はてなキーワード: 近親相姦とは
・百合豚がスレミオを結婚させろと騒いだせいで、ミオリネなんかと結婚させられたスレッタが可哀想
・本来のスレッタは4号/グエルと結婚するはずだったし、それがスレッタの本当の幸せなのに
こういう主張をしている女オタをXで何人も見た。どうして本来の展開では4号/グエルと結婚するはずだったのに、
不当に捻じ曲げられたのだと、公式関係者でもない彼女たちには「分かる」のだろう…。
それに、どうしてそれがスレッタの本当の幸せなのだと、本編はバッドエンドだったのだと、「分かる」のだろう…根拠は何なんだろう。
・同性愛差別によりペトラとのフラグを生やされ、兄への恋愛感情と性欲を認められなかったラウダが可哀想。ラウダというキャラクターは自民党の圧力に破壊された
こういう主張をしている、ラウダとグエルのBLをやっている腐女子も見た。
どうして本来はグエルとラウダが兄弟で結婚するはずで、ラウダとペトラは自民党(反・同性愛の差別主義者)の圧力により「異性愛化」され不当にくっつけられた、
キャラクターの本当の幸せはグエルとラウダの性行為や結婚にあると、彼女たちには「分かる」のだろう…。
(そもそもグエルとラウダの場合はどちらも同性愛者として描かれていないし、同性愛の前に兄弟間の近親相姦の問題があるんだが)
肉料理食いながら「美味しく食べてもらえて牛さんも嬉しいよ」と肉牛の気持ちを分かっている人が出てきたり、
「ティーストレーナーで飲まれる紅茶は茶葉が開かなくて可哀想」と茶葉の気持ちが分かる人が出てきたり、
架空のキャラクター、動物、植物など人権をもたない存在の代弁を、非常に確信を持って大声で行う人たちがいる。
なぜ分からないものが、彼らには「分かってしまう」のだろう。そしてなんでこんなに、確信を持ったなりきり代弁行為が好きなんだろう。非常に怖い。
「屋根裏部屋の花たち」のwikipedia、映画中心で描いてて原作やらドラマ化について全然書いてない
そのうち加筆しようと思うけどちゃんと調べるため読み返すのもなかなかだるい
そのうち誰か書いてくれるかもしれんが
・ざっくりネタバレあらすじ
普通に幸せに暮らしてた両親+4人兄弟が、父親の死によって金無し貧乏になり、母の実家に戻ることになる
実は父母は、「叔父と姪」という許されざる関係の末に駆け落ち結婚していた
しかも叔父は不倫によってできた忌まわしき婚外子のため、祖父(主人公の/母の父にして父の兄)はガチのマジで二人の関係にいまだに激怒してる
大富豪である祖父は今病気で死にかけており、死ねば遺産を相続できる
死ぬのを待ち、母は4人兄弟を屋根裏部屋にしばらく隠す(祖母や一部の使用人は4人のことを知っており、食事など運ぶ)
祖父は帰ってきた母を喜んで受け入れ、「あんな男と結ばれていたのは許せないが、近親相姦の子をつくるという禁忌までは犯していなくてよかった」と喜んだ
兄弟らは母が外に出してくれるのをじっと待ち続けていたが、母は豪奢な実家での暮らしに「ここが本来私のいるべきところだわ~」と浮かれ、次第に子供のことなんかどうでもよくなる
祖父がようやく死んでフリーになっても、子供たちにまだ生きていると嘘をついて屋根裏に閉じ込め、新しい恋をしてそちらに夢中に
外から隔離された生活の中で長男と長女は同世代の異性が他にはいないからと近親相姦してしまう
やがて末っ子が病気になり、必死に手当するも医者にも見てもらえない中で死亡
その後シリーズ化し、外の世界でバレエやったり医者目指したり、他の相手と恋愛するも結局長男と長女は夫妻になったりする
原作では、美貌に自信があり年頃になったら恋愛したりしたいわ~と憧れていた長女が、そんなことできない屋根裏部屋の生活に不満を持つ
