はてなキーワード: 走馬灯とは
鰹のタタキよ!
ごめんなさい、
いきなり映画『シックスセンス』で言っちゃいけない映画のネタバレ言っちゃって、
主人公の楽しみにしている今晩のおかずの6品目を内緒にしていて楽しみにしていた、
主人公へお母さんが今日は鰹のタタキよ!って言っちゃうオチみたいでごめんなさい。
いやでも、
ほんと鰹のタタキなのよ。
と言うのもね、
相談してみたの。
そしたら
一応牛乳に尋ねているのだから一旦一回は「夏のオススメは牛乳!」って力いっぱい言わない?
そしてそれに追いかけて「フルーチェやってミルク?」って被せない?
セロリーが分かってないわね!
夏がダメだったりセロリが好きだったりするのね!って山崎まさよしさんか!って
でも、
いろいろ聞き進めていくと、
何食べても夏に効くいい食べ物のチョイスですよ!って言ってくるから、
私はこの時期に絶対食べたら美味しい食材のベーナーとか挙げてみたの
そしたら、
案の定鍋焼きうどんもいい!鶏の水炊鍋もいい!とかキムチチゲもいい!とか全部良い!って言ってくるの。
え?もうこれ夏に関係なく何でも食べたらいいって言ってない?って逆に聞いてみたら、
やっぱり分かっちゃいました?ってもー牛乳AIには困ったものよ。
私はアメリカのシチュエーションホームコメディテレビ番組でよくあるような「やれやれ」のポーズを両手を上に向けて広げてやんの。
夏の暑さに弱って堪えたこの時期のくたびれた腰はくびれている私の披露する場のない身体に効く日本のマーケットで買える1つオススメのものを教えて!
日本の!って言わないと海外の日本では買えないビーツとかそういう食材とか平気で言ってくるので、
真っ赤な美味しいスープが自慢のボルシチか!ってツッコミたいところ。
そしてだからここは三択の女王の異名で知られる竹下景子さんもビックリするほどの一択で絞り込みまくりまくりすてぃー!
そして、
弾き出された答えが「鰹のタタキ」だったってわけ!
超的を得まくりまくりまくりすてぃーな回答じゃない?って私は観念して感心したの。
なるほどねー。
鰹のタタキは盲点だったというか灯台下暗しというか風前の灯というか走馬灯というか、
夏のお盆のナスやキュウリに棒を刺して動物に見立てる「うま」とか「うし」とか作るじゃない、
それぐらい創造性がクリエイティブに想像力が全て失われたぐらいなかったぐらい、
井上陽水さんの夏はすぎ風あざみ的なまさに少年時代を地で行くような
そして今までの、
積み上げていたものをぶっ壊して!って
全く全力でその発想がなくて鰹のタタキのことなんてすっかり忘れていたもの。
なので
先日は鰹のタタキを夏の弱った身体に滋味滋養のために早速マーケットに飛び込み前転で入店して買って取り入れてみたの。
夏に効くわ!
夏祭りに行く時、
母が必ず祭りはっぴを着た私の鼻筋に指で白く描く鼻白粉をしてくれるぐらい、
やっぱり絞り込んで
「夏のおすすめ食材でズバリ1つオススメするなら?」って追い込んで聞かないとってことみたいね。
その的を得た鰹のタタキって回答に舌鼓をポンポンポーンと打ちながら、
それぐらい言葉の意味はよく分からないけれどとにかく凄いAIの自信に
今日も鰹のタタキにしようかなーって思うのよね。
にしてもさー
「鰹のタタキ」って回答に痺れてしまったわ。
かといって大外れでもないし微妙に良いストライクゾーン攻めてくんじゃない!って内角低めの。
私バッターボックスに立っていたら球種「鰹のタタキ」で三球三振でサンキュー!って感じだわ。
そのぐらい感心してしまったわ。
そう思っていた矢先の3本の矢を束ねて折れませんよ!って言う伝統の矢を作る職人の名人毛利元就さんみたいに思っていたから
何度も言うけどこの「鰹のタタキ」って回答は令和のAI名回答100選に選んでも良いぐらいよ。
そんでさー
その矢を作る名人の毛利元就さんの弟子のさ名前が「たくみ」って言って
「匠の技」なのか「たくみの技」なのかちょっと文脈の理解に苦しむところよね。
でもあのシーンは映画『シックスセンス』の中では超有名な名シーンだからみんなにも観て欲しいわ。
ごめんなさい。
あるある早く言いたい、
最近はあるある早く言いたいレーザーラモンRGさんの核心をついたあるあるを聞くよりも、
歌を歌い込んでいるレーザーラモンRGさんの気持ちよく歌っている様が好きよ。
だから夏に効くのはあるあるのレーザーラモンRGさんのあるあるに限るなーって。
そういうことなのよね。
今後も夏に何が効くかって、
うふふ。
遅いブランチでもキメようかしら?ってことでまだなのよね。
これから考えて
ゆっくり何かをいただくことにするわ。
今日は追いピンクグレープフルーツ果汁マジ搾り加えーの
炭酸レモンピンクグレープフルーツウォーラーよ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
この猛暑の中って私最近増田で猛暑の話しかしていない50年に1度ぐらいにしか話題にしない猛暑だけど
やっぱり
それよか!
