とはいえ、ここまでならば、代表的な「外部からの圧力」を並べただけ、ただの例示ゆえに言い換えの範疇であり、辞書的定義のままだと受け取ることもできる。
ただ、ここで私が書きにくくて困ってしまうのが、清水先生が「具体的に」何を批判されているのかさっぱりわからないことです。詳しくは後の節でも取り扱います。
「現代の誰かが主張している「学問の自由の侵害」とは、〜〜だ」と、清水先生が定義していると読める箇所を、少し文言を修正の上、抜き出します。
見事にすべて 説得的定義 ですね。江口先生のブログで挙がっている
「中絶とは、女性を望まない負担から解放する安全な外科的処置である」
などと同じ形式となっている。
ただ、読みながら何を論じているのかわからなくなって辛くなってしまうのは、
中絶の例ならば、中絶の 辞書的定義 は共有されているという前提のもとで、 説得的定義 を用いているのに対し、
清水先生は、この文脈での「学問の自由の侵害」とは 辞書的定義 の学問の自由の侵害とは全く異なるものだと論じていることです。
(下の2節は「どう論じているのか」という細かいレトリックの解説なので
どう辛いのかについては、「批判対象の曖昧さ、具体性の欠如」でページ内検索してジャンプ。)
これらは学問の自由の侵害の定義として読むことができるものであり、
先に導入された説得的定義「社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立て」とは対義の関係にある。よって等号で結ばれることはありえない。
ゆえに、「従来から論じられてきた一般的な節(辞書的定義)」学問の自由ではない、という論証。
しかし、これはIAU声明にはなく清水先生が付け加えた箇所のはずですね。
先程はただの例示と見ればという限定をつけて辞書的定義と認めました。
逆に言えば、「そうでなかったら学問の自由でない」というふうに使うならば、もはや例示ではなく、清水先生の独自見解です。
すなわち、この時点で辞書的定義として導入された学問の自由という概念が
「学問の自由を〜と私は定義します!」という約定的定義へとすり替えられているのです。
一旦まとめると、
「よくわからないものを」「なんか悪そうに定義して(説得的定義)」、
「その悪そうな要素にぴったり当てはまらない要素を、一般的な定義の中に紛れこませる(定義のすり替え)」
学問の自由とは
「力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、 研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのもの」
まさに、
「うまい人びとは、前に書いた辞書的定義や約定的定義や明確化定義や理論的定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます」
そのものですね。
この一節は憲法学の理論を援用しているため、少し強引ですが理論的定義を示したものとも言えるでしょう。
実際、この定義を根拠に「学問の自由の侵害」を「なんか悪そうに定義した」説得的定義に対し
これは日本国憲法で保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。
なぜかけ離れているのかというのは詳しく述べられていませんが、
要は憲法学の理論「憲法は原則としては国家権力を監督するものであり、私人間効力の議論も私人相互に大きな権力差がある場合の話である」という話でしょう。
権力差をどう捉えるか、例えば「学界から事実上キャンセルできたというのは、権力差があったといえるのではないか」というのが憲法上の論点になるわけですが、
そこを 説得的定義 から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図でクリアするわけです。
ここまでいろんな種類の定義を用いたレトリックが使われてきましたが、
正直なところ、説得的定義から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図を用いた時点で
直感的にはそれは学問の自由ではないでしょうという話になります。
ゆえに最も問題になるのは、そう定義されるのが具体的になんなのかです。
清水先生は「こういった言説が具体的にどう現れてきたのかご説明したい」と30分近く説明してくださっているのですが、
書き起こしを全文検索してもらえればわかるのですが「学問の自由」を直接的に濫用している例として挙げられているといえるのは、
Horowitzによる、Academic Bill of Rights (ABOR) のみです。
ほか間接的な繋がりとしては「ポリティカル・コレクトネス」「キャンセル・カルチャー」の事例が話されているのですが
これも抽象的な定義の操作に時間を割いていて、具体的な文脈はほぼない。学問の自由とどう関係するかも全くと言っていいほど書かれない。
詳しくはそれぞれをどう定義しているのか、という点を検討する必要がありますが、
これは別の記事「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセル・カルチャーってなんだろう」に譲り、
当記事「(1) 学問の自由ってなんだろう」では、直接的な例、ABORに絞ります。
清水先生はABORを曲解して参照しているのではないか、という指摘もあるのですが、
とりあえずここは論点にせず、清水先生の解説をそのまま採用します。
ABORの主張は、
「ナチスの政治哲学の擁護であるとか、あるいは進化論の否定であるとか、 そういうものを学術的に正当な主張の一つとして教えるべき」
「ナチス肯定論文を学問の自由で擁護することはできない(マルコ・ポーロ事件)」じゃないですよ?