無邪気を装って、女性的になっていく自らの下着姿を兄に披露し、兄が恥じらう顔を見て「私ってやっぱり女として魅力あるよねー」と自尊心を満たしたりしていた
兄は長女にむらむらしまくるが妹相手なのでがんばってまともな兄のふりをしているが、同年代の子は普通に学校に行けてる時期にまともに学べないストレスなどでだいぶ精神をやられている
しかし長女の方も散々兄をたぶらかす振る舞いをして追い詰めていた自覚はあったので、互いに許し合う
この時点で兄17で妹15ぐらいだっけな?もっと前後してるかもしれない
映画では近親相姦設定展開はカットされ、普通に仲のいい励まし合う兄と妹
遺伝的に考えて
ペド嫌悪 → 一族の中で強引なペドファイルのオスが居たら滅びそうだしまあわかる
父娘愛への嫌悪 → 近親相姦はリスクが有るため多くの動物で家族間は嫌悪対象になるし、同時に父娘もだめって人も理解できる
嫉妬 → より若いメスが競争的に有利なので敵視してしまうのもわかる、しかし年の差婚では大体敵意はオス側に行く
たとえばこれが、最近話題になった19歳と37歳とかじゃなくて
もっと10歳差とかでもNGな人が男性より圧倒的に多いみたいなんだよね
不思議なのは、自分が若い時に例えば10歳上の人からちょっかい出されても問題ないし、自分と同年代の女子と10歳上の男との恋愛漫画もOKな人でも
例えばセーラームーン(アニメ)って中学生と大学生だっけ?「大人になって無理になった」みたいな意見を結構見かける
ここらへんにヒントがある気がする
「最初に保護者目線から入ると恋愛対象として認識しづらい」という現象(※)は確かにあると思うので、ラストの増田のほろ苦い感慨も含めて普通に共感できる。
もちろん、そういう「微妙な恋愛未満」の状況自体が、傍から見れば当人たち以上に露わになっている部分があると思うので、周囲の反応も仕方なかったのではという気もする。たぶん、いくら説明しても、「彼女以外の女性と一緒に暮らしてるらしい」「いや、病弱のいとこだから」「いとこと恋人みたいに暮らしてるの?!余計悪い」みたいな風にしかならなかっただろうし。
ただ、元増田を批判する増田諸氏の反応にほの見える「近親相姦憎悪」の感情がすげーなと思った。お前ら自分にミリも関係ないよそのおうちの親戚事情に感情爆発させすぎじゃね、って。
思うに、インセストタブーってその発生の淵源から考えれば、部族親族の縛りが薄まった現代社会ではほぼ意味無い風習と思われるんだよね。でもその割に根強く生き残ってる。これって、あるいは男性恐怖又は男性嫌悪(ミサンドリー)の感情と親和性が高いからかなあ(つまり、身近な親族男性から恋愛感情を向けられることに対する恐怖又は嫌悪)……みたいなことを以前増田に書き込んだんだが、それを思い出したよ。
※この現象って、たとえば上司部下とか疑似親子とか教師との恋愛ものとか、そういう「立場に差がある状態からの恋愛」ドラマなんかでは定番のスレ違い設定だよね。立場上の側が自己の恋愛感情に気付くまでの本人のもやもやに、読者が傍目で「それってもう恋愛やん!」みたいにもやもやするの自体がエンターテインメントみたいな。「葬送のフリーレン」のヒンメル・フリーレンの関係にもちょっとそういうとこがあるよね。
今、ゲゲゲの鬼太郎の前日談を描いた映画「ゲゲゲの謎」がオタク女性の間で旬ジャンルと言っていいほど盛り上がっているようだけど、
・目玉の親父は既婚者で愛妻家なのにも関わらず水木とのカップリングが流行る
・産んだ鬼太郎母の存在を抹消して、親父と水木の男二人で都合よく子育て家族ごっこ
・成長した鬼太郎を竿役にしてまでの水木モテモテ二次創作が流行る
・近親相姦、児童虐待や望まぬ妊娠を因習村などと言うネットミームで面白おかしく茶化して消費する
何処を取っても倫理観が欠如していて無理すぎる…
