はてなキーワード: 貞淑とは
この増田(や瀬川深、町山智浩など)の「アカの他人でマウンティング欲求を排泄」っていう言動、性欲ひけらかしオタクどころか、痴漢に近いんよな。性欲以外の欲は清潔だから俺は上等みたいな自認っぽいけど、逆やで
そういうあなたは性欲ひけらかしオタクどころか痴漢ではないか——『Whataboutism』
この手の統一教会と同じ主張をしているという自覚のないカスはさっさとイスラム圏にでも亡命して帰ってくんなよ。性の話を大っぴらにすべきでないというのは女は貞淑であれというミソジニーそのものなので。
特に女性が責められてるわけではないのに女性を盾にしてる——『ラブジョイ抗弁(同情論証)』
主張にない、女性は貞淑であれ、を論破している——『ストローマン』
その主張を支持する者の中にはろくでもない連中がいる。故にその主張は間違った内容である——『連座の誤謬』
そういう偏見を社会に植え付けてきたのがフェミニスト。「性的消費」というレッテルを萌え絵やオタクに貼り、社会悪だと10年間もバッシングしてきた。朝日新聞やハフポストなどの左派メディア、社会学者達も同調した
なぜ偏見なのかを説明せず、無関係なフェミニストの横暴を強調——『燻製ニシンの虚偽』
皆さん、これが所謂「projection」というものですよ。増田本人が性欲ひけらかす無恥者、という事です。しっかり覚えていってくださいね
筆者が projection をしてたとしても、筆者の主張の正しさとは関係ない——『対人論証』
しっかり覚えていってくださいね、などと生徒に教える心理学者のような振る舞いで説得力の向上を狙っている——『権威論証』
そして反論してる側のブコメの詭弁は放置して、元増田の詭弁術だけを指摘するあなたもまた、
横だがちょっと驚いた。
男女入れ替えて書くと、20代前半で遊びまくってた男性が、「結婚相手には家事が完璧にできる処女(遊んでなかった女性)が良いよね」と言ってるのとあんまり変わらないんじゃないかと。
この部分がピンとこないのです。
更に「結婚後も性欲を満たしてくれる女性を愛人にしたい」までがセット。
昭和の頃は(実現できるかどうかはともかく)男の願望としてはこれはごくスタンダードなものだったし
フィクションでも「結婚まで処女だった貞淑な妻を持ちつつエロい女を愛人に」ってのはあるあるだったよ。
平成のネット普及後の時代でも「処女厨」ってものもあったしね。
確かに最近は見なくなった気がするけど、ひょっとしてもう女叩き連中の間ですらもうそういう概念はない?
あと女の「若いうちはイケメンと遊んで結婚は真面目な男としたい、んで結婚後もイケメンと不倫したい」的なのは
(現実にそういう女がいるというよりは、男が「女も男と同じ事を考えているだろう」と妄想して生み出した概念というか)
なんかジェネレーションギャップがありすぎて時代についていけんわ。
「シャアを殺して欲しい」って願うんだよな。
アムロはそれを聞いて、ああそういうことかって思うんだったっけ?
よく覚えてない。
セイラさんはセイラさんで実の兄を殺してほしいなんて願うには赤の他人にはいえないから
あまりにもアニメのガンダムが強すぎてどうしてもストーリーが記憶に定着しないんだよ。
アムロが装甲が厚そうだからガンキャノンに乗りたいんだけどなあと思いながら渋々ガンダムに乗ることとかセイラさんのオッパイに手のひらを乗せて幸せを噛みしめるとかそんな些末なシーンしか覚えられない。
後の初代皇帝アウグストゥスであるオクタヴィウス少年が恋慕する姉であるオクタヴィアと思いを遂げたあと、姉は少年に秘密を話すように要求する。
なるほどとはなんですか?と問う姉に
オクタヴィウスは
貞淑な姉上が近親相姦をするなど何事かと思ったらそういうことだったのですね
オクタヴィアは貞淑だが恋多き女でそのときかつてのカエサルの愛人であったセルウィリアと同性同士の恋人となっていた。
自分を捨てたカエサルに深い恨みを抱くセルウィリアはオクタヴィアを通じてカエサルの弱みをつかもうとする。
オクタヴィウスがその秘密を知っているようだと推測したセルウィリアはオクタヴィアに秘密を聞き出すように命じる。たとえ弟と寝ることになったとしても。
結局オクタヴィウスは秘密を話すことになるがそれはカエサルの秘密ではなかった。
しかし、その秘密がきっかけとなって最終的にカエサルの暗殺は成功する。
アウグストゥスの少年時代は天才少年と描かれていてとても魅力的だし吹き替えの白鳥哲が名演している。
このドラマは大ヒットドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」の雛形となっている部分が多くあって同ドラマが好みの人なら好きになると思う。
