はてなキーワード: 透明な存在とは
OculusQuest2発売を前にして、Facebookアカウントを作成した人がいて、実名と正しい生年月日を入れたにも関わらず、アカウント停止されてしまったそうです。
ここで、注意したいのは「げ! 実名入れないとVRできないの? ムフフな……いや、人類発展に関わる高尚なコンテンツ見れないじゃん! しかも見てるのフレンドにバレるじゃん!」 という心配なんですけど、そこは大丈夫です。実名の他にVR用の匿名を登録できますし、VR用のステータス公開範囲なども設定できます。僕はOculusGOの場合は、完全非公開で、VR上では透明な存在です。Facebookが本当にキチンとプライバシー守ってくれているのか、それは信用できませんが!
話を戻すと、たとえアカウントが正常にできたとしても、フレンド登録がないとか、主だった活動がないと、これもまたアカウント停止となってしまうそうです。Facebookが永久BANとなってしまったら、当然Oculusのヘッドセットは文鎮化します。独立心の高めのギークやガジェットオタクの反感を買ってしまう結果になってしまいました。
Oculusにとっての不幸は、製品開発のための資金力が欲しかったとはいえ、よりにもよってFacebookに目をつけられたということです。Facebookは、VRを楽しい未知の自由な世界というよりは、自分たちのサービス・ ビジネスをもっと拡大発展させてくれるフロンティアとしか見ていません。そのため、Oculusだけを遊びたい人にも、Facebookの登録を課し、自分たちの支配下に置こうとするのです。
そのとおり、私は透明な存在――
あれ読んで朝鮮人め!という気持ちになる人おるんだろな、多分。まじかよ、とは思うが。
一郎さんの阿南陸相の自決への怒りのツイートを今の政治に結びつけて一緒に怒ってる人は見たし。
自分は一連の東へ向かうツイートは、敗戦の混乱を感じることができてよかったと思う。なんもかんもカツカツでみんな余裕がないから、不寛容。優しい人は優しいけども、みんながそうはできない。でも起きた出来事はショッキングで記憶に残りやすい。
全く存在しない出来事を新たに作り出す事は無いと思うので、多分日記以外の根拠があるか、インタビューとか取材した結果のツイートだろう。
いや、軍関係の奉仕に行った先で日本は負けるって煽ってきた朝鮮人と口喧嘩して負けた事ゼロから作らないでしょ、普通。創作ならすごいよ。私だったら、ひよって苛烈な環境で働いていた人達への連帯感とか哀れみのエピソードにしちゃいそうだもん。
自分が広島市の義務教育課程を卒業して20年近く経ってるから参考にはならないかもだけど、急に教育が右翼化したとかじゃない限り、ダム建設に徴用された朝鮮人など差別の話、日本が植民地へしてきた事への反省教育はされてるはず。
さすがに君が代の代わりにアリランの歌を教えられるとかはもう無いとは思いたいけど。
だから安易にヘイト創作しないと思うんだよなあ。悪い印象与える位なら存在無視しろ、って事なら分かるけど、一郎さんややすこさんの日記に朝鮮の人が出てこないので、透明な存在のままだったろう。戦争孤児の浮浪者集団も強烈に印象づけられたけど、その集団に弁当強奪された旨のツイートへ、彼らは可哀想な存在だからと諭す反応があったな。
シュンちゃんも一郎さんもやすこさんも、聖人ではないし、ただの一個人の感想だと思って見ている。日記に他人が色々肉付けしてるから、そこが嫌な人はいるんだろう。わたしは映像作品を見るより受容しやすかった。
個人的には三者三様の視点で終戦期のやり取りを見ることが出来るのはありがたいと思う。終戦後にやすこさんが小磯元首相の血縁者と分かるツイート、ビックリしたのと同時に米軍がやってくる事への強い不安感や玉音放送聞いた後の悔しがりに納得がいった。
自分が読んだ事のある戦中の日記、その子が原爆にあって5日で終わってたのでこのまま年末まで読めるなら読みたい。(やすこさんは9月中旬、シュンちゃんと一郎さんは年末まで日記が続く予定)
お前エア同人作家だろ
創作やるなら誰もが持っていて当たり前の、創作者の孤独への恐怖というものが感じられない
自分が書いたものが他社の評価を経ない歪んだものであるかもしれないという恐怖は?