このムーブはリトルマーメイド実写版のビジュアルが個人的にイメージと違うなどという愚痴より、よっぽど倫理観が欠如していて最悪なのに、
しかもこれ、ファンが勝手にやってる事じゃなくて、明らかに公式側からして狙ってるんだよな
無理すぎる
https://twitter.com/yu1ko33/status/1708481078791729240
五条悟が死んだときの走馬灯?に同年代の仲間ばかりが登場して、五条悟の生徒への想いがちっとも出てこなかったことで、
五悠や五伏など五条×生徒カップリングの腐女子が爆死してキレ狂う事件が先月あったのだけど、
五悠の腐女子は五悠展開にしなかった芥見下々への憎しみが極まって、芥見下々のアバターキャラである単眼猫を火あぶりにする二次創作を作っているようだ。
火あぶり以外にも作者のアバターキャラをカーペットにして踏みつける、ゴミを投げつけたり踏みつぶすなど、
今年の7月にも機動戦士ガンダム 水星の魔女で、グエルとラウダの兄弟がSEXする最終回にならず、
兄のグエルが宇宙で暮らし、弟のラウダが地球で暮らすという離れ離れのエンディングになったことで、
ラウグエの腐女子が激怒し、バンダイナムコ許さない、脚本の大河内許さない、監督の小林許さない、
グエルとラウダに近親相姦させなかったのは女性視聴者を舐めている、LGBTを差別しているなど、怒り狂って非常に面白い暴言を吐いていた。
G&Wは、私有財産は宗教と不可分であるため、根源的なものだと主張する。その例として、先住民の伝統的な儀式で使われるトランペットやその他の道具を挙げている:
このような神聖なものは、多くの場合、存在する唯一の重要かつ排他的な財産形態である......神聖な文脈に厳密に限定されるのは、命令関係だけではない......絶対的な、つまり今日でいうところの『私的』財産も同様である。このような社会では、私有財産の概念と聖なるものの概念には、形式的に深い類似性があることが判明する。どちらも本質的には排除の構造なのである。(p. 159)
ここで「絶対的なもの」が「私的なもの」と訳されていることに注目してほしい。祭祀財産が「絶対的」な程度に神聖であるならば、それは定義上「私有財産」として適格である、という主張のようだ。
この混同は、著者が宗教と私有財産の関連付けに権威を求めているときに強化される。この時点でG&W(p.159)は、エミール・デュルケムの「聖なるもの」という古典的な定義を持ち出している:
デュルケムは、聖なるものの最も明確な表現は、ポリネシア語で「触れてはならない」を意味するタブーであると主張した。しかし、私たちが絶対的な私有財産について語るとき、その根底にある論理と社会的効果において、非常によく似たもの、実際にはほとんど同じものについて語っているのではないだろうか。
そして著者は、アマゾンの原住民と仕事をする民族学者たちが、「湖や山から栽培種、リアーナ林、動物に至るまで、彼らの周りにあるほとんどすべてのものには所有者がいる、あるいは潜在的に所有できる可能性がある」(p.161)ことを発見したと述べている。ある種や資源に対する霊的存在の神聖な所有権は、その種や資源を他の世界とは一線を画すものである。同じような理屈が、西洋の私有財産の概念を支えているとG&Wは書いている。もしあなたが車を所有しているならば、あなたは全世界の誰であろうと、そこに立ち入ったり使用したりすることを妨げる権利がある」(p.159)と彼らは説明する。
G&Wが、精神的な「所有権」についての伝統的な概念と、自分の車を所有することについての考えを混同しているのを見つけるのは、非常に息を呑むようなことである。現代の私的所有権を、超自然的存在による天然資源の「所有権」と、その「根底にある論理と社会的効果」において「ほとんど同じ」とみなす彼らは、いったいどこの世界にいるのだろうか?