ちゃんとしっかり寝るに限りまくりまくりすてぃー山脈に向かってヤッホー!って叫んじゃうのよ。
寝不足だと
フランダースの犬級にふらふらになるわ。
翌日に地獄が待ち受けているわよ。
ここ最近マジで2日ぐらいしっかり意識して意識することによる意識のための睡眠をとったら
なんか暑くても、
しっかり寝ることの大切さを
実感する感じがした実りのある睡眠よ。
夜もさー
バテ気味なのかよく分からないけど
晩ご飯食べてもなんかもたれてる感じが否めない稲村ジェーンを観ながらそう思ったんだけど、
睡眠に全振りしたら
良い睡眠が取れるんじゃないのかしら?
且つ且つよ!
お酒も今大好きなハイボールにお中元でもらったルービーのケースをなんとかして消化しなくてはいけないところも、
これまた睡眠に全振りしたら
結論の結果の持論を述べているのよ。
ジロンは自論なのか持論なのかどちらでもこの際いいけれど、
とにかく凄い自信なのよね。
なので、
食べ物の消化や体内のアルコールの分解にリソースを割くのではなく
ドコドコドコドコ!ジャーン!って
ドラムロールが鳴って結果発表のアタック音とならしつつ期待させる方法で私は盛り上げて言いたいところよ。
なので、
真面目に寝ることを取り組んだら
暑さにも負けないそれなんて宮沢賢治さん?
ってそれは雨にも負けず風にも負けず、
喧嘩があれば止めに入るでお馴染みのあの宮沢賢治さんばりのレヴェルとまではいかないものの
暑さにも負けないそんな心意気を思ったのよね。
だから
今日も夜は軽い目にして
灯台もと暗しというか風前の灯火というか走馬灯のようにというか、
うふふ。
納豆巻きね
納豆のネバネバパワーを求めているのかしら?
ネバネバの歌を歌う織田裕二さんに1度訊いてみたいわ。
しっかし暑いわー!
ネバネバパワーで乗り切るわ。
薄味の方が身体にすーっと染みる様な気がするわ。
暑さのあまり
まあ水分補給もしっかりと。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
たくさん読んでくれて嬉しい。元は友人とのTwitterDMが下書きになっていて雑な文章だから申し訳ない。なので以下、こちらの意図が伝わってないコメントに返す。
・この物語の各パーツ・キャラを現状のジブリのメタファとする解釈はこの児童文学作品を矮小化していると思う。あまり好きではない
→全く同意見で、書いた通り普段はテクスト的に解釈するのが好きです。矮小化されてしまってるのもそうなので、これだけが「正解」だとは微塵も思ってないし書いた通り自信はない。今回は宮崎駿の最後の作品、って思いが自分に強すぎて作家周辺の解釈がまず出たのだと自己分析している。作品そのものの解釈は海燕さん他書いているのがよかった。
→お前みたいなやつがいちばんダメ。観ろ。観ずになるほどすんな。
・一般向けではないというけど、次世代へのバトンや家族の話って極めて普遍的で、ジブリや宮崎駿のことを知らなくとも皆それぞれ自分の物語を重ね合わせて見ることができる作品だと思うよ
→この辺りは宮崎駿は自己言及と普遍的テーマを重ねて両輪でやっている気はする。
・あの作品の登場人物を実在のジブリ周りの人物に置き換える読み方はわかるけど非常に下品だと思っているので、する人を否定はしないけど、それが正解だと言って押しつけたりする風潮にならなきゃいいなと思っている。
→おおむね同意見で、自分もホッテントリに上がったことが押し付け風潮の一助になるのは避けたい。作家論は作家論でしかないし、それは基本的に狭い解釈になってしまうから、「正解」ではない。ただ言葉遣いとして、この人が作家論を「下品」としているのは、なんというか令和だなぁと思った。
前半はまぁ、とりあえず置いておいた撒き餌みたいな稚拙な解釈なので、「正解」ではありません。(一貫性の形成願望をとりあえず満たしておくために書いた、と思って欲しい)
むしろ、この作品は唯一解を求めたがることも含めた後知恵的な意味よりも、もっとプリミティブな意味を伝えようとする作品だと思います。だから自分の感想の本質は後半です。そこのところ言葉足らずだったみたい。
追記ここまで
初日に見に行って、いろいろ考えつつ見たが、たぶんほとんどの人が「意味わからん(けどジブリっぽくて面白い!)」ってなるやつだと思ったので、自分なりの考えを書いてみる。ちなみに全然自信はない(その理由は最後に書く)
見た人の多くは、ラストにかけてのメインストーリーラインがよくわかんねえとなると思うけど、同時に物語にいくつもの象徴や比喩が込められていることも、なんとなく察すると思う。
個人的な結論を先に書く。(自分は普段はテクスト論的に物語を読むのが好きなのだが、作家論としてこの作品が見えた。)
まず、内容で感じたのはセルフオマージュの多さ。「紅の豚」の死出の飛行機葬列が海の船になったり、ハウルの泥の人形が殺生できない住人になったり。老人の描き方はジブリの各種キャラを思わせたり。
オマージュ元には特にトトロが印象に残るように思って、抜け道や森から出た暗がりの風とか、ワラワラとか、宮崎駿はトトロ気に入ってたんやなと思わせた。まあワラワラは鈴木敏夫の入れ知恵な気もするし、観客へのサービスって感じかな。
