はてなキーワード: 軋轢とは
チルチャック:仕事、金
マルシル:魔物食
チルチャック:大雑把な人
そしたら
4.Aさんのこだわってることに対し、Aさん以外に一般的な雑なことを言わせる
5.Aさんがそれに突っ込む
7.少しだけ分かり合う
これだけでショートストーリーができる
あとは時間をかけてディティール(ここは許せるけどここは許せない)を詰めていくのと
仲間といることでの変化を与えていく(前はこうだったけど今はこう)
さらに、結果的にグループの常識ができてきて、それを外のグループから突っ込ませる
(ウンディーネ回とか)
Aさんの変なこだわりや癖に対し、ときには仲間側からかばい、時には外野側から一緒に突っ込める
他には不得意なこととかも作ってると思うし
「◯◯にこだわるならxxもこだわるだろう」に対して意外性として「◯◯にはこだわるがxxはこだわらない」を付与していく
(ウンディーネの味には興味がない、とか)
しゅんき氏の、ラニーノーズ、Runny Noizeに対するファンとしての失敗に関するnote(https://note.com/syunki0910/n/n0bbc0a2e4b96)が話題になり、
それにより「推し活は、推しが理想と違った場合は呑み込んで応援するか離れるかしかない」という言説が出回っているが、私は少し違う意見だったためその旨を記す。
以下はしゅんき氏が記事内で挙げた、何らかの推し活をするうえでのファンのパターンだ。
この2パターンがいて、両者は分かり合うことができないということには共感をする。そして本記事は、②であることが多い立場からの発言である。
また、こちらの記事(https://note.com/syunki0910/n/n9e7ab2259c1c)の嫌われた原因の項目で書かれている、「自分の振る舞いはおかしなことではない」という点も、一部は理解することができる。
私のスタンスは、
・人には他人を傷つけたりその自由意思を妨げない限り、発言の自由は担保されるべきである
・プロのアーティストが生み出した作品に厳しい意見がつくことは(誹謗中傷や言葉選びによっては許容されないが)ある程度想定されることであり、その発信自体は叩かれるべきではない
というところだ。
前置きが長くなったが、以上のようにしゅんき氏に一部共感するところがある人間の視点から、問題を分析したいと思う。
しゅんき氏は、noteの中で、「人がどんな感情を持つのもどんな行動をするのも、基本的には自分勝手である。勝手に人に感動したり怒ったりするのだ。誰でもそうだ。人間はそういうものなのだから、別になんの問題もない。」と述べている。この一文はまったくその通りである。だから「推しに不満を持っていても、不満を吐き出しながら応援する」という行為自体に問題はなく、「推し活は~すべき」ということには当てはまらない。
特に規模が大きいアーティストになればなるほど、様々な葛藤を抱えながら応援しているファンはいる。私が今回記事を書こうと考えたのは、冒頭に述べた「推し活のファンの在り方二元論」に異議を唱えたかったからだ。あのような言説が広まると、多くの葛藤するファンが「自分は推しを応援する資格はない」と自分を責める原因になりかねない。「どんなスタンスで応援しようと自由」なのである。
今回、しゅんき氏は、以下のように述べている。
これは、「アーティストはかくあるべき」という押し付けであり、アーティスト個人に対する自由意思の妨げである。
もちろん、客の声をよく聞き向上に努めるスタンスは、商業的に正しいとされる。これがたとえば、利益創出を目的とした企業それ自体が相手であれば、もう少し理屈は通る。しかし本件の相手はアーティストとはいえ個人である。私は洲崎氏という方を本記事で初めて知ったが、どういうスタンスで活動するかは自由であり、それが利益に繋がるか繋がらないか、繋がらない場合どうなるかはファンが判断することではなく、本人自身や所属会社が考えることである。
存じ上げないうえで例とはいえこのようなことを述べるのは申し訳ないが、たとえば「今はコントより音楽活動に比重を置きたい」と思っており、作品の完成度が低くなった場合も、それはアーティスト自身の自由である。
しゅんき氏が「ファンとはこうあるべき(たとえば本人が提示していた①のような全肯定であるべき)」「作品への不満は言ってはならない」ということを強要されるのをおかしいと思うことと同様に、人の創作活動やアーティスト活動を強要することはできない。