自分が書いた解釈が本当は間違っているのかもしれないという恐怖は?
自分が本当は物を書いてはいけないのかもしれないという恐怖は?
自分が同好の士との関係をうまく築けないかもしれないという恐怖は?
どれもねえだろ
同人誌ってのは自分が書いた文章が形になる、それだけで嬉しいもんなんじゃねえの? これまでは自分の頭の中にしかなかった「ぼくが書いた一冊の本」を活字として手に取れるのが最上の喜びなんじゃねえの?
これをなんと呼ぶのか教えてやる
これから同人始めようというニュービーに歪んだ同人誌像を刷り込むからやめろ
苦労するのはそいつらなんだぞ
と、女の外側にいるので思う
ファッション誌を読むと、都会で大木々やの受付のお姉さんとして働くキラキラアラサーOL実家暮らし貯金30万、とかが出てくる。雑誌やドラマの中の30代女性。
テレビに映るのは、若くて可愛い女子アナ。そこそこ賢い私立文系出の、賢く生きる強い女性。寮暮らしをしながらグループ活動するアイドル。売り出し中の若手女優。何十年も女優やってる50代女性。
勿論こんな人ばかりではない。ツイッターにいるのは、タピオカとKPOPをこよなく愛す都会育ちのJK、私生活を趣味につぎ込むジャニオタ・腐女子・女オタク、9条を守るアラフォー女性、気性の荒い子育てママ、整形風俗嬢、美容アカウント。その傍に実名鍵垢で交流する普通の人々。でも普通の人々も、複垢ではそれぞれ妙な属性を持った誰かである。
駅にいるのは、行くべき場所と帰るべき場所を持った人々。部活帰りの女子高生、前髪バッチリの女子大生、カツカツとヒールで歩く美人もいれば、ひっつめすっぴん履き古したスニーカーで歩く不美人もいて、集団で歩くお婆さんとか、泣きわめく上の子に困り果てながらベビーカーを押す疲れたお母さんだとか、慣れないリクルートスーツでキャリーを引く就活生だとか、数え切れないぐらいいろんな種類の女性がいる。
教室にいた頃のわたしは、1人か2人の友人がいればいい方の、大人しく暗い女子。同じクラスの女子はおろか、男子なんて顔も名前もわからないぐらい赤の他人だった。きっと異性からすれば透明な存在。教室にいたのは、男女分け隔てなく友人の多い、代わりに声が大きくてずけずけとした女子。ブスでも美少女でもない、オシャレと恋に精を出す子達グループ。部活で部長として活躍する真面目で根気強く優しい女子。可愛いが陰口がひどかったあの子。おっとりして優しくてお母さんポジションにいたあの子。
男とは、女とは、と語られるとき、少なくともわたしは女には含まれていないのだろうなと感じる。発達ガイジとしてドロップアウトしてもう、あっち側にしがみつくことすらない。
誰が女なんだろうなあとよく思う。ファッション誌に載っているキラキラOLは一体どこにいるのだろうと思う時みたいに。誰が女で、女はどこにいるのだろう。
初投稿。HIPHOP史にも社会学にも詳しくないんで諸々トンチンカンかもしれんけど、とりあえず殴り書き。
一応ネタバレ注意。
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2週間くらい前のKOKを見に行きました。GADOROがだいぶ仕上げてきていたので、個人的には納得の優勝。ちなみに僕はダンジョンGADORO回とKOKを両方見られたので、もうGADOROの苦悩がスーパーハイビジョンで伝わってきたよね。いや~、持ってるよね。
んで、決勝の53 vs. GADOROだよ。僕は53→53→53→GADOROと挙げたけど、もはやどっちの勝ちかは一人ひとりの好みで決まってくるレベルにかなり迫っていた気がしたので、割れるのはしょうがないかなと僕は思っていたし、特に判定への文句もない。一応僕は一バトルとして見続けるよう努めたつもりではある。
問題は、このバトルに隠れている構図だ。
しばしば「日本のHIPHOPがメジャー化でダメになった」という話をCOREな方から耳にするような気がするが、僕はこう考える。「HIPHOP」がメジャーに媚び始めたというよりも、「日本人が想定する弱者」の像が変容したのだ、と言うべきではないか、と。