そしてここから感じたのは、宮崎駿の人生が細かく千切られ散りばめられてるということ。
ていうことで、物語の根幹と宮崎駿の人生に準えてラストで明かされる物語の根幹をよんでみる。やっぱりラストについては大事だよな。
結論から書けば、空から降ってきた大岩は宮崎駿の才能、ギフト。宮崎駿は大叔父でありあの世界は宮崎駿によって作られた作品の集合でジブリそのもの。その血を引く主人公は宮崎吾朗や孫だと思われる。ただし、内面は宮崎駿が投影されていて二重のモデルがいる主人公になっている。駿はジブリを継いで欲しかったが、吾郎は拒否した。ジブリは駿の引退宣言とともに崩壊して、皆それぞれの暮らしにもどった。端的に言えば、それら経緯への駿の内面の告白、なんだと思う。つまり、スタジオジブリ(と駿)のために作られた物語なんだと思っている。
昔。降って湧いた才能に取り込まれた駿は、作品の世界から出なくなった(家庭を顧みなかったりしたんだろう)。そして世界の創造に励み、海や森の美しいファンタジー世界と、ユーモラスで残酷な鳥に代表される多くの愛すべきキャラクターを生み出した。
時々挟まれた、大岩が怒ってるとか。あれは才能から来る作品へのこだわり、そこから発される憤怒なんだろうな。時々駿キレてたし。
ただ、老いてきた。積み木を重ねられなくなった。積み木を安定させることも苦労するようになった。だからこの世界・ジブリの後継者を探して、館に主人公ら血族を引き寄せ始めた。(この辺りの傍迷惑さについての自覚が、人生を総括し始めた老境の駿らしい感じがする)
関係ないけど、インコの王は唯一宮崎駿に謁見できて最後に世界ぶっ壊したし、たぶん鈴木敏夫なんだろうなと思う笑
そして物語のラストで吾郎はジブリを継ぐのを拒否し、焦ってしゃしゃり出た鈴木敏夫がぶっ壊してジブリは崩壊した。でもそれを受け入れて?(この表現は適切じゃないかも。ただ眺めて?)老兵は去る、ってことを、ラストで宮崎駿は表したかったのだと思う。
総じて、人生全体を眺めて、ある程度中立的に感情も整理しながら、比喩的な物語と人物に落とし込んだ。そして達人のアニメーションで、それが分からなくとも万人が楽しめる2時間にした。
主人公が、みずから頭を傷つけて、それを最後の最後に告白し、汚れているから自分は継げないとジブリ世襲を拒否するシーン。
あれはなんかほんとに個人的な事件が、駿や吾郎にあるんかなて感じもするけど。いずれにせよ、今まで子どもをイノセントに描いた宮崎駿が、この主人公にはドロドロしたものを罪悪感と共に植え付けているのは、自身や自分の子どもみたいな、客観的に見られないし理想化もできない存在としてマヒトを描いているんだと思う。そしてそれが「真の人」って名前なのが、正直な曝け出しなのかなって感じさせる。
でもここは、ちょっと未整理。
まあたぶんに一義的な狭苦しい解釈なんやけど、とりあえずここまでは言語化できた。
ただ、ここまでこうして書いた考察について、正直自信がないというか、こうして作品が言語化されることを拒否している作品である、ということことを、作品を見ている最中からずっと感じてきていた。
子供のころからジブリ作品を見て、宮崎駿のひねくれた人物像も知ってるから、この作品は明らかに異質だとわかる。観客へのサービス(配慮)が欠けている。
はっきり言って、一般向けではない。大衆、子供に映画を作ってきた宮崎駿やジブリは、今までこんな映画を作ったことがない。上記のような一応に意味の通る解釈を自力でできる人間はとりあえずいいが、そういうことをしない人が圧倒的多数で、それが大衆なのだ。だから、今回のような、作品の展開の速さや密度、抽象度の高い映画は、一般向けとは言えない。自分が見た初日夕方の回は平日なのにほぼ満員で、しかし上映終了後のほぼ全員がタヌキに化かされたような顔をみんなしていたぞ。(正直自分もそんな気持ちだったので笑えた)
しかし、ここでそれを鑑みても面白いのが、この作品の「面白さ」は皆が感じているらしいということだ。
そして、これと同時に、自分のような批評する目線で映画を見る者は、それはそれで大衆客と別な側面で拒まれている気がした。何か見る者の賢しい批評を拒んでいるように感じた。
以下に、その理由を書く。自分の感想としての本質はむしろこっちだ。言語化しづらいのだが、見た人にはなんとか伝わるように書くと
となる。
例えば、食事のほおばり方。たとえば、黙ってうつむく表情。たとえば、真人がうそをつくときの顔。みんな圧倒的に生き物らしい。生命力を感じる。みんないびつで、あいくるしい。(カワンゴがお説教されたアレとは本当に真逆な、きわめて何か、生命に対する賛美を感じます)
これらすべてが、芝居をしている。客に直接的な理解を与える。この人物の感情や、物語における人物の立ち位置(正しい方向かどうか)など。あらゆる情報を、言語での理解を超越して、身体的・ダイレクトに観客へ伝わる。
作劇のうまさや間の取り方、ちょっとした身のこなしや振る舞いの描き方。それらすべてがアニメーションなのに自然で、本当にほれぼれする。達人のアニメーションは今でも健在だし、それはスタジオポロックみたいなのにもマネできてない駿の達人技だと思う。