先住民の活動家たちが、湖や山は強力な精霊にとって神聖なものだと語るとき、彼らは「私有財産」に等しいものを支持しているわけではない。もし「偉大なる精霊」が森を所有しているのであれば、その森は売り物ではなく、私有化されるものでもなく、伐採会社に所有権を主張されるものでもないという明確な含意がある。
デュルケムの洞察の中で最も強力なもののひとつは、人々が神性を呼び起こすとき、そのコミュニティ全体の道徳的な力を想定しているということである。つまり、ある山が神のものであるならば、それは私有化できないと宣言していることになる。G&Wがそれを逆手に取り、「私有財産」という概念は、あるものが神聖であるという考え方そのものと不可分に生まれたものだと主張するとき、これがいかに粗雑な間違った表現であるかがわかるだろう。
デュルケム(1965年)にとって、「分離」は私的流用のアンチテーゼであった。近親相姦に対する世界的な文化的タブーの起源を説明するために、彼は「ある種の隔離的な力、つまり男性的な集団を遠ざける力を女性に持たせている」(1965: 72)という伝統的な信仰を当惑させた。デュルケムは、このような信念体系において、女性の隔離する力は血の力であり、聖なるものの概念と密接に結びついていると書いている。女性が血を流すと神性が目に見えるようになるとすれば、それは女性の血そのものが神であるからである。血が尽きるとき、神はこぼれ落ちる」(Durkheim 1965: 89)。
デュルケムにとって、「分離」という原初的な概念は、私有財産とは何の関係もなかった。問題は、成人した若い女性に何が起こるかということだった(1965: 68-96)。月経が始まると、彼女の親族は、彼女の所有権を主張するために、つまり彼女を「入門」させるために、体として集まり、彼女を男性との付き合いからも世間からも隔離した。彼女の隔離は、特別な儀式である成人式によって達成された。これにより、彼女の身体は神聖なものであり、それに関する彼女の選択は、姉妹や他の親族に対して説明責任があることが確立された。デュルケムにとって、このような集団的行為と関連して、人間の意識、言語、文化の出現は、共同体という新しい種類の権威が初めて誕生した時点であった。
もしG&Wが現代の進化科学に関心を示していたなら、こうしたデュルケーム的洞察が、血のように赤い黄土色が、男性に女性の肉体が神聖なものであることを新たに認識させるために、女性によって化粧用の「戦化粧品」として使用されたという考えに基づく、人類の進化における黄土色の記録に関する最も新しく権威ある現代の考古学的説明を、いかに先取りしていたかを認識できただろう(Watts 2014, Power 2019, Power et al.)
さて、『万物の黎明』の中心的なアイデアにたどり着いた。それは、私たちはかつて皆自由であり、生き方を選ぶことができたからである。
人類学を学んだことのある人なら、エスキモーのアザラシ猟師たちが伝統的に冬の間は性的共産主義を実践し、夏の間は家父長制的な家族生活に切り替わる。G&Wは、この振り子あるいは振動モデルをヨーロッパ後期旧石器時代の氷河期文化に適用し、これらの複雑な狩猟採集民は、エリート特権と権力の垂直階層を意図的に築き上げ、古い季節が新しい季節に移り変わるときに、それらをすべて取り壊す喜びを享受していたと論じている。
この革命を大いに楽しんだからこそ、氷河期の天才政治家たちは、革命で得たものに永久にしがみついていてはいけないことに気づいたのだ。彼らは、連続する革命を楽しみ続けるためには、その間を一過性の反革命で埋めなければならないことを理解していた。次の革命的高揚のための格好の標的を提示するために、「特別な」個人が支配力を確立するのを許すことによって、そうするのである。