90年代当時(まで)は、テレビの影響力、集団行動力を重視する教育、いい大学・いい会社に入れば幸せになれるという信仰なんかがまだまだ根強かったはずで、それらが複合的に重なり、「安全第一の人生」を至高とする日本社会が形成されていたはずなのだ。そして安全を脅かす「ハミ出し者」を仲間はずれにし、自我を捨てて世間に身を委ねる則世去私イズムで多数派は安心感を得ていた。
まあ、阪神淡路大震災だのオウムだの酒鬼薔薇聖斗だのでそういった仮初の平穏にどんどん綻びが生じてくるわけだが、頑張って頑張ってみんな汚染水を除きまくっていたのだ。村上春樹の『アンダーグラウンド』あとがきでも、「地下鉄サリン事件実行犯たちを狂信者だとして遠ざける我々一般市民たちも、『何らかのシステムに自我を譲り渡している』という点で犯人たちと同じ翳を背負っているのではないか」という指摘がなされていた。
そんなstandardの波に排撃されたのがB-BOYたちというわけだ。僕みたいな聞こえても即答できないWanna b-boyが語るのもおこがましいのだが、黒人文化を濫觴とするHIPHOPは、90年代日本において「(虐げられてきた)俺たちだけの文化」という局地的受容がなされていたはずだ。「俺たちだけが真の音楽を知っているのだ」と互いを励まし合い、常人では知り得ない独自文化を発展させているのだとの自覚を懐きながら、Bのつくoutsiderたちは明日を生きる希望を得ていた。
この風潮なら、GADOROより53のほうが内部からの支持は強いということになり、MCバトルでも53の圧勝ということになるだろう。GADOROは大衆の中に帰れるが、53はそうではない。身の回りの仲間を守り、決して流行に媚びない53だけが、本物のB-BOYにふさわしいということになる。
しかし、だ。
僕が生きている21世紀の日本社会は、もはやハミ出し者が後ろ指をさされる時代なんかじゃない。一人ひとりが個性を求められるようになった、オンリーワンの時代になったわけだ。
原因は色々考えられる。個性を重んじる風潮が教育界で強まったこと、グローバル化の波が激しくなって社会人がコア・コンピタンスを求められるようになったことなんかがそうだろう。
インターネット、ことにSNSの爆発的普及はやはり大きい。一人ひとりの「リアル」に触れられるようになったことで、世界中に意見を発信できることはそう難しくなくなったし、それまで皆で一括りにしていた「大衆」も実は十人十色の人の集まりであって、決して「大衆」は無機質な集合体なんかじゃないのだと、みんなわかってきた。
まだまだ社会は発展途上だが、それでも少数派にとってずいぶん生きやすい世の中になったように思う。もちろんB-BOYだって恩恵を受けているはずなのだ。
じゃあ、社会から必要とされない恐怖と戦っている「弱者」とは、いま誰なのか。
それはずばり「個性を主張できずにいる人」ではないだろうか。
自分にしかできないことを自分は見つけられない中で、自分の代えを周りの人が見つけてしまうことに怯えている。
いま、日本人は「個性」に脅迫されているというのは、主語が大きすぎるだろうか。そう感じさせる創作物やら社会現象の例やらは腐るほどあるから、ここではいちいち出さない。
確かにGADORO自身は、「社会不適合者」から「スター」へとのし上がった存在なのだけど、「社会から必要とされる自分」を否定しない。
埋没の波から、前に、前に逃げ続けて、等身大の感情を表現して、世界で一人だけの存在として認知されたい、という、21世紀の「弱者」たちにとって、GADOROは希望とするに足る存在なんだと思う。
一方53は、「MASS 対 CORE」と最初のバースで吐いた(合ってる?)ことに象徴されるように、電波を受信できる人たちだけを助けようとしていたと僕の目には映った。