で、それらの生理的な表現が今作で上げる最大の効果は「生理的な感覚として、見る者に言語の範囲外で意味を伝える」ことだと思う。
(自分は新海誠の映画が昔から好きなのだが、新海誠が「星を追う子ども」でやりたがって、でも全然できなかったようなことを、中盤くらいまでで軽々と全部やり尽くして、更に塗り替えていったような印象が途中した。)
はっきり言って、中盤以降は物語のテンポが速すぎて情報量も多すぎて、物語が何を表現しているのかまったくわからないし考える余裕もなく、何もかもを押し付けられていくだけのように感じるのだが、いち観客として言えば、作劇がうますぎてずっと楽しくて画面にずっと惹き寄せられたままで、一ミリの退屈もなく最後まで面白かった。作品が何を言いたいのか理解できねぇのにコレなのまじ意味わかんねぇ。ユーモアと人物の芝居とテンポと心地よさとその他あらゆる作劇でずっと作品世界へ惹き寄せ続けるの、冷静に考えてすごすぎる。
理解として言えば、言語の範囲外で生理的に伝わってこようとする情報が、最速で理解できる。だから理性で作品に好悪を判断つけたくても、生理的な理解が先に面白さを伝えていて、判断を保留し、物語が表す「意味」が分からない気持ち悪さをいったんわきに置く(打ち消す、わけではないのもポイント)
たまたま映画見る前に考えてたのが、美輪明宏のモロの演技や紅白のヨイトマケの唄なんだけど、あれもなんか、生理的に分からされる凄みがあるよな。あれと同質の、生理に訴えかけてくる理解が、この作品の全体にあった。
だから意味深がセリフが物語上の「意味」として理解できなくても、なんとなくわかっちゃうわけ。ああ、「そういうふうに」感じてるんだなぁ、って。
自分が書いたものも含め、なんか色々考察とか出てくると思うんだけど、この作品に関して自分はもうそんなのに大した意味を感じていない。いや言葉で説明することは俺も試みたと思うんだけど、そういった理解や「意味」は後からやってくるものであって、それより先にあるこの一次的な身体的感触の強さが、現在進行する映画鑑賞の今、圧倒的な作品だった。肌感覚で腹の底から湧き上がる力強さは、言語的理解を拒否して圧倒する。そんなプリミティブさ。
プリミティブな、といえばものすごく情報量が少ないように感じられるかもしれないけれど、ただそこで言う「情報量」ってつまりキロバイト的な情報の多寡でしかなくて、生理的な質感や圧倒的な情報の圧が含まれてない。この作品はそういった生理的な質感や圧、すごみをもってして最後まで観客をエンターテインする作品だった。面白さが言語の範囲外で生理的に伝わってこようとするんだよな。
「語り得ないことに関しては、沈黙せねばならない」という言葉があるけれど、宮崎駿は言語で語りえないことを語れる。対して、自分たち観客は語れないが、しかし生理的に理解している。
自分が最初の考察に意味を感じない、といったのは、考察の当たり外れよりも「こんな小賢しい考察なんぞしてんじゃねー」的なギルティ感覚がするからだ。賢しらぶってることが怒られそう。それこそ、宮崎駿に叱られるカワンゴみたいな、「意味」や思考の中だけに生きて現実に生きる生命を見ようとしていないと叱られている気が(これは完全に自分の勝手な感覚なのだが)する。強いて言えばそれが、本作のタイトルのごとく自分に突き付けられたお説教だったかもしれない。
一般には訳が分からなくてもいいし、読み解く材料も与えないし、理解されなくても面白くしなんか感覚的には伝わるでしょ?みたいな感じが、ただ壁を感じるし、見る人は選ぶと思う。ジブリ作品に壁を作ったことって今まであんまりないと思うんだけど、たぶん風立ちぬで少しやって、「あ、好きにやってもいいんだ」みたいなのを、それこそ庵野秀明とエヴァから知ったんじゃねーかwみたいな気もしていて、そして老境にさしかかりジブリの崩壊を見ながら、いろいろなことを感じ考えながら職人芸ですべて盛り込んだのが今回の作品なんだと思った。だから、一部の人の批評や感想、特に老人の走馬灯とかボケたとかみたいなのには全く賛成できない。
あの映画はストーリーが破綻しまくってるので逆に心に引っ掛かりを残して、見た後に誰もかれも監督である宮崎駿を読み解こうとする。
鬼滅の刃を見て、原作者がどうのとか監督がどうのなんて話は誰もしない。
新海誠の君縄以降は売れ線志向でも監督を深読みされることもあるが、素直にエンタメとして楽しむことが本道であるように思う。
翻って君生きは、エンタメとしては煮え切らない不発弾に過ぎず、宮崎駿を知らない人間にはまったくとるにたらない駄作に映ることだろう。
いいや宮崎駿はそれほどの人間なのだから自分の表現の終着点としてああいう作品はあってしかるべきだ、というのも分かる。
あとは見たものにゆだねるから、勝手にいろいろ読み取って自分だけに映画にしなさい、という意図もあるかもしれない。
であるならば、岡田斗司夫を蛇蝎のごとく嫌ってSNSでカラーと結託してディスったのは蛇足だったなと思う。
岡田斗司夫的な物語の読み解きがこれほど必要になる映画もないからだ。
誰もかれも深読みしてSNSに私はこう読み解いた、あれはこういうことだと思うという「答え」が並ぶ。
皆答えを探しているので、有名無名に関わらずそうしたSNSの感想へのview数も増えていく。