しゅんき氏がそれを傲慢だと述べるのも自由だが、洲崎氏が傲慢と思われても構わないと思うこともまた自由なのである。
しゅんき氏の初期のnoteの中には「自分はこういう人間である」という記述、そして自分がなぜ間違っているかわからないという記述があった。
1でも述べたとおり、間違っているわけではないという点は共感する。ただし、その自分を周囲が受け入れるべきだと考えると、それは今回のような事態を生む。
見る限りしゅんき氏のなかには2つの欲求や理想(細分化すれば3つ)の状態があると思う。
1つは、アーティストと良好な関係を築き、ライブに参加し続けること(これは2つに分けられる)
この2つは、現状の方法では両立することが困難である。そして氏は両立できないことについて、「相手が譲歩し両方の欲求を満たしてくれるよう振る舞うべき」だと考えている。
ここが今回の一番の問題であると考える。よく言われるように他人は変えられない。だから自分がやり方を変えるしかないのだ。
②SNS上の振る舞いを優先し、良好な関係は諦める。現場では交流を求めず作品だけ楽しむ
③完全に降りる
そして、④は(今からはもう難しいかもしれないが)、「欲求が両立する方法を考え、折衷案的振る舞いを見つけること」だ。
こういった場合、人は④の方法を取ることが多いのではないだろうか。
・この職場に自分の仕事の進め方を浸透させた方がいいと考え、同僚には仕事の仕方を合わせてもらえるよう交渉する。後に実績で報いられると信じ、その場の人間関係の軋轢は覚悟する。
・合わない場所にいることはしたくないが1年ほどは我慢できそうなので、転職のために1年は必要な実績を積むことにする。そのために時に妥協し時に我を通すなど状況に応じて変える。
・人と良好に働くことを優先したいため、同僚の進め方に合わせる。関係を構築してから徐々に自身の意見を述べるようにしていく。
以上の違いは、「進め方へのこだわり」「実績」「人間関係」様々な要素がある中で何を優先するかだ。自分の価値観を点検し、どこにどれだけ比重を置き、逆にどれが不足していると耐えられないか、どれくらいなら耐えられるかを見極め、自分にとって心地の良いバランスを探っていく。それが人間関係であり人の営みではないのだろうか。
ここで、すべてを満たそうとただ声高に叫んだところでそれが叶えられることはないだろう。しかししゅんき氏は、自分の欲求すべてが同等に叶えられるべきであると考えている。
欲求を複数持つことや叶えようとすることは問題ではない。問題は、他人や環境は変えられないという点への無自覚さと、自分の中の優先順位が不明瞭なことである。
自分にとってもっとも理想的な状態は何か。それが実現するためにはどのような振る舞いが適しているかを「相手が変わる」という選択肢を除き、「自身の妥協点」や「自身が新たに身につける思考や振る舞い」を考慮したうえで計画し、実行に移す。
こうした行動が、氏には必要だったのではないだろうか。
とはいえ、まだ若い方が以上のようなことを考えて振る舞うことは難しい場合が多いだろうと思う。
そしてこうした振る舞いを自身が二十歳そこそこの時に身につけていたかというとはなはだ疑問であり、だからこそ私は、こうした記事を書いている。
なんてもの、ファンダムのなかの「べき」論は幻想だと思っている。ただそこは人の営みであり、アーティストも含め、心の通う、自分と違う人たちが多くいる場所だ。
迎合を覚えろという意味ではなく、ただ、自らの思い通りにならないことを理解したうえで、なるべく心地の良い落としどころを見つけていくこと(あるいはそれを試すこと)を、私は若い方に推奨したいのかもしれない。
漫画では複数の価値観が出てきて、対立構図が生まれることはもちろんあるが
大体はグループで1つの価値観だったり、少しのズレだったりする
ダンジョン飯では1人1人が別の作品に居そうなくらい、価値観や考え方に差がある
こういうの、TRPGに似てると思う
1人1人ちゃんと価値観がずれていて、それによって軋轢や笑いが生まれるから、この少人数で13巻やってもずっと面白い
全員が何かのベクトルで頑固なんだよね