むしろ、何が相手だろうと自由であると肯定する、過激な自由論者ほど否定する内容です。
「大学でナチスの擁護を正当な主張の一つとして教えるべき」、自由でもなんでもないじゃないですか。
まとめると、
最終的には、そして本質的には、清水先生は「学問の自由」について議論の余地のないことしか言っていません。
じゃあなんで議論になるのか。
清水先生の立場からすれば、「学問の自由」の濫用だと当然問題視しているであろう例が
清水先生にとって非常に身近な例であるはずのそれは2例あります。
このちょうどいい2人については講演では全く触れない。
特に後者の呉座先生については質疑応答で「学問の自由」を求めている人として名前が挙がったにもかかわらず、
「ちょっとわからない」「詳しくない」「法律の専門家ではない」「裁判をはっきりきちんと見ているわけではない」「労働争議であって学問の自由ではないんじゃないかなぁ」
との返事。
「そうです。呉座さんの事例こそが私が批判した「学問の自由」の濫用です」ではなく「詳しくない」。
訴訟の原告の1人であるからには詳しくないわけはないのですが、文字通り解釈するならば
この「学問の自由」の濫用批判において、呉座先生の事例は検討すらされていない、ということになる。
またこの回答の続きとして、呉座のことを言っているわけではないという注釈付きで、「学問の自由では擁護できない」例が出されました。
せめて多少は「学問の自由」と文脈がつながるように「酷いセクハラ・パワハラを長年犯してきた超一流哲学者が大学から追放されたことを、学問の自由で擁護はできない(ジョン・サール事件)」くらいにしましょうよ。
文脈がわかるくらい解説をつける具体的な例については、当たり前を超えてもはや関係のない例しか出さない。
それでいて、批判対象に対して一般に共有されるような辞書的定義には触れないで、
何を批判しているのかも厳密には不明確なまま、説得的定義に対する抽象的な定義操作を元に議論を行う。
自民Twitter炎上で注目 「ダーウィンの進化論」とは:東京新聞 TOKYO Web
ダーウィンは「生き残ることができるのは変化できる者である」とは言わなかった。英語で流布しているのはこうである。
It is not the strongest of the species that survives, nor the most intelligent that survives. It is the one that is most adaptable to change.
The evolution of a misquotation | Darwin Correspondence Project には、この誤った引用の由来が解き明かされている。これをうけた日本語の記事もある。
じつはこれはダーウィンの言葉ではない。彼の考えでさえないのだ。科学史家の調査によれば、これは元々1960年代に米国の経営学者レオン・メギンソンがダーウィンの考えを独自に解釈して論文中に記した言葉であった。それを他者が引用を重ねるうち少しずつ変化して、最後にダーウィンの言葉として誤って伝えられるに至ったものである。
では、どういう考えを解釈していたのだろうか。すくなくとも、こうは書いている。
ある土地にすむ生物の多くが変化し改良されているとしたら、競争の原理と生物相互の関係をめぐる重要な原理により、あまり変化せず改良されなかった生物種は消滅させられる定めにあることが理解できる。そういうわけで、長い目で見ると、同じ地域にすむすべての種はなぜ最終的には変化するのかという理由がわかってくる。変わらない種は絶滅してしまうからなのだ。(強調引用者)
原文では
When many of the inhabitants of any area have become modified and improved, we can understand, on the principle of competition, and from the all-important relations of organism to organism in the struggle for life, that any form which did not become in some degree modified and improved, would be liable to extermination. Hence we see why all the species in the same region do at last, if we look to long enough intervals of time, become modified, for otherwise they would become extinct. (強調引用者)