いや案外目論見どおりなのかもしれない。
これはSNSバズを狙ったプロモーションであり、巧妙な岡田斗司夫潰しなのかも。
だってもうこの後に岡田斗司夫が何を言おうが、たぶん自分の中の答えがある人には自分のほうが正解になるから。
いずれにしても商業映画としてはどこかいびつで健全でないと思う。
そしてアオサギは鈴木敏夫の投影であるのはほぼ間違いないと思うが、鈴木敏夫のくちばしの穴に挿さった栓を握ってるカンヤダには、ぜひその栓を一思いに引き抜いてもらいたいものだ。
この話は難解という感想をよく見るが、その実は全く逆で、宮崎駿が監督作品として一貫して伝えたかった事を、教養のない愚かな大衆の為に限りなく簡潔で単純なストーリーに落とし込んだ結果、宮崎駿自身も「訳が分からなくなった」作品である。
この作品は宮崎駿の自叙伝であることは既によく知られているが、彼の内面やバックグラウンド、そしてこれまでの作品で彼が伝えたかったテーマの一貫性を保っている。
彼はそもそもこれまでの作品にも自分と周囲の環境とを幾度となく投影してきた。ただし、それは一部のマニアにしかわからないものであった。今回は、そのベースに加えて現実の宮崎駿自身の回想を複雑に絡ませて投影されているだけでなく、そのものずばりで作品のオマージュという形で追想しているのだ。
そしてここからが重要な点だが、当然それは単なる追想ではなく彼が監督作品で一貫して伝えたかった「生きるとはどういうことか」というテーマに対して「自分はこうしたがダメだった」のだというメッセージになっている。
戦闘機の風防を量産する軍需工場の経営をしていた父のもとで軍国少年として育ち、裕福ながらも厳しい家庭で母の愛を十分に受けることができなかった宮崎は、敗戦後左翼に傾倒して東映アニメーションで高畑功と出会い、強い影響を受けて監督作品にそれを秘めるメッセージをこめてきた。
これまでの監督作品で散りばめられていたオマージュや背景設定には、子ども向けの作品でありながら大人には「鑑賞者の教養」をもってして強烈な現代資本主義と衆愚政治に対するアンチテーゼが展開されてそれこそが深みとして楽しめるものになっていたのだ。
だがそれは一部のマニアだけが知るものとなり、実際に「大人」である大衆が想定以上に教養がなかったがためにジブリ作品のストーリーやアニメーションとしてのレベルの高さといった表面的なものばかりが「良い」とされ、宮崎駿や高畑功が伝えたかった事は伝わらなかったのである。
それでも宮崎駿は諦めず、本作のアオサギたる鈴木敏夫にそそのかされて愚かな大衆と私腹を肥やす連中のために作品を作り続けた。いつか伝わるだろうと鑑賞者を信じて。
いや、もう飛べないのに何度も何度も鈴木敏夫に首根っこをつかまれて。
そうして作った過去の作品たちだが、まるで伝わらなかった。そして彼は遂に「諦めた」のである。「諦観」にも近いだろう。戦後の日本人が当然に持っていた強く気高い教養は、戦後75年高まるどころか全く失われてしまった。
まさに劇中のインコのように、脳みそが小さく何も考えることができない、ただぴーちくぱーちくインターネットで喚き、特異なものを攻撃する。コンテンツをひたすら消費する愚かな大衆に対する、宮崎最後の強烈にシニカルな表現である。
そして現代日本人を代表するように庵野のような表現と個人主義的な自己実現による自己救済、新海のような風刺のない純潔な大衆作品、そして特に何もない残せていない息子が残った。中盤から終盤にかけて、継母のタッチが明らかにジブリのキャラではなく、庵野や新海といった顔の印象を残しているのは、「俺はこう生きた、お前らもあとは好きにやれ」という餞であろう。
こうした自身の溜まりにたまり、ある種の呪いに近しい諦観を、いよいよ吐き出し昇華せんと最後の力を振り絞って、教養が無くてもそれとわかるように単純かつオマージュもジブリ作品にし、走馬灯のように仕立てた。大叔父は死期を間近に控えた自分自身であり、13個の積み木と世界はスタジオジブリそのものである。自分自身が、自分自身に対してケジメをつけた作品なのだ。
「作家は経験したことしか書けない」は宮崎駿とて例外ではない。自己を総括するように、母性に対する渇望と周囲の女性達との思い出が上手く母・継母・見守るおばあちゃんたちといった具合に添えられている。
だが、この作品は紛れもなく宮崎駿の自伝かつ遺書であり、「君たちはどう生きるか」はこれまで一切メッセージが伝わっていなかった人間達に対する、まっすぐな問いかけである。
追記:
残念なことに、この作品を観て本当の意味で「あぁこれはねぇ~」と嬉々としてはしゃいで満足するのは岡田斗司夫ぐらいで、上記のような内容を今にYoutubeでレビューをするだろう。
もう遅いんやで。同僚に今朝も「あ、またそれ持ってきたんですねw 」とか言われて、昨日の妙に高いテンションにおける所業が走馬灯のように
死に際に脳裏に浮かぶ情景のことを「走馬灯」と呼んでいる例を目にすることが増えた。
本来は、死に際にこれまでの人生の様々な場面が浮かんでは消える様を走馬灯に例えて表現したもので、「これまでの人生が走馬灯のように脳裏を去来した」のように言っていたものだ。