昔の保守的な貞淑さ違反ではない反社会的行為扱いという扱いを感じる
荻上チキは無風だったのに
荻上チキさんには専業主婦の妻とふたりの子供がいるのですが、2015年に、自身が主催する勉強会で20代の女性と知り合い、不倫関係に発展していったといいます。端的にいうなれば、ファンに手を出した、ということになります。
荻上チキさん自身の語る不倫の流れはこうです。荻上チキさんが勉強会で20代女性と知り合い好意を持つ→ほかの女性を好きになってしまったから離婚したいと妻に打ち明ける→離婚協議を続けるなかで別居することになる→しばらく時間がたったのち、20代女性と交際することになり、一緒に暮らし始める→しかし、離婚協議を続けるなかで、離婚したら子供や長年連れ添った妻を傷つけることになると葛藤する→20代女性との関係を解消する。現在は妻と関係修復中。
しかも愛人さんとのLINEのやり取りも流出。この内容が中学生丸出しで笑ってしまった。
それがこちら。「すきすきだいすき」「愛を創作しよう」「全身全霊で恋するよ」「小さなことで感情が揺さぶられるので、楽しかったり、つらかったり、これが恋か」。週刊文春では「評論家としての理知的な印象とは異なる」とバッサリ(笑)
具体的に言うと、帰社時挨拶されない、女性職員から膨大な仕事を振られて残業になりかけても見て見ぬふりをされる、などなど。
去年若い臨時職員が部署の全員にチョコを配り両手で抱え切れない程のお返しを貰い次年度の業務をGETしていた。下らない仕事だが、継続してボーナスが入ればデカい。
自分も前例に倣うべきだと、倣わなければこのクソ狭コミュニティの中では村八分に遭うだろうというのは想像に難くなかった。
バレンタインとは謂わば職場での立ち位置の奪い合い、コネとエゴが右往左往する一大イベントなのだ。
ちょっと仲の良い職員には色を付けた商品を、何なら業後こそっと手渡す。
なので、異動前の部署へ突撃してバカ高いお菓子をバラ撒きたい。
一部の人は私を思い出すだろう、女性職員の中で爪弾きにあいながらも「家族のようで楽しかった!」と最近見聞きした推しの挨拶をそのまま流用した私を。
仕事が逼迫し上司にブチ切れ、しかし本心では仲良くなりたくて趣味の話を合わせていた奇怪な言動を繰り返す私を。
何故ならその部署のエリート新人は今の部署の二十代新人と内通しており、夜な夜な呑み歩いては赤提灯の下、頬を染めている。
私はその人間関係に一石を投じるのだ。
まるで全人類を愛するが如く、博愛主義者の如く身銭を切って返報を求めないが如く、貞淑な妻の如く、三月のイベントなど何も知らないかの如く、配り続けるのだ。
歴史に大した名も残しはしない、細やかな私の愛のプレゼントに一同顔を歪めるがよい。
昔は常識みたいに語られていたが、今ではまったく的外れになってしまったという扱いの言葉に「いやよいやよも好きのうち」というのがあるけど、この言葉は、男女両側の事情を考えると、(これ自体が差別的というのは置いておいて)貞淑性の要求厳しかった時代においては、お見合いだなんだといった重いおつきあいでない関係の男女が最初に肉体関係を持つ段階で、女性の側に積極性を求めるのは酷なので男性側が察してやれ、という気遣いの義務みたいな話だったんだと思う。
ただ、時代が進んで女性の側が貞淑一辺倒の教育を受けるでもなくなり、また性交渉に関する意思表明を昔よりははっきりするようになってからは、上記のような「気遣い」は余計なお世話でしかなくなり、昔の色男のアドバイスを真に受けた(もちろん都合よく解釈しただけという可能性も残る)若い男性がレイパー呼ばわりされる流れができてしまったことは男女双方にとって悲劇でしかない。
翻って平成以降の日本社会において、上記の代わりに新たに必要になった「気遣いの義務」はないのだろうか。
その候補として思い浮かぶのが、デート時のディナーの支払いにおける男性による「奢り」の要不要の話だ。女性が男性パートナーに(パートナー候補でもない男性にまで求めるのは論外だが)いくばくかの経済的頼りがいを求めるのは、古今東西変わることがないし、出産前後の事情を考えれば別に恥ずることでもないと思う。
しかし「男女平等参画社会」のお題目を気化されて育った女性の中に「奢りを期待してしまうけど自分からは言い出せない」人が一定割合存在していることは致し方ないことであると考えると、女性の側から奢ってほしいと言わせるのは酷なので男性側が察してやれ、という気遣いの義務が存在するという言説には一定の説得力がある。・・・少なくとも90年代前半生まれぐらいまではそうだったのではないかと思っているのだが、そのあとの事情がよく分からない。最新事情に通じている諸賢にはぜひ解説をお願いしたい。
『貞淑のテイ』か『貞子のサダ』かな。