「生成AIによる民主化」を叫ぶパブコメが公開されて話題を呼び、「それは民主化ではなく共産化」という理解が急速に形成されている。この「民主化」という概念は何も9段の人物が考え出したものではなく、海外の生成AI議論、特にイラスト関連の議論では頻出の概念であり何らかの生成AI推進過激派の共通認識だが、一方で「共産化」は少なくとも増田は寡聞にして知らぬ。では、この「才能」の「民主化」とは何なのか? 恐らく国内で理解されている形では「極一部の『絵師』と呼ばれる特権階級が、生まれながらに持っている、『絵』を生成する技術」を「広く一般が使えるようにする」こと、だろう。
Financialization(金融化)という概念がある。1980年代から汎ゆるものを金銭的価値に換算する動きが加速し、万物が通貨によって交換できるようになる一方で、金融分野に加速度的に富が集中するようになってしまったとか、そんなような話だ。まあ安っぽいネオリベラリズム批判の一種と思って構わないが、このあらゆるものを金銭的価値と拡大の速度、加速度で考えるというプロ倫の延長線上にある思想は米国では広く一般に浸透している。
だから二次元業界も当然この金融化の対象として、森羅万象を四半期指標の伸びとして変換すべしという思想の中で解釈される。このものは素晴らしい、だから儲けを加速しなければならない、という自然な発想がある。二次元イラスト業界を金銭的な側面で発展させようという試みは、2010年代を通じて諸外国で繰り返されてきた。無断転載で客を集めた後、批判を浴びて版権元と交渉しようとした漫画村事件もその一部だし、同人誌の代理購入や転売が行われたり、無断翻訳グループや各種の転載サイトの有料サブスクが販売されたりとか、仮想通貨イラスト作家を巻き込む動きも見られたし、画像ファイルを集めて転売するとか、無料の3Dデータを改造して勝手に売るとか、あるいは無料で転載して名を上げるとか、色々な試みがあった。個々の作家に対してあなたの作品はもっとビッグな儲けに繋がる、価格を上げるべきだ、販売数を増やすべきだ、出版が難しければ顔だって繋ぐ、といったオファーが野放図に撃たれることもあった。
そのいずれにも日本の漫画業界、イラスト作家コミュニティは乗らなかった。日本は強固な「非営利の業界」を維持してきた。
日本人は日本の二次元業界が作り出すソフトパワーをまったく過小評価している。増田はある時、海外のイラストレーターが何だかのソフトの互換性問題で揉めている所を見たことがある。PSDはPhotoshopから出力されるとは限らない、俺はKritaを使っているし現場によってはCSPを使っているとか、どうだかだった。お前らはCSPが何のことか分かるか? Clip Studio Paintだ。増田にとってこれはちょっとした衝撃だった。まったくのサプライズド・ピカチュウだ。分かるか? 国産商用ソフトウェアがイラスト制作ソフトの世界的御三家の一角を固めていて、Adobeが三位なんだぞ。「日本にはジョブズが生まれない」?「日本製のソフトは通用しない」? いや、増田自身、普段はこれを言う方なのだが、それでもだ。かつてはbukkakeが世界一有名な日本語だとか、不名誉で恥ずかしいとか言われたものだが、今では所によってはblack company、mesugaki、menhera moveですら通じる(最後はどこかの初号機の貢献だ)。
そして、この継続的に世界に投射される存在感、その非営利思想(と、その裏でちゃんと行われているアニメやガチャゲー課金としての回収)は、思想的に原理主義的な低位のレイヤーにおいて、世界的に反発と軋轢を生み続けているのだ。
もう一つ説明すべきことがある。共産化とは何なのか? 帝政ロシア末期のそれにしろ、中国のそれにしろ、共産主義革命とは、力を持たない民衆が団結し、腐りきった既存の体制を打破し、特権階級が貪る既得権益を破壊し、人民に還元する、という建前で行われる営為だ。実際にはこの「特権階級」は中流層以下を指し、既得権益とは単に日常生活を指す、ということはまともな人間なら皆知っているだろう。高級な壺を割り水道を破壊し公共施設を打ち壊し電線を鋳潰し、全てを焼き払ってゴミにするのが共産化、共産主義革命である。社会を破壊して所有の概念を、いや「社会」と「モノ」という概念の終了を目指すのが共産主義である。
この「才能の民主化」と「それは共産化である」という批判はこれらを踏まえて解釈されなければならない。