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3186s
53:06~57:07
David Horowitz, Academic Bill of Rights (ABOR)
ポリティカル・コレクトネスを巡って提示されたこの図式、
すなわち既存の差別や抑圧への批判を、それこそが自由の侵害であるとして批判し返すというこの図式は、
この後現在に至るまで、とりわけ大学を中心に学問の場において着々と展開されてきています。
例えばDavid Horowitzによる、学問の権利法案ABORというんですが、
これは、学問はあらゆる問題について政治的に中立の立場を採るべきであり、
学問の自由とはそのようにして常に複数の観点が提供される環境において成立する、というふうに主張します。
これだけ見れば、これだけ見れば、リベラルな多文化主義的な主張かなっていうふうに思いかねないんですが、
Horowitzの主張は、これが先ほどの庵逧先生のご発表ともちょっとつながるんですけど、
それが当代の学術領域において、どれほど学問的に反駁され否定されているものであろうと、
特定の問題について異なる見解があるならば議論の双方の側を教えるべきであると、
実際にそういうような授業になっているかどうかを、
授業内容を調査する仕組みっていうのを大学は作るべきだ、いうふうにHorowitzは主張する。
このABORの問題を、アメリカ大学教授連合AAUPというところが問題点を指摘する声明を出しているんですが、
そこで述べられているように、これは学術的知見の蓄積に裏付けられた主張であるか否かにかかわらず、
例えばナチスの政治哲学の擁護であるとか、あるいは進化論の否定であるとか、
そういうものを学術的に正当な主張の一つとして教えるべきだと、そういう議論なんですね。
だから何が学術的な裏付けのある議論であるかについて、学術的コミュニティで蓄積されてきた知見を認めないという点において、
ABORは「学問の自由」を唱えつつ実態としては学問の自由を侵害している、いうふうに言うことができる。
Turning Point USAによるProfessor Watch List (2016)
「リベラル/左派の横暴に支配された大学において、差別されている保守派学生を守る」
「差別や抑圧への批判や対抗の言説が、その言説に同意しない(差別的、抑圧的な)主張をする自由を抑圧し、そのような考えを持つ人々を差別している」
ABORは、リベラルあるいはレフトの価値観に大学が乗っ取られていると、だといいなと思うんですが、
でも大学は乗っ取られてる、それと異なる、つまり保守派の主義主張の学生や研究者の「学問の自由」が侵害されているから、
それを守らなくてはいけないという構えを取っています。ただこの構えが実はただの口実でしかない。
「学問の自由」というのがここでただの口実でしかないことは、例えばもっと後2016年にTurning Point USAという、
これ、学校とか大学で保守派の価値観を擁護・推進することを目指すアメリカのNPOなんですが、
そのTurning Point USAというのがProfessor Watch Listというのを作ってまして、これを見るとよく分かる。
Professor Watch Listは、
教室において保守派の学生を差別し左派プロパガンダを推進する教員を暴き記録するということを目的としています。
このリストは、リストに加えられた教員とか研究者あるいは大学へのメールなどでの攻撃というものも当然誘発することになって、
先ほども出てきましたアメリカ大学教授連合AAUPは、このリスト自体が学問の自由への脅威だというふうに批判している。
ABORから10年以上が経って出てくるProfessor Watch Listというのは、
ABORとは異なって、最初から「学問の自由」というのを活動の根拠として打ち出してないんですね。
にもかかわらずそれ以外の点つまり、リベラル左派の横暴に支配された大学において、
差別されている保守派の学生を守らなくてはいけない、これが「学問の自由」の擁護であると、
そういうふうにABORはなるんですけど、でもその構えというのはそのままABORから踏襲されてる。
ブッシュ・シニアのミシガン演説を思い出していただけるといいんですけれども、
差別や抑圧を巡るこういう逆転の構図っていうのが、ここでは非常に重要な働きをしている。
ポリティカル・コレクトネス論争からProfessor Watch Listまで、30年近くあるわけですけど、
「学問の自由」というのがどう使われてきているのかというと、差別とか抑圧への批判あるいは対抗の言説が、