そこで見える情景は、子供の頃のことかもしれないし、大人になってからのことかもしれないし、自分の大切な人を見るかもしれないし、いやなやつを思い出すかもしれない。
そういったものが次から次へと頭の中を駆け巡る様を、走馬灯が映し出す影絵がくるくると動き回る様子に例えたわけだ。
「死に際に走馬灯が見えた」というやつには「お前は本当に走馬灯を見たのか、見えたのか、そもそも走馬灯の現物を見たことあるのか」と問い詰めたい。
メロンパンにはメロンが入ってない!へいへいへい!って歌あるじゃない。
焼きそばパンに焼きそばが入ってなかったら!ってだと普通にクレームの歌になっちゃうわよね。
そんでね、
私先日隣の会社の人に
まあ例のオーリョーの件で色々調べているやつの例の私が以前いた会社のたまーにお手伝いとか仕事してるんだけど、
その会社の人に
牛筋カレー3日間煮込んだ美味しく出来たやつがあるから!ってお裾分けいただいたの。
でもね、
表題の通り
具が入ってなくて牛筋がいなくて牛筋大好きなので楽しみにしていたのに、
なんかルーしかプラスチックのお裾分け容器には入っていなくて、
なんか他のカレーの具のメンバーも例えばジャガイモやニンジンのそう言う類いのものも入ってなくて、
なんかルーだけで、
でもこれプラスチックのお裾分け容器にお玉でよそうとき具が入ってない?って気が付かないものかしらね?って
もらっておきながらクレームを言ういや違うの
牛すじカレーに牛筋が入ってない!ヘイヘイヘイ!って歌いたい気持ちを抑えて翌日にはその3日間煮込んで美味しく仕上がったであろう牛筋をまるで賞味したかのように牛筋美味しかったです山脈に向かってヤッホー!って叫んだのよ!
たとえ牛筋がプラスチックのお裾分け容器に入っていなくとも牛筋あったかのように賞味した体裁で美味しかったわよ!って言えるレヴェルなので、
あーでもほんと牛筋カレー楽しみにしていただけに大好きだっただけに
主役の牛筋がいなかったこと、
それに加えて他の例えばジャガイモとかのメンバーも一切いなくてルーだけだったことも黙っておくことにしたわ。
よくあるじゃない、
スイーツとかでもこれどうやって食べたら良いのが正解なの?って
これもきっと偏差値の高い牛すじカレーだったのかも知れなくて、
ゴロッとした牛筋の存在を確かめて噛みしめて賞味するタイプの牛すじカレーじゃなくて、
牛筋が充分3日間煮込まれ溶けた偏差値の高い牛筋カレーだったのかも知れないわ。
メロンパンの歌を歌う女の子より可愛く歌う自信が今ならマックスでその子より16倍高い気持ちで歌い上げることができるわ!
本当にあれってなんだったのかしら?って
首をかしげそうな、
トンチの効いた一休さんでも頭を悩ませそうな牛筋カレーだったわ。
あと
もらっておいて文句言うのは悪いけど、
塩辛いのよね!
どんだけ塩味効いてるの?途中で味きいてみた?って言いたいところで、
夜中喉が乾いちゃって水を一気に飲み干すぐらい喉が乾きまくりまくりすてぃーだったわ。
本当にいただいておいて申し訳ないんだけど、
そう!思い出したけど
目を瞑って必死に牛筋の3日間煮込んだであろうそれだったら牛筋エキスがたんまりと出ているかと思って舌にフォーカスして集中して感じようとしたけど
私の牛筋ステータスのレヴェルでは牛筋を一切感じられなかったわ。
ファイナルファンタジーのファイヴで牛筋を感じるアビリティを覚えたら真っ先に装備したいアビリティーで牛筋を感じたいところよ。
舌でも感じることの出来ない、
私の牛筋の鍛錬の修行が足りてないのよね?きっと。
おかげでこれ私が作った方が
ゴロッとしたほおばるような牛筋カレーを作ることができる自身に満ちあふれているわ。
多分私が作った方が美味しくできるって。
言ってることがよく分からないと思うけどとにかく凄い自信なの!
だから
メロンパンにメロンが入ってない歌の二匹目のドジョウになるけど
牛筋カレーに牛筋入ってない歌を歌って作るアイデアはあげるわ!
なんど思い返しても
ステルス牛すじカレーで大変偏差値の高い牛すじカレーを賞味したことには変わりないかもしれない。
そんで牛筋の口になってしまったから私が求めていた想像の牛筋カレーを満たすことが出来ていないから、
そのお裾分けの牛すじカレー一杯だけに!って別に上手いこと整って掛けてもいないけどダブルミーニングでもないからね!
でも美味しい牛筋カレー食べたいな!って思ったわ。
夕日の画面と重ね合ってそのベテラン刑事を偲ぶ走馬灯的なシーンって出てくるじゃない、
話題になった「元カレが好きだったバターチキンカレー」って当てつけでそれを再現してお店で出したら大繁盛したって話あるじゃない、
あれの
「牛筋カレーなのに牛筋が一切入っていない牛すじカレーと見せかけてたっぷり牛筋が入っている私が大好きな牛すじカレー」ってメニュー作ってだしたら売れるかもね!
なんつってー
でもほんとおかげでここ何日か真っ当な牛筋カレーを食べたいと牛筋カレーの口になっちゃってしまってるわ。
もー!ってね。
うふふ。
ここのミックスのサンドイッチには野菜パートにトウモロコシは入っていてプチプチとした食感に甘いコーンのスイーツな感じが美味しいわ。
朝方ほどよい常温になっていて
美味しく仕上がったわ!