「民主化」による恩恵を得るのはお前らではない。「お前ら」というのはブクマカや増田のような言葉を持つ人間だけに限ったものではない。日本人ではない。ここまで書いてきたように、いま、諸外国には、日本(または中韓台を含む極東アジア)人は二次元イラスト業界で特権的な地位を得、極端なダンピングと異常な反成長主義を敷いている、という怒りがある。その怒りの文脈において、日本人は全て二次元の絵を生成し享受できる特権階級であり、才能の共産主義革命において虐殺される対象である。⑨段のパブコメを書いた「生まれつき手が震えて線が引けない」者など同情に値するわけがない。絵の金融化、イラスト市場の資本主義的成長を阻害してきた旧来体制を賛美する、唾棄すべき特権階級である。ポル・ポト政権の新国家建設の呼びかけに喜び勇んでカンボジアへ舞い戻り人民裁判に掛けられ次々と虐殺された出稼ぎ労働者たちそのものの姿だ。
そしてその方法として、生成AI推進派たちは、Danbooruに(善意で)集積されたイラストを圧縮汎化させ任意に混ぜ合わせ薄めて取り出せるようにする。そのデータを配布し有象無象が使えるようにする。LoRAにより「絵柄」の神秘性を破壊し再現できるようにする。それらすべてはコンピュータの利用を強制して非属人的に実行されることで金銭的価値に還元される。
だからあれは共産化なのだ。だから「生成AIを規制するならば二次創作も規制しろ」なのだ。つまるところ「生成AIによる才能の民主化」の指すものは、金銭的価値への還元を断固として受け入れない二次元イラスト市場の破壊そのものなのだ。文化庁の連中が考えているような「『民主化』による、日本国内の広く一般の者への価値の還元」は発生しない。民主化AIで生産性を飛躍的に向上させたクリエイターの活躍などない。ソ連にまともな戦闘機がなかったようなものだ。仮にこれが「還元」だとするならば、起こるのはちょうど紙を高濃度の過酸化水素水で炎とガスに分解するような「還元」だ。「パブコメの知能が低すぎて困る」とかボヤいている場合ではない。それほどの、あえていえば低知能のもの、が反対一色に染まってパブリックコメントを送ってきているとはどういうことか? 実害を被っているのに他ならないではないか。
この話のオチは、恐らく「生成AIによる才能の民主化」が実際にこのまま進んだとて、著作権法がAIウォッシング無罪を規定したとて、それは絵の価値が下がるという一過性の日本の純損失であって、別に日本的なイラスト創作文化への参入が海外享受者たちに認められるわけではないだろうことだ。Twitter上でも指摘されていたが、AIに点滅するカレットを与えられないから絵が造れないなどという者はいないのだ。完璧な絵をプロンプトで定義できると言うならばしてみるがいい。いや、Twitter上でもなんでもいい、人は文字が読めるのだから、完璧な絵の定義を書けばそれは作品なのだ。件の人物が長々とコメントを書き、そしてバズりを作り出したように。
飽きた。ここで投げる事にする。ナガノのくまを讃えよ。
WEB広告やブログのアイキャッチ、ちょっとした看板やのぼり旗。
こういった用途にアニメ調のイラストを使いたいとき、正直人間の絵師に発注するって考えはほとんど湧かなくなってきている。
Twitterを見ていれば明らかだよ。
あいつら全員めんどくさい。
一利用者の観点からすれば正直絵の芸術性とかこだわりとか死ぬほどどうでもいい。
とにかくそれなりにウケが良くてそれなりにかわいいイラスト1枚が欲しいってだけの話で、やれ「著作者人格権だ」やれ「産みの苦しみだ」と喚かれるのは苦痛でしかない。
発注者の立場からすれば料金システムが明瞭でなるべく安価、かつ、やり取りがスムーズで後からギャーギャー喚かない人に依頼したいに決まってる。
「すみません、初めてでわかんないんですけど予算2万円でいい感じのイラストが欲しいんです。用途はコレでサイズはコレで……」
こんな感じで適当に依頼して適当な絵をもらってさっさとクローズしたい。それが本音。
交渉の段階で「こいつこんな値段で依頼してきやがった!」「こんな失礼な態度だった!」ってTwitterに晒されるリスクがある。
あとから「契約違反されました!」「こんなことなら仕事を受けなければ良かった!」ってTwitterで喚かれるリスクがある。
単なる意思疎通の齟齬や前提の共有不足ですぐプッツンしてすぐ晒す。すぐ被害者面。
もちろんすべての絵師がそうじゃないんだろうけど、こっちは散々Twitter上の炎上騒ぎを見ているから人間の絵師なんて信用できないんだよな。
まともな社会人だったら仕事上の具体的なやり取りをTwitterに晒してフォロワーによしよししてもらうなんて恥知らずなこと絶対にしないぞ?