透明な存在として苦しむ現代人たちから共感を集めるのは、GADOROだ(僕は53も好きだけどね)。
そんな構図がKOKでは見え隠れした。
フリースタイルダンジョンも最近何かあったようだけれど、これからHIPHOPは、社会不適合者が生き残る術としてだけじゃなくて、怯えている人たちに「個性の手」を差し伸べる術としても発展していくのではないかな、と思った。
「僕は無自覚に人を傷つける人が許せないんです」と言い。
それに対しさんまが「たけしさんなんて、奥さんどんだけ傷つけてるか!おまえ!」と言い、
「ちょっとおま」とたけしが言いかけたのを遮るように太田が「いや僕は無自覚な人が許せないんです。たけしさんの場合は相手が傷つくとわかっててやっている」
「えらい」とたけしが言う非常に身勝手な会話があったんだけど。
僕はこの会話を妙に気に入っていて、今、この瞬間にこれを思い出したんだけど。
はあちゅうはいろんな事に無自覚で、さらに自覚的になる気もさらさらないんだなと日頃の所作から感じさせるから、嫌われるんじゃない?
僕は是非、彼女にセクハラの研究者や、哲学者や詩人などと、彼女が今置かれている状況について対談させる企画を
編集者は立てるべきなのにと思っている。彼女は今、童貞差別という透明な存在だったものが言語化されていく中心にいるんだ。
なぜ、それを記録に残さないのか。
追記の追記
他者とのつながりが自我の基盤だった時代など、当の昔に終わっている。誰もがシステムに見守られ、システムの規範に沿って生きる社会では、人の輪なんて必要ない。皆小さな独房の中で、自分だけの安らぎに飼いならされているだけだ。
「PSYCHO-PASS」の世界観が現代日本で受けたのは
そのストーリにおいて「自己決断を機械(シビュラシステム)に任せ、自己に決定・決断を放棄した時に何が起こるのか」というテーマが
その実、現代社会における個人の主体性の問題と深くリンクしていたがために現代のオタクの興味関心を惹いたのだろうという自己的な指摘をしておきたい
結局、現代においては「透明な存在」であることが求められてしまう
人は人と付き合うのではなく、機能と付き合うようになる
「”運命の果実を一緒に食べよう”と言ってくれる誰か」はこの世界には存在しない
だからこそ、僕らは「落とし穴の中で幸せそうにしている人が描かれた物語」を読みたくなる
そうするとCMもドラマも報道も「正社員で、嫁がいて、子供もいて、
それなりにしっかりと生きてる人」が前提の世界なんだよね
俺の人生って間違ってるんかな、みたいな
テレビ作ってる側に悪意はないんだろうと思うんだよ
社会的にも生物的にもしっかり食い扶持があって、子孫を作っていく人が重要だし、正しい
その理屈は理解してるんだけど、その正しさを理解すればするほど、
自分が間違ってるという感じがハッキリと際立ってきちゃって
「あー、つれえ」って気分になっちゃう
妬みとかじゃないし、後悔もないの
人が増えすぎた
ネットがなくても平気な人たち、テレビの世界でもやっていける人たちが
もう居場所ねんだよ
断捨離始めようかな
内容の無いコミュニケーションを馬鹿にしている人は、何もわかっていない
あいつらは、内容の無いことばかり喋っている」と言って、学校や職場の同僚を馬鹿にする人は多い。思春期にありがちなセリフかと思いきや、年配の人が、同じようなことを喋っているのを見て驚くこともある。
ウェイ「あいつらゲームとかの話ばっかり何が面白いんだ」に対して陰キャが「あいつらの会話内容なんじゃん」と言ったところにマジレスされても困る(わざとやってるのだろうけど)。その年配の人とやらも配偶者とかに「電波で仕事の話ばっかりよく飽きないね」的なことを言われて「主婦同士の会話のほうが飽きそうだが」とか感じてるだけのことだろう。
クラスの上半分のウェイは上昇・秩序ゲームやってるのかもしれないが下半分は生き残り・秩序ゲームなのである。上半分はいかにもっと有利なポジションにいけるか、いかに仲良くなるか、いかに役に立ってるアピールをするかで動いているが、下半分はいかにいじめられないか、トラブルに巻き込まれないか、余計なことを押し付けられないかで動く。