私はこの考えが大好きだ。偶然にも、30年前に『血の関係』が出版されて以来(ナイト1991年)、私たち急進人類学グループが狩猟採集民の平等主義の奥義として分析してきた振動原理と酷似している。一方、私の振動モデルはまったく同じではなかった。というのも、私たちは亜北極圏ではなくアフリカで進化したのだから、季節的なリズムよりも月ごとの周期性が優先されるべき十分な生態学的理由があったのだ。つまり、G&Wが想像したような方法で権力が掌握され、明け渡されたのであれば、社会生活は月の満ち欠けと連動する月周期でひっくり返されたことになる(Knight 1991: 327-373)。
G&Wの歴史は、狩猟採集民の対立と交替に満ちているが、その周期性は一方的な季節性である。狩猟採集民は太陽だけでなく月にも従うことを彼らは知らないのだろうか?彼らの最も重要な儀式は、女性の月経の満ち欠けと結びついており、月によって予定されている。
コンゴの熱帯雨林では、女性たちは男性に勇気と潜在的な支配力を示すよう意図的に促すが、ンゴクと呼ばれる女性だけの儀式では、男女間の「権力の振り子」で遊び半分に降伏する前に男性に反抗する。G&W (pp. 114-15)はこのことに言及しているが、その後に次のように主張している:
単一のパターンはない。唯一の一貫した現象は、交代という事実そのものと、その結果としてのさまざまな社会的可能性の認識である。このことから確認できるのは、「社会的不平等の起源」を探すことは、本当に間違った問いを立てているということである。
もし人類が、その歴史の大半を通じて、異なる社会的配置の間を流動的に行き来し、定期的に階層を組み立てては解体してきたのだとしたら、本当の疑問は「なぜ行き詰まったのか」ということかもしれない。
この最後の質問は実に深いものである。しかし、この問いに答えるには、以前はどのような状況であったのか、ある程度現実的な認識を深めてからでなければならない。私たちの先史時代の祖先が、本当に自由で、本当に「身動きがとれなかった」時代があっただろうか?
中央アフリカの森の民バヤカでは、月は「女性の最大の夫」と言われている(Lewis 2008)。どの男性の立場から見ても、妻は血を流すたびに、事実上、天国の夫のために彼を捨てることになる。この古代の比喩(Knight and Lewis 2017)の背後にある現実は、女性が月のある期間、遊び半分で「権力を掌握」した後、自分の主張が通れば進んで男性に譲るという伝統であり、Finnegan(2008)が「動く共産主義」と呼ぶものが確立している。このような社会における親族関係と居住のパターンは、月経と排卵、兄弟と恋人、親族関係と結婚、共同体の連帯とセックスの親密さの間で揺れ動く振り子を設定する。
このようなパターンが古代から存在した可能性が高いことを考えれば、G&Wが政治的な揺れに対するある種のブロックを、歴史の過程で実際に起こったこととみなすのは正しい。しかし、そのブロックを説明するには、G&Wが触れようとしないトピックを扱う必要がある。それは、月経をめぐる先住民の慣習に敬意を持ってアプローチすることを意味する(Knight 1991.)また、親族関係のパターンや結婚後の住居の多様性を理解することも重要である--これも決定的に重要なトピックだが、G&Wは著書でほとんど触れていない。
非貯蔵型狩猟採集民の間では、女性は一般的に、少なくとも子どもが2、3人生まれるまでは実の母親と暮らすことにこだわる(Marlowe 2004)。遺伝学的研究によれば、私たちの種が進化したアフリカでは、このパターンははるか過去にまでさかのぼる(Destro-Bisol et al.)終生結婚の代わりに「花嫁サービス」が一般的で、アフリカの狩猟採集民の女性は、母親のキャンプに住み続けながら、選んだ恋人を受け入れる。一時的な夫は、狩猟した肉を花嫁とその家庭に持ち帰ることで、自分の役に立たなければならない。それができなければ、彼は出て行く!このような取り決めのもとで、誰もが親族関係と結婚生活の間を交互に行き来する。