それが絵師連中は余裕でやる。
余裕でやる上に少なくともTwitter上では信者によしよししてもらって絵師がかわいそう、発注者が悪いってことになる。
おまけに殿様商売気質というか、別に晒すまではいかなくても発注の段階でなんかモヤッとする言葉遣いだったりなんかイラッとくるものの言い方だったりをする絵師が非常に多い。
「お前それお客に対する態度か!?」ってなるケースを何度も体験してきた。
へりくだれとは言わないけど、絵師って社会人として対等な立場でまともにコミュニケーションしてビジネス上のやり取りを普通に失礼なく行うって意識が欠落している気がするんだよ。
よく言えば芸術家気質ってことなんだろうけど発注側からすれば社会人失格の人間に頼むなんて冗談じゃない。マジで面倒くさい。
パソコンはゴミスペックだしプロンプトだのなんだのを学ぶ気力もない。
でも世の中には「欲しいイラストを説明してくれればAIを使って近いのを生成しますよ〜」ってサービスを提供している人がいるんだよな。
もちろん絵師に頼むよりめちゃくちゃ安価。イラストをどう使おうが文句も言ってこない。
「著作権はすべて譲渡します」「著作者人格権も行使しません」なんて最初から説明欄に書いてくれている人もたくさんいる。
言葉遣いも丁寧だし、仕事用のTwitterアカウントなんてものも(たぶん)持ってない。
だからあとからトラブル化して晒されるリスクも、おそらくほとんどない。
単に何となく映えるアニメイラストが欲しいってときに人の絵師に頼む発想はもうほとんど出てこないんじゃないか?
何度でも言うが人間の絵師はめんどくさい、AIイラスト(とその提供者)はすごく優しい。
個人的な感覚だが、AIイラストのサービス提供者は社会人としてまともな人が多い気がする。
AIに反対している絵師がネット上で馬鹿にされてるのって、法律知識のなさとか過激な言動・思想とかよりも単純にこれまで散々社会性のなさを露呈して好き勝手やってきた反動なんじゃないの?って思うことがあるんだよな。
まともな社会人は仕事で嫌なことがあっても黙って耐えるしそれでお賃金をいただいて生活していくんだよ。
間違ってもTwitterに晒して正義を問う、なんて角が立つことはしない。
これまで絵師の社会性の無さが水面下でいろんな軋轢を生んでいて、AIイラストの誕生をきっかけに溜まっていた対絵師ヘイトがバーっと一気に表に出てきたって側面はないのかな。
【米世論調査】米国にとって最大の敵国はどこか→中国41%で首位 好感度は日本が首位 [3/19] [ばーど★]
https://itest.5ch.net/lavender/test/read.cgi/news4plus/1710837952
特にアニメやゲームのおかげで世界的にもの凄く好感を持たれてる
過労死や少子化、出る杭は打たれる、官僚主義的社会、本音と建前など、表面的な日本文化の知識については普及しているものの、結局のところ「日本人は礼儀正しく清潔で優しい人々」みたいなフワッとした認識の人が大半だと感じる
これの何が怖いって、日本の「リアル」な部分に触れた途端一気に反転アンチ化する可能性が高いんだよ
というのも、日本に好感を持ってる外国人はほとんどがアニメや漫画の「理想化された日本」に影響を受けている
現実の日本には行ったことすらないか、数日間旅行したことがあるという程度の人が大半だ
言ってしまえば彼らは「アイドルに対してもの凄い理想を抱いているオタク」に近い
色々なことを分かった上で好かれてるわけじゃない
盲目的な好きなんだよ
だからその理想が一度崩れれば重度のアンチに反転する可能性が高い
細かい経緯は省くが、要するににじさんじのブラック企業っぷりが海外に露呈してとんでもない大炎上に発展した
ブラック企業に飼いならされた日本人からすると腰を抜かすほどの騒動になって世界的なボイコットにまで発展
あまりに世界的に嫌われすぎてにじさんじの海外事業は事実上終わったと見られている
これだけの大炎上の裏には、やはりアニメなどの影響でインフレしていたフワッとした日本に対する好感や理想がブラック企業という「リアルな日本」とカチ会ったことによる衝撃があったのではないかと思わざるを得なあい