おいそれと転校・転職できない環境下なら、カースト弱者は簡単には逃げられないから、内容の無いコミュニケーションを回して校内政治・社内政治を確立し、ヒエラルキーを確定させるのは、コミュ強の社会適応としては有効だと思いますよ。多かれ少なかれ、これはみんなやってるじゃーん、な事だとも思う
https://twitter.com/twit_shirokuma/status/862819416282603520]
1年間はクラス替えもないのだから、上に行こうなどと考えるよりDQNの気まぐれいじめルーレットを避けることを考えたほうが現実的である。「優しいというのは言い訳であり自己保身」みたいな言い方がある通り、いい人キャラはいじめにくい。無害であり、上に行こうなんていう生意気なことは考えてない、という雰囲気を出す以外の選択肢はない。雑談で盛り上がるより相手の話を面白く聞いて興味深く質問するふりをするほうがいい。抵抗できなさそうなヤツだと思われる副作用もあるが、男気ある系のDQNや教師や先輩に気に入られていればなんとかなる。ウェイとは逆に「無害であること」「その集団に入らない努力」「分際を自覚し身の丈に合わない権利・責任は放棄すること」「過剰に買いかぶられないこと」「お節介を気分を害さないように断ること」が必要なのである。(そういう状況であるのに、某問題群のこととなると臆病だの批判をかわすための安全に痛い自己批判だの安全圏からメタ視線でのポリコレ批判だのという批判もあるが、彼らはオタクにどういう反応をしろというのだろうか)。陰キャが抵抗したり牙を向くときというのはこの秩序が強要や抑圧で乱れたときである。悪魔的なことを言えば陰キャ勢は一人いじめられっ子を生贄として差し出せば1年間は安泰なのであり、そのとき選ばれるのは上からも下からも反感を買う「自分は下じゃない」みたいなナルシスト系の陰キャだ。この時ウェイと陰キャの利害は一致している。
回避的であること、表向き主体性を放棄していることは陰キャにとって合理的である。何かの本で回避性人格障害の治療法が変わったと書いてあったのだが要するに「いじめれっこを同性同年齢の集団に戻していたが最近ではいじめが発生するからなされていない」というものだった。地域にもよるかもしれないがDQNにいじめられて回避的であることを合理的に選択した陰キャを1匹、DQNの群れに投げ入れるなんて狂気の沙汰じゃないだろうか。教師や先輩の介入が入りにくい「集団」に入れるなんて逆効果になるとしか思えない。治療方針の転換は妥当なのだろうと思う。また真面目系クズをACとする意見を見たことがあるが、これも因果関係が逆のように思う。自己犠牲ではなく、自分を大切にするためにこそ逆らわないのだから。
陰キャにとって「あいつは真面目wつまんないやつ」「空気」「影が薄い」「人生楽しいか」と言われたらそれは適応に成功している証拠である。「自分は透明な存在だ」「自分は誰の役にも立っていないのではないか」「何のために生きるのか、なぜ生きなければいけないのか」と感じる機会は当然ウェイより多くなるが、はなからそれ以外の選択肢などないのだから、感じるだけ問うだけ無駄なのであり、そう感じたり問うたりするのは大体が脳のコンディションが悪いときなのなのだから心より体調に気を使ったほうが良い。
長くなったが要するに、サッカー部に入ろうとも考えてない野球豚が「サッカーなんて玉けり遊び何が楽しいんだ」と言ったことにサカ豚から「玉ける練習で、レギュラーを目指してるんだ。」とかガチでこられても唖然とするほかないという話だ。昔のid:p_shirokumaなら「レギュラーになれないやつの僻みだ」と、あさっての方向の批判をしていたと思うが、今回のマジレスはさらに一光年あさっての方向に退却しているように思える。