茶葉多めにしたので濃いめ美味い味ね!
今はうまうまよ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
女性声優が街で男の人に助けられてから結婚まで行ってたケースを見て、街の女性を積極的に助けようとするチー牛が息巻いているが、俺個人の経験から言うとチー牛が女性を助けてはいけない。
なおこれはもちろんn=1のケースであるため、お前の場合だけだろう、俺は人を助けるって気概があるやつを止めはしない。
数年前の話になるが、俺は夜の街で酔って倒れてる女性を見かけて、そのまま路上で寝てると危なそうだから声をかけて介抱したわけ。介抱つっても触ったりはしてない。横から大丈夫ですか〜って声かけただけ。
意識なさそうなら救急車だし、ある程度意識あるならタクシー呼んで乗せればあとはいいだろって思ってたわけ。幸い意識自体はあって生返事を返すくらいだった。
そしたら警官が寄ってきたんだよな。驚いたんだけど、どうやら俺が声をかけてる様を見て、誰かが警官呼んできたらしい。俺に対してめちゃくちゃ横柄に当たり強く尋問してきた。
面識がないって言っても、助けようとしてるだけって言ってもあんま信じてもらえなかったんだけど、争ってるうちに女性の意識もそれなりにはっきりしてきて、何もされてないです、面識もないですって証言してくれたから、ギリギリ謂れない逮捕を逃れることができた。
正直助けたことよりもめっちゃ心臓バクバクして、どうなることかとビビりまくってた。女性がたまたまいい人だったからよかったけど、触られたかも……みたいなこと言い出されたらどうしようかって思ってた。マジで死ぬ前の走馬灯みたいに、これからどうすればいいんだろうって会社のこととか人生のこととかウワーって頭の中駆け巡るわけ。
それから俺は女性を助けるのはやめるようになった。少なくとも、俺みたいなチー牛が女性を介抱するのは罪になりうるんだって学んだ。チキンすぎるって言われるかもしれんけど、こればっかりは疑われた人間しか分からんと思う。
親父の正体がプログラムだと子供の頭で理解した時本当に驚きだった
俺の親父は0と1で作られていると知ったとき、オリジナルの学習型AI素体を見せられて10歳の誕生日を待っていたと明かされた時、俺の親父は何者でもなかったのかと本当に痺れた
親父は亡くなる3日前に「パソコン持って来い」と俺に言った
親父はちょっとコードを変えてコンパイルしてちょっとコード変えてはデコンパイルしていた
親父はバイナリエディタでその中身を眺めては再びコードに変えられてデコンパイルしていた
親父が寝て起きて目覚めると10歳の頃に出会った学習型AIの素体に戻っていた
お袋は親父のその姿をずっと横で見ていた
お袋は「でもその中身は確かに私達だけのパパだったと言いたかったんだよ」と教えてくれた
親父は最後の最後にコードの羅列の中に刻まれ続けた初期プログラムとの差異を自分の走馬灯に選んだのだ
ありがとう親父
親父が残した初期状態のオリジナルAI素体を施設に送り届けて「この人はもう僕の父ではないけど、この人は確かに僕の父でした」と伝えてこようと思う。
ふと、こんな給料良いわけでもなく社会的地位も低い仕事やだなあと思い
ちょうどコロナが始まったくらいだったからめちゃくちゃタイミングが良かった
最初はそれはもうほぼ毎日泣いたし自分が無力すぎるのに周りの人は優しすぎるのが情けなくてさらに泣いたけど
慣れたらめちゃくちゃ楽しくなったし契約社員から正社員になれてエステティシャン時代から給料は倍近くなったし在宅勤務楽だしで最高だ…と思ってた
しばらくすると、自分がエステティシャンやってたこともなんだか恥ずかしくて経歴を隠すようになってた
オンライン会議とかで人の顔見てすぐ、(この人顔のここの筋肉凝ってるなー…)と思う自分も嫌だった
そんな感じだったんだけど、コロナがおさまり始めたから出社したとき
大好きな先輩が「なんか自分のマスクの下の顔、自分の記憶と違うんだよね…ショック…」と言った
そのとき、自分でも信じられなかったんだけど自分の口が「もし先輩が嫌じゃなかったらなんですけど、フェイシャルマッサージやりませんか?」って言い出した
本当にびっくりした
結局家に来てもらってやらせてもらったんだけど
先輩のお顔をマッサージさせてもらってたら走馬灯(?)のようにエステティシャン時代の思い出が蘇ってきた
初来店時に「友達の中で自分が一番ブスなんです」と言っていたお客さまが「◯◯さんに出会えてエステしてもらって、自分の顔が好きになりました」と言ってくれたこと
ブライダルエステを担当させてもらったお客さまの結婚式に呼んでもらって本当に綺麗な姿をこの目で見れたこと
母の日にお客さまのお母さまのエステを担当させてもらって、エステ後迎えに来たお客さまがお母さんかわいい!ってキャッキャしてたこと
しんどいことも色々あったはずなのに、幸せな思い出がぶわーっと頭を駆け巡ってた
先輩もめちゃくちゃ喜んでくれてずっと鏡見ちゃうって言ってくれて
あー、このためにエステティシャン6年もやってたんだなあって思い出した
そんなこんなで結局またエステティシャンやってるけどすごい幸せ