アニメ人気が続く限り日本に対する海外の好感はインフレを続けるだろうし、一方で日本も少子化により国内より海外を重視する流れは避けられないだろう
常識や暗黙の了解や空気みたいな尺度を棍棒にして人を叩くなと言う。
しかしねえ。
少なくとも、無限に注文できるわけじゃないってことは阿呆にだってわかるはずなんです。倉庫の容積も牛の絶対数も有限なんだから。
ってか、goldheadさんご自分でも言うとるやないですか。
たしかに「50人前」は過度に見える。
おっしゃるとおり、50人前は過度なんですわ。無限には注文できない、50人前は過度。これが暗黙の了解でなくて何でしょう。
だいたい、食べ放題に相撲取りやプロレスラー、腹をすかせた体育会系の男子高校生が押しかけてくることだって、普通に予見できることだろう。
店だって当然それは予見しているでしょうし、10人の団体が50人前を頼んだんなら1人あたり5人前であって、その程度なら許容範囲かもしれません。しかし、ひとりひとりが50人前ずつ計500人前を注文したら多少人間のできた店長さんでもキレていいと思います。
(ってか、相撲取りやプロレスラーの団体は部屋や団体の看板をしょった社会人なので、あえて店と軋轢を生むような注文はしません。お互いハッピーに食べられる店を選ぶでしょう。高校生は知りませんけど。)
それはともかくとして、goldheadさんのご認識でも、1人前から50人前の間のどこかにボーダーがあることは確かですよね? 50人前でとうとう店がキレたってことは30とか40あたりでしょう。それはボンヤリにじんだ線かもしれないし、線を引けと言われて初めて検討される線かもしれない。でも、ボーダーが「存在すること」は誰にとっても明白です。どこにあるかはともかく、存在することだけは確かなんです。
しかるに、「上限数を断っていない以上、好きなだけ頼んでもいいはずだ」と居直るのは、ボーダーがあることを知っていながら、あえてそのボーダーがないものとして振る舞っていますよね。これ、正しい態度だと思いますか?
特に断りがなくても、ボーダーが存在することが自明である以上はどこかで自発的にブレーキをかけなきゃいけないことも事実です。
普通の人はブレーキをかける必要なんかありません。ボーダーがあることを理解していようがいまいが、店が設定したボーダーに達する前に満腹になるからです。というか、食べ放題のメニューはそうなるように組み立てられています。少食の人、大食いの人、あれこれバランスよく食べる人、偏った注文をする人、さまざまな客がいますが、平均をとれば確実に儲けが出るようなボーダーを設定しています。
自発的にブレーキをかけなきゃいけないのは、ボーダーを大幅に踏み越える能力を持ち、かつその自覚がある人だけです。数はごくごく少ないです。
くだんの人物はブレーキが遅かったのではありません。ブレーキを踏まなかったことを責められています。40とか50という数字に意味はありません。この人のようにボーダーがあることを知りながら故意にボーダーを踏み越えるような注文したりgoldheadさんのように「上限が明記されていない」と居直ったりするようなめんどくさい客は(ブコメにもたくさんいるように見えますが)実際にはほんの一握りであって、普通はそんな例外的なやつらのためにいちいちメニューに但し書きなんかしたくありません。それこそが風通しのいい社会です。
暗黙の了解があるというなら見せてみろ
見えないから暗黙なのですが、これはまあ、先生が出席をとるときに「欠席のやつは手を挙げろ」というような矛盾ギャグなのでしょう。でもあえて明文化するならば
ふつうの人は焼き肉食べ放題で上限を気にする必要はない。満腹するまで食べてよい。だが規格外の大食漢は自発的に手加減しろ
になると思います。
当たり前すぎませんか?
こんなこと、いちいち書かないとわかりませんか?
ああだこうだと文句言われるってことはその格好が嫌がられてるってことじゃん。
人が嫌がることをやり続けるにはそれなりの理由がないと納得されないし軋轢が生まれるのは当然だよ。
もし「なんとなく」とか「考えるの面倒臭い」とかの大したことない理由しかないんだったらやめるべきでしょ。
だって、チー牛呼ばわりは嫌だからやめてくださいって勇気を持って主張したとして
「なんとなくやめる気起きない」
なんて言い返されても納得しないでしょ?