※テンプレは http://love-hacks.jp/making-girlfriends/ ですがあまり関係ありません。というか途中で飽きてきて雑です。
「魔法使いになるには何が必要なんだ」「魔法使いになるための方法を知りたい」など、魔法使いになるための準備や方法が気になりますよね。本記事では、35歳の今も彼女がいない筆者が、魔法使いに到達しその後5年間維持する中で無意識のまま行動したことを以下の流れで紹介します。
1.自分を変えないために行った7のこと
3.アプローチしないよう心がけた1のこと
4.魔法使いを維持させるために行った1のこと
本記事を読んでいただければ、魔法使いになるために大切な行動をすべてご理解いただけ、あなたが理想の魔法使いになる日をグッと近づけられます。また、13の行動の中からまずはあなたにできることから始めていただくことで、本記事を読んだ今日から魔法使いになるための準備を始めることができます。
出る杭を打ち付け平らにならすことを美徳とする日本社会に於いて、オタクは日の当たるところを歩けない存在です。できるだけ目立たず騒がず、空気のように透明な存在であることが処世術です。しかし空気とは言え淀んだ空気なので周りに少しでも迷惑を掛けないよう集団の時は後方に、単独の時はできるだけ普通にやり過ごすことが必要です。
ちなみに自分では空気の如く行動しているつもりでも、周りの他人は自分たちの流儀に則していない異質な存在として認識するので「変な人」「気持ち悪い」という陰口を叩かれることになります。配属直後、強制連行された飲み会で3時間一方的に説教され、他の新人からの評を余すことなく伝えてくれた上司には感謝の気持ちしかありません。お陰様で今でも飲み会は大嫌いで全て適当な理由で欠席しています。
筆者は服装や、髪型に全く興味がありませんでした。一人暮らしをして14年ほど経ちますが、自分で買った私服と言えばTシャツ、チノパン、靴下、下着、それも片手でお釣りが来る回数しかなく、そもそも実家出るときに持たされた私服がいつい先日まで残っていたぐらいです。髪は当初こそ、近所の床屋を探して通いましたが人並み外れたコミュ障の筆者には苦痛であり、自らバリカンで切るという手段を取るようになります。
バリカンというと床屋で使うようなものを想像し、下手したら大失敗になると思われるかも知れませんが家庭用の今時のバリカンはそんなことはありません。アタッチメントで一定の長さ以上には切れないようになっているので大失敗のしようがありません。もちろん本来は二人で使うものですから自分の髪を切るのはなかなか難しく、床屋と同等なんてことはありませんがどうせ誰も気にしないので問題ありません。床屋は待ち時間を含めると1回1~2時間、洗髪・顔剃りありで3000円もします。つまり自分で髪を切ればタダでガチャ10連が回せるってことです。
スーパー併設の靴屋の適当な2000~3000円程度の靴でも充分です。案外長持ちしたのですが次に買った同価格帯の靴は一ヶ月と立たずに靴底が剥がれ浸水したので、この価格帯にもピンキリはあるようです。
靴なんかを買うために外出し店員と話すなんて苦痛だと悩む筆者の強い味方がみんな大好きAmazonです。そう、Amazonはリアル靴屋と同様に靴の試着・返品が可能なのです。一つ一つ注文してたら埒があかないので3~4つぐらい同時注文し、全く合わないのは返品、別サイズか別の靴を注文して絞り込んでいくことで、家の中にいながら靴屋と同等の靴選びが可能となります。多少の時間は掛かっても出歩きたくないという人には大変お勧めです。
ハンカチなんて持ち歩かずともジェットタオルの設置されたトイレを使えばいいのです。ただし三菱電機製以外、特にTOTOのロゴが付いたやつは風が弱くて乾きにくくデザインもいまいちなので可及的速やかに撤去されるべき。
中身の伴わない、上っ面の優しさを演出しておけばとりあえずOKです。他人から見れば、これが「近付いてくるなオーラ」になります。