母親と同居するのは弾力的なパターンだが、夫からの圧力で住居を変え、夫とその親族と永住せざるを得なくなることもある。このような場合、子供連れの若い母親は逃げ出すことが難しくなる。かつての自由を失うと、夫の世話は強制的な支配へと変貌する。エンゲルス(1972[1884])が「女性性の世界史的敗北」と雄弁に表現したのは、この悲惨な結果だった。世界の多くの地域で、結婚を固定的な絆に変えた家父長制的な力は、それに応じて社会生活全体にも固定性を押し付けた。
これは、「なぜ私たちは行き詰まったのか」という問いに対する有望な答えのように見える。では、G&Wはこの問いにどんな答えを出すのか?彼らの最終章は非常に蛇行していて、それを知るのは難しい。彼らは、人へのケアが強制的なコントロールへとシームレスに変化する可能性について言及しているが、なぜかこれを結婚後の住居や家族生活の変化とは結びつけていない。最も身近なところでは、17世紀のヨーロッパと北米のウェンダットにおける処刑と拷問の光景を描写している。国王が臣民を罰する権利は、妻子を躾ける家長の義務をモデルにしていたことを思い起こさせる。このような政治的支配は、公に王の注意義務として表現された。これとは対照的に、ウェンダットが囚人に長時間の拷問を加えるのは、支配と統制を愛情によるケアから公的に区別するという、正反対の点を強調するためであった。囚人は家庭の一員ではないので、拷問される必要があったのであって、愛される必要はなかったのだ。
そうしてG&Wは、ケアと支配の区別の中に、私たちがなぜ行き詰まったのかについての待望の説明を見出したのである:
私たちは、ケアと支配の間のこの関連性、あるいは混乱が、互いの関係を再創造することによって自分自身を自由に再創造する能力を私たちがいかにして失ったかという、より大きな問題にとって極めて重要であると考える。つまり、私たちがいかにして立ち往生してしまったのかを理解する上で、極めて重要なことなのだ...。
狩猟採集民の研究やジェンダー研究を探求する代わりに、G&Wは視野を先住アメリカ人の軍事指導者、拷問者、ヨーロッパの君主の経験に限定し、これらの人々の心理的葛藤を想像することで、私たちがどのように「行き詰まった」のかを探っている。上に引用した当惑させるような言葉に意味があるとすれば、私たちが行き詰まったのは、特定の権力欲の強い人物が、人々を思いやることと暴力的に支配することを混同してしまったからだと示唆しているようだ。
これはまともな説明だろうか?人々は本当にこのように混乱してしまったのだろうか?答えの代わりに、G&W自身が行き詰まったようだ。私たちは、同じ質問を少し違った言葉で提示されているだけなのだ:
外的な暴力と内的なケア、つまり最も非人間的な人間関係と最も親密な人間関係との間に新たに確立された結びつきは、すべてが混乱し始めるポイントを示しているのだろうか?かつては柔軟で交渉可能だった関係が、結局はその場に固定されてしまった例、言い換えれば、私たちが事実上立ち往生してしまった例なのだろうか?
この本全体で最も重要な問いに答えようとする努力は、これ以上なされていない。
(続く……)
親子の近親相姦を、親による子への一方的な侵害と考える必要はない。実際、近親相姦がもたらす蹂躙を理解し、近親相姦が蹂躙である場合とそうでない場合を区別するためには、子どもの身体を外部から押しつけられた表面としてのみ捉える必要はない。
子どもの身体を受動的な表面として再定義することは、理論的なレベルでは、子どものさらなる剥奪、すなわち精神的生命の剥奪を構成することになる。それはまた、別の次元の剥奪を犯していると言えるかもしれない。
原文はこれな
UNDOING GENDER(2004)
https://selforganizedseminar.files.wordpress.com/2011/07/butler-undoing_gender.pdf
関西ジャニーズJr.のミュージカル「OneANOTHER」をこの夏観た。
ストーリーや演出からは、できるだけ性的な要素を排除していたように思う。二幕のショータイムはいつも通りの夏休み恒例子ども祭りでウッ…となったが。
松竹座のジャニーズ公演を初めて見たんだけど、いつもこうなのかな?