もし何かしらの理由があってそれ以外の見た目の選択肢が存在しないのなら、それを可能な限り説明すればもっとマシな状況になると思うんだけどなあ・・・。
これはもう見た目の良し悪しの問題じゃないんだよね。
特に理由なく他人が嫌がることはするけど、自分が嫌がることは許さないという極めて自己中心的な人間が社会にすんなり受け入れられるわけがないってだけの話。
田舎者、都会人の定義を書いていたのが伊丹十三か景山民夫だったと思うが
都会で生まれ育つと他人との接触機会が多く所作言動は自然と研ぎ澄まされていく
これを成していないのが田舎者である、というような内容だったと記憶している
俺はそのように解釈した。
例えば田舎者は電車ドア前で仁王立ちする、都会でやれば押しのけられて不愉快な目にあう
何度も経験して頭を使えば自然と他人の迷惑にならない所作が身につく
4月になると上京したての田舎者がドア前で仁王立ちしているので突き飛ばしてあげる都会の洗礼
思いやり精神、公共マナーで車内奥に入ると目的駅で降りられない
「そんな奥に居るのが悪い」
他人とのトラブル、軋轢を避けるリスクヘッジだけが研ぎ澄まされる
ルールに雁字搦め
しかし乗り降りする人の邪魔だろうがドア前を確保するのは僕の権利です、禁止する法律は無い。
一方でアレもダメこれもダメ、車内の会話はそれを不愉快と感じる人が一人でもいるだろうからダメ
不合理で面倒くさい進化だなぁw
ご苦労さま
・吹奏楽
・別の団体で、スケールが多くて目立って、曲全体の雰囲気も楽しかったな〜と思った曲をまた演奏したいと思って選曲
↓
(演奏したメンバーの反応、クラリネットでいつも1stを吹くリーダーより)
・練習は自分のペースでやるからいいのであって曲でやるべきではない
↓
(自分の音楽性と違っていただけで、自分が否定されたわけではない)
(当たり前)
・とはいえ、これからしばらくの間不機嫌そうに吹くメンバーを見るのも精神衛生上にも演奏にもよろしくない
↓
(とりあえずの作戦)
・どこかで「つまらんかったですか?」と話を聞いてあげて、寄り添う
・「でも揃うと楽しいんで頑張ってください」と言ってみる→実際揃ってからのほうが楽しい。一番はこれかな
四足歩行のサルが二足歩行をすることによって、サルはヒトへと進化した。
歩行に使っていた前足は腕となり、物を作ったり運んだりするのに使われるようになったことが進化の要因なのは言うまでもないだろう。
しかしながら、代償としてヒトは歩行(走行)速度を失うことになってしまった。
最速の霊長類はパタスモンキーで、時速55kmで走ることができるのだ。
巨体で鈍重なイメージのあるマウンテンゴリラでも時速50kmあるのだ。
一方でヒトはそれに比べると遅く、ウサイン・ボルトでも瞬間最高時速は44.17kmでしかないのだ。
ヒトが走行する際に両腕は単にバランスを取るだけに動かしているのと比べて、他の霊長類は前足で地面を蹴って移動しているから当然と言えよう。
ヒトがすでに四足走行を試みていることは知っている。
以下の動画は四足走行の世界大会の様子であり、ギネス記録にも認定されたとのことである。
https://www.youtube.com/watch?v=epxVWHgtwlo
ヒトの新たな可能性への挑戦に敬意を表するが、私が望む四足走行とは少し違う。
動画の方法では、骨・関節・筋肉の負担が大きく、速度も二足走行に比べたら遅く、頭を下げているので視認性も悪いと、デメリットが多いからだ。
私が望むのは、二足歩行と同様に背筋を伸ばし、両腕を何らかの手段で延長して地面を蹴って(押して?)移動することである。
杖(トレッキングポール)を両手に持って登山を経験した人ならわかるが、杖を地面に押し付けると両足の負担を軽減できる。
これは上りや下りの坂道に限ったことではなく、平坦な道でも杖の恩恵はあるのだ。
杖で両足の負担を軽減させながら歩けることはもちろんだが、両足の負担をそのままにして杖で速く歩くことも可能だ。
一歩地面を蹴り出した直後に杖で地面を押し突けることで、歩幅が大きくなって速く歩けるのだ。
杖を使ったとて、両腕の役割はあくまでも両足の補助でしかないからだ。
アシストスーツや強化外骨格とも呼ばれていて、人間が着用することで筋力を増強するようにアクチュエーターが作動して、重量物運搬など人間の動作を強化することができるのだ。
このパワードスーツと杖を組み合わせることで、四足歩行が実現できるのではないか?