誰にでもコンプレックスはあるものですが、とりわけ性器に纏わるコンプレックスというのは厳しいものです。友人のいない筆者は知る由もありませんでしたが、巷じゃ真性は雑菌と悪臭の温床、正常な性交すらできないと最底辺の病気扱いです。別に好きでそうなったわけでもないし、何か悪いことをしたわけでもないのに随分とご大層な病気扱いです。様々な議論の余地はあるようですが、一般的に好ましいものではないという事実は認識すべきでしょう。
世の人々は容易く病院行けと言いますが、いくら保険が効くと言われても、そして喩え相手が医者であっても、己の恥部を晒すのはなかなかできるものではありません。なんせ命の危険を覚えることならまだしも、とりあえず日常生活を送ることはできているのです。そして何より、魔法使いを志す筆者にとってはこの病気で困るような状況こそが非日常で通常起こり得るものではありません。
つまり実質的に何も困ることはないのです。安心してこれからもゴミ箱を妊娠させましょう。
いつか、銀髪ツインテールでオッドアイでアルビノな生き別れの双子の妹が現れ、隣に住んでる幼馴染みとクラスの委員長と部活の先輩が家に押し掛けて超法規的な理屈で何故か同棲するMF文庫J的美少女動物園ラノベみたいな展開になる日がくるという理想を抱きましょう。そしてそれが叶うその場所は恐らく、天国と呼ばれる世界です。
小・中と人並みにいじめられっ子的ポジションを確保してしまった筆者にとって他人とは不信の塊であり、優しく接して近付いてくれた人も信用できず拒否してしまうのでいつしか知り合い以上・友達未満という希薄な人間関係の構築に成功しました。同性、異性を問わず、友達という存在が今では理解できないほどに幻想的なものに感じられます。
友達がいないので携帯電話を持たなかった自分もさすがに就活時には必要ということで持ちましたが、今現在も私用携帯の番号を教えた家族以外の他人は存在しません。逆に、私用携帯番号を知っている他人もいないので携帯に登録してるのは宅配業者や企業といった法人ばかりで個人名は1件もありません。
年を取ると嗜好は歪みます、それもより歪な方向へと。
コスプレとか全然興味ないと思っていた自分がまさか二次元の延長で興味を持ってしまうとは思わなかったし、キワモノ系ジャンルとしか認識していなかった獣姦ものに対して、犬も良いけど豚もいいよね…とか思うようになるとは。ちなみに最近のブームは蟲姦ものです。
どれだけ誘われても決して人に姿を見せてはなりません。お互いにキモオタだと認識するのも辛いですし、まず他人との会話が成立しません。相手に不快な思いをさせるのはやめるべきでしょう。
クソザコなコスプレカメコをしてると、何度か撮らせて貰った相手に存在を認知される、いわゆる野良カメコから認知カメコへのジョブチェンジが起こることがあります。自分も一度コミケでそれが起こり、雰囲気的に雑談でもしながら帰路につくようなシチュエーションになりました。現実にまだ希望を抱いている人は雰囲気に流されてそのまま歩いてしまうのでしょうが、ここは適当な理由を付けて全力で逃げるシーンです。
相手にキモっと思われることを避ける意味もありますが、コスプレするような人の8割は彼氏かそれに相当する人物がいると考えるのが適切です。触らぬ髪に抜け毛なし、何勘違いしてんだこのクソオタがと罵倒される前に離れましょう。ちなみに後日、やはり彼氏持ちだということが判明したので当時の判断は正解だったと自信を持って言えます。
現実を決して振り返ってはなりません。下手振り返り考え事なんてすると、「童貞は子孫を残せないのだから、いずれ童貞は絶滅するのでは?つまり非童貞のみになるのではないか」などと言い始めることになります。
理想の魔法使いになるために筆者が無意識に行動したことを紹介してきましたがいかがでしたか。紹介したのは筆者がやってよかったと思えたポイントなのであなたにできそうなものを是非試してみていただければと思います。そして、理想の魔法使い像を決してあきらめずあなたのMPをどんどん上げていっていただきたいです。そして最後に倉田英之先生の名言を紹介します。