その言説に同意しない、つまり差別的あるいは抑圧的な主張をする自由というものを抑圧するんだと、
そういう考えを持つ人々を差別するのだという形で抑圧側と被抑圧側を逆転する、ある種支点の働きを担ってきたわけなんですね。
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
それが間違っていたと判った時に、
内容を捨てたり変更したりするプロセスを内在しているかによる。
科学合理性に基づいて行動する人は、もちろん間違うことがあるし失敗もするが、失敗後やり直したときに自分の行動を変更する可能性が高い。
オカルトや宗教に基づく人は、生きているうちに己を変えることが無い。解釈によって現実のほうを変更したり、自分以外の非敬虔なやつらのせいにしたりしがち。
反宗教主義といって、そういう観点から宗教を批判している一派がいて、言ってること面白いぞ。
パロディ宗教はカルトっぽい雰囲気を出してカルトを嘲笑するって文化があったり、政教分離がなされるべきシーンで政教分離がなされていない場合は明らかにパロディ宗教だとわかるのにそのパロディ宗教の敬虔な信者だと名乗って宗教を優遇する政策を止めたりする活動がある
パロディ宗教の代表格スパモン教はオレゴン州教育委員会が公立学校で進化論と並行してインテリジェント・デザイン説(知的存在=神が創造した)を教えようとする動きを見せ始めたことで、それに反発したボビー・ヘンダーソンが中心になって成立
ここでいう知的存在=神とは一神教の神すなわりキリストなので、キリスト教を元に酷似した神話や教えを持つ宗教としてスパモン教は作られた
つまりインテリジェント・デザイン説を肯定すると創造者はキリストではなくスパモンである可能性を否定できなくなるというわけ
今回のEmacs教会もまた、わざとカルトっぽい雰囲気を出してカルトを嘲笑しつつ、実態は政治や宗教から最も遠い位置に居るボランティア集団であることがわかるっていうレトリックだな
プロジェクトヘイルメアリー、星を継ぐもの、バビロニア・ウェーブ、天冥の標、息吹を読んで、今は果てしなき流れの果に、を読んでいる。
ランキングみたいなものを検索してみても似たりよったりのちょっと古い作品ばっかり
予想を超えるSF読者先輩様方からのコメント、ありがとうございます
自分の考えるハードSFが分からんとのコメントがあったので...
自分にもハードSFが何なのかよくわかってないが、空想科学の裏付け感が強くあるみたいな感じかなぁ
実際には、「読んで面白かった作品の作家がハードSFというジャンルで紹介されていることが多かった」、と帰納的な感覚でハードSFって呼んでるところがある。
星を継ぐものは進化論とかの話で「ああ自分も知ってる気がする!」となりながら一緒に考える気になるのが面白かった。そうなるとミステリー的な楽しさか。
バビロニアウェーブは解き明かすというより舞台装置としてあるって感じだったけど、人間の未知との向き合い方にリアリティとロマンを感じた。
三体は普通に映画みてるみたいだったな。暗黒森林理論とかなるほど感があった。それと、三重振り子的なカオスが天体規模のものに適用されるとこうなるみたいな発想が面白かった。
ブクマの米にもあったけど、天冥の標が他と比べてソフト気味というのもそうだと思う。ただ天冥はサーガ感がすごい良かった、でかい物語感。キャラが分かりやすくて入りやすかった。
息吹は宇宙モノじゃないけど、人の心みたいなのが表れてると感じて、それが良かった。特に息吹は命とは何なのか?を考えさせられた。
実際の科学(あるいは説得力のある架空理論)が下敷きに置かれたファンタジーって、ともすればこの世界もこうなる可能性があるのかもしれないみたいな感覚になることがあって、
そういう物語を経ると世界とか命とか自分について問い直すことがあって、その体験が得難い...自分の求めるSFってハードかどうかに限らずそういうものかもしれません(わかりません)
間違い。BLは専門家も認めるポリティカリーにコレクトな表現です
溝口 BL作家のすごいところは、ゲイの人に気を遣ってとか、ゲイの人に一生懸命たくさん取材をして、というわけではない人がほとんどで、自分たちの楽しみを追求しているだけ、という人が多いのに、それでも、リアルなゲイの方から見て、ポリティカリーにコレクトな表現にたどり着いている人が大勢いることです。
大学非常勤講師。ビジュアル&カルチュラル・スタディーズPhD。著書『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』(2015)、『BL進化論〔対話篇〕 ボーイズラブが生まれる場所』(2017)が2017年度「Sense of Gender」賞特別賞受賞。