既存の杖やトレッキングポールを杖1.0として、四足歩行が可能となるような腕が延長されたパワードスーツを杖2.0と呼ぶことにする。
この杖2.0を利用しながら両足でも通常通り歩けば、歩行速度は2倍の時速8kmとなるのだ。
走行速度ももちろん2倍になり、50mを8秒台で走れる人ならばウサイン・ボルト超えの速度になるのだ。
ウサイン・ボルトが杖2.0を使えば瞬間最高時速は88kmになるだろう。
いや、さらに上も目指せるだろう。
人間は走行時に背筋(せすじ)をまっすぐに伸ばすだけで、腹筋も背筋(はいきん)も推進に全く使っていないのだ。
陸上動物で最速なのはチーター(時速120km)であり他にも猫科の動物は速く走れるが、猫科の動物がなぜ速く走れるのかと言うと腹筋や背筋を大きく伸び縮みさせることで推進力としているからだ。
杖2.0でも腹筋や背筋を走行時の推進力とするようにして、さらにその筋力をアクチュエーターで強化すれば時速100km越えも可能になるだろう。
高速道路を車やバイクと一緒に、杖2.0を装着した人間が走っているのだ。
烈海王(バキシリーズ)のように水上を走ることだって可能になるはずだ。
それにしても、アクチュエーターによる筋力増強もなくさらに人を一人背負って水上を走る烈海王は、漫画とはいえすごいものだ。
閑話休題。
走行速度の速さを追求することはさておいて、この杖2.0が登場したら自転車以上に便利な移動手段になることは想像に難くないだろう。
あくまでも杖だから電車やバスの中にも持ち込むことができるし、店の中でもオフィスの中でも利用できるのだ。
現在歩行機能が衰えた人は杖1.0か電動カートを使うかの二択だが、そこに新たに杖2.0という選択肢も出てくるのだ。
技術力が向上し大量生産をするようになったら、杖2.0は電動カートより廉価に提供されることだろう。
現在、杖1.0は老人や身体障害者やケガ人が使用する物というイメージが強い。
登山をする人で杖やトレッキングポールを持っている人でも、日常の歩行では使うことはないからだ。
しかし杖2.0が登場することで、杖はカッコいいアイテムへと変化するのだ。
杖2.0が登場するにあたって社会に軋轢が生じることも想像に難くない。
「杖2.0を装着している人は歩くのが速くてぶつかると危ない。よって規制すべきだ」
といった具合にだ。
しかしながら杖2.0は若い人だけでなく、老人たちにとっても役に立つ道具なのだ。
杖2.0の使用に免許を課そうとしても、老人たちが政治団体を通じて反発するだろう。
未来の世界でも老人は多数派を占めているので老人票は強いのだ。
杖2.0に対する世論を受けた国会審議の結果どうなるのだろうか。
おそらくだが、杖2.0に関しては何の規制もなく、代わりに自転車運転が免許制になることだろう。
「杖2.0はあくまでも歩行や走行を補助する物であり、歩行や走行の結果他者に危害を加えたとしてもそれはその人の責任であり、免許で規制をするのに適していない」
「アクチュエーターによる増力は制限があり、速さにもある程度の上限があるので、速度上限の無い自転車よりは安全だ」
「それよりも自転車を免許制にすべきではないか。ヘルメットの装着が義務化されてから何十年も経つのにいまだに着用しない人は大勢いるし、危険な運転も散見されるからだ」
といった具合にだ。
電動キックボードの国会審議の結果、電動キックボードにヘルメット着用は義務とならずに代わりになぜか自転車がやり玉に上げられて、自転車運転時のヘルメット着用が義務化されたことを思い出してほしい。
杖2.0の登場にあたっても、同様に自転車がやり玉に上げられることは想像に難くないはずだ。
こうした杖2.0が登場する未来を近づけるためにはどうすればいいのだろうか。
杖2.0が現在のところ存在しない以上、杖1.0を使って街を歩き杖の優位性を世に知らしめることだろう。
しかし、約30歳かつ健常者の私が両手にトレッキングポールを持って大股で歩くというのも変質者じみている。
歩行速度のわずかな向上と引き換えに、行き交う人の信頼を大きく損なうことになってしまう。
変質者となるだけならいいが、人込みの多い駅やショッピングモールだと杖1.0は邪魔になりそうで、周囲の人にも迷惑をかけることになるからダメだ。。
それに両手で杖を持つと荷物が持てなくなるのもよくない。
杖2.0なら必要に応じて腕を縮めたり折りたたんだりするから邪魔にならないし、荷物を引っかけるフックがあって便利となるはずなのだが。(願望)
杖1.0が使えるのは公園くらいだろうか。
しかしながら、公園で杖1.0を使っても歩行のリハビリにしか見えない。
杖1.0を利用することはさておいて、ひとまずはこの文章を公開して杖2.0の理念を広げることとしよう。
ああ、杖2.0よ。
四足歩行の夢はまだ遠いなあ。
いっそのこと杖を持たずに、上記の動画の様に手袋を付けて街を四足歩行してみようか。
いや、それこそ変質者だ。