女は紙かjpgに限る
(前回までのあらすじ)
twitter を始めて1か月くらいになるんだけど、
(中略)
私は神になった。
(あらすじおしまい) 引用元→ 「twitter はじめた」、(http://anond.hatelabo.jp/20150615004630)
神といっても何か特殊な力があるわけではない。
世間的には幽霊とか透明人間とかのほうが近しい感覚かもしれない。
時事的には透明な存在といったほうが薔薇みたいでトレンドかもしれない。
だが、私が神だと宣言すれば、私は神なのだ。
神に身分証明書など不要だ。神とは言ったもの勝ちの肩書きだ。概念なのだ。
私が神だといったら神なのだ。
プロフィールの自己紹介欄に書いておこう。なんなら名前欄に書くまである。
誰からも見えない高みから、どこかの誰かが垂れ流す有象無象な玉石混淆の情報の渦を傍観している。
有意義なtweetには感謝を込めてクソリプしたいし、幸せそうなtweetには爆発しろと呪いたい。
くだらないネタツイですら、それを発言したのが自分でないことに妬み嫉む。
西に疲れたアカウントがあれば追い打ちをかけるような罵倒を浴びせて余計に疲弊させる、
そういう神に私はなりたいという考えも脳裏をよぎる。
しかし、心せねばならない。
他人のtweetに干渉すれば、同時に他者から自分を観測されてしまう。
神は不可視であらねばならない。顕現してしまえばもはや神ではいられない。
放射能の箱に入れた猫は箱を開いた途端に生死が確定してしまう。箱を開けてはならないのだ。
tweetとは即ち示威だ。つぶやきなんて生易しいものでは決してない。街中で、駅前で、雑踏に向かって、世界を相手に、拡声器で声を張り上げているのだ。
誰も聞いていないと思って油断してはならない。奴らが聞いているか聞いていないかなんてこちらにはわからないのだ。神も万能ではないのだ。
聞こえているのに聞こえないふりをしているだけかもしれない。興味がなければ聞き流すだけだ。
しかし万が一にでも弱みを晒してしまったら、それを端緒に足を掬われかねない。神の座から引き下ろされかねない。ことは慎重を期するべきだ。
私はもはやtweetすることはできない。してはならない。
twitterはtweetしたくなるように誘導してくる。こっちの水は甘いぞーっと誘ってくる。砂浜できゃっきゃうふふと戯れるかのように楽しそうな会話がタイムラインに並ぶ。そこに私が近づくことはできない。
私は口を噤み、耳を塞ぎ、瞼を閉じる。冷たい岩屋に閉じこもる。外は怖い。出たくない。明るい場所には近寄りたくない。自意識ばかり詰め込んで膨らんだ身体ではもう岩屋の外には出られない。悲しむしかない。
それでもタイムラインは頻繁に更新される。新しい文字列を並べてくる。うるさいうるさい。見たくない。
のび太さんとキテレツくんが従兄弟?、そんなわけあるか。リムーブ。
ご飯かパンか?、知らん、朝飯は食べない。リムーブ。
水出し紅茶には専用のものを使え?、知るか、ペットボトルで十分。リムーブ。
デレパのゲストにちひろさん?、まじか、それは聞きます。リムーブ。
夏コミの当落?、知らんがな、新刊がんばってください楽しみにしてます。リムーブ。
噴火?、最近多くて心配ですね、近隣のみなさんお大事に。リムーブ。
デレマス、劇場の沢田麻理菜さんと佐藤心さんかわいい。リムーブ。
ラブライブ、ミュージカル風味で素晴らしかったけど高山みなみさんの役どころがよくわからん。リムーブ。
紐、リムーブ。吹奏楽部、リムーブ。レプリカはいらない本物がほしい、リムーブ。放課後のプレアデスのノベライズを菅浩江さん?、読む。リムーブ。
腹減った、リムーブ。
帰りたい、リムーブ。
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