これができるなら、というかジャニーズ的なエンタメが続くなら、今後もそうしてほしい。
そもそも痩せていて前髪長めの美少年しか出てこない、という点において、どうやったってジャニー氏の性癖を内包化している事実はあるけどさ…。
●ジャニーズがエンターテイメントを通じて表現してきた重要な要素のなかで、異常な性的視点を排除して描けるのではないかと個人的に思えるテーマ
夢や希望を持った、子どもたちの争いと和解。仲間の死、そして仲直りへ…的なやつ。まだ何者でもない子どもたちのストーリー。
例「ANOTHER」:船が難破して仲間割れ。すったもんだありつつ、再び一致団結して海へ向かう子供たちの冒険(十五少年漂流記的なやつ)/「SHOCK」「PLAYZONE」:ショービジネスに翻弄される、夢を追う若者たちの苦悩/「DREAM BOYS」:ボクシングのチャンピオンと挑戦者の衝突
夢や希望を持った子どもと、導いてくれる大人の間に育まれる信頼と不安、のちに抱く感謝…的な構造。師弟関係に性的な要素は必要ないと思うので。
例「OneANOTHER」に描かれる学生と先生の関係性/「SHOCK」のスターとプロデューサー
・「Show must go on.」の精神
何が起きても幕を上げなければならない=平たくいうと「困ったときこそみんなで協力しよう」。これも普遍的なメッセージだなと思う。
例「SHOCK」「PLAYZONE」「DREAM BOYS」:ショービジネスの渦の中に巻き込まれる若者たちの苦悩、挫折/「ジャニーズワールド」:沈むタイタニック号の中で演奏を続けた楽器隊
・反戦
争いと暴力の悲しさ。
・シェイクスピアやウエストサイドストーリーなど、古典ミュージカルの再解釈
例:「SHOCK」「MASK」「DREAM BOYS」「ジャニーズワールド」など
・未成年の更生。
こどもが貧困や差別、不慮の事故によって犯罪を犯しても、更生できるはずという希望。
例「少年たち」:少年院が舞台/「DREAM BOYS」:居場所を求める若者たちの抗争(ウエストサイドストーリーやIWGP的なやつ)
本人役、実在グループが登場するフィクションのストーリーによって、アイドルやエンターテイメントの裏と表、意図、嘘などを浮き彫りにするやつ
●逆に、これまでにジャニーズの舞台やコンサートによくあった、今後なくなってほしい性的な要素
・成長中の少年の半裸。脱ぐな、見せるな
・水でびしょ濡れ。無駄に濡れなくていいと思う
・腰をくねらせるなどのセンシュアルなダンス。見てて気まずい
・過剰に肉体性を強調する演出。激しすぎる殺陣、人体がめっちゃ回るやつ、腹筋太鼓など。しんどい
・近親相姦的なストーリー。生き別れの母や姉妹に恋心を抱くやつ。シェイクスピアの引用なんだと思うけど…現代劇かつ若いキャスト中心だとけっこうきつい
・子どもたちの特技披露タイム。どんな気持ちで見たらいいかわからない
●今後なくなると思うとさみしい、伝統芸能っぽいな〜と思うモチーフや小ネタ、ジャニーズあるある
・大きな龍
・大きな船
・大きな旗
・大きな扇子
・ハチマキ
・イリュージョン(取っても取っても無限に出てくる仮面、箱から無限に出る金のピラピラ、瞬間移動など)
・誰かが死んだ時に上から花が落ちてきたあと、担ぎ運ばれる演出→そのあとスモークのなか幽霊として出てくる、のセット
・どこかにあるはずの「13月のユートピア」というバグ的な怖い概念
・地球の大切さを説き始める流れ
など。
いろいろあげてみたけど、大事なやつ忘れてたらごめん。