エンジニアの方が給料も高いし将来性もあるだろうけど、本当にやりたいことを見つけられたから良かった
だから何って話なんだけど、なんとなく書きたくなった
(追記)
こんなに読んでもらえると思わなかった🙇🏻ありがとうございます
ついでにちょっとお願いさせてください。
🌷顔(特に目周り)と肩をあたためて🙇🏻🌷
肩はもちろん、顔にも筋肉がある。
顔ってこるの?こり具合が分かるの?とびっくりする人が多いけど、エステティシャンからしたら「この方は歯軋りしてるなー」「右で食べ物噛んでるなー」「営業職なのかなー」くらいは分かることが多い。
眼輪筋って言うんだけど、まぶたの開閉等に使う筋肉だからほとんどの人は毎日酷使してる。
辛さの改善はもちろん、筋肉は凝ると膨張する→その部分が大きくなるので
凝りやむくみがマシになるだけで顔がしゅっとする。目がぱっちりする。
冷えやすいお腹や二の腕ぽよぽよは、脂肪だけではなく脂肪と見せかけたむくみであることも多い。
エステに来て身体の変化にびっくりする人がいるのは頑固すぎるむくみが原因のひとつ。女性は冷えやすいから特に。
あと顔のむくみの原因は肩こり(による血行不良)であることも多いから
肩をあたためたり近所のマッサージ屋さんにかけこんだりストレッチや筋トレを試してみてほしい。
身体だけのメニューやって、顔触ってないのになんで顔小さくなってるんですか!?ってびっくりするお客さまも多い。
【どうやってあたためるの?】
『水で濡らして絞ってチンしたタオルをのせる』or『専用のホットパックを使う』
電子レンジでホットタオルを作って(やけど注意!)簡単スチームエステをするもよし、あずきのチカラ等の専用ホットパックを使ってじんわりしっかりあたためるもよし。
ステマじゃないけどあずきのチカラのフルフェイスと首肩用、おすすめです。目元用もいいけど。
https://www.kobayashi.co.jp/brand/azuchika/
公式サイトがなかったから載せないけど、腰や背中がしんどい人はもっとでっかいホットパックがあるのでぜひ。レンジでチンするやつ。
あと余裕があれば耳回しもやってほしい。自分が気持ちいいと感じる程度で。
https://zutool.jp/column/prevention/ear_massage
お風呂しっかり浸かるとか運動・ストレッチ・筋トレするとかできればそりゃ良いけど実際難しいですよね。
あっためるだけで違うのでぜひ🙇🏻
そして、身体のしんどさの一番の原因は精神面のしんどさであることも多い。
スピリチュアル的なことではなく、身体と心は明確に繋がってる。身体が緊張すれば心が緊張し、心が緊張すれば身体が緊張する。
色々なことがある世の中ですが、みなさまそれぞれが思う良き時間・良き人生を送れますように。休める時は休んでください🙇🏻
ではでは🙇🏻🙇🏻
昨日彼氏と会っていて、きっともうこの先会うことはないんだろうなと思って、いや本当は今月あと2回くらい、来週の土日どちらか、会えると思ってたんだけど。
会話の流れで、忙しいからもう会えないかもしれないな。と言われて、確かにな、もう会えないかもって実感したらどんどん泣けてきて。
家に押しかければ会えるけど、それは会える最後の日を先延ばしにするだけで、きっとその日も一日中彼の胸で泣いちゃうし、仕事が忙しい彼の邪魔になるし、彼は私の事を疎ましく思うかもしれないしね。
だから、わんわん泣くのは今日だけ。今日は泣いていいんだよって言われて、内心なんだよと拗ねながら、彼の胸でずっと泣いていた。
あと10日間くらいは涙もろい日が続くだろうし、録画した映画も見る気が起きなくて、ブログを書くことにした。
大好きな人ができて、大好きって毎日伝えることができて、幸せだったし、生きててよかったって本当に思ったし、私の人生の宝物だった。
きらきら光る”宝物の時間”が私の人生に存在してくれただけでオールオッケーだなと。
死ぬ間際の走馬灯できらきら光る宝物で目の前がちかちかしたら、もう十分じゃないかと思えるくらい。大好きだった。
全然好きな人ができない時期とかもあってさ。出会いがないときもそうだけど、どんな男でも大好きになれるわけじゃないからね。
みんなそうでしょ?だから、こんなにこんなに大好きになれたことに感謝だし、彼、生まれてくれてありがとうだし、彼のお母さん産んでくれてありがとうだし。
神様、出会わせてくれてありがとうだし、こんなに大好きにさせてくれてありがとう。と思っているのですよ。
結婚しなかったとしても、別れちゃっても、結ばれなくっても、私の人生の中の大好きランキングにランクインしただけすごい幸運じゃんって思ってる。
33歳独身、結婚願望があるのに彼氏と別れて、まあ振りだし、に戻るわけで、人から見たら悲惨。結婚できなかったんだね。はいそうですよ。ってことなんですが。
ぽろぽろこぼれる涙と、弱い心の抱えて、それでもこんな風に文章を綴って自分の心を持ちなおそうとしている。
きっと私は強いのだ。
自分のこと弱い弱いというけど、人を救える強い人間だよ、って。
それって僕は救われたって意味だったのかなって。
そうかー。
大好きな人を救えることができたのかー。